2017/12/22NEW

端島に関する詳細年表

明治元年から昭和20年の終戦までの端島に関連する主な出来事を 「炭坑誌 長崎県石炭史年表 前川雅夫編」より引用し、年表にまとめました。

 

端島年表

明治元年<1868年>(端島) 小山秀之進開坑 上八尺層浅部 明15まで
(古洞調査 昭34~昭35 福岡通産局石炭部実施、所蔵)
明治3年<1870年>(端島) 高浜村端島で開坑 深堀村士族 渡辺聞櫓、深堀楳伍(明7=9,000坪、2,000円)
(借区開坑願 明7 長崎県勧業課編 長崎県立長崎図書館蔵)
明治6年<1873年>1月(端島) 出炭1~6月983トン、7月~12月2,168トン 計3,151トン 平均263トン/月
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治7年<1874年>8月(端島) 高浜村端島の2炭坑開業 本年は出炭なし
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治7年<1874年>8月(端島) 端島で鉱区取得 深堀村 鍋島孫六郎(旧深堀領主)明23.8岩崎へ
(鉱山納税額台帳 明7以降 長崎県 長崎県立長崎図書館蔵)
明治8年<1875年>9月(端島) 熊本県天草の小山秀、長崎県端島坑主 渡辺聞櫓、深堀楳伍(代理人 古賀松一郎)と、明8.9.1~明10.2を期限とし、同坑の出炭請負締結
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治8年<1875年>(端島、大島、香焼島) 竹内綱は端島、大島、香焼島で稼行
「余ハ高島近傍ノ端島、大島、香焼三島ノ石炭坑ヲ深堀家(深堀家ハ佐賀藩ノ家老)ヨリ譲受ケ、明治八年末ヨリ追次開坑ニ着手シ、明治十年六月決算期ニハ、三島ノミニテ毎一ヶ月ノ出炭、二万一千噸余ニ達セリ」
(竹内綱自叙伝 昭43 明治文化全集第25巻雑史篇所収 日本評論社)
明治9年<1876年>6月(端島) 端島炭鉱請負人小山秀は、同坑崩壊のため、天草の私有地、家督を抵当として深堀会社より15,000円を借用し、諸雑費に充当
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治9年<1876年>7月(端島) 端島炭鉱請負人小山秀は、同坑復興のため英商グレブルとの定約を計画したが、定約に至らず
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治10年<1877年>1月22日(端島) 長崎工作分局は、長崎県人小山秀の願いにより貯舩を貸与し、長崎~端島間の石炭曳船として毎日往復(期間は3.3まで)
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治15年<1882年>12月(端島) 小山秀より鍋島孫六郎へ 明23三菱へ
(古洞調査 昭34~昭35 福岡通産局石炭部実施、所蔵)
明治19年<1886年>12月22日(端島) 高取伊好、鍋島孫六郎(旧深堀領主)より端島炭坑の再興を委託される
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治20年<1887年>8月12日(端島) 三菱端島、海水侵入による坑内出水 死者32人 負傷者多数
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治20年<1887年>12月(端島) 上八尺層採炭の目的で第一竪坑
(日本炭砿誌 明41.9 高野江基太郎著(株)丸善)
(本邦重要鉱山要覧(大7)大7 農商務省鉱山局編纂 鉱業新報社)
明治20年<1887年>12月(端島) 三菱高島、端島第一竪坑(深さ27m、長さ3.3m、巾3m)を開さく
ついで明28に第二竪坑も開さく
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治22年<1889年>11月中旬(端島) 坑夫賃上げ要求 会社側が拒絶し不穏 坑夫は納屋に屯集し怠業
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治23年<1890年>8月(端島) 三菱は鍋島孫六郎(旧深堀領主)の端島炭坑を10万円で買収。同時に海底鉱区25万1,000坪を取得。
「これにより高島、中ノ島、二子島と端島を結ぶ広大な海域の海底に眠る無限の宝庫は、三菱の手によって開かれることになった」(岩崎弥之助伝 昭46 同伝記編纂会編刊)
改良を行い明24.2、掘進工事開始(日本炭砿誌 明41.9 高野江基太郎著(株)丸善)
明治23年<1890年>9月1日(端島) 三菱へ 溜水排除 明24.2掘進開始
(本邦重要鉱山要覧(大7)大7 農商務省鉱山局編纂 鉱業新報社)
明治23年<1890年>9月(端島) 開坑(原料炭)
(全国炭鉱要覧(昭和33年3月末)昭33.9 通産省)
明治24年<1891年>2月(端島) 三菱、高島坑・端島坑の掘進を開始
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治25年<1892年>9月12日~14日(端島) 坑夫300人が採炭の紛争から罷業
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会) 
明治26年<1893年>11月3日(端島) 三菱、端島小学校開校式を挙行
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治26年<1893年>12月(端島) 530尺の新竪坑開さく(159m)翌年には第三竪坑を開さく 海底下1,600尺(480m)に達す
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
第二竪坑開さく 530尺で胡麻五尺層着炭
(本邦重要鉱山要覧(大7)大7 農商務省鉱山局編纂 鉱業新報社)
明治27年<1894年>2月23日~24日(端島) 坑夫200人が食事の改善を要求して同盟罷業、社員・警官の説諭をきかず納屋などを破壊。
24日午後20余人の警官出動、坑夫39人を逮捕して鎮圧
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治27年<1894年>12月(端島) 第三坑開坑 第4層五尺層、最下層一丈層に着炭
(本邦重要鉱山要覧(大7)大7 農商務省鉱山局編纂 鉱業新報社)
明治29年<1896年>12月17日(端島) 第二竪坑の採掘を開始
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治30年<1897年>2月(端島) 第一坑、坑内火災で注水、廃坑(上八尺層)二、三坑のみとなる
(長崎における石炭の集散 大7 長崎商業会議所)
(本邦重要鉱山要覧(大7)大7 農商務省鉱山局編纂 鉱業新報社)
明治30年<1897年>4月13日~24日(端島) 坑夫3,000余人が同盟罷業、納屋頭2人を殺害、警官の説諭で鎮静
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治30年<1897年>11月26日(端島) 納屋頭その他に対する貸金5,493円余を回収の見込みがないため切り捨て
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治33年<1900年>9月18日(端島) 坑内外の所有建物に電燈供給を認可
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治36年<1903年>3月3日(端島) 落盤死1 第3坑14卸第3片磐24号で採炭終了後、落盤
広島市空鞘町248 平民串田修蔵(25)(東洋日の出新聞 明35~昭9 東洋日の出新聞社)
明治37年<1904年>10月28日(端島) ガス爆発、9人被害
坑夫鹿児島県生、岩山信全(28)全身大ケガ、生命危篤 坑夫愛媛県生、吉松市五郎(20)、坑夫小頭福岡県生、藤原米太朗(40)、同 島根県生、柏井菊太郎(37) 坑夫皆瀬村232、豊岡源太郎 外4人は数ケ所の火傷(東洋日の出新聞 明35~昭9 東洋日の出新聞社)
明治38年<1905年>8月11日(端島) 台風で避難、不満続出、233名を即日解雇
暴風雨で納屋30棟全壊、9棟半壊等20万円の損害 納屋住の850人(家族とも1,200人)
病院・小学校に分けて収容
「今まで三人五人と限られて起居していたものが一堂に集合したゝめ、談話の種は進んで坑夫対炭坑社の問題に移り、或者は待遇酷薄(略)食物の不良、給料の不平、事務員の傲慢(略)
一時に平素うっ積せし自分勝手の不平を持出し(略)がやがやと騒ぎ始め、ストライキなどの激語もきこへ、漸く不穏の形勢を示し殺気立ち(略)重立つ事務員ら集会の末、断然たる処置をとることに一決、先ず坑夫等より何等の条件を持出さゞる機先を制し、今日(11日)限り解雇、早速端島を引払うべしとの厳達、一方、厳重な警戒。233名の坑夫、反抗の余勢なく長崎へ。警官、長崎上陸場で身体検査。説諭後、市内各所口入屋(114人)又は知人を頼っていった」
(東洋日の出新聞 明35~昭9 東洋日の出新聞社)
明治39年<1906年>7月4日(端島) 炭車事故で重体 坑夫長尾庄之助(30)鹿児島県生=端島炭鉱社宅坂田政七方同居 午後3時頃、トロッコにより捲上中、天井枠に頭部押圧、下のトロッコに転落、腰部打撲、休業6週間の重体
(東洋日の出新聞 明35~昭9 東洋日の出新聞社)
明治39年<1906年>7月16日(端島) 坑夫4 逃亡
南高北有馬村字谷川 城谷辰雄(17)、愛媛県温泉郡新浜村411 村木元吉(19)、愛媛県喜多郡内古村1164
東田頼光(20)、広島市伝馬町321 若狭樽一(19)
昨今の暑気にて労働にたへかね夜10時すぎ4人共謀、同村瓦斯鼻海岸より長2間、巾1尺5寸の道板につかまり泳ぎわたる。樽一は中途で断念、引返し炭坑社へ申出。社舩をこぎだし追跡したが暗夜で不明、その後、上陸の形跡なく溺死の可能性もある
(東洋日の出新聞 明35~昭9 東洋日の出新聞社)
明治40年<1907年>1月24日(端島) 事故、重症1 坑夫 友成徳重(50)大分県生=帯屋藤助方居住 午前1時、第3坑内7片盤蒸気卸、
大工小頭のとりおとしたレールに当たり、左右脛部、右腰部、休業50日のケガ
(東洋日の出新聞 明35~昭9 東洋日の出新聞社)
明治40年<1907年>2月13日(端島) 坑内のポンプおよび捲揚機作業を工費15万円で電気設備に切替える
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治40年<1907年>(端島) 三菱端島労働状況(3月~8月頃)
①坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る 炭坑を楽園の如く吹聴し、世人を欺瞞
②坑夫は何れも故郷忘れ難く、募集人の舌端に欺かれたるを悔いている
③会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励
④坑夫はあわれこの陥穽に落入り、前借の弱身に自由を縛し去られている
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治41年<1908年>7月24日(端島) 新参坑夫感情の対立から不満爆発、数十人が炭坑事務所・派出所を襲い死者1人、重症2人、軽傷20人を生ずる。坑夫60余人拘引
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
明治41年<1908年>7月24日(端島) 暴動 警官29、憲兵7出動 会社自力で鎮圧 逮捕55、解雇37
<新聞記事> 生活態度が悪いとして下宿屋を追い出された坑夫が、繰込小頭に別の下宿を世話せよと言っていたとき、事務員からどなられ暴行、巡査派出所に連行された。そこへ仲間が来て巡査ともみあいになり、50~60名が派出所襲撃、内部道具類をこわし、坑木を投げ込む。巡査部長以下3名は奥に入って無抵抗。更に近所の雑貨店3軒におしかけ、店の者1人を殺し、酒、缶詰、煙草等掠奪。何時とはなしに1人へり、2人へり、そのまま鎮静。拘留の坑夫を「取返し旁々自身のうっぷんを晴し、追てかねて自分等を厄介者視する事務員に対し余憤を洩らしたるものゝ如し」
その際の仲間ゲンカにより重傷24。梅ヶ崎、長崎両署は非常招集。梅ヶ崎署(署長、警部1、巡査13、刑事3)は、長崎署(警部1、巡査10)の応援で、長崎憲兵分隊(伍長以下7)も急行。56名検挙、凶徒嘯集罪で55名逮捕。この機会に成績不良の37名を解雇。損害は予想外に小さく800円、殆ど復旧、後かたなく、当人らも全く従順。高島分署、及梅ヶ崎署10名とで尚、警戒中(平素昼夜各350就業)
(東洋日の出新聞 明35~昭9 東洋日の出新聞社)
明治44年<1911年>5月7日(端島) 落盤 死3 午前8時
坑夫 福田富三郎(24)岡山県、同 細木早夫(23)高知県、同 松中久次(24)鳥取県
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
明治44年<1911年>10月24日(端島) 病坑夫、友人を頼り放浪、自殺
坑夫 高野茂四郎(38)大分県
①端島炭鉱で働いていたが、淋病で休みがち、「同坑にては旅費として金3円80銭を与へて追出」
②長崎へ来て、まごつくうち旅費費消
③7.1 香焼炭坑坑夫 小笹友次郎(49)を訪れ(42年9月、小城柚木原炭坑での親友)、その周旋で7.14~8.27まで働いたが、病気が重くなり友次郎の厄介になる
④友次郎も眼病で休みがち、道具を売って糊口をしのぐ有様
⑤10.23 松島炭坑納屋頭江島佐八は2人の友人で、羽振りも良いので、当分、佐八を頼って療養しようと長崎へ来て、出島末広町2-3、口入業黒川彦十方に泊まる
⑥友次郎に酒を乞い「あゝ、是さへ飲めばモウ思い残す事は無い」と冗談いいつつのむ
⑦10.24(翌日)午前4時、茂四郎の出ていく物音。友次郎は便所と思った
⑧午前7時「物乾台に塵芥箱を踏台として褌にて縊死し居る男」を近所の者が発見
⑨胸に団九郎兵衛、背に梅若丸の刺青
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正元年<1912年>11月17日(端島) 坑夫2人で小頭見習を袋叩き
坑夫 島崎(37)長崎市
坑夫 安田(22)鳥取県
小頭見習 坂井矩一
午後12時、無断で坑外に出た島崎を坂井が発見、口論しているところへ安田が来合わせ仲裁、ついに坑夫2人で坂井を袋叩き
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正2年<1913年>7月5日(端島) 賭博狂の坑夫、自殺
大工小取 能勢龍太郎(40)鹿児島県=社宅桝谷喜三郎方同居 喧嘩口論は全くしないが賭け狂、賭け金に困り、松尾武治に転宿するから桝谷への前借17円を借してくれと頼み、賭で費消、他に数件あり。悔悟と厭世で、午後8時、第二坑内第2片盤に下り、高7尺の枠で縊死
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正2年<1913年>8月1日(端島) 落盤 死2 午後1時 作業中
坑夫 佐々木関蔵(24)森山村 坑夫 宮脇清(19)愛媛県
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正2年<1913年>8月10日(端島) 炭車事故 死4、重3
<死>坑夫 木村儀助(26)高知県 横川丑之助(37)鹿児島県
宮副熊市(28)長崎県 栗原 止(25)広島県 他に重傷3人
信号方が過失、ハンドルを誤り炭車が納涼場休憩中の40~50人の中へ突入
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正2年<1913年>11月20日(端島) 炭車事故 重傷1
岡田鶴松(40)愛媛県 運炭中、炭車に圧せられ重体 午後4時
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正3年<1914年>7月26日(端島) 新入坑夫、脱走計画の仲間割で傷害
<加>相原(26)愛媛県
<被>内山 豊(19)広島県
2人は、6月7日、宇品での坑夫募集に応じ同坑へ来たが、仕事が存外辛きより、案に相違、脱走の計画をねっていたが、内山が途中から変心。相原は出刃包丁で重傷を負わせた
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正3年<1914年>11月26日(端島) 落盤 死2
坑夫 浦幸右衛門(31)北松中野村
坑夫 田中 広(21)三井郡
午後2時半 12卸第1片盤休憩中落盤、2人共死亡
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正4年<1915年>3月22日(端島) 炭車死1
坑夫 新浜小一(21)
午後10時40分、坑内蒸気卸、9片右捲立に於て脱線の炭車と枕木に頭を挟まれ死亡
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正4年<1915年>5月1日(端島) 12尺層着炭祝
全部休業し、端島鎮守なる金毘羅神社の臨時祭典を行い神輿の渡仰
坑夫側及料理屋組合側より俄手踊数組を出し、納涼場では当夜、芝居興行、随意観覧。花火数十発を打ち上げ一層の盛況をそえ全島大賑合、取締応援として巡査2名派遣
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正4年<1915年>7月8日(端島) 落盤 死1 坑夫 山中栄太郎(33)長崎生=吉田忠太郎納屋、午後4時作業中
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正5年<1916年>1月27日(端島) ガス爆発 死3、重3、軽3
第三坑内直下108間坑低北東に622間の18片12尺蒸気卸右側
25日、同所人力旋風機(唐箕と称す)が、落盤でこわれ、26日より電力機
27日午後4時半、電動機に故障(真棒から火花) 午後7時半、修理終了により送電の瞬間爆発
<死亡>電工 岩尾博人(21)熊本県、坑夫 村中夘一(18)山口県、坑夫 梅川安太郎(48)愛媛県
<重傷>坑夫 山下原当(29)神奈川県、坑夫 宮本文次郎(35)兵庫県、坑夫 潮仲蔵(30)山口県
<軽傷>電工 恋塚伴十(27)佐々村、坑夫 木原軍司(28)広島県、坑夫 宮田金右衛門(42)広島県
坑夫 一の瀬喜久雄(26)大分県
石炭置場をつくり、或は枠入、採炭に従事中の者
<責任>坑務係小頭 西川信男、電気小頭 山口格一、電工 恋塚伴十の3人を過失致死罪の見込
(九州日の出新聞 明32.12~大7.2 九州日の出新聞社)
大正5年<1916年>3月(端島) 坑内撒水管敷設工事完成(ガス爆発予防として大4末より着手)
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
大正5年<1916年>3月(高島・端島) 坑内災害に対処するため、高島、端島、二子島共用としてドレーガー式救助器2組を購入
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
大正5年<1916年>3月(高島・端島) 少年、婦女の坑内使役を試みる(3月中に14歳以上16歳未満の少年、5月中に婦女を坑内で作業させ好結果を収める)
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
大正5年<1916年>8月3日 坑夫労役扶助規則制定(農商務省令第21号)
「労働契約の当事者である鉱業権者と鉱夫の間に納屋頭なる者の存在を許さない事は勿論、雇傭及び労役に関し鉱業権者の直接執るべき詳細なる事項が規定された」
(坑夫雇傭状態に関する調査 昭4 福岡地方職業紹介事務局編)
大正5年<1916年>9月 炭鉱災害を一定の様式にもとづき月報として報告するよう鉱業警察規定を改正
「瓦斯又は炭塵の爆発、火災、水害其の他の変災に因り死者又は重傷者を生じたる場合に於ては其の事由及状況を鉱務署長に急報すへし、死者又は重傷者を生せさる場合と雖も事業の全部若は一部を休止するに至りたるときも亦同し、前項の場合に於ては変災の経過及之に対する処置を遅滞なく鉱務署長に届出つへし」(第64条)
「死傷病者に付ては別記様式に依り鉱務署長に届出つへし」(第65条)
災害事由は坑内15項、坑外8項を設け、種別は回数、死亡、重症、軽傷とし、昭4鉱業法改正まで実施
(鉱山保安年報(昭和24年度版)昭26.8.13通商産業省資源庁鉱山保安局)
大正7年<1918年>5月末(高島)労働状況 「高島炭坑に傭役する坑夫(坑内夫)は、明治30年納屋頭全廃以来、所謂飯場制度を採らず、総て同炭砿の直轄なり、大正7年5月末日現在在籍坑内夫人員左の如し。
高 島 1,144人(内朝鮮人84)
二子島  774人(内朝鮮人12)
端 島  941人(内朝鮮人70)
合 計 2,859人(内朝鮮人166)
其外三坑を通じ
坑外夫  477人(内朝鮮人168)を有す。
労働時間は1番方午前4時より午後4時迄、2番方午後4時より午前4時迄とし、採炭能力に関しては出炭函数を塊粉の別及切羽の難易其他の事情により1等より50等迄に別ち夫々支払額を算出し居れり。現在1人平均採炭高、高島に於ては2函強、端島に於ては4函、二子島に於ては2函強なり、之を採炭賃として1人1日平均1円87銭強に当る。其他左記3種の賞与方法を定む。
イ、抽籖賞与 半ヶ月中皆勤者に対しては採炭5票、日役3票、以下3方休迄賞与し抽籖を以て1円乃至5円の当籖あり。当籖せざるものに対しても一票に付金50銭を交付す。
ロ、切羽賞与 坑内係員は毎日採炭夫に対して各人の出炭すべき見込函数大小2種を命じ其大見込函数に合格したる時は1人に付20銭、小見込に合格したる時は同10銭を給与す。
ハ、勤労賞与 半ヶ年間稼賃総額の2分5厘を中元及年末の二期に給与し、更に其金額は之を会社に積立置き年6分の利殖をなし依頼解傭に際し全額を支払ふ。
坑夫の家族持に対しては、坑夫舎宅を無料にて貸与し飲料水、用水を供給し、各戸に電燈を備ふ
(電燈料1ヶ月10銭、5燭光5銭)。
独身者は総て炭坑特設の寄宿所に止宿せしめ食料として1人1日白米1升、総菜代4銭5厘を給し、別に止宿所に対しては其稼日数に依り既定の補助金を支給す。
端島の如きは、地積狭隘なる為め工費5万円を投じて鉄筋コンクリート7階建家屋(外壁11間に13間、全建坪1,001坪、全戸数210戸、各戸4畳半乃至6畳、1戸毎に炊事場を付属す)を設備し、別に又13階建の同式家屋建設中なり」
(長崎における石炭の集散 大7 長崎商業会議所)
大正8年<1919年>11月4日~8日(端島) 採炭夫170人、1日平均1円70銭より2円50銭に増給を要求して罷業
会社側が平均2円20銭、出炭賞与高島・二子島並みを提示して妥結
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
大正8年<1919年>12月(端島) 持込み充填法による長壁式採炭法(急傾斜採炭法)を実施
(三菱鉱業社史 昭51.6.1 三菱鉱業セメント(株)
大正14年<1925年>12月21日(端島) マイト事故 死2、重1、軽2
午後1時、第4坑12尺12片岩切坑道掘進作業中、不発マイトのあることを知らず抱穴に土砂崩壊のため鉄棒をつっこみ爆発
<死>鉄棒をつっこんだ坑夫 高倉太平(35)翌朝死亡
監督のため来あわせた土工人夫頭 大上今次(29)即死
<重>付近にいた坑夫 松岡亘(20)重体
<軽>付近にいた坑夫 田福吉太郎(26)軽傷
付近にいた坑夫 金松岩太郎(31)軽傷
<原因>同日午前11時、工事監督同坑第18号6階第1室 丸山品吾(32)が、田福、金松をひきい作業監督をしながら、不発マイトの取除を忘れていたため
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和2年<1927年>5月24日(端島) 落盤 死2
坑夫 姜 万栄(34)慶尚北道=第30号安藤三郎方
坑夫 井上清助(33)兵 庫 県=第30号安藤三郎方
午後0時45分、第5坑内採炭中
長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和2年<1927年>7月5日(端島) 落盤 死1
坑夫 美之口喜四郎(29)=新見団二方
午前1時20分、第4左4片捲立尻で坑道天盤修理中
長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和2年<1927年>11月15日(端島) 落盤 死1 二坑事務所事務員 山本瀧蔵(39)=社宅22号
午後2時半、第三坑の充填作業を指揮中
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和2年<1927年>11月25日(端島) 自殺 中川柳太郎(52)は、いとこ山本瀧三の落盤死を悲しみ、精神錯乱、縊死自殺
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和2年<1927年>11月27日(端島) 傷害 <加>馬丁、<被>馬丁=2週間、馬丁監督=1週間の負傷
帽子をバカにされ、剃刀で
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和2年<1927年>11月30日(端島) 傷害 <加>坑夫、<被>朝鮮人坑夫、1ヵ月重症
斧で腰を一撃 懲役6ヵ月
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和3年<1928年>1月26日(端島) 炭車事故 死1、傷1
撒水夫 前田久蔵(40)鳥取県=森岡方=死亡
棹取 平川奨(30)福岡県=負傷
炭車暴走、平川は炭車からふりおとされ負傷、人事不省
炭車は枠に衝突、落盤し、前田死亡
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和3年<1928年>1月26日(端島) 傷害 <加>坑夫、<被>同、女のことから殴合、5日間のケガ
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和3年<1928年>1月26日(端島) 坑外トロッコ事故 死1
人夫 田村寅太郎(46)=小森方
堤防修理中、上からトロッコが落ちてきて即死
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和4年<1929年>1月5日(端島) 坑内浸水 死者11人
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
昭和4年<1929年>1月5日(端島) 出水事故、死9 午前5時、第4坑第6片で突然増水、坑夫11行方不明
<死>原田梅三=井西合宿、中山合宿=山口長市ほか合計9
2人は蘇生、直方筑豊鉱業所より技師以下十数名応援
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和4年<1929年>3月(端島) 「三菱の他山と同じく直轄と世話方制度の併用であるが、何分端島坑の如きは周囲一里足らずの孤島で他に人家とてはなく、全く炭坑のみの島で殺風景なる為、坑夫の雇入異動防止などには特別の苦心を要する状態である」
「募集従業者委託募集の一方法のみであって、1ヵ月百人足らずの坑夫を募集、雇入をなして居る。(略)朝鮮に朝鮮人募集人が数名存在して居る」
(坑夫雇傭状態に関する調査 昭4 福岡地方職業紹介事務局編)
昭和4年<1929年>5月20日(端島) 脱走し前借踏倒常習
元坑夫(24)南串山村(=小森納屋)
昭3.8 小森納屋の前借を踏み倒し、同所より1キロの端島北の中の島へ泳ぎ
そこから便船で長崎へ行き、その後、各地で前借踏倒常習
昭4.5.20 長崎市を徘徊中、挙動不審で取調べ
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)
昭和4年<1929年>6月16日(端島) 殺人 <加>坑夫、<被>工務係、即死 繰込の事から銊で
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)
昭和4年<1929年>6月28日(端島) 落盤 死2
坑夫 朴 全伊(35)慶尚南道=安藤三郎方合宿所
坑夫 栗谷敦盛(24)=香川合宿所
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)
昭和4年<1929年>7月28日(端島) 傷害 <加>坑夫、<被>坑夫、重傷、ささいなことから斧で
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和5年<1930年>6月21日(端島) 炭車事故 死1
運搬夫 庵下勇作(21)鹿児島県
正午、四坑上方除軌卸でふりおとされ即死
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和5年<1930年>7月24日(端島) 落盤 死1
坑夫 白木弘二(25)
午前2時、4坑右元片、坑口600間下坑底で作業中
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和5年<1930年>8月10日(端島) 最初の直営合宿所完成
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
昭和5年<1930年>11月22日(端島) 炭車事故 死1
坑夫 素且(もとかつ)明吾(33)
午前6時40分、第四坑内で炭車と壁にはさまれて死亡
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和6年<1931年>1月19日(端島) 落盤 死1
中西幾松(28)大阪市、四坑右卸掘進中
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和6年<1931年>3月8日(端島) 竪坑で墜落事故、400尺の高さから
<死>古賀岩夫(27)
<重>松本秀夫(27)、木下武久(24)、安竹佐吉(37)
<軽>樺島伊三郎(32)、岩切数夫(26)
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和6年<1931年>3月24日(端島) 殺人未遂 <加>坑夫、<被>同、5週間 ケンカから斧で
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和8年<1933年>1月(端島) <料亭>「県会議員本田伊勢松氏の経営する料亭本田屋が多情多彩の情緒をもって炭粉にまみれた坑夫たちの荒くれた身心を愛撫してくれるのも炭坑端島のもつ柔らかな一断面である」昭和8年<1933年>1月25日付
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和8年<1933年>5月22日(端島) 落盤 死3、重1
午前9時半、第四坑内百間の坑道
<死亡>坑夫 川副新平(25) 藤吉三吉(26)
坑夫 除新救(28)
<重体>坑夫 渡辺光雄(35)
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和8年<1933年>7月17日(端島) 落盤 死1
午前0時坑内採炭中 坑夫 深町作兵衛(35)即死
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和8年<1933年>9月24日(端島) 傷害 <加>坑夫、<被>同2人(1週間、10日)、酒の上の口論から酒瓶で
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和9年<1934年>11月26日(端島) 落盤死1 坑夫 坂本鳩巣(22)、南部第3片で
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和10年<1935年>1月15日(端島) 国防献金 「端島炭坑労務者」と匿名で長崎憲兵分遣隊あて、1円と手紙同封
「自分は兵役を免れたから、これから一ヶ年間毎月一円の国防献金を続くる覚悟である」
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和10年<1935年>2月7日(端島) 製塩工場事業廃止
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
昭和10年<1935年>3月26日(端島) ガス爆発 自然火増大のためガスに引火、死者25人、重軽傷者10人
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
午後9時半、第四坑右卸右盤下5方11尺層目貫上層で自然発火。直ちに密閉したが圧搾のためガス充満、第2回爆発。注水鎮火。第一回爆発で調査のため小川坑長ら幹部急行、応急工作中に爆発。死3、重18、軽6、坑内約200人は無事避難
<救護>高島、端島両医局医師、看護婦、端島病院へ
行方不明者収容はガス余燼で不可能、ガス中毒死か
<端島>近代味豊かな鉄筋コンクリートのモダン納屋がそびえ、遠くからみると軍艦の感じがする。一寸でも風があると陸揚できない。高浜村の財源は全部炭坑が負担しているようなもの
端島人口 3,136、炭坑就業 1,240、出炭(昭和8)20,500t
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)昭和10年3月28日付
<合同葬>4月2日、端島坑内昭和館
午前10時、入港中の船舶弔旗、双子・端島両坑作業中止、納屋毎に弔旗
遺族他各官庁、官僚、地域団体、会社関係など千数百参列
坑内死体7は、4日中引上の見込
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)昭和10年4月3日付
<死亡>
飯島満(45) 大川仁三郎(24) 徐大順(36)
鶴田金徳(34)熊本 向助市(39)佐賀 井上忠徳(28)鹿児島
久木元東(25)鹿児島 郭孝出(37)江原道 蘘汰陽(44)慶尚南道
張義守(23)晋州郡 徐応潤(43)慶尚北道 井出春蔵(41)平戸
黄渭奉(21)慶尚南道 茲之伊(43)慶尚北道 金甲徳(32)慶尚南道
郭五福(23)江原道 小川円蔵(48)副坑長
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)
昭和10年3月28日付、3月29日付、4月16日付
昭和10年<1935年>6月上旬(高島・端島) 鮮人坑夫350余人の間に親睦会計画
鮮人相互の親睦と日本語の指導(夜学会)
(長崎新聞 大11.10~昭10.8 昭20.3~昭21.12 昭34.1~)昭和10年6月8日付
昭和11年<1936年>9月9日(端島) 大竪坑海底2000尺、6ヵ年の工事を終え完成
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会)
昭和11年<1936年>10月29日(端島) 落盤死1 坑夫西原万次郎(47)佐賀県 第12柵坑道作業中
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)
昭和12年<1937年>5月2日(端島)  事故死1 東川常雄(32)=信号係、ケージにふれ死亡
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和12年<1937年>7月1日(高島・端島)  賃上 坑夫一律1割 職員100円以下1割
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和12年<1937年>11月10日(端島)  落盤死1 山戸春光(21)
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和13年<1938年>6月10日(端島)  傷害 <加>坑夫、<被>同 口論から下駄で
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和13年<1938年>6月12日(端島)  事故死1 坑外夫 西節五郎(31) 坑木割砕中、破片に当たり死亡
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和13年<1938年>6月19日(端島)  傷害 <加>坑夫、<被>同、一週間 鶴嘴で
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和13年<1938年>11月24日(端島)  賭博 朝鮮人12人逮捕
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和13年<1938年>12月(端島)  稼働率低下対策として「終わりと始めを休まぬ会」と称し、12月1月の2ヵ月皆勤者は箱崎宮参拝の条件で会員450人をあつめた
皆勤93人(全坑2,000余人)
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭14.2.5付 
昭和14年<1939年>1月22日、29日(端島)  献身報国日
1月22日、29日(公休)を献身報国日とし、全従業員2,000人余、自発的出勤、純益は国防献金
<結果>2,600余円の稼高、雑費差引2,000円を陸海1,000円ずつ献金
今後も体力の続く限り行う旨申合わせ
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭14.2.5付 
昭和14年<1939年>3月2日(高島・端島)  梅香崎署、無病酌婦の表彰
「国民体位向上は先ず花柳病の撲滅から」として高島、端島両炭坑地の酌婦ら花柳病予防優良者表彰式(1年間無病酌婦)端島27人のうち12人、高島49人のうち19人 長崎市より良い
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭14.3.4付 
昭和14年<1939年>3月10日(端島)  武運長久祈願
従業員、家族のため修養として生花、裁縫、時局座談会などを行ってきたが、陸軍記念日講演会、出征兵士の武運長久祈願
19日 遺族慰問演芸会 各種展覧会、廃品回収、修養座談会等計画
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭14.3.1付 
昭和14年<1939年>3月10日(端島)  傷害 <加>坑夫、<被>同、重傷 口論から鶴嘴で
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和14年<1939年>6月13日(端島)  傷害 <加>坑夫、<被>酌婦、重傷 ふられて斧で
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和14年<1939年>12月上旬(長崎県内)  半島人採用
労働力不足で内鮮融和の建前から、この際、半島人を移入することになり11月下旬から確実な青年層をどしどし内地へ渡航させ今日までに1,500人北松炭田、崎戸、高島、端島へ長崎紹介所の斡旋で
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭14.12.9付
住友芳浦、日鉄神田、すこぶる好評
19日、日産矢岳採用の97人、揃の国防服に腕章をつけ到着
20日、日鉄神田、第2回目57人
月末、新中里坑、100人予定
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭14.12.21付 
昭和15年<1940年>2月14日(政府)  商工省増産計画案決定<目標>600万t増産、炭価据置
<内容>➀増産奨励金=増産tあたり5円、7,000万t予定
②掘進補助金=1m当50円(費用の1/2~1/3に相当)、2,000万円
③損失金補助=赤字売炭分6,000万円
④資材の優先配給
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭15.2.15付
<追加予算>
➀増産奨励金=増産tあたり2円又は4円、6,000万t予定
②掘進補助金=昭15~昭17の3年計画、1m当35円(費用の1/3に相当)
③価格補償費=購入炭t当1円40銭
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭15.3.5付 
昭和15年<1940年>2月16日(政府)  昭和15年<1940年>2月16日(政府)
吉田厚相、石炭見直しの談話
「今更ながら石炭様の有難味を知った。(略)今更ながら銃後最前線の闘士として再認識されたのが炭坑従業員(略)今、坑夫たちの働きは文字通り生命がけの仕事である。実際あの人達は生命がけで働いています。だから私は先づお礼を云はうと思っています。
(略)戦地の兵隊と同様の覚悟でやってもらひたい。無論坑夫も技術者も労務管理者も事業主も皆一心同体でなければ駄目だ」
18日(日)夜6:45より15分、厚相ラジオ放送『炭坑従業員諸君に願ふ』
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭15.2.18付 
昭和15年<1940年>2月(長崎県内)  県健康保険課、回虫駆除、炭坑労務者の健康保持に積極対策
回虫疾患が多く欠勤率が高いので、2月上旬より労務者17,000人に対し、検便施薬の上、再検査 3月上旬までに徹底駆除の意気ごみ
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭15.1.2付 
昭和15年<1940年>6月(政府)  星野企画院総裁、『昭和十四年度物資動員計画ノ実績』を上奏
天災と第二次大戦発生で下半期に大巾改訂、2割の供給減少 各方面からの需要に答えるため希望的供給力を胸算したのも一因、この傾向は今後もしばしば見られるところである
「石炭及電力ノ不足ニ因ル影響 昨年度ニ於テハ内地及樺太ニ於ケル石炭ノ生産並ニ満州ヨリノ石炭ノ供給ガ計画通リ進捗致シマセヌコトト他方炭質の低下、異常渇水ニ因ル火力発電用石炭ノ需要急増ト相俟ッテ石炭ノ一般的不足並之ニ伴フ電力不足ノ状態ヲ招来シマシタ之ガ為国内全般ノ産業ニ甚大ナル影響ヲ与ヘ生産計画ニ齟齬ヲ来シマシタノデ政府ハ全力ヲ挙ゲテ石炭ノ増産計画ノ強化ニ務メ近時漸ク改善ヲ見ツツアルノデアリマス」
(戦史叢書・陸軍軍需動員<2>実施編 昭45 防衛庁防衛研修所戦史室編 朝雲新聞社) 
昭和15年<1940年>9月(政府)  保安強化策 商工省令第68号石炭坑用爆薬類及機械器具取締規則・商工省令第69号石炭坑用爆薬類及機械器具検定規則を制定
<理由>
「支那事変の勃発に伴い、戦争遂行のための増産要請に基き、鉱業は能力以上の生産を強行し、乱掘が行われ始め、鉱山における保安は比較的等閑視されたため、鉱山災害は増加の一途を辿った。これに対応するため」
<要点>
「商工大臣の指定した石炭坑の坑内において使用する一定の爆薬類及び機械器具は石炭爆発予防試験所において行う検定に合格したものでなければならないこととした」
(鉱山保安年報(昭和24年度版)昭26.8.13通商産業省資源庁鉱山保安局) 
昭和15年<1940年>12月8日(端島)  臣道実践自治委員会 結成
<目的>炭坑の翼賛機関として隣組制度により労務者間の融和と会社労務者間の下情上通、上意下達の実をあげる
<構成>全労務者で構成 委員は職場の中堅人物、アパートの隣り組長、独身寮室長など
<運営>毎月第一日曜、各寮別委員会、修養・娯楽の計画、仕事の研究
毎月18日=全島の委員会で翼賛会、職業指導所、陸海軍、学校より講師を招き講話
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭16.3.1付 
昭和16年<1941年>2月7日(端島)  長崎国民職業指導所の農閑期増産部隊
管内西彼杵郡44町村の各町村毎に、農閑期の出稼ぎ勧告協議会を行ひ、国家のため出動する様熱心に勧告した甲斐あり、7日、第1班として喜々津村青年団12人端島へ出発
同村阿蘇神社で「喜々津村青年団代表として喧嘩口論せず、浪費せず、一億一心協力の誠を尽くし石炭増産に邁進すること」を誓い出発、3ヵ月寮生活 続いて第2、第3班予定
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭16.2.8付 
昭和16年<1941年>2月下旬(端島) 端島ルポ
➀石炭勤労報国隊
<兵庫坑長>
「労務者自身の生活も一変して、最近では昔の様な野蛮なことは見やうとしても見ることができない位に向上している。勿論これは娯楽施設の完備や待遇の改善等にもよるが、最も大きい原因は、事変にあると思ふ。昨年12月、大政翼賛運動に呼応して労務者達の臣道実践自治委員会をつくり下部組織の趣旨をもって自治的に訓練や、人格の錬成をやらしているが、最近では怠業や無断早引け、転職等をする者も少なく、大いに効果をあげている。恐らく就労成績等は日本一ではないかと思ふ」
<勤労奉仕隊茂木村青年 山崎>
「非常時の青年でありながら、兵役の義務もないので、せめて石炭増産の勤労奉仕隊として御国の為につくしたいと思って出て来た」
<喜々津村青年 向井>
「是非行くやうにとの話が村長さんや校長先生からあったので」、「言葉は幾分荒く、炭塵によごれて人相は悪いし、最初は話しかけることさへ出来なかったが、慣れてみれば皆親切な人ばかりだった。寄宿舎は鉄筋コンクリートの九階建の立派なものだし、副食物もよし、娯楽設備も一通り揃っているし、農村等では夢にも見ることができない文化生活をやっている」
②臣道実践自治委員会 兵庫坑長談
昭15.12.8結成、全員加入の隣組制度、月1回会合、別に月1回講和
③過去と現在
<入江儀八>(島原出身、現高浜村議、政府から優秀労働者として表彰)
「今まで闇の社会人だと見られていた我々労務者が、一般社会人なみに政府から表彰されたと云ふことは、我々労務者に大きな希望が与へられたわけで、皆、人事ならず喜んでいます」
<桜井金作>(広島市出身)
「炭坑労働者として働くこと既に31年、初めは高島につとめましたが、当時は賃金も安く48銭から最高90銭位で設備など全然できておらず、天秤棒にかついで炭を運んだものです。肩は痛いし、或る時は仕事が出来ないといって同僚から打たれたことも一度や二度でなく泣いて過ごして来ました。この制裁に耐えきれない者が例の“島抜け”と云って見張りの者が知らない様に酒樽を身体につけて泳いで逃げ出したものです。その後、端島に移りまして既に十八年になりますが、当時の端島もまだまだ監獄部屋の域を脱せず、血睲いことが毎日続いていました。今日の様な端島になったのは20年位前から、会社が労務者の娯楽施設に力を入れるやうになったからです。しかし、ゆがめられて通って来た労務者の心をほんとうに蘇らしてくれたのは事変の力です。やはり労務者も日本人ですからね」
桜井は一寮々長として指導方針について、「先ず融和を図ることが第一で、家族的な気持ちをもって意思の融和につとめています。その方法としては、隣組組織でやることが最も効果があるやうです。(略)
やはり労務者の多くは世をすねている者が多いのですから暖い心をもって指導すれば愛に飢えている者だけに、普通の人よりも早く打ち解けることができます。私は、このほかに、労務者のわたり歩きを防止する為、花嫁さんの御世話をしていますが、島には女が少ないので思ふ様に出来ません」
<安達治夫>(京都市出身)
「私は今から五六年前に可愛い妻子をすてゝ家をとび出し、各地の炭坑をわたり歩いて、今やっとこゝに落ちついているのですが、やはり、人の子の親として、折にふれ故郷に残した妻子のことを思ひ出します。最近はやっと落ちついたので、ささやかながら親子水いらずの生活をしてみたいと思ひまして、故郷に便りをしやうかと考へているのですが、故郷の京都といふところは、炭坑を昔と変わらぬ監獄部屋とでも思っているのでせうか、炭坑労務者を毛虫のやうに嫌って家族の者まで馬鹿にするのです。それで手紙を出したくても子供や妻のことを思へば、出すことが出来ないわけです。私の願は、一般社会人が今少し暖かい心をもって我々を見て頂きたいと思ひます。勿論、社会からこうした制裁を受けねばならないのは、私達の罪であって、これを是正するには先ず人格の向上を図るこどが第一で、その方法として趣味を上品にしやうと思ひ、私の寮では生花や茶湯、謡曲等、禅味のあるものをとり入れることにしています。これによって私共の生活はきっとうるほいを帯びて来ると確信します」
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭16.2.28付~3.2付
昭和16年<1941年>4月8日(端島)  傷害 <加>工務係技手、<被>労務係、口論からナイフで
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社) 
昭和16年<1941年>6月18日(端島)  長崎市の各商業組合、18日諏訪神社で報国隊結成式
物資不足で豆腐屋3日に1度開店、菓子屋1日1時間開店、菓子屋、米、酒、豆腐、食料品店など約100人の希望者決定 20日端島へ
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭16.6.12付 
昭和16年<1941年>6月(端島)  報国隊 長崎市内中小商工業者の中から希望者68人で石炭増産勤労報国隊組織 端島におくり4班に分け10日ずつ就労
9月 90日をおえ1人前の労務者、集団転業として注目 日給2円50銭位
中小商工業者の余剰労力を生産部門に振り向けることは、商人のうちに筋労の無経験、輪番ということで受け入れにくい面も
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭16.9.2付 
昭和16年<1941年>7月下旬  半島労務者引留 県は炭坑と年期契約の集団募集半島労務者を定着させるため、県協和会を通じ
各警察署、各鉱山事業者に再契約奨励指示 待遇を厚くし増産
(長崎民友新聞 昭15.2~昭34.1.13 長崎民友新聞社) 
昭和16年<1941年>9月19日(端島)  傷害 <加>坑夫、<被>同、軽傷 ばかにされ斧で
(長崎民友新聞 昭15.2~昭34.1.13 長崎民友新聞社) 
昭和16年<1941年>12月8日(高島・端島)  1日分賃金1万余円を全額陸海軍へ献納 月収1人平均150円
昭16.4~9(半年)の福岡監督局の出炭競争1位、出勤率92%
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭17.1.17付 
昭和17年<1942年>2月上旬(政府)  商工・農林省、「鉱山に対する物資配給措置」
鉱山従業員の生活必需品の配給を円滑化し増産に遺漏なきを期すため
➀業務用タオル、地下足袋、スコップなど作業用品は購買会から配給
②味噌、醤油など生活必需品は、社宅居住者は購買会から、それ以外は地方小売商から
③監督局、地方庁で監督(値段、配給状態など)
(長崎日日新聞 明44.4~昭33.12 長崎日日新聞社)昭17.2.7付 
昭和17年<1942年>5月(端島)  厚相表彰(全国11人)掘進夫 土崎良雄(35)島原から7年前入坑
「別に今はもうきついなんて思ひません。これが自分に与へられた仕事と思ふと平気ですよ。戦地の兵隊さんの気持ちになって働いて居ります。この私等が打込む穿岩機から先ず石炭の増産が生まれるのだと思ふと、たしかに職場の誇りを覚えて愉快ですね」
(長崎日報 昭17.5~昭19.8 長崎日報社)昭17.8.22付 
昭和17年<1942年>6月29日(端島)  墜落事故 死1 坑夫 斉藤清太(20)
午後10時、風道拡張作業中、吊梯子ロープ切断、35メートル坑底に転落
(長崎日報 昭17.5~昭19.8 長崎日報社)昭17.7.1付 
昭和17年<1942年>8月7日(長崎県内)  応徴工員対策 県労政課、7~13日、諫早市大雄寺に山の家を設置
対策のおくれている中小事業場の責任者、寄宿舎々監を招き、工場班・鉱山班に分けそれぞれ2泊3日の錬成。
応徴工員の指導方法を中心に、➀各事業場の状況、②国民徴用令施行後の変化と将来の対策、③従業員の指導と衛生管理
「応徴工員の総てが転職者、離職者である関係上、仕事に未熟なため、先輩及び事業主がとかく冷遇しているとの風評に鑑み、県労政課では“この応徴工員は事業主との雇傭関係はなく、いやしくも増産の重要性から国家より一時借用している特殊関係にある労務者であるから、冷遇するが如き事実が判明した場合には厳重処罰する”方針」
(長崎日報 昭17.5~昭19.8 長崎日報社)昭17.8.7付 
昭和17年<1942年>10月末日(端島)  皆勤運動 8~10月の3ヵ月皆勤 坑内7、坑外24
(長崎日報 昭17.5~昭19.8 長崎日報社)昭17.11.8付 
昭和17年<1942年>11月中旬  半島人教化 相浦署計画 産報・協和会主催で相撲大会、優勝旗争奪戦
11.28~29 各炭坑半島人労務者激励慰安のため協和会主催で奇術、曲芸、映画などの慰問隊巡回、情趣と興味で教化修養
(長崎日報 昭17.5~昭19.8 長崎日報社)昭17.10.30付 
昭和18年<1943年>8月(政府)  鉱士制度 商工省、8月実施の福岡監督局の制度を全国適用
➀鉱夫は、鉱員と称し、精励恪勤、品行方正、技術優秀なものは監督局長が鉱士の称号
②鉱士は、1級鉱士(同一坑で坑内10年以上、坑外15年以上勤続)
2級鉱士(同一坑で坑内5年以上、坑外8年以上勤続)
3級鉱士(同一坑で坑内2年以上、坑外3年以上勤続)
各々左腕に山形の黄色徽章を、1級3本、2級2本、3級1本をつけ、鉱員は鉱士に、鉱士は上級者に軍隊式敬礼 選考は4月、10月
③退山、無届欠勤14日以上は罰金以上の刑
勤務成績不良、その他不都合の行為、又は名誉を毀損した時、称号剝奪
④鉱士手当 1級月10円、2級7円、3級5円
住宅その他、福利施設は優先的に利用できる
(長崎日報 昭17.5~昭19.8 長崎日報社)昭18.8.19付 
昭和18年<1943年>10月10日  秋葉県警察部長、10.10~13 北松各坑10ヵ所視察
「内地人の労務者も半島人の労務者も真剣に勝抜くために一塊でも多くの石炭を掘り出さうと努力している姿が、はっきりうかゞわれた。特に、半島労務者は総てが表彰に価する程の稼働ぶりであった(2~3の例外はあった)。監督者が人間的愛情を以て労務管理に当たっている所が最も好成績をあげていた。権力でおさへている所は、一時は能率が昂揚しても漸次減退している。此の状態からみても矢張り労務管理は此の人間的精神で把握しなければ駄目である。(略)
次には一般県民にもお願ひしたいことであるが、坑内労務者には矢張り配給以外の食糧を与へねばならない。労務者の過労を犒ふものは食糧が先決問題である。そこで翼賛運動、産報運動も今後はこの点に留意して貰ふつもりであるが、一般県民もお互い節約して勝抜く為に坑内労務者に食糧を与へると云う気持ちでいてほしい」
(長崎日報 昭17.5~昭19.8 長崎日報社)昭18.11.14付 
昭和18年<1943年>11月(政府)  軍需省設置 これにより商工省廃止、鉱山保安行政は軍需省非鉄金属局及び燃料局の所管するところとなった
(鉱山保安年報(昭和24年度版)昭26.8.13通商産業省資源庁鉱山保安局) 
昭和19年<1944年>7月12日(端島)  ガス突出、死5 2:00 端島坑第5番下左6クロスで発生
(鉱山保安年報(昭和24年度版)昭26.8.13通商産業省資源庁鉱山保安局)
ガス噴出 死者5人
(筑豊石炭砿業史年表 昭48.11.30 同編纂委員会 西日本文化協会) 
昭和20年<1945年>7月31日(高島、端島)  中央発電所被爆、全坑操業中止 12上旬復旧
(高島町文化史 昭24 松尾兼治編 高島町)