京城日報1939年(昭和14年)4月1日号より引用 西北鮮地方へ第二次労働者斡旋

日中戦争2年目となったこの年は、京城日報、毎日新報にかかわらず、戦況報道や朝鮮人志願兵戦死者の告別式や、国民精神総動員、経済統制など戦時色の濃い記事が増え、その中で朝鮮を「兵站基地」と称して内地への米移入が期待されているが、朝鮮国内では経済、工業の発展にかかる動きが見られる。

その中でも、4月1日付京城日報の「西北鮮地方へ 第二次労働者斡旋二八、二六五名割当」は、南部朝鮮から労働者を北部朝鮮に送り土木工事などの公共事業に従事させる施策であり、1934年(昭和9年)10月30日の閣議決定「朝鮮人移住対策ノ件」で規定された「三.朝鮮人を満州及北鮮に移住せしむる措置を講ずること」の「北鮮開拓に伴ふ各種土木事業に従事する労働者は、主として南鮮に於ける農民中より之を供給するの方途を講ずること」に基づいたものであることがわかる。

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西北鮮地方へ

第二次労働者斡旋

二八、二六五名割當

本府ではさきに二月及三月中南鮮各〇より西北鮮地方の各種工事に凱旋すべき労働者一八、三三〇名を割當てたが、今般更に四月以降八月まで斡旋すべき労働者二八、二六五名を左記の通各道に割当て取纏めることになった

忠北一、八五〇 忠南三、〇〇〇 

全北七、六〇〇 全南八、八一五

慶北三、六〇〇 慶南三、四〇〇

計二八、二六五