在日朝鮮人処遇の推移と現状

分類コード:I-05-01-004_II-03-06-013

発行年:1955年

Ⅰ 戦前の日本内地移住とその処遇

Ⅱ 戦後の引揚と占領下の処遇

 

法務省入国管理局の法務事務官であり、のちに初期の在日朝鮮人史研究をリードすることになった森田芳夫が執筆し、『法務研究報告書』第43集第3号(法務研究所 1955)として刊行した。在日朝鮮人の来歴や状況、抱える問題について、主に法務省や公安調査庁、外務省、警察庁などの官憲史料・統計資料を引用して記述している。

 

Author
森田芳夫
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森田芳夫『在日朝鮮人処遇の推移と現状』法務研究報告書第43集第3号 法務研修所 1955 

 

      Ⅰ 戦前の日本内地移住とその処遇

 

          一、南鮮過剰人口の移動

 戦前に日本内地に移住した朝鮮人は、一般労務者、動員労務者、学生の三種類に大別される。このうち、移住者の主流をなしていたのは一般労務者であつた。

 通常、民族の移動は、窮迫と誘引に原因し、その窮迫は食物の欠乏、または実際的に同一に帰するところの人口過剰の結果による(1)。

 朝鮮人一般労務者の日本内地移住の原因もこれであり、具体的には、左の三点に帰する。

(イ)日本統治下において、朝鮮人人口が異常に増加したこと。

(ロ)「その増加人口の主体をなした南鮮の農民の生活の窮迫がはなはだしく、耕地ときりはなされた農業労務者が多かつたこと。

(ハ)「当時の日本内地の経済社会がそれを労働力として要求したこと。

 併合より終戦まで、朝鮮在住朝鮮人人口は、千三百余万から二千五百余万に増加した(このほかに、日本に約二百万、満洲、華北、ソ連に約二百万いた)。この増加人口をもつとも多く包含したのが農村であり、農業人口は、併合当時から昭和十七年まで約七百万の増加をみせ、このうち南鮮の農業人口は、昭和十七年に千二百余万であつた。

 農民の耕地面積についてみると、昭和八年内地一戸あたり平均一・七町歩に比して、全鮮は一・五九町歩である。これは北鮮の広大な利用価値の少ない地方をふくむためで、南鮮だけについてみると、最高は忠南の一・一二町歩で、最低は慶南の一町歩である。全鮮の水田一反あたりの収獲は、明治四十三年〇・七六九石から昭和八年一・○七二石(昭和十年一・〇五五石)まで増収になつたが、日本内地の昭和八年二・二三二石(昭和十年一・七九三石)におよばない。

 併合直後、総督府の着手した土地調査は、近代的土地所有権確立の基礎をきずいたが、土地解放をともなわなかつた。施政当初農業以外に目ぼしい産業がなく資本の多くが土地に投下されて、土地兼併の弊を生じて行つた。人口は過剰で、生産力はひくく、零細経営のままで、交換経済が強要され、高利貸資本の活動を許し、自作および自作兼小作の小作への転落ははなはだしかつた。

 小作農家は、日本内地で全農家の二割六分をしめたが、朝鮮では五割三分をしめていた。

 昭和五年の総督府の統計は、農民総戸数の四八%にあたる百二十五万戸が春窮農家(春期に食糧欠乏のために生活に窮する農家)として発表されている。

 この窮乏の農村救済のために、昭和七年以来総督府のかけ声で農山漁村の振興自力更生運動が実施されていたが、充分な成果をあげ得なかつた。また昭和の初から、北鮮で水力発電利用による大工場の建設と地下資源の開発が進められて、南鮮の過剰人口を吸収しはじめていた。また都市集中へ進む傾向はみられていた。しかし、それより前に、海を越えた日本内地は、この過剰人口のはけ口として絶好の場所であつた。生育期にあつた日本資本主義は、朝鮮人を労働力として求めた。そこへ行く運賃はやすかつた。都市や工場や鉱山には働く仕事があり、行けば飯が喰えた。

 農村の過剰人口の流出は、朝鮮だけの現象ではなかつた。日本内地の農村においても、その増加人口を養うことができず、働きざかりのものは、都市や鉱工業地帯に流入していた。朝鮮人の日本内地流入は、朝鮮をふくめた日本国家内の一社会現象としての視野に包摂し得るものであるが、また、それと同日に談じ得ない特殊な民族社会の背景があつた(2)。

 

注(1) 小山栄三訳ハツドン著「民族移動史」(昭和八年・改造文庫)緒言 A.C.Haddon: "The Wanderings of Peoples"

(2) 本節にあげた統計は「朝鮮総督府統計年報」(各年)、朝鮮総督府農林局「朝鮮米穀要覧」(昭和十一年四月)による。朝鮮農民の窮乏と過剰人口の流出については左の論稿がある。

一、大阪市社会部労働課「朝鮮人労働者の近況」(社会部報告第一七七号・昭和八年八月)

一、高橋亀吉「現代朝鮮経済論」(昭和十年四月・千倉書房)

一、鈴木正文「朝鮮経済の現段階」(昭和十三年八月・帝国地方行政学会朝鮮本部)

一、人口問題研究会『第二回人口問題全国協議会報告』(昭和十四年十二月)朝倉昇「朝鮮の労働資源――主として女子労働資源について――」

一、『人口問題研究』第四巻第八号(昭和十八年八月)雪山慶正「朝鮮における農業人口の性格」

一、『人口問題』第六巻第二号(昭和十八年十一月)坪内庄次「朝鮮人労務者内地移住の原因について」

一、厚生省研究所人口民族部『戦争の人口におよぼす影響』(昭和十八年暫定稿・未刊)第二章「大東亜戦争のわが国人口におよぼせる影響」第八節第八項「戦時下外地における人口の地域的移動の一例として見たる朝鮮」および第九節「朝鮮人の内地交流状況の変化」

 

 

          二、在内地朝鮮人人口の推移と移住者の生態

 明治十六年末に十六名、明治四十四年末に二五二七名にすぎなかつた在日朝鮮人は、終戦の前年末に百九十万をこえるにいたつた。日本内地人に対し、明治四十四年に一万九七〇〇人に一人の割であつたが、昭和十三年には八十九人に一人、十九年には三十八人に一人の割となつている。

 

注(1) 「日本帝国統計年鑑」(各年)による。各年年末人員。明治四十三年は不明、四十四年は『司法研究』第五輯「内地における朝鮮人とその犯罪について」による。

(2) 明治二十年より三十七年まで公使館員をふくむが、その家族はふくまれていない。

 

 明治年間の来日者は特殊な政治的亡命者、外交官のほかは、多く学生であつたと推定される(1)。この学生の渡航は今日までひきつづいているが、全在日朝鮮人数からみればきわめて少ない(二一頁)。

 移住者の主流を形成した労務者は、初めはみずから進んで移住しようとするものが僅少で、多くは内地の企業会社の勧誘に応じてきたものであつた。その先駆をなしたものは、大阪府の摂津紡績で、その木津川工場が明治四十四年に、兵庫県明石工場が明治四十五年に朝鮮で募集している。大正二年の応募者は十六名にすぎず、その後五年間に十一回の募集で二〇八名を得ただけであつたという。

 大正二年に岡山の東洋館マッチ、二二年に大阪の東洋紡績三軒屋工場、兵庫の川崎造船所、大正五、六年に大阪の住友鋳鋼所、吉備造船所、兵庫の神戸製鋼、三菱造船等が労務者募集を朝鮮で行つた。また済州島でも大正三年以来行われた。朝鮮人は言語が通ぜず、教育程度がひくく機械の取扱に適せず、技術を要する労務に機敏でない等の欠点があつたが、勤勉で、困苦にたえる体力があり、どんな下等な仕事でもいとわず、とくに労銀のやすいことは、内地企業家の歓迎したところであつた。朝鮮で、教育が普及して行き、一方、内地に行けば「職がある、喰える」ことが喧伝されると、一働きに行くものは、水の低きにつくような自然の勢となつた(2)。

 戦前に東京、神戸、大阪、京都でおこなわれた朝鮮人の生活実態調査では、内地移住理由の中で、生活難、求職出稼、労働、金儲けが八、九割をしめている(3)。

 かれらは「日本内地に行けば何とかなるだろう。金をもうけたらまた帰ろう。」という気持だつた。とくに距離がちかいだけに、まつたく出稼根性で、定着性なく、たえず往復していた。その渡航者、帰還者についての第七、八表の調査は、いかに貧困者が多かつたかをものがたつている(前者は、所持金皆無が五割ちかく、後者は、貯金十円未満が八割、送金十円未満が四割)。

 この出稼的往復帰還は、労務動員の行われたのちも変らず、終戦前までつづいた。そのたくましい民族生活力で、日本社会に地盤をきずいたものが、渡航者数と帰還者数の差となつて定着して行つた。

 在住者の男女の比率は、後に(二四七頁)のべるごとく、大正九年に十四才以上の男が総数の八三%をしめていたが、昭和十五年に四○%となり、出稼労務者の形態から漸次脱却して、内地に定着する傾向にあつた。

 かれらの渡航ルートは、関釜連絡(下関ー釜山)だけではなかつた。大阪は釜山以外の地から直航するものが多く、とくに、済州島との間に昭和十三年ごろ一カ月に五、六回の定期航路があつた(大阪には済州島人が多く、昭和五年末の統計では、在阪朝鮮人八万〇四八二名のうち、三割の二万四八九六名をしめていた)(4)。

 その出身地をみると、土地が内地にちかく、農村の過剰人口の多い慶尚南北道、全羅南道が圧倒的で、総数の八割をこえている。

 朝鮮人の多い府県を、大正九年、昭和五年、十三年、十八年についてみると、第十位までに、東京、大阪、京都、名古屋、神戸、横浜、福岡の七大都市をふくむ府県(大正九年だけ神奈川は十一位、愛知は十四位)がある。日本の都市集中人口の総数中、七大都市はその六、七割をしめているが(5)、朝鮮人もその一部の役割をになうとともに、その工業地帯に吸収されたとみられよう(福岡は北九州の工場炭鉱地が吸収地である)。このほか、山口、佐賀、長崎、広島は朝鮮にちかく、山口、佐賀、長崎は北海道とともに炭鉱が吸収地であつた。大阪の朝鮮人は、大正十年以後、全国在住者の五分の一ないし三分の一をしめており、昭和十八年には、大阪全人口の九%に達している。十九年五月現在、朝鮮内の都市の朝鮮人人口は京城が八十二万五千、平壌が三十万七千であつたから、大阪は京城についで朝鮮人の第二の集結地であつた。

 職業についてみると、その強靭な体力によつて鉱山や土建、日雇などの非近代的、非熟練的な労働部門を開拓している(6)。労務動員の行われる前年、すなわち昭和十三年の統計では、労務者が全職業者の八割、全人口の四一%をしめていた。かれらの生活はまずしく、とくに住宅においては一戸に群居し、家賃を滞納し、借家紛議をおこすところが多かつた(7)。

 

注(1) ★朝鮮文芸社「在日朝鮮文化年鑑」(昭和二十四年)に東京に朝鮮留学生がはじめてきたのは、甲午更張(明治二十七  年)を契機として、その前後からであるとしている。

(2) 『社会政策時報』第二一三号(昭和十三年六月)武田行雄「内地在住半島人の問題」、人口問題研究会『第二回人口問題全国協議会報告』(昭和十四年十二月)武田行雄「半島人労働者内地渡航の必然的傾向」

(3) 第6表の統計の基礎に左の調査がある。東京府学務部社会課「東京朝鮮人労働者の現状」社会調査資料第七輯(昭和四年四月)・第二十五輯(昭和十一年六月)、神戸市役所社会課「在神半島民族の現状」(昭和二年十月)「神戸市在住朝鮮人の現状」(昭和五年八月)、「朝鮮人の生活状態調査」(昭和十一年十一月)、京都市社会課「市内在住朝鮮出身者に関する調査」京都市社会課調査報告第四十一号(昭和十二年一月)、大阪府学務部社会課「在阪朝鮮人の生活状態」(昭和九年六月)

(4) 『司法研究』第十七輯三木今二「内地における朝鮮人とその犯罪について」。高権三「大阪と半島人」(昭和十三年十月)

(5) 野間海蔵「日本の人口と経済」(昭和十六年三月・日本評論社)所載の美濃口時次郎氏統計「市郡別増加人口」

(6) 大阪市社会部労働課「朝鮮人労働者の近況」(昭和八年)によれば、大阪市で昭和五年十月に三十名以上を使用している工場九四五を調査の結果、朝鮮人使用工場五六二あり。朝鮮人職工八〇九二名のうち窯業二九二九(三六・二%)、金属一六五四(二〇・四%)、せんい工業一二九三(一六%)で、比較的労賃がやすく、過激な労働の工場に使われていることをしめし、また湯屋の三助、下足番は全市三五六八名中一二三五名を朝鮮人と推定している(昭和六年九月)。

(7) 大阪市社会部調査課・社会部報告第一二〇号「本市における朝鮮人住宅問題」(昭和四年二月)および前掲(4)三木氏論文によれば、昭和四年大阪市東成区東小橋町一一七三戸は、一戸あたり平均一八・二人、一人当り平均〇・五五畳であり、昭和七年六月末、大阪府下の朝鮮人十一万二千中、一戸をかまえて居住するものは五万九千余にすぎず、東成区の一部の中本警察署管内で調査戸数一二五七戸中、家賃滞納戸数一一三三戸、すなわち、九〇%をしめ、大阪区裁判所の借地借家調停所(本庁・上町・今宮・市岡の四力所)で受理した総件数は、昭和五年度五〇八五件、昭和六年四一七二件を数えていた。

 

 本節に引用した国勢調査統計はつぎの資料による。

一、内閣統計局 「大正九年国勢調査記述編」

 一、 ″    「大正九年国勢調査報告」第一巻

一、 ″    「昭和五年国勢調査最終報告書」

一、 ″    「昭和五年国勢調査報告」第一巻

一、 ″    「昭和十五年国勢調査統計原表」

一、総理庁統計局「昭和十五年国勢調査、十九年人口調査、二十年人口調査、二十一年人口調査結果報告摘要」(昭和二十四年三月)

内務省警保局とあるは、同局『社会運動の状況』中、昭和四年より十七年までの「在留朝鮮人運動」および内務省警保局保安課「特高月報」に掲載された統計による(以下各章同じ)。

 

 

          三、動員労務者

 日華事変以後の戦時体制下にあつて、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとつた。この労務動員は、つぎの三段階にわけてみうる。

(a)自由募集による動員(十四年九月から十七年一月まで)

 昭和十四年四月、国民動員の企画が厚生省職業部および企画院で立案される時、内務省警保局、拓務省管理局、厚生省社会局と協議し、同年六月、厚生省職業部は、拓務省を通じて朝鮮総督府と折衝した結果、七月二十八日に内務・厚生両次官連名で、昭和九年十月の閣議決定の例外として、朝鮮人労務者を移入する方針と、これにもとづく募集要綱が通牒され(1)、総督府も九月一日に、政務総監名で「朝鮮人労務者募集ならびに渡航取扱要綱」を通牒した。

 これは、石炭、鉱山、土建などの事業主がまず府県長官あて移入許可申請書を提出し、厚生省の査定認可をうけ、つぎに朝鮮総督府の許可をうけ、総督府の指定する地域で、自己の責任で労務者を募集し、身体検査、身許調査、名簿の作成などを行う。募集された労務者は、雇傭主または責任ある代理者に引率されて、集団的に渡航就労した。

(b)官斡旋・隊組織による動員(十七年二月から十九年八月まで)

 しかし、この自由募集は、事業主が最初に移入許可申請書を提出してから、朝鮮の道当局の募集許可決定をみるまで相当の期間がかかり(ながいのは六カ月)、その手続の簡素化が切望された。さらに、朝鮮内で鉱工業が活溌に起つてからは、労務配置の計画性が必要であつた。

 十六年十一月に、企画院を中心に内務省警保局、厚生省職業局・生活局、朝鮮総督府が協議して「昭和十六年度労務動員実施計画による朝鮮人労務者の内地移入要領」および「同実施細目」、「手続」を決定し(2)、総督府側も要綱をきめ、十七年二月二十日から実施をみた。

 これは、事業主が府県知事に朝鮮人労務者移入雇傭願を提出して、承認をえたのち、総督府に朝鮮人労務者斡旋申請書を提出する。総督府でこれを承認した場合は、地域を決定して通牒し、道ではさらに職業紹介所および府、郡、島を通じて、邑、面にまで割当を決定して、労務者を選定とりまとめしめたのである。すなわち、行政の責任において労務者を集めたのであつた。また送出にあたつて、一組を五名ないし十名とし、二組ないし四組をもつて一班とし、五班内外をもつて一隊を組織して、隊長その他幹部をきめて統制をとり、これを雇傭主またはその代理者が出発地でひきついで、引率渡航した。

 十七年二月の閣議で「朝鮮における過材を内地総動員業務に活用」する方針の下に、要員の選抜訓練、内地における施策等をさだめた際、家族を携行せしめないことになつていたが(3)、十九年二月の閣議決定ではこれを改正し、「本方策による内地送出の労務者にして、二年をこゆる雇傭期間の出動に応じたるものに対しては、別に定むるところにより家族の呼寄せを認め」(4)、ついで、その指導要綱で、家族呼寄せ、一時帰鮮、期間延長手当等が示された(5)。

(c)国民徴用令による動員(十九年九月以後)

 国民徴用令の施行は、昭和十四年七月である。朝鮮では、その全面的発動をさけ、十六年に、ただ軍要員関係だけに適用し、十九年二月になつて朝鮮内の重要工場、事業場の現員徴用を行つた。日本内地で働いていた朝鮮人労務者には、十七年十月から一部に徴用令を発動し、軍属として採用稼動されていた。

 十九年八月八日閣議決定により(6)、移入労務者に新規徴用の実施と、新規被徴用者に援護の徹底を期することを明らかにし、九月以後、朝鮮から内地へ送り出される労務者にも、一般徴用が実施された。ただし、総督府としては、労務管理のわるい所には徴用をさける方針をとり、一方、朝鮮勤労動員援護会を設けて家族援護の万全を期した。

 総督府は国民嶽徴用令の発動を「白紙の応召だ」と鳴物入りで宜伝したが、敗戦の色いよいよ濃くなる時、爆撃にさらされている内地へ喜んで徴用に応ずるものは少なかつた。徴用忌避者は相ついだ。

 十九年末からは、内地にいる朝鮮人で、空襲のない朝鮮へ疎開するものもいた。二十年三月には、関釜間の通常連絡が運航しなくなつた。四月二十日の閣議報告に「半島人労務者の新規内地招致は、特殊の事情ある場合の外、原則として当分見合せしむること」の一項が入つていた(7)。

 朝鮮人労務者がもつとも歓迎されたのは、炭鉱であつた。内地において、戦時増産の至上命令下に、昭和五年に比し、十六年は労務需要が三百万増加し、失業者は完全就業し、農業その他の有業人口の鉱工業労務への充員、ついで重工業部門への労務集中という現象が起つていた。石炭の必要性は高調されながら、炭鉱の労務管理はまずく、その労務者はたえず他の産業部門にひきぬかれ、主要産業種別中、最高の移動率を示していた。

 農村出身の強靭な体の朝鮮人労務者は、この炭鉱の危機をすくうべくおくりこまれた。十八年末に北海道の朝鮮人坑外労務者は全員の四五%、坑内労務者は全員の六五%をしめていた。二十年三月末現在で、全国四十一万六千人の炭鉱労務者中、十三万八千が朝鮮人であつた。昭和十四年に全国炭鉱労務者の六%をしめていた朝鮮人は、二十年三月には、三二%をしめていた(8)。

 動員労務者はそれぞれの職場で終戦まで働きつづけていたのではない。二十年三月現在では、昭和十四年以来の約六十万の動員労務者中、逃亡、所在不明が約二十二万あり、期間満了帰鮮者、不良送還者、その他をのぞくと、事業場現在数は、動員労務者の半数にもみたなかつた。

 これは、戦時下の諸物資缺乏と、労務管理の不当であつたこと、また契約期間の延長で安定しないことがおもな原因であるが、当時、渡航制限が抑制されヽまたその旅費に困るものが、この徴用という官費官許旅行を利用して渡航し、機会をみて逃亡すること、誘惑が多く、労務者集めのブローカーによるひきぬきがはげしいこと、食糧規制が全国的に不均等なため、規制のゆるい府県の事業場や、特別に食糧の入手できる事業場に移動する傾向があつたことなども大きな理由としてあげられている。

 十七年六月に、企画院に関係者が会同して「朝鮮人労務者逃亡防止対策要綱」をさだめ、朝鮮人労務者の訓練、労務管理の刷新、業者間の引抜防止の徹底、労務者ブローカーの取締などに力を注ぐことにし、ことに逃亡者の多いところは、その労務管理の改正をのぞむために、当分その充足を停止する措置までとつた。とくに協和会会員章(これについては次節でのべる)の無所持者の一斉調査を実施して、逃亡者や不正渡航者の逮捕につとめ、十八年から十九年にかけて「逃走移入朝鮮人労務者一斉取締要綱」により、各ブロックごとに取り締つた。しかし、戦争の末期になると、逃亡者はますます増加していた。

 

注(1) 内務・厚生両次官より地方長官あて「朝鮮人労務者内地移住に関する件」

(2) 十六年十二月二十七日(厚生省発職業一九四号)内務・厚生両次官より地方長官あて「労務動員実施計画による朝鮮人労務者内地移入に関する件」

(3) 十七年二月十三日閣議決定「朝鮮人労務者活用に関する方策」

(4) 十九年二月十二日閣議決定「朝鮮人労務者活用に関する件」

(5) 十九年四月二十六日(勤発第一一〇二号)厚生省勤労局長・健民局長、内務省警保局長、軍需省総動員局長より地方長官、鉱山監督局長、軍需管理部長あて「移入朝鮮人労務者の契約期間延長の件」

(6) 十九年八月八日閣議決定「半島人労務者の移入に関する件」

(7) 二十年四月十九日次官会場二十日閣議報告「内地大陸間人的移動指導調整に関する件」

(8) ワグナー「在日朝鮮少数民族」第三章「戦時下日本における朝鮮人」に引用された「日本の戦時経済における石炭および金属」、「日本における戦時生活水準と人的資源の活用」

   本節は、左の論稿によつた。

一、内務省警保局『社会運動の状況』「在留朝鮮人運動」(昭和十四、五、六、七年)

一、労働科学研究所報告第一部『工業労働および労務管理』第九冊「半島人労務者の作業能力に関する科学的見解、炭鉱における半島人労務者」(昭和十八年九月・労働科学研究所)

一、武田行雄「協和事業概論」(昭和十八年十二月・未刊)

 

 

          四、学生

 朝鮮の開国者は日本であつた。鎖国の眼をひらいた朝鮮に世界史の波がうちよせヽ欧米の文化は朝鮮に流入したが、なんといつても日本は位置もちかく、アジアの先進民族として欧米文化吸収の地位にありヽ李朝末期の革新的青年の胸中にヽ日本に学ほうという気晩はあふれていた。

 併合以後、朝鮮統治は「民度にあう漸進政策」をとつていたためにヽ程度のたかい専門学校や大学の開設には、消極的であつた(1)。教育により日本語が普及して行く時、日本内地への留学は、費用もかからぬもつとも安易な海外留学だつた。

 かれらは、日本内地に他国意識をもち、みずからを「日本留学生」と称した。学生は留学である以上、労務者よりもさらに定着していない。休暇には朝鮮に帰り、休暇があければ渡航してきた。

 学生は、労務者と異なつて、出身地が南・北鮮に普遍的で、南北の人口二対一とほほ同じ率をしめている点は注目される。

 内地にきた学生は、朝鮮内よりはるかに自由な雰囲気で、たえず民族の前途を考えていた。ことに、第一次大戦後の世界に澎湃たる民族自決運動や、日本を席巻したデモクラシシーの思潮は、被支配民族の立場から容易に共鳴した。東京は朝鮮を指導する民族主義運動の一つの拠点であり、また新文化運動の源泉であつた。東京留学生の機関紙として「学の光」、「留学生会報」が発刊されていたが、これに作品を発表して朝鮮文壇に進出した作家も多い(2)。

 大正の末期以後、日本思想界がマルキシズムの暴風雨に見舞われると、朝鮮人学生の思想的指導部は左翼ににぎられ、学生運動から進んで、朝鮮人労務者啓蒙の文化諸運動をおこし、また朝鮮の共産主義運動の指導に走つた。その動きは、内地人側の左翼と共闘または一体となつており、つねに治安の対象となつた(3)。

 留学生といつても、働きながら学ぶ苦学生か多かつた。大正十四年十月末二〇八七名(受験準備中のものもふくめて専門学校以上の学生九四三名、中学、実業学校六五四名、その他四九〇名)のうち、東京にいるもの一三二二名であり、その中で五六七名が苦学生と報告されている(4)。授業料のはらえぬ中退者が多かつた(大正十三年五月、明治大学在籍学生二二四名中、授業料滞納者一〇二名が除名された報告がある)(5)。

 十八年十月二十日、いわゆる学徒出陣に、朝鮮人は三八九三名入営した。そのうち、在内地学生の志願は十一月二十日の締切りまでに二千名をこえる成績であつた。

 在内地朝鮮人学年の指導監督については、はやく明治四十四年に、総督府で朝鮮留学生規程を定め、学務局のなかに学生監督部をおいて、日本内地を主とする在外留学生の保護監督を行つたが、大正八年九月以後、これを東京の財団法人東洋協会に委嘱し、翌九年四月に朝鮮学生督学部と改めた。大正十四年四月からは、朝鮮総督府東京出張員事務所に督学部を移したが、その年九月から総督府学務局内の朝鮮教育会(大正十二年四月創立)に所管させ、「督学部」の名を「奨学部」と改めた(十五年にこの朝鮮教育会奨学部は、東京市淀橋区角筈二丁目九四の杉浦重剛氏の土地と邸宅を買収して、ここに事務所を移し、昭和二年二月、財団法人朝鮮教育財団《大正十五年十二月に朝鮮民事令により創立》名義に移転登記し、ここに昭和九年に鉄筋コンクリート三階建を建立した)。

 昭和十六年一月、日本窒素社長野口遵氏の奨学寄付金五百万円を基礎に、総督府は財団法人朝鮮奨学会維持財団(朝鮮民事令に依拠)を学務局内に設立し、その実行機関として朝鮮奨学会が生れ、朝鮮教育財団から新宿の土地建物を無償貸与された。これは中央協和会に所属し、総督府の監督、日本内地関係官庁および学校当局支持の下に、進学指導、在学中の指導・保護および卒業後の就職斡旋を行つていたが、十八年十月に拡充して文部大臣および厚生大臣より許可をえて財団法人となり(日本民法に依拠)、一層積極的活動をすることになつた。理事長川岸文三郎氏のほか、理事は文部省専門教育局長、厚生省生活局長、内務省警保局長・管理局長、朝鮮総督府学務局長・警務局長・司政局長・東京事務所長、中央協和会理事長がなり、監事には総督府財務局長がなつた。当時、学資金貸与規程には、

 「内地高等学校以上の学校において修学する品行方正、志操堅実、学業成績優秀かつ身体強健な朝鮮人学生・生徒

 で、学資充分ならざるものにつき銓衡の上、一カ月五十円以内を貸与する」

とあり、この指定は理事長が行うことにきめられていた。(6)

 十九年末、後述の処遇改善の発表の際に、内地にいる朝鮮人学生は、一切この奨学会の統制の下にたつよう指示さ

れ、また大日本育英資金も適用されることになつた。

 日本内地で学んだ学生は、朝鮮に帰つて、朝鮮人社会各層で指導的地位をしめた。

 二十五年五月の韓国国会のいわゆる五・三〇選挙に立候補した二二三五名中、大学専門出が一一五八名いるが、そのうち日本の学校出身が、大学出四七六名、専門出七十九名、計五五五名をしめている。韓国で刊行された韓徹永著「韓国の人物」五十人集には、韓国第一級の人物を紹介しているが、その第一選(二十七年十二月刊行)には、五十名中二十名が、第二選(二十八年十一月刊行)には、五十名中十八名が、日本の学校出身と紹介されている。

 大韓年鑑社の『大韓年鑑』一九五三年版「韓国人名」の項をみると、韓国社会の指導者二〇六九名が記載されているが、そのうち、五五六名が日本の学校出と記されている。日本外務省調査局編『現代東亜人名鑑』(昭和二十五年版)「朝鮮之部」をみると、南北朝鮮の政治家七十四名中三十二名が、日本の学校出身である。現代朝鮮の指導者の中で、日本留学生のしめる部層は大きい。

 

注(1) 大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』「朝鮮篇」第三分冊「教育文化政策とその実績」

(2) ★朝鮮文芸社「在日朝鮮文化年鑑」

(3) 坪江豊吉『在日本朝鮮人の概況』(前篇)第五節「在日朝鮮人留学生の状況」

(4) 『司法研究』第五輯新井育三「内地における朝鮮人とその犯罪について」(昭和二年)

(5) 朝鮮総督府警務局東京派遣員「在京朝鮮人状況」(大正十三年五月)

(6) 坪江豊吉『在日本朝鮮人の概況』(前篇)第五節の三「朝鮮奨学会の沿革」および「朝鮮奨学会記録」(文部省)による。

 

 

         五、法的地位

 明治四十三年八月二十九日併合以来、朝鮮人は日本国籍を取得したのであるが、民度を異にする朝鮮人に、日本の法律をそのまま適用することをさけ、明洽四十四年三月法律第三十号で、朝鮮における法律事項は、朝鮮総督の命令で規定し得(第一条)、これは内閣総理大臣を経て勅裁を請うこと(第二条)、日本の法律の全部または一部を朝鮮に施行するには、勅令をもつて定めねばならぬ(第四条)ことが定められた。

 この法律にもとづいて、明治四十五年三月に公布された「朝鮮民事令」は、第一条で、民事に関する事項について、とくに規定のないかぎり朝鮮に適用される法律三十二を列挙した中に民法をふくめたが、第十条で法律行為について慣習をみとめうること、第十一条で親族および相続に関して規定あるものをのぞき慣習によることを規定した。

 戸籍法は、この朝鮮民事令第一条にあげた三十二の法律にふくまれていなかつた。このことは、共通法(第二条第二項)により内地にいる朝鮮人にも適用された。戸籍について、総督の命令にもとづく別途の朝鮮戸籍令があつた。前の朝鮮人は台湾人とともに「戸籍法の適用をうけないもの」という表現にふくまれていた。

 内地にいる朝鮮人は、日本国民である以上、公権として、選挙権、被選挙権、公職につく権利をもつていた。とくに、大正十四年五月、普通選挙法が実施されてから「帝国臣民たる男子にして、年令二十五年以上のもの」のうちに、在内地朝鮮人の票数がものをいうようになつた。昭和四年一月二十日の堺市議にはじめて朝鮮人が出馬して以来、各種の議会に立候補者がみられた。昭和七年二月、衆議院総選挙における在内地朝鮮人投票者は、一万六一七〇名(棄権者は、一万九七一八名であり、棄権率五五%)諺文投票有効二六四七票があつた(1)。

 昭和十一年二月の衆議院総選挙の際に、大阪、長崎、奈良、愛知、山梨、島根、山口、香川、高知、鹿児島のみで有権者四万一八二九名、棄権は六七・四%であつたと報告されている。

 昭和七年、十二年の総選挙には、東京第四区から本所深川を地盤にした朴春琴氏(在内地朝鮮人社会事業団体たる相愛会副会長)が出馬して当選した(四八頁でのべる処遇改善策の、貴族院令の改正により二十年四月一日に貴族院議員七名が朝鮮在住民から選ばれた。衆議院議員の選挙は、「衆議院議員選挙法を改正し、朝鮮に制限選挙を行い、各道から百万名に一名の割で、二十三名が選ばれる」ことが企図されただけで、ついに行われなかつた)(2)。

 公職についたものについては、終戦の前年に官公吏が四一〇名いた。

 義務教育の実施は、在内地朝鮮人は、民度がひくく、貧困者の多いために不徹底であつたが、昭和五年十月九日文部省は、「内地在住朝鮮人は、小学校令第三十二条により、学齢児童を就学せしむる義務を負うものとす」と見解をしめし(3)、昭和十年三月十八日、大阪府学務部長は、

「朝鮮人といえども、小学校令第三十二条により、児童を就学せしむるの義務を負うものなるはすでに明らかにして………すくなくとも本年四月の就学学齢に達すべき朝鮮人児童は、なるべくもれなく就学せしめるよう学務委員その他各機関を通じ奨励方御配慮相成度」

 とのべている(4)。昭和九年末現在、大阪府では、就学学齢児童一万九千余あるうち、約九千余名は未就学に放置されていた。昭和十一年、神戸は就学児童一九六六名のうち一五五二名が、下関は一一四三名のうち七四〇名が在学児童数と報告されている(5)(朝鮮での義務教育実施は、昭和二十一年度からと予定されており(6)、日本施政中には実施をみなかつた)。

 徴兵制については、朝鮮本土と共通して十九年度から実施をみた。十八年三月には、徴兵制実施の準備事務として、司法省が中心となり、協和会の協力下に、戸籍寄留の一斉調査を行つてその整備を期した。その際、調査対象九四万六五九八名中、寄留届をしているものは四七万八七五四名あり、本籍の分明でないもの一八〇七名、本籍のないもの一三二四名を数え、これらに就籍と寄留届の励行が行われた。

 当時、在内地朝鮮人に関し、内務省は治安、文部省は学校教育(校外指導は厚生省と共管)、司法省は戸籍整備、陸海軍省は壮丁徴募、軍需省は軍需産業における勤労管理、厚生省は保護指導、労務者の動員援護等を管掌していた。

 

注(1) 「司法研究」第十七輯・前掲三木氏論文

(2) 大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』「朝鮮篇」第二分冊、第四章「朝鮮政治機構の近代化」

(3) 昭和五年十月九日(官普第一七四号)普通学務局より拓務省朝鮮部あて回答(文部大臣官房文書課「昭和五年文部省例規類纂」)

(4)(5) 土師盛貞(慶南知事)『内地在住朝鮮人の状況調査報告書』(昭和十一年七月)「大阪府学務部長より市町村長あて朝鮮人児童就学奨励に関する件」および資料

(6) 大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』朝鮮篇第三分冊「教育文化政策とその実績」

 

 

          六、移住阻止策の推移と不正渡航者

 朝鮮人が日本国民である以上、憲法に規定された居住移転――日本内地渡航――は自由であるべきであつた。しかし、朝鮮人は原住地にあつては素朴な農民であつたが、生活の窮乏のまま生存競争のはげしい異郷の地に投入されるとき、或いは治安に、或いは経済的にいろいろな問題をひき起したために、日本内地社会は、この流入を阻止する対策を樹立せねばならなかつた。ここに、移住の動きに対する阻止策の推移を概述してみよう。

 

1、大正八年三月独立運動勃発後、朝鮮内で治安の取締がきびしく行われたが、これと関連して、同年四月、朝鮮総督府警務総監令第三号「朝鮮人の旅行取締に関する件」により朝鮮人が朝鮮外に旅行するには所轄警察署から旅行証明をうけ、朝鮮最後の出発地の警察官に提出せねばならぬこととなつた。これは当時、朝鮮外への移住渡航は、日本内地がもつとも多かつただけに、内地渡航の制限につよく発言した。しかしながら、大正七年の渡航者約一万八千名が漸増して、大正十一年に七万名(同年末在内地朝鮮人人口五万九千)をこえていることは、すでに、この制度では奔流のごとき内地移住の勢を阻止できなかつたことを物語る。

 大正八年九月に、朝鮮総督が更迭され、いわゆる文化政治をスローガンとし、内鮮融和が高調される秋、法律によらずして移住を制限することの不合理がたえず指摘され、内務省が、治安の見地から存続を要望したにもかかわらず、協議の結果、大正十一年十二月総督府令第一五三号により撤廃された。

 

2、その後、日本経済界の不況によつて失業問題が深刻になるにつれ、朝鮮人労務者の流入は、労務者過剰の日本社会をさらに圧迫するおそれありとして、大正十二年五月に、内務省は、内地事業家の朝鮮人労務者募集出願をできるだけ制限するよう通牒を発した。

 

3、大正十二年九月、関東大震災直後、内地人と朝鮮人との間の感情が激化したので、旅行証明制度がふたたび設定され、大正十三年六月に廃止された。

 

4、震災後、復興事業労務の急激な需要に応じて、朝鮮人労務者の渡航はつづき(大正十三年の渡航者十二万余)、労働力の供給過剰、労務者の失業問題をおこしていた(十三年末在住者十二万中二万の失業者がいた)ため、大正十四年八月に内務省から朝鮮総督府に渡航制限について要求があり、総督府は、その年十月から漫然と渡航するものを地元で諭止する制度を設け、一定条件を具備するもののほかは、渡航を阻止することにした。昭和三年七月にその条件を左のごとく規定している。

「一、就職口確実なりとみとめられるもの。

 二、船車の切符代そのほか必要な経費をのぞき、なお十円以上の余裕を有するもの。

 三、モルヒネ注射常習者にあらざること。

 四、労働ブローカー(桟橋その他において見せ金を貸与し、または証明書を発行するものを指す)の募集に応じての渡航にあらざるもの。」

 なお、渡航希望者は、その所轄警察署(または警察官駐在所)から釜山水上署あての紹介状をもたしめることとし、またなるべく戸籍謄本をもたしめ、その余白に奥書紹介をした。

 大正十四年十月から昭和十三年まで諭止数は、八十九万をこえている。

 

5、昭和四年四月に内務省は、地方長官あてに、内地事業家の朝鮮人労務者団体募集をなるべく制限するよう通牒した。

 

6、昭和四年八月十五日以降、内地の工場その他で働いている朝鮮人が一時帰鮮する場合には、所轄警察署長から再渡航証明書を交付している。その証明書所持者は、前記の紹介状をもたなくとも再渡航がみとめられた。

 

7、朝鮮人渡航者は、年々増加し、在住者は、昭和三年末で、約二十四万をかぞえるようになつた。内務省内の社会政策審議会は「朝鮮在住労働者の内地渡航問題に関する調査要綱」を決定し、朝鮮人労務者の計画招致の実施を要望し、昭和四年十二月、内務・拓務両省は朝鮮総督府と合同協議したが「朝鮮側で現行の地元阻止を継続励行するとともに、とくに労働者の授産事業をおこし、なるべく朝鮮内で就職せしむるみちをひらくのほか、他に適当なる対策なし」との決定をみたにすぎなかつた。

 そのころ、毎日午前と午後の関釜連絡船の出帆する二時間前から、釜山桟橋の水上署出張所調査室で、朝鮮人労務者には戸籍謄本、再渡航証明書、朝鮮人学生には内地の学校在学証明書について、一々本人と対照して検査し、目的地などについて口頭調査をし、確実なものに、渡航伝票(本人の人相、着衣、携帯品摘記)を交付し、乗船の際、入口で、水上署員が伝票と本人を対照する方法をとつていた。

 

8、昭和七年一月、桜田門外で義烈団特派員李奉昌が観兵式帰路の天皇を狙撃した事件、四月、上海で尹奉吉の白川大将爆弾事件等あり、治安上から内地移住の朝鮮人は、厳重な警戒の目をもつてみられた。

 また、在内地朝鮮人の失業者が多く、生活難から各種の犯罪をおこし、ことに各地で頻発する借家紛議は大きな社会問題となつていた。

 昭和七年十月から、これを取り締るために、内地に渡航する朝鮮人全部に、身分証明書を朝鮮内所轄警察署または駐在所で交付所持せしめる制度が実施された。さらに、

(イ) 十月一日から十一月十六日の大演習終了まで、労働を目的とする渡航朝鮮人に渡航証明書をあたえる際に、朝鮮 内所轄警察署で、その雇入先の確否について、かならず内地所轄警察署に書面等により照会の上、その回答をまつて下付の許否を決すること。

(ロ) 右期間中は、朝鮮内の警察署または駐在所で交付する従前の渡航証明書(戸籍謄本)の余白に本人であることを知り得る特徴を付記すること。

(ハ) 一時帰鮮中の学生で再渡航の場合も、できる限り、前記(ロ)に準じて在学証明書に本人の特徴を付記すること。

 などを実施したが、その成果をあげたので、大演習終了後も総督府側で、(ロ)、(ハ)の項にかぎり実施した。

 

9、わかい朝鮮人渡航者で、在学証明書を偽造し、またはその貸与をうけ、学生を仮装するものが多かつた。また、内地の私立中等学校が、経営難打開策として、新学期はもちろん随時朝鮮内から朝鮮人学生・生徒を募集し、入学料、考査料、月謝等所定の料金を納付すると、全然身元、学歴、学力を詮衡調査することなく、直ちに入学を許可し、在学証明書、鉄道割引券等を発給交付するので、それを利用するものが増加してきた。昭和九年八月から関係当局は、在学証明書には本人の写真を貼付し、これに印刻機等で契印を施す等の方法により、貸与、改竄せしめぬようにする一面、在朝鮮入学志願者に対しては、本人が着校して正式な手続をとる以前に、在学証明書を発給せしめないように指示した。

 

10、昭和九年十月の閣議決定……次節でのべる。

 

11、昭和十一年五月から、従来渡航証明を要しない官公吏、著名人士、新聞記者、学生(学校発給の身分証明書を有するもの)、商用のための一時的旅行者、その他以上に準ずるもので、本人の出願のあつたものに対してだけ、一ヵ年を有効期間とする身分証明書を発給し、渡航上の便宜をはかることになつた。

 

12、昭和十二年十二月に、朝鮮総督府は、釜山に渡航保護事務所を設けて、渡航紹介状の査証、送還者の取扱を行つた。

 

13、昭和十三年三月、内鮮一体の趣旨の上から、総督府は、内地側の取締の改善を求めて、拓務省を介して内務、厚生省と協議し、その結果、七月二十一日つぎのような事項を協定した。この際、総督府側が強硬に内地側の取締の緩和を求めていることは注目される。

(イ) 内地側は、労働者以外の一般朝鮮人の渡航は自由であることについて、その趣旨の徹底につとめ、朝鮮側で発給した諸証明書を尊重して、二重取締の弊をさけること。

(ロ) 渡航取締当事者の朝鮮人に対する言語・態度などには、とくに注意すること。

(ハ) 一時帰鮮証明書の発給を朝鮮人労務者全般にひろげ、その有効期間が一カ月となつているのを二カ月に延長し、必要に応じ随時延長をすること。

(ニ) 扶養義務者がすでに内地にいる際には、その扶養家族が義務者のもとに渡航する場合特別に考慮する。

(ホ) 内地在住中の不良朝鮮人は、内地側当局が教化・指導につとめ、朝鮮に送還することを差し控えること、ただし、内地側の協和事業を妨害するものは送還する。

(ヘ) 内地の雇傭主で、朝鮮内から労務者を募集するものに対しては、内地在住の失業朝鮮人中から雇うように勧告して、朝鮮内から新規の労務者を不正の方法で誘引せぬよう取り締ること。

(ト) 私立学校生徒には、写真を貼付した在学証明書を発給すること。

(チ) 密航者でも、相当年月を経過して就労しているものは、朝鮮に送還せぬこと。この送還の取扱は、一般犯罪人のように苛酷にせぬこと。

 

14、戦時下の統制により、内地在住朝鮮人労務者の中からも、多数の転失業者を出す傾向にあつたので、昭和十三年七月に内務、厚生省は、朝鮮から新規に労務者を雇傭しようとするもののある場合には、雇傭主にはこれら転失業朝鮮人を雇傭せしめるよう通牒を発した。

 

 以上のように、あらゆる方法で、渡航阻止が講ぜられたが、それが進めば進むほど、ひそかに内地に入ろうとする

あらゆる方策が講ぜられた。昭和七年の記録には、その方法としてつぎのような手段があげられている。

(イ) 密航ブローカーの手により、発動機船または小型漁船等に相当の船賃を支払い、山口、福岡、佐賀、長崎等の各県沿岸に上陸する。

(ロ) 渡航証明書または一時帰鮮証明書、在学証明書を偽造し、または、他人の証明書を譲り受ける。

(ハ) 連絡船、貨物船の船艙に潜入する。

(ニ) 内地人を装う。

(ホ) あらかじめ脱船逃亡を計画して船員となり、内地渡航の際、その目的を達する。

(ヘ) 漁船に漁夫としてのりこみ、内地の各港に出入して脱船逃亡する。

 労務動員がはじまると、

(ト) 被募集者の渡航中止の際に、合意の上、戸籍謄本をもらいうけてくる。

(チ) 人員点呼の際に、被募集者が不在であると、代つて答えて混入する。

(リ) 府、邑、面からは戸籍謄本がもらえぬので、知己の謄本をもらいうけてくる。

(ヌ) 引率者の隙をみて混入する。

 などあり、労務動員の団体が内地に到着すると、隙をみて逃亡するものがみられた。

 また、朝鮮内から内地在往者に連絡し、写真、戸籍謄本等を内地に郵送し、一方、連絡にあたる内地在住者は、警察官署に、当人は内地に居住しておるように虚偽の申告をして、一時帰鮮証明書の発給をうけ、これを朝鮮内に郵送し、これにより再渡航を装い、渡航してくるものもいた。

 

15、十九年十二月の閣議決定の中に処遇改善策の一として「内地渡航制限の廃止」がのべられた(五〇頁)が、それは決して無条件的なものでなく、二十年一月に内地側から朝鮮総督府あてに、朝鮮同胞の内地渡航制限制度の廃止にともなう措置として、左の事項を三月一日から実施するよう申入を行つていた。

(イ) 就労を目的とする内地渡航は、官斡旋または、徴用等の方法によることを原則とする。

(ロ) 思想犯、その他悪質事犯の前科者、性行不良者、被送還者、悪質伝染性疾患者等の渡航は厳にこれを抑止し、不正手段の渡航者は取り締り、悪質ブローカーの絶滅を期する。

(ハ) 内鮮間の来往者には、その身分証明の証票を携行するよう指導する(労務者は、警察署、その他のものは所属官公衙、学校、公的団体、有力会社、警察署の発給する身分証明書。内地在住者の一時帰鮮は、協和会員章。内地近海に出漁する漁夫は漁夫身分証明書)。

 しかし、内地の空襲ははげしく、逆に朝鮮への疎開帰航を企図するものが多くなり、連絡船は欠航し、交通抑制のために、その諭止指導に努力せねばならなかつた。一時帰鮮証明書、不正渡航者についてつぎの統計がある。

 

注本節は左の資料による。

一、『司法研究』第十七輯報告書二、三木今二「内地における朝鮮人とその犯罪について」

一、朝鮮総督府警務局「最近における朝鮮治安状況」昭和九年、昭和十四年

一、武田行雄『協和事業概論』総論第三章「内地在住朝鮮人対策の経過」

一、内務省警保局「社会治安の概況」昭和四年より十七年まで。同「特高月報」十八年、十九年

一、『協和事業研究』第一巻第三号(昭和十九年九月)大久保徳五郎「移入労務者とその訓練」

 

 

          七、昭和九年閣議決定と協和事業の実施

 政府の政策は前項でのべたごとく、朝鮮人の移住阻止に重点をおいたが、朝鮮人の生活保護指導には、きわめて消極的で、なるだけ民間の任意的事業にまかせ、補助金を交付するに止まつた。

 その中には、大阪府内鮮協和会(大正十三年)、神奈川県内鮮協会(大正十四年)など、府県との連繋の下に発足したものもあつた。

 その頃、民間では朝鮮人問題をやれば、どこでも困つていたことだけに、資金は容易に集まることもあり、民間団体は多い時には、全国で千数百を数えた。これらの団体の中には、仕事を喰いものにし、善良な朝鮮人を失望せしめるものも少なくなかつた。

 朝鮮人のもつとも多かつた大阪府は、昭和九年四月「内鮮融和事業調査会」を組織して、調査研究をすすめ、九月には、朝鮮人問題の所管部の連絡調整をはかるために、総務、学務、経済、土木、警察の各部長連名の「内鮮問題事務取扱心得」を訓達して、「内鮮問題協議会」が発足していた。

 昭和九年十月三十日、政府としてはじめて、在内地朝鮮人に対する綜合対策をうちだした。これは、その年四月以来、内務、拓務両省が、朝鮮総督府と協議により案を作成し、「朝鮮人移住対策の件」として、つぎのような閣議決定をみた。

 

 朝鮮南部地方は、人口稠密にして、生活窮迫せるもの多数存し、これがため、南鮮地方民の内地に渡航するもの最近きわめて多数に上り、たださえ甚しき内地人の失業および就職難を一層深刻ならしむるのみならず、従来より内地に在住せる朝鮮人の失業をもますます甚しからしめつつあり、またこれにともない朝鮮人関係の各種犯罪、借家紛議その他各般の問題を惹起し、内鮮人間に事端を繁からしめ、内鮮融和を阻害するのみならず、治安上にも憂慮すべき事態を生じつつあり。これに対しては、朝鮮および内地を通じ、適切なる対策を講ずるの要あり。すなわち、朝鮮人を鮮内に安住せしむるとともに、人口稠密なる地方の人民を満州に移住せしめ、かつ内地渡航を一層減少すること緊要なり。しかして、これら方策は、内地、朝鮮全般の利益のため一体としてこれを実施すること必要にして、財政の許す範囲において、左記要目に掲ぐる事項を実施すべきものとす。

 

            記

        朝鮮人移住対策要目   

一、朝鮮内において、朝鮮人を安住せしむる措置を講ずること。

1 農村振興および自力更生の趣旨を一層強化徹底すること。

2 春窮期における窮民の救済のため、社還米制度の普及、土木事業その他有効なる方途を行うこと。

3 北満開拓、鉄道敷設計画等の実施をなるべく促進すること。 

二、朝鮮人を満州および北鮮に移住せしむる措置を講ずること。

1 農業移民の保護助成につき、適当なる施設を講じ、ことに人口稠密な南鮮地方の農民を、満州および北鮮に移住せしむること。

 満州移民については、満州国との関係および内地人移民との関係を考慮し、関係諸機関と連絡の上、実施すること。

2 満州、ことにその東部地方および北鮮における各種土木事業に従事する労働者については、あたう限り、南鮮における農民中よりこれを供給すること、これがため労働者を移動する場合には、朝鮮総督府において、これが統制および助成につき適当なる方途を講ずること。

三、朝鮮人の内地渡航を一層減少すること。

1 朝鮮内における内地渡航熱を抑制すること。

2 朝鮮内における地元諭止を一層強化すること。

3 密航の取締を一層厳重にすること。

4 内地の雇傭者を諭止し、その朝鮮より新に労働者を雇い入れんとするを差し控え、内地在住朝鮮人または内地人を雇傭せしむるよう勧告すること。

四、内地における朝鮮人の指導向上およびその内地融和をはかること。

1 朝鮮人保護団体の統一強化をはかるとともに、その指導、奨励、監督の方法を講ずること。

2 朝鮮人密集地帯の保安、衛生、その他生活状態の改善向上をはかること。

3 朝鮮人を指導強化して、内地に同化せしむること。

 

 これは、朝鮮人の内地流入を、その根本的原因から解決する方策を示すとともに、在内地朝鮮人の日本人同化の方針を決定したものとして、劃期的なものであつた。

 政府は、在内地朝鮮人同化の方針にもとづき、昭和十一年度から協和事業費の科目で、五万円の予算を計上して (保護費二万円、送還費二万円、事務費一万円)、内務省社会局でこの事務を遂行せしめ(社会部福利課に、嘱託一名を専任職員としておいたに止まつている。十三年に厚生省新設により、事務は同省社会局生活課《新設当時は福利課》に移された。)、地方庁に対して、事務費および送還費若干を補助し、協和会設立を奨励した。

 十三年十一月には、三十一道府県に協和会が設けられたが、その月、内務省警保局長、拓務省管理局長、朝鮮総督府政務総監、文部省専門学務局長、厚生次官、厚生省社会局長、貴族院議員下村宏氏、関屋貞三郎氏が発起人となり、中央協和会創立発起人会が開かれ、理事長に関屋貞三郎氏の就任の決定をみた。

 朝鮮から労務者が動員移入される秋、この受入について、従来より積極的体制を必要とするために、中央協和会の組織が重大視された。

 十四年十月、厚生省社会局長、内務省警保局長連名で「協和事業の拡充に関する件」が通牒され、拡充予算をえて、厚生省および主要府県に協和事業指導職員として、奏任官および判任官七十余名を配置し、下関には、とくに渡航者のために斡旋所を設けた。十八年度からは、徴兵制実施による壮丁予備訓練の仕事も加わつている。

 中央協和会に対しては、十四年度から厚生省および朝鮮総督府より補助金が出、十五年六月に財団法人設立許可があつた。

「政府の施設と相まつて、内地に在住する外地同胞の内地融合を促進し、国民協和の声をあぐるを目的」とし、

「一、外地の人々を、内地生活を基準として指導教化して、生活の向上をはかり、尽忠の精神を啓培する。

 二、内地の人々の、外地同胞に対する理解を啓発して、相互の信頼を深め、相互の情誼の促進に努むる」

 を実施上の二大方針としている。しかし、実際は、朝鮮人の指導だけに力をそそぎ、皇民精神の涵養、矯風教化、福祉増進、保護救済、協和事業の調査研究、協和事業趣旨の普及・宣伝等を実施要目とした。

 理事のうち三名は、厚生省社会局長、内務省警保局長及び朝鮮総督府内務局長、常務理事の一名は厚生省社会局長、参事のうち五名は、内務省警保局保安課長、拓務省管理局警務課長、朝鮮総督府内務局社会課長、同警務局保安課長、厚生省社会局生活課長と定められた。顧問は、厚生、内務、拓務三大臣の外、朝鮮総督がなり、事務所は厚生省内におかれた(十八年度の予算は六十四万円)。

 地方協和会は、道府県毎に、早いのは昭和十一年秋から結成されていたが、十五年六月に全国の結成を終り(樺太は十五年七月。沖繩県のみは結成されない)、従来あつた公私の朝鮮人の生活保護の社会事業団体は、この組織の中に解消した。

 地方協和会の会長は道長官または知事、副会長は学務部長および警察部長(東京では警察部長のかわりに、警視庁特高部長、京都では市長が加わる)、常務理事は社会課長と特別高等課長(東京は内鮮課長)がなつていた。すなわち、生活面の社会課と治安面の特高と二本建であり、事務所はそれぞれ社会課内におかれた。北海道、東京、大阪、兵庫、山口、福岡の朝鮮人の多い六道府県に、一名づつの社会事業主事がおかれ、その他の府県に、同主事補がおかれた。その下に、警察署単位に、署長を会長に支会が設けられ(十七年末一一二四支会、十八年度予算一七八万円、指導員四八二六名うち一七三名が有給専任)、さらにその下に、地域(または職域)に分会があり、分会の下に十ないし二十世帯ごとに補導班があり、補導員がおかれていた。

 中央協和会は、講習会、機関紙「協和事業」の刊行、国語読本の編纂、協和事業功労者表彰等を行い、協和会全般の仕事として、隣保館の経営、職業補導をし、時局がら日本語普及、神棚奉斎、神社参拝、和服着用指導、国防献金等を行つた。

 以上のほかに、協和会の負わされた仕事は、不良朝鮮人の送還と労務者訓練及び逃亡防止である。

 協和会の予算には、最初から不良者および帰郷希望者で旅費のないものの送還費を計上していた。昭和十三年の朝鮮総督府との協定の際も、内地にいる不良朝鮮人は、内地当局が教化指導につとめるが、協和事業妨害者だけは送還することを明確にしている。

 労務者が大量に移入されてから、昭和十四年十月の通牒の具体化として「労務者訓練施設要綱」が地方に通達されたが、これにもとづいて中央協和会で、朝鮮人労務者問題研究委員会を設け、「移入労務者訓練および取扱要綱」を作り、政府に建議し、これがそのまま、十七年二月に厚生省生活・労働・職業三局長、内務省警保局長から警視総監、地方長官あて通牒として発せられた。また一面、朝鮮人の身許を明らかにすべく、協和会会員章を移入朝鮮人労務者に交付し(十五年度に四十五万個を交付)、逃亡者の検索に便ならしめた。協和会は、各職場に慰問隊を派遣し、また督励班をおくり、就労期間延長、逃亡防止、定着指導に全力をあげた。

 さらに、徴兵制実施にともない、中央協和会で壮丁錬成要綱審議会を設けて、「壮丁錬成要綱」の成案をつくり、これが十八年五月、厚生省生活局長、内務省警保局長より警視総監、地方長官あて通牒されているが、この錬成を協和会に実施せしめた。

 

注本節は、左の資料による

一、大阪府「大阪府内鮮融和事業調査会決議事項」(昭和十年十月)

一、大阪府内鮮融和事業調査会「在住朝鮮人問題とその対策」(昭和十一年九月)

一、財団法人中央協和会「昭和事業年鑑」(昭和十六年)

一、財団法人中央協和会「協和事業研究」「協和叢書」「移入労務者訓練および取扱要綱」「壮丁錬成要綱」

一、前掲、武田行雄「協和事業概論」

 

 

          八、処遇改善策と興生会の発足

 昭和十九年末、太平洋戦争は最終段階に入つた。東亜の各民族にその処を得せしめる理念を掲げていた日本は、朝鮮人に対しては、内鮮一体、皇民化政策を強調推進していたが、すでに連合国は、その前年の十一月に、カイロ宣言で、朝鮮の独立さるべきことを闡明にしていた。地域としてもつとも日本にちかく、物心ともに絶大の戦力寄与をしている朝鮮人に対して、日本政府としても、政治的発言の道を開くことを顧慮せねばならなかつた。十九年十一月四日の閣議決定の「朝鮮および台湾在住民の処遇改善に関する件取扱方針」において、

「一、朝鮮および台湾在住民処遇調査会を速かに設置すること。

 二、本調査会に左の事項を附議すること。

  1 貴族院議員選任に関する件

  2 衆議院議員選挙に関する件

 三、貴族院議員選任に関する件の取扱については、来る議会に提案の目途をもつて促進につとむること。」

 がのべられ、さらに、十二月二十二日の閣議決定で、朝鮮人処遇の徹底的改善がはかられた。その要点は左のごとくであつた。

            朝鮮および台湾同胞に対する処遇改善に関する件

  戦局の現段階に処し、朝鮮および台湾同胞をして、ますます皇民たるの自覚に徹し、一億一心の実をあげ、大東亜建設の聖業完遂に邁進せしむるの要緊切なるものあるにかんがみ、朝鮮および台湾同胞に対する政治上の処遇につき、別途考究を進むるとともに、一般の処遇改善に関し、左の方策を実施するものとす。

  第一、内地在住朝鮮同胞に対する処遇改善要領

  一、一般内地人の啓発

朝鮮同胞を包摂して、これを完全なる皇国民として、同化融合し、真に一億一心の国民的団結をはかるは、朝鮮統治の窮極の目的なる所以を国民各階層に徹底認識せしめ、’これを内地人の朝鮮同胞に対する日常の処遇に反映せしむること。

  二、内地渡航制限制度の廃止

朝鮮同胞の内地渡航制限制度はこれを廃止すること。なお、これに関し、労務の計画的配置の確保等のため、必要なる措置を講ずること。

  三、警察上の処遇改善

警察上の処遇については、各般にわたり、極力改善の方法を講じ、つとめて差別感を生ぜしめざるよう配意するとともに、他の保護指導機関と協力し、朝鮮同胞保護の万全を期すること。

 四、勤労管理の改善

内地に来住する朝鮮人労務者をして、その職域に安住し、生活に満足して勤労に最高の能率を発揮せしむるよう、勤労管理に刷新改善を加うること。

 五、興生事業の刷新

内地在住朝鮮同胞の皇民化をいよいよ促進するとともに、一般内地人の啓発につとむるため、興生事業の刷新をはかること。

 六、進学の指導

内地定住朝鮮同胞の子弟教育については、内地人子弟と同様に取り扱う趣旨を一層徹底せしむるとともに、朝鮮在住者子弟の内地専門学校以上への進学および朝鮮同胞の育英についても、適切なる措置を講ずること。

 七、就職の斡旋

朝鮮同胞の有識層に対し、その人物才幹に応じ、就職向上の機会をあたうるため、各官庁における学校卒業者の採用方針をさらに積極的ならしむるとともに、民間会社等においても、能力、学歴等に応じ、就職ならびに昇進のみちをひらくよう指導斡旋すること。

 八、移籍のみちをひらくこと。

内地に定住する朝鮮同胞に対し、その希望により一定の条件をもつて、内地へ移籍のみちをひらくものとすること。

 第二、内地在住台湾同胞に対する処遇改善要領(略)

 第三、朝鮮および台湾内における処遇改善

 朝鮮および台湾内においては、朝鮮および台湾同胞の皇民化を一層徹底すべき諸方策を強化するとともに、内鮮、内台の一体化をさらに促進するごとく、諸制度の改善、その他本件決定の趣旨に則り、適切なる措置を講ずること。

 参考

  内地在住朝鮮同胞に対する処遇改善要領一ないし六の具体的施策として、実施すべき事項おおむね左のごとし。

  一、一般内地人の啓発

(1) 新聞、雑誌、映画、著作等、各種の方法をもつて、朝鮮同胞皇民化の実相を知らしめ、これを親愛すべきことを認識せしむること。

(2) 国民教化の全分野にわたり、あまねく内鮮一体の思念を滲透せしむるにつとめ、特に朝鮮人学童を収容しおれる国民学校等においては、内地人学童と朝鮮人学童との融和一体化につとむるとともに、母親学級等を通じ、家庭婦人に内鮮一体化の概念を徹底せしむること。

(3) 教科書の修正および新編纂に際しては、幼児および青少年(国民学校教育、師範教育ならびに中等教育)を通じ、朝鮮に関する教材を豊富にし、朝參および朝鮮同胞に対する認識理解を深からしむること。

   二、内地渡航制限制度の廃止

 (1) 朝鮮同胞の内地渡航に関する現行制度の廃止にともない、労務輸送その他時局下の要請にもとづき、これが渡航に関し、必要なる調整を加うること。

 (2) 就労を目的とする内地渡航は、労務の計画的配置を確保するため、官斡旋または徴用等の方法によるを原則とすること゜

 (3) 内鮮間の来往者に対しては、時局下、諸般の便宜のため、その身分を証明すべき証票を携行するよう指導すること。

(4) 内鮮間の来往者の処遇については、細心の注意と充分なる理解とをもつて、これに当ること。   

(5) 内鮮警察相互間の連絡を一層緊密にし、不逞分子の潜入・策動等の防遏につき、遺憾なきを期すること。

  三、警察上の処遇改善

(1) 第一線当該警察官の教養および人選には、特別の考慮をはらい、日常の職務執行にあたりては、充分なる理解と愛情とをもつて、これにあたらしむること。

(2) 有識層に対する処遇については、特別の考慮をはらい、いやしくも、その自尊心を傷つくるがごときことなきよう周到の注意をもつてすること。

(3) 朝鮮同胞の多数居住する地域には、事故の未然防止をはかるため、適当なる施設を講じ、とくに空襲等非常事態時に対処する措置として朝鮮同胞有力者の協力を求むる等の方途を講じ、これが保護の万全を期すること。

  四、勤労管理の改善

(1) 朝鮮人労務者の多数定住する重要都道府県に、その指導を負担する係官をおくこと。

(2) 勤労管理の衝にあたるものをして、朝鮮に関する認識、とくに、言語、風習等に関する知識を充分ならしめ、愛情と熱意とをもつてこれが指導にあたらしむるとともに、朝鮮同胞有識者の中より、適任者を指導部面に可及的活用を期すること。

(3) 同一職場に勤務する内地人職員および労務者はもちろん、その家族にいたるまで、朝鮮同胞に対する理解と認職とを徹底せしめ、差別的感情を誘発するがごとき挙措なきよう指導すること。

(4) 家族援護、なかんづく送金、文通等に対する便宜供与、宿舎管理の刷新、適切なる慰安等につき一層配意し、その定着に資するとともに、逃走防止等のためにする措置に関しても、その取扱につき充分留意すること。

(5) 一時帰郷、家族呼寄せ等の希望ある場合は、可及的・温情的取扱を行うこと。

  五、興生事業の刷新

(1) 厚生省主管部局ならびに地方庁の機構を整備強化するとともに、中央協和会を改組拡充し、なおこの際、協和会、協和事業等の名称をそれぞれ興生会、興生事業等と改め、その清新活溌なる運営を期すること(以下略)。

  六、進学の指導

(1) 大学、専門学校への入学に関しては、内地人と同様に取り扱うことをたてまえとし、昭和二十年度入学者選抜にあたりては、特別の方途を考慮するとともに、他面、朝鮮奨学会の進学保証制度を活用し、理工科系諸学校への進学風潮を育成すること。

(2) 朝鮮同胞の子弟を多数収容せる私立中等学校については、とくに指導を加え、その内容の充実をはかること。

(3) 大日本育英会をして、朝鮮同胞学徒に対し、学資貸与の方途を講ぜしめるよう措置すること。

(4) 文部省教学官に、朝鮮人学生・生徒の指導および監督に慣熟せる人材を登用し、内地人学生・生徒との融合一体の進展に資すること。

 昭和十九年第八十五臨時議会で、天皇は「とくに命じて、朝鮮および台湾の住民のために、帝国議会の議員たるの途をひらき、広く衆庶をして国政に参与せしむ」とのべられ、小磯首相は「朝鮮および台湾在住民の処遇改善の速かな実現」を言明した。

 十九年十一月二十日、中央協和会は、中央興生会と改組し、地方またこれにならつた。「協和」を「興生」と改めたのは、「協和」は、従来ややもすれば、本来異質なるものの間における協調を意味する印象をあたえ、二元的対立的観念を脱しえなかつたが、「興生」とは「内地在住外地同胞の皇国臣民としての物心両面にわたる生活を振興し、一層完全なる皇民たらしむるにある」の意味であると説明され、「政府の施設と相まつて、内地に在住する外地同胞の内地融和をいよいよ促進し、その興生の実をあぐる」を目的としていた。

 中央興生会は、中村孝太郎大将(前朝鮮軍司令官)を会長に、近藤俊助氏(前南洋長官)を理事長とし、朝鮮人有識者が幹部にすわる筈であつたが、人を得ず、わずかに指導課長の地位のみあたえられた。

 とくに、厚生省内には、建民局にこの事業を専管する民生課、地方には北海道、大阪、山口、福岡に民生課が新設された。興生事業の予算として、十九年度三八四万余円、二十年度六五二万余円が計上され、諸種の計画がたてられたが、戦局の最終段階の大空襲下にあつて、なんら新しいこともできず、ただ、朝鮮人労務者の定着指導に専念するだけであつた。

 

 注 本節は厚生省所管の諸記録による。

 

 

 

      Ⅱ 戦後の引揚と占領下の処遇

 

          一、引揚

1、朝鮮人の帰国熱と動員労務者、復員軍人の引揚

 戦争の末期、空襲を逃れて朝鮮へ疎開帰還しようとする朝鮮人が多く、当局では、交通機関の混乱をさけるため抑制していたが、二十年八月はじめに、すでに五千名が下関で船を待つている実情であつた(1)。

 終戦直後、朝鮮人民衆は、解放民族としての歓喜に燃え、独立朝鮮は即刻実現と考えられ、「帰ろう祖国へ!」は在日朝鮮人に共通した帰趨本能的感情であつた。

 八月二十二日、次官会議で「戦争終結にともなう工場事業場従業者の応急措置」を決定したが、その日に運輸省で、朝鮮人帰還輸送問題打合会が開かれた。しかし、おとなしく引揚開始をまつことのできぬ除隊朝鮮人兵や解雇された労務者は、下関、仙崎、博多に殺到した。終戦とともに、釜山、馬山、麗水、その他南鮮の港から内地に引き揚げてくる在鮮内地人をのせた船は、帰りにこれらの朝鮮人をのせた。それは、全く無軌道であつた。連合軍の命により、八月二十五日午前零時を期して百トン以上の船が航行禁止となつたが、その間、無数の機帆船が朝鮮海峡を往復し、年末ちかくまでつづいた。このうち、機雷にあい、または海賊にあい、被害をうけたものが多かつたが、引揚途中の最大の悲劇は、浮島丸の沈没であつた。八月二十一日、大湊附近の海軍施設局の朝鮮人工員二八三八名、一般朝鮮人八九七名をのせた特設運送船浮島丸(四七三〇トン)は、釜山に向つて航行中、二十四日舞鶴に入泊せんとして(連合軍の要求で、日本の全船舶は八月二十四日以後航行を禁止され、最寄りの港に入るべき指令をうけた)機雷にふれ、二十四日午後五時すぎ、舞鶴湾内で沈没し、五四九名の死没者を出した(死体は、一七五体収容したが、救助者中の死亡者八名あり、二十五年、船体の第一次引揚作業で遺骨一〇三柱、二十九年遺骨二四五柱を収容した)(2)。

 九月初から総司令部の命令で、興安丸(定員四千五百名)、徳寿丸(定員二千五百名)が日鮮間に航行した。

 九月一日には「関釜連絡船はちかく運行の予定で、朝鮮人集団移入労務者は優先的に計画輸送をする。輸送順位はおおむね土建労務者を先にし、石炭山労務者を最後とし、地域的順位については、運輸省で決定の上、関係府県、統制会、東亜交通公社に連絡する。所持品は携行しうる手荷物程度とし、有家族者の家族も同時に輸送する。釜山まではかならず事業主側から引率者をつけ、釜山で引き渡すこと。帰鮮者の世話は、地方興生会をして当らしめる。帰鮮せしめるまでは、現在の事業主をして引きつづき雇傭せしめおき、給与はおおむね従来通りなすべきこと。一般既住朝鮮人には、帰鮮可能の時機に詳細指示するにつき、それまで平穏に待機するよう指導すること」が通達された(3)。

 九月十二日、鉄道総局は、当分連絡船は一般旅客のを停止し専ら朝鮮人の復員軍人、軍属、集団移入労務者の集団復員輸送に充当すること、興安丸、徳寿丸による博多および仙崎と釜山間の計画輸送の内容を指示した(4)。

 一方、米軍は、九月九日に京城に入り、総督府の行政権を接収し、軍政庁を開き、九月二十三日にその外事課が引揚業務の担当となつた。この外事課で、朝鮮内日本人の日本への引揚を計画するとともに、在日朝鮮人の朝鮮への引揚の受入業務を行うことになつた。

 九月二十六日から在鮮日本軍の計画輸送が行われ、十一月に入つて一般日本人の送還に移つた。この船は、帰航の際に在日朝鮮人を運んだ。在日朝鮮人の送還は、この在鮮日本人の送還と交換的に行われたのであつた(5)。日本側は、総司令部のGⅢが担当課であつた。

 九月二十八日に、厚生・内務両省は、朝鮮人問題の不安除去に努力すること、引揚者の乗船地の援護は、引揚民事務所(九月二十日設置、十一月下旬引揚援護局に改編)があたり、朝鮮人の輸送希望のとりまとめ、切符購入、誘導などの援護については「興生会」があたる方針を示した(6)。

 一般朝鮮人の引揚については、十月二十二日に取扱要領が発表され、集団移入労務者の優先輸送終了後(終了は大体十二月中旬見込)開始する、ただし、緊急に帰鮮の要のあるものは、十一月五日から毎月五の日を乗船日として輸送すること、その他、一般帰還希望者の帰鮮希望のとりまとめ、輸送計画、出発準備、旅行中の保護について具体策をしめした(7)。同日厚生次官から地方長官あての電報で、二十五日以後、混乱を防止するために、計画輸送証明書を、移入労務者は事業主、一般朝鮮人は地方興生会名で発行し、これをもたぬものは乗船せしめぬこととした(8)。

 その頃、青森ー下関(北海道、北陸在住者)、品川ー博多(東北、関東地区在住者)、名古屋ー博多(中部、近畿地区在住者)には臨時列車を編成し、その他は一般定期列車を利用して、増結客車または編成車輛を専用せしめていた。とくに、北海道や常盤地区の朝鮮人炭鉱労務者は、待遇改善を要求してストライキを起し、暴動化して、米軍が出動鎮圧したこともあり、できるだけ早く送還せしめる方針がとられた(9)。後述のごとく、朝鮮人引揚のために、博多、仙崎(釜山との間の定期連絡船の発着港)のほかに、佐世保、舞鶴、函館、浦賀(援護局所在地)も使われたが、また三池、臼の浦、門司(九州)、下関、萩、境、温泉津(中国)、伏木、七尾、新潟(北陸)、小樽、室蘭(北海道)等の港も使われていた。

 しかし、終戦後の混乱の中で、統制ある引揚は実施されず、九月末に仙崎、下関に滞留する朝鮮人は二万名におよび、博多も一万を越え、そのうち給食者は各々五千名いた。仙崎では、需品廠関係倉庫(建坪二百坪)のほか、五十坪の付属建物および大幕舎四棟に収容し、博多では、馬事協会の厩舎に収容され大混乱を呈していた(10)。十月に入つて、雲仙丸、白龍丸、長白丸、黄金丸、会寧丸、間宮丸、大隅丸、その他海軍の艦艇も朝鮮との間に就航した。

 総司令部は、十月十五日、三十日の二回にわたり、朝鮮人の下関、福岡、仙崎その他の地区へ殺到することについて抑制を求めていたが(11)、十一月一日、総司令部は、はじめて非日本人引揚の具体的な覚書を発し、朝鮮人送還のために、仙崎、博多、呉の港を使うこと、引揚順は、関門・博多地区、阪神地区、その他の地区とし、復員軍人、元強制労務者、その他の順とすること、とくに、北九州地区の炭鉱労務者は、優先的にすること、おそくとも十一月十四日から開始して、一日千人の割で送還すべきこと、帰国をのぞむ朝鮮人は、本計画にもとづき移動を指示されるまで、現出所に居住せしめるよう日本政府が統制すること、および毎週帰国者の数の報告提出を要求した(12)。

 十一月十七日の覚書では、朝鮮人の引揚に、仙崎、博多、佐世保、舞鶴、函館の港の利用がのべられた(13)。

 十一月十五日に、中央興生会が解散し、従来の興生会や事業主発行の証明書は、十三日以降、地方長官名義に変更された(14)。これにともない、厚生省、運輸省は、朝鮮人の帰還取扱要領を改め、輸送順序は、復員軍人、集団移入労務者ならびに元被徴用者およびそれらの家族、内地(樺太、千島および沖縄をふくまず)以外の地域からの引揚者、その他一般朝鮮人とし、帰還希望は、地方庁でとりまとめられ、それにより運輸省が計画をたて、乗船地到着までの援護は、地方庁が行い、乗船地では地方援護局が行う。この計画による船賃および国内鉄道運賃は無料と発表された(15)。引揚者の運賃は、十月十五日にさかのぼつて無料とされた(16)。

 二十一年二月九日の総司令部の覚書には、慶南北、忠北のものは、仙崎、博多、函館、舞鶴から釜山へ、全南北、京畿、江原、忠南のものは佐世保から群山、木浦、仁川へ、また実行可能なかぎり、全南北、忠南向けのものは群山または木浦へ引き揚げしめることとされ、その他引揚港として唐津の利用ものべた(17)。十一日には朝鮮人受刑者は、刑期満了前に帰鮮せしめてはならぬと指示した(18)。

 かくて朝鮮人引揚は、終戦から翌年はじめの日本内の鉄道列車の大混乱の中に、奔流のごとく敢行されたのである。二十一年三月までの間の引揚者は、統計(第二八表)にあらわれたものが九十四万余、その他統計もれ約四十万と推定される。

 

 注(1) 二十年八月九日厚生省民生課長「戦災朝鮮人の帰鮮諭止に関する件」

(2) 『親和』第十二号(二十九年十月十五日号)中島親孝「浮島丸問題について」。京城日報二十年九月二十七日

(3) (警保局保発甲第三号)厚生省勤労・健民両局長、内務省管理・警保両局長より地方長官あて「朝鮮人集団移入労務者等の緊急措置の件」

(4) (運業輸二第二〇号)鉄道総局業務局長より地方鉄道局長あて「関釜ならびに博釜航路経由旅客輸送の件」

(5) ウィリアム・J・ゲーン「引揚」(二十年九月二十五日から二十年末まで)William J.Gane : Repatriaaion from 25 sept 1945 to 31 dec.1945  および森田芳夫「朝鮮引揚史」(引揚援護庁総務課・未刊)

(6) (厚生省発健第一五二号)厚生省健民局長、内務省警保局長より地方長官、地方総監府第三部長あて「終戦にともなう内地在住朝鮮人および台湾人の処遇に関する応急措置の件」

(7) (厚生省発健第一六〇号)厚生省健民局長、運輸省業務局長より地方長官、地方総監府第三部長、地方鉄道局長あて「内地既住一般朝鮮人帰鮮に関する件」

(8) 厚生省発健第一六一号

(9) 総司令部『日本および朝鮮における非軍事活動』集録第一号(昭和二十年九、十月)SCAP : Summation No.1 nonmilitary Activitied in Japan and Korea. 第三章第五節「労働」

(10) 博多引揚援護局「局史」

(11) SCAPIN・一三九「引揚朝鮮人抑制」

SCAPIN・二一三「在日朝鮮人の引揚」

(12) SCAPIN・二二四「非日本人の引揚」

(13) SCAPIN・二九五「非日本人の引揚」

(14) 十一月九日厚生次官より地方長官あて電報

(15) 十二月二十八日(厚生省社発第一二九号)厚生省社会局長、運輸省鉄道総局業務局長より地方長官、地方鉄道局長あて「内地居住朝鮮人および台湾人帰還取扱に関する件」

(16) 二十年十二月九日SCAPIN・四一〇「引揚者への給与、輸送、便宜」

二十一年一月三十一日SCAPIN・六八五「朝鮮人支払いの鉄道運賃払戻」

(17) SCAPIN・七二六「朝鮮人の引揚」

(18) SCAPIN・七二九「朝鮮人犯罪者の引揚」

 

  以上特記のほかは、引揚援護庁「引揚援護の記録」(二十五年三月)および厚生省引揚援護局引揚課所管の諸記録による。なお通牒は、引揚援護院「外地および外国引揚者保護関係一件集」、「引揚者援護関係一件集」に掲載されている。

 

  2、引揚者登録による計画輸送

 二十一年はじめになると、動員労務者や復員者の引揚はほとんど終つて、あとに一般朝鮮人の引揚問題がのこつた。二十一年二月十七日、総司令部は、三月十八日までに引揚について希望の有無を登録すること、登録を怠るものや、「引揚を希望しない」と登録したものは、引揚の特権を失うと発表した(1)。これにもとづき、三月十三日に、その登録令と施行細則(2)が省令および告示で公布され、三月十八日を期して登録が実施され、左の数字が掌握された。

 全在日朝鮮人数      六四万七〇〇六名(うち受刑者三五九五名)

 右のうち帰還希望者    五一万四○六〇名’うち受刑者三三七三名)

 右のうち北鮮へ帰還希望者    九七〇一名(うち受刑者 二八九名)

 すなわち、全人員の七九%が帰還の意思を表明したのである(3)。三月二十六日総司令部は、「引揚を希望するものは、日本政府が指示する時期に出発しなければならない。さもないと、日本政府の費用による引揚の特権は失なわれ、商業輸送の便宜の可能となるまで、またなければならないであろう」

 と発表した(4)。以上の統計をもとに、総司令部は、全希望者の送還を企図して、四月十五日から、一日に仙崎から千五百名、博多から四千五百名引き揚げしめて、八月三十日に完了の案を示したが(5)、その後「一日に仙崎から千名、博多から三千名とし、九月末に完了せよ」とかえた(ただし受刑者は、その刑期完了まで送還は許されなかつた)(6)

 日本政府はこれにもとづいて、市町村別輸送計画をたて、府県の地方庁が主体となり、四月二五日から実施することにし、引揚希望朝鮮人の人数を、何日までにどの駅より出発せしめよと割当を指令した(7)。総司令部もとくに四月一日以後、荷物一人あたり二五〇ポンドまで許可して、この実施を便ならしめた(8)。

 しかし、この計画は順調にいかなかつた。帰還者数は、予定をはるかに下廻り、仙崎、博多に集中する朝鮮人は、予定の十分の一にみたなかつた。四月二十二日に、総司令部は「四月二十五日までに、一日に仙崎から五百名、博多から千五百名ずつ送り出し、漸次ふやして、五月五日以後は、仙崎から千名、博多から三千名として、引揚朝鮮人を一掃し、九月末までに完了せよ」と言明し(9)、五月七日には、「その状態が改善されねば送還は打ち切るであろう」と警告した(10)。五月十一日、地方長官にこの警告を伝え、十五日に、内務省は、警察も積極的に協力するよう指令した(11)。

 しかしながら、当時、在日朝鮮人が帰国を逡巡した最大理由は、朝鮮内の実情にあつた。

 解放直後、朝鮮の混沌たる政情に民心はおちつかず、米軍政の過渡的方針に本格的生産ははじまらず、インフレは昂進し、とくに米の集荷の失敗のために、配給はとだえ、二十一年春に米よこせデモが起つていた。北鮮から、中国から、日本からの帰還朝鮮人で、日本人の引き揚げたあとの住宅は早くもふさがり、わずか千円の持ち帰り金や、二五〇ポンドの荷物では、生活は容易ではなかつた。

 これでは日本の方が楽だ――とくに日本にながく住んでいたものは、朝鮮での新しい生活の地盤獲得の困難なために、また日本に密航してきた。朝鮮内の実情を伝えきいて、引揚を思い留まる朝鮮人が多かつた。

 さきに登録した時に「日本に残ると特権が失なわれる」ことを気にしていたものも、日本人と同待遇でも、その方がよさそうだと思いはじめた。引揚を希望して日本の僻地から出てきたものも、港まで来てそこのヤミ市に根をおろし、或いは引揚意思を放棄して、そこから景気のよさそうなところに移動した。

総司令部、日本政府の懸命な努力にかかわらず、六月から八月にかけて、南鮮のコレラの発生や、洪水、十月の鉄道ストのために、この引揚計画による船は、たびたび欠航となり、ために、引揚はいよいよ低調となり、十月以後持帰り品の制限を大幅にゆるめたが、予想外に効果はなかつた。

 その間、総司令部は、八月八日に「十一月十五日までに完了せよ」(12)、十月十六日に「十二月十五日までに完了せよ」(13)

とのべ、しかし、病気、妊娠、その他やむを得ぬ事情のため、引揚計画に従うことのできぬものは、「特殊事情者」として猶予期限がみとめられた(八月八日の覚書で特殊事情者は十二月三十一日まで延期がみとめられた)。その後、総司令部は、たびたび、引き揚げずに残る朝鮮人は有利な差別待遇のないことを明らかにし(14)、十二月十九日に「朝鮮人の南鮮へ集団的引揚は、十二月十五日に完了した。すべての資格ある引揚朝鮮人は、おそくとも十二月二十八日までに博多港から送り出すこと」を告げた(15)。南鮮への集団引揚は、この「十二月二十八日で完了」とされている(16)。

 四月以後十二月末までの朝鮮人引揚者は、博多から六万九一〇七名、仙崎から九九一七名(仙崎は九月以後閉鎖)、他に函館から二〇五名、佐世保から二八六名の計八万二九〇〇名で、三月の帰還希望登録者数に比して、一六%にすぎなかつた。

 なお、引揚における在日朝鮮人連盟(以下「朝連」という)の役割りをみるに、二十年九月十日朝連の中央準備委員会が発足した時から、引揚の世話をはじめていたが、十月十五日、朝連結成の際の綱領に「帰国同胞の便宜と秩序を期す」の一項をかかげた(17)。各地で朝連の名の下に引揚者名簿をつくり、帰還証明書を発行し、残す財産を管理し、または寄付をうけた。そして日本官憲の無気力に乗じ、列車にのせ、船にのせる世話まであたつた。博多に帰国同胞救護会があり、仙崎に朝鮮人救護会があり、朝連傘下でその受入と援護にあたつた(前者は二十一年二月一日、後者は二十一年七月十三日に進駐軍より解散を命ぜられた)(18)。

 最初、日本政府としては朝連の組織を引揚に協力せしめるを得策としたが(19)、総司令部は四月二十二日引揚計画実施にあたつて、朝連は、今次計画には関連のないことを明らかにし(20)、九月三十日に「一切の朝連発行の無賃輸送乗車証をみとめないこと、朝連発行の一切の無賃乗車証は、これを提示した個人からとりあげ、破棄するよう」指令した(21)。朝連が二十年十月十五日にさかのぼつて引揚者の汽車賃の払戻を要求したことに関し、「個人の代表者として行動している合法的根拠がなければ、不可能な要求である」という総司令部の覚書がでた(22)。

 なお、日本以外の外地にいた朝鮮人の大部分は、現地で日本人と別にされ、直接朝鮮に送還されたが、若干は日本経由で朝鮮に帰つた。この際、総司令部は、そのつど覚書を出して、そののりつぎに万全を期している(沖縄、シンガポール、フィリピン、サイパン島などよりの引揚乗継)(23)。また、トラック島から、朝鮮人志願兵出身者、陸軍傭人、海軍傭人ら三千二百名の集団が仙崎経由で引き揚げた例もあつた(24)。

 

 注(1) SCAPIN・七四六「朝鮮人、中国人、琉球人および台湾人の登録」(「文書集」一六)

(2) 「朝鮮人、中国人、本島人および本籍を北緯三〇度以南(口之島をふくむ)の鹿児島県または沖繩県に有するものの登録令」(昭和二十一年厚生・内務・司法省令第一号)およびその施行細則(昭和二十一年厚生・内務省告示第一号)

(3) 厚生省社会局「朝鮮人、中華民国人、台湾省民および本籍を北緯三十度以南(口之島を含む)の鹿児島県または沖縄県に有するものの登録集計」

(4) 民間情報教育局発表(「文書集」三六)

(5) 四月九日SCAPIN・八七二「中華民国人、台湾省民および朝鮮人の引揚」

(6) 四月十三日SCAPIN・八七六「右に同じ」

(7) 二十一年四月五日(発業第六二号)引揚援護院次長より地方長官あて「非日本人の送還に関する件」、四月十五日(発業第一一一号)引揚援護院援護局長、厚生省社会局長より地方長官あて「非日本人送還に関する件」

四月十五日(発業第一一二号)引揚援護院長官より宇品、舞鶴、佐世保、仙崎、博多各引揚援護局長あて「華人、台湾省民、朝鮮人送還に関する件」

四月二十五日(発業第一七九号)引揚援護院援護局業務課長より都道府県教育民生部長あて「非日本人の送還に関する件」

(8) 二十一年三月二十七日SCAPIN・八二二―一「引揚」

(9) SCAPIN・八九二「朝鮮人の引揚」

(10)(11) 二十一年五月十五日(公安発第一〇三号)内務省警保局公安課長より警視庁警務部長、道府県警察部長あて「朝鮮人の送還警備に関する件」

(12) SCAPIN・一一一三「朝鮮へのおよび朝鮮からの引揚」(「文書集」三九)

(13) SCAPIN・一二七三「朝鮮への引揚」(「文書集」四○)

(14) 二十一年十一月五日および十二日総司令部民間情報局発表(「文書集」一一、一三)

二十一年十一月十二日および十一月二十日渉外局発表(「文書集」一二、一四)

(15) SCAPIN・一四一四「日本からの集団引揚の終了」(「文書集」四一)

(16) 二十四年三月九日SCAPIN・九二七―一七「引揚」

(17) ★朝鮮民衆新聞社編『解放一週年写真帳』「在日本朝鮮人連盟の沿革」(二十一年九月)

(18) 博多引揚援護局「局史」、仙崎引揚援護局「局史」

(19) 前掲、二十年十二月二十八日(厚生省社発第一二九号)、二十一年四月二十五日(発業第一七九号)、五月十五日(公安発第一〇三号)

(20) 二十一年五月二十八日(発業第三一六号)引揚援護院業務課長より府県教育民生部長あて「朝鮮人送還に関する連合軍最高司令部発表の件」

(21) SCAPIN一二三九「朝連発行鉄道パスの禁止」

(22) 二十年十二月九日SCAPIN・四一〇「送還者への給与、輸送、便宜」

二十一年一月三十一日SCAPIN・六八五「朝鮮人支払の鉄道運賃払戻し」

(23) 「朝鮮人引揚者の乗継」について左のごとく覚書がでている。カッコ内はSCAPIN番号

二十一年三月二十五日(八三九)三月二十九日(八三八―A)、四月十五日(一〇〇五―A)、五月二十四日(一三二四―A)、八月十三日(一二二六)

(24) 仙崎引揚援護局「局史」

 

 3、その後の引揚および北鮮への引揚

 計画輸送は終つたことになつたが、二十二年一月八日の覚書で「引き揚げぬものの事情を審査せよ。引揚資格のあるものは、一月末までに引き揚げさせよ」とのべた(1)。その後も、引揚希望者は個人的に審査をうけ、地方長官の帰還証明書をもらつて引き揚げようとし、司令部もまた「まだ日本にいる引揚資格のある朝鮮人は、佐世保引揚援護局から引き揚げせしめるよう」指示し(2)、送還がつづけられたが、九月はじめ総司令部の指示により、引揚は一時停止となつた。

 それは、在朝鮮米軍からの要請にもとづいたもので、その後の帰国手続は、その申請書が在朝鮮米軍の方に廻付され、その許可を得てから総司令部が許可することに変つた(3)。すなわち、帰国希望者は、朝鮮米軍政庁の発行する帰国申請書に必要事項を記入し、市町村長または警察署長の居住証明書をつけて、東京の朝鮮米軍政庁在日本総公館または大阪公館に申し込む(のちに居留民団中央総本部を通じ、駐日代表部をへて総司令部の許可を仰ぐこととなつた)。総司令部は、これを在朝鮮米軍司令部に廻し、その許可されたものは、外務省を通じ引揚援護院へ通知され、都道府県を経て市区町村長に通知され、帰還証明書が本人に交付ざれた(4)。しかし、この場合でも、実際には個人は港までの旅費を負担するだけで、引揚援護局滞在費、船賃等は日本政府の負担であつた。

 十二月十七日に引揚援護院は、「総司令部の指示により外地から引き揚げてきて上陸地援護局から送還援護局に移送するもののほか、

 (イ) 不法入国者

 (ロ) 軍事裁判等により強制送還を命ぜられたもの。

 (ハ) 帰還について連合軍最高司令部から正式に許可をえたもの。

に限り送還を許可する。四の場合、旅費は本人の負担とする」ことを明らかにした(5)。

 二十二年以後、二十五年五月(十一日)までの引揚者はすべて佐世保からに限られ、その数は一万七一四六名であつた。

 二十五年五月一日をもつて、佐世保の引揚援護局は閉鎖となり、以後、舞鶴が使用されることとなつた(6)。その時、帰還希望者六二七名が舞鶴に集結し、六月二十六日に第一船が釜山に向けて出港予定のところ、朝鮮動乱の勃発により停止となり、八月十六日に総司令部から「集結者は引揚をやめて原住地に帰れ」と命ぜられた(7)。すでに家を明けわたし、家財を整理したものが多くて、容易に退去しなかつたが、各々旅費が支給され、都府県でその収容住宅を斡旋し、十月末には全員を舞鶴から原住地に帰還せしめた。朝鮮人引揚船の発航は、それ以後は見られず、総司令部は同年十一月九日の覚書で、「本日以後、非日本人の自発的引揚は本人の責任である」ことを指示し(8)、日本政府の引揚業務は終了した。帰国希望の朝鮮人は、その後、一般外国人同様に出国の手続をとることになつた(9)。

 在日朝鮮人の北鮮への引揚は、二十一年三月十九日の覚書で、適当な協定成立まで見合せられていたが(10)、米ソ間にむすばれた「ソ連地区引揚に関する米ソ協定」(二十一年十二月十九日締結)(11)にもとづき、北鮮残留日本人の送還と相関的に取り扱われ、十二月二十六日の覚書に指示された(12)。

 協定中には「日本より北鮮に引き揚げるものは、かつて北緯三十八度以北の北鮮に居住しかつ同地域で出生した朝鮮人一万名とする」と記され、総司令部覚書には「日本にいる北鮮人一万人以内の引揚は、二十二年三月九日から十五日までに実施される。この一万人は北緯三十八度以北の朝鮮に生れたことを条件として、二十一年三月十八日より前に、帰国希望を登録した九七〇一名の朝鮮人、および北鮮に生れかつ三月十八日より前に登録しなかつたもの、またはその後に意思を変更した帰国希望の他の朝鮮人をふくむ」とし、「帰国申請者の総数が一万人をこえるときは、そのこえる人数の引揚交渉を得しめるため二十二年二月二十八日までに連合国最高司令官に通告すること」とあつた。

 二十二年一月末、日本政府は北鮮帰還希望者を調査したが、三月の登録九〇七一名に比し、一四一三名にすぎず(13)、実際に北鮮に引き揚げたものは、三月十五日、大安丸で二三三名、六月二十六日、信洋丸で一一八名計三五一名(ともに佐世保より興南へ)にすぎなかつた(14)。後者の引揚船の出航前の五月十五日の覚書に「日本政府は、今回の引揚が、商業的な交通が可能になる日まで、最後の機会であることを朝鮮人に注意せよ」とあつた(15)。

 持帰り品は、一人当り身の廻り品二百キロまで、その他軽機械、商売用具は千キロまでみとめられた。この船は、それぞれ帰りに北鮮残留日本人をはこんだ。その後、二十二年十一月、二十三年六月に北鮮残留日本人送還のために引揚船が北鮮に赴いたが、在日朝鮮人は送還されなかつた。しかし、南鮮に引き揚げた朝鮮人で、北鮮に赴いたものが相当あつたことは推定されよう。

 朝鮮人の引揚者総数についてみるに、終戦時の在日朝鮮人は、約二百万前後と推定されるので(16)、判明している数字をもとに引揚者数をみると、第二八表のごとくであるが、引揚せずに残つた朝鮮人が約五十万と推定されるところから、四十余万はこの数字から洩れているといえよう。

 韓国側の発表によれば、社会部および外務部に正式登録されている引揚者数を二十四年五月末まで一一一万七八一九名としていたが(17)、二十四年末には、修正して一四一万四二五八名としている(18)。

 終戦後の短時日内に、百四十万が朝鮮本土に移動したことは、世界史上にも特記すべき現象であつた。これは総司令部の指示によつて行われる前に、日本政府の懸命な努力があり、それ以前に、帰国熱にかられた朝鮮人自体の奔流のごとき民族意欲が動いていた。二十一年四月に総司令部が引揚の具体策を確立した時、引揚朝鮮人の九割はすでに帰国していたという現象であつた。

 総括的にみれば、動員労務者、復員者らは自由意思で残留したものは別として、全員計画送還にあみこまれた。一般在住者も、約百万は帰つた。あとに残つた五十万のものは日本に早くから渡航し、その生活地盤を日本社会に深くきずいていたものが大部分であつたといえよう。

 

  注(1) SCAPIN・一四四五「北緯三十八度以南の朝鮮へ引き揚げる特権を喪失していない朝鮮人の引揚」

(2) 二十二年二月十四日SCAPIN・一五二七「非日本人の引揚」(「文書集」四三)

(3) ワグナー『在日朝鮮少数民族』第四章「戦後日本における朝鮮人」および第五章「朝鮮人引揚における米軍政の活動」

(4) 二十二年十二月二十七日(発業第一四三一号)「連合国最高司令部の許可をえた朝鮮人の取扱に関する件」(東京都「法規集」)

     『民主新聞』二十三年二月二十一日南風崎民団中総出張所「船まつ同胞へ」

(5) (発業第八三九一号)引揚援護院援護局長より都道府県知事あて「朝鮮人、琉球人等の送還に関する件」(「文書集」四四)

(6) 二十五年四月三日SCAPIN・七一二六―A「佐世保引揚援護局」

     二十五年四月七日(援護第二七四号)引揚援護庁援護局長より都道府県知事あて「舞鶴における韓国人送還業務の実施について」

(7) 総司令部コネリー少佐よりの書翰

(8) 二十五年十一月九日SCAPIN・二一三〇「非日本人の引揚」(東京都「法規集続編」)

(9) 二十五年十二月四日(援護第九二四号)引揚援護庁援護局長より都道府県知事あて「非日本人の送還業務の廃止」(東京都「法規集続編」)

(10) SCAPIN・八二九「北鮮に本籍を有する朝鮮人の引揚停止」

(11) 引揚援護庁『引揚援護の記録』(二十五年三月)「資料」

(12) SCAPIN・一四一二「ソ連およびソ連管理地域からの日本人の引揚ならびに日本からの朝鮮人の北緯三十八度以北の朝鮮への引揚」(「文書集」四二)

(13) 引揚援護庁「引揚援護の記録」

(14) 佐世保引揚援護局「局史」下

(15) SCAPIN・一六八〇「日本から北緯三十八度以北の朝鮮向け朝鮮人の引揚」

(16) 昭和十九年末の一般朝鮮人人ロ一九一万一四〇九名(樺太をのぞく)であり、二十年に入つてから空襲のため朝鮮への疎開多く、五月までの統計では内地への渡航者より帰還者の方が一万余多い(五頁)、それ以後は連絡船もと絶えており、自然増加を考慮に入れて軍人数を加えて終戦時二百万前後であつた。

(17) ★朝鮮銀行調査部『朝鮮経済年鑑』一九四九年版「動態調査篇」人口実態

(18) ワグナー『在日朝鮮少数民族』附録第四表「引揚統計」説明

 

 4、持ち帰り許可の通貨と荷物

 最初は自由であつた。二十年九月一日の厚生・内務省の通牒に「所持品は携行しうる手荷物程度」とあつたが、別に検査はなかつた。

 九月二十二日の総司令部の覚書にもとづき(1)、十月十五日大蔵省令第八十八号により、大蔵大臣の許可のないかぎりは、金貨、銀貨、金、銀、白金、地金、通貨、有価証券、小切手、為替手形などの輸出が禁止され、十月十二日の覚書で(2)、

「持ち帰り金額は、一人千円をこえぬこと。この超過額および他の一切の通貨や禁止品目は個別受領書とひきかえにとりあげ、司令部の指示あるまで保管し、この報告書を毎週司令部に提出するを要する。日本政府は通貨の交換を一切行つてはならぬ」

 と指示され、これにより千円をこえる現金および預金通帳、送金小切手、その他の証書、保険証書等一切の証券その他を引揚港の海運局で保管し、海運局名義の保管証を本人に交付することとなつた(3)。しかし、朝鮮人の中にはこの規定に従順でなく、日本人職員をなやます例もあつた(4)。

 このわずか千円の持ち帰り金では、到底引揚後の生活を維持することはできなかつた。朝鮮人は、多額の日本銀行券をかくして持ち帰り、朝鮮から引き揚げようとする日本人のもつ朝鮮銀行券と交換するものが多くみられた。

 二十一年一月二日には、郵便貯金通帳や保険書類の持ち帰りが許され(5)、持ち帰り金については、三月三十日に、千円をこえる所持金は、日本銀行が受領証と引きかえにとりあげ、同行に設けられている連合国最高司令官の保管勘定の中に預け入れられることになつた(6)。

 引揚者の持ち帰り荷物は、はじめ「衣服および本人にとつて価値のある個人的所有物で、各自一回で運搬可能なもの」とされていた(7)。これに対する朝鮮人側の非難が大きかつたので、三月二十六日、総司令部は、

「朝鮮人の所有する残余財産は、所有者の希望するいかなる形においても日本に残されることができ、これは連合国最高司令官の封鎖指令によつて保護される。引揚者の朝鮮へのすべての資金の移動は、二国間に正常の金融上の便宜の設けられたときにとり計らわれるであろう」

 と発表したが(8)、三月二十七日に「四月一日以後、一人あたり二五〇ポンドの手荷物の携行が許される」こととなつた(9)。これは本人と同一船で運送せしめた(10)。九月四日、米第八軍作戦指令により、

(イ) 最少限度に必要な身の廻り品および家財道具類は、各自携行できるものをあわせて、一人につき五百ポンドをこえないもの。

(ロ) 二十年九月二日以前に無抵当物件であり、商用および日本で個人営業に使用した工具軽機械および商売道具で四千ポンドをこえないもの(地方進駐軍軍政部の許可を要す)。

(ハ) 四千ポンドをこえるもの(連合国最高司令部の許可を要す)。

 については持ち帰りできることとなつた。この荷造費および鉄道荷物取扱所(日本通運)への搬入費はもとより、朝鮮の仕向地までの運賃(手数料および倉敷料をふくむ)もすべて本人の負担(荷物発送駅から釜山までの運賃は荷物引き渡しの際、鉄道荷物取扱所《日本通運》に支払い、釜山から仕向地までの運賃は荷物受け取りの際支払う)であり、かつ、運送間の危険もまた本人の負担であつた(11)。これは九月十五日に実施内容が一般に発表された(12)。

 すでに引き揚げた朝鮮人から残した財産の送付について要望がつよく、朝鮮米軍政庁から総司令部あて、そのことについてたえず要請があつた。この指令の中にも、四千ポンドまで認めることを明らかにしていたが、その後の作戦指令で具体的な方法が示され、日本にいるものを代理人として発送できた(13)。これは二十二年七月から二十五年にかけて実施された。港までの経費は、便宜上、代理人が負担し、鉄道および海上運賃は国庫がたてかえた。なお、二十二年九月には、福岡にある朝鮮人引揚者の保管財産は、朝鮮に返還するよう指令された(14)。

 持ち帰り荷物と通賃【ママ】については、二十四年一月十八日の覚書で具体的内容が規定され(15)、六月三日政令第一九九号が出たが(16)、同政令で、朝鮮へ引揚げる朝鮮人から提出され、または引き揚げられた本邦通貨は、

「一家族につき十万円をこえない範囲で、東京銀行本店にある韓国政府預託金勘定に対して本邦において支払うべき旨を記載した受領証とひきかえに、日本銀行をして保管させる。この受領証は、本人が韓国政府に提示して同国通貨をもつて支払をうけるため本邦から出国する際携帯をみとめられる」

 ことが示された。このころ、引揚者が容積の大きな荷物を引揚船内にもちこみ、中には貨物自動車までもちこむものがでてきたので、関係機関が協議し、身廻品以外の貨物は、全部正規の輸送料金を徴収の上、別送することになつた(17)。

 十二月一日に、政令第一九九号が廃止され、政令第三七八号「輸出貿易管理令」にもとづき、持ち帰り荷物について、

(イ) 携帯品(手荷物、衣類、書類、化粧用品、自動車「一台」、身辺装飾品その他本人の私用に供することを目的とし、かつ必要とみとめられる物件)

(ロ) 引越荷物(本人およびその家族が住居を設定し、維持するために供することを目的とし、かつ通常必要とみとめられる物件)

(ハ) 重量四千ポンド以内の職業用具(本邦において商業または個人的業務に使用し、かつ質権その他法律上の拘束のないもの)(職業用具とは、通常本人の職業に使用される目的を有し、かつ必要とみとめられる道具)

 がみとめられ、四千ポンドをこえる職業用具については、輸出承認申請書を提出して通商産業大臣の承認をえなければならないこととなつた(18)。

 なお、日本にいたものが、この手続をとらないで、家財道具を密航船で韓国に運ぶものに対し、韓国では特別寛大な処置をとつていた(19)。

 

  注(1) SCAPIN・四四「金、銀、証券および金融上の諸証書の輸出入統制」(「文書集」九五)

(2) SCAPIN・一二七「右追加指令」(「文書集」九六)

(3) 二十年十月三十日(蔵貯第八一六号)大蔵省国民貯蓄局長より厚生省健民局長あて「帰鮮者の預金、保険等に関する件」

(4) 十一月二十八日・CL〇・七四七「引揚朝鮮人の持ち帰り財産」

(5) SCAPIN・五三二「金、銀、有価証券および金融上の諸証書の輸出入統制方に対する追加指令」(「文書集」九七)

(6) SCAPIN・八五四―A「帰国朝鮮人に対する通貨の交換」(「文書集」九八)

(7) 二十一年三月十六日SCAPIN・八二二「引揚に関する基本指令」

(8) 総司令部民間情報局発表(「文書集」三六)

(9) SCAPIN・八二二の一「引揚」

(10) 五月十一日SCAIN【ママ】・一二〇一―A「朝鮮人引揚者の荷物」および六月十二日運輸公報「帰還朝鮮人の手廻り品特認の件」

(11) 米第八軍本部作戦指令第七七号「在日本朝鮮人所有財産制限量の朝鮮向輸送」

(12) 九月六日(発業第七六九号)引揚援護院援護局長より地方庁教育民生部長あて「朝鮮人帰還者の持ち帰り荷物増量に関する申請委任について」

(13) ワグナー『在日朝鮮少数民族』第五章「米軍政下における朝鮮の役割」

(14) 九月二十四日SCAPIN・四五七八―A「帰国朝鮮人の個人所有物件の返還」

(15) SCAPIN・一九六六「日本入国および出国時において携帯を許される個人の財産」(「文書集」九九)

(16) 財産および貨物の輸出入の取締に関する政令

(17) 佐世保援護局「局史」(下)

二十四年八月十一日(FOM第五五四号)外務省より総司令部経済科学局あて帰還朝鮮人の別送荷物の輸送方法」

二十四年九月十三日ESS―JF「帰還朝鮮人の荷物輸送方法」

(18) 二十四年十二月二十日(税関部第四三〇号)大蔵省主税局税関部長発「引揚中国人等の携帯輸出貨物の取扱に関する件」

(19) ★韓国貿易協会『貿易年鑑』(一九五一、二年版)「在外同胞財産搬入問題」

 

 

          二、法的地位

 連合国総司令部は、世界諸国を連合国、中立国、敵国、特殊地位国、地位未定国にわけた中で、朝鮮を特殊地位国 Special status nations に入れていた(1)。二十年十一月一日、最高司令官に対する初期の基本指令には、在日朝鮮人については、台湾人とともに、「軍事上の安全が許すかぎり『解放人民』Liberated peoples として処遇すべきである。かれらは、この文書中に使用されている「日本人」Japanese という用語には含まれない。しかし『日本国民』Japanese subjects であつたから、必要な場合には「敵国人」Enemy nationals として処遇されてよい」といつていた(2)。ここに「解放人民として処遇すべきである」「日本人にふくまれない」「日本国民であつた」「必要な場合に敵国人として処遇」という四つの概念の交錯をあびせている。これは二十一年六月五日の極東委員会政策決定にもそのまま採用された(3)。また在日朝鮮人を中国人、台湾人、朝鮮人、琉球人とともに「非日本人」Non-Japanese nationals(4); Non-Japanese(5) の概念にいれていた。

 二十一年十一月五日、十二日、総司令部は「総司令部の引揚計画にもとづいて本国に帰還することを拒絶するものは、正当に設立された朝鮮政府が、かれらに対して朝鮮国民として承認するまで、その日本国籍 Japanese nationality を保持する」「その日本国籍を保持するとみなされる」とのべた(6)。

 その声明に対し、終戦後解放民族の意気軒昂たる朝鮮人側に猛烈な反対が起つた。その世論を背景に、朝鮮米軍政庁は、総司令部に修正を要請したが、総司令部は拒絶した。それは総司令部が、この点についてワシントンから前もつて同意を得ていたからだという(7)。

 この反響に関連して、十一月二十日の渉外局発表で「残留朝鮮人が日本の市民権 Japanese citizenship を獲得しなければならないという命令をだした報道は不正確で」「占領官憲は、市民権の保持、放棄または選択に関するいかなる国籍のいかなるものの基本的権利にも、どのようにも干渉する意図を有しない」「地方的法律規則の遵守の義務を朝鮮人に免除するような在日朝鮮人に有利な差別待遇は一種の治外法権を創造することになり、それは許されない」とのべた(8)。前者に対して後者を補足的説明とみれば、在日朝鮮人は日本国籍をもつのであるが、市民権をうることについて干渉しないというのであり、しかも、日本の法秩序に服すべきだということを明らかにしたのである。しかし、むしろ当時の段階で国籍関題を明確にせぬことが実際に即したものと考え、前者の発表を後者においていくらかぼかしたともみられる。

「朝鮮人に治外法権をみとめぬ」というのは、行政的にみた場合に、連合国の日本管理は、日本の主権の最高独立性を否定したが、その統治権を肯認しており、特別に指令を発した事項以外は、日本の法秩序に服するのが当然という点を明らかにしたとみられよう(9)。

 特別に指令を発した事項として、引揚、登録、刑事裁判権、経済活動等がある。引揚についてはさきに詳述したが、その引き揚げずに残るものには、日本の法律適用を強調している。登録については後述する。

 刑事裁判権については、二十一年二月十九日に、「占領軍ないし占領目的違反行為をのぞいて、一応日本側の刑事裁判管轄権のもとに服するが、その判決に対し、総司令部(第八軍司令官が代理者)が審査し、刑の執行中止、不承認、停止、減刑等の措置をとりうる。しかしその際、日本側で下した判決を加重することはない」と示された(10)。

 しかしこれには、(イ)帰国する意思が証明されること、(ロ)日本側の裁判所における合理的救済手段をつくしたもの、(ハ)有罪の確定判決をうけた本人の申請によること、の三要件を必要とし、実質的には「同種の罪を犯した日本人に対する判決に比し、偏頗の裁判とみとめられる」場合であつた(11)。この特権は、帰国する意思を表明した朝鮮人にのみ与えられたのであり、総司令部は「引揚を拒絶する朝鮮人は、この特権をうしなう」と警告した(12)。

 経済活動に関しては、二十四年一月十四日に「日本における非日本人の事業活動」に関する覚書がで、それにもとづいて、同年三月十五日の政令第五十一号「外国人の財産取得に関する政令」がでたが(13)、この政令でいう「外国人」の中に、朝鮮人や台湾人をふくんだが、二十年九月二日以前からの在住者は除外された。

 以上の特例を通じてみられるのは、引揚を拒否して残るもの、すなわち二十年九月二日以前からひきつづいて在住するものは、外国人登録令の適用をのぞいて、一切日本人と差別のない法の下におかれたのである。具体的にいえば、食糧配給についても(14)、課税についても(15)、朝鮮人学校に対しても(16)、農地買収についても(17)、在日朝鮮人一般の反対をおしきつて、すべて日本の法律に従うべきことが示された。

 在日朝鮮人の国籍問題について、二十三年八月の韓国の成立は、二十一年十一月五日および十二日総司令部発表のうちの「正当な朝鮮政府の設立」と解すべきこととされようが、総司令部としてこれに関して明確な発表はなかつた。二十五年六月二十七日、総司令部外資委員会の覚書には(18)、

「昭和二十年九月二日以降、ひきつづいて日本に居住する朝鮮人は、日本国籍を保持する。かれらは、日本の法律に従う……。法律的にみれば、二十年九月二日以降、日本にひきつづいて居住する朝鮮人は(選挙権および公職につく権利をのぞいて)実質的には日本国民であるが、あわせて朝鮮国籍を取得する権利をももつている。連合軍の政策の遂行と日本政府の措置は、在日朝鮮人からその国籍をうばい或いは新しい国籍を付与するものではない。昭和二十年九月二日以降、ひきつづいて日本に居住する朝鮮人の国籍の最終決定は、平和会議およびそれに従属する日本と朝鮮間の条約にかかつている」

 と断定している。

 朝鮮人の国籍に関して、「日本政府は、日本国内に居住する朝鮮人は、依然日本国籍を有するものと解すべきであり」(19)、「終戦前から引きつづき日本に在住する朝鮮人は、講和条約の締結までは、特別の定めがある場合をのぞいては、従前通り日本国籍を有するものとしてとり扱うほかはない」(20)、「朝鮮人の国籍は、講和会議において正式に決定されるものであり、現在は未確定の状態にある。条約締結に至つていない現在、かれらは日本国籍を失つていないというべきで、ことに日本在住のものに関してはそういえる。もちろん個々の場合にあつては、たとえば外国人登録令の適用については、外国人としてとり扱われるなど、その取扱は一定していないので、あたかも二重国籍の状態にあるごとき感を与えるものである」(21)、従つて「帰化の問題は生じない」とされた(22)。

 また公務員として在職する朝鮮人は、平和条約締結後、その帰属が明瞭になるまで、その身分を保有するとされた(23)。

 ただ衆議院議員選挙法(昭和二十年十二月十七日法律第四十二号)、参議院議員選挙法(昭和二十二年二月二十四日法律第十一号)、地方自治法(昭和二十二年四月十七日法律第六十七号)。公職選挙法(昭和二十五年四月十五日法律第一〇〇号)のいずれも附則において「戸籍法○・適用をうけないものの選挙権および被選挙権は当分の間停止」と定められた。すなわち、朝鮮人は参政権を行使しえないと規定され、終戦後公布の日本国憲法をはじめ、その他の国法の制定に参加しなかつた。

 しかし、農地委員の選挙には、朝鮮人がみとめられた。これは国政干与でなく、むしろ地域内の社会的利益の代表者としての立場からと解される(24)。

 

注(1) 二十二年八月四日SCAPIN・一七五七「連合国、中立国、敵国および特殊地位国等の定義」(「文書集」四)

(2) 「日本占領および管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」(「文書集」七)

(3) 在日非日本人の引揚に関する極東委員会政策決定(「文書集」九)

(4) 二十一年四月二日SCAPIN・八五二「日本における非日本人の入国および登録」(「文書集」一七)

(5) 二十一年五月七日SCAPIN・九二七「日本人および非日本人の引揚」(「文書集」三七)

(6) 十一月五日総司令部民間情報教育局発表「朝鮮人の引揚」、同十一月十二日総司令部渉外局発表「朝鮮人の地位および取扱」、同総司令部民間情報教育局発表(「文書集」一一、一二、一三)

(7) ワグナー『在日朝鮮少数民族』第五章「米軍政下における朝鮮の役割」

(8) 総司令部渉外局発表「朝鮮人の地位および取扱」(「文書集」一四)

(9) 割譲地域の人民で日本にあるものの法的地位については『日本管理法令研究』第十四号(昭和二十二年十一月)「外国人の地位に関する綜合的研究」第一「一般的原則」参照

(10) SCAPIN・七五七「朝鮮人および他の特定国人に対する判決の審査」(「文書集」二五)

(11) 二十一年八月一日(刑事第九五二二号)司法省刑事局長より大審院長その他あて「右覚書の実施について」(「文書集」三〇)

(12) 二十一年十一月十二日総司令部民間情報教育局発表(上掲)

(13) (「文書集」八七、八八)

(14) 二十一年七月三十日SCAPIN・一〇九四「連合国人、中立国人および無国籍人に対する食糧配給」(「文書集」一〇四)

(15) 二十二年十一月二十九日SCAPIN・四九三八―A「非日本人に対する課税」(「文書集」九二)

      二十三年三月三十日第八軍作戦命令二十三年第四―三号「日本の租税行政の監督」(「文書集」九三)

(16) 二十三年二月二十五日、三月二十七日大阪軍政部発表(★「朝鮮新報」二十三年三月一日、三月二十七日)

      二十三年四月二十三日東京軍政部発表「朝鮮人学校」(「文書集」七六)

(17) 二十三年六月十九日SCAPIN・一二一一「自作農創設特別措置法に従つて日本国外在住者の財産処分の許可申請」(「文書集」八五)

(18) 「昭和二十四年政令第五十一号『外国人の財産取得に関する政令』における『外国人』の明確化に関する覚書」

(19)(22) 二十四年一月二十六日(民事甲第一四四号)法務庁民事局長回答「朝鮮人の国籍」(「文書集」二二)

(20) 二十四年四月二十八日(行政甲第二六号)最高裁判所事務総長より参議院法制局長あて回答「在日朝鮮人の請願権および国籍」(「文書集」二三)

(21) 二十四年四月二十八日法務調査意見長官の参議院法制局長あて回答「在日外国人の請願権および在日朝鮮人の国籍について」(「法務総裁意見年報」昭和二十四年度)

(23) 二十四年一月二十七日(法審回第五二二号)人事院法制部審議課長より人事院大阪地方事務所長あて「外国人を国家公務員として採用したる場合の処理」(人事行政学会編「人事行政例規集」)

(24) 二十四年七月十四日法制意見第一局長より農林省農地局長あて回答「外国人および朝鮮人の市町村農地委員会の選挙権および被選挙権について」(「法務総裁意見年報」昭和二十四年度)

 

 

          三、外国人登録令の施行

 二十一年四月二日、総司令部は、「日本に入国を許された外国人を登録し、身分証明書、その他日本国内居住を合法化するに必要な書類を交付する」よう指示し(1)、これにもとづいて、二十二年五月二日に勅令第二〇七号として、外国人登録令が公布施行された。その制定の経緯について、

「従来、外国人に対する一般的取締法規として、昭和十四年内務省令第六号『外国人の入国および退去に関する件』があつたが、これは防牒的色彩が強いので、終戦後は事実上停止状態にあり、また寄留法もあれどなきがごとく、外国人にとつて無法律状態であつた。

 他方、朝鮮人および台湾人の入国者が多数にのぼり、連合軍としても、衛生、経済、治安等占領政策上からも放置しておけないで、わが方に対して具体案の提出を求めたので、内務省、司法省、終連が中心となり、それに農林省、運輸省も加え、協議の結果、本令の原案ができ…司令部と折衝の結果…本令の成立をみるにいたつた。登録実施の目的は、第一に『外国人の入国に関する措置を適切に実施する』ことで、不正入国者の発見を容易にし、不正入国を防止し、正当に入つた外国人の保護に遺憾なきを期すること、および第二に『外国人に対する諸般の取扱の適正を期す』ことで、住居、営業、課税、食糧配給等にいたるまで、登録を基にして、外国人の取扱の適正を期する趣旨である。」

 と説明されている(2)。この外国人登録令は、二十七年四月二十八日公布施行の外国人登録法により廃止されるまで、約五年間の外国人の出入国管理に関する唯一ともいうべき国内法であり、

(イ) 入国のための連合国最高司令官による許可の必要

(ロ) 在留外国人に登録の実施

(ハ) 許可なく入国したもの、または登録手続に違反して司法処分をうけたものの退去強制

 の三点をその骨子としている。

 朝鮮人は、その第十一条により「適用については当分の間外国人とみなされる」ことになつた。従つて、朝鮮人は、この登録令の対象者中九割をしめ、施行上もつとも大きな分野をしめたが、また逆に登録令こそは、占領下における朝鮮人管理の基本法規であつた。

 この「朝鮮人」とは、「朝鮮戸籍令の適用を受けるべきもの」を指し、朝鮮人と婚姻関係、養親子関係等にあるものは、法律上の届出の有無を基準とすべく指示された(3)。

 この登録令による最初の登録は、二十二年七月末であつたが、朝鮮人側は、左右両翼団体とも共通して反対攻勢にで

 「新憲法発布の前日に勅令で公布されたことは、天皇制最後の権力行使であり、かつ、かつての協和会手帳のごとき不安と懐疑をいだかしめる」「占領下にある敗戦国日本が外国人追放の厳罰を規定するのは不当である」

 などの理由をあげ、朝鮮人について、「当分の間外国人とみなす」とあること、またその施行規則に、「本邦」の中で「朝鮮」を「除外する地域」としてあげていることについて、朝鮮を「本邦」(日本領土)とみるは、根本的誤りとして攻撃し、また警察官の干渉を非難し、登録証明書に添付する写真が間にあわぬことなどをあげて拒否しようとした(4)。

 当局はよく趣旨を説明し、実施を一カ月延長して、朝鮮人側に協力をもとめ、総司令部もとくに八月二十二日に情報局発表を行つて、八月末まで登録せよと声明した。

 当時の登録事務取扱要領の中に、「朝鮮人団体においていろいろの要求をして来ることと思われるが、登録の真正ということさえ確保できれば、その他の点については、できるだけ先方の要求をいれる等便宜を取り計い、登録が円満に実施できるように著意すること」とある(5)。この結果、九月末に登録者数五二万九九〇七を掌握した。

 しかしその際の登録は、朝鮮人側の圧力による集団登録(代表者による一括申請)や理由のない代理申請を受理せざるをえない実情にあり、記載の誤り多く、また相当数の二重登録、不正登録、虚無人登録が行われた。

 これについて、二十三年七月一日以降、登録証明書と主要食糧購入通帳との照合を行い(6)、その結果、二十四年三月二十日現在、朝鮮人登録者五九万九七〇五名中五七万〇六八七名が照合され、虚無人名義登録、二重登録の判明し登録簿を閉鎖したものは三万八九五二名に及び、登録証明書と主要食糧購入通帳の合致せぬもの三万九六一二名に食糧配給を停止した。後者のうち、一万五五七三名は明らかに食糧の不正受配者であることが判明した(その残余のものも、ほとんど不正受配者と推測された)。しかし、その間、新登録者は七万四一六六名を数え、このうち新しく配給籍を与えられたものは、一万四四九六名であつた。

 戦後の秩序が漸次恢復するにつれて、食糧配給、徴税および治安維持のためにも、以上の虚偽申請によるものおよび登録証明書の偽造、変造等を淘汰摘発する必要から、二十四年十二月三日政令第三八一号で、

(イ) 登録証明書の有効期間を三年とする。

(ロ) 従来、市区町村がその行政区域内において一連番号を付して発行していた登録番号を、全国を通じた一連番号とする。

(ハ) 違反行為に対する罰則を強化する。

 などの点について改正を加え、これにより登録証明書の一斉切替が、二十五年一月末までに行われることになつた。

 その際、外国人登録証明書の国籍の欄に「朝鮮」とあることについて、二十五年一月六日、大韓民国居留民団中央総本部から法務総裁あて「外国人登録証明書切替に関する意見書」の中で、「朝鮮」の名称は「独立国家大韓民国の尊厳を損傷するものである故に」国籍欄には「『大韓民国』国号をもつて統一すること」の一項をつよく要望した・

 また駐日代表部は「『朝鮮』という名称は、日本の韓国奪取の時に、日本政府が定めたもので、北鮮の共産党のかいらい政権に忠誠を公言している少数のものをのぞく韓国人はこの名をきらつており、ソ連およびその衛星国を除外したアメリカその他国連加盟四十五ヵ国が「韓国」という名称を承認したことを無視し、北鮮系のものの容認している名称を、在日韓国人が容認していると詐称したもの」と攻撃し(7)、「朝鮮」を「韓国または大韓民国」と修正するよう希望した。総司令部は一月十一日付の覚書で、今度の外国人登録に、韓国または大韓民国の言葉を使つてほしいという韓国代表部の要求を伝えたが(8) 日本外務省は、一月二十三日にこれに回答して、

 「日本人にとつて、一般的通念によれば、『朝鮮』という言葉は、侮辱する意味をもたず、歴史的な、一般的に Korea の名称として考えられている。日本政府は、在日朝鮮人の国籍は、講和条約または他の会議で公式に定められるべきことで、現段階ではそれをいずれかに定めるべきではないと解釈しておる。従つて、日本政府は Korea に対して一般に知られている『朝鮮』を使うのは、国籍に関することでなく、全 Korea を意味することである。現段階で、日本の現今の立場や、在日朝鮮人の地位にかんがみて、Republic of Korea を意味する『韓国』または『大韓民国』の言葉を使うのは、日本政府にとつて不適当であると考えられる。

 また覚書をもらつたのは、登録手続をはじめるわずか数日前であり、そのときまでに必要な準備を要するので、今度の登録の切替に御希望のように修正することは、技術的に困難である。」

 とのべた(9)。しかし、二月二十日に総司令部から日本政府へ、

 「Korea および Republic of Korea に対し、それぞれ『韓国』および『大韓民国』、なおまた Koreans に対し、それぞれ『韓国人』および『大韓民国人』の名称の使用を認可する」

 という覚書が来り(10)、日本政府も二月二十三日に閣議で公文書に韓国の名称使用を決定し、登録に「韓国」または「大韓民国」の用語が使われることになつた。それとともに登録の締切期日は三月二十日まで延期された(11)。二月二十三日法務総裁談話で、

 「従来における外国人登録事務の取扱上、朝鮮人については、その国籍をすべて『朝鮮』として処理してきたのであるが、一部の人々よりの強い要望もあり、登録促進のためにも適当と思われるので、今後は本人の希望によつて『朝鮮』なる用語にかえ、『韓国』または『大韓民国』なる用語を使用してさしつかえないこととする。

 すなわち、現在すでに登録証明書の交付を受けているもので、その国籍欄の記載を『韓国』または『大韓民国』と変更することを希望する向に対しては、申請により市区町村をして登録証明書の国籍の記載を訂正させるとともに、今後あらたに発給する登録事務についても、本人の希望があれば『朝鮮』なる用語にかえ『韓国』または『大韓民国』と記載させる方針である。もつとも、右は単なる用語の問題であつて、実質的な国籍の問題や国家の承認の問題とは全然関係なく『朝鮮人』或いは『韓国人』『大韓民国人』のいずれを用いるかによつて、その人の法律上の取扱を異にすることはない」

 と発表した。

 

注(1) 二十一年四月二日SCAPIN・八五二「日本における非日本人の入国および登録」(「文書集」一七)

(2) 内務省調査局「外国人登録令解説」

(3)(5) 二十二年六月二十一日(調査局四発第八八三号)内務省調査局長より知事あて「外国人登録事務取扱要領の送付について」

(4) 『朝鮮新聞』、『国際日々新聞』(東京発行)二十二年七月から八月にかけて連載された朝鮮建国促進青年同盟発表の「外国人登録令について――交渉経過報告」

(5) 二十三年七月九日(民事甲第一二二五号)法務庁法務行政長官、農林省食糧管理局長官より各都道府県知事あて「外国人登録と食糧配給との連結に関する措置について」

(6) ★「新世界新聞」二十五年二月二十七日「駐日代表部二月二十三日発表」

(7) 二十五年一月十一日AGO九一DS「外国人登録において『朝鮮』にかわる名称の使用」

(8) 二十五年一月二十三日外務省FOM第一二二号「右に同じ」

(9) 二十五年二月二十日AGO九一DS「『朝鮮』にかわり『韓国』の名称の使用」

(10) 二十五年二月二十三日(民事甲第五五四号)法務府民事局長より都道府県知事あて「外国人登録に関する件」

外国人登録令全般については、法務省入国管理局『出入国管理統計月報』第八号(二十八年十月)「外国人登録法制定までの経緯と現行法についての若干の考察」参照

 

 

          四、不法入国と退去強制

 二十一年三月十六日、総司令部の引揚に関する基本指令の中で「本国に引き揚げた非日本人は、連合国最高司令官の許可のないかぎり、商業交通の可能となるまで日本に帰還することは許されない」ことが示され(1)、四月二日には「占領軍にぞくさない非日本人が随時日本入国の許可をあたえられることがあるであろう」と指令された(2)。外国人登録令には第三条に規定があり、これに違反したものが不法入国者とみなされる。

 これより前、二月十九日に朝鮮米軍政庁で法令第四十九号「朝鮮に入国または出国移動者の管理および記録に関する件」が出ている。それは七条よりなり、集団帰国者、連合国軍人または随伴者および官庁命で旅行するものをのぞいて、朝鮮から出国するものは、入国地点で外務課官吏に旅券または信任状、入国理由および目的、旅行予定等を通知することをさだめ、これに違反するものは管轄裁判所で処罰すると規定されていた。

 二十一年春から夏にかけて、朝鮮人の不法入国者は圧倒的に多くなつた。そのほとんどはかつての日本在住者で、朝鮮に引き揚げたが生活苦のために日本の生活のよさを回想して逆航するもの、日本のやみに出す物資をつんでくるもの、日本に残した家財をとりにくるもの、日本の学校に入りたいというものなどさまざまであつた。二十一年四月から内務省に不法入国者の統計が集められた。その年十二月まで検挙一万七千余とあるが、実数はそれよりはるかに多かつた。逮捕されたものは、五月以降、仙崎、博多から引揚船にのせて送還していた(3)。

 総司令部が不法入国者の取締に神経質になつたのは、当時朝鮮に蔓延したコレラである(4)。総司令部は、六月十二日の覚書で不法入国船舶の捜索逮捕を講ずること、不法入国船舶は、仙崎、佐世保、舞鶴に廻航して米軍官憲に引き渡すこと、警備に必要な援助は地方軍司令官に要請すれば与えられることなどを指示した。

 七月十五日、次官会議で不法入国者の取締について大蔵・内務・厚生・司法・運輸各省の分担と協力を明らかにした(6)。内務省は強化対策として、九州、中国を主として監視哨を配置し、沿岸巡邏船隊を編成して警戒にあたつた(7)。六月十二日の指令にもとづいて、佐世保引揚援護局(長崎県東彼杵郡江上村針尾)内に収容所が設けられ、その援護業務は援護局が、監視と護送は警察が行うことになつた(8)。

 その頃、不法入国者の取締には、占領軍が積極的にあたつていた。呉の英軍部隊からの二十一年八月十八日の総司令部あて報告には、約五千名の朝鮮人が逮捕送還されたこと、インド海軍のスループ型(単檣帆船)や英空軍部隊も哨戒にあたり、数多くの密輸船が飛行機で発見逮捕されたこと、陸上を警戒するニュージーランド兵により八月七、八日に三百名が逮捕されたこと、また英歩兵師団により四日前から七百名ちかく逮捕されたこと、捕獲船は没収され、首謀者は逮捕されて軍事裁判にかけられたことをのべている(9)。

 十月十四日の次官会議決定で、さらに各省の分担連絡を明確にした(10)。総司令部は、十二月十一日に、朝鮮で船舶航行許可証を発行するのは、朝鮮米軍政庁海上輸送局のみであることを明らかにした(11)。

 二十二年五月公布の外国人登録令により、不法入国者はその適用をうけるべきであつたが、実際は、総司令部覚書にもとづき、現地軍政部の指示により処理されていた。送還者は不法入国者のほかに軍事裁判による追放者、連合軍指令による送還者があり、これらの護送は警察の担当であつた(12)。

 送還されるものが大量の携帯荷物を持ち帰り商売するものが多かつたので総司令部の警告があり、手荷物は一回で携行しうる限りとされた(13)。佐世保引揚援護局では、引揚朝鮮人中、他人名義の帰還証明書を行使し或いは外国人登録証明書を何枚ももつていて、その不正使用により不法出入国をくわだてるものがいるため、出港の際に回収する外国人登録証明書は、法規上登録した各市町村に返還するようになつていたが、法務府の諒解を得て、一時保管し、疑問の点について発行市町村に照会し、その回答をまつてから送還していた(14)。

 二十三年五月一日、海上保安庁が設けられて海上における不法入国者の逮捕を担当し、二十四年五月十九日の次官会議で改めて各省の分担を明らかにした(15)。

 六月二十二日、総司令部の入国管理部設置の覚書により、個人の不法入国予防の責任は、二十四年十一月以降、日本政府に移されることが示された(16)。十一月三日その点を明確にし、従来の不法入国の覚書が廃止された(17)。不法入国者の二十二年における激減は、日本側の取締体制の充実、ことに外国人登録令の公布による。二十五年にさらに減少したのは、朝鮮動乱による海上警戒、登録切替による登録書偽造の防止が原因と考えられる。しかし未検挙のものが相当数あり、二十六年五月に出入国管理庁長官は、その数を五万人前後と推定していた(18)。

 なお、連合軍裁判の結果、朝鮮に強制送還されるものについては、二十二年十二月と二十四年十二月の第八軍の施行命令がある(19)。

 退去強制の実際は総司令部の覚書にもとづき、現地軍当局の命令で行われていたが、二十四年九月に、すべて日本側で処理されることになり(20)、さらに外国人登録令の改正により、退去強制の方法が整備された(21)。二十四年九月から二十五年九月まで退去強制令書の発行数は、不法入国二八一三(このうち登録令第十七条にもとづき都道府県知事による発付数三四五)その他三〇七、計三一二〇である。

 不法入国者で総司令部に嘆願書を提出して在留の許可された場合は、総司令部から直接第八軍針尾分遣隊に通知して処理されていたが、二十五年初から、総司令部から日本政府に通報され、本人の身柄の釈放はすべて日本側で処理されることに変わつた(22)。また嘆願書の処理についても、日本側の協力を求めるところがあつた(23)。

 密貿易については、上述の不法入国とふかい関連があるが、二十年九月二十二日の指令第三号に、輸出入には総司令部の事前承認の必要がのべられ(24)、二十一年一月二十八日、六月四日、具体的に日本政府のとるべき措置が指令ざれ(25)、それについて具体的取締が七月十五日の次官会議で決定された(26)。なお朝鮮側は、二十年十一月二日の軍政庁法令第二十一号で既存の関税法がつづけられ、二十一年一月三日、米軍政庁法令第三十九号で「対外貿易規則」が定められ、軍政庁のみとめない物資の朝鮮へまたは朝鮮外への運輸が禁ぜられ、とくに公認でない私有船舶、航空機その他の運輸機具が本令に反して利用されたときは、官憲が抑留することを定めている827)。一方海岸警備隊の充実、密輸の取締にも力を注いだ。

 その後関係法令の改訂があり、韓国政府樹立後、二十四年一月二十三日法律第六十七号で関税法が公布された。仁川、釜山、木浦、ソウル、群山、麗水、馬山、済州、墨湖に税関が、金浦に出張所があり、その他、大川(群山)、法聖浦、莞島(木浦)、羅老島(麗水)、三千浦、統営、鎮海(馬山)、方魚津、浦項、欝陵島(釜山)、翰林、西帰浦、城山浦(済州)、注文津その他三カ所に監視署がおかれている。韓国側からみると、対日密貿易の増大は、二十五年以後、日韓間の正常貿易がはじまつてからで、全密輸の九五%をしめるに至つた(28)。

 

  注(1) SCAPIN・八二二「引揚」(引揚援護庁「引揚援護の記録」資料)

(2) SCAPIN・八五二「非日本人の入国および登録」(「文書集」一七)

(3) 仙崎引揚援護局「局史」、博多引揚援護局「局史」

(4) コレラは五月末に釜山から入つて、全朝鮮にひろがり、十一月末で南鮮に一万五六一五名の患者がで、一万〇一九一名が死亡した。

『朝鮮における米軍政庁の活動』集録第八号(昭和二十一年五月)および第十四号(昭和二十一年十一月)第四章第一節「公衆衛生と福祉」United State of America Military Goverment Activities in Korea : Summation No.8, No.14,

(5) SCAPIN一〇一五「日本への不法入国の抑制」(「文書集」五三)

(6)(26) (「文書集」五四)

(7) 七月六日(CLO三二九三)終戦連絡中央事務局より総司令部あて「不法入国者の抑圧」

(8) 佐世保引揚援護局「局史」(上)によるに、六月十四日以来密航者が集結し(七四頁)、七月から送還されている(五一頁)。その年十二月十日SCAPIN二三九一で不法入国者を佐世保援護局に輸送し、送還すること、その送還船車に日本警官をのりこますことを指示したが、実際は七月から実施されている。

(9) 二十一年八月十八日米陸軍司令部太平洋広報宣伝局新聞発表「英軍部隊の朝鮮人不法入国者の追跡」

(10) (「文書集」六三)

(11) SCAPIN・一三九三「日本への不法入国の抑制」(「文書集」五六)

(12) 二十二年二月五日(公安一発第三一号)内務省公安第一課長より警視庁警務部長、同刑事部長、府県警察部長あて「解放民族等の強制送還」(「文書集」五七)

(13) 二十二年十二月二十三日SCAPIN・一三九一「日本への不法入国の抑制」(「文書集」六一)

(14) 佐世保引揚援護局「局史」下

(15) (「文書集」六三)

(16) SCAPIN・二〇一九(「文書集」六四)

(17) SCAPIN・二〇五五「日本への不法入国の抑制」(「文書集」七一)

   二十四年十一月七日国家地方警察本部警備課長より警察管区本部長、都道府県方面警察隊長あて「不法入国抑止覚書廃止」無電連絡(「文書集」七二)

(18) 二十六年五月二十六日衆議院行政監察特別委員会における鈴木出入国管理庁長官証言

(19) 二十二年十二月二十九日第八軍作戦指令第七三号「占領軍裁判所の命令による朝鮮人の強制送還」(東京都「法規集」)

   二十四年十二月十六日第八軍作戦指令第六〇号「右に同じ」(最高裁判所事務総局渉外課「出入国関係法令集」)

(20) 二十四年九月八日(検務第二六一七三号)法務府刑政長官より都道府県知事あて「外国人登録令違反者の退去について」

  (最高裁「出入国関係法令集」)、同日(警備発第三七号)国家地方警察本部警備部長より警察管区本部長、都道府県方面隊長、六大都市警察長あて「右に同じ」)(「文書集」六七)

(21) 二十五年一月三十日(検務第二三〇二号)法務府刑政長官より都道府県知事あて「外国人の本邦外退去について」および(検務第二三〇六号)(最高裁「出入国関係法令集」)

(22) 二十五年二月十四日(備発備第一三号)国家地方警察本部警備部長より管区本部長、各都道府県方面警察隊長、六大都市警察隊長あて「不法入国者にしてGHQより入国を許可されたものの取扱について」

   同日、法務府民事局長より都道府県知事あて「不法入国外国人で連合国軍総司令官より日本在住を許可されたものの取扱について」

(23) 二十五年四月四日(検務第八三八一号)刑政長官より検事長、検事正あて「国外退去を強制されて収容中のもののための嘆願書に関する調査要求について」

(24) (「文書集」五〇)

(25) SCAPIN・六六〇「指令第三号の違反」

   SCAPIN・九九六「不法輸出入貿易」(「文書集」五一、五二)

(27) ★朝鮮銀行調査部「朝鮮経済年報」一九四八年版「経済法規」

(28) ★韓国貿易協会「貿易年鑑」一九五一、二年版

 

 

          五、学校問題

 A、朝鮮人学校の開設

 終戦当時、在日朝鮮人の就学児童は、約二十万を数えていた(1)。

 終戦とともに高調する引揚熱と新国家建設への興奮から、おそらく大部分は登学を停止したと推察される。各地の朝鮮人団体は自然発生的に寺小屋式の簡易な朝鮮語講習所を開設していた。二十一年春、在日朝鮮人の帰国熱もさめた頃、朝連はその文化事業として積極的に教育政策をたて、まず各地の自然発生的な国語講習所を整備して、施設のないところには初等学校を設けることを決した。教育内容は、上中下の三級に区別し、国語(朝鮮語)、算数、歴史、理科の初等教育の全般にわたつて授業をする方針をとり、また教科書の統一をはかつて、文化人をあつめて初等教材編纂委員会が朝連内に構成された。教科書は最初は謄写版ででたが、漸次それがオフセツトで刊行されるようになり、二十四年七月までに教科書一三二点、一四五万部を刊行した。二十一年十月現在、学院は五二五、児童は四万二千余と称された。そのうち、学院は六学級の小学校に改編され、大阪、東京に中学校が設けられた。このほかに一ヵカ月乃至四カ月の講習所式の青年学院があり、またマルクス主義の闘士養成の三・一政治学院(東京)、八・一五政治学院(大阪)があり、大阪と東京に初等学校教員養成機関として、師範学校があつた。

 この教育を、朝連では民族教育と呼び「民主主義朝鮮国家の発展と世界平和に貢献する愛国者養成」の目的をかかげ(朝連小学校および中学校規定総則第八条)、

(1) ながい間に日本帝国主義の抑圧によつて生じた朝鮮民族の間にある悪い要素と封建的な立ちおくれを一掃する

(2) 祖国朝鮮の情勢と民主主義的改革について正しい理解をもたせること。

(3) 自覚して規律を守り、個人の利益を人民の利益に従属せしめる民主道徳を培養すること。

(4) 国際的親善、ことに日本の民主主義勢力と提携し、世界平和のために貢献する。

(5) 民族的文化を継承し、発展させる一方、先進国家の文化を積極的にとりいれて習うことによつて、新しい民族として能力を最大限に発揚せしめる。

 ことなどが強調された。右翼の民団および建青傘下に国民学校五十二(生徒六二九七名)、中学校二(生徒二四二名)、訓練所二(生徒二八九名)があつた。ここでは多く南鮮の米軍政庁で発行した教科書をそのまま使用し、学校によつては朝連編纂の教科書を使つていた。

 朝連が指導権をにぎる学校において、左翼のイデオロギーと北鮮絶対支持の教育が行われた。しかし、当事者の懸命の努力にかかわらず、その多くは資金難で、施設が貧弱で理科の実験室やピアノ等もなく、資格ある教員を迎えることが困難であつた。生徒の学力が低下して、日本人側の上級学校への入学がむつかしく、かつ巨額の寄附金を強要するため、父兄の非難も絶えず、朝連としてもあまりに貧弱な学校は整理する方針をとつていた。

 この間朝鮮人教育に対する文部省の見解は、

 「現在日本に在留する朝鮮人は、日本の法令に服しなければならない。従つて、一応朝鮮人の児童についても日本人の児童と同様、就学させる義務があり、かつ実際上も日本人児童と異なつた不利益な取扱をしてはいけない。しかし義務教育を強制することの困難な事情が一方的にあり得るから、実情を考慮して適切に措置されたい」、「朝鮮人がその子弟を教育するため、小学校または上級の学校、もしくは各種学校を新設する場合に、府県は認可して差し支えない」

 といつていた(2)。

 B、教育基本法による転換指示と学校事件

 朝鮮人側の教育、とくに朝連系学校の共産主義教育を最初に問題にしたのは、大阪米軍民政部で、大阪府内の朝鮮人学校を調査し、二十二年十一月に朝連の学校関係者を招いて、教育と政治・文化問題を混同せぬよう忠告した。

 二十三年一月二十四日に文部省は「現在日本に在留する朝鮮人は、二十一年十一月二十日付総司令部発表により日本の法令に服しなければならない。従つて、朝鮮人子弟であつても、学齢に該当するものは、日本人同様、市町村立または私立の小学校または中学校に就学させなければならない。また、私立の小学校または中学校の設置は学校教育法の定めるところによつて都道府県監督庁の認可をうけねばならない。学齢児童または学齢生徒の教育については、各種学校の設置はみとめられない。……朝鮮語等の教育を課外に行うことは差し支えない」ことを明らかにした(3)。

 朝連はこれに対して「朝鮮人教育対策委員会」を結成して「教育用語は朝鮮語とする。教科書は朝鮮人教材編纂委員会で編纂し、総司令部の検閲を得たものを使用する。学校の経営管理は学校管理組合で行う。日本語を正課として採用する」以上四項を主張して、これがいれられれば私立学校の認可をうける用意ありとのべた。

 四月に入つて、各府県は日本の法令による認可手続をとるべきを命じたが、朝連は各地で学校閉鎖反対人民大会をひらいて応じなかつた。四月二十三日、東京米軍民政部はこれに警告を発した(4)。各地の動きの中で、大阪では数千名のデモが府庁内に侵入し、副知事に交渉し、警官と衝突して一名の死亡者を生じ、四月二十四日に、神戸では三千名の朝鮮人が県庁内に侵入し、知事に強要して学校閉鎖命令を撤回せしめる事態をおこし(5)、ついに神戸地区の占領軍司令官は管内に「非常事態宣言」を行つた。非常事態宣言は、連合軍の日本占領後はじめてであつた。この地区の警官は占領軍憲兵司令官の指揮下に入り、二十六日に第八軍司令官アイケルバーカー中将は「軍事委員会または軍事裁判に起訴を指令した」とのべ、二十七日に日本政府も閣議で協議して、「日本に在住する朝鮮人は日本の法令に従う義務を有することを重ねて明らかにする。政府のこの方針は連合国最高司令官の政策に完全に合致するものである」との声明書を発表した。朝連はその後、四月二十四日を「四・二四学校事件記念日」と称し、在日朝鮮人学校の公休日とし、諸種の行事を行つた。

 一方、朝鮮人教育対策委員会は、文部省と三回にわたつて折衝した結果、五月五日に「一、朝鮮人の教育に関しては、教育基本法および学校教育法に従うこと。一、朝鮮人学校問題については私立学校として自主性が認められる範囲内において、朝鮮人独自の教育をおこなうことを前提として、私立学校としての認可を申請すること」の覚書を森戸文部大臣と朝鮮人教育対策委員会責任者との間に、朝連の文教部長を立会人としてかわした。

 五月六日に文部省は各都道府県にこの覚書とともに通牒を送り、

 (一) 覚書中「私立学校として、自主性を認められる範囲内」とはつぎの二つを意味する。

イ 朝鮮人自身で私立の小学校、中学校を設置し、義務教育としての最少限度の要件を満し、その上は法令に許された範囲内において、選択教科、自由研究および課外の時間に朝鮮語で、朝鮮語、朝鮮の歴史、文学、文化等朝鮮人独自の教育を行うことができる。ただし、この場合、教科書については、連合国軍総司令部民間情報教育部の認可を受けたものを用いる。

ロ 義務教育をうけさせる傍ら、放課後または休日等に、朝鮮語等の教育を行うことを目的として設置された各種学校に在学させて、朝鮮人独自の教育を受けさせることも差し支えない。

(二) 既設朝鮮人学校については、認可申請があつた場合には、設置基準に合致しているかどうかを直ちに審査の上、すみやかに認可し、授業の再開について、できるだけ便宜をあたえること。

 その他の四項を伝えた(6)。その時、衆議院文部委員会に、朝鮮人学校教育費の国庫負担の請願が提出され、五月二十五日の本会議で採択され、政府に送付されたが、文部省は「日本人の一般私立学校に補助金が交付されていない現在、朝鮮人私立学校に対してだけ補助金を交付することはできない」という見解をもつことを示した(7)。

 C、朝連経営学校の閉鎖、接収および改組

 文部省と朝連の間に先述の覚書が交換されたが、なかなか朝鮮人側は約束を守らなかつた。二十四年九月八日に朝連が解散となつて後、十月十二日閣議で「朝鮮人学校の処置方針」について「一、朝鮮人子弟の義務教育はこれを公立学校において行うことを原則とすること 二、義務教育以外の教育を行う朝鮮人学校については、厳重に日本の教育法令その他の法令に従わせ、無認可学校はこれを認めないこと 三、朝鮮人の設置する学校の経営等は自らの負担によつて行わるべきであり、国または地方公共団体の援助は、一の原則から当然その必要がないこと」と決定した。文部省は十月十三日、この方針に則した措置要綱を通達するにあたつて、とくに教育面において朝連との一切の関係を絶つこと、旧朝連の本部・支部等が設置していた学校については、設置者が喪失し、当然に廃校となつたものとして処置すること、廃校または経営困難な学校在学の児童・生徒をできるだけ公立学校に収容することなどを指示した。

 十月十九日、九十二校(小学校八十六、中学校四、特殊学校二)に閉鎖接収命令がで、二四五校(小学校二二三、中学校十六、特殊学校六)に改組通告がでた。朝鮮人学校側は、接収に対して「個人経営または個人所有である」「朝連系の学校でない」「責任者が不在である」「学校でなく私塾である」「一方的通告は不当である」などを理由に、拒否の態度にで、婦女子を中心に、執拗に係官に喰い下る遷延策がとられたところが多かつたが、大体接収は完了した。改組通告二四五校中、改組手続の申請をしたものは一二八校(小学校一一八、中学校七、各種学校三)あり、審査の結果、十一月四日認可されたものは、大阪市内における小学校一、中学校一、各種学校一であり、その後認可のものを加えて、二十七年四月現在五校のみである。

 二十四年十一月一日、文部事務次官は、

「一、公立小学校において、朝鮮語、朝鮮歴史は正規の授業時間外とすべきこと。中学校では外国語として教えることができる。

一、公立学校に収容した生徒・児童のために、余暇に朝鮮語、朝鮮歴史を教え、私立の各種学校を別に認可をうけて、設けることは差し支えない。

一、教員の資格ある朝鮮人は、文部省として、公立学校の校長、分校主事以外の教諭、助教諭、講師に採用することは差し支えないと考える。

一、収容すべき朝鮮人児童・生徒は、一般の学級に編入することは適当であるが、学力補充その他やむを得ない事情のある時は、当分の間特別の学級または分校を設けることも差し支えない」

とのべた(8)。しかし東京都の教育委員会では、都立朝鮮人学校設置に関する規則を設けて、「朝鮮人子弟は、原則として自己の居住地を通学区域とする公立学校に分散入学せしめるのであるが、暫定措置として、従来から存する各朝鮮人学校の児童生徒は、その学校へ昭和二十四年十一月二日現在の状況をもつて、都立学校として運営する各学校に入学せしめる」こととし、朝鮮語、朝鮮地理、朝鮮歴史等を課外教授とし、課外教授以外の場合の教育用語は日本語とする等の学校取扱要綱を定めて、朝鮮人小学校十二校(別に分校一校)、中学校一校、高等学校一校が設置された(9)。このほか、神奈川、兵庫、愛知では公立学校の分校として残存した。

 日本人学校に朝鮮人児童が入学したことで混乱をおこしたところもあり、二十四年十一月二十五日、文部省は、「公立学校に収容した児童・生徒が授業妨害その他の行動にでて日本人児童・生徒の学習を妨げる場合には、体罰にならない限度で懲戒を行うべきである。また他の児童・生徒の教育上悪影響をおよぼす場合は出席停止を命ずることもできる」

 とのべている(10)。十一月三日、韓国駐日代表部鄭大使は「朝鮮人学校に関す

る根本的解決策として、総司令部に「朝鮮人連盟財産全部の返還、教員は韓国支持者で補充、駐日代表部責任下に民団で監督経営し、日本文部省の方針をまもり、韓国歴史、韓国語を教授科目とする件について交渉中である」と本国に報告している(11)。

 

注(1) 十九年末内務省警保局統計によれば、二〇万一一九〇名

(2) 二十二年四月十二日「雑学第一二三号)文部省学校教育局長より東海北陸地方行政事務局長官あて「朝鮮人児童の就学義務に関する件」(「文書集」七四)

(3) (官学第五号)文部省学校教育局長より文部省大阪出張所長、都道府県知事あて「朝鮮人設立学校の取扱について」(「文書集」七五)

(4) (「文書集」七六)

(5) 公安調査庁、公安調査資料「内乱、騒擾等の暴動事件集録」

(6) (発学第二〇〇号)文部省学校教育局長より都道府県知事あて「朝鮮人学校に関する問題について」(「文書集」七七)

(7) 二十四年六月二十九日(地管第二五号)文部省管理局長より都道府県知事、教育委員会教育長あて「朝鮮人教育費の日本政府負担について」(「文書集」七八)

(8) (文初庶第一六六号)都道府県知事、教育委員会あて「公立学校における朝鮮語等の取扱について」

(9) 東京都教育委員会規則第十三号(二十四年十二月二十日)

(10) (文初庶第一五三号)文部省初等中等教育局長、管理局長より和歌山県教育委員会教育長あて「朝鮮人児童・生徒の公立学校受入について」

(11) ★「新世界新聞」二十四年十一月六日

本稿中特記のほかは左の論稿および当時の新聞記事による。

一、『日本管理法令研究』第二三号(二十三年十月)横田喜三郎「朝鮮人学校の問題」

一、『警察公論』第六巻第六号、山口広司「在日朝鮮人の学校教育問題」

一、★朝鮮文芸社「在日朝鮮人文化年鑑」

一、在日本朝鮮人学校PTA全国連合会、東京都立朝鮮人学校教職員組合「教育の自由を守るために」―在日朝鮮人青少年教育問題について―(二十七年六月)

一、平和と教育社『平和と教育』二十七年第二号、李珍珪「在日朝鮮人の教育」

 

 

          六、治安と組織の推移

 治安問題や在日朝鮮人組織の推移については、本稿の範囲外としているが、占領下においては、余りに大きな問題であつただけに、その動きを大観しておこう。

 これは四期に分けてみうる(1)。

 第一期 終戦後の混乱(終戦から二十一年一月まで)

 敗戦による国内民心の不安動揺期に、戦時下の緊張の反動と「解放民族」の誇りに、徴用動員労務者の集団的要求、闇市場を背景とした主食その他経済的犯罪など日本人に対する各種の犯罪が頻発した。総司令部も、最初は朝鮮人に対してきわめて同情的であり(2)、政府当局も今までのごとく日本人なみに取り締るべきかどうかについて不明確であるだけに、その対策をたてえなかつた。警官への暴行、警察署襲撃事件なども各所にみられた。

 在日本朝鮮人連盟は、二十年十月十五日に結成された。それは最初は、全在日朝鮮民族の組織を企図したが、その結成前に刑務所をでてきた日本共産党系の朝鮮人がヘゲモニーをとつて、かつての対日協力者一掃に力をそそぎ、左翼の発言が圧倒的となつた。各地で、朝鮮人は朝連の組織の下に要求貫徹に動くことが多かつた。朝連に対抗する組織として、二十年十一月十六日に、朝鮮建国促進青年同盟が生れ、また二十一年二月十五日に朴烈氏を委員長として新朝鮮建設同盟が生れた(後者は十月に在日本朝鮮居留民団に改組、二十三年九月に在日本大韓民国居留民団と改称)。

 第二期 治安力の恢復と朝連の全盛(二十一年二月から二十四年九月まで)

 二十一年二月十九日総司令部は、連合国国民に、日本裁判の刑事裁判権の行使を禁じたが(3)、朝鮮人にはさきにのべたごとく、帰国の意思表示をしたものにだけ、特別の措置をみとめた。四月には、朝鮮人の鉄道列車利用の不法行為の取締について、日本政府の責任であること(4)、朝鮮人の暴行に対して、日本政府がそれを取り締る完全な権限をもつことを明らかにし(5)、テロ行動の多い朝連自治隊の解散を指示し、朝連の引揚関与を禁じ、九月に朝連発行の鉄道無賃乗車証の効力を否認し、既発行分は、発見次第破棄を指令、十一月二十日の総司令部発表では、朝鮮人に治外法権のないことを明らかにした。二十一年七月、大村内務大臣は、国会で治安維持に厳正な取締を加える方針を明らかにした(6)。

 二十三年九月に朝鮮民主主義人民共和国が成立したが、その年十月に、北鮮旗または北鮮旗をしめすビラの掲示使用が禁止された(7)。

 朝連は、全国的組織をもち(二十二年一月に支部数六二一、分会数一七一〇、班組織二四三〇)、在日本朝鮮民主青年同盟、在日本朝鮮民主女性同盟、在日朝鮮学生同盟その他を傘下におき、子弟を教育する学校を指導し、また生活協同組合や各種別組合により、資材獲得、金融、税金闘争に動き、資金網はこれらにより確立されていた。しかし、日本共産党と直結し、北鮮絶対支持派に動かされるところ、たえず非合法な組織行動をとり、首相官邸デモ事件(二十一年十二月二十日)、大阪事件(二十三年四月二十三日)、神戸事件(同二十四日)等の治安上大事件を起し、また一方右翼の民団との抗争もはげしく、ついに二十四年九月八日に団体等規正令により、朝連、民青は解散の指定をうけ、その幹部の追放、財産等の接収命令が発せられた(この際、民団の宮城県本部、建青の塩釜支部も解散の指定をうけた)。当時朝連の構成員は、当局に三十六万余と推定されていた(8)。

 政府の取締も積極的になり、終戦後からの朝鮮人起訴率の上昇もまた検察態度の厳格化を物語るといえよう(9)。

 第三期 朝連解散以後動乱勃発まで(二十四年十月から二十五年五月まで)

 朝連解散後、組織はそのまま解放救援会、女性同盟、学生同盟らにひきつがれ、一方民団側は、駐日代表部を背景として勢力の伸長をはかつたが、旧朝連の左翼勢力にはおよばなかつた。

 第四期 朝鮮動乱勃発以後対日平和条約発効まで(二十五年六月から二十七年四月まで)

 動乱の勃発、とくに当初北鮮から日本内の在日朝鮮人への働きかけに関連して、総司令部の北鮮系に対する警戒はつよくなつた。在日朝鮮人の左右の対立も相貌をかえた。朝鮮建国促進青年同盟の主流は、大韓青年団に解消し、民団とともに、自願兵(義勇軍)募集、恤兵金の募集を行つたが、左派は、事変勃発直後、地下組織の反帝、反米闘争の行動隊として、祖国防衛委員会を結成し(二十五年七月指導部結成、八月に規約綱領決定)、大衆組織として在日朝鮮人民主民族戦線(二十五年七月準備会、二十六年一月結成大会)を結成して、旧朝連系団体の再統合を計り、活溌な体制をとつた(10)。

 

  注(1) 『警察時報』二十七年四月号、増田正度「在日朝鮮人問題について」

(2) ワグナー『在日朝鮮少数民族』第四章「戦後日本における朝鮮人」

(3) SCAPIN・七五六「刑事裁判管轄」(「文書集」二四)

(4) 二十一年四月四日SCAPIN・九一二―A「鉄道利用の台湾人および朝鮮人の取締」(「文書集」三三)

(5) 二十一年四月三十日SCAPIN・一一一一―A「朝鮮人の不法行為」(「文書集」三四)

(6) 二十一年七月二十四日衆議院本会議における答弁(「文書集」三五)

(7) 二十一二年十月八日国警本部長官より管区本部長、警察隊長あて「北鮮旗の掲揚禁止」(「文書集」一〇七)

二十三年十月十四日総司令部渉外局発表(「文書集」一〇八)

(8) 『日本週報』二十四年十月十五日号殖田俊吉「朝連の解散をめぐつて―差別的弾圧にあらず」

(9) 『警察学論集』第七輯(二十四年七月)植松正「戦後における朝鮮人の犯罪」

(10) 『警察時報』二十七年八月号吉橋敏雄「最近のわが国における朝鮮人団体の動向について」

篠崎平治「在日朝鮮人運動」(令文社、三十年三月)

 

           付、朝連接収財産の処分

 朝連の解散にともない、接収された財産(建物、土地、備品、什器、自動車、預貯金、電話等)については、昭和二十三年政令第二三八号(解散団体の財産管理および処分等に関する政令)(1)により、その接収および管理は、法務府民事局長が行い、処分は解散団体財産売却理事会により行われた。

 その国庫帰属財産の接収については、警察権の行使される場合も多かつたが、二十七年には数件をのこしてほとんど終了した。なお土地建物が不法占拠されて売却処分のできぬもの、売却されたが強制的に占拠されているもの、一部のみ支払われ売却代金のとりたてに行きなやんでいる例もある。二十七年七月破壊活動防止法の施行により、解散団体財産売却理事会令は廃止となつたが、従前の例により、この事務は法務省に移管された。

 解散団体財産収入金特別会計は、二十八年三月三十一日法律第二十八号「解散団体財産収入金特別会計法を廃止する法律」により、四月一日から一般会計に帰属することになつた。

 朝連財産の売却収入金の使途については、二十四年十一月十日、閣議諒解事項として、朝鮮人の福利厚生にあてることを定めたが、二十六年一月四日、大橋法務総裁談として、左のごとく発表された。

 「朝連財産の売却収入金の利用について

 一昨年九月解散した朝連の財産は、逐次売却を実施してきたが、昨年の実績によれば、その債務を弁済して、なお相当の残金がある見込をうるに至つた。

 政府は、かねてこの収入金の使途について具体策を研究中であつたが、今回在日朝鮮人子弟の教育と、在日朝鮮人の福利厚生のために使用することを定め、とりあえず善良な在日朝鮮人の福利厚生のため、相当な額を支出することを決定し、早急に実行に移すことにした。」

 朝連は、法人格がなく、朝連財産の登記は個人名でなされておるため、その接収を不当とし、或いはまた「ポツダム政令によつて強奪されたわれらの財産は同政令の失効によりわれらに帰せ」という主張があり、また二十七年九月に、朝連財産回収委員会が結成されている(2)。なお、訴訟も二十九年十一月現在、山口二件、静岡、東京各一件がある。

 韓国側は「朝連の財産は、帰国朝鮮人の財産を保管したもので、朝連のものでなく、正当な所有者に返還または韓国人の福利につかいたいので、韓国に帰すべきだ」という主張をくりかえしていた(3)。

  

注(1) 法務府民事局、解散団体財産売却理事会「解散団体財産管理等法令集」所収、法務府民事局長通達「解散団体在日本朝鮮人連盟および在日本民主青年同盟の財産接収および処理について」

(2) ★「解放新聞」二十七年十月四日

(3) ★「新世界新聞」二十四年十一月六日(十一月二日韓国駐日代表部が総司令部に交渉)

★「新世界新聞」二十五年六月十五日(六月五日大韓民国駐日代表部よりマッカーサー元帥あて書翰)

★「世界新報」二十六年二月六日(在日居留民団よりダレス特使あて陳情書)

 

 

          七、韓国代表部の設置

 二十年九月米軍の京城進駐により、米軍政庁が京城に設立され、その年十月に日本占領軍当局の要請もあり、連絡部が東京に設けられた。これは、朝鮮米軍政庁在日本総公館といい、在日朝鮮人の引揚についての連絡指導を目的とし、アメリカ人および朝鮮人職員が勤務していた。二十一年二月に仙崎と博多にも連絡部が設けられた。朝鮮人の引揚の世話のほかに、朝鮮人団体(右翼)との会合、朝鮮人の差別待遇の調査と是正、戦前の日本人傭主に対する未払給料の請求、受刑者の仮出所、引揚の手続なども行つた。仙崎の事務所は、二十一年夏に仙崎が引揚港としての使用終了とともに閉鎖し、十一月に大阪公館が開設され、二十二年四月には、博多事務所が大阪に吸収された(1)。

 さきに引揚の節でのべたが、二十二年末以後、在日朝鮮人の帰国希望者は、東京の米軍政庁総公館、または大阪公館を通じて申請することになつていた。

 二十三年八月に大韓民国の成立以後、朝鮮米軍政庁在日本総公館は「米軍民事処東京公館」と改称していたが、二十四年一月二十九日「韓国駐日代表部が正式に設置され、初代鄭翰景博士が公使の資格で就任」と発表された(二十四年三月鄭桓範大使、二十五年一月申興雨大使、五月金竜周公使、二十六年六月申性模大使、二十六年十一月金溶植公使交替着任)。

 これは諸外国の駐日代表と同様に、総司令部に対して派遣されたもので、日本政府はこれと直接交渉をすることを禁ぜられていた(2)。

 在日朝鮮人の引揚申請は、韓国代表部を通じて行われた。二十四年二月十七日、韓国政府は外務部令第二号「海外旅券規則」を公布し、これにより韓国代表部も旅券を発行することになつた(3)。

 韓国代表部は、在日朝鮮人の国籍問題について、とくに熱心であつた。そのうち、

(イ) 総司令部に在日朝鮮人の法的地位の是正につき要請したこと。

(ロ) 国民登録を実施したこと。

(ハ) 日本政府の外国人登録の国籍欄の記載が「朝鮮」のみであつたのを、「韓国」または「大韓民国」とするよう抗議した。

ことは特記されよう。

(イ) 二十四年十月七日、韓国駐日代表部は、総司令部に在日朝鮮人の法的地位について要請し、その中で、

「韓国民は、併合条約をみとめておらず、三十五年間日本の占領下にあつた。これは韓国政府の主権の行使が一時停止されていたことを意味する。在日韓国人は一九四八年八月十五日、大韓民国政府樹立とともに、自動的に本来の国籍を取得したのである。在日韓国人が刑事裁判の再審をうけうる権利があるとしたことは、総司令部が在日韓国人を非日本人と認定しようとする努力である。韓国は、国連での承認をうけたので、在日韓国人に連合国人の地位を付与するのが妥当である」

 と要請した(4)。これに対してシーボルト外交局長は、この問題は、平和会議の開催時まで決定されないという見解を表明した。二十五年一月十二日の鄭駐日大使の声明には、「この修正はたびたび要請され、問題は検討中であると回答があつただけ」という(5)。

(ロ) 二十四年八月一日、韓国外務部令第四号として「在外国民登録令」が公布された。これは、外国に寄留する国民の身分を明確にし、その保護を適切に行うために、その登録を実施することを目的とし(第一条)、その滞留地に到着したのち十五日以内に所轄の公館に登録を申請せねばならぬ(第三条)、この登録を拒否または怠り、虚偽の登録をしたものには、滞留証明その他一切の証明を拒否できる(第九条)、本令施行前外国に寄留する国民は、本令施行より一カ月以内に登録申請をしなければならない(附則)と規定された。

 韓国代表部は、これを十一月一日から実施することとし、この事務を居留民団に委嘱した(6)。当時、鄭大使は「登録を拒否するものは国籍を喪失し、無国籍者は、海外渡航はもちろん、あらゆる外交的保護を与えられないことになつている」とのべていた(7)。

 同年十一月二十四日に、この在外国民登録令は廃止され、かわつて、法律第七十号「在外国民登録法」が公布された(8)。これは外国で一定の場所に住所または居住をさだめたもの、外国で一定の場所に二十日以上滞留するものは、登録を要するとし(第三条)、本籍、住所、居所または滞留場所、姓名、性別、生年月日、職業と職業的技能、前居住の場所、兵役関係、本人が家族の場合は戸主の姓名と戸主との関係等が登録を要する事項とされた(第四条)。該当者で登録申告をしないものに対しては、公館の長は、期間を定めその申告を促すことができ、その督促にもかかわらず申告しないものには、国民としての保護を停止することができると規定していた(第八条)。二十五年二月十一日、大統領令第二七九号で在外国民登録法施行令がでた(9)。在日朝鮮人はこれにより登録を進めた。その登録者は二十八年二月末現在一四万〇七一〇名と報告されている(10)。

 しかしながら、この韓国民登録は在日朝鮮人が日本国籍をもつという法的地位にかかわるものではなかつた。

 これについて総司令部は、二十五年六月二十七日の覚書の中で、

 「韓国代表部で登録されているものは、韓国政府によつて、韓国人であるとみなしうるが、総司令部および日本政府に関する限り、登録された朝鮮人が事実上登録されていないものと相違した地位にあると考慮すべきなんらの理由はない」 とのべている(11)。

 第三項の日本政府の外国人登録における国籍欄の記載変更要望については、八三頁でのべた。

 韓国代表部は、二十四年十一月、在日朝鮮人学校閉鎖の際に、総司令部に交渉して、代表部の責任下にそれらの学校の譲渡をうけようとし(12)、また二十五年六月には朝連からの全接収財産を代表部に譲渡するよう交渉したが(13)、いずれも成功しなかつた。二十五年動乱勃発直後に自願軍募集に努力し(一三六頁)、二十六年一月には、日本政府側の前年十二月の声明に呼応して、在日朝鮮人中、悪質分子の本国への強制送還について声明した(14)(一八四頁)。

 

注(1) ワグナー『在日朝鮮少数民族』第五章「米軍政下における朝鮮の役割」の「軍政庁のその他の活動」、第六章「一九四八年以後の在日朝鮮人」の「大韓民国の態度」

(2) 総司令部渉外局発表「駐日韓国連絡代表団の設置」(「文書集」六)

(3) ★朝鮮銀行「朝鮮経済年鑑」(一九四九年版)記録文献篇

(4) ★「新世界新聞」二十四年十月十一日

これと同様な見解は、つぎのものにもみられる。

在日朝鮮居留民団中央総本部外務部長金正柱『在留同胞の当面問題』第一冊「法的地位について」(二十四年四月)

『自由朝鮮』二十四年八、九月号全平「韓日合併と韓国人の国籍上の地位」

二十六年二月三日、韓国居留民団中央総本部よりダレス特使に提出された「要請書」(★「世界新報」二十六年二月六日)

(5) 「二ッポン・タイムス」二十五年一月十三日(INS)

(6) 「民主新聞」二十四年十月八日

(7) 「KIP」二十四年十一月十五日

(8)(9) ★大韓法政協会「現行法令総集」第一輯―第六輯(二十七年一月)

(10) ★大韓年鑑社『大韓年鑑』一九五五年版所載の「在日僑胞国民登録実施者数」

(11) 前掲「昭和二十四年政令第五十一号における外国人の明確化」

(12) ★「新世界新聞」二十四年十一月六日

(13)   〃     二十五年六月十六日

(14) ★「世界新報」 二十六年一月十八日

 

 

 

        Ⅲ 平和条約発効と法的地位

 

          一、国籍

 在日朝鮮人の国籍について、対日平和条約にはこれにふれる条文がなかつた。これに関して政府は、

 「第二条(a)の規定によつて、朝鮮の独立を承認する。従つて在日朝鮮人は朝鮮人国籍を回復する」

 と解し(1)、平和条約発効の二十七年四月二十八日以後、朝鮮人は日本国籍を喪失することを明らかにした。

 その日本国籍喪失の根拠としては、「国連の援助の下に成立した大韓民国の制定した国籍法の趣旨を尊重し」ており、また「平和条約の前文ならびに第五条の趣旨から、韓国を外交交渉の相手とするが、実情においては、韓国は朝鮮の半分を支配しているにすぎないので、韓国籍取得の強要はしない」と説明している(2)。

 韓国側は、日韓会談では在日朝鮮人は大韓民国人という主張であつたが、会談中絶後未確定を固執している(二三三頁)。左派の主張は、「終戦の日以後、在日朝鮮人は外国人であり朝鮮国籍を保持する」とし(3)、さらに世界人権宣言の精神を根拠に、国籍撰択の自由を強調している(4)(外国人登録の国籍欄の「朝鮮」、「韓国」が国籍を意味するものでないことについては後述する)。

 北鮮は、最近「在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国公民としての正当な権利をもつている」ことを主張している(5)。

 なお当局では、平和条約発効後、国籍を喪失する朝鮮人の範囲を「朝鮮戸籍令の適用をうけるもの」とすることについて、その理由を左のごとく説明している。

 「平和条約は、朝鮮国の国籍を取得すべきものの範囲については、明文の規定を設けていない。しかし、朝鮮の独立承認の趣旨からして、平和条約が、一定の範囲のものが朝鮮国の国民となるべきことを予定していることは当然であり、しかもこの点に関して、右条約の加盟国を拘束する別段のとりきめないし国際司法裁判所の判決等による有権的解釈もなく、さらに日本国と独立朝鮮との間に、これに関する条約等も締結されていないのであるから、日本国としては、独自に右平和条約の合理的解釈を明らかにせざるを得ない」(6)。

 憲法第十条は「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」と規定しており、また国際慣行上、自国民の範囲の決定はその国に委されている(一九三〇年ヘーグで署名され、一九三七年七月より効力を発生した「国籍法のてい触についてのある種の問題に関する条約」第一、二条)(7)。

 「右平和条約第二条a項は、日韓併合により消滅した朝鮮民族国家を再現させるために、日本は朝鮮地域と朝鮮人に対する統治権を抛棄し、朝鮮に主権、領土および国民を回復させる意味をもつたものである。併合の際……日韓両国間には別に国籍に関するとりきめをなすことなく、韓国民は国内に居住すると外国に居住するとにかかわりなく、併合条約発効とともに日本国籍を取得したものである。……領土変更に伴う国籍の変動は、単に同地域の住民を基準とせらるべきでなく『併合時において韓国籍を有したものおよび併合なかりせば当然韓国籍を得たであろうもの』を朝鮮国を形成する国民として、これに朝鮮の国籍を回復せしめる意味合において変動あらしめるのが当然である。それは、朝鮮の戸籍に登載されたものと合致すると考えられる。この解釈は、南朝鮮過渡政府の法律第十一号、大韓民国国籍法の規定上も矛盾なく、かつ朝鮮国側で、終戦以来今日に至るまでとつてきた措置や態度とも合致する」(8)。

 「昭和二十二年外国人登録令施行の際、朝鮮人の範囲は『日本に戸籍を有しないもので、朝鮮戸籍令の適用を受くべきもの』が該当するとて、同令の実施がされ、この登録令が廃止され、平和条約の効力発生とともに施行された外国人登録法が、わざわざ外国人登録令第十一条のごとき規定を設けなかつた国の立法意思は、従来外国人登録令の適用を受くべきもの』が該当するとて、同令の実施がされ、この登録令が廃止され、平和条約の効力発生とともに施行された外国人登録法が、わざわざ外国人登録令第十一条のごとき規定を設けなかつた国の立法意思は、従来外国人登録令の適用をうけた朝鮮人は、平和条約の効力発生とともに、当然外国人となることを明らかにしたものである」、「従つて、平和条約の効力発効にともない日本国籍を喪失する朝鮮人の範囲に関する国家意思は、戸籍の本籍主義にある」(9)。

 

注(1) 二十六年十月二十日衆議院特別委員会における西村条約局長答弁(外務省条約局「日本国との平和条約および安全保障条約国会審議要旨」二十六年十二月)

(2) 二十七年六月、入国管理庁「日本国との平和条約の規定にもとづき、同条約の最初の効力発生の日に、日本の国籍を離脱する者の国籍の取扱について」

二十七年三月二十六日衆議院外務・法務委員会における石原外務政務次官答弁

(3) 「民主朝鮮」二十三年八月号尾形昭二「朝鮮人の地位について」

★『解放新聞』二十三年一月十五日朝鮮人連盟中央総本部一月十三日発表「在留同胞市民権問題について」

『朝鮮評論』二十七年第三号尾形昭二「対日講和発効と在日朝鮮人」、平野義太郎「国際法上からみた朝鮮人強制追放」。

平野義太郎『アジアの民族解放』第三章「在日朝鮮人に関する民族問題」(二十九年七月・理論社)

(4) 二十七年三月二十九日衆議院外務委員会における「外国人登録法」および出入国管理令の一部改正等を内容とする法律第一二六号の論議の際、改進党をのぞく野党各派の修正動議の中に、「国籍撰択自由に関する世界人権宣言の精神に従う」一項があげられている。

(5) 二十九年八月三十日南日外相日本政府への抗議声明(「朝鮮通信」同年九月一日)

(6)(8) 東京地方裁判所、昭和二十七年(行)第一七五号、原告神田満さこ、被告国、昭和二十八年三月二十日付被告指定代理人玉重一之、入江博房の東京地方裁判所民事第一部あて準備書面(および第二準備書面、第三準備書面)

(7)(9) 法務省民事局池川第五課長「平和条約の効力の発生によつて日本国籍を喪失した朝鮮人について」(二十九年八月)

 

           付、日鮮結婚者の国籍

 日鮮結婚者の国籍について、平和条約発効後外国人となるものの基準を「朝鮮の戸籍に登載されたもの」におくことにしている。すなわち、

 「朝鮮人の妻となつた内地人女子は、共通法により婚姻によつて内地の戸籍から除籍されて内地人たる身分を失い、朝鮮人たる身分を取得するものとされ、一般の朝鮮人と全く同一の地位が与えられ、外国人登録令でも同様の規制をうけた。現行国籍法は、夫婦国籍独立主義を採用しているが、同法の規定は、平和条約発効前になされた日本内地人女子と朝鮮人男子との婚姻により生じた身分関係の変動には、なんらの影響をおよぼすものではないので、この内地人女子についても、血統上、本来の朝鮮人と同様に、平和条約の発効にともない、日本の国籍を喪失するものと解すべきものである」(1)。「もと朝鮮人であつたものでも、条約発効前に内地人との婚姻縁組等の身分行為により内地の戸籍に入籍すべき事由の生じたものは内地人であつて、条約発効後もなんらの手続なくひきつづき日本の国籍を保有する。もと内地人であつたものでも、条約発効前に、朝鮮人との婚姻、養子縁組等の身分行為により内地の戸籍から除籍せらるべき事由の生じたものは朝鮮人であつて、条約発効とともに日本の国籍を喪失する。条約発効後は、縁組、婚姻、離縁、離婚等の身分行為によつてただちに内地人が朝鮮戸籍に入り、または朝鮮人が右の届出によつてただちに内地の戸籍に入ることができた従前の取扱はみとめられない。平和条約発効後、朝鮮人の日本国籍取得には、一般の外国人と同様、もつぱら国籍法の規定による帰化の手続によるを要する」(2)ことを明らかにしている。

 これにより、「戦前に朝鮮人と結婚して、内地の戸籍から除籍され、平和条約発効後帰国し、離婚した日本人女子は、日本国籍喪失者」とされているが、この国の取扱を不当として、東京地方裁判所に提訴された昭和二十七年(行)第一七五号国籍存在確認事件における二十九年二月二十七日の判決は、国の主張が原則を固執しているとし、「この女子は、夫婦の実質が失なわれて、日本に別れて住んでいるので朝鮮の住民ではなく、夫は日本国籍を失つたが、妻の国籍については、国籍法が適用さるべきである。夫婦同一国籍を有すべき国際法上の原則はなく、その逆が国際私法上の傾向である」と論じ、「日本国籍を有することを確認する」という判決であつた。これは目下繋属中である。

 

注(1) 前節、注(6)の東京地方裁判所民事部第一部あて準備書面

(2) 二十六年四月十九日(法務府民事甲第四三八号)法務府民事局長より法務局長、地方法務局長あて通達

 

 

          二、帰化

 平和条約発効後、朝鮮人は外国人となつたため、日本国籍取得には、国籍法にもとづく帰化の手続を要した。法務省民事局では、帰化手続申請書の様式を規定し、これに添付すべき書類を例示し、右書類を添えて申請者の住所地を管轄する法務局または地方法務局をへて届け出せしめることとした。

 その申請にあたつては、(1)申請書、(2)写真、(3)理由書、(4)履歴書、(5)住所証明書、(6)本国法で能力を有する証明書(日本国民の妻。子。日本国籍を失つたものの場合は不要)、(7)国籍証明書、(8)帰化によつて現国籍を失うべきことの証明書、(9)日本の戸籍謄本(申請者の配偶者または父母が日本国民であり、またはあつたとき)、(10)独立の生計を営むに足りる資産または技能があることの証明書、(11)宣誓書、(12)外国人登録済証明書等を要する、とされているが、在日朝鮮人の場合、(6)は不要、(7)は戸籍謄本または大韓民国国民登録証等でかえることを得、(8)については大韓民国国籍法第十二条第四号に「自己の志望によつて外国の国籍を取得したもの」は、大韓民国国籍を喪失することになつているので、韓国政府の証明書は不必要である(1)。

 法務局では、この書類受理後、国籍法第四条第三号「素行が善良であること」、第六号の不法行為、不法団体加人などについて、警察その他治安関係機関に照会し、その他の帰化条件について調査を行つてから、許可することになつている。

 朝鮮人の帰化状況は二十八年六月末まで、申請二一七一件中許可六五〇件、不許可四○五件、調査中一一一六件と報告され、二十九年一月までには、千五百名ちかく許可され(2)、三十年三月まで許可者は約四千名ちかいようである。

 帰化したものは、現在までのところ、日鮮結婚者およびその子がきわめて多い。今後帰化手続の認識されるにつれて、また民族感情の推移とともにさらに多くなる可能性が予見される。

 朝鮮人側では、「帰化希望者四万五千」といい(3)、或いは「六十万中三分の一は帰化を希望しよう」という見方がある(4)。また「日本帰化を考えるのは民族意識の強い朝鮮人にとつて最大の侮辱である」(5)、「日本が在日朝鮮人を自己国民に包摂せんとする巧妙な政策」という論もあり(6)、「帰化希望者は、客観情勢によつて支配されていて、民族としての責任を回避しようとするものだから、日本国民としての責任の完遂はできぬ」といつている説もある(7)。駐日代表部は、在日朝鮮人には帰化を前提とする国籍証明の発給を停止しているという(8)。

 

注(1) 前掲二十七年四月十九日(法務府民事甲第四三八号)法務府民事局長より法務局長、地方法務局長あて

二十七年四月二十六日(法務府民事甲第五八一号)および十月二十九日民事局長より法務局長、地方法務局長あて「帰化の手続について」

(2) 『親和』第四号「朝鮮人と帰化の問題」――池川法務省民事局第五課長にきく――

(3) ★李大偉「在日韓僑の実態とその対策」(二十七年九月・在日韓国基督教青年会)

(4) ★「世界新報」二十七年七月三十日社説

(5) 『改造』二十七年五月号林光澈「強制送還なら真つ平だ!」

(6) ★『連合新聞』二十七年十一月六日社説「日本帰化は過犯」

(7)(8) ★『新世界新聞』二十九年二月十九日宋基復「帰化問題と愛族精神」(「親和」第五号に訳文掲載)

 

 

         三、公務員の場合

 平和条約発効の際、朝鮮人公務員は別表のごとくいたが、これらは日本国籍を喪失するので、ひきつづきその地位保有ができるかどうかについては「公務員に関する当然の法理として公権力の行使、または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには、日本国籍が必要、それ以外の公務員となるためには、日本国籍を必要としない」と解せられ(1)、また地方公務員になるには「原則として差し支えない」が、「任命権者はそのものが自国の法令の定めによりその任用によつてその国籍を喪失することとなるかどうかを自らの責任において明らかにするよう、あらかじめ文書でそのものに注意することが必要」としている(2)。

 法務府としては、平和条約発効前に、現に国家公務員または地方公務員たる朝鮮人で、日本国への帰化を希望し発効後ひきつづきその地位に留まらせることを相当とするものには、便宜上発効前に帰化申請をさせ、発効の日付をもつて許可する手続をとらしめた(3)。この手続により、発効当日に日本国籍取得者が五十二名いた(4)。

 今日人事院の行う国家公務員(六級職)、警察官、海上保安庁職員等の採用試験の公告において「日本の国籍を有しないもの」は受験できないとしている。

 また恩給をうけていたものの権利は、恩給法第九条第一項第三号の規定により、平和条約発効日より消滅した(5)。

 

注(1) 二十八年三月二十五日(法制局一発第二九号)法制局第一部長より内閣総理大臣官房総務課長あて「公務員たる朝鮮人、台湾人の帰化の手続について」

(2) 二十七年七月三日(地自公発第二三四号)自治庁行政部公務員課長より京都府知事公室長あて回答「職員任用上の疑義について」

二十七年十月二十八日(自公行第八三号)自治庁行政部公務員課長より福島県総務部長あて回答「地方公務員法に関する疑義について」

(3) 二十七年三月六日(内閣甲第四四号)内閣官房副長官より法務総裁官房長あて「公務員たる朝鮮人および台湾人の帰化の手続について」

同三月十二日(法務府民事甲第二七〇号)法務府民事局長より法務局長、地方法務局長あて「右に同じ」

同三月十五日(法務府民事甲第二七五号)法務総裁官房長より内閣官房副長官あて「右に同じ」

(4) 二十七年四月二十八日官報号外「日本国に帰化の件許可」

(5) 二十七年七月五日(恩審受第二七四号)総理府恩給局長より福岡県知事あて回答「恩給法裁定上の疑義について」

二十八年十一月七日衆議院内閣委員会における三橋恩給局長、田辺引揚援護庁次長説明

 

 

          四、戦犯の問題

 朝鮮人戦犯の大部分は、戦時中に東南アジアにおけるふ虜監視員であつた。

 大東亜戦争勃発後、十七年五月十五日、ふ虜情報局で「ふ虜の取締警戒のための特殊部隊編成等に関する」案が発表され、朝鮮、台湾、タイ、マレー、ジャワ、フィリピン、ボルネオ等にふ虜収容所新設の決定をみ、その取締警戒のために、朝鮮人、台湾人による特殊部隊が編成されることになつた。

 十七年五月、朝鮮軍司令部ではその目的のために志願により朝鮮人を傭人の資格で採用し、南方に派遣される三千名を六月十五日に釜山に集結せしめ、二カ月の軍隊訓練をし、ジャワに一四〇〇名、タイ、マレーに各々八〇四名を送つた(それぞれ九月に現地に着いている)。かれらは日本軍の将校、下士官の指揮下に、ジャワでは「勤務隊」、夕イでは「特殊部隊」、マレーでは「特殊警備隊」と称して任務に服した(京城ふ虜収容所にも監視員八十余名が配置された)。ふ虜は、泰緬鉄道敷設やパレンバンの飛行場建設、基地設定、鉄路補修、農牧作業等に使役された(1)。終戦ののちにふ虜虐待の罪名が朝鮮人監視員に待つていたのである。

 戦犯裁判では、解放民族としての特殊性はみとめられず、日本人と差別なく行われた。その裁判は、アメリカ関係は、横浜(一名)、マニラ(二名)、イギリス関係はシンガポール、オランダ関係はバタビヤ(四十五名)、メダン(二十三名)、オーストラリア関係は香港で行われた。このうち、アメリカ関係をのぞけば、ほとんどふ虜虐待の罪名であつた。朝鮮人戦犯の最高位者は、十九年三月から十二月までマニラふ虜収容所長であつた洪思翔中将であり「ふ虜収容所中における死亡および虐待の看過黙認の責任訴追」の罪名で起訴され、マニラ裁判の結果、二十一年九月二十六日絞首刑が執行された。

 これらの戦犯者一三二名は死刑者十五名をのぞいて二十二名が現地で刑をすまし(或いは仮釈放で)日本に送還された。その他、処刑中のものは、横浜(一名)は二十一年五月、マニラ(一名)は二十二年二月、バタビヤ(六十二名)は二十五年一月、シンガポール(三十一名)は二十六年八月に、巣鴨刑務所に送られた。

 その後、満期出所および仮釈放により、平和条約発効当時巣鴨刑務所に収容されていたものは二十九名であつた。

 以上のほかに、中国関係の戦犯で憲兵隊勤務二名、特警司令部勤務二名、警察官一名、軍属四名、民間八四名、不明一名いる。これらは、北京(六名)、漢口、南京、上海(各二名)済南、徐州(各一名)に収容されていたが、死刑七名以外は台湾に移され、二十五年十二月に韓国に送還され、日本には送られなかつた(2)。

 二十七年六月に当時巣鴨刑務所にいた朝鮮人戦犯洪起聖ほか二十八名が、台湾人戦犯一名とともに、弁護士二名を代理人として東京地方裁判所に「平和条約発効と同時に日本国籍を喪失したから、平和条約第十一条にいう『日本国民』に該当せず、拘束をうくべき法律上の根拠はない」との主張をのべた人身保護法による釈放請求事件は、最高裁判所に送致された。その年七月三十日の最高裁の判決では「戦犯者として刑が科せられた当時日本国民であり、かつ、その後ひきつづき平和条約発効の直前まで日本国民として拘禁されていたものに対しては、日本国は平和条約第十一条により刑の執行の義務をおい、平和条約発効後における国籍の喪失、または変更は、右義務に影響をおよぼさない」という理由で、その請求は棄却となつた(3)。平和条約発効後は、「平和条約第十一条による刑の執行および赦免等に関する法律」の実施により刑の執行がつづけられ、仮出所七名、満期出所二名あり三十年一月現在二十名である。仮釈放は、日本側から資格あるものについて仮釈放の勧告をし、相手国の決定があればできる。

 巣鴨にいる朝鮮人戦犯は北鮮出身の二名をのぞいて他は南鮮出身であるが、その北鮮の二名も家族は動乱により南鮮に移つているという。大体中産階級以下であり、ことに動乱により本国の家庭は経済的に恵まれぬ事情にある。

 その援護については、日本人に比してとかく不遇な状態におかれるので、南方抑留時から本人らの要望もあり、二十五年四月、外務省、引揚援護庁、厚生省で「巣鴨出所韓国人の取扱についてその本国送還に関し保護便宜をあたえる件」を決定し、外地から釈放され日本に帰還する朝鮮人戦犯にも、その措置をとることを決した。

 当時、満期出所者は、原則的に本国に引き揚げせしめていた。二十五年十一月九日、総司令部から「自発的引揚は本人の責任」と指令され、その送還について日本政府の世話を解除したが(4)、日本政府は二十六年七月五日「外地より日本に引き揚げてくる非日本人および外地より還送せられた戦争犯罪人であつて、内地において釈放せられた非日本人の取扱要領」を定め、帰国希望者には、従来どおり援護を行い、帰国船運賃を支給し、日本に定着したいものには満期仮出所とともに日本人引揚者と同様の取扱をして、定着希望地に送出することなど定めた(5)。

 二十七年八月一日に、これら戦犯の拘禁をとかれたものは「引揚者に準ずる」ものとして、その在留および外国人登録については、「終戦前からひきつづき本邦に在留するもの」として取り扱われることになつた(6)。

 満期釈放の場合は巣鴨刑務所より、仮釈放の場合は中央更生保護審査会より、それぞれ入国管理局に連絡あり、入国管理局から該当都道府県に通知し、釈放者は出所の日から十四日以内に登録証明書の申請をするように定められている(7)。

 釈放者で日本に身寄りのないものには、財団法人青風会がその生活援護を行つている。

 家族が韓国にいる朝鮮人戦犯は、左の場合に一般日本人戦犯と差別ある取扱がなされている。

(イ) 韓国にいる家族に重病人や不幸のあつたとき、一時出所の規定の適用ができない。

(ロ) 仮釈放のものは刑期満了まで、韓国の家族のいるところに一時旅行や帰国ができない(8)。

(ハ) 刑の執行中のものには、韓国にいる留守家族に対して、未帰還者留守家族等援護法が適用されない(9)。

 二十九年七月五日、半期六千円の見舞金が支出され(10)、二十九年末の出所者には財団法人戦争受刑者世話会から一人に二万円が支給された。

 日本国会では、この朝鮮人戦犯の処遇についてたえず問題とし(11)、二十八年七月十九日に丸山鶴吉氏ほか十五名により「韓国人戦犯者並びに遺家族援護に関する請願」が衆議院に提出された(12)。

 韓国でも戦犯をたびたび問題視して、その釈放や韓国移管を議し、関係各国と外交的交渉をしていると伝えられる(13)。朝鮮人戦犯は、即時釈放、拘禁によりうけた損失の国家補償、留守家族援護法の適用、恩給法の適用、家郷までの一時出所、遺族への見舞金、年金の支給、出所後一定期間の生活保障、厚生資金の貸与などについて陳情している(14)。

  

注(1) ふ虜情報局月報、収容所月報による。

(2)(5) 厚生省引揚援護局法務調査室資料による。

(3) 人身保護法による釈放請求事件(二十七年( )第七九号同年七月三十日大法廷判決)(「最高裁判所判例集」第六巻第七号)

(4) SCAPIN・一二三〇「非日本人の引揚」

(10) 厚生省引揚援護局編『続・引揚援護の記録』第六章「戦争裁判受刑者の援護」

(6) 二十七年八月一日「引揚者等の取扱に関する法務省入国管理局と引揚援護局との業務協定」

二十八年一月十九日(管資第一二号)入国管理局長より法務省矯正局長あて「戦犯外国人の永住希望者取扱について」

(7) 二十九年九月十五日(管登合第六三四号)「戦犯外国人の取扱に関する件」

(8) 仮釈放のものの保護監督は、保護司により行われるが、その指導監督には犯罪渚予防更生法の規定が準用されているため、韓国への一時旅行や帰国は保護監督ができない理由で許可されない。

(9) 二十八年八月までは、特別未帰還者給与法が施行されたが、日本にいない家族は援護されない。それ以後施行の未帰還者留守家族等援護法にあつて、日本の国籍を有しないものは、除外されたけれども、実績保障の観点から、日本に留守家族を有するものには、従前の例によつて適用されることとなつた。しかし日本に留守家族を有しない朝鮮人は、援護されない。

(11) 二十八年二月十四日衆議院外務委員会、同七月九日厚生委員会

(12) 「同和」二十八年八月号

(13) 「KP」二十七年八月四日

★「国際新報」二十七年十二月三日

「東亜新聞」二十九年三月七日

「KP」二十九年十二月二十八日

(14) 『同和』三十年五月一日「韓国出身戦犯者の請願」

 

 

          五、出入国管理令の改正と外国人登録法の公布

 出入国管理令は、ポツダム政令として二十六年十月四日政令第三一九号として制定され、十一月一日より施行されたが、二十七年四月二十八日、法律第一二六号により、法律としての効力を有するものとなつた。

 これは、外国人登録法とともに、平和条約発効後の在日朝鮮人管理の基本法規である。その制定の経緯や内容は略し(1)、ここには、その制定に際して、在日朝鮮人と直接関連あることについてのみ述べる。

 出入国管理令は、はじめ二十六年八月二十八日の閣議決定をへて、十月一日から施行することになつていた。その原案には、附則として、

「日本人で戸籍法(昭和二十二年法律第二二四号)の適用をうけないものは、当分の間、この政令の適用については外国人とみなす」

「前項に規定するもので、この政令施行の際、現に本邦に在留するもののうち、外国人登録令に規定する外国人登録証明書を所持しているが、旅券を所持しないものに対しては、当分の間、この政令中、在留資格及び在留期間に関する規定は適用しない」

 という項があつた。すなわち、外国人登録と同様に、在日朝鮮人(および台湾人)は、まだ外国人とはなつていないが、この政令の適用をうける部分を明らかにし、とくに悪質者の強制退去をし得るようにし、これにともなつて外国人登録令も改正して公布することになつていた。これに対し、総司令部から「二十年九月二日以前からの在留朝鮮人、台湾人を外国人とみなすことは不当」であるから修正するようにとの指示があり、やむなく政令の公布を延期して、当局は総司令部と折衝をかさねた。もしも、総司令部の主張のごとく戦前から在留する五十万以上の在日朝鮮人が日本人とすれば、(イ)治安上、国外退去強制をすることが不可能であること、(ロ)現行の外国人登録令が在日朝鮮人を外国人とみなして違反者の強制退去を承認しているにもかかわらず、また政令改正の途中でなんら問題とせず、いま突如修正を要求してくることは矛盾であると指摘して説得につとめた。その結果、総司令部は「九月二日以前からの在留朝鮮人中、現行登録令違反者を外国人とみなして、国外に退去強制することは、既成事実であるからやむなく承認するが、その他を外国人とみなすことは承認できない。ことに新管理令では、破壊分子、刑法犯罪者、貧困者、精神病者等をも国外に退去強制しうることになつており、退去強制の範囲が現行法より広くなつているから総司令部従来の方針をかえることはできない、ただし、平和条約批准後、日本政府が在日朝鮮人の身分をその欲するように変更することは、もちろん日本政府の自由であり、総司令部として関与する限りでない」との見解を示した。この両者は、英米法による属地主義と属人主義の対立であり、すなわち平和条約発効後も、朝鮮人を日本人とする考えと外国人とする考えの対立であつた。

 その後、折衝をかさねた結果、総司令部の諒解を得て、十月二日閣議で最終的決定をみた出入国管理令では、本来の外国人にのみ適用し、朝鮮人、台湾人には、当分の間、現状通り現行外国人登録令によつて出入国および登録が行われ、その中で、外国人登録手続は現状のままとし、「退去強制手続」その他について、管理令のその部分を準用し得ることのみが改正された。

 かくして、朝鮮人は出入国管理令の適用から除外することが明らかにされたのであるが(2)、左翼朝鮮人側では九月下旬の民戦全国大会で、強制送還反対闘争実行委員会を結成し、十一月上旬には、朝鮮人強制追放反対闘争全国委員会を結成し、ときたまたま開催中の日韓会談と結びつけて、二十七年三月に「出入国管理令反対」「韓国籍強要反対」の陳情運動を国会、政府、その他都道府県市区町村へ展開した(3)。その反対理由には、これが国会で審議されず政令で施行されたこと、二十年九月二日以前の永住者と一時渡航者と区別しないこと、第二十四条に被生活保護者を強制退去しうるとなつていること、国連の世界人権宣言第二条の民族差別および第十四条の避難権の規定に反すること、通報者に報償金を与えることはスパイ奨励であること、国交が正常でない時に、政治的協議により国籍を認定して行う強制退去は、国連の世界人権宣言第十五条違反であることなどをあげ、韓国におくられて朝鮮戦争に使われることを宣伝し(4)、また左派系列の学者・評論家らを網羅して声明書を出し、特定の国権の強要と不法入国者でないものの追放の不当を論じた(5)。

 一方、居留民団では、永住権付与と既得権認定を主張し、強制送還の決定については、日韓双方合議により実施すべきであるとのべ、従つて日韓会談に重点をおく方針をとつていた(6)。

 二十七年四月、国会における法律第一二六号の審議にあたつては、とくに第二十四条の適用や二十年九月二日以前からの在留者の資格について論議が集中された。政府としては、くりかえしくりかえし「終戦前から本邦に在留する人人に対しては、特殊の事情を考慮してひきつづき居住をみとめる方針であり、送還にはとくに悪質のものは別として、これが適用には、人道的立場から慎重を期する」(7)と説明している。

 外国人登録令は、一般外国人の登録手続に関する規定と朝鮮人および台湾人の出入国に関する規定が設けられていたが(平和条約発効後は、朝鮮人および台湾人は出入国管理令の適用をみるにいたつたので、外国人登録令を廃止し、同令中外国人の登録に関する部分を法律化し、あわせて従来の不備を補つた「外国人登録法」が二十七年四月二十八日に法律第一二五号として公布された。

 登録法制定までの経緯とその内容についてはここに略する(8)。

 

注(1) 『法務研究』第四二集第二号(二十九年五月)香山直之「外国人の出入国管理に関する各国の法制について」および入国管理局警友会『想苑』二十七年六、七、八、九、十二月号 川上巌「出入国管理制度の変遷」

(2) 二十六年十月五日(管二二合第八六二号)「出入国管理令公布に関する件」

同十月二十九日(管二二合第九二七号)

同十月三十日外務省情報部長談

(3) ★「世界新報」二十七年三月十一日

(4) これらのことは、各都道府県、また市区町の在日朝鮮人強制追放反対委員会の陳情書には一致して記されていた。   

(5) 二十六年十月二十三日悪法反対懇談会の朝鮮人強制送還問題に関する声明書

(6) 「民主新聞」二十六年十月八日

(7) 二十七年三月二十日より三月二十九日までの衆議院外務委員会および四月二十五日より二十八日までの参議院外務委員会における岡崎外務大臣、鈴木入国管理庁長官答弁

(8) 『出入国管理統計月報』第八号(二十八年十月)「外国人登録法制定までの経緯と現行法についての若干の考察」、第十二号(二十九年三月)「外国人登録制度の概要」

 

 

 

       Ⅳ 平和条約発効後の出入国管理と外国人登録

 

         一、正規の手続による一般人の出入国  

 1、出入国

 朝鮮人の日本への正規出入国は、二十九年度についてみると、日本における外国人総出入国者数に比し出国は七%、入国は六%をしめ、アメリカ、中国、イギリス人についで第四位である。

 現在韓国には日本政府の在外公館が設置されていないので、日本入国希望者は、駐日韓国代表部を通じて日本政府に仮入国許可を申請する。

 朝鮮人の出入国を出発および目的地別にみると、韓国、アメリカ、香港、中国の順であり、各港別にみると、航空路を利用する羽田がもつとも多く、岩国これにつぎ、また船では神戸港がもつとも多い。これは、羽田からはノース・ウエストおよびC・A・T、岩国からはK・N・A(大韓国民航空社)の定期航空があり、神戸からは大韓海運公社の定期航路が週二回(門司にも寄港)でていることによる。

 これを在留資格別にみると、戦前からの在留者がもつとも多く、これについで、法務大臣のとくに在留をみとめたもの、商用入国者、通過客の順となつている。

 

 2、帰国

 二十五年六月、日本政府の手による正式引揚が動乱により挫折し、その年十一月九日総司令部覚書により、その後の引揚は本人の負担となつた。朝鮮休戦以後も、本国に引き揚げようとするものはきわめてすくなく、二十七年四月二十八日以後、二十九年七月二十日までの正式帰国者は一〇六七名である。

 帰国希望者で生活困窮者には、好意的に集団送還船に便乗せしめていたが(1)、二十七年二月、韓国代表部と折衝の結果、代表部側の責任において日韓定期船に乗船帰国せしめることに諒解をとつていた(2)。二十九年六月、居留民団愛媛県本部団長より、愛媛県居住在日朝鮮人十世帯五十三名が本国へ帰国の予定であり、現在一人あたり下関から釜山まで船賃八四〇〇円(岩国から釜山まで航空費一万二五〇〇円)かかるので、一人一万円ずつ補助してほしいと陳情があつたが、七月の市議会で不採択になつた(3)。この種の陳情は他の地でもみられた。

 帰国にあたつては、帰国証明書発給申請書三通、写真三枚、居留地の民団本部発行の国民登録完了証、身元証明書、身元申告書、履歴書、帰国理由書、帰国後住所および身元保証人申告書、各二通、健康診断書一通を韓国代表部に提出する。手数料は一通、満十五才以上に対し、米貨一ドル該当額が徴収されている(4)。

 この申請により韓国代表部から身分趾明書が発給される。日本政府としては、それを出入国管理令第二条第五号に規定する「旅券にかわる証明書」とみとめている(5)。

 帰国者の持ち帰り荷物は、輸出貿易管理令別表第三に規定する制限に従い、携帯品、職業用具、引越荷物について、それぞれ定義されている品々を持ち帰ることができる。またこの外に、同令第一条第一項第三号の規定による無為替輸出の承認を活用できる。

 

注(1) 二十六年十二月三日(実一合第一〇五八号)「送還を希望する朝鮮人の取扱に関する件」

二十六年十二月二十六日(実一第一一二号)「送還船便乗者願出に関する件」

(2) 二十七年二月二十九日(実一合第二〇八号)「送還を希望する朝鮮人の取扱に関する件」

(3) 二十九年八月三日(松第四五一三号)松山市長より高松入国管理事務所長あて「韓国人帰国者の旅費補助に関する照会」

(4) 「民主新聞」二十八年十二月二十一日

(5) 『入国管理月報』第十四号(二十九年九月)「在日韓国人の帰国に際し所持する身分証明書について」

 

  3、再入国

  再入国許可制度は、出入国管理令第二十六条の規定にもとづいて在留期間中に日本に再入国する意図をもつて出国するもので、その再入国を許可する範囲は、法務大臣の裁量に委任されている。在日朝鮮人中、戦前からひきつづいて在留するものは未だ在留資格をもつていないが、再入国許可をとるものが多かつた。

 これらのものの日本よりの出国にあたつて、韓国代表部の旅券事務手続の不公平なこと、またそれを利用するやみ商人の往来が在日朝鮮人側で非難され(1)(はなはだしきは月に数回、週に二回往来する例もあり(2))、その密貿易について日本国会で問題になつたこともあつた(3)。

 入国管理局は、二十九年十月一日から「再入国の申請は、一定の在留資格および在留期間の付与を前提とするものであり、法律第一二六号第二条第六項に該当する外国人(昭和二十年九月二日以前からひきつづき在留するもの)に対するこれが適用の当否については、かねて研究中であるが、日韓関係における最近の情勢にかんがみ、さしあたり右該当外国人中韓国人の再入国申請に関しては、特別の基準を設ける」ことを明らかにした(4)。この理由には、密貿易、治安を考慮したこと、また日本人は韓国に出入国をみとめられないのに、朝鮮人のみ出入国を自由にみとめることは、国際常識上へんぱであることがあげられている(5)。

 在日朝鮮人側は、これに対し、その影響はきわめて大きく占領時代からの既得権剥奪の重大間題といい、早急に在留資格の規制の必要を望む声が高い(6)。また本国と疎通がむつかしくなり、帰化希望者が多くなるだろうという声や、やみ商人がなくなるからよいという声もきかれ(7)、政治的外交手段で解決すべしとも論ぜられている(8)。

 

注(1) 「民主新聞」二十八年五月十五日第十六回居留民団全国大会

★『新世界新聞』二十八年十二月四日元天聖「旅券とやみ商人――僑胞の不満と疑惑を一掃せよ」

(2)(5) 二十九年十一月十三日衆議院法務委員会「外国人の出入国に関する小委員会」における内田入国管理局長説明

(3) 二十八年十二月十五日衆議院外務委員会

(4) 二十九年九月三十日(管資合第六七四号)「法律第百二十六号第二条第六項該当韓国人の再入国申請受理方針に関する件」

(6) 「産業貿易新聞」二十九年十一月五日

★「新世界新聞」二十九年十一月十五日

(7) ★「新世界新聞」二十九年九月十二日

(8) ★「新世界新聞」二十九年十二月十日

 

 

          二、その他特殊者の出入国

 1、韓国軍人

 韓国軍人の出入国は、日米行政協定による免除特権はうけられず出入国管理令適用が原則である。二十八年七月、事前に極東軍を通じ入国依頼状を入国管理局に提出しその許可をうけることにさだめられ、軍用船、軍用機による出入国の場合は、その報告は極東軍司令部を通じて行うことになつていた(1)。

 軍艦の乗組員の上陸には、横須賀では二十八年十月以後、佐世保では同年十二月以後、寄港地上陸許可書が発給された。

 二十八年八月に、韓国軍艦が岩国港に入港し、乗員が上陸して、飲食や買物をしたが、上陸に関するなんらの有効な証明書を携帯していなかつたので、岩国港入国管理事務所出張所では、極東海軍に今後の善処を要望した。また飛行場に韓国軍の戦闘機や輸送機が着陸していて問題視され(2)、佐世保港では、二十九年二月から三十年一月六日まで、韓国軍人の不法上陸は四件九名(少尉一名、兵曹長七名、三等下士官一名)あり、ほとんどが関税法違反で処分をうけており、いずれも、退去強制令書が交付されて復艦している。

 また二十八年九月、横須賀入港中の軍艦から脱走した二等兵曹は、十二月に無賃乗車で名古屋鉄道公安室で逮捕され、退去強制令書で送還され、二十八年十一、十二月に横須賀に停泊した韓国軍艦の乗組員で、寄港地上陸許可の発給をうけて上陸したもののうち四名が、その後帰艦せず、艦長から横須賀市警に逮捕方の依頼があつた。

 

注(1) 二十八年七月三十日(管入第一〇四号)、二十八年十月二十六日(管入合第六六八号)「韓国軍人の短期入国許可に関する件」

(2) 「毎日新聞」二十八年十月十八日

 

 2、米軍雇傭者

 日本駐留米軍の「軍属」は、日米行政協定第一条により、合衆国々籍を有するもの(米国籍と他の国籍との二重国籍を有するものもふくまれる)に限られる。ただし、議事録により「高度の熟練技術者」は、米国人でなくとも、日米合同委員会の承認を得て、軍属になることができる)。現在米軍に雇傭されている朝鮮人は、日米行政協定にもとづく軍属ではないので、出入国管理令および外国人登録法の適用をうけることになつている(1)。

 米軍に雇傭されている朝鮮人は、三十年三月末現在、極東陸軍司令部心理作戦課二十九名、GⅡ六名、極東空軍一名の計三十六名がいた(以前の被雇傭者で解雇されたものは、原則的に残留はみとめられなかつた)。かれらは、ほとんど、朝鮮動乱勃発以後、平和条約発効までに朝鮮または日本内で雇傭されたもので、正規の軍属とはいえないが、通称D A C (Department of Army Civilian)とよばれる。

 かれらは、入国に際して旅券はもつているが、数名をのぞいて登録をおこなわず、また在留資格を取得していないため、そのひきつづいて日本に在留することについて問題となり、極東軍より合同委員会に折衝の行われた結果、二十九年十二月、個々に手続規定の違反として審査をうけることになり、入国管理局としては、事情を斟酌して、法務省令でとくに定める資格で一年の在留期間をあたえている。

 

注(1) 二十七年十一月十八日(管登合第三〇六号)「登録事務運営上の日米行政協定にいう『軍属』の解釈について」

 

 3、韓国自願軍

 二十五年六月、朝鮮動乱の起つた直後、在日朝鮮人の韓国支持者間に参戦志願者が続出し、八月五日、居留民団内に在日韓僑自願軍本部が設けられ、応募が全国的に進められた。八月末に、総司令部は仁川上陸作戦の特殊任務に従事せしめるため、九月五日までに、参戦志願者七五〇名を、指定した米軍部隊に入隊せしめるよう要請し、韓国代表部は居留民団あてに「義勇軍として参加希望者は、米第八軍で一括し、応募者に便宜を供与する」要旨の通達があつた。この志願者は、八十余名を第一次として、その後数次にわたつて、朝霞の米軍キヤンプに入隊した。米軍ではこれを Korean volunteers from Japan とよんだ。その後、総司令部から当分中止せよの指令があつて、十月に中止したが、総数は六百数十名である(1)。

 この自願軍中、第一、二、三、四部隊は、仁川上陸作戦に参加して北上し、第五部隊以下は、韓国軍に編入され、国境附近まで北進したのち後退した。また一部は、智異山地区のゲリラ討伐にも参加した(2)。

 二十五年十二月十八日に一六五名、二十六年九月十二日に負傷兵四十七名、十月一日に負傷兵五十六名が日本に帰還した。また不法入国で日本に帰り、司令部へ嘆願して許可されたものもいた(3)。その後、この帰還者中から七十余名が再び本国に赴いた(4)。二十七年九月現在、自願軍戦歿者は三十六名と報告されている(5)。

 当時、出入国管理は、連合国最高司令官により行われていたことと、この自願軍の出動は軍機にぞくすることがら、司令部や韓国代表部からは、なんら日本側に説明連絡はなかつた。また連合国最高司令官の権限にもとづいて行われたことなので、日本側としては、出国にあつて外国人登録証明書の自発的に返還されたものをのぞいて、別段の措置をとることを差し控えていた(6)。

 二十六年夏の帰還の際には、釜山滞留者の名薄が総司令部から伝達され、それについて日本政府が調査し、その結果にもとづいて総司令部が入国を許可し、「正規の入国者として取り扱うよう」指令があつた(7)。その後、帰還者の中で、外国人登録証明書を、戦乱中紛失したことを理由に再交付を願い出るものが多く、入国管理庁として従軍者リストを精査の上、再交付していた(8)。

 この帰還者の大多数は、連合国最高司令官の発給した証明書により日本に入国し、外国人登録証明書の交付をうけているものであるが、その後、資格取得の手続をせぬもの多く、その日本滞在には、法規上の手続を必要としている。

 二十八年八月に、金居留民団長からアメリカ大使館への陳情文には、未帰還者九十三名が再入国を希望しているとある。二十九年三月、ソウルにある在日本韓僑学徒自願軍駐韓本部の名で、帰還促進依頼の陳情がもたらされた(9)。

 自願軍の傷痍除隊者三八〇名が渡日手続の完了まで、ソウル、水原、光州および慶南の静養院(傷痍軍人収容保護所)の分院に収容されておるといわれ(10)、このうちソウル静養院第三分所に八十九名が収容されていると伝えられる(11)。

 

注(1)(4) ★「世界新報」二十六年四月十五日自願軍問題についての金公使談話

この総数は、総司令部作成のリストでは七二五名である。

(2) 在日韓僑在郷軍人会機関紙『戦友』二十八年九月二十日「自願軍戦歴表」および同紙連載孔泰溶「戦火とともに」

(3) 二十六年六月に六名いる。

(5) 「東亜新聞」二十七年十月一日

(6) 二十五年十月二十一日(管二二合第二二号)「韓国人義勇兵の外国人登録証明書の取扱に関する件」

(7) 二十六年八月一日(管一一合第六八三号)「韓国人の釜山滞留志願兵の取扱に関する件」

(8) 二十五年十月三十一日(管二二合第一〇号)「韓国人義勇兵の登録書の取扱について」、入管資料によると、二十六年三月から二十七年六月まで、四十名の再交付が判明している。

(9) 「民主新聞」二十九年四月十一日

(10) ★大韓年鑑社「大韓年鑑」一九五五年版 社会・傷痍軍人静養院

(11) 「韓陽新聞」三十年一月十五日

 

 

 4、韓国籍日本人婦女子

 終戦前後日本内地で朝鮮人と結婚した日本人女性は、終戦後同伴されて朝鮮におもむくものが多かつた。その出国にあたつて、朝鮮人同伴で外国人登録証明書をもつたもの、日本の市区町村で受理された結婚届の証明をもつたものはその出国をみとめられた。

 しかし、朝鮮のなれぬ土地、環境、大家族制度や対日感情のきびしさにたえられぬものが多く、終戦後合法または非合法に離婚して帰るものがつづいた。南鮮からの日本人の引揚は、大体二十一年三月末に終了したが、その後若干つづいて二十二年一四二五名、二十三年一一五〇名、二十四年一〇四一名をかぞえているが(1)、そのほとんどは、日鮮結婚にやぶれて帰る日本人婦女子であつた。

 帰国する在韓日本人婦女子は、警察または居住地の行政官庁に日本人たる証明書(戸籍謄本または居住地警察発行の証明書、二十三年末以後、外国人登録証、写真等)を提出し、これにより外務処(のちに外務部)から撤退証明書を得た。釜山に南下すれば、韓国政府所管の日本人収容所(最初埠頭にあり、のち釜山の小林寺)に入ることができ、日本から帰国する朝鮮人送還船の帰航の際にのせられた。佐世保引揚援護局では一旦収容したのち、国籍上の疑のあるものに対しては、本籍地に照会を行つてから引揚証明書をあたえた(2)。

 二十二年十一月の総司令部の覚書では、これらの取扱に関し、「日本人男子と婚姻をなし、夫とともに入国する外国人女子を従前どおり日本人として登録することをみとめる」「日本人女子と婚姻をした朝鮮人男子および他の外国人男子はかかる婚姻の故に日本へ入国をみとめられることはない」と指示していた(3)。引揚援護局は、当時、人道的解釈から、日本人婦女子は韓国籍にあるものでも、その入国をみとめていた。

 動乱の勃発は、在韓日本人婦女子を更に逆境においた。戦禍を逃れて釜山に南下したものは、窮乏生活になやみ、父母のいる日本に渡航をあせつた。帰国の機会をねらつていた女性も、この際に夫と別れて釜山にきた。国連軍の北上したとき、北鮮から南下した日本人婦女子もいた(4)。これらの日本人のために、釜山では小林寺の収容所のほかに、難民収容所に特別のテントがあたえられた。

 すでに在日朝鮮人の引揚の停止とともに、これら日本人をはこぶ引揚船はなかつたが、日本から来航する米軍徴用船の日本帰航の際に、従来の引揚船と同様にのせられた。それは正規の入国許可書をもたず、予告なく送還された。しかもそのうち、韓国籍のものの上陸が容易に許可されぬことがあり(5)、日本政府は、元日本人およびその同伴する子の一括入国について総司令部と折衝した結果(6)、在韓日本人は、日本の留守家族に連絡して、本人の記載ある戸籍謄本、身元引受証を入手して、写真をそえて釜山の韓国外務部へ「撤退申請」をする。日本外務省は、総司令部を通じて、そのリストを入手して、本籍地の確認、身元引受人の有無等を調査し、それによつて総司令部が入国を許可することとなつた。帰国船運賃は従来通り全額韓国政府の負担である。

 平和条約発効後は、外務省から直接その調査結果を駐日韓国代表部を通じて韓国政府に通報することになつたが、二十七年九月、政府は「通報名簿記載の日本人、元日本人ならびにこれらの同伴する子については、日本帰国または入国を承認し、かつ上陸港における帰国者の確認手続および入国者審査のため、左記の書類を携行する必要がある」ことを韓国代表部に通報した。

(イ) 日本戸籍を保有しているものは戸籍謄本

(ロ) 結婚、養子縁組によつて日本の戸籍から除籍されているものは、韓国官憲の発給する「韓国人たる証明書」

(ハ) 右両者の帯同する子は、韓国官憲の発給する「韓国人たる証明書」

 これにより韓国籍のものは、韓国官憲の発給した「韓国人たる証明書」を条件として入国をみとめられることになつた(7)。

 二十六年五月二十九日第一次の帰還以来、二十九年末まで、五十四回にわたる入国帰国者は一六九五名であり、その送還には韓国の定期航路船が使われ、門司に十四回、神戸に十回、大阪に三十回上陸している。漸次帰還者数は減少しており、韓国社会の復興安定とともにますます少なくなることが推察される。

 この間、正規の手続をせず許可なくして入国してきたものが、一四六名あつた。また他人名義の戸籍謄本を入手して不法入国するケースもあつた。

 入国を許可された韓国籍のものには、法務省令でとくに定める資格で三年の在留期間があたえられている(8)。

 

注(1) 厚生省引揚援護局統計による。当時釜山にあつて米軍政下に日本人引揚業務に携わつた釜山日本人世話会は前掲第四九表の統計を報じている。

(2) 佐世保引揚援護局「局史」上

(3) 二十二年十一月十九日SCAPIN・一八二二「日本人と内縁関係にある朝鮮人および他の外国人の日本入国」(文書集二〇)

(4) それらのうち、帰国したもの十一世帯四十三名が判明している。

(5) 二十五年十一月三日に佐世保に入港した興安丸には、五十二名の日本人がいたが、かれらは、米第二航海司令の許可書だけで乗船しており、その中の韓国籍十四名は、総司令部に嘆願書を提出し、宣誓書をかいて身許引受人にひきとられた。

(6) 二十六年二月二十六日(管二二第七七号)出入国管理庁第二部長より神奈川県知事あて

(7) 外務省資料および二十八年三月四日衆議院海外同胞遺家族援護委員会における中村外務政務次官答弁

(8) 二十八年一月二十一日(管入合第二一号)「引揚者に対する帰還または入国の取扱に関する件」

 

5、韓国船

 日韓間の現行貿易は、二十五年六月の日韓貿易協定にもとづいて行われ、また商的海運活動に従事する船の出入は、二十五年十月四日発効の日韓暫定海運協定に依拠する。とくに朝鮮近海の漁獲物を日本でうりさばくことを目的とする韓国漁船の国は二十七年後半期から神戸、大阪、下関、門司、博多等の諸港に激増した。

 これらの船は、魚獲のあり次第入港し、その代金の決済をするとともに、次回の輸出契約をしたり、また韓国向けの輸出物資の購入等の商業活動をし、その機会に船の修理や塗装をする。そのため停泊期間はながく、神戸、福岡で二十八年上半期に停泊平均三週間と報告されている。

 とくに、本来の船員でないものが、船員手帳を利用してくるものがおる。これは、

(イ) 貿易業者が日本入国の許可が得られぬため、船員として便乗してくるもの。

(ロ) チヤーター船の監視を主たる目的としてくるもの。

(ハ) 所属会社の幹部職員が通関手続を行うため便乗するもの。

 などである(1)。二十八年十二月、鮮魚貿易を目的として、兵庫波止場に入港した韓国船二十一隻について、その乗組員の内訳をみると、船員一四六名に対し、船主が二十四名、荷主が六十六名をしめている(2)。

 漁船で密輸、不法入国援助、その他の犯罪をおかす事例がよくある。

 滞港中に、替玉契約が成立し、船員の交替による不法入出国の行われることもあり、また以上のべたごとく、目的外の活動をするものも多いので、その上陸許可書の発給には、とくに慎重を期し、時間的制限をし、上陸行動範囲を強度に制限している(3)。

 

注(1) 二十八年十月二十四日(管福警第二四〇三号)福岡入国管理事務所長より入国管理局長あて「博多港における韓国鮮魚貿易船状況に関する件」

(2) 二十八年十二月二十五日(管神警第七一四号)神戸入国管理事務所長より入国管理局長あて「韓国鮮魚船乗組員の実態について」

(3) 二十八年七月十日(管下審第六九九号)下関入国管理事務所長より入国管理局長あて「韓国魚貿易船の取締に関する件」

二十九年三月三十一日(管入合第一七七号)「主要港出張所長会同における協議事項」

 

6、船員手帳所持者

 在日朝鮮人で日本船員法にもとづいて発給された船員手帳の交付をうけたものは、二十七年五十一名、二十八年二〇三名、二十九年三九二名という報告がある。

 船員手帳交付申請の際に、外国人は当該国の領事の証明書を添付するを要するので、平和条約発効後、在日朝鮮人には外国人登録証明書のほか韓国代表部の大韓民国国民登録証を添付せしめていたが(1)、その後、さらに二十九年七月二十二日運輸省令第四十一号により、船員法施行規則の一部を改正し、法制上「外国人登録証明書、または旅券の呈示」をも必要とすることとした。

 なお、船員法の規定する事務を扱う市町村長には二十九年七月十五日以後、外国人にかかる船員手帳の交付などについては、行わしめないことになつた(政令第二〇五号)。

 なお、在日朝鮮人で日本船員法にもとづいて発給された船員手帳を所持するものが、日本船舶の乗員として日本を出入国する場合は、出入国管理令上の手続を経ることなく出入国せしめて差し支えないことになつているが、在日朝鮮人のうちには、船員を装つて日本船員手帳の交付をうけ、それにより形式上の乗員として出航し、韓国に赴き、用務(私用)を終えたのち右船員手帳により同一または他の船舶の乗員乗客として日本に帰港するものがある。これは本来韓国旅券を所持して出入国すべきものであるのに、それによらないで船員手帳を悪用しているものなので(2)、これを防止するため、三十年三月二十日以降同一航海、同一船舶により帰港するものに限り、その帰港をみとめることとし、韓国でその船舶を下船して、他の船の船員または乗員として帰港してくるときは、船舶と縁がきれて、事実上韓国に帰国したことになり、在留資格を失つたことになるので、その帰港をみとめないで、その船舶により、韓国に赴かしめる措置がとられている(3)

 

注(1) 二十七年十一月十二日(員基第二六四号)運輸省船員局労働基準課長より、各海運局船員部長あて「外国人が日本船員になろうとする場合の取扱方について」

二十八年二月二十七日右に同じ。

(2) 一例をあげれば、二十九年三月四日、日本籍機帆船「孟盛丸」(一六・二トン)は、釜山から大分県津久見に入港したが、この乗員九名のうち五名は在日朝鮮人であり、旅券入手困難なため、孟盛丸を日本人船員二名をふくめ、一ヵ月二十万円でチャーターし、それぞれ事務長、甲板員、炊事夫の名目で船員手帳の発給をうけて出航し、韓国で多量の機械等の輸出契約をえており、法の盲点を利用したものであつた。本件は、津久見海運局出張所では、韓国代表部発給の国籍証明書および雇主の立場で発給した雇傭証明書にもとづいて船員手帳を交付していた(二十九年三月十八日福岡入管事務所報)。

また神戸では、三十年三月大規模の船員手帳偽造事件の発覚が報ぜられている(「産業貿易新聞」三十年三月十五日)。

(3) 三十年三月二十二日(管入合第一六七号)「日本船員手帳により本邦韓国間を往復する在日韓国人船員の取扱について」

 

7、水難者

 水難船については、終戦後現地占領軍民事部の指示で措置されていたが、二十四年十二月二十八日、外務、大蔵、運輸省、法務府、海上保安庁がその取扱をさだめ、その応急救助は、海上保安庁があたり、密航、密貿の容疑のない際には、船体に故障のない場合また小修理で運航可能なときはなるべく自力で帰還せしめ、大修理を要する場合は、人は不法入国者ではないか便宜的に外国人登録令違反として立件送致(検察庁では不起訴)し、退去強制令書で送還するが、不法入国者と区別して注意して取り扱う。船舶は海上保安庁で一時保管し、積荷は税関で食糧費等の諸経費を支払わせるに必要な最小限度を換価処分させること等をさだめていた(1)。

 外国人水難者の救護事務は、水難救護法によつて市町村長が直接取り扱うことになつているが、水難者の上陸許可については、出入国管理令公布後、その第十八条にもとづき取り扱われた(2)。

 全日本の水難外国船中、韓国船がもつとも多い。それは、対馬その他西辺の冬期季節風による海難がほとんどであり、他に瀬戸内海が若干みられる。たとえば、二十九年には、宇野・高松間の鉄道連絡船と衝突して半没し、海難審判事件となつたもの(四月二十九日第一天信号貿易船乗組員十三名)、十五号台風により新居浜で沈没したもの(九月二十五日性国号乗組員十二名)があつた。

 水難船をよそおつて不法入国を企図するものもあり、その取扱に慎重を期している。

 水難者の帰国に関する一切の責任は、国際慣行上、当該国領事に帰属するものであり、二十九年五月その措置について韓国代表部でも遺憾ないようにすると口頭で確約したので、その身柄移動は、代表部へ連絡を確認の上措置するよう指示されている(3)。

 水難者が船を自費で修理し、また船体や貨物を売却処理して自弁で帰国する場合もあるが、費用に窮した場合に、韓国代表部に通報しても充分な予算のないためその措置は円滑をかき、地元の居留民団や、対韓貿易業者等で立て替えて負担することもある。またその船の修理できぬ際は、多く他の韓国船に便乗せしめて送還されている。なお自力で帰国できぬものを便宜上入国管理事務所の収容場に収容し、大村からの送還船で帰国せしめていたが(4)、二十九年三月それが保護収容であつても、その収容施設に収容する法的根拠なく、警備上支障がある事例もあつたので、適当な宿泊所、市町村の公共施設に収容せしめることとなつている(5)。

 「水難韓国船の救助の取扱の人道的なのに比し、李ライン内では漂流した日本漁船までが没収されているので、水難韓国船を日本が没収して、拿捕された日本の船主に与えてはどうか」と国会で論じたものがいた(6)。

 

註(1) 二十四年十二月二十八日(備警発第六一号)国家地方警察本部警備部長から警察管区本部長、都府県方面本部警察隊長あて「遭難船舶の取扱について」

(2)(4) 二十七年一月二十四日(実一合第七一号)「外国籍遭難者の取扱に関する件」

(3) 二十九年五月七日(管警第一三号)入国管理局長より大村入国者収容所長あて「水難者の身柄措置について」

(5) 二十九年三月二十日(管警合第一五三号)「外国籍水難者の身柄取扱に関する件」

(6) 二十九年二月四日衆議院水産委員会

 

 

三、不法入国

 不法入国者とは、二十二年五月二日以降、外国人登録令第三条に違反したものをいうが、平和条約発効後は、出入国管理令第三条に違反するもの、すなわち「有効な旅券または乗員手帳を所持することなく、本邦に入つたもの」をいう。

 その「本邦」には、領海もふくまれている(1)。不法入国者の検挙には、原則として、海上は海上保安庁、上陸後は警察があたつているが(2)、入国管理局としてもその対策をたて(3)、海上保安庁、警察庁とも緊密な連絡をたもち(4)、出入国港で、入国警備官がパトロール等を実施している(5)。不法入国者を、書面または口頭で所轄の入国審査官または入国警備官に通報したものには、その通報にもとづいて退去強制令書が発付された時に、報償金が交付される。

 朝鮮動乱が膠着状態から休戦に入るにつれて、韓国の復興はすすまず困苦な生活と大規模な徴兵をのがれんとする不法入国者は依然としてつづいた。全不法入国者のうち朝鮮人が九割以上をしめている。検挙の数からみると、逐年現象の傾向にあるが、当局は「不法入国の手段・方法が巧妙化して、当局の視線にふれないものが相当多くなつたのであり、朝鮮動乱以後横ばい的である」とみている。

 朝鮮にちかい長崎、福岡、山口の三県が圧倒的に多い。二十八年度からの長崎の検挙数の減少は、従来、対馬経由であつたが、対馬の警戒が強化されたため回避していると判断されている。

 出航地は、釜山が半ば以上をしめ、その他南鮮の港の順位は例年大差ない。

 婦人子供の多いのは、家族同伴が多いためである。無職の多いのもその理由である。学生の多いのは、徴兵忌避、学究志望のためである。これらは、他の不法入国外国人と異なる朝鮮人の特長といえよう。面会の目的が多いのも注目される。

 不法入国者の発見が、警察官によるよりも一般人の通報によるもののふえたことは、手段が巧妙化して第一線を突破しているとみられている。また全国四五六カ所に点設されている監視哨の役割も大きい。

 二十八年七月から十二月までの不法入国者八五一名の利用船舶を調査したところ、八四二名が機帆船を利用している。これはほとんど二、三トンないし五、六トンの小型で、一回に十名前後から二十名程度の運搬を主としている。船の操作、入手がたやすく、官憲の眼を免れやすく、接岸が容易であり、検挙・没収の際に被害が軽微ですむことがその理由に考えられる。またその帰路に密輸品をつんで出港するものも多くなつている。自力によるものよりも、密航ブローカーによるものが多い。その他、漁船をよそおうもの、水難船をよそおうもの、外国軍艦や貿易船に便乗するもの、帰国する日本人婦女子に混入するものなど、あらゆる手が試みられている。

 なお、潜在不法入国者については、二十九年八月、地方の入国管理事務所の推定した数の集計は約五万を数えていた。

 なお不法入国者とは別に、(イ)、日本在留の意図を有しながら上陸許可の証印をうけない上陸者、(ロ)、有効な旅券や乗員手帳をもつ乗客乗員で寄港地上陸、観光のための通過上陸、転船上陸、緊急上陸、水難上陸の許可をうけない上陸者、(ハ)、旅券記載の在留期限、特例上陸の許可の期限をすぎて残留するものなどがある。これは、不法入国者に比して数はきわめて少ない(6)。

 

注(1) 二十七年四月九日(法意一発第三八号)法制意見第一局長より海上保安庁警備救難部長あて「出入国管理令にいう本邦の意義について」(「法務総裁意見年報」昭和二十七年度)

(2) 二十四年五月十九日次官会議決定「不法入国者の取締に関する件」

(3) 二十七年五月十九日入国管理事務所長会議指示「不法入国に関する緊急対策実施要領」

(4) 二十七年八月一日「不法入国者等の取扱に関する法務省入国管理局と海上保安庁との業務調整」「同国家地方警察との業務調整」「同自治体警察長との業務調整」

二十九年七月十四日(管総合第四八六号)「不法入国者等の取扱に関する警察庁との業務調整について」

(5) 二十七年五月十四日(実一合第四六七号)「出入国港における入国警備官のパトロール実施に関する件」

(6) 『警察学論集』第七巻第五号(二十九年五月)武野義治「密入国の概況」

 

本節の統計について注記以外は、警察庁、海上保安庁の統計による。

 

 

          四、北鮮帰国渡航問題

a 帰国渡航運動

 朝鮮休戦になつてのち、二十八年八月下旬、民戦の第十一回中央委員会では、祖国復興事業参加一億円カンパの件と、祖国に各都道府県各団体代表六十名をおくることを決定してその人選にとりかかり(1)、九月に入つて外務省に旅券発給の要求を行い、これが拒絶されてから、民戦は各代表者の旅券申請を各居住地の都道府県外事部あてに手続するよう方針を示した(この祖国とは北鮮である)。

 この使節団は、のちに「解放戦争祝賀在日同胞祖国訪問団」の名称をとつた。その長野県代表が、香港経由北鮮に一時帰国するために旅券に相当する証明書の発給を申請したことに関して、長野県知事から照会あり、これについて外務事務次官は、つぎのごとく回答した。

「日本国政府は、朝鮮民主主義人民共和国を承認しておらず、従つてその地への一時渡航をみとめるいかなる文書をも発給できない。現在北鮮と交渉するためには、日本赤十字社を通じて連絡をとるほかはないので、直接日赤へ照会ありたい。……日本人以外のものに旅券またはこれにかわる証明書を交付することは、現行法上不可能である」(2)。

 一方これと平行して、日本平和擁護委員会は当時ソ連にいた大山郁夫氏を団長として北鮮に朝鮮停戦祝賀平和親善使節を派遣する計画をすすめ、北鮮と連絡をとつた。九月に入つて朝鮮平和擁護全国民族委員会委員長韓雪野氏から歓迎の返信があつた(3)。十月に全国から二十六名を選出し、その中から東大教授山之内一郎、宗教家来馬琢道、作家湯浅克衛、婦人櫛田フキ氏ら十五名を選び(この中に民戦議長李浩然氏がただ一人の朝鮮人として選ばれていた)(4)、十月末から十一月にかけて外務省に旅券交付を申請したが拒否された(5)。大山郁夫夫妻、淡徳三郎、亀田東伍氏の四名は、「日本人民平和親善使節団」として十一月平壌に赴き歓待をうけた(6)。そののち一月下旬から二月初まで、日本平和擁護委員会岡田春夫(労農党)、櫛田フキ両氏が(7)、また八月には黒田寿男、堀真琴、平野義太郎、福島要一、山之内一郎、富樫衛、志村寛、飯尾詮教氏ら八名が(8)、十月に全日本学生自治会総連合委員長鮒子田■【くさかんむりに耕】作、河相一成両氏が北鮮に入り(9)歓待をうけた。みな中共経由の入国である。

 二十九年三月末、北鮮から祖国統一民主戦線議長団の金天海氏の放送で、祖国訪問代表団と技術者の入国歓迎がのべられた(10)。五月民戦議長李浩然氏は神戸からスエーデン船パーマ号により上海経由、北鮮入りを企図し、乗船券まで入手したが、出入国管理令で要求する旅券またはこれにかわるべきものを所持していないため、出国の証印が得られず、阻止され、大衆示威を背景に強行しようとしたが、当局の方針は厳守された(11)。その後も北鮮渡航の要求はつづけられ(12)、北鮮からも「在日朝鮮人技術者たちが帰国して祖国の戦後復旧事業に参加すべき」ことを要求していたが(13)、政府としては、

 「この人たちがもし北鮮に帰りきりなら、特別の船をしたてて構わないとさえ考えていたが、みんな帰つて来ようとする。日本の品物をもつて北鮮でたかく売つて帰つてくることになれば、悪く考えれば、密出入国援助になる。また日本の治安に関する。」「向うに帰りきりの帰国希望者には、なんらかの処置をもつて帰る方法を考えたい」(14)、「北鮮系送還のためには、経由地の受入の問題と韓国の諒解をうる外交交渉を要する」(15)、「現実に向うがひきとつてくれる事実の確認が必要である」(16)と方針を明らかにしている。

 

b 強制送還者の問題

 二十八年八月に、民戦は日赤、平連、日中の三団体に収容所にいる強制送還者を中共帰国者出迎船を利用して送還したいと申し入れ、三団体は、政府の意向打診を決したと伝えられた(17)。当時韓国に送還すべく大村収容所に収容中のもの二名が、九月に送還先南鮮指定処分取消請求の行政訴訟を提起した。その本籍地は、一名が清津であり、一名が黄海道碧城郡(休戦成立による南北境界線の北)である。前者はその請求原因として、

 「出入国管理令第五十三条第一項により、その国籍のぞくする国として送還さるべき国は、朝鮮民主主義人民共和国であつて韓国ではない。休戦成立により北鮮への送還に明るい見通しがあり、送還先を韓国とするのは違法である」とのべ、さらにこれと同時になした行政処分執行停止決定申立において、

 「もし、退去強制令書にもとづいて執行が行われるなら、本人とゆかりのない韓国に送還され、……身寄りのない韓国で償うべからざる損害をうけるのが明白であるから、送還停止の決定を求めた」

 とのべた。この件は、そののち本人が自費出国を願いいで、その見通のつくまで期日延期の形で裁判所に繋属中である。後者は、横浜地裁から求意見書の提出されたときは、本人はすでに送還されていて、それが理由で却下されている。

 

c 赤十字におる交渉―北鮮残留日本人送還と関連して―

 北鮮に残留する日本人について、二十八年末、ソ連に赴いた日本赤十字団に対して、ソ連側は「北鮮残留日本人の消息通報と帰還促進は、直接北鮮赤十字に連絡されたい」といつた。これにもとづいて日本赤十字は、二十九年一月七日、ジュネーブの赤十字社連盟事務総長ド・ルージュ氏あてに、北鮮残留日本人の情報提供、文通、帰国援助について北鮮の赤十字社へ伝達方を依頼する電報をうち、その中で、「もし許されるなら、その便船を利用し、日本にいる貴国人で帰国を希望するものを帰すことを本社は援助したい」と付記した。これに対し、二月九日に北鮮赤十字社から返電あり、「少数の日本人がおり、帰国を希望するものあれば喜んで援助する」とあつたので、日赤は、ただちに赤十字社連盟事務総長あて残留日本人の氏名と数と帰国希望者を知らせるよう、また通信のあつせんを依頼した。八月十九日、日赤はふたたび在留日本人の帰国促進の電報を送り、十一月二十五日ふたたび督促し、中共経由の帰国について中共側の支持をえたことをのべ、また四月十三日には、アジア会議における北鮮代表の発言に関連して回答をもとめた。これに対し、北鮮赤十字社から五月十八日に、帰国希望の日本人送還のため努力しているという回答があつた(18)。この日本人の帰国問題と関連して在日朝鮮人の北鮮帰国問題も論議されている。

 

注(1) 「朝鮮通信」二十八年八月三十一日

(2) 二十八年十二月三日(渡第二九七八号)外務事務次官より長野県知事あて「北鮮系朝鮮人の一時帰国証明書の発給申請手続の件」

(3) 「朝鮮通信」二十八年九月二十二日

(4) ★「解放新聞」二十八年十月二十七日

(5) 「毎日」二十八年十月三十一日、「朝日」十一月二日

(6) 「朝鮮通信」二十八年十一月九日から二十三日まで

(7)  同     二十九年二月一日から七日まで

(8)  同     二十九年八月二十日

(9)  同     二十九年十月七日から十一日まで

(10) ★「解放新聞」二十九年四月六日

(11) 二十九年五月二十一日衆議院内閣委員会における宮下入国管理局次長説明

二十九年六月七日(管神第三七五号)神戸入国管理事務所長より入国管理局長あて「李浩然代表の北鮮向け出国阻止に関する件」

(12) 「朝鮮通信」二十九年六月十二日、★「解放新聞」同六月十七日、七月八日、八月七日から十日まで。

(13) 「ラジオ・プレス」二十九年六月二十二日

(14) 二十九年五月二十一日衆議院外務委員会における小滝外務政務次官、三浦法務政務次官答弁

(15) 同十一月五日参議院法務委員会における内田入国管理局長説明

(16) 同十一月十三日衆議院法務委員会「外国人の出入国に関する小委員会」における内田入国管理局長説明

(17) 「朝日」二十八年八月七日

(18) これらのことはそれぞれその日付の「朝日」、「毎日」、「読売」にのせられている。

 

 

           五、在留資格

 1、在留資格取得者

 占領下における出入国は、一部をのぞいて連合国最高司令官の許可によつた。入国せんとするものは、「商用入国者」、「宣教師」、「観光客」、「その他」の分類により申請し、入国許可にあたつては、通過者、ただし七十二時間以内の通過者をのぞく(十五日以内)、ツーリスト(九十日以内)、一時訪問者(一八〇日以内)、半永久者(無期限)、永住者(永久)、占領軍要員(原則として無期限)の六分類で許可された(1)。

 二十七年四月二十八日、平和条約発効当時の在留外国人は、法律第一二六号により、従来そのものの旅券に記されている旧滞在許可期限の経過していない場合には、なんらの手続を行うことなく、六ヵ月間は無条件で日本に在留できた。しかし、この期間をすぎて在留しようとするものは、三ヵ月以内に、法務大臣へ在留資格取得の申請を必要とした(申請期限は十月二十八日まで延期された)。

 朝鮮人の場合は、連合国最高司令官の許可をえて日本に入国したものおよび昭和二十年九月三日以後、日本に入国してひきつづいて在留し、かつ外国人登録法による外国人登録証明書を所持するものがその対象となつた。在留朝鮮人の大部分は、つぎにのべる法律第一二六号の第二条第六項該当者なので、取得申請を行わなかつた(ただしそれらの子供で平和条約発効後、日本で出生したものは申請を必要とした)。この際の資格取得全在留外国人三万二〇九四名(このうち中国人一万七六二三名、アメリカ人五二六二名)のうちで、朝鮮人は一九四三名であつた。

 永住許可の資格を得たものが、二十二名いるが、朝鮮人と結婚し、入籍後、帰国してきた日本人の妻およびその子が大部分である。

 

注(1) 出入国管理庁「個人の日本出入国に関する法令および解説」(二十六年四月)

 

2、戦前からの在留者

 法律第一二六号第二条第六項に「平和条約発効日に、日本国籍離脱者で、昭和二十年九月二日以前からこの法律施行の日までひきつづき本邦に在留するもの(二十年九月三日からこの法律施行の日までに本邦で出生したその子をふくむ)は、別に法律で定めるところにより、そのものの在留資格および在留期間が決定されるまでの間、ひきつづき在留資格を有することなく、本邦に在留することができる」とあり、在日朝鮮人の大多数は今日この規定により、在留資格を有することなく在留している(この人々を便宜上、一二六―二—六該当者と記している)。この該当者は再入国の許可をうけて出国し、本邦へ再入国した事実があつても、ひきつづき本邦に在留したとみなされる(1)。

 二十年九月三日以降平和条約発効の日まで、日本において朝鮮人と婚姻した日本人女子で、正式の婚姻届により、朝鮮人となつているものは、発効とともに日本国籍を離脱するが、それも一二六―二―六該当者となつており(2)、また「『日本国との平和条約第十一条に掲げる裁判』による拘禁をとかれたもの(戦犯釈放者)、またもとの陸海軍にぞくしていたもの、またはこれに類似する境遇にあつたことについて十分な証拠のあるもの」は「引揚者に準ずるもの」として、一二六―二—六該当者とされている(3)。

 この一二六―二―六に該当する朝鮮人は、約五十二万と推定される(4)。

 この一二六―二―六該当者は、出入国管理令第二十四条の適用には、特別に配慮されているが(一六五頁)、退去強制該当者で、出入国管理令第五十条の規定により、在留を特別に許可されたものは、一二六―二―六該当者でなくなり、「法務大臣がとくに在留をみとめるもの」の資格で、期間は申請者の釈放後の行動を参酌して、三年をこえない範囲内で決定される(5)。

 法律第一二六号が国会で審議される際に、政府当局は一二六―二―六該当者に対して「永住資格をあたえるつもりである」「日本だけで勝手にきめるわけに行かない。日韓会談で話合ができれば、永住資格をみとめるようにする」、「法律で定める」とは「永住権の条件を設定することである」とその方針を示しているが(6)、その後も「これを外交交渉ときり離して日本側の純然たる国内問題として処理するのは早いと考えており、近い将来には立法措置はとらぬ」と言明している(7)。

 なお子供の出生の際には、申請義務者が、三十日以内に、その出生の事由を証明する文書、両親の在留資格等を証明する文書(外国人登録済証明書)および在留資格取得許可申請書を、入国管理事務所および出張所に出頭して提出する。申請者が僻遠の地に居住する貧困者で出頭に要する旅費支弁能力なく或いは病気のため出頭し得ないものは、所定の用紙により、住居を管轄する市区町村役場経由郵送がみとめられている(8)。

 しかしその未申請のものが、登録切替の際にはじめて発見されることが多い。この場合、登録申請書類の提出をうけた市区町村では一応書類を保管し、最寄りの各入国管理事務所に在留資格取得の手続をなさしめ、その結果をまつて処理するよう指示している(9)。

 朝鮮人側では一二六―二―六該当者の子に在留資格三年を与えられることに不満をもち(10)、また出生の際に戸籍法により出生届をし、また在留資格取得の申請をすることの事務的複雑さに、その一元化をのぞむ声がある(11)。

 

注(1) 二十七年五月十二日(審二合第四五三号)、六月二十七日(審二合第六一六号)、七月二十一日(審二合第七〇二号)「在留資格審査事務の実施要領通達の件」

(2) 二十七年十月二日(管審合第一五七号)「昭和二十年九月三日以降講和発効前朝鮮人と結婚した日本人女子の取扱方の件」

(3) 二十七年八月一日「引揚者等の取扱に関する法務省入国管理局と引揚援護庁援護局との業務協定」および二十九年六月八日「引揚者等の取扱に関する業務協定の準引揚者に対する遡及適用について」

(4) この正確な数はわからないが、現在の登録数から逆に資格取得者推定数をさしひいて算定

(5) 二十七年六月二十六日(審二合第六一二号)「出入国管理令第五十条による在留特別許可者の在留資格に関する件」

(6) 二十七年四月二十五日参議院外務委員会における岡崎外務大臣答弁

(7) 二十九年十一月十三日衆議院法務委員会「外国人の出入国に関する小委員会」における内田入国管理局長説明

(8) 二十七年十一月二十八日(管資合第三三〇号)「出生等による在留資格取得許可申請書の提出について」

(9) 二十七年九月八日(管登第三六号)入国管理局登録課長より長野県渉外課長あて「朝鮮人および台湾人の在留資格に関する照会回答の件」

(10) 二十七年十月の切替時に、民団中央総本部の要望事項の一つとして「平和条約発効後の出生児には、出生届だけで自動的永住権をあたえること」をのべている。

(11) 二十九年四月五日衆議院法務委員会「外国人の出入国に関する小委員会」における民団中央総本部事務総長裵東湖氏陳述

 

 

          六、退去強制

1、退去強制該当者の範囲

 退去強制における出入国管理令第二十四条の適用については、さきにのべたごとく、その当初より人道的立場をとることをくりかえし説明して慎重を期し、その運用について指示するところがあつたが(1)、入国管理局は、関係機関と協議してその担当者からの通報範囲を明らかにして、その実施の適正を期した。その大要はつぎのごとくである(2)。

 

A、不法入国したもの

(一号) 不法入国                      ┐

(二号) 不法上陸                      │該当者全部

(三号) 特例上陸の許可をうけないで上陸したもの       │

(五号) 仮上陸後の逃亡その他の条件違反者          ┘

B、資格外活動・不法残留したもの

 (1) 日本政府の許可した在留資格の範囲や滞在期問をこえるもの

(四号イ)在留資格以外の活動を専ら行つたもの         ┐

(四号口)在留期間を経過して残留するもの           │該当者全部

(六号) 特例上陸の不法残留者                │(ただし四号の口、および六号、七号は出国勧告中の

(七号) 資格の未申請による不法残留者            ┘ものをのぞく)。

 (2) 日本国または地方公共団体の負担になつているもの

(四号ハ)らい予防法の適用をうけているらい病患者       ┐二十年九月三日以後の入国者のみ(それ以前からいる

(四号ニ)精神障害者で指定病院等に収容されているもの     │ものは、平素の言動がとくに療養所、病院、公共の秩

(四号ホ)貧困者、放浪者、身体障害者で生活上、国などの負担に │序を害する悪質のものに限る)。

なつているもの                    ┘

 (3) 刑罰法令違反者

(四号へ)外国人登録に関する法令違反、禁鋼以上(執行猶予をのぞく)……該当者全部(併合罪をふくむ)

(四号卜)少年法に規定する少年で長期三年をこえる懲役     ┐

     または禁鋼に処せられたもの             │

(四号チ)麻薬、阿片等の罪で、有罪の判決をうけたもの     │違反行為時が平和条約発効後である場合にかぎる。

(四号リ)一年をこえる懲役もしくは禁鋼に処せられたもの    │

     (執行猶予をのぞく)                ┘

(四号ヌ)売いん関係の業務に従事するもの           ┐刑に処せられたもの

(四号ル)不法入国、不法上陸をそそのかし、または助けたもの  ┘

 (4) 治安攬乱者

(四号オ)憲法または政府を暴力で破壊を企てまたは主張するもの ┐

(四号ワ)公務員、公共施設、工場事業場に暴力活動を行う政党団 │

     体に結成・加入または密接な関係をもつもの      │破防法の関係条項と関連しているもの

(四号力)オ、ワに関連する印刷もの、映画、文書などを頒布展示 │

     したもの                      ┘

(四号ヨ)イから力までをのぞき、法務大臣が日本国の利益または

     公安を害する行為者と認めるもの

 登録令違反者(出入国管理令実施以前のもの)

(1)、不法入国……………………………………………………………………該当者全部

(2)、旧登録令の手続違反で禁鋼以上の刑に処せられたもの………………執行猶予をのぞく

(3)、(2)の累犯者                                              ┐

(4)、登録証明書の偽造または行使                ┘禁錮以上の刑に処せられたもの(執行猶予をのぞく)

 

 なおミスシツプの船員については、一般不法残留者と同一に取り扱わず、現行法規の範囲内で、特別な取扱がさだめられている(3)。

 ただし後述するごとく、らい患、精神障害者、被生活保護者、少年犯、治安攪乱者は、他の項目に該当しない限り退去強制者は一名もいない。

 

注(1) 二十七年六月九日(審一合第五三九号)「出入国管理令第二十四条の運用に関する件」

二十七年五月十六日(法務府検務第一五四二三号)法務府検務局長より検事長、検事正あて『外国人登録法および外務省関係ポツダム命令の措置に関する法律の制定について』第三、「朝鮮人等の退去強制について」

二十八年七月二十四日(管警第一七四号)「売いん関係違反者の取扱に関する件」

(2) 二十八年十二月二十二日(管審合第七八四号)法務事務次官、厚生事務次官、国家地方警察本部長官、海上保安庁長官より関係機関長あて「出入国管理令に定める被退去強制容疑者の通報基準について」

(3) 二十九年五月二十五日(管警合第三二九号)「ミスシップ船員の取扱について」

 

           付、出入国管理令、外国人登録法令に関連する犯罪者数

 出入国管理令、外国人登録法令に違反する犯罪、とくに出入国管理令第二十四条にあげられた項号に該当する犯罪者として判明するものに、つぎの諸統計がある。

(※諸統計は省略)

 

2、退去強制手続

 出入国管理令に定める退去強制手続は、前述のごとく、平和条約発効前から、朝鮮人に適用された。出入国管理令第二十四条、または旧外国人登録令第十六条の退去強制事由該当者と思われる容疑者には、関係機関より通報をうけたのち、違反調査、収容令書による収容、審査、口頭審理、異議申立をへてはじめて退去強制令書が発付され送還実施となるが、収容令書発付中はもとより退去強制令書発付後も、人道的その他の理由で本人の収容を継続しがたいときには、仮放免が許され、退去強制令書発付後も決定に不服の際は、行政訴訟を提起しうる。

 仮放免を許可された朝鮮人は、昭和二十九年末現在五六三名おり、このうち四十六名が仮放免中に逃亡している。

3、異議申立と裁決

 不法入国者に対する救済手段として、占領下にあつては、連合国最高司令官に対し、主として地方民事部を通じて在留許可の嘆願書を提出する方法がとられていたが、二十五年十月、出入国管理庁が生れてから、出入国管理庁に在留特別許可申請を出すものと、民事部を通じて嘆願書を出すものと二様になつた(ともに最高司令官の許可を要していた)。これに対して、二十六年三月十七日総司令部からの覚書により、「不法入国者の嘆願書の窓口は日本政府だけとする。嘆願書は特定の形式により、司令部の処理を仰ぐこと」が示され、一週間毎に総司令部の民事局に報告することになつた(1)。その結果、二十六年十月末まで、日本政府を通じた嘆願書は、五二五件におよんだ。二十六年十一月、出入国管理令の施行後、口頭審理および異議申立の手続は朝鮮人に準用され、法務大臣に異議申立をして、裁決を求めることに殺到した。その異議申立は、不法入国についていえば、九九%までは事実の審査に対するものではなくて、入国許可の嘆願である。

 二十六年十一月以後、入国管理庁―のちに入国管理局―はその公正な裁決するため、長官(のちに局長)以下課長以上よりなる裁決諮問委員会を毎週開いている。

 裁決にあたつては、本人の性格、年令、在日経歴、家族状況、生活保証等を綜合的に、人道的に考慮し、また国家的見地からの要請も加えられる(2)。

 一方、衆議院法務委員会に設けられた「外国人の出入国に関する小委員会」では、次のごとく全会一致で「外国人の不法入国者取扱について」決定している(3)。

一、在留許可緩和の基準

1、終戦前相当期間日本に居住し、戦争末期に強制疎開その他の事由によつて、朝鮮、台湾に疎開等をしたが、終戦後、日本の旧居住に現状恢復したような場合

2、現に日本に居住する夫婦、親子、兄弟姉妹等近親関係の一方が、他方を朝鮮、台湾から呼び寄せた場合

3、1、2、の共合する場合

4、日韓、日台、日中関係の事業に従事しているものおよび技術、芸能、学問研究を志望しているもので、相当の実績をおさめている場合

二、保証関係

1、生活能力ある善艮な市民であること。自然犯的国内法令に違反した事実のないもの。

2、信用ある日本人の身許引受のあるもの。

右の通り当小委員会において決議したから、法務大臣は、今次退去送還を決定したものについて、この趣旨を体し、再検討の上、善処方を強く要望する。

 裁決において不法入国以外(手続違反者)の許可が多くなつていることは、その犯罪の責任を日本社会が負うべきであるという理念のほかに、韓国の受取拒否にともなう収容施設が充分でないこと、また在留特別許可のものに、保護観察や更生保護を実施する措置もあわせて考慮されていることと解されよう(4)。

 なお、在留を特別に許可されたものも、一定期間内で、(イ)正業を有せず、かつ善良な在留者とみとめられなくなつたとき、(ロ)罪を犯し有罪の判決をうけたとき、(ハ)正当の理由がなく入国管理事務所長または入国者収容所長の呼出しに応じないとき、に該当したとみとめられたときは、在留特別許可は直ちにとり消される(5)。

 この異議申立裁決のうち、不法入国学生に対して行つたことについては二〇二頁でのべよう。

 

注(1) 総司令部GⅡよりの公信「不法入国者からの嘆願書の処理について」

(2) 二十九年九月二日衆議院法務委員会「外国人の出入国に関する小委員会」における内田入国管理局長、中村入国管理局警備課長説明

二十九年十二月二日入国管理局所長会同における内田局長指示

「読売」三十年四月二十六日、朝鮮からの密航女性金岡春江さんについて、法務省入国管理局審判課長回答「守るべき一線がある」

(3) 二十九年七月十四日衆議院法務委員会「外国人の出入国に関する小委員会」

(4) 二十九年六月十日(保護第五九三号)法務省保護局長、矯正局長、入国管理局長より「出入国管理令に定める被退去制の容疑ある受刑者または在院者の釈放および保護観察等について」

(5) 二十八年六月十七日(管審合第三三八号)「令第五十条第二項による条件およびその取扱要領に関する件」

 

4、退去強制者の収容

 二十五年十月一日、出入国管理庁の発足にあたり、従来佐世保引揚援護局(長崎県東彼杵郡江上村)の施設の一部を利用して、同局内に設けられていた不法入国者収容業務は、同日付で出入国管理庁の付属機関の針尾入国者収容所にひきつがれた。

 さらに、国家警察で担当していた収容所の警備護送業務もひきつぎ、収容、護送、警備業務の一元化をみ、その年末に旧大村海軍航空廠内の建物に修覆を加えて移転し、大村入国者収容所を開設した(収容能力五百名)。二十七年九月十二日閣議諒解事項として、入国者収容所を強化することとし(1)、二十八年二月、従来の建物に隣接して、敷地一万四五四二坪、工費約一億六千余万円、収容能力千名の二階建五棟の新収容所の増設を起工し、同年九月竣工をみた。二十六年末に設けられた横浜入国者収容所はおもに欧米人、中国人を収溶したので、大村はもつぱら朝鮮人を収容していた。新収容所竣工以来、中国人をもあわせて収容した。ほかに大村入国管理事務所関係の短期収容者には、各国人をふくむが、第七三表のごとくその九割は朝鮮人である。

 退去強制処分の確定したときは、すみやかに送還先に送還するのが出入国管理令の建前であり、被退去強制朝鮮人は、各入国管理事務所より大村に送られている。

 一般収容所の各棟には、泰山寮、金剛寮、東明寮、臨海寮、太白寮など朝鮮人の好む名前がつけられている(被収容者より募集せる名前である)。

 給食は一人あたり、光熱費をのぞき一日人十円以内であり、朝鮮人の嗜好も入れて作るほか、毎週二回、唐辛子五グラム、にんにく十五グラムを支給し、平均二六〇〇カロリー以上の食事である。食事ごとに責任者が検食する。入浴は週二回、寝具として毛布一人あたり七枚が支給される。

 月二回映画会があり、娯楽器具として、バレーボール、野球、ピンポン、囲碁用具もあり、午前七時から午後六時まで棟付属の運動場で各自自由に運動することを許可されている。ラジオや図書もあり、貧困者(二十九年九月一日収容人員九八五名中五六九名)には、被服やはみがき、石けん、タオル等の日用品も支給されている。なお長期収容者の気分転換と小づかい程度の費用を得させるため、希望者に自治的にかます作業を行わせている。定期的に健康診断を行い、診療室もある。

 外部からたえず煽動的働きかけがあり、収容所内の保安維持をみだす恐れがあるので、法令の規定により差し入れ、通信には検閲をし、被収容者への面会は、特殊の事情のあるものの外は、四親等内の親族に限つている。

 二十六年三月三日以後、大村では指紋採取が始められ、二十九年九月二十五日までに、八三六三名(原則的に十四才以上)を採取し、これにより再不法入国者六〇一名が発見された(2)。

 大村の収容施設について、衆議院法務委員会の「外国人の出入国に関する小委員会」から派遣された議員の報告は、「外国人の収容所としては、おおむね理想にちかい」とのべ(3)、アメリカの収容所施設を視察した鈴木一氏(前入国管理局長)は世界的水準にあると折紙をつけた(4)。

 韓国政府や北鮮政府ではこの収容の不当をならし、また在日左翼系朝鮮人の悪罵ははげしいが(5)、朝鮮人の報道の中に、食事は韓国中流の下級、処遇は「収容されている身としては充分」(6)、「設備のととのつているのは予想外」といつている(7)。

 なお、二十八年三月大村の新収容所の工事中(九月末まで)岡崎刑務支所の一部を改造して使用した。二十九年十二月から中国人、朝鮮人の収容所として、浜松刑務所の一部を所属換して、横浜入国者収容所分室として使用している。

 

注(1) 二十七年九月十二日(内閣法甲第五八号)「入国者収容所強化の件」

(2) 大村入国者収容所、大村入国管理事務所「業務概況報告」(二十九年九月)

(3) 二十九年六月二日衆議院法務委員会「外国人の出入国に関する小委員会」

(4) 『親和』第十七号「大村収容所仮放免者の保護と日韓親和会の事業」――鈴木一氏にきく――

(5) 「KP」二十九年七月十二日韓国政府声明

「新亜通信」二十九年八月三十一日(八月三十日の南日外相声明)

二十九年十一月在日民戦第五次全体大会において決定された「一九五五年活動方針」(民戦中央委員会編「在日朝鮮人の当面の任務」)

(6) ★『希望』(韓国大衆雑誌)二十八年二月号香初人「密航の記」(「想苑」二十八年七月号に翻訳掲載)

(7) 「産業貿易新聞」二十九年十二月五日

 

5、行政訴訟の提起

 出入国管理令第六十八条において、この政令にもとづく行政庁の決定に不服のあるものは、その処分に関し、行政事件訴訟特例法により裁判所に訴を提起することができると規定している。その規定により、朝鮮人を原告として提起された行政訴訟事件は、二十九年末まで十六件あり、完結したものは十一件、繋属中のものが五件ある。

 完結したもの十一件についてみると、原告の取下五件、休止満了三件、判決において原告の請求棄却となつたもの三件である。九名は送還され、一名は逃亡中で、一名は仮放免である。

 この訴訟事件全般を通じて、事実関係を争うものは四件(うち完結二件、繋属中二件)のみである。このうち二件は、ともに「送還先を『韓国』としたのを違法とし、『北鮮』への変更を求めた」もので注目された(一五八頁参照)。

 本訴において、行政処分の違法性のみならず、処分の妥当性を争点に掲げて訴を提起しているものが三件あり、それぞれ不法入国または手続違反の事実を認めながら、大臣の裁決が妥当性を欠くとなしている。たとえば、二十五才の一女性は不法入国の事実を認めているが「一才の幼児があり、五ヵ月の姙婦であり、親子三人暮しの平和な生活にあるのを生木をさくごとく強制執行し、なんら生活の基礎のない土地に放置するは、人道上も基本的人権を無視するものである」として裁決処分の取消を求めている(繋属中)。

 また完結のうち、「窃盗および外国人登録証不携帯」で退去強制令書を発付された黄仁杓氏の場合、東京地裁の判決の中で、左のごとき要旨ののべられているのも注目すべきであろう(1)。

「旧外国人登録令第十六条第一項の規定は、同項各号に該当するものに対しては、必ず本邦からの退去を強制しなければならないとする趣旨ではなく、かかる事由のあるものに対しても、さらに行政的、合目的性の見地から退去を強制すべきかどうかを決定せしめる趣旨と解すべきであり、従つてその裁量権の行使に著しい誤りがあれば、これにもとづく退去強制処分も違法となることを免れない」。

 

注(1) 最高裁判所事務総局行政局「行政事件裁判例集」昭和二十八年度第四巻第十号

 

6、送還

 大村からの集団送還は、第七十四表のごとく行われている。二十九年三月六日(第二十九次)送還までは、佐世保碇泊中の本船までの輸送に二百トン前後の機帆船を雇つていたが、それ以後は、本船が大村湾に回航し、地元から小型旅客船を傭船して中継した。送還計画は入国管理局が作成し、送還は海上保安庁が実施するが、二十九年一月(第二十八次)以後は、その送還船に入国管理局から医師、看護婦、事務官が便乗した。

 送還船は、二十七年七月(第九次)以後、送還専用船として、関西汽船所

属の旱鞆丸(六九七総トン)を配している。その定員は三四六名である。送還船中には、一人当り四食分を携行させる外、予備食糧として一日分相当量をつみこんでいる。大体送還者の携行品は一人当り一トンまでみとめられた。

 このほか送還船に水難者、一般帰国者、軍人その他の便乗者が、二十六年度に六十六名、二十七年度に十五名、二十八年度に九名いた。

 

         七、大村収容所における送還不能者問題

 出入国管理令による朝鮮人の強制送還業務は、二十五年十二月の第一次から二十七年三月十一日第七次送還までは(平和条約発効前の時期)、不法入国者およびその他の退去強制者約三千六百余名(うち終戦前からいたもので、退去強制者四四五名)を韓国に送還したのであるが、占領軍が介在していたので、別に問題もなく、韓国側では受け取つていた。

 平和条約発効後第一回(通算して第八次)の送還の際、不法入国者二八五名、終戦前からいたもので退去強制該当者(通称手続違反者)一二五名計四一〇名を従来の通り事前に駐日韓国代表部に連絡したところ、なんら異議もないので、五月十二日に山水丸で釜山に向け送り出した。しかるに、この送還者が釜山に到着後、韓国側は突然不法入国以外の一二五名は、終戦前から日本に居住していたもので、その国籍は日韓会談によつて決定することになつているが、右会談が中絶しているので国籍問題は未解決のままであり、このままでは受け取ることができないとの理由で拒否し、一二五名は十四日大村に逆送還されてきた。

 そのとき、被逆送還者達は、「強制送還は完了し、令書は無効であるから即時釈放せよ」と叫んで再収容を拒否したが、全員収容所に再収容した。以来、韓国側と交渉を重ねてきたが、らちがあかず、一方再収容者たちも長期の収容に焦慮し、送還実施を嘆願してきたので、第十次送還の際(二十七年七月)、嘆願してきた七名のものを駐日韓国代表部に嘆願書とともに事前に諒解をえて送り出したところ、先方で受け取つた。この前例により、被収容者たちから嘆願書を提出するものが増加し、五十四名になり、これまた前例の通り、韓国代表部に連絡をした。韓国代表部の幹部も大村に赴き、この真相を調査して四十余名の希望者がある事実をみとめたが、これらは自らの希望によるものではないとの理由により受入を拒否してきた。そのとき韓国側は、自発的韓国帰国希望者を釈放すれば、はじめて自由に帰国の意思を表明できるし、そうすれば、代表部は帰国に必要な証明書を出す用意があると主張していた。

 その後、この終戦前からの在留者で被退去強制者の釈放をめぐつて、外部からたえず働きかけがあり、二十八年十一月十一日に被収容者(当時六六〇名)は全員即時釈放、帰国希望者の即時帰国などを要求し、四十数カ所を破壊して脱走をくわだてたが、防止された。その後これらのもののうちには、韓国から終戦後の居住証明書をとりよせ、不法入国の事実を申し出てくるもの多く、改めて不法入国者として、新たに審査を終え、送還されたものが出ていた。

 入国管理局としては、手続違反者中情状の軽いものおよび収容中の成績のよいものについて、少数を仮放免する構想にあつた。

 二十九年七月十二日、韓国代表部は、終戦前からの在留者の法的地位処遇未確定により、長期収容者の即時釈放を主張し、韓国政府公報処もそれに関する談話を発表した。その後韓国側は、さきに逆送還された一二五名のうちから七十七名が不法入国者として送還されたことについて、これは「故意に事実を歪曲」したものであり、この七十七名の名簿中二十二名は、本名と違う氏名で送還し、そのため身許が確認できないと非難した。これに対し七月十七日外務省情報部長談で「この七十七名は、自発的に帰国を希望し、戦後密入国したと申し出で、本人が戦後のある時期に韓国内に在住したとの所轄官憲の発給にかかる証明書を本国よりとりよせたのである。韓国の受取拒否は不当である。韓国側がこれらのものを引きとる用意があるなら、日本側は釈放の用意がある。収容所の管理は適正である」ことを明らかにした(1)。

 その後、七月下旬実施予定であつた不法入国者の送還も実施不能となり、韓国側は即時釈放と収容所の処遇について抗議し、応酬をつづけた。

 二十九年末に至つて、日韓間の事務折衝が進捗し、手続違反者の一部を仮放免するとともに、韓国側として不法入国者を引きとることに妥結し、三十年二月から六〇七名の不法入国者の送還が行われた。この時、身許引受人のない仮放免者に対しては、日韓親和会が一括して身許引受人となつてその保護指導にあたつた(2)。

 元来、在日朝鮮人の悪質なものの送還については、二十三年韓国政府成立直後、李大統領自ら積極的に考慮していることを表明し、「マツクアーサー元帥に要請する」と語つていた(3)。

 二十五年十二月に、官房長官談として、在日朝鮮人中、治安維持妨害者には「法に照らし、断乎たる措置をとることは勿論であるが、さらに進んでは、これらのものを国外に追放することも考えている」と言明したことに(4)関連

して、二十六年一月十二日に、駐日韓国代表部においても、「左右を論ぜず、悪徳漢を強制送還する」と声明したことがあつた(5)。

 

注(1) 二十九年七月十七日外務省情報文化局長談

七月二十日(管総合第五〇六号)「韓国側の大村長期被収容者釈放要求について」。「KP」七月二十日金公使声明

(2) 『親和』第十七号「大村収容所仮放免者の保護と日韓親和会の事業」――鈴木一氏にきく――

(3) 二十三年八月十七日ソウル発INS、九月八日ソウル発AP、九月二十二日「国際タイムス」

(4) 二十五年十二月二十六日「岡崎官房長官談」

(5) ★「世界新報」二十六年一月十八日

 

 

          八、外国人登録

1、外国人登録法にもとづく切替の実施

 外国人登録法の経過規定にもとづいて、二十七年九月二十九日から一カ月間にわたつて、登録証明書の切替が行われた。その際、民戦側は従前と同じく、韓国の徴兵や強制送還の資料とする、また韓国籍強要であるとて反対し、集団申請の受理、写真代の政府負担、申請当日の日当支給等の要求をし、あるいは全面的拒否抗議に出た。民団側は世帯主または地方民団で一括代理申請すること、太平洋戦争中の強制疎開で帰国し再入国したものに正式に登録証を与えること、不法入国者には、朝鮮戦争の休戦成立まで暫定的に登録証をあたえること、平和条約発効後の出生児には出生届だけで永住許可をあたえること、国籍を韓国とすることなどを陳情していた。当局は毅然とした方針を堅持して趣旨の徹底につとめ、とくに法務大臣談を発して、強制送還や徴兵の資料にしないこと、切替は延長せず、登録妨害者には断乎たる措置をとる方針を明らかにした。十月二十八日の最終日に、民戦系が大挙おしよせ混乱せしめる作戦がとられた地域が多かつたが、当局はその日午後十二時で受理を打ち切りその間に出頭したものから本人の登録証明書を預かり、同時に預り証を交付し、預り証中に記載された出頭日にふたたび出頭せしめて、新登録証明書を交付するよう措置して、予想された混乱を回避した。最後の八日間の登録者が約三十三万名であつたことは、民戦の組織統制力のつよさをものがたつている(1)。

 二十九年秋、外国人登録法にもとづく第二次の切替が行われた際も、民戦系の反対は依然つよく、とくに八月三十日の北鮮南日外相の抗議声明で外国人登録における韓国籍強制についてのべておることにも関連して、「切替は在日朝鮮人の基本約人権、民主的諸権利抑圧の政策のあらわれで、登録証明書を不当弾圧の道具とするためのものである」とて攻撃し、その要求事項には、永住権をみとめよ、生命・財産・職業および民族教育を保証せよ、祖国(北鮮)との交通貿易の自由をみとめよ、国籍選択の自由をみとめよ、退去強制を中止し、大村収容所に不当収容中の朝鮮人を即時釈放せよ、在留資格・在留期間を撤廃せよ、指紋押なつ反対、出入国管理令・外国人登録法を撤廃せよ等の政治的一連の要望事項を列記して反対したことは、従来と異なつた攻勢として注目されたが、その切替実施は厳正に行われた。

 なおこの登録事務は、市町村長が国の委任事務として取り扱つているが、地方公共団体はその経費負担の義務がないのにかかわらず、委託費も少なく、かつ外国人を対象とする特殊、複雑な行政事務なので、二十九年十月には、全国知事会議で、事務委託費の増額の要望があつた(2)。

 

注(1) 篠崎平治『在日朝鮮人運動』(三十年三月・令文社)第四章「外国人登録」

(2) 二十九年十月八日全国知事会議決議「外国人登録事務委託費の増額配付要望」。なお、二十七年八月七日全国知事会議決議「外国人登録法の取扱について」では切替実施と指紋実施の延期を要望している。

 

2、国籍欄における「韓国」と「朝鮮」

 外国人登録証明書の国籍欄に「韓国」と記載することについては八三頁にのべたが、これにより在日朝鮮人の国号の呼称(国籍ではない)に二種類を生じ、在日朝鮮人中には「朝鮮」から「韓国」に変更を申請するものが漸次増加していた。

 その観念があまりに放縦にすぎ、たとえば韓国に商用に赴く必要から国号を韓国と変更し、帰日すれば朝鮮と再変更を申請するものや左翼と民団の勢力争いに利用され変更手続をとるものなどが続出したもので、二十六年に入つて外国人登録証明書の「国籍欄」の記載事項の書換について、駐日韓国代表部発行の「大韓民国国民登録証」の添付を要することとし、親子、夫婦等の同一家族間で国号を統一するために国号変更を申請したとき、婚姻その他の身分法上の変更が生じたとき、またはその他の理由により昨号変更を申請したときは、変更をみとめることとし、その取扱を規定した(1)。しかし、これはいずれも駐日韓国代表部の証明書の添付を要するため、「韓国」から「朝鮮」への変更は事実上不可能であつた。

 その後、二十七年秋の外国人登録証明書の切替に際しては、「旧証明書の記載事項をそのまま新証明書に記載し、無用の混乱を避けることとし(2)、」その後、公的文書の添付不可能な国号変更申請は、理由書を提出せしめ、都道府県を通じ法務大臣に承認を伺い、その決裁を得て取り扱うこととなつた(3)。これにより「韓国」から「朝鮮」へ変更したものも若干みられた。

 その後、民戦系の指導下に、全国市区町村の窓口に対し、「韓国」から「朝鮮」への国号変更の強訴陳情が引きつづき行われ、とくに、登録切替の時がはげしい。その理由に、

(イ) 内戦状態であるから、統一されるまで一応「朝鮮」と変更したい。

(ロ) 代理人により知らないうちに「韓国」とされた。

(ハ) 韓国代表部発行の国民登録証を所持しない。

(ニ) 周囲が全部「朝鮮」であるから、ひとりだけ「韓国」とするのは具合がわるい。

(ホ) 商用のため便宜上「韓国」としたが、その必要がなくなつたので「朝鮮」に変えたい。

 などをあげている。

 これについて、北鮮南日外相の抗議声明もあり(4)、また日本人側学者の著述や国会で「これは国籍取得に関する間接強制であり」(5)、「国籍選択の自由を日本政府が干渉する疑をもたれる」(6)という非難もあるが、当局は「原則は国籍選択の自由がある建前をとるが、国籍変更のために確認すべき資料を要し、結果として、韓国籍のものの朝鮮への変更が事実上困難となつている」のと答弁している。

 この国籍欄については、先述の二十五年二月の法務総裁談で「国籍や国家の承認と無関係」とのべられており、本質的に北鮮と韓国に分つものでなく、また実際的に本国の南北の政治的抗争から中立でありたい気持のものは従来の「朝鮮」をそのままにしている。また韓国支持者でも、駐日韓国代表部の発給する国民登録証入手の費用、手数を煩わしく思うものは、その書換処置をとらないものもある。

 この国籍の移動については、前述のごとき事務措置が定められていることから、その変更のない限り、今後この%に大きな変化が生ずることは考えられず、この統計をもとに、韓国支持、北鮮支持の区別をみるのは、無意味である。

 今日まで在日朝鮮人の韓国支持、北鮮支持の勢力分野について、登録の%とは別の、つぎのごとき見解がある。

イ、韓国支持四五%、中間三〇%、容共反韓二〇%、共産党五%(二十六年十月権逸氏)(8)

口、右派三七%、中間三四%、左派二九%(二十七年九月李大偉氏)(9)

ハ、韓国支持二〇%、中間浮動票六〇%、北鮮支持二〇%(二十八年十二月入国管理局長鈴木一氏)(10)

ニ、九九・五%が朝鮮民主々義人民共和国の国籍をとつている(二十八年十一月大山郁夫氏)(11)。

 

注(1) 二十六年一月十二日(管二二合第二七号)「外国人登録証明書の国籍変更に関する取扱に関する件」

二十六年二月二日(管二二合第一〇九号)「朝鮮または韓国の国号呼称の取扱に関する件」

(2) 二十七年六月二十四日(実三合第五九四号)「在日朝鮮人および台湾人の国籍に関する件」

(3) 二十七年八月七、八日東京で開かれた外国人登録事務全国主管課長会議の際の回答

(4) 「新亜通信」二十九年八月三十一日

(5) 平野義太郎『アジアの民族解放』第三章「在日朝鮮人にかんする民族問題」

(6) 二十九年十一月五日参議院法務委員会における羽仁五郎氏質問

(7) 右に同じ。内田入国管理局長説明

(8) ★権逸「在日同胞の実態」

(9) ★李大偉「在日韓僑の実態とその対策」(二十七年九月・在日韓国基督教青年会)

(10) 『親和』第二号、鈴木一「在日朝鮮人問題のABC」

(11) 二十八年十一月七日、北鮮平壌における演説(「新亜通信」十一月十一日)

 

3、指紋押なつ制度の実施

 外国人登録に、指紋押なつ制度を採用することは、アメリカでは厳正に行い、諸外国でも実情に応じて採用して効果をあげている関係から、一部では早くから要望されていたが(1)、当局においてもその必要性を痛感し、外国人登録法の立法に際し、その第十四条において指紋押なつ義務が規定された。これは、指紋の万人不同、一生不変であることを利用して登録証明書の偽造変造(2)、二重登録を発見防止するためのものであるが、この制度がわが国のはじめての試みであり、犯罪捜査に利用するのではないかという誤解があり、その制度の啓蒙周知の必要という観点から第十四条の規定は即行をさけて附則で「この法律施行の日(二十七年四月二十八日)から一年以内において政令で定めた日から施行する」としていた。しかしその後「この制度についての誤解が多く、その強行は、当時好転を期待されていた日韓両国の国交調整に無用な支障をあたえるおそれあり」という客観状勢の判断から、二十八年五月三十日法律第四十二号で、猶予期間をさらに一年延期した。当局は二十九年度から実施する予定で、諸般の準備をととのえていたが、緊縮予算の建前から、閣議決定で新規事業は一切行わぬことになつたため、また一年延長し、二十九年四月二十日法律第七十号で、外国人登録法附則第一項但書中、「二年以内」を「三年以内」に、すなわち三十年四月二十八日までに政令で定めることになつた(3)。三十年三月五日政令第二十五号により四月二十七日から指紋押なつ制が施行されることになり、同じく政令第二十六号で指紋に関し必要な事項をさだめ、これに伴い同日付法務省令第四十六号「外国人指紋押なつ規則」を制定した。

 指紋採取の方法に、一指による押なつと十指による押なつと二つの方法があり、十指は一指指紋より分類が簡便で、照合も容易であり、とくに犯罪捜査にもつとも価値を発揮する。しかし現状では、十指は「犯罪人扱いする」誤解をあたえ、その強行は市町村の窓口を混乱せしめ、かつ、外国人登録の切替時に、一日に五、六百名に達する申請者にこれを行うことは、事務的に不可能にちかい。

 一指は簡便で、東洋で証文の判にかわつて親指の印をおした慣習からも納得されるし、大挙申請に応じ得るし、指紋採取の対象が三十余万(十四才以下をのぞく)に限られているので、分類方法によつては、十指と同じ利用価値を発輝しえて、人間の同一性を確認する登録法の趣旨の上から、これで充分であるとしている。当局では研究の結果、一指の紋様を大約四百種にわかち、その紋様形成の隆線の形状等により細別できるので、その種類は約三千種にしうるとの確信をもち、さらに、性別、年令別等の区分も加味すれば、本人の同一性識別には、これで充分その目的を達しうるとして、新規登録、引替交付および切替の申請に一指指紋を実施することになつた。ただし登録証の再交付には、十指指紋を実施する。これは数が少ないので実施が容易であり(4)、かつ再交付により悪用されることを警戒するためである(5)。

 この指紋実施について、朝鮮人側には依然非難の声がある(6)。

 

注(1) 二十四年十一月十五日(法意一発第六八号)法制意見第一局長より外務省連絡局長あて「外国人登録令による登録事項として指紋を追加することについて」(「法務総裁意見年報」昭和二十四年度)東海北陸地方民事部法務課長サリヴァン氏が、写真ではアイデンティフィケーションができないから指紋を加えることを県民事部廃止前に実現させたいと要望していた。

二十六年五月二十五日、二十六日、衆議院行政監察特別委員会における古屋東京警視庁刑事部長、鈴木入国管理局長証言

(2) 外国人登録証明書の朝鮮人による不正発行については、上記の枚数が判明している。

登録証明書の盗難偽造は、最初から頻発していたが、「読売」三十年四月二十五日には、警視庁防犯部が大規模な外人登録証の偽造団を検挙し、未記入の外国人登録証二〇一一枚を発見押収したと伝えている。

(3) 二十九年五月十二日(管登合第二九二号)「指紋押なつ制度の実施延期に関する件」

(4) 二十八年四月から二十九年三月までの再交付数は五八八八名あり、その九割以上が朝鮮人である。

(5) 一指指紋の実施については、二十九年二月二十六日衆議院法務委員会鈴木入国管理局長説明。九月二日衆議院法務委員会

「外国人の出入国に関する小委員会」における豊島入国管理局登録課長説明

(6) 『新しい朝鮮』第七号(三十年五月)高城浩「指紋登録について」

「総親和」第五号(三十年四月十一日)

「KP」三十年五月二十四日、五月十六日民団中央総本部発表声明書

 

 

 

      Ⅴ 平和条約発効後の文教・民生問題

 

         一、文教問題

1、義務教育と朝鮮人学校

 在日朝鮮人児童生徒数は、二十九年五月一日現在、小学生約九万、中学生三万余(1)で、この数を二十九年五月の在日朝鮮人総登録数からみると、二一%をしめており、これは日本人総人口に対する児童生徒数の比二〇%(2)をこえ、韓国における全人口に対する児童生徒数の比一三%(3)よりはるかに上である。

 これは、適齢児童がほとんど入学していることを物語り、とくにその率が日本人以上であるのは、総登録数に対する適齢児童の年齢構成が日本人のそれより大きな割合をしめていることおよび適齢以上の年長者が入学していることが原因と考えられよう(また未登録者の入学も若干は考えられよう)。朝鮮人の教育に熱心なことが察せられる。

 なおこの中で、朝鮮人だけの教育施設(学校、常設学級、特設学級)入学者について、小・中・高等学校まで合せて、文部省は一万七千余を数えているが、在日朝鮮人学校PTA全国連合会では二万二千余(二十九年一月)、民戦では、二万六千余(二十九年十月)(ともに無認可をふくむ)と称している。

 平和条約発効後、在日朝鮮人の義務教育に関しては、その最初の入学年度(二十八年四月)を前に、二十八年二月十一日に文部省初等中等教育局長から左の通達を発した(4)。

1、(イ)、朝鮮人子女の就学については、従来、日本の法令が適用され、すべて日本人と同様に取り扱われてきた。しかるに平和条約の発効以降は、在日朝鮮人は日本の国籍を有しないこととなり、法令の適用については、一般の外国人と同様に取り扱われることとなつた。

(ロ)、従つて、就学年齢に達した外国人を学齢簿に登載する必要はないし、就学義務履行の督促という問題も生じない。なお、外国人を好意的に公立の義務教育学校に入学させた場合には、義務教育無償の原則は適用されない。

2、しかし朝鮮人については、従来からの特別の事情もあるので、さしあたり次のような措置をとることが適当と考える。

(1) 日韓友好の精神にもとづき、なるべく便宜を供与することを旨とすること。

(2) 教育委員会は、朝鮮人の保護者からその子女を義務教育学校に就学させたい旨の申出があつた場合には、日本の法令を厳守することを条件として、就学させるべき学校の校長の意見を徴した上で、事情の許すかぎりなお従前通り入学を許可すること。

 終戦以後、在日朝鮮人側では子弟の教育問題を大きくとりあげてきていたが、この通達について、右翼側は、朝鮮人の法的地位の確定する日韓会談の妥結をまたずして、この措置をとつたことを非難し(5)、左翼はその前より展開していた朝鮮人学校の私立移管反対・朝鮮人学校閉鎖反対運動を積極的にし(6)、公立の学校特設学級を死守拡大し日本側学校通学児童の奪還実現のため教育関係団体の全国的組織強化をもとめ、さらに日本教職員組合に訴え、二十八年一月の第二回教育研究大会で「平和教育の一環として在日朝鮮人教育の実際と対策」を論議した(7)。また中央朝鮮師範学校(無認可)を二十八年十月から開いている(8)。

 朝鮮人学校私立移管反対運動の理由としては、

(イ) 在日朝鮮人を一般外国人と同一視せず、特殊な歴史的社会性を考慮されたいこと。

(ロ) 私立移管は経済的になりたたぬこと。

(ハ) 日本国民と同じく税を収めていること。

(ロ) 法律的に無根拠なこと。

などをあげている(9)。

 文部省は、朝鮮人教師による朝鮮語の教科書で、各科教育の実施を希望することに対して、

「学校教育法その他教育関係法令に定める教育以外の事項の実施の責任と義務は、国ならびに地方公共団体の負うところではない」(10)

「希望によつて日本の学校に在学する場合、その教科に関しては、当然学校教育法の定めるところによるべきである」(11)

 朝鮮人学校への援助要請に対して、

「通達(注、二十八年二月十一日)は朝鮮人のための特別の施設を設け、または朝鮮人の設けた施設に特別の援助をなすべき趣旨をふくむものではない」(12)

 とのべている。

 東京都では前述のごとく公立学校として朝鮮人小学校十二、分校一、中学校一、高等学校一が残り(朝鮮人学校の経営に《臨時支出は別》二十八年度は七八四五万円余、二十九年度は八五二人万円余支出)、そこに二十九年三月末に児童・生徒四六七二名、朝鮮人専任講師四十名、時間講師六十六名(三十年二月には小学児童三一九五名、中学校生徒一五二三名、高等学校生徒六一四名、計五三三二名)いた。

 しかし、都教育委員会の威令は徹底せず、所定の朝鮮人講師以外に、朝鮮人学校PTA連合会任命の学校勤務員がおり(二十九年末に約四十名)、教育内容に北鮮系教育が行われ、勝手に教員が任命され、日本の祝祭日に授業を強行して、北鮮の記念日にその行事を行い、日本人教師がつるしあげをされ、生徒がデモに動員される等のことがあり、世論がやかましく(13)、ことに二十八年秋、その運動会の天皇侮辱の仮装行列事件については、国会で論議されたこともあり(14)、東京都教育長はたびたび通達により注意をうながしていた。二十八年末以来、東京都教育委員会とPTA連合会の代表者は学校運営について協議懇談し、二十九年三月二十日、都教育委員長とPTA連合会理事長の間に、学校運営についての覚書およびそれについての諒解事項の調印をみたが、その後実施細目の協議に移つてまとまらず、四月に東京都教育委員会は最後の通告を発して反省を求め、一応承認されたが、誠意をもつて守られぬため(15)、十月に、三十年三月末かぎり都立学校の廃止を決定し(16)、一月二十八日「東京都立朝鮮人学校設置に関する規則」の廃止に関する規則を決定した。その後、朝鮮人側で反対気勢はつよかつたが、三月初めに有利な案で私立各種学校として発足する態勢をとつた(17)。

 なお、大阪にある財団法人朝連学園代表者は、府当局が大阪府下朝鮮人学校三十二校(分校四をふくむ)に対し、二十四年十一月五日に発した学校閉鎖命令の取消を求める訴訟を十一月十日大阪地方裁判所に提訴していたが、二十七年十二月、これらの学校の教育基本法違反、学校教育法違反の諸条項が指摘され、原告の請求棄却の判決があつた。

 朝鮮人学校問題は、東京都だけでなく、全国的に問題多く、二十八年六月二日の全国知事会議で左のごとく決議されている。

        在日朝鮮人文教基本政策の早期確立に関する要望

  在日朝鮮人文教政策は各都道府県によつて異り、従つて都道府県の教育委員会および市町村教育委員会の態度もまた区々である。文教政策の地方分権化は、教育民主化の第一要請ではあるが、在日外国人の文教政策については対外政策の一環として、政府において基本方針を確立して各都道府県及び市町村の態度に統一と方向づけを与え、文教の面においての日鮮の基本的関係を早急に確立せられたい。

  右要望する。

 また、韓国支持の在日朝鮮人は、はやくから私立の方針をもつており、朝連解散後、大阪、京都でその私立がみとめられていたが、二十八年に民団から韓国政府に在日児童教育対策樹立の必要性を建議し(18)、そののち韓国政府でも積極的になり、国会に在日児童国民教育実施案が提出され(19)、二十九年初には、東京で韓国学園設立期成会がうまれ(20)、四月に東京韓国学園が民団中央総本部の建物の一部を改造して発足した(21)。これは各種学校として認可されている。

 

注(1) 文部省調査局統計課「文部統計速報」第七十二号(二十九年十二月)によれば、外国人児童生徒数小学生九万〇三四九、中学生三万一七九七とあり、この中には若干の中国人その他の外国人をふくんでいるが、その九五%以上は朝鮮人である。

(2) 日本人総人口八七三〇万(総理府統計局推計人口)小学生一一七五万〇九二三、中学生五六六万四〇六六(「文部統計速報」七〇号)により計算した。

(3) 二十七年三月末総人口二〇五二万六七〇五名(軍人軍属除外)、国民学校生徒数二三六万九八六九名、中学校生徒数三一万二〇七一名(★「大韓民国統計年鑑」創刊号)とあるが、総人口は軍人軍属数を加えて二一〇〇万として計算した。

(4) (文初財第七四号)都道府県教育委員会あて「朝鮮人の義務教育学校への就学について」

(5) ★「新世界新聞」二十八年二月十五日、十九日

(6) ★「解放新聞」二十八年二月十八日

(7) 雑誌「平和と教育」(二十七年八月―二十八年)の各号にその主張をのせている。

(8) ★「解放新聞」二十八年九月十九日、十月二十九日、十二月十九日

(9) 在日本朝鮮人学校PTA全国連合会「教育の自由を守るために」

(16)の(イ)に対する東京都立朝鮮人学校PTA連合会理事長から東京都教育委員会委員長あて申入書

(10) 二十八年七月十七日(委初第三〇八号)文部省初等中等教育局長「朝鮮人の義務教育学校への就学について」

(11) 二十九年六月二十六日(文初地第七四号)文部省初等中等教育局長「在日朝鮮人の教育について」

(12) 二十九年十一月四日(委初第三七三号)文部省初等中等教育局長「在日朝鮮人青少年教育について」

(13) これを一番問題視したのは「読売」で、二十七年八月二十日から二十七日まで連続的にとりあげている。

(14) 二十八年十二月八日衆議院文部委員会

(15) 『親和』第八号「東京都立朝鮮人学校の開題」―東京都教育庁黒川学務部長にきく―

二十九年三月九日参議院文部委員会における大達文部大臣答弁、斎藤文部省初等中等教育局地方課長説明

(16)(イ) 二十九年十月五日東京都教育委員会教育長より都立朝鮮人学校PTA連合会理事長あて「都立朝鮮人学校廃校措置について」

  (ロ) 同、十月七日衆議院地方行政委員会における松沢東京都教育委員長証言

(17) 「朝日」三十年三月四日

(18) 「民主新聞」二十八年二月二十六日

(19) 「KIP」二十八年五月二十一日、「東亜新聞」五月二十三日、「民主新聞」十月二十日、「KP」十一月二十五日、二十九年二月二十五日

(20) ★「新世界新聞」二十九年一月十七日

(21) 「民主新聞」二十九年三月一日、四月十一日

 

 2、学生

 在日朝鮮人大学生は、二十九年五月一日現在、二三八三名で、在日全外人学生三七六八名中その六三%をしめる。

 朝鮮人大学生数を在日朝鮮人総登録数からみれば、〇・四二%であり、これは日本総人口に対する日本人学生の比〇・六七%(1)よりはひくいが、韓国の総人口に対する人学生数の比(韓国も六、三、三、四制である)〇・一六%(2)の二倍をこえる。韓国政府は正式な日本留学を容易にみとめないので、今日、出入国管理令にもとづく「本邦の学術研究機関または教育機関において特定の研究をうけようとするもの」として、在留資格を得て韓国より日本に入国を許可されたものは、平和条約発効以後十二名のみである。このほかに、それ以前の入国者で平和条約発効後、在留資格の取得申請をして留学生の資格を得たものは十六名いる。

 韓国の学生は、韓国の学究施設が充分でなく、かつ召集・徴用が相つぎ、落ちついて勉強できないので、不法入国者があとをたたず、未発覚のまま日本の学校に在籍するものが相当数あつた。

二十七年夏に入国管理局で、学生にかぎり特別に緩和的措置を示唆し、そのため警察または入国管理事務所に自首し、二十七年末までに異議申立をするものが一一一件におよんだ。入国管理局では、このうち入学後相当の期間の実績をもち、就学状況がよく、まじめな学生五十一名に特例として在留を許可した。これらをふくめ、不法入国者でありながら特別に留学生の資格(四―一―六)があたえられたものは、五十八名いる。しかし、その後は、非合法に居住するものの入学を防ぐため、入学を許可するにあたつて外国人登録証明書の呈示を求めることになつた(3)。

在日学徒の指導について民団では、二十八年二月韓国政府に対し、

(イ) 教育指導官を派遣すること。

(ロ) 育英会基金となるべき奨学金を交付すること。

(ハ) 本国の学徒父兄から学資金送付を許可すべきこと。

(ニ) 現地留学生制度を実施すべきこと。

(ホ) 就職対策を樹立すること。

 などについて、建議したことがあつた(4)。日本人側の就職難時代に、在日学生の卒業生の正規採用はほとんどないといつてよく、それに在日朝鮮人会社や企業家でも採用には朝鮮人より日本人をえらぶため、就職事情はきわめて深刻である(5)。

 

注(1) 日本人大学生数は、五八万〇六四三(二十九年五月一日「文部省指定統計」文部省統計速報七一号)より算出

(2) 韓国は二十七年総人口二一○○万(一九九頁)、二十七年八月大学生、大学院生三万二五四二(★「大韓民国統計年鑑」創刊号)より算出。

(3) 二十八年二月三日(管審第二号)入国管理局長より文部省大学学術局長あて「非合法居住外国人の就学防止に関する件」

二十八年二月十一日(国調第四一号)、文部省調査局長、初等中等教育局長、大学学術局長より国公、私立大学、短期大学、都道府県知事、都道府県教育委員会あて「非合法居住外国人の就学防止について」

(4) 「民主新聞」二十八年二月二十六日

(5) ★「花郎」第六号(二十七年十月)趙容達「在日韓国留学生の現状とその対策」。座談会「留学生の実情とその対策」

★「花郎」第四巻第二号「本国学生代表をむかえて」

★「新世界新聞」二十八年三月十三日社説「卒業生の就職難解決のための建議案」。同四月三十日

★「新世界新聞」二十九年一月二十四日趙万済「留学生の実情と課題」

 

3、朝鮮奨学会

 朝鮮奨学会については、二四頁に記したが、終戦後、東京都新宿区角筈二丁目九十四番地にある建物は、朝連の結成準備委員会の事務所に使用された。朝連は川岸理事長に交渉して、理事を改選し、新たに麓保孝(終戦連絡事務局文教課長)、梶川裕(終戦時の朝鮮総督府学務課長)、尹炳玉氏ほか朝鮮人四名で理事会が構成された(理事の登記は

二十一年二月七日)。

その時、従来の寄付行為の規約を改正し、奨学会を在日本朝鮮学生同盟(二十年十二月二十四日発会)の機関たらしめるように改編し、

「本法人は、日本諸学校に在学する朝鮮人学生に対する保護援助をなすを目的とす」(第一条)

「本法人は前条の目的達成のため、左の事業を行う、

 一、在日本朝鮮学生同盟の事業遂行に必要なる経費の供給 二、学資金の給貸与 三、進学に関する斡旋 四、厚生保健に関する事項 五、その他本会の目的を達するために必要な事項」(第二条)

「本法人の理事および監事は、学識経験あるものにして、在日本朝鮮人学生の総意により推せんせられしものの中より理事会これを定む」(第七条)

 のほか、とくに「理事会において議決すべき事項」の中に、

「在日本朝鮮学生同盟の事業および予算に関する事項」(第十八条四項)

「理事会には、在日本朝鮮人学生より選出せられたる理事同数のものこれに参加することを得」(第十九条)

と規定した。

 それ以後在日本朝鮮学生同盟の事務所は、奨学会内に移つた(この建物の使用について総司令部から口頭で許可をうけたという)。その後、学生同盟に対して朝連の発言が強くなり、二十一年十月二十日、理事長は、朝連中央総本部委員長尹槿、常務理事に韓秉柱、理事に麓保孝(文部省視学官)、梶川裕の日本人二名のほか六名の朝連幹部が就任した。

 二十一年六月十八日、文部省学校教育局長は、

「従来、日本の学制の下に教育せられた在日華僑、台湾人、朝鮮人等のような学生については、日本の学生と同様に取り扱うのを原則とする。ただし、今後は責任ある関係団体の要望があり、これを調査して適当とみとめらるる場合には、前記要領に準じて便宜供与を考慮すること」

 と通達したが(1)、二十二年二月二十日には、

「便宜供与に関しては、爾今つぎの機関団体の身分証明、紹介、推せんあるものにかぎり学校の事情に即して考慮すること」

 として、朝鮮人学生には、朝鮮奨学会を指定した(2)。

 在日本朝鮮学生同盟は、本来、全学生を糾合するを本旨としていたが、その後、内部で左右の対立がはげしくなり、二十四年五月八日、明治大学講堂で開かれた関東本部定期総会で乱闘が行われ、その後、従来学生同盟の左翼のいた奨学会の建物は、一時右翼が占拠して太極旗をひるがえした(3)。この後、在日本韓国学生同盟が在日本朝鮮学生同盟から分裂して結成された。

 元来、朝鮮奨学会の事務所は、朝鮮教育財団(朝鮮民事令により設立)名により登記され、朝鮮奨学会維持財団(朝鮮民事令により設立)に無償で貸与されたものであり、これは、財団法人朝鮮奨学会(日本民法により設立)に登記されないままであつた。

 朝鮮教育会は、終戦後京城で解散の決議をし、財産の処分について「朝鮮にある財産は、朝鮮の教育機関に寄付する。日本にある財産は、日本の教育機関に寄付することとし、それを日本政府にひきつぐ」決議をした。ただし、この決議は、書類もなく、かつ、その後米軍政庁法令第三十三号がでたため無効となつた。従つて、法的に奨学会の所有でもなく、まして学生同盟の占拠に任すべくでもない。その後建物の占拠は問題が多いので、左右の学生同盟ともに退き、第八軍指示の下に、淀橋警察署が警備することとなつた。平和条約発効後も警察官の警備がつづいたまま奨学会の事務所はそこにおかれている。

 当時、駐日代表部鄭大使は「この事務所は、当然韓国のものであり、総司令部に交渉中である」と語つている(4)。

 二十五年十一月八日、財団法人朝鮮奨学会寄付行為を改正し、「この法人は日本の諸学校に在学する朝鮮人学生を指導保護し、もつて朝鮮建設に有為な人材を養成するを目的とする」(第二条)、事業として「進学の指導斡旋、学資金の給貸与、職業の補導斡旋、寄宿舎および会館の経営、厚生、衛生に関する事業、その他必要な事業」(第三条)をし、「この法人の理事および監事は、学識経験あるものにして、この法人の目的に賛同するもののうちから文部大臣の認可をうけて、理事会がこれを互選する」(第六条)と改正し、従来の理事に旧朝連系のものが多かつたので、それを改めるところがあつた。

 二十五年には、居留民団が韓国代表部から文教に関する行政事務を委嘱されて、学生指導対策委員会を結成して、推せん決定試験や学力判定試験を行うことになつた。そのために、受験シーズンには、朝鮮奨学会および民団文教部(または在日本韓国学生同盟)の双方で、進学推せん試験が行われるが、これらの統一を望む声はつよい(5)。しかし、日本の各大学の入学条件が奨学会の推せんによつて左右されているとはいえない。

 

注(1) (発学第二七九号)帝国大学総長、官公私立大学(総)長、同高等専門学校長、教員養成諸学校長あて「外国人留日学生取扱に関する件」

(2) (発学第二七九号)「外国人留日学生取扱要領に関する件」

(3) ★「新世界新聞」二十四年五月十一日、「民主新聞」二十四年五月十四日、二十一日

(4) 「民主新聞」二十四年五月十四日

(5) ★「新世界新聞」二十八年三月二十四日「推せん機関の統一渇望」

 

 

          二、事業活動

 「外国人の財産取得に関する政令の規定を適用しない外国人指定」の表に「大韓民国」があり、ここにいう大韓民国人には、在日朝鮮人すべてをふくむと解されているので、

 (イ) 土地、建物、工場、事業場もしくはこれらに付属する設備または鉱業権、租鉱権、もしくはこれに関する権利

 (ロ) 前号に掲げる財産の貸借権、使用貸借にもとづく借主の権利、地上権、永小作権、もしくは質権、抵当権、その他の担保権等

 (ハ) 特許権

 を取得するにあたつて、外資委員会の許可を要せずになし得ることになつている(鉱業権、特許権については、鉱業法、特許法の規定がある)。

 しかし、大韓民国国民にあたえられる待遇は通常日韓両国のとりきめにもとづく相互主義を前提とするので、未だ日韓会談のまとまらぬため、その取扱には慎重を期している(1)。

 

注(1) 二十七年七月十八日(亜二第八一一号)外務省アジア局長より大蔵省銀行局長あて「外国人の財産取得に関する件」

 

1、信用組合

 朝鮮人の信用協同組合設立については、国内法規にもとづいて都道府県知事の権限で認可されており、大蔵省としては「国籍による差別待遇をすべきでなく、経営者に信用経験の充分なものを選ぶという一般の基準に従つて処理する」方針を示している(1)。しかし、金融機関数の増加に伴い、その競合重複が問題となつているので、金融制度全体の能率化と金融機関自体の経営基礎強化の見地から、原則として信用協同組合の濫設をいましめており(2)、朝鮮人側の新しい組合の設立認可はきびしいといえる。

 東京の同和信用組合の結成されたのはもつともはやく二十七年六月である。当時左右両陣営からそれぞれ組合設立申請書が政府当局に提出されたのに対し、当局は左右一本にまとめれば設立を許可する方針を示したので、それにより一体となつて発足し、良好な成績を収めていた。しかし二十八年春から紛争がおこり、ついに左翼に占拠され、右翼は別に漢城信用組合を組織して発足した(3)。

 朝鮮人信用組合のうち、同和、大同、商工、大栄、共和、朝銀茨城、朝銀福岡の七信用組合の連合体として、在日本朝鮮人信用組合連合会が二十九年一月に結成されている。大阪商銀は、日本人朝鮮人共同出資で(4)、役員構成は双方一対一である。

 韓国政府は、韓国支持の在日朝鮮人の中小企業体に二百万ドルを融資する構想をもち、この案は二十八年三月二十七日に韓国の国務会議を通過したと伝え(5)、これについて、代表部が政府機関として総括的監督、韓国銀行が融資金の保管と信用組合の資格審査および特別会計事務の取扱、民団は融資対象者の身元保証推せんなどの役割をきめて(6)、この受入をめぐつて各地に信用組合や協同組合の結成をすすめていたが(7)、いまだにその受入は実現しない。

 二十八年二月十七日、在日本朝鮮人商工連合会(東京都台東区御徒町三ノ六)は、外務大臣に朝鮮人中小企業に融資のわく二十億円を要求する請願書を提出し、三ヵ年の期限で、朝鮮人各地の信用組合に預託を希望し、また国民金融公庫資金、生業資金の貸付を請うた。

「人民銀行的金融機関である信用組合を設けて、経済的土台を再編成し、あらゆる経済権益を確保し、民族資本を育成し、朝鮮人民銀行の設立」(8)、「信用組合を中心とした相互援助と融資闘争」(9)は、民戦の商工人対策としてうちだされたところである。朝鮮人の信用組合が、左翼の組織活動に利用されることへの警戒もあり、日韓会談妥結前に既成事実をさけようという立場もあり、政府の明確な綜合的方針を望む声がある(10)。

 

注(1) 二十七年四月二十四日(蔵銀第一九九五号)大蔵省銀行局長より兵庫県知事、神奈川県経済部長あて「第三国人による信用協同組合の設立について」

二十七年七月一日(蔵銀第三三三九号)大蔵省銀行局長より兵庫県知事あて「外国人による信用協同組合の事業認可について」

(2) 二十九年六月二十三日(蔵銀第一五九三号)大蔵事務次官より県知事あて「信用協同組合の監督について」

(3) 「民主新聞」二十八年九月十七日

(4) 「KEP」二十八年六月二十四日、★「新世界新聞」二十八年七月十五日

(5) 「東亜新聞」二十八年四月十八日

(6) ★「新世界新聞」二十九年三月一日

(7) 「民主新聞」二十九年二月一日

(8) 第六次民戦拡大中央委員会の決定(二十八年六月十日)

(9) 民戦第五次全体大会における「一九五五年度の活動方針」(民戦中央委員会編「在日朝鮮人の当面の任務」)

(10) 「産業経済新聞」二十八年五月十六日

 

2、鉱業権

 鉱業法に、外国人は鉱業権者、租鉱権者となることができない規定(第十七条、第八十七条)があるが(1)、二十八年七月九日にその一部が改正された際に、「日本国との平和条約の規定にもとづき、同条約の最初の効力発生日において、日本国籍を喪失したものが、その日に鉱業権または租鉱権を有していたときは、そのものおよびその相続人は、鉱業法第十七条(同法第八十七条において準用する場合をふくむ)の規定にかかわらず、昭和二十九年四月二十七日までは、当該鉱業権または租鉱権を有することができる」こととなつた。

 朝鮮人鉱業権所有者は、二十七年十二月一日現在、単独四十九件、共同十六件、租鉱権一件、計六十六件あつたが、その後行政指導の結果、二十九年四月二十八日に、単独四件、共同一件、租鉱権一件となつた。単独のものは国庫に帰属し(民法第二三九条第二項)、共同のものは他の日本人に帰属し(民法第二五五条)、租鉱権は消滅した(2)。

 

注(1) 二十七年十一月十五日(法制局一発第三二号)法制局第一部長より通商産業省鉱山局長あて「鉱業法の解釈について」(『法制局意見年報』第一巻、昭和二十七年度、七「日本国籍の喪失と鉱業権」)

(2) 二十九年三月十九日および四月二十六日衆議院外務委員会における村田通産省鉱山局鉱政課長、小滝外務政務次官、鶴見外務省アジア局第五課長説明

 

3、船舶

 在日朝鮮人の所有している船舶数は、明らかに把握されていない。

 二十八年に入つて運輸省は、管海官庁で朝鮮人の所有する船の調査を行い、二十総トン以上の船舶の抹消登録および船鑑札返還の催告をするとともに、手続を履行せぬものに登録の抹消および船鑑札台帳の閉鎖をするよう指示した(1)。

 朝鮮人が外国人となるとともに、その所有する船は外国船となり、船舶法第三条の規定が不開港場に寄港し、または沿岸輸送をするためには、運輸大臣の特許を必要とすることになつているが、従来、日本人になつていた関係からその適用は厳密に行われず(2)、運輸省としても日韓会談をまつ意向であつたが、遷延も許されないので、二十九年八月七日にその適用について、左の処理要領を指示した(3)。

一、平和条約の発効のため、日本の国籍を喪失したもの、または平和条約の発効のために日本船舶を所有する資格を喪失した法人が、平和条約発効の日まで日本船舶を所有し、当該船舶を専ら現在の日本領域にある各港間を運航せしめており、かつ現在もなお引き続き当該船舶を所有し(相続、合併等包括承継により取得した場合をふくむ)、その船舶を専ら日本の各港間を運航せしめている場合には、当該外国人および法人に対し、船舶法第三条により当該外国船舶による不開港場寄港および沿岸輸送については、向う一ヵ年間をかぎり、区域を限定して包括的に特許することとする。

二、右特許については、次の条件を付するものとする。

 (イ) 当該船舶を日本と外国との間に航行せしめないこと。

 (ロ) 旅客および危険物を運送しないこと。

 (ハ) 特許書は、常時船内に備えおき、要求に応じて関係職員に提示すること。

 (ニ) 右の条件の一に違反した場合、または関係法令に違反した場合には特許をとり消すこと。

三、本件に関する特許事務は、上記船舶所有者の主たる事務所を管轄する地方海運局長が行うものとし、あらかじめ本省から地方海運局長に所定の特記用紙に運輸大臣の官印を押なつしたものを交付しておくものとする。

地方海運局長が右の特許をあたえた場合には、本省あて報告するものとする。(以下略)

 漁船については、二十六年一斉に漁船の登録が行われ、その登録票の交付をうけたものは、交付から三年を経過したのちに、都道府県知事から検認をうけねばならないが(船舶法第十一条第二項)、在日朝鮮人は平和条約発効後外国人となつたため、所有の漁船はすべて外国船となり、すでに登録の効力を失つたので(漁船法第十五条)、ただちに抹消の手続をとるよう指示され(4)、これらの漁船が不開港場に入港するには、種類大小の差なく、船舶法にもとづく運輸大臣の特許を必要とした(5)。

 

注(1) 二十八年三月九日(舶登第二〇二号)運輸省船舶局長より都道府県知事あて「朝鮮人所有の船鑑札船の取扱について」二十九年六月三日(舶登第五三九号)運輸省船舶局長より地方海運局長、同支局長あて「朝鮮人および台湾人等の日本の国籍喪失に伴う船舶法第十四条の規定による登録の抹消手続について」

(2) 二十九年四月二十六日衆議院外務委員会における岡田運輸省海運局外航課長説明

(3) 二十九年八月七日(海外第三八〇号)運輸省海運局長より地方海運局長あて「平和条約発効に伴う在日朝鮮人等の所有する船舶に対する船舶法第三条の適用について」

『親和』第十一号「在日朝鮮人と船の問題―運輸省海運局外航課長にきく」

(4) 二十九年三月十七日水産庁長官より都道府県知事あて(二九水第二五九七号)「昭和二十九年度以降における漁船法登録の検認ついて」

(5) 二十九年三月二十二日水産庁生産部漁船課長より都道府県水産主務部長あて「漁船登録検認実施要領の取扱について」

 

4、その他

 農地取得

 朝鮮人が農地を取得しようとして申告のあつた場合、また国有農地等をうりはらう際の買受相手方の場合などについて「韓国人については『外国人の財産取得に関する政令』の適用はないが、日韓会談において、韓国人の土地等の取得についてとりきめの行われるまでは、農地等についての権利移動の許可は、さし控えられたい」と指示されたが、しかしその後、内容によつては、処理してもよい方針がとられている(1)。

 弁理士

 外国人に対して相互主義の原則にたつているので、在日朝鮮人の弁理士の資格は抹消された(2)。しかし、かつて弁理士登録簿に登載されたものはみな朝鮮に引き揚げたと推定されている。

 工業所有権等(特許権、実用新案権、意匠権および商標権)

 日本にいる間は、従来の権利は享有である。

 印鑑証明

 平和条約発効前の印鑑届出は、寄留簿に照合して氏名を確認していた。東京都では二十八年一月十三日、印鑑条例の施行細則が改正され「外国人登録原票に照合し、相違ないことを認めたうえで、受理する」こととなつた(印鑑事務は、区市町村の慣例による事務であり、東京都は条例でさだめられている)。

 なお東京都の場合、土地家屋の名義を本名にかきかえるためには、区市町村から同一人である旨の証明書をうけて、不動産の名義人表示の変更登記をすることができる(3)。

 しかし、従来朝鮮人でありながら、創氏改名により日本人と同じ名であつたものを、登録原票にもとづき朝鮮人名とすることは、信用を失うおそれありとして、一部朝鮮人にはよろこばれていない。

 

注(1) 二十八年四月一日農林省農地局管理部農地課長より都道府県農地部長、農地事務局農地課長あて「韓国人に対する農地等の売買について」

(2) 二十七年十二月二十四日通商産業省令第九十三号「弁理士法第二条第一項第一号に定める外国の国籍を有する者に関する省令」

(3) 二十八年一月十三日(総行監第五九号の三)東京都総務局行政部長より市区町村長あて「印鑑条例施行細則の一部改正について」

二十八年十二月二十四日(総行監発第四七六号)東京都総務局長より市区町村長あて「印鑑簿整理について」

『親和』第九号、西井昌司「在日朝鮮人の印鑑証明について」

 

 

         三、民生問題

1、生活保護

 日本における生活困窮者の保護は、昭和六年の救護法、二十年十二月十五日閣議決定による生活困窮者緊急生活援護要綱、二十一年九月九日法律第十七号の生活保護法、二十五年五月四日法律第一四四号の生活保護法により実施された。

 現行の生活保護法による保護は、その第一条および第二条により、「国民」すなわち「国籍に定められた要件を具備するもの」に限られ(1)、困窮外国人に対しては、その外国人の属する国の代表部または領事館がその保護にあたることを立前としているが、「ただしその困窮の状態が現に急迫深刻であつて、これを放置することが、社会的、人道的にみても妥当でなく、他の公私の救済の途が全くない場合に限り、当分の間本法の規定を準用して保護して差し支えない」としている(2)。

 在日朝鮮人は、「平和条約発効前は日本国民の概念に入る上に、また保護請求権は、選挙権のような政治的色彩がそれ自体としてなく、かつこれの行使を排除することは、死を要求する結果ともなることが考慮」されて生活保護法の適用をうけ(3)、被生活保護者は二十六年八月十五日現在、一万三六六六世帯五万九九六八名おり、二十七年四月平和条約発効時に、一万四二三四世帯六万三九七一名いた。在日朝鮮人は平和条約発効後外国人となつたが、生活保護法の準用されることについて、政府は「日本にながくいた事実を尊重し」、「しばらくその扶助をうけるようにする」ことを明らかにしていた(4)。

 しかしその後、朝鮮人の被生活保護者は激増し、ことに全国の被保護日本人が、二十七年末から二十九年末までに、十九万減少しているにかかわらず、朝鮮人は五万余増加して、その保護率が二三%におよび、総登録人口数の五分の一以上をしめたことは、注目された。

 二十九年五月八日、厚生省は、外国人の生活保護についての従来の諸通知を整理して、「生活保護法第一条により、外国人は法の適用対象とならないが、当分の間、一般国民に対する生活保護の決定実施の取扱に準じて、左の手続により必要と認める保護を行うこと」とし、その手続の要点は、

(イ) 生活に困窮する外国人で、保護をうけようとするものは、保護の実施機関に対し、国籍を明記した保護の申請書を提出するとともに外国人登録証明書を呈示すること。

(ロ) 保護の実施機関は、申請書記載内容と登録証明書記載内容とを照合して、記載事項の確認を行うこと。

(ハ) その確認後、実施機関はすみやかに、その申請書の写ならびに申請者および保護を必要とするものの外国人登録番号を明記した書面をそえて都道府県知事に報告すること。

(ニ) 都道府県知事は、当該要保護者がその属する国の代表部もしくは領事館またはそれらの斡旋による団体等から必要な保護または援護を受けることができないことを確認し、その結果を実施機関に通知すること。

前項の手続をへて保護の実施機関が保護を開始したときは、出入国管理令第六十二条の規定により、入国管理事務所に通報すること。

(ホ) 生活に困窮する外国人が、朝鮮人および台湾人である場合には、前記(ハ)および(ニ)の手続ならびに終戦前より在留する朝鮮人および台湾人には、前記通報は当分の間これを必要としないこと。

 とした。

 終戦前から国内に在留する朝鮮人、台湾人に特例を設けた理由は、「平和条約発効前に、日本国民として生活保護法の適用をうけていた点、条約発効後においても従来のまま日本に在留するもの多く、生活困窮者の人口に対する割合もいちじるしく高い点、或いは種々の外交問題が解決していない以上、外交機関より救済を求めることが現在のところ全く不可能である点等よりして、一般外国人と同様に複雑な手続を経ることはなんらの実益も期待できない」からであり、その生活保護法の準用は、国民に対する適用と異なり、「権利として保護の措置の請求ができない。保護をうける権利が侵害された場合に、不服の申立ができない」ことになつている(5)。

 朝鮮人の被生活保護者の多い原因は、深刻なデフレにより生活の困窮化したことにあるが、また不正手段による獲得の行われていることも見のがせない。これは生活とむすびつくだけに、民戦では機会ある毎に熱心にとりあげ、二十七年末の第三回全体大会で、貧困者の社会保障の項目をかかげて、生活保護争取が力説され、その後、生活擁護同盟または生活をまもる会(日本人と共同)を組織し、五全人会の三十年度の活動方針にも、生活保護者の増加数をしめして、権利を守りつづけていると発表している(6)。

 集団的要求は各地で頻発し(7)、厚生省はこれに対して種々対策を講じ(8)、もし外国人登録証明書を呈示しない場合、また実施機関の行う事務に協力しない場合は、

「急迫して放置ができない場合でないかぎり、申請却下の措置をとるべきで、かかる場合には、実施機関は出入国管理令第六十二条の規定にもとづき、入国管理事務所に通報するとともに、必要とあれば治安当局に連絡し、在留外国人の公正な管理事務に協力すべきである」

「外国人が集団で保護を申請してきたときは、一切その申請に応ずべきでない」

 と指示している。

 また生活に困窮する朝鮮人の子弟が、学校教育法に規定する小学校、中学校以外の各種学校でうける教育扶助の適用はみとめられない(9)(日本人の場合も同様である)。

 二十六年十一月に、東京都江東区枝川町の朝鮮人集団居住地域の調査では、朝鮮人一一六世帯(五五〇名)のなかで、生活保護世帯が八十九あり、七六・七%をしめ、保護費が一九万二九二七円で、総収入八七万九六一〇円に対し二二%をしめている。この調査では、日本人の生活困窮者のいる世田谷区外地引揚者寮の世田谷郷が九一四世帯のうち、被保護世帯が五・七%―五十二世帯にすぎないのに比して、ここは団結力によつて獲得したので多いこと、また枝川町では多くの有業者が適用をうけているが、これは枝川町の朝鮮人は世帯員一人当りの月収入が、労務者で平均三千三百円、半失業者で平均千九百円、小生産者で平均二千二百円であり、これらは、生活保護法の適用をうけてはじめて世田谷郷の人々とほぼ同じ収入を得ていると説明している(10)。

 京都府は、全登録朝鮮人三万七五五二名中、被保護人員二万〇四五四名(二十九年十二月)で、その保護率は五四%をしめ、全日本都道府県中最高率である。

 在日朝鮮人の生活保護金額のあまりに多く、かつ集団要求のはげしいためにとかくの論議があるが(11)、当局としては、日韓会談の妥結まで暫定措置として保護し、その後在日外国人保護の単行法で解決する構想をのべている(12)。しかし、生活保護の適正な実施に手をやいている方面で、別途の適法措置の実施を求める声はつよい(13)。

 昭和十三年、国際連盟で採択したモデル協約では「各国が在住困窮外国人に公的扶助をし、困窮の故のみをもつてしては、退去を強制しない」ことを定めており、二十二年の国連経済社会理事会では、この問題について研究の必要を決議し、これにより英米その他三十三ヵ国から情報がよせられ、国連事務総長から二回にわたつて報告書が提出されている。二十五年七月、国連経済社会理事会では、

「連合国が国際協約またはモデル協定の可能性を考慮し、困窮外国人に対しては、自国民に対すると同じ扶助を与えるように、また単に困窮という理由だけでは、その領域外に退去を強制することを抑制するよう勧告する」

 と決議している(11)。

 

注(1) 小山進次郎著改訂増補「生活保護法の解釈と運用」

ただし、これに対して『社会事業』第三十五巻第五、八、九号の小川政亮「在留外国人困窮者の扶助」には、生活保護法が「日本国憲法第二十五条に規定する理念に基く」ところから、その保護は自国民のみに限定されない見解をのべている。

(2) 『社会事業』第三十五巻第九号(二十七年八月)実本博次「困窮外国人の保護について」

二十五年六月十八日(社乙発第九二号)厚生省社会局長より都道府県知事あて「生活保護法における外国人の取扱に関する件」

二十五年十一月六日(社乙発第一九〇号)厚生省社会局長より都道府県知事あて「生活に困窮する外国人に対する福祉措置の方針について」

(3) 二十五年五月二十日(発社第四六号)厚生事務次官より都道府県知事あて「新生活保護法の施行に関する件」

小山進次郎著改訂増補「生活保護法の解釈と運用」

(4) 二十七年四月十七日参議院外務・法務連合委員会における石原外務政務次官、鈴木入国管理庁長官答弁

(5)(9) 二十九年五月八日(社発第三八二号)厚生省社会局長より都道府県知事あて「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」

(6) 在日朝鮮統一民主戦線中央委員会「在日朝鮮人の当面の任務」

(7) このもつとも大きかつたのは、二十七年五月三十一日から六月四日までに宇部市福祉事務所に対し行われた朝鮮人の集団要求である。福祉事務所の収入の認定に誤りありとして、その是正およびその結果から生ずる差額の支給を強要し、二〇七世帯に二百万円ちかい金が支払われた。

(8) 二十四年十二月二十二日(社乙発第二六〇号)厚生省社会局長より都道府県知事あて「生活保護法の集団的適用の規整に関する件」

二十七年七月四日(号外)厚生省社会局保護課長より都道府県民生部長あて「生活保護法の集団的適用の規整について」

(10) 在日朝鮮科学技術協会「在日朝鮮人の生活実態」――東京都江東区枝川町の朝鮮人集団居住地域における調査――(二十六年十一月)

(11) 二十九年二月十六日衆議院予算委員会

(12) 二十八年三月十二日衆議院法務委員会における黒木保護課長説明

『親和』第三号「在日朝鮮人と生活保護」――黒木厚生省保護課長にきく――

(13) 二十九年九月七日には、京都市で民生委員日本人が生活保護に関して朝鮮人になぐられた事件があり、京都市民生児童委員連盟でこれをとりあげ「生活保護法がなんら根拠のない外国人に無理に準用する」ことを非難し、「生活保護法と別途の適法措置の実施」を要望し、それがいれられぬ限り「総辞職をあえて辞せない」という決議をし、その陳情書が厚生省に提出された。

二十九年十二月四日、京都市会は「外国人の生活保護は政府の責任において生活保護法と別途に行うべきである」という意見書を可決した(「朝日・京都版」二十九年十二月五日)。

(14) 『社会事業』第三十五巻第五、八、九号小川政亮「在留外国人困窮者の扶助」

日本社会事業短期大学研究資料第三号、国際連合一九五二年「各国の公的扶助行政」(小川政亮訳)

 

2、らい患者

 朝鮮はらい患者の多いところで、日本施政下に、昭和元年五三二一名、六年に八〇一三名(1)、昭和七年に約一万二千名(2)、昭和十三年末に一万四千余名いることが明らかにされていた。

 全南小鹿島更生園の施設は実によく(3)、朝鮮において金剛山、水豊ダムとともに世界一と称せられたものであつた。

 終戦後、小鹿島において、朝鮮人職員と患者の間に、更生園の管理権をめぐつて闘争があり、患者数十名が殺された事件があつた(4)。

 戦後より最近にいたる韓国のらい患については、諸種の報告がある(5)。二十四年五月の政府推定患者総数は、四万五千名程度といい、その後増加傾向にあるというが実態はつかまれていない。韓国政府は、療養園増設、未感染児童保育園設置、隔離部落設置(軽快退園者に自給自足の生活をさせる)、簡易診療所開設、らい学術研究会および在家患者実態調査等の対策をもつているが、充分な国家予算をもたぬため、手はまわりかねている(6)。

 韓国のらい患者は、施設のよく行きとどいた日本に流れる結果となつた。日本の療養所に入つているらい患者は、二十五年五月現在四五六名(7)、二十七年一月末五二三名(ほかに未収容七十七名)、三十年三月末六三〇名である。二十九年七月に厚生省医務局国立療養所課が、これら国立療養所にいる患者の実態調査をした際、朝鮮人患者五四九名について第九三表の成果を明らかにした。

 三十年三月末在日朝鮮人総登録人口数に対する療養所収容者の比は、〇・一一%となり、総人口に対する日本人収容患者数の比○・○一一%の十倍であるが、韓国総人口に対する推定患者数の比二・一%よりはるかに少ない。

 国立療養所以外の在日朝鮮人患者登録数は、二十七年一月に七十七名いた。

 長島愛生園長光田健輔博士は、朝鮮人の日本内地に潜伏しているらい患者を、七百名と推定し、

「密入国してくる朝鮮人らい患者が多い。その病種は結節らいがもつとも多い。港に専門家をおいて、検診することが行われていない」(8)

「日本に潜人せる初期らい朝鮮人の生活状態は、日本人よりはるかに衛生設備にかけており、これがその家庭で、幼児や家族に感染する」(9)

 ことを指摘している。

 在日朝鮮人らい患者が終戦後朝鮮に引き揚げることについて、総司令部は禁止の措置をとつていた(10)。送還が入国管理局の手で行われてから以後、不法入国で送還されるものの措置が定められ(11)、熊本の菊池恵楓園の一室を大村入国者収容所菊池分室として借用し、そこにらい患の成人男子四名が収容された。そのうち不法入国者三名(二十八年八月に一名、二十九年三月に二名)が送還された。菊池分室は二十九年十一月閉鎖した。

 二十六年に、長島愛生園が犯罪らい患者について、関係庁に照会した結果、四十四名(大阪管区未着)の犯罪らい患がいたが、そのうち朝鮮人は十七名いた(12)。熊本県菊池の医療刑務支所に、らい患者が十七名収容されていたが、そのうち十三名は朝鮮人である(二十九年七月現在)。

 二十五年一月に、草津の楽泉園におこつた患者ぼく殺事件に朝鮮人が関与しており(13)、三十年春、菊池の医療刑務支所で刑を終えて出所する一朝鮮人らい患者が、性兇暴のためもとの療養所にもどることを入所患者が一致して反対している事例もある。

「らい予防法に適用をうけているらい患者」は、退去強制該当者として出入国管理令第二十四条にあげられているために、二十七年二月、参議院に全生園(東京)収容の七十七名の朝鮮人らい患者から退去強制せぬようにとの請願があつた。これは採択され(14)、二十八年六月十三日に閣議の決裁を経て、二十八年十二月一日に左の処理要領が国会に報告された。

「在日朝鮮人はすべて出入国管理令の適用をうけるが、平穏に療養生活をつづけるものに対しては、法の運用を考慮し、また永住許可については、日韓会談の妥結をまつべきであるが、昭和二十年九月二日以前よりひきつづき居住するものについては、なるべく希望にそいたい」

 なお、収容中の朝鮮人保育児童の引きとり先のほとんどないことが、当事者の悩みとされている(15)。

 

注(1) 『親和』第四号下村海南「朝鮮の癩の話」――小鹿島物語――

(2)(3) 朝鮮総督府「施政二十五年史」

(4) 『同和』二十八年十月一日「終戦当時の小鹿島」

(5)(イ) 「韓国年鑑」一九五四年版(大邱・嶺南日報社(二十八年十二月)(「親和」第十四号にこの項の翻訳掲載)

(ロ) Leprosy-Briefs 第五巻第二号(二十九年二月)"Leprosy institutions in south Korea"

(ハ) 『愛生』第八巻第八号(二十九年八月)犀川一夫「韓国における癩の現状について」

(ニ) 『親和』第十六号「韓国と癩」――長島愛生園庶務課長にきく。

(6) 「韓国年鑑」一九五四年版

(7) 二十五年七月厚生省医務局長より総司令部あて「在日韓国人らい患者の現況およびその対策」

(8) 二十六年五月十八日衆議院行政監察委員会における証言

(9) 『愛生』二十五年五月一日号光田健輔「朝鮮らい療養所の復興を希望す」

(10) 二十一年一月十九日SCAPIN・六二七「らい患者の引揚」

(11) 二十七年四月二日(実一合第三四一号)「密入国らい患者の取扱に関する件」

(12) 光田健輔「国際らい対策意見」(二十七年)

(13) 二十五年三月十七日堀川衆議院厚生委員会委員長「らい療養所内の療養状況および秩序に関する実地調査ならびに対策樹立に関する報告書」

(14) 二十七年二月二十八日参議院外務委員会

(15) 『親和』第十六号「韓国と癩」

 

 

 

       Ⅵ 外国人管理上における在日朝鮮人の特殊性

             ――その基本的諸問題――

 

         一、二つの朝鮮と民族感情

1、韓国・北鮮の在日朝鮮人対策

 第二次大戦後の二つの世界は、朝鮮を二分し、動乱の苦練も解決なき休戦となつている。朝鮮本土の三十八度線は、在日朝鮮人社会にもちこまれて一つの民族が二つの本国をもつて対立をつづけ、二つの本国の対日政策、対在日朝鮮人政策のあり方に甚大な影響をうけている。在日朝鮮人の国籍および処遇問題の未確定は日韓会談の不調にあるが、将来会談が妥結するとしても、本国の二分されている限り明確な解決は望むべくもない。在日朝鮮人管理には、つねにその本国のあり方を注視すべきである。

 韓国や北鮮は、在日朝鮮人対策について、非常に力を注いでいたとはいえない(1)。その原因は、双方とも建国以来内政の充実にいそがしく、ことに建国二年ならずして動乱となつたことにあろう。しかし、日本の独立後新しく両民族関係の調整が希望されてき、とくに在日朝鮮人の勢力が、国土の再建や、今後の国際的勢力の推移に無視できなくなつてきている時、強く関心裡におこうとしている。

 韓国側では韓国代表部の在日朝鮮人に関する発言については先述したが、その間、李大統領が「日本政府が共産党よりも左翼朝鮮人への弾圧を厳しくしている」ことを非難している(2)。二十七年十一月、韓国国会で、在日朝鮮人問題へ積極的関心が強調され(3)、二十八年度に入つて在日居留民団の要請にもとづいて、韓国政府は政府予算としてはじめて、海外僑胞育成費を計上し(4)、また二十八年の第五回国会から在日僑胞代表としてオブザーバー六名が出席して意見を陳述することになつた。また二百万ドル融資の計画をすすめ(二〇九頁)、兵務行政強化のため、在日僑胞の一斉登録の計画を発表した(しかし、三十年五月末に至るもともに実施をみない)。二十九年二月の韓国国会において、白国務総理は施政演説で「在日同胞中の左翼活動の完封」をのべ(5)、七月国会における卞総理は施政演説で「在日同胞の保護事業の積極的推進」に言及した(6)。五月に三万四五〇〇ドルが民団育成費として送られてき、代表部管理の下におかれ、韓国系学校に配布された(7)。韓国国会外務委員会では、二十九年十二月に五名よりなる「在日本僑民小委員会」を結成し、在日朝鮮人の実態把握を期している(8)。これは民団よりの要請にもとづくものと思われる(9)。

 北鮮は動乱中、日本ヘスパイを送つたことが報ぜられておる(10)。二十八年に入り休戦にちかづくとき、二月十九日祖国統一民主主義戦線が、第二十五次中央委員会で「在日同胞におくる呼訴文」を採択した中に、日本の再軍備や強制送還を非難し、在日同胞の斗争は祖国解放戦争の一環と強調し、ことに「朝鮮民主主義人民共和国の国籍を守れ」、「共和国公民の名を最後まで守り戦え」とのべ(11)、三月六日、金天海氏(祖国統一民主々義戦線議長団、朝鮮労動党社会部長)から放送があり、二十九年八月三十日には南日外相が長文の抗議声明を発表し、その中に、外国人登録法、強制送還、鉱山権、民族教育などの問題に言及し、「在日朝鮮人の正当な権利保護は、朝鮮民主主義人民共和国政府の確固不動の政策である」とのべている(12)。さらに、十月末の最高人民会議で、南北統一の指導者会談を提唱し、それへの協力について韓国軍将官や有力者によびかける一方、在日朝鮮人百四十余名(その中には多数の右翼陣営の有力者をふくめている)によびかけ、在日朝鮮人に反響をあたえた(13)。三十年二月二十五日、南日外相が鳩山内閣を是認して、日本との友好関係をもとうとするよびかけを行つたことは(14)、民戦系の運動を根本的に転換せしめた。なお、北鮮で発行している教科書は`翻刻されて在日北鮮系学校の教科書に使われ、映画「郷土をまもる人々」、「偵察兵」等が輸入され、また北鮮の雑誌や新聞も輸入され、搬布されている。

 二十九年末に、南北統一運動が東京の在日朝鮮人間に起され、その動きは注目されている(15)。

 

注(1) 『日本週報』二十七年七月二十五日権逸「人として恥しからぬ態度をもて」

(2) ★『新世界新聞』二十四年九月十九日「李大統領会見談」

(3) ★韓徹永著『政治大演説選集』上巻(二十八年六月・ソウル文化春秋社)韓国国会外務委員長黄聖秀「積極外交工作を期待する」

(4) 「産業貿易新聞」九月二十九日金居留民団長談。「KIP」十月十日

(5) 「KP」二十九年二月十七日

(6) 「KP」二十九年七月十五日

(7) ★「新世界新聞」二十九年六月二十日

(8) ★「韓国日報」二十九年十二月八日

(9) 「KP」二十九年七月十五日

(10) 『警察時報』二十七年四月号増田正度「在日朝鮮人問題について」

『サンデー毎日』二十六年六月三日号「日鮮スパイ暗躍の全貌」

「読売」二十六年五月十二日

(11) ★「解放新聞」二十八年二月二十二日号外

(12) 「新亜通信」二十九年八月三十一日

(13) ★「解放新聞」二十九年十一月十一日

(14) 「朝鮮通信」三十年二月二十六日

(15) 「朝日」二十九年十二月十七日

『親和』第十五号金三奎・船印享二対談「朝鮮民族統一運動を中心に」

 

2、民族感情の相剋

 在日朝鮮人問題の特異性として、朝鮮側、日本側双方に根強い民族的悪感情が潜在固着していることも、その処遇を混迷せしめる大きな要素として考慮すべきである。

「日本・朝鮮関係の歴史には、朝鮮人側の敵愾心と不信、日本人側の嫌悪と侮蔑感の存在をつよく示している。……両民族のそれぞれの歴史には基本的劣等感が横たわつているようである。これは朝鮮人の場合は、千六百年前の過去の朝鮮への誇大視した愛着により、日本人の場合には他民族に対する人種的優越性をつよく主張することにより均衡を保つている」。これは「在日朝鮮少数民族」(第一章「歴史的背景」)にワグナー氏ののべるところである。

 第二次大戦以後、解放されたアジア各民族の自主独立の精神はたくましく燃え上つている。ことに、ながい直接支配下にあつた朝鮮人は、日本の過去のあり方へつねにきびしき批判をあびせ、帝国主義日本の復活を警戒し、今日の日本政府の処遇に、ともすれば猜疑の念と脅威をもつている。在日朝鮮人の日本流入の原因は、日本施政以後、資本主義の朝鮮侵略により離村のやむなきに至つた農民たちが職を求めにきたことと、昭和十四年以後の動員徴用にあることは、在日朝鮮人側の指導的論者も強く指摘しているところであるが(1)、これは在日朝鮮人の問題の論議にはまず常識的前提である。二十八年十月の日韓会談決裂にあたつて、韓国政府の声明のごとき、後者のみを強調して「在日韓国人居留民の国籍と処遇の問題は、帝国主義日本政府が、いわゆる『聖戦』大平洋戦争の目的を達成すべく、労働力を増加する目的で強制徴用した無辜の韓国人をめぐる問題」(2)とのべている。日本の世論が在日朝鮮人に対して硬化すると、「関東大震災の虐殺をくりかえすな」という声となる(3)。外国人登録は、過去の協和会手帳を連想するとて反対し(4)、或いは韓国の徴兵制と連絡ありとし(5)、居住地変更は十四日以内に申請を要することを曲解して旅行禁止とし(6)、退去強制を吉田・李承晩密約で十五万の追放策とし(7)、或いは朝鮮人総追出しと誤伝し(8)、大村収容所の取扱を「ゲシュタボのような」と形容する(9)。朝鮮人学校私立移管を一すじに朝鮮人学校弾圧と断定する(10)。

 一方、日本人側にも、戦後の朝鮮人の集団的暴行や不法行為、また独立直後のメーデーや吹田事件に関連して、朝鮮人への不信感情は根づよい。その「朝鮮人」問題についての新聞の煽動的とりあげ方については、識者のつねに指摘しているところである。

 この朝鮮人に対する民族感情を学問的に調査測定したものとしては、泉靖一氏の「東京小市民の異民族に対する態度」の論文がある(11)。これは二十六年九月二、三日(サンフランシスコ平和会議開催の前日および前々日)、東京市内二十五カ所でそれぞれ面接した二十名の小市民(学生除外)に対して行われた人種距離調査カード中から採用された三四四枚についてのもので、朝鮮、シナ、フィリピン、インド、インドネシヤ、タイ、ビルマ、安南、アメリカ、イギリス、フランス、豪州、ドイツ、イタリア、ロシヤ、ニグロの十六人種に対して、外見、民族性、政治、経済、文化の各項について、かんたんな質問要項をあげて回答を求めたのに対し、朝鮮人については、回答数の九五%が「きらいな民族」としていてその第一位をしめ、外見においては「不潔」、民族性においては「ずるい」、「無礼」、政治的態度においては「日本を馬鹿にする」、「日本のためにならぬ」、「日本をうらんでいる」、経済に対する態度において「経済的にためにならぬ」が多く、文化において、「ひくい」が圧倒的に多い。これは、その後国内的にメーデー、吹田事件等があり、また李承晩大統領の排日政策、李ライン、竹島問題等の影響で、今日に至つてもきらいな率は減少していないと推測される。これはまた、東京のみならず全国的にみても同様にいえることではなかろうか。

「朝鮮人に対しては明かに Stereotype を生じている。これは大衆の脳裏にえがかれているイメージであり、現実を正確に物語るものでもなければ、その責任を何人に問うこともできない。それは、しばしば大きな伝染力をもつ……人種的偏見の要因となるばかりでなく、不必要な緊張をひきおこす。日本人朝鮮人間にひきおこされている緊張も、朝鮮人の性格的異常性にもとづくよりも、本報告の中にあらわれた嫌悪の Stereotype が重大な役割を果しているものと考える」

 というこの論文の結論の一節は、在日朝鮮人問題の考慮に当つて重要な点であろう。

 また岡正雄氏がこの民族緊張の調査について、

「遺憾なことには、朝鮮人に対して、もつとも悪い評価をしめし、民族的偏見をもつていることが明らかになつている。これにもかかわらず、今夏(二十八年)ある海岸村で実施した調査では、評価はアメリカ人の方が朝鮮人より絶対にいいのであるが、「もしアメリカ人と朝鮮人とけんかする場合、どちらがかてばいいか」という質問に、朝鮮人と回答するものが多くでている。ここにアジア的意識の潜在を見出すことができる………大切なことは、アジア民族としての近隣感情の正しい育成であろう」

 と論じているのは(12)、傾聴すべきことではなかろうか。

 

注(1) 金斗鎔「朝鮮近代社会史話」(二十二年・郷土書房・著者は二十二年六月北鮮に帰つた)

歴史学研究会『歴史学研究』特集号「朝鮮史の諸問題」(二十八年七月・岩波書店)林光澈「在日朝鮮人問題」

『花郎』日本語版創刊号(二十八年四月)金煕明「在日韓国人に関する諸問題」

(2) 「KP」二十八年十月二十四日

(3) 『中央公論』二十七年九月号「在日朝鮮人の生活と意見」

『日本週報』二十七年七月二十五日号張赫宙「日本は朝鮮人のものではない」

★「世界新聞」二十七年五月十六日卞外務部長官談

(4) 二十二年八月朝連の反対理由の一つ

(5) 二十七年民戦の反対理由の一つ

(6) 二十九年民戦の反対理由の一つ

(7) 前掲二十八年二月祖国統一民戦中央委員会「在日同胞におくる呼訴文」

(8) ★「民主新報」二十九年一月三十日

(9) 「KP」二十九年七月十二日大村収容所抑留者に関する韓国政府声明

(10) 在日本朝鮮人学校PTA全国連合会「教育の自由を守るために」(二十七年六月)

(11) 日本人文科学会編「社会的緊張の研究」(二十八年六月有斐閣)

『社会教育』二十七年八月号泉靖一「日本人と異民族との間の緊張」

(12) 『読売』二十八年十一月二十二日岡正雄「正しい近隣感情育成へ」

 

 

          二、日韓会談の中絶

 第一次日韓会談の予備会談は、総司令部の斡旋で二十六年十月二十日から東京で開かれた。韓国側は、梁祐燦駐米大使を全権とし、日本側は主として千葉参事官が当つた。最初は「在日韓国人の法的地位」を議題とすることに限つていたが、その後、船舶問題もとりあげられ、これに平行して「日韓間に存在する一切の懸案に関する両国交渉のための議題の作成と交渉の研究」に関する会議が行われた。二十七年二月十五日から本会談に入り、日本は、外務省顧問松本俊一氏、韓国は梁駐米大使を主席代表として送り、(イ)外交関係樹立 (ロ)在日韓人の国籍および処遇 (ハ)財産および請求権 (ニ)漁業 (ホ)船舶 の五つを議題として小委員会が成立した。

 国籍および処遇問題の小委員会は、日本側は田中三男氏(出入国管理部第一部長)が、韓国側は兪鎮午氏(高麗大学総長、韓国憲法草案起草者)が委員長となり、予備会談よりひきつづいて四十回に亘つて討議をかさね、処遇に関して、退去強制と帰国者の送金および荷物の携行につき多少の議論があつたが、全般的に原則的な諒解に達していた。

 四月二十六日に会談が請求権問題で中絶するに至つたが、その直前日本側は、基本関係、船舶問題および国籍処遇間題は、大綱について双方の意見が一致しているから、これらの協定に署名して解決を計ろうと提案したが、韓国側の同意を得るに至らなかつた。かくて在日朝鮮人は、日韓の協定をみぬままに、平和条約発効、日本の国籍離脱となつたのである。

 二十八年四月に会談が再開され(主席代表は日本側外務省参与久保田貫一郎氏、韓国側は、金溶植駐日公使)、国籍処遇委員会の分科委員会は鶴岡千仞氏(法務省入国管理局次長)、韓国側は洪璡基氏(司法部法務局長)が委員長で進められ、七月二十三日の休会までに六回開かれ、自由帰還者の持帰り金および財産搬出問題で専門協議会が三回ひらかれた。国籍問題はすでに基本線が一致しているので、具体的問題について討議された。

 二十八年十月六日休会があけてから、国籍処遇委員会で、大村収容所収容者の問題の討議が行われた。

 会談は、久保田発言に対する韓国側の撤回要求にからんで、十月二十一日決裂状態になり、ついにまた一切は未決定のまま停頓した(1)。在日朝鮮人の国籍問題は「韓国は、すべての在留朝鮮人が大韓民国の国籍を有するものであることを確認する主張をし、わが方は、日本の国籍を喪失するものであることを当然認めてきた。在留朝鮮人の事業や権利などは、国籍のきりかえによつてとくに困難な事態が起らぬように特別の考慮をはらうことで大体了解が成立していた」(2)のであつたが、会談が中絶するにおよんで、韓国側は、国籍および処遇が確定するまで「在日朝鮮人は国籍未確定」を固執するに至つた。

 なお、従来連合国最高司令官に対し派遣されていた在日大韓民国代表部は、二十七年四月二十八日、平和条約発効に伴つてその地位を喪失したので、日韓間に正規の外交関係が樹立されるまで、同日付をもつて暫定的にその地位をみとめることに合意が成立した(3)。在日韓国人の領事事務は原則としてここで行われる。

 これと交換的に、日本も在外事務所を韓国に設けたい希望をしているが、実施をみない(4)。

 

注(1) 『世界週報』二十八年十一月十一日号「日韓関係に横たわるもの――会談決裂までの経過をたどる――」

同三十年四月十一日号「日韓外交調整の展望―交渉経過と問題点」

(2) 二十七年五月十四日衆議院外務委員会における岡崎外務大臣報告「日韓会談の経緯について」

(3) 二十七年四月三十日外務省情報文化局発表「大韓民国および中華民国の駐日代表部の地位について」

(4) 二十八年二月二十五日衆議院外務委員会における岡崎外務大臣答弁

二十八年十一月七日衆議院外務委員会における小滝外務政務次官答弁

 

 

三、人口

1、人口とその分布

 戦後の在日朝鮮人人口の諸統計を第九四表にあげた。外国人登録と国勢調査の結果は相当の差がある。

 外国人登録には若干の特権免除者がはぶかれているが(1)、国勢調査の対象からもそれらがのぞかれている。登録人口より国勢調査人口の少ないことについて「朝鮮人でありながら日本人と申告したものがあるかもしれない」と推測されている(2)。二十五年の国勢調査は、その「他計申告」により信憑性は高いといえるが、朝鮮人集団地区の調査の不徹底、住所不定者、移動者の調査もれなども相当あると考えられる。

 外国人登録は二十五年二月の切替により同年三月は二十四年十月に比し一〇%減少し、二十七年秋の登録法の切替により二十八年一月は二十七年九月に比し六%減少し、二十九年秋の切替により三十年一月は二十九年九月に比し〇.一%減少した。これは虚無人登録、二重登録、死亡未処理等が漸次整理されていることを示し、最近の登録がもつとも真実にちかいといえよう。

 登録実施以後の朝鮮人の正規出入国における差引入国者の増加数や在留特別許可数はそう多くない。韓国籍取得者も少ない。帰化者が約四千名あり、これらの数字を考慮して、自然増加数を逆にさしひくと、もつとも実数に近い数がでるが、戦後六十万と称した人口は二十二年に四十余万となる。

 三十年三月末現在、全日本の外国人登録数六三万二七一九名のうち、朝鮮人は五六万八一七九名(九〇%)をしめている。この数の中に依然虚無人、二重登録、死亡未処理者が若干いると推察されるが、この数とは別に、不法入国または登録をせずに潜在する朝鮮人は、四、五万と推定され、総数約六十万といえよう。

 朝鮮人人口の分布を地域的にみると、六大都市をふくむ府県および福岡、山口、広島、岡山など朝鮮にちかい西辺の地が多く、この率は戦前と著しい差はない。出身地別も戦前と比較すると、その率は大差なく、南鮮出身者が総数の九五%以上をしめる。

 

注(1) 国勢調査には外国人登録令第二条各号の一に該当するものはのぞかれている。従つて、外国人登録と国勢調査の対象は全く同一である。

(2)総理府統計局『昭和二十五年国勢調査一%抽出集計による結果速報』その一「全国人口の国籍または出身地」

 

2、出生、死亡、自然増加率

 在日朝鮮人は生存競争にまけて減少する傾向にはない。まだわかい民族である。

 戦前の朝鮮内の朝鮮人の自然増加率は、千人に対し一四・九乃至一七・三であり(1)、戦後は九・三と報告されている(2)。戦前の在日朝鮮人はその人口移動がはげしくて正確な自然増加率を求め難いが(3)、戦後は、二十七年が二四・五、二十八年が二一・四、二十九年が二〇・七という高率で、一年に一万二、三千の増加数をしめし、その自然増加率を日本人に比すると三年とも一・七倍となる。

 その出生率は、日本人の昭和二十五年ごろとほぼ同じく、死亡率は、日本人の最近の低率よりなおひくい。

 在日朝鮮人は、戸籍法、戸籍法施行規則、その他関係法令により、出生、死亡、死産等の場合に、居住地の市区町村長あてに届出を要する。出生届は、外国人登録申請の前提として必要であり、死亡届も外国人登録返納の関係のほかに、とくに「墓地、埋葬等に関する法律」により、提出しないものには、埋葬許可証が交付されない。したがつて原則的に届出は必須のこととなつており、とくに死亡届の場合に未届が非常に多いとは考えられない(4)。

 ただ出生については、妻が日本人の際に、その子が妻の日本人側の籍に入れられる場合の多いことが考えられる。死亡率のひくいのは出稼者が多かつたために、年令構成上、老人が少ないことが大きな原因といえよう(5)。

 また、出生、死亡率とも算出の基準となる登録人口が若干実数以上である(二三五頁)ことも考慮さるべきであろう。

 死亡率について、その年令別人口構成のゆがみを補正してみれば、在日朝鮮人の昭和二十七年の標準化死亡率は、千人に対し八・一六と補正されるが、それにしても、同年の全日本人の標準化死亡率八・九八に比してなおひくい(6)。

 なお、在日朝鮮人の出産力調査については、戦前のものしかないが、昭和十五年に、四万六二一七組について調査されている。その結果(7)を同年の日本人の出産力の調査成果(8)と比すると、婚姻持続期間十五年未満においては、あまり差異はなく、十五年以上となると、日本人以下となつている。またその統計を戦後の日本人出産力の調査成果(9)と比すると、婚姻持続期間四年以下がひくく、五年から十九年までの間がやや高いが、二十年以上になると日本人におよばない(妻が四十五才以上の場合、一夫婦あたりの出生数は、在日朝鮮人四・三五、日本人は四・六四《昭和十五年》四・四七《昭和二十七年》となつている)。

 在日朝鮮人人口は、日本の総人口からみれば〇・六五%の数である。しかし終戦後、四つの島におしこめられた日本の人口間題はやかましく、増加人口の解決を産児制限と海外移民に求め、後者のごとき二十八年度約千五百名、二十九年度約四千名にすぎない現状において、在日朝鮮人人口とその増加率がとかく論ぜられるが、最近の出生、死亡とも減少傾向にあるのは注目される。

 

注(1) 戦前、朝鮮における朝鮮人の出生死亡率について第一〇〇表があるが、ここには『緑旗』第五巻第十号(昭和十五年十月)原藤周衛「近き将来における朝鮮人口の予測――国土計画資料」によつた。この論文では、当時の出生統計に相当の乳幼児の死亡届出もれを指摘し、国勢調査の年令構成を基に生残率を推算し、増加率をつぎのごとく出している。

大正十四年より昭和五年まで(五年間)○・○七四六(一年平均千人につき一四・九)

昭和五年より昭和十年まで(五年間)○・○八六六(一年平均千人につき一七・三)

(2) 第一〇一表をみよ。

(3) 昭和十五年国勢調査統計原表第十二表「民籍および年令によりわかちたる人ロ―朝鮮人の部」によればつぎのごとくである。

※表は割愛

当時一年に三十八万(内務省警保局統計による。総督府統計によれば三十三万)の朝鮮人の渡航のあつた年であり、この中には、多数の子供がいたと想像されるので、厳密に日本生れを計算することができないが、実際の出生児は、総督府発表の統計をはるかに上廻ると推測される。

(4) 北海道、福島、東京、愛知、山口、島根、大分の七都道県の二十八年度の届出死亡者九六四名(全死亡者三九一五名中二五%)について死亡より届出までの期間についてみると、八日以上一カ月未満二十三名、一カ月以上六カ月未満六名、一年以上六名となつている(厚生省大臣官房統計調査部統計による)。

(5) 第一〇二、一〇三表をみよ。

(6) この計算は、厚生省人口問題研究所にして頂いた(朝鮮人年令階級別人口は第一〇五表による)。

(7) 『大東亜建設民族人口資料』一四厚生省人口問題研究所「内地在住朝鮮人出産力調査概要」(未刊・昭和十七年一月)

(8) 厚生省人口問題研究所『人口開題研究』第一巻第七号(十五年十月)岡崎文規「出産力調査結果の概説」

(9) 厚生省人口問題研究所岡崎文規「第二次(二十七年)出産力調査」

 

3、二世的性格

 大正の初めから終戦の年まで朝鮮人の日本流入がつづき、終戦以後、その四分の三がひきあげ、以前のような人量の流入は阻止されて十年にちかい。試みに大正九年、昭和五年、昭和十五年、昭和二十五年(各年とも十月一日に国勢調査が行われた)の年齢構成を比較してみると、かつてははたらき盛りの男が多くて、出稼者としての性格をつよくしていたが、漸次結婚する女性も多くなり、日本生れの子女が成長して社会の主体を構成する段階に入り、日本社会に定着した様相を示している。

 大正九年と二十九年十二月を比較すると、総人口に対する%は、十五才以上の男は八三%から三五%に減り、十五才以上の女は八%から二四%に増加している(昭和二十九年は十四才以上)。

 二十五年十月一日現在の国勢調査では在日朝鮮人人口四六万四二七七名のうち日本生れが二三万一九〇六名(男一一万九〇一二名、女一一万二八九四名)で、ちようど五割をしめている(1)。

 世帯をもつ人員の増加も安定しつつあるをしめしている。

 在日朝鮮人の子弟中、日本の義務教育の小・中学校に通学する児童生徒数は二十九年に十二万をこえ、適齢者はほとんど全員就学と推察されている。

 朝鮮人は、昭和十五年の改正民事令による創氏制度の実施以来、八割以上が日本人名を名乗つたが(2)、終戦後は、民族感感情の必然性から大多数の朝鮮人は本来の姓に復帰した。それは「氏」という夫妻母子共通の家の名としての意義はかえりみられず、ただ氏が「日本式姓」であるという考えの下に行われたものであつた。米軍政下に二十一年十月に旧姓復帰の手続をとらしめ戸籍を創氏以前の姓に訂正された(3)。

 しかしながら、日本における朝鮮人は、一面はげしい民族感情の激動にゆすぶられつつも、日本人名を使うものが多い。その日本人名について、朝鮮人名のほかに、通称として登録しているもの、および姓は朝鮮に復し、名前のみ日本式のものをつづけるものも相当いるが、これらをはぶいてただ日本人式姓名のみを登録しているものの数を全国の外国人登録原票でみると、二十九年十一月末現在二万五三一八名を数える。

 さらに注意すべきは、次にのべる日鮮結婚者の数である。

 

注(1) 総理府統計局「昭和二十五年国勢調査報告、第四巻、全国編I」

(2) 氏届出期限の昭和十五年八月十日までに三百二十二万戸全朝鮮人の約八割に達した(朝鮮総督府「朝鮮事情」昭和十九年版)。

(3) ★「朝鮮日報」二十一年十月二十七日記事「十月二十三日より六十日間に日本式氏名の改姓届出を管内の裁判所にすること、それをしないときは、裁判所側で旧姓にする」

★「朝鮮新報」二十二年十二月二十六日記事、十二月二十四日司法部発表「二十一年十月二十三日付戸籍の再整理が発令されたが、最近それが完備し、二八一万〇九三七戸、一六四七万三二一一名が旧名に復した」

 

4、日鮮結婚者

 内縁関係が多いために正確な数は分らない。届出によれば、「夫が日本人、妻が朝鮮人」の揚合より「夫が朝鮮人、妻が日本人」の場合が戦前から圧倒的に多かつた。また朝鮮内よりも日本内地における婚姻、縁組の例が多かつた(昭和十三年から十七年まで内地における内鮮婚姻縁組は五四五八組であり、朝鮮内においては四七二組であつた)(1)。

 その後、労務動員計画により、多数の朝鮮人男子が日本内地に入つた。一方内地人側では男子の応召、徴用により、未婚適齢女子の増加となり多数の内鮮結婚が行われた。さらに終戦後、経済力をもつ朝鮮人の男と、生活苦と結婚難になやむ日本人女子との間に、婚姻数は激増した。この間正式に届出されたものとしては、二十六年のみが判明し、一年間に夫が朝鮮人、妻が日本人のもの六百六組、夫が日本人、妻が朝鮮人のもの三十八組を数えている(2)。

 昭和二十七年の調査によると、日本人を妻とする朝鮮人婚姻世帯は、総婚姻世帯数に比して一六%、総世帯数に比して一一・八%をしめている。この調査は内縁関係のものもふくんでいるが(3)、朝鮮人との間に生れた子女をかかえ離婚した日本人女は対象外と推定される。なお在日朝鮮人側では在日朝鮮人の日鮮結婚養子縁組世帯を十万以上という見解があるが(4)、この数は信ぜられない。

 

注(1) 朝鮮総督府「朝鮮人口動態統計」(昭和十三年~十七年)

(2) 厚生省大臣官房統計調査部統計

(3) 前掲国家地方警察本部警備第二課「在日朝鮮人の生活実態」

(4) 前掲★李大偉「在日韓僑の実態とその対策」には一一万八七九七世帯

「KIP」二十七年九月二十九日特集号「在日韓国人の実態」二十三年末、一一万〇七九七組。

★二十四年十月居留民団第八回全体大会の経過報告によれば、二十四年九月末、一一万五一八二組

 

     四、職業のあり方―とくに失業者について

 在日朝鮮人社会はすでに二世的性格をもつて、日本社会におちついた存在となりつつあるにかかわらず、生活の手段である職業についてみると、実に不安定なあり方を示している。

 戦前において在日朝鮮人の流入は「失業の流入」といわれ、安定した職業分野にあつたとはいえないにしても、炭鉱や工場や港湾労務や土木の肉体労働が多かつた。しかるに、戦後はその職場からうかび上つてき、日本に残留せんとするものも、戦前の肉体労働の職場よりはもつとらくな有利なもうけ仕事をもとめた。

 職業統計の昭和二十七年と昭和十三年末(一五頁)(十四年から労務者の動員移入が開始されており、十三年はその前年である)と比較すると、分類のしかたが相当異なつているが、十三年に四〇・四%をしめた労務者の激減が目だち(二十七年の統計中の工業、運輸業、土建業の人員をすべて労務者として、これに日雇労務者を加えても一五・九%にすぎない)。商業はほぼ同じ率であり(十三年は商業、接客業者合して八・二%、二十七年は、商業、遊戯業、料飲業を加えると八・一%)、農業〇・六%が一・九%に、漁業○・○二が〇・一五%に、有識的職業が一・三%にふえている。

 居留民団が二十七年五月から二十九年一月にかけて行つた在日朝鮮人の中小企業者実態調査の結果によると、業者一万八七八七名と報告されている(1)。二十八年二月、在日本朝鮮人商工連合会では、商工業に従事しているもの約四万名で、商業部門二万九千余名、工業部門一万一六三五名(ゴム・ビニールエ業七一二〇名、皮革加工業二五〇〇名、メリヤス五七〇名、金属加工業二五〇名、合成樹脂工業一二五名、鋳物工業二〇〇名、その他)と計算している(2)。

 失業者について明確な数字の把握は困難であるが、今日まであげられた統計を第一一二表に列記した。

 二十六年十一月、東京都江東区枝川町の朝鮮人街の一一六世帯五三八名についての実態調査は、唯一の朝鮮人社会の経済生活実態調査といえようが、その統計で喰える職業をもつものは(2)のうち九世帯および(3)二十一世帯で、二四%にすぎない。

 ここは特殊な朝鮮人街であり、この率は三年余前のものでもあるが、各地に散在する朝鮮人町を推定する一つの資料ではあるまいか。

 さきにあげた国家警察の調査によれば、一応職にあるものは五四%と考えられるが、その後二年余のデフレ下の朝鮮人生活は深刻をきわめ、この%はさらに低下していよう。二十八年七月、民戦では、まともな職にあるものは、農業〇・三%、企業七・五%、商業一五%、生産労働六・七%、計二九・五%と推定している。

 この朝鮮人の生活不安を証するものは、被生活保護者の増加で(二一五頁)二十九年十二月末現在、朝鮮人登録総数の二三・二%を占めている。この被生活保護者は、朝鮮人側の生活保護費獲得闘争により、不法に増加されたものが相当数あるとしても、なお実質的に生活困窮者の増大傾向を物語るものである。

 なお、日雇労務者について、公共職業安定所は、職業安定法に定めるところに従い人種、国籍の差別なく取り扱うことを建前としているが、その業務の円滑な運営を行うために、二十八年二月十九日以後、外国人は職業安定法第八条に規定する公共職業安定所の職員がその職務執行の際に、外国人登録証明書の呈示を求めた場合に、これを呈示せねばならぬこととなつている(法務省令第八号)。

 日雇労務者として職業安定所に登録したものは二十九年十月一日現在、三六万八五〇二名あり、朝鮮人はその三・三%にあたつている。なお日本人名を名乗るもの、また登録から洩れているものも相当あると推察され、これが、前掲国家地方警察の統計との差になつているのではあるまいか。

 特殊な地域ではあるが、対馬における二十八年十一月の朝鮮人の職業統計をみるに、製炭業者は全有業者の半ばをしめ、全島の炭焼労務を独占している。各地とも適当な労働の分野が提供さるれば、相当の浮動生活者が吸収されるのではなかろうか。

 

注(1) 「民主新聞」二十九年二月一日号による。なお、その従業員は山梨、栃木、石川、岐阜、大阪、兵庫、広島、島根、山口、大分、宮崎、福岡をのぞいて、朝鮮人従業員四〇四九名、日本人従業員一万二五二三名である。

(2) 二十八年二月十七日在日本朝鮮人商工連合会より「朝鮮人中小企業に対して融資のわくを二十億円設定するよう」国会に請願した際の添付資料「在日朝鮮人企業の業種別実態」

 

 

         五、犯罪

1、犯罪率

 在日朝鮮人は生活苦と民族的感情から犯罪率は異常に高かつた。

 戦後の朝鮮人犯罪統計について検挙人員(1)、被疑者新受人員(2)、第一審有罪被告人(3)、受刑者人員(4)の各様がある。それらの犯罪率の算出について、検挙人員をもとに二十四年以後国家警察、警察庁の各年統計があり(5)、また新受人

員(二十三年五月末まで)を基に、植松正氏(6)、新受人員(二十四年六月末まで)を基に、神崎誠、武安将光両氏の論文があり(7)、それぞれ日本人の犯罪率との比を出して、朝鮮人の高率を指摘している。

 朝鮮人の犯罪率の劃期的な考察を行つたのは、高橋正己氏(現最高裁判所事務総局刑事局第三課長)である。氏は朝鮮人の犯罪を同一の年令、体性および職業の日本人とくらべて解明し、戦前の受刑者の率は日鮮ほとんど同率であると結論して、朝鮮人を犯罪民族とみるは誤りとし、戦後は第一審有罪被告人数(二十三年上半期)を基に以上の検討を試みて、日本人の三・三倍が相当であると断じている。しかるに、朝鮮人の実際の犯罪率は、第一審有罪者が日本人の六倍余、受刑者が十二倍に及んでいることについて、昭和二十四年通常第一審犯罪票にもとづく統計を基礎に綜合的観察をし、在日朝鮮人の犯罪率を高からしめる要因として、年令・体性・職業のほかに、出稼人的不定住性、経済的不安定性等をあげ、とくに圧迫せられていたと感じている民族の超過相殺的反撥、失業者の独力による生活打開方法としての営業的違反行為、多数の密入国者不法残留者が犯罪の主導をなしている点等を考慮すべきであるとしている(8)。高橋氏の行つた考察は、昭和二十三、四年の統計が基であつたが、ここには二十七年の諸統計を基に高橋氏の方法をかりて新しい検討を試みよう。

 二十七年の日本人と在日朝鮮人の性・年令・職業について比較し、これにより朝鮮人の男女の割合を日本人と同率として犯罪率をみる。女の犯罪率を男の1/50とすると、

    (日本人の犯罪率)×〔(56.4×50+43.6×1)/(49.1×50+50.9×1)=1.142〕

となる。十四才未満者を犯罪能力のない人口としてその比の差を考慮せば、

    (日本人の犯罪率)×〔(100-41.5)/(100-34.6)=58.6/65.4=0.89〕

となる。職業別に犯罪をみると、全国平均からみて農業者1/36、日雇が三・九倍、定職なき無職者が二十倍となつているので、この三つを考慮しただけでつぎの比例が生ずる。

    〔1/36×1.9+3.9×6.7+20×11.1+(100-1.9-3.9-6.7)×1〕/

〔1/36×20.6+3.9×0.4+20×0.5+(100-20.6-0.4-0.5)×1〕

=328.483/90.63=3.624

以上の性・年令・職業の三条件を考慮に入れれば、朝鮮人の犯罪率は、日本人の、

    1.143×0.894×3.624=3.7倍

が相当するといえよう(このうち年令については、犯罪率のひくい老人が朝鮮人の年令層に少ない―日本人は全年令のうち五十才以上が一五%をしめるが、朝鮮人は七%にすぎない―ことを考慮すると、この三・七の数は更に多くなる)。しかし、人口からみると二十九年の検挙人員、被疑者新受人員は、朝鮮人は日本人の六倍余であり、依然たかい。

 二十四、五年朝鮮人第一審有罪者の職業をみると、無職業者が全犯罪者の約三割をしめている(日本人は二十四年は三四・五%)。二十五年の朝鮮人有罪被告人の犯罪原因を、経済・環境・感情・素質・その他と分けてみると、経済的事情にあるものが五四三八名で六六%をしめる(9)。年令構成も性別もさきにのべたごとく、漸次日本人なみに近づいて行く。もし職業分野の差がちぢめられれば、この犯罪率も相当に小さくなつて行くのではあるまいか。

 朝鮮人刑法犯について、検挙、被疑者新受、通常第一審有罪被告および新受刑者の累年統計をみると、二十四、五、六年が高いが、それから漸次下降している。検挙において、二十五年と二十九年を比すると三二%減となつており(その間日本人は一二%減)被疑者新受において二十四年と二十九年を比すると二七%減(総数は一%減。二十三年より一二%減)、通常第一審有罪被告において、二十五年と二十八年を比すると三九%減(日本人は二七%減)、新受刑者は二十五年と二十九年を比すると四六%減(日本人は一一%減。二十三年より三一%減)である。

 被疑者新受を罪種別にみると、公務執行妨害において二十四年総数三九三八件に対し朝鮮人の件数は八三〇件(二一%)をしめたが、二十九年は二五九八件に対し一九四件(七・五%)となり、四分の一以下に減少している。

 騒擾のごとき二十三年総数三八八件中朝鮮人は三二二件(八三%)をしめていたが、二十九年中は五件中一件となつている。窃盗は刑法犯中もつとも多いが、二十五年に比して二十九年は三九%減となり、特別法犯における洒税法違反も、二十六年に比して四四%減である。ただ傷害が二十六年をのぞいて増加の一路にあることは日本人にも共通した現象として注目すべく、煙草専売法違反が二十九年に入つて激増したのはパチンコと関連するものといえよう。

 総体的に朝鮮人犯罪の減少は、高橋正己氏が昭和二十五年に「戦後における朝鮮人の犯罪的高潮も遠からず落潮せねばならぬ」と予言されていたが(10)、まさにその傾向をものがたつているのではなかろうか。

 

注(1)(5) 国家地方警察本部(二十八、九年は警察庁)刑事部調査統計課「犯罪統計書」二十四年以後各年

(2) 法務省法制意見第四局統計課「検察統計月報」(二十七年五月)および法務大臣官房統計室「法務統計」昭和二十八、二十九年

(3) 二十四、五年について、最高裁判所事務総局刑事部第三課で、その調査結果表が作成されている。二十七、八年は最高裁判所事務総局「司法統計年報」2刑事編(下)(二十七年、二十八年)に収められている。

(4) 法務省「行刑統計年報」各年、「行刑統計月報」

(6) 『警察学論集』第七輯(二十四年七月)植松正「戦後における朝鮮人の犯罪」

(7) 『法曹時報』第二巻第三号神崎誠、武安将光「戦後の犯罪現象に関する実証的考察」

法務府検務局『検察月報』第八号(二十四年十一月)法制意見第四局統計課「戦後朝鮮人犯罪に対する実証的考察」

『法学志林』第四八巻第一号(二十五年三月)武安将光「最近の犯罪に対する統計的考察」中には二十二、二十三、二十四年の三年間の統計をあげて考察している。

(8) 『刑法雑誌』第一巻第二号(二十五年十月)高橋正己「敗戦後の日本における朝鮮人の犯罪」

『法務資料』第三三一号「本邦戦時戦後の犯罪現象」第一編、高橋正己「外国人(特に朝鮮人)の犯罪」

(9) 最高裁判所事務総局刑事局調査結果表

(10) 「敗戦後の日本における朝鮮人の犯罪」

 

2、酒の密造、煙草、覚せい剤犯

 朝鮮人犯罪中、特別法犯で特異な高率をしめている酒の密造、煙草専売法違反、ヒロポン犯罪について概述しよう。

  a 密造

 酒類の密造は、一般に戦後に正規酒類の供給ひつ迫のため全国にまんえんし、そののち数次にわたる減税の実施と酒類の増石、取締の強化のために漸次減少しているが、朝鮮人は依然、大きな役割を演じている。日本人は山間僻地で農家が自家用としてつくるものが多いが、朝鮮人は都市の周辺で集団的に密造し、商売としてつくるものが多いのが特色である。密造が巧妙になり、山野、河原で、共同で、しかも取締の寛厳を顧慮して製造場を移動して検挙の機会を逃れようとするものが多く、また取締の執行に際しても、その蒙る損害を最少限度にくいとめようとする抵抗意欲は依然つよい。

 朝鮮人は犯則数量の中で、二十八年は二九%、二十九年は二七%をしめ、二十九年度は犯則者不明の分を入れると四六%をしめ、人口割からみればすごい高率をしめている。とくに犯則者不明の石数の多いことは、全般的に隠匿方法の巧妙になつたことを物語り、また警察官出動人員が七割をしめているのは、集団部落のためにその取締に大人数を要したためと推察されている。

 朝鮮人密造部落の検挙でもつとも有名なのは、大阪府泉南郡多奈川町の朝鮮人部落に対するもので、二十七年三月十四日に、大阪国税局、大阪地検、国警泉南地区署が急襲したが、朝鮮人側の逆襲にあつて押収物を破壊され、被疑者が奪還された。三月三十日に再度強襲したが、頑強な抵抗にあい朝鮮人側に一名の重傷者を生じた。この事件で、朝鮮人十七名が酒税法違反、公務執行妨害、傷害の疑で起訴されたが、二十九年一月二十六日の最終公判で、大阪地裁裁判長は、警察側のゆきすぎを批判し、朝鮮人が生活苦のために酒の密造を行つたとしても同情の余地があり、こういう環境に陥れたことは日本として深い責任があり、できるだけ生活環境の実態を調査し、温い気持と理解ある態度でのぞむべきである、とのべ、十七名中無罪五、免除一、その他有罪のものも執行猶予の判決をして注目された(1)。目下大阪高裁で繋属中である。

  b 煙草専売法違反

 終戦後、煙草耕作地帯、とくに郡山、水戸、宇都宮、岡山等各地方局管内で煙草耕作者からひそかに葉煙草を買い集め、東京、大阪、名古屋等の大都市に密輸送する事犯と、これら大都市を中心とする地域の煙草密製造事犯に役割を演じた。二十八、九年の激増は大都市のパチンコ屋の客から煙草を買い集め、それをパチンコ屋にうる立買人(無指定販売および準備犯)が多くなつたためで、二十九年に東京が大阪より多くなつているのは、大阪の取締強化により東京に移動したものが多いと推測されている。

  C 覚せい剤取締法違反

 二十八年後半期より二十九年前半期が増加傾向にある。警察庁の二十九年五、六月にわたる違反者の実態調査についてみると、朝鮮人の使用者の率は三・三%にすぎないが、その製造は六二・二%をしめておる。

 これはヒロポンが簡易に製造でき、少量で高価であり、運搬が便利であり、一方需要がふえているので、営利行為となつていることが注目されよう。

 この朝鮮人にヒロポン犯の多いことについて、国会において対策が強望され(2)、とくに東京都において二十九年一月から十月まで製造者中朝鮮人が七一・九%をしめていることが指摘され注目された(3)。

 出入国管理令において、麻薬取締法と同じく覚せい剤取締法の違反者も国外に退去し得ることに改正したい意見もあつたが、当局では、刑を重くすれば一年をこえる刑になり、その条項で国外に退去しうるという見地から改正をみなかつた(4)。

 

注(1) 『産業経済』二十九年一月二十七日「多奈川事件判決の描く渦紋」。「朝日」二月八日

『朝鮮評論』二十七年五月号白佑勝「多奈川事件を解剖する」

(2)(3) 二十九年五月二十六日参議院法務委員会、十一月二十五日参議院厚生委員会、十二月六日参議院本会議

(4) 二十九年十一月二十五日参議院厚生委員会における江口警視総監および高野一夫氏説明

 

 

    六、治安

 戦前において在日朝鮮人の共産主義運動は、「朝鮮の完全な独立」、「被圧迫民族の解放」をスローガンにかかげた日本共産党とは当然合体していたが、戦後にあつても、その関係はさらに緊密となり、これが在日朝鮮人に特異な性格をもたしめた。

 占領下の治安面からみた動きは先述したが、平和条約発効直後のメーデー事件に在日朝鮮人が一つの役割をもつていたこと、またついで起つた吹田事件は、ことに朝鮮人が主体であり、きわめて巧妙なゲリラ戦法で、自治警、国家地方警察の間隙の虚をついたことは、日本社会に絶大な衝撃をあたえた(1)。それと前後して、権力機関に対する不法行為が頻発し(ことに警察機関に対する不法行為が二十七年一年間に二二四件をかぞえ、二十二年以後最高であつた)、日本国民の在日朝鮮人に対する警戒心は異常に高まつた(2)。

 第十九国会において警察法が内閣より提出される際、その理由の最大なるものの一つに、自治体警察と国家地方警察との二本建では、治安の責任を完うしがたいことをのべている。当時その説明資料として、従来の「治安の責任の不明確な重大事案」八件があげられており、その中に、朝鮮人の参加主役を演じたものが浜松市における小野組・朝鮮人の乱闘(二十三年四月)、神戸事件(二十三年四月)、大阪事件(同上)、神戸長田区役所における朝鮮人騒擾事件(二十五年十一月)、東京メーデー事件(二十七年五月)、吹田騒擾事件(二十七年六月)の六件を数えている(3)。

 しかし、二十七年七月、日本共産党が、メーデー事件以来の行きすぎを批判し、「活動の基礎を大衆の信頼を維持する」方向へ転換して以来、その指導下にある北鮮系朝鮮人の不法行為は激減した(二十八年に警察機関に対する不法行為は二十一件となり、火焔ビン投入のごときは、二十七年四十二件が二十八年に一件となつた)(4)。

 組織としては、左翼の民戦は、公然たる団体として朝連にかわる組織となり、その傘下の構成員は十六万余といわれ(5)、民族権利擁護闘争の中核的勢力となつて、日本国内左派と緊密な連携をもつて、生活保護、反税、密造取締反対、登録反対、教育防衛闘争などをつづけ、一方また居留民団との闘争もはげしくくりかえした。

 二十九年末から三十年にかけて、民戦内部にきびしい批判がおこり、ソ連中共の平和攻勢、平和五原則に呼応し日本の内政不干渉が強調され、従来の日本共産党の指導から脱却して行く気運が濃厚となり、とくに、南日外相の鳩山内閣に対する国交正常化のよびかけをいかに闘いとるかという問題が論議されて、三十年五月の第六回全体大会では、民戦を解体して、在日本朝鮮人総連合会を結成した(6)。

 

注(1) 二十七年六月二十六日『毎日』の「暴力と破壊をにくむ」、二十七日『朝日』の「軽視を許せぬ暴力の横行」、『読売』「左系朝鮮人に警告する」、二十八日『時事新報』の「朝鮮人の乱暴に堪えず」、二十九日『日本経済』の「暴動事件と朝鮮人」、七月十七日『朝日』の「在日朝鮮人をめぐる諸問題」の社説

『日本週報』七月二十五日号「朝鮮人虐殺の愚を招くな」、八月五日号真木昭「翻弄される自治体警察」

(2) 『毎日』二十七年八月一日に掲載の世論調査に「騒乱事件はなぜ起ると思いますか」について「不穏な朝鮮人がいるから」が三九・八%、「これらの騒乱事件をなくすためにはどうすればよいか」について「不穏な朝鮮人を送還する」が一五・九%をしめた。

(3) 二十九年四月二十七日衆議院地方行政委員会における齋藤国家地方警察本部長官説明

(4) 篠崎平治「在日朝鮮人運動」

(5) 二十九年十月四日衆議院内閣委員会における藤井公安調査庁長官説明

(6) 「朝鮮通信」三十年五月二十八日~六月二日

(7) 『親和』第二十号「在日朝鮮人運動の新段階」

 

 

         七、切望されている綜合対策

 朝鮮人は、平和条約発効後、明確に外国人とされた。しかし、出入国管理令の第二十四条の適用には限界があり、戦前からひきつづき在住するものの在留資格および在留期間は、別に法律で定められるとあるままである。生活保護法は、準用のままつづけられ、義務教育は原則的に適用されないが、従来通り、なるべく便宜を供与して入学許可すべきことになつている。鉱山権は二年の猶予で喪失したが、船舶は一年間の包括特許があたえられている。諸事項は、日韓会談の妥結をまつまで、原則的な決定をまちつつも、現実的に具体的措置をとらざるを得なくなつている。都道府県知事や教育委員会の権限下にある信用組合や学校問題も、全国的に統一的対策を要望する声はつよい。

 それは、朝鮮人を一言に英米人なみの外国人と割りきるには、あまりにも現状にそぐわず、法律論からのみ具体的解決をはかるのは、あまりに困難であるからである。

 朝鮮人問題について、戦前においては、各省がその行政事項により分担していたが、とくに内務、厚生がその所管の主体を明らかにしていた。戦後においては、内務省は解体した。各省は朝鮮人を「第三国人」の概念の下に、治安面をのぞいては積極的にその対策をたてようとしなかつた。総司令部としては、在日朝鮮人に対する綜合的局課をもたなかつた。平和条約発効後の日本政府の機構をみると、治安は警察に、帰化は法務省民事局に、出入国、在留資格、審査、登録は入国管理局に、生活保護は厚生省社会局に、学校は文部省初等中等教育局に、外交は外務省アジア局に、その他諸般の事項にわたつて各省各局各課にわかれていて、その間、たえず連絡調整に悩まされている。

 在日朝鮮人の綜合対策の必要性については、平和条約発効直後、朝鮮人間題が治安上やかましくなつた頃からさけばれ(1)、内閣総理大臣官房調査室で、在日朝鮮人間題について関係省局課の連絡をはかるための協議会が発足したが、充分な成果をあげているといえない。

 私は、本稿の資料をもとめるために、朝鮮人関係の各省各課をまわつたが、その際、朝鮮人問題は、その省・局・課だけで解決し得ない限界になやみ、綜合対策樹立の一日も早きを切望する声をいたるところで聞いた。

 二十七年七月十五日、朝鮮懇話会より吉田首相あての「在日朝鮮人問題対策に関する進言」には左のごとくのべている。

「対策の立案、実施を担当する官民二本立の機構を設ける。

一、政府機関―在日朝鮮人問題に関する諸施策を綜合的かつ統一的に、立案かつ実施するがため、内閣にこれを担当する責任機関をおく。

1 該機関として、内閣総理大臣のもとに、厚生大臣、法務総裁、外務大臣の三人委員会を設ける。

2 三人委員会の主査を厚生大臣とし、三人委員会事務局長は官房副長官とする。

3 三人委員会事務局長の補佐として、関係省主任者より成る小委員会を設ける。

4 三人委員会は、諮問機関に各種対策の立案を委嘱する。

5 必要に応じ、三人委員会と諮問機関との連絡会議を開く。

二、民間機関―各分野の民間有識者に依頼して三人委員会と表裏一体を成す協力機関を設ける。

1 この民間協力機関は、三人委員会の委嘱により在日朝鮮人問題に関する綜合対策を立案する。

2 しかも、一面、その朝鮮人との多年の交友関係及び接触を活用して、決定された綜合対策の実施に指導的な役割を果たす。

右の官民二機構は、さしあたり左の諸案件を主題とする。

一、在日朝鮮人問題は、一応いわゆる「少数民族問題」のごとき性質をもつ内政問題として検討する。

二、悪質朝鮮人に対する取締、強制送還、強制隔離等の措置

三、一般朝鮮人に対する厚生施設、生活安定方策、教育政策等

四、朝鮮人諸団体の助成

五、これらの諸問題に関する内外への啓蒙・宣伝

 国会で在日朝鮮人問題の綜合対策樹立と統一的機構の必要は、たびたび論ぜられた(2)。

 二十九年十一月五日、参議院法務委員会において「朝鮮人間題について統一的機構をつくれ」という質問に、内田入国管理局長は「まとまつた全般的機構を考えるべきである。具体的には委員会のような組織でスタートすべきで、それに事務局ができ、予算的うらづけをもつた形がのぞましい」とこたえている。

 鈴木一氏(前入国管理局長)は、人道主義に立脚した綜合対策の必要性を力説し、

「綜合的一貫性をもつて施策に移されるならば、治安を害し、犯罪をおかすような少数の好ましからざる人達に対して、断乎たる取締をすることは、かえつて朝鮮の人達自身歓迎する所であることを確信する。政府が綜合対策をもたずして、時に取締強化や強制送還を強調するがごときことは、百害あつて一利なく、かえつて治安撹乱の陣営にかれらを追い込む結果となることを知らねばならぬ」

 とのべている(3)。

 綜合対策樹立のためには、その前提に徹底した実態調査が行われねばならない。私は、本稿には各省各課の手になる統計や調査をできる限り頂いたが、ほり下げた綜合的実態調査はなされていなかつた。私自身もつとほりさげて朝鮮人社会の実態究明の必要を感じながら、ただまとめられたもの、発表されたものを抽記するに止まらざるを得なかつた。

 朝鮮人問題が生活問題の解決にある以上、生活の実態は、もつと究明されねばならない。各歳年齢、出生地は二十五年度の国勢調査の結果(現在人口より十万も少ない)に止まつている。人口の一割五分をしめる日鮮結婚者の実態はもつと究明されるべきである。犯罪が指摘されるまえに、その生活苦の現実が明らかにさるべきである。大学卒業生の就職難がいわれても、その実態を説明する統計一つない。失業者、不正業者の生活の実態は、模糊としたままである。朝鮮人に対して、治安関係をのぞいて、年に五十余億の金が使われているといわれているが、しかし一方、朝鮮人の納税については、まとまつた調査はない。健全な経済活動者の実態も明らかでない。

 朝鮮人社会の学術的ともいえる実態調査は、わずかに泉靖一氏ほか四名の「東京における済州島人」(昭和二十五年)あるのみである(4)。在日朝鮮人社会の形成推移を学問的に記述した移住史は一冊もない。

 在日朝鮮人論は巷に横行する。ジヤーナリズムが何か事件ごとに大きくとりあげる。国民の世論がこのジヤーナリズム的感情論の上にある種の概念を形成する。在日朝鮮人論は、今日のこのような幼稚な型を一日も早く脱しなければならない。

 正しい調査のないところに正しい対策はない。要望される綜合対策の樹立のためにも、その前提として、綜合的調査がさらに積極的に推進されねばならない。

 

注(1) 『日本週報』二十七年七月二十五日号船田享二「強制送還に反対する」

(2) 二十九年一月三十日衆議院本会議、二月三日衆議院法務委員会、十一月五日参議院法務委員会

(3) 『朝日』二十九年四月九日および『親和』第六号、鈴木一「日韓外交妥結の近道」

(4) 『民族学研究』第十六巻第一号(二十六年八月)、

このほかに、二十五年五月の第四回八学会連合大会で、泉靖一氏が「東京における朝鮮人」を発表しているが、まだ印刷されていない。ちがつた角度のものであるが、本稿に引用した在日朝鮮科学技術協会の「在日朝鮮人の生活実態――東京都江東区枝川町の朝鮮人集団居住地域における調査」(二十六年)がある。

 

 

(後記)

 本稿校了後、入手した総理府統計局「昭和二十五年国勢調査報告」第八巻最終報告書によると、国勢調査による在日朝鮮人人口は、大正九年四万〇七三八、昭和五年四一万八九八七、昭和十五年一二四万一一七人と修正されている。従つて、第四、一二、一〇四、一〇六表、第一図は若干修正を要する。