秘録大東亞戦史 朝鮮編 待ちわびる心ー朝鮮引揚史 その六ー

秘録大東亜戦史 朝鮮編(富士書苑 1953)

 太平洋戦争(大東亜戦争)の戦況や実相、推移について、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、共同通信社をはじめとする日本の新聞記者などが、自分の見聞した範囲において記したルポルタージュを編集した書籍。地域方面別に1冊(或いは2冊)ずつ区切って編集したものと、地域方面ごとで区切らずに収録したものがある。

 朝鮮編は、終戦当時、朝鮮総督府の官吏であり、京城日本人世話会のメンバーとして、在ソウルの日本人居留民の保護や引揚帰国の援助を行なった森田芳夫のルポルタージュ5編を含んでいる。

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待ちわびる心

  ――朝鮮引揚史 その六――

朝鮮の引揚は三年の月日を閲して終った。帰心矢の如し、待つ心また久しかった。しかし残された人々の上に、まだ想いは遠く駈ける。朝鮮の上に綴られた日本の歴史を拭うべく、余りに深き縁であった。

      元京城日本人世話会 森田芳夫

 

  技術者たち

 北鮮の引揚のあとに、とくに残された三種の人達がいた。

 第一は、日鮮結婚の人達である。これは国家権力とは別の愛情にむすばれた人達である。(二十五年秋、国連軍が北上した時に南下してきた人達が僅かながらいた)

 第二は、受刑者である。これは過去の日本帝国主義の責任をおう代表者として、朝鮮人側に強制的に残された人達である。

 第三は、技術者である。それはこれからの新しい北鮮の国家を建設するために、朝鮮人側に強望されて残った人達である。

 北鮮は二十一年三月土地改革以来、いろいろな改革を断行し、これから生産向上にうんと、力を入れようとしている時に、それに絶対必要な、日本人技術者を帰しては、生産がおちてしまう。各地で脱出を黙認した際も、技術者だけは、のこすことが交換条件にされて、わざわざ駅や港で、その技術者が逃げはしないかと首実験される場合も多かった。

 その年十一月、平壌の黄金里の元たまやに、北朝鮮工業技術総連盟日本人部が結成された。部長は常塚秀次氏(朝鮮火薬平壌支店長)次長佐藤信重氏であった。この連盟に加わった技術者は約千名おり、一までの各地の日本人会、世話会、委員会は此の組織の中に改称した。北鮮政府は、この日本人部を通じて技術者を掌握とした。

 正式送還の発表により、帰ろうとして元山まできた人達にも、北鮮政府と日本人幹部が来て、説得して残留を強いられた。

 この日本人は優遇された。住宅も配給もあたえられた。給料は、朝鮮人の五割増しとされた。子弟の教育も特別に考慮してくれた。

 興南工場、城津高周波、兼二浦製鉄、鎮南浦製錬所、水豊の発電所、その他北鮮の工場、鉱山の生産復興につとめた。

 終戦後三年、南鮮の産業再建が戦前の二割七分といわれている時に、北鮮が、早くも七割五分までこぎつけたといわれているその蔭に、日本人技術者の役割は大きい。

 その後、正式引揚船は、二十二年三月(大安丸)、七月(山澄丸)、十一月(宗谷丸)、二十三年六月(宗谷丸)の四回あった。北鮮に残った日本軍人捕虜の引揚は、二十二年三月に完了した。カムチャッカからも二十二年初に八百名が北鮮に帰り、この船にのった。技術者もつぎつぎに帰って行った。

 二十三年六月宗谷丸がまたきた時、ソ軍は、「日本人全員は、強制的に帰らねばならぬ」ことを伝達した。わずかではあったが、自らすすんで残留したいという人達もいたが、それはみとめられなかった。

 二十三年二月末に、技術連盟日本人部は、解散を命ぜられ、それと前後して幹部は逮捕され、宗谷丸の発航直前に十名の者が拘引され、計十五名はソ軍の手に抑留された。船長は出発時間をのばして待ったが、帰ってこなかった。

 理由は、「反ソ行為」とされているが、それまで北鮮産業の再建に懸命に努めたのにもかかわらず、この発航直前につれ去られ、家族は、無限の悲しみと憤りをもっている。

 

  受刑の人達

 南鮮の受刑者は、二十一年六月と二十二年一月、二回にわかれて日本に移送された。 

 北鮮では二十一年春に刑務所を「人民教化所」と命名した。刑を課するのではなくて、ここで人民を教化するというのである。

 二十三年の六月に、最後の送還船のでる時に、平壌人民教化所に、平壌覆審法院検事長山沢佐一郎氏、平南鉱工部長服部伊勢松氏ほか司法官、警察官の人達を主として十五名が残っていた

 刑期も、無期一名、十五年二名、十二年一名五年八名、三年二名、ほか一名の言渡をうけていた。

 この人達は多く個人の罪ではなくて国家の命においてなしたことが罪とされたのである。

 二十三年六月、最後の送還船で釈放された新義州判事小野沢竜雄氏は、受刑者の一人平壌地方法院判事鎌田叶氏夫人の信子さんに獄中の生活について引揚後、左の手紙をおくっている。

「先ず第一に申上げたきことは私ども所謂政治犯と称せらるる部類の人間は私をごらん下さっておわかりかと思いますが、決していじけても悪びれてもおりません。なにも悪いことを致したわけでもなし、敗戦の結果、いわば日本の代表のような意味においての、報復のまとになっているのですから、私たちはその犠牲で、日本三十六年の政治の総決算を自分たち自体で勘定している位の自負をもっておりますから、みな平気で暮らしております。

 もちろん人間ですから、故郷も恋しいし、救出の手の伸べられるのを如何に待っているかは、いわずもがなではありますが、気になるのは、家族達が如何に暮らしているか、生活に困窮しておりはせぬかの一事、私の家内が月給をもらっていると申してまいった時などみな歓声をあげて喜び、これで一生でもいてやるぞといった位です。

 私たちは柏樹子宗匠(鎌田氏)を中心に、毎週内緒々々で句会をやっておりましたよ。一度現場を発見されて、宗匠が殴られたなどという椿事もありました。

 丁度昨年の二百二十日の日で、爾来その看守を二百二十日とあだ名して敬遠したりした冗談も今に思出話しにすることもあると信じます。

 その句集は、苦心して刑務所外に持出し、私が御家族等に近況の一端としておつたえすべく、隠匿して元山まで運び出したのですが元山でソ軍にみつけられ、機密文書と思われ、没収されてしまい、残念ながら持帰れませんでした。

 しかしみんなそんなことをして楽しんでいるのです。子供にかえって腕相撲をやったり歌を歌ったり、けっこうのんきにしています。この点に関しては、心配無用です。

 昨年四月頃から日本人に好意をもつ現所長の取計らいで、みな仕事に出るようになり、(刑務所では仕事がないので、仕事に出ることが優遇なのです)仕事に出さえすれば、最小限度の食糧は確保されるので、急に参るようなことはありません。

 奥さんからのお便りは、私のでるまでに、四、五通位来ておりましたでしょうか。

 私どもが一番知りたがっているのは日本の復興状況です。

 鎌田君が新宿に中村屋があるかとたずねられた葉書は届きましたか?中村屋がなくなりましたかどうか知りませんが、何かそれだけからでも一つの復興状況をさぐりたい心なのです。

 私どもは、日本さえ外交権の自立を獲得したなら、また南北朝鮮の統一を見たなら、あるいは朝鮮に憲法が発布されたなら等々に絶大な期待をもっていました。

 獄中で一番うれしいことは、便りを受取ること、一番慾求するのは、甘いものにたいする病的なあこがれと読書後者は時に機会がありますが、前者はまず見込なし、せいぜい手紙でも出し、甘いものでもこしらえて、帰国を待ちましょう。

囚人と呼ばれてひさし胡瓜汁

(柏樹子)

獄なれど身に穢れなし秋晴るる

(小野沢)」

 昭和二十二年八月十八日附で、平壌の人民教化所内の山沢佐一郎氏から、左の手紙をよせている。

「七月十五日附の御許のはがき、感謝の中に拝読、今日まで四通の御許のはがき、和三郎殿、浅見夫婦、高橋夫婦のはがき計十通を入手しました。これらの人々に充分御礼をお伝え下さい。

 私はこの十通のはがきを毎日枕許においてねます。これらの人達と起居をともにしている気持で楽しく賑やかな心持で、はがきをながめています。私の子供、親類、兄弟からできるだけ沢山の通信を私になし下さるようたのんで下さい」

 しかしこの手紙も、二十三年夏からは、いくらこちらから出しても、返事はこなくなった。

 

  待ちわびる心

 二十四年春、北鮮に残った技術者の家族と受刑者の家族の東京にいる人達が集って、北朝鮮残留日本人家族連絡部をつくった。

 技術者関係の常塚すみ子(日本人部長夫人)、佐藤公也(日本人部長の令息)、成田庸亮(興南の成田亮氏父)、桑島華子(鎮南浦化学桑島正氏の姉)、受刑者関係の山沢ちとせ(山沢佐一郎氏夫人)、鎌田信子、松原コト(平壌検事松原元男氏夫人、服部素一(服部伊勢松氏令息)らが中心となり、「待ちわびる心」という冊子を発行し、抑留の事情を訴え、家族のおもいをのべた。

 北鮮への連絡をはかって、金日成首相へ、朴憲永外相へ、あるいは人民教化所長へ手紙を幾度となくだした。しかし何ら返事はなかった。

 当時存在していた朝鮮人連盟にもおねがいに行った。連合軍司令部にも行った。国会、外務省にも陳情した。赤十字にも足をはこんだ。

 数が少いといってどこでも問題にしていなかったので、ラジオや新聞に訴えた。一番力を入れたのは、ソ連代表部だった。

 二十五年一月に発行した「待ちわびる心」第四号には、「待ちわびる心の悲しき迎春――一年を顧みて――」として次のようにかいている。

「三月十一日、ソ連代表部にはじめて行った。その時は代表部の入口で、ローザンノフ氏がでて嘆願書を受取ろうともせず、中にも入れない。

〝ソ連は撤兵した。北朝鮮のことは知らない〟

 というのを常塚さんが頑ばって、

〝日本人技術者はソ連軍に抑留になった。今、へいじょうにソ連大使館がある、連絡してしらべてほしい〟

 とくりかえして、やっと文書を受取ってもらった。

 返事は二カ月後に来るということ。それからソ連への嘆願行がはじまった

 その後ソ連代表部に行くこと七回、

 五月十一日、ちょうど二カ月目の日を忘れずに行く。ローザンノフ氏からまだ返事は来ないといわれる。

 七月一日、まだ返事は来ないという。三十分位ねばって帰る。

 九月三十日、コゼリニコフ氏にあう。十日後に来るようにいう。

 十月十一日、ローザンノフ氏から抑留事情をくわしくかいて、テレビヤンコ中将あてに書翰をだすようにいわれる。

 十月二十一日、テレビヤンコ中将あて嘆願書を提出する。

 十一月二十二日、ローザンノフ氏より返事は今年末か、来年はじめにくるでしょうといわれる。

 十二月二十三日、返事はまだ来ないという。今年、ソ連代表部に行った引揚のための陳情団は多かった。新聞にはいつも相手にされない喧嘩交渉のみ伝えられているが、私達の陳情は、それとはまったく違う。きわめて和やかな風景である。自分の夫を残している若い女性が中心になっているから先方でもかわいそうと思うのかもしれない。あるいは、私達の平壌でおぼえた片ことのロシア語が役にたっているのかもしれない。

 門に立つマンドリン銃をもった哨兵は、

〝ズウラスチ〟(今日は)

〝カークジェラ〟(その後おかわりありませんか)

 の挨拶でにこやかに笑って入れてくれる。玄関に立つ下士官も、愛想よく応接間に通す。二度目からいつも応接間で面会する。

 応接間は手入れの行きとどいた庭に面していて、日当りがよい。室にスターリンの大きな画像がかかっている。椅子の支柱も金色にぬってある。何度も行くので、もう私はどの椅子と坐り場所もきまっている。

 コゼリニコフ氏やローザンノフ氏ともなじみになって、時には、〝今日は遊びに来ました〟といって、お互に子供のことを語ったり、煙草をもらったりする。

 ソ連側は、〝ソ連は撤兵している〟〝北鮮は独立国だ〟〝干渉できない〟〝船を送ることはソ連、北朝鮮、日本の三国協定によらねばならぬ〟をくりかえすのにたいして、

〝ソ軍駐屯下に抑留になった〟〝北鮮にソ連大使館がある〟〝このソ連代表部のほかに、北鮮と外交交渉をするところがない〟〝人道上の問題としてたのむ〟をくりかえす。文書にたいしては、

〝モスクワへ送った〟〝まだ返事がこない〟

をくりかえされるだけ、

〝ドスビ・ダーニア〟(さようなら)

 ソ連代表部から帰る時が私達は一番さびしい」

 ソ連代表部もその後の陳情をかさねて、計十一回にもおよんだが、何ら返事はきけなかった。

 そのうち朝鮮に戦乱がおこった。国連軍が三八線をこえて北上した時、家族達は狂喜して平壌突入の新聞記事をみた。しかし八方手をまわして当時の平壌の人民教化所にいた人達のことをきいた時――政治犯は釈放された。しかし日本人は一人もいなかったということだけだった。

 それから後、また北鮮へは闇黒のカーテンがおりた。この人達の消息は、まったくたたれている。

 生死不明の環境の中で、家族達の思いは切ない。

「平壌の刑務所に夫君をおいている鎌田信子さんはこう語っている。

「私は再会をあせる気持はすてました私の主人はね、もう、幽久の世界に生きている。私はこう考えるのよ、そして時がくれば、幽久から現実にでてきて、私達あえるようになるかもしれない。幽久に生きている、そう考えて、私はやっと切ない思いを落ちつけることができました」

 

  帰らぬ人達

 日本政府が、国連に訴えた未帰還者に、北鮮生存者二四〇八名、生死不明者一〇〇五名を数える。

 その中には、上述の技術者がいる。受刑者がいる。日鮮結婚者がいる。

 未帰還者の数のうちの大部分は、終戦当時、北鮮にいながら、あるいは清津の戦闘で、あるいは咸北から咸南へ流動した避難民中に、その他ソ軍に抑留中に仆れて行った人達が多い。

 また、以上の数字とは別に、北鮮からソ連や中共に抑留されたまま生死不明者も多く、カムチャッカにも、あと十五名残っているが、三年以来消息がない。

 今、外務省や、復員局の引揚調査にあたる人々は、各地の人々の持帰った死亡者や団体名簿を入手し、未帰還者の一人々々について、消息をたずねしらべて、家族に通報している。その消息究明ほど地味で貴い仕事はない。

 二六年春、釜山から日鮮結婚の婦女子が五十余名帰ってきた。一行が門司から舞鶴の援護局に向う途中、京都で乗換のため小憩していた時、相当年輩の婦人と若い婦人の二人がこの一行をたずねて、

「私の娘夫婦がまだ北鮮に残っているのですが、何か知っていることはありませんか」

 という。きけば、その娘にあたる人は、終戦時新婚早々であり、妊娠していたので、今は六つになる子供があるはずという。夫君は林といい、平北定州古邑の五山中学の配属将校であったという。

 一向についていた外務省の係官は、軍人が北鮮に残っている可能性は少いけれど、何とかしてしらべてあげるからとて別れた。

 それから一カ月、その係官は引揚資料の中でふと定州法院福原義晴氏の記録に次のことが記されているのが目についた。

「終戦直後、軍用物資をうりはらって金を持って逃亡しようとした軍の幹部もあった。これに反して、定州の南方一里ばかりの古邑というところにある五山中学の配属将校林少尉は、平常生徒に必勝の信念をといてきたにもかかわらず、案に相違して、敗戦となったのを恥じて、新婚の夫人とともに自決した」

 ああこの人だ。終戦後六年余、家族はまだこのことを知らずに、北鮮残留生還を信じつづけている。その係官は切ないおもいで、このことを京都に知らせた。

「だめであろうとは思つておりましたものの、思いがけぬ自決をしたとのこと、二人がどんな気持ちでいたろうかと思い、ただ涙のほかございません。でも事実がわかりました上は、一日も早く弔いたいと思います」

 こういう返事であった。

 それから一年余をへて、その外務省係官は、韓国から来た李青年にあった。きいてみると、終戦当時、平北五山中学の五年生であったという。その青年の話で、はじめて林少尉夫妻の最後のことがはっきりとしてきた。

「たしかに、終戦の八月十五日の夜だったと思います。五山中学校の校務課長朴先生が校長のかわりに全校生徒を校庭に集めて、訓示がありました。

 その訓示が終るや、林先生が緊張した顔で登壇し、かんたんに終戦の事情をつげ、つづいて、

〝私自身は本国に帰って、日本のためにつくし、みな様はみな様の国のためにつくす時が来ました。お互いの親善を保つようにお願いします〟

 とおっしゃいました。そして先生も生徒も解散しました。

 その翌十六日のことです。登校するや、生徒の口から耳へと、昨夜林先生夫妻自刃のことが噂されました。

 学校では早速生徒を動員し、先生のお宅の周囲を警戒し、先生夫妻の御霊を守るよう命じました。

 私は参加して昼間の警備をうけもちました。夜間部をうけもった班が火葬までひきうけました。

 自刃されたところには、あらかじめ香水がまかれ、血なまぐさい臭みにまじって、息苦しいほどの臭気でした。

 夫人は手足をきれいにそろえて横になり、先生は、軍服そのままの姿で、夫人の上にふせ姿で仆れていました。

 刀(日本刀、指揮刀、軍刀)は三つとも部屋の隅にきちんと整理してありました。

 お手紙が三通あり、一つは本隊に、一つは五山中学に、もう一つは、遺骨輸送にとそれぞれ明らかにしておいてありました。

 先生の尊い精神は、校内は勿論、この小さな町に少なからぬ感動をあたえました。

 とくに妊娠八カ月の奥さんのことは一入涙をしぼりました。

 火葬には、私は参加しませんでしたが、学校のすぐ横にある荒城山の一角に葬られています」

 この青年の話は、またその家族に通報された。なくなられて八年近く、ようやく知るこの悲壮な最期、家族の人達はどんなおもいであったろうか。

 

  かえりみる歴史

 二十一年三月末、明日の私の帰国を前に、友人韓君が送別の宴を開いてくれ、それから一緒に京城の町を歩いた。

 その頃、南鮮の日本人には、総引揚命令がでて、日本人は残り少なになり、北鮮からは春季の脱出が大規模に開始されていた。

 おもえば、私の父は、明治二十八年日清戦争の戦勝後、新興明治の覇気を背景にこの朝鮮に渡った。それから五十余年、日本人の渡来者はふえ、韓国は保護国となり、併合され、日本はここを拠点に、大陸を制圧したが、歴史は一転し、今次の大戦であえなく敗退しようとしている。日本民族の総退却だ、明日は私もその一人として京城にさらばをつげる。

 二人の前を歩いて行くおちぶれた北鮮脱出者の姿をみとめつつ韓君はいう

「日本人は敗戦でほんとうにお気毒です。しかし、朝鮮は二つに分れてどうにもなりません。もう十年もすると、かならず日本の方がたち上って、そしてまた朝鮮を侵略にやってきますね」

 私はその時いった。

「僕も何年先かわからぬが、また日本人が朝鮮に来る時がかならずあると思う。しかしその時は、今までのような支配者としての日本人としてでなく、ほんとうに平和を求めて協和する民族として来ますよ」

 韓君と握手して別れたあの日の言葉は、私自身の胸にいいきかした言葉であった。

 歴史をかえりみて、日本民族の朝鮮引揚は三度あった。

 古代日本人は、任那を根拠に南部朝鮮経営にのり出し、一時は北の高句麗と対峙して兵を三八線以北まで出したことがあったが、その後、新興新羅の民族統一のうごきの中に、百済も滅亡し、白村江敗戦で天智天皇は、朝鮮放棄を決行した。(六六三年)

 これが第一回目の引揚である。

 中世に、日本海賊倭寇は、朝鮮をあらし、さらにすすんで、東支那海から南洋方面を侵した。これをひきついで秀吉が戦国の日本を統一した余勢をかって、朝鮮半島に出兵したが、明軍の出撃や朝鮮人の反抗のために、占領の持続できずに退却した。(一五九八年)

 これが第二回目の引揚である。

 大東亜戦の敗退による今度の引揚は第三回目の引揚である。

 朝鮮引揚の記録は、日本の朝鮮支配のかなしき終焉史である。私たち引揚者一人々々は、引揚の苦闘をもって、その一頁をつづった。

 新しい日本の出発の基点は、朝鮮との関連にある。地理的にもっとも近い歴史的にもっとも関係深い朝鮮民族とのあり方で決せられよう。

 過去の三度のあえなき進出と敗退の歴史をかえりみつつ、これからの日本民族の意志はいかに東亜に描かるべきか――この課題を、私達は引揚史の中にくみとらねばならぬと思う。

 

 おわりに、京城日本人世話会時代以来、朝鮮引揚の記録資料蒐集に御協力下さいました各地の同志のみなさまに心から御礼申し上げます。

 なおみなさまのかつての御健闘をしのぶために、貴重な資料の一節を本稿に借用させていただきましたことについて御寛恕をおねがいいたします。