『ゆめ思ふな‶炭坑地獄〟来て見て驚く科学の粹』1941年(昭和16年)2月28日 長崎日日新聞

農閑期勤労奉仕隊の声を聞くため端島を訪れた記者リポート。「島全部が世界の科学の粹でなつてゐるのだから吃驚させられる」という。竪坑二千尺のエレベーターも全然乗っている感じがなく、坑底では流線型の電車が幾十の炭車を引っ張り、もの凄い勢いで走っている。二千尺の穴蔵のなかにあって呼吸もなん等異常がなくガスの臭いひとつないというのは理想的な通風機をもって地上の新鮮な空気を絶えず送っているからだ、等々感想。勤労奉仕隊の青年は、「思ってゐたのと全然反対で労務者は皆優しく吾々を指導して呉れたのには涙が出る位嬉しかつた」、「言葉は幾分荒らく炭塵によごれて人相は悪いし、最初は話しかけることさへ出来なかつたが、慣れて見れば皆親切な人ばかりだつた」と話す。
長崎日日新聞(1941年<昭和16年>2月28日)

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資料提供:国立国会図書館
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(写真)農閑期勤勞奉仕隊
ゆめ思ふな“炭坑地獄”
來て見て驚く科學の粹
炭坑勞務者の實相を衝く(一)


石炭增產の挺身隊として鍬を鶴嘴に替へ遠く陽の目も及ばぬ地下を潜つて黙々と國策に協力してゐる農閑期勤勞奉仕隊員の聲を聞く爲め記者は一日端島を訪れた―東支那海の波洗ふ港長崎の港外に夢の如く浮かんでゐる軍艦に似た黑ダイヤの島、正確に言へば西彼杵郡高濱村の端島である、面積はいたつて小さいが人口の稠密度は東京深川の四倍で正に世界一、しかもこの島全部が世界の科學の粹でなつてゐるのだから吃驚させられる……長崎の大波止から船にゆられて約一時間半、やつと着いて先づ驚くのが堂々たる鐡筋コンクリートの建物で四階、五階はザラにあるが、地上九階の日本一が屹然とそびえてゐる

長い隊道の歩道を通つて島の中央にある端島神社に詣で一と休みの後、兵庫坑長の案内で身支度甲斐々々しく採炭の現場に出かける、堅坑二千尺、五十人乘りのエレベーターに身を託して地底へ地底へ…秒速四十尺の㔟で降下してゐるのだが金に糸目をつけずに作つてある爲か全然エレベーターに乘つてゐる樣な感はしない、只途中耳の具合が變になつて初めて感じる樣なものだ、降り立つた二千尺の地底、幾分しめり氣はあるが去の樣に電氣がともされて流線型の電車が幾十と云ふ炭車ひつぱつて物凄い勢で走つてゐる、頭の上には魚が泳いでゐますよと坑長から云はれてハツと二千尺の地下にあることを知つた、長い坑道を物珍らしく見物して採炭の現場につく、炭坑と云へば鶴嘴を思ひ出すが、時代はそんな悠長なことでは間に合はぬらしく、ピツクと呼ぶ電氣仕掛けの採炭器でどしどし掘り崩してゐる、一見簡單の樣だが崩が來ない樣に採掘せねばならないのだから相當技術を要するらしい、これは掘進夫の仕事だ、このほかに炭車へ炭をつぎ込む者採炭した後を充塡する者、坑道をつくる者、炭車をはこぶもの流石にこゝまで來れば炭坑勞務者の苦勞がわかる樣な氣がするしかし勞務者達は眞黑くなつて默々と與へられた仕事に精進してゐる

物凄いダイナモの唸り、これは地下水を排除する動力の音である、二千尺の穴藏のなかにあつて呼吸もなん等異常がなく、つきものゝ瓦斯の臭ひ一つないと云ふのは理想的な通風機をもつて地上の新鮮な空氣を絶えず送つてゐるからだ
すべてに科學の力を利用されてゐる爲坑内で危險を感ずる樣なことは全然ない、勿論全くの素人で炭坑にとびこんだ勤勞奉仕隊員も喜んで仕事に從事してゐる、一通り坑内の案内を終へて兵庫坑長は

一通りの案内だつたがこれで炭坑勞務者の仕事も諒解して貰つたと思ふ、そして又世間が云つてゐる樣な地獄でないことも認識されたと思ふ、勞務者達の願は社會人が炭坑を正しく知つて吳れることを希望してゐるのだ、それ丈に勞務者自身の生活も一變して最近では昔の樣な野蠻なことは見やうとしても見ることが出來ない位に向上してゐる、勿論これは娛樂施設の完備や待遇の改善等にもよるが、最も大きい原因は事蓌にあると思ふ、昨年十二月大政翼賛運動に呼應して勞務者達の臣道實踐自治委員會をつくり下部組織の趣旨をもつて自治的に訓練や人格の鍊成をやらしてゐるが、最近では怠業や無斷早引け、離職等をする者も少なく大いに効果をあげてゐる、恐らく就勞成績等は日本一ではないかと思ふ

と語つた、これで大體炭坑の外廓丈は知り得たが、實際勞務者の切實な聲を聞く爲に勤勞奉仕隊員と臣道實踐、自治委員會役員の座談會を開き其一人一人についていつはりなき感想を叩いた
記者 先づ勤勞奉仕隊の方に尋ねるが、どんな氣持で炭坑に來たか
山崎君(茂木町靑年) 炭坑は恐ろしいところと思つてゐたが、自分は非常時の靑年でありながら兵役の義務もないので、せめて石炭增產の勤勞奉仕隊として御國の爲につくしたいと思つて出て來た
向井君(喜々津村靑年) 炭坑勞務者には社會から捨てられた者がなるのだと思つてゐた、しかし奉仕隊の班長として是非行くやうにとの話が村長さんや校長先生からあつたので一部親戚の反對を押切つて參加した
記者 來て見てどんなに思つたか
山崎君 思つてゐたのと全然反對で勞務者は皆優さしく吾々を指導して吳れたのには涙が出る位嬉しかつた
向井君 言葉は幾分荒らく炭塵によごれて人相は惡いし、最初は話しかけることさへ出來なかつたが、慣れて見れば皆親切な人ばかりだつた
記者 仕事の上で恐ろしかつたり、嫌だつたりしたことはないか
大塚君(喜々津村靑年) 初めは仕事に慣れず同僚から叱られはしないかと思つて恐ろしかつた
山崎君 炭塵で顔と云はず鼻のなかまで眞黑くなり、石鹼で洗つても落ちなかつたのには閉口した、別に仕事が過勞と云ふわけではないが眠いのには困る
(カツトは九階の勞務者ホーム=長崎要塞司令部許可濟)
(昭和16年2月28日)