在日朝鮮人運動
分類コード:II-03-06-007_II-03-06-008_II-03-06-009
発行年:1955年
第二章 朝鮮への引揚
第六章 密入国
第七章 不法行為 第一節 概説~第二節 三 昭和二十二年度
- 著作者:
- 篠崎平治
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篠崎平治『在日朝鮮人運動』(令文社 1955)
p29~46
第二章 朝鮮への引揚
第一節 引揚の経緯とその状況
終戦当時我国に在住していた朝鮮人総数は約百九十三万人と推定され、このうち集団移入労務者は約二十五万人と推定された。終戦と同時にこれら朝鮮人の大多数は帰心矢の如きものがあり、資力あるものは闇船を購入して逸早く自力で引揚げて行つたが、その他の者は帰還の方途もなく、只わいわい騒ぎながら毎日の如く関係当局に陳情抗議を行つた。中でも集団移入労務者の動揺は激しく、貴国を希望しての紛争が各地において発生するに至つたので、日本政府においても至急これを送還することとなり、九月二日、連合国総司令部の全面的援助により計画送還が開始されたのである。当初は鉄道連絡船船舶運営会所属及び旧海軍艦艇により、主として博多、仙崎(一部は函館より)より輸送されたが、十一月下旬米軍上陸用舟艇が貸与されたので、佐世保からも送還されるようになり、毎日平均六千人が帰還していつた。しかるに帰還を焦る朝鮮人は各地より乗船地たる博多、仙崎、佐世保等に殺到したので、これら乗船地は収拾出来ぬ大混乱を呈し、これが為連合軍の命により一時輸送を中止するの已むなきに至つたのである。その後収容施設の改善、増設等により混乱は漸次平静となり、同年末までには約六十四万人が帰還したのであるが、これが月別及び出港地別送還数は次のようである。
月別
九月 一〇九、七五二人
十月 一四四、六四一人
十一月 一八四、四三一人
十二月 二〇〇、三二七人
合計 六三九、一五一人
出港地別
博多(福岡県) 二七一、四九三人
仙崎(山口県) 二六六、七七五人
佐世保(長崎県) 四四、一四九人
その他 五六、七三四人
合計 六三九、一五一人
しかるに翌昭和二十一年に入つてからは、帰還希望者の出足は急激に衰え、帰還輸送船及び臨時輸送列車は多くの空席を残して運行する状態となり、これが為占領軍から再三の注意をうけるという前年とは全く反対の現象を呈するに至つたのである。この原因は主として朝鮮内における政治上、経済上の不安定から帰国後の生活が不安であること、特にこれらの情勢が誇大に朝鮮人間に伝えられたこと、携行金品に制限があること等によるものと思われる(現実にこの頃一旦帰国した者の再入国が激増した――密入国の項参照)。しかして連合国総司令部の方針は、朝鮮に帰還するや、日本に残留するやは全く個人の自由意思に委せられたので如何ともし難い状態であつた。しかるに同年二月十七日、総司令部はこれらの状態を是正し且つ帰還輸送の見透しをつける為、日本政府に対し『帰還希望者の登録実施と日本政府の指示に従つて出発しない朝鮮人は帰還の特権を喪失する』旨の指令を発して来たのである。これが為厚生省主管により三月十八日を期して全国一斉に朝鮮人等(中国、台湾、琉球人等)の登録を実施したのであるがその結果は次のようであつた。
総登録数 六四六、九四三人
帰還希望者数 五一四、〇三五人
内訳
(一)南鮮帰還希望者(五〇四、四三五人)
江原道 三、九四〇人
京畿道 七、七七五人
黄海道 八〇一人
慶北道 一三四、八六九人
慶南道 一八四、三九七人
忠北道 三一、〇八七人
忠南道 一六、七五九人
全北道 一五、二六四人
全南道 一〇九、四四二人
(二)北鮮帰還希望者(九、七〇一人)
咸北道 八二八人
咸南道 一、八二六人
平北道 一、〇〇八人
平南道 一、五五三人
江原道 一、八八四人
京畿道 一、〇八三人
黄海道 一、五五九人
この数字に基き総司令部は、更に日本政府の計画により四月末日から一日、四千人の割合で送出し、九月十五日を以て完了するよう指示して来たのである。これにより各地方庁は帰還希望の朝鮮人各個人に対し、帰還日を指定して出発を指示し、帰還の促進を図つたが、送還状況は依然として不良で、指示をうけても出発しない所謂「特権喪失者」のみ徒らに増加するという状態であつた。この間朝鮮におけるコレラの流行、大洪水、及び朝鮮鉄道のストライキ等の為三回に亙つて送還が一時中止されることなどもあり、完了目標期日は九月十五日から十一月十五日、更に十二月十五日と延期されたが不振状態は遂に改善されぬまま十二月十五日を以て一応計画送還を打切つたが、登録実施以降の実送還者は約七万二千人、特権喪失者は約四十七万人であつた。しかして終戦当時の在日朗鮮人は約百九十三万人であつたが、計画送還終了時までに送還された数は、約九十八万人であるから差引約九十五万人が残留することとなるのであるが、三月十八日に行つた登録による朝鮮人数は約六十四万七千人で、この中、計画送還終了時まで(十二月十五日)の帰還者七万二千人を控除すると残留者は、約五十七万五千人となるのである。しかし実際においては終戦直後闇船等により自力で帰還した者、或は登録をしなかつた者、密入国者等も多数あつたので、当時における在日朝鮮人の総数は六十万乃至七十万と推定されたのである(昭和二十二年十二月末日現在の外国人登録による 朝鮮人数は六十二万一千人であつた)。このようにして一応計画送還は終了したが、病気その他の事情により、同期間中に帰国出来なかつた者は、帰還有資格者として総司令部に謄録され、その後も個々的に帰国する道が講ぜられ、僅かながらも引続き佐世保港より引揚げていたが、朝鮮動乱の発生により一切停止した(動乱発生直前舞鶴港より引揚げる為集結した者達は止むを得ず解散した)。又一方引揚の特権を喪失したものは、今後当分の間帰還の概会を与えられないこととなつたが、これらの者が再び帰還を希望して動揺混乱するなどの可能性もあるので、特権喪失者の名簿を各市町村役場に備付けて、これが防止を図つたのである。
第二節 引揚者の携行金品
昭和二十年九月二十二日付発せられた「金銀有価証券及金融上の諸証書の輸出入統制方に関する覚書」は、金銀通貨有価証券等の岫出入を禁止する措置を日本政府に命じたもので、この覚書に基いて、同年十月十五日大蔵省令第八十八号が公布された。かくして我国から出国するものは、金銀通貨、有価証券等を持出すことが禁止されるようになつたわけであるが、それでは本国に引揚げる朝鮮人、中国人等が非常な不便を来すこととなつたので、同年十月十二日前記覚書に関する追加指令が発せられ、引揚朝鮮人及び中国人等に対して一人に付一、〇〇〇円を超過しない限度額に円通貨の携行を許すこととなつた。そしてこの規定の金額を超過した円通貨は、日本政府がその所有者から
受領証と引替に取上げ、総司令部から追つて指示があるまでこれを保管することとなつた。この覚書に基いて同年十一月一日、大蔵省告示第二七一号が公布され、本邦より引揚げる朝鮮人等が、一千円相当額以下の通貨を携帯する場合は、大蔵省令第八十八号の規定による制限、及び報告を免除されることになつた。斯様に朝鮮人等が本国に帰還する際に携帯を許可される通貨の金額は、一千円以内とされていたが、その後我国のみならず帰国先の物価も著しく高騰するに至つたので、この程度の金額では帰国後における当面の所要をも充足し得なくなつて来た。そごで右の金額は早晩引上げられなければならぬ情勢にあつたが、一方この間我国と諸外国との出入も漸次頻繁になり、総司令都としては終戦直後出した指令に対して、広汎な修正と補足を加える必要を生じて来た。こうした要請に基いて昭和二十四年一月十八日「日本入国及び出国時において携帯を許される個人の財産に関する覚書」が出されたが、この覚書の中には日本から朝鮮又は琉球諸島に帰還する者の通貨携帯に対して、新たに次のような措置をとることが指示された。即ち引揚者の所持する日本円貨を取上げることは従来と変りないが、その際に日本政府が渡すものは引揚先の通貨ではなく、引揚先の政府又は軍政部に提出すればその地の通貨に換えることの出来る受領証を、一家族につき十万円を超えない範囲内において渡すこととなつた。そして引揚者から取上げた日本円貨が、十万円を超える場合には、日本銀行がその所持者に対して個々に受領証を交付し、連合国最高司令官から別途指示があるまでこれを保管することになつたのである。この覚書に基いて昭和二十四年六月三日政令第一九九号「財産及び貨物の輸出入に関する政令」が公布されたのである。このように通貨については相当厳格な制限を堅持したが、荷物については逐次制限を緩和し、当初は手に持てるだけであつたものが二五〇ポンドに増加し、更に後には家財五〇〇ポンド、軽機械その他の事務用具四、〇〇〇ポンド(特別の場合は総司令部に申請して四、〇〇〇ポンド以上も可)を第八軍々政部に申請して特別輸送により持帰ることが出来るようになつたが、実際申請をした者は極く少数で、これらの措置も結果的には送還促進には余り効果はなかつたようである。なお既に帰還した者の持帰り荷物も、その後の制限緩和により取り寄せることが出来る途が講ぜられたことも勿論である。
第三節 引揚を繞る「朝鮮人連盟」の動向
終戦直後、同胞の民生安定と帰国問題の処理等を目的として結成された、在日朝鮮人の自治団体たる「朝鮮人連盟」は、当初のうちは日本政府の行う朝鮮人の引揚業務に対して極めて積極的に協力をなし、帰国者の身辺整理の援助、東京、品川、下関、博多、南風崎等の各駅に自発的に連盟員を配置して、引揚者の世話に当るなど、目覚ましい活躍をなし、名実ともに自治団体の本領を発揮したが、日が経つにつれ日本政府の行う送還計画に容喙し、果は独自の引揚計画を作定して、これを強制するなどの行過ぎ及び帰還希望者を煽勣脅迫して、指定列車の乗車を妨害したり、或は輸送列車を不法占拠したりして集団買出しに利用する等の各種妨害事業が各地に頻発するようになつたので、連合軍総司令部においても黙視出来なくなり昭和二十一年五月七日「朝鮮人連盟」は今後一切日本政府の行う送還業務に介入を禁止する旨の覚書を発したので爾後朝鮮人連盟の斯種不法行為は漸減した。
p172~219
第六章 密入国
第一節 序説
密入国は世界の何れにおいてもみられる現象で、日本にのみ限られた特殊の現象でもなければ、終戦後始めて発生した問題でもない。しかし我国における密入国の問題はその量において、或は終戦後国家再建の途上にあつたという情勢下においては、他国のそれとは比すべくもない程重要なものであり、特異性を持つものである。しかもその出航地が何れも過去において我国の支配下にあつたという特殊事情はこの問題をますます複雑なものにした。密入国の原因は主として自国の社会不安よりの逃避、家族との再会、或は勉学等の極めて同情すべきものであり、更に過去の特異な関係よりしてその取締は情において忍びないものが、ないではないが、情に掉さして流されることは、国家として特に許されない処である。昭和二十一年三月、連合軍総司令部は戦後の混乱を防止し、占領政策の完全且つ円滑なる遂行を図る目的から、最高司令官の許可なき者の入国を禁止し、同年四月より占領軍及び日本官憲によりこれが取締を実施して来たのである。終戦直後における密入国取締は勿論占領政策の一環としてなされて来たのであるが、その具体的目的とする処は
○外地よりの大量引揚により狭い国土に人口が充満しているのでこれ以上の人口の流入は抑止されなければならない。
○密入国者の中には密貿易を敢行するものが多く再建途上にある日本経済に及ぼす影響が甚大であるからこれを防止する必要がある。
○密入国者の中には我国の或る種の勢力と結托して日本の革命に挺身せんとする危険思想の抱持者が混入し、重要な情報連絡をなす外、拳銃その他の武器を運搬し、国内治安に重大なる影響を及ぼす虞があるからこれを予防し排除しなければならない。
等の諸点にあつたようであり、講和条約発効後の現在においてもその意図する処は概ね同じであろう。
第二節 密入国取締の政策の変遷
終戦前における外国人の出入国に関する管理行政は、内務省の管轄下に、いわゆる警察の機構の一つとして、内務省令第六号「外国人の出入国滞在及び退去に関する件」により行つて来たのであるが、終戦によりこれらの機構乃至関係法規は、廃止又はその効力を停止されたのである(朝鮮人は当時日本国民であつたから右の取扱と異る取扱をうけたことは当然である)。
終戦後解放民族となった在日朝鮮人は。連合軍総司令部の要請もあり、又本人達の希望もあつて、多数の者が日本政府の計画送還に基き本国に引揚げていつた。そしてこの計画送還は一応昭和二十一年末までに終了したが、一旦帰国した朝鮮人は本国の政治的経済的社会不安から日本在住当時の生活が忘れられず、再入国する者が激増して来たので、連合軍総司令部においても占領行政上これを放任することが出来ず、昭和二十一年三月六日、『米国に引揚げた非日本人は最高司令官の許可がない限り商業交通が可能となる時期まで日本に引返すことは出来ない』旨の覚書を発し、更に同年四月二日には、『占領軍に属さない非日本人が臨時日本入国の許可が与えられるであろう』との覚書が発せられ、最高司令官の許可なき者は日本への入国を禁止されたのである。これらの原則に違反して日本に入国する者はすべて密入国者とされ、覚書違反として軍事裁判により処罰され、又は国外退去を命ぜられたのであるが、前記覚書はあくまで積極的に密入国を取締るという趣旨のものではなかつた。これに反して同年六月十二日発せられた、「日本への不法入国の抑止に関する覚書」は全く不法入国の取締を目的とするもので、いわばこれが密入国取締の最初の指令である。この指令は当時朝鮮にコレラが発生し、それが日本に流入蔓延することを防止することを直接の目的として日本港への不法入国船舶の監視拿捕、抑留を命じたものである。これが為日本政府は七月十五日、次官会議を以て「不法密輸入、不法入国事犯の取締に関する件」を決定し、これが取締方針を定め、更に同年十月十四日、次官会議決定「不法入国者の取扱に関する件」によつて、取締に当る内務、厚生、運輸各省の分担区分を明らかにした。この結果内務省は主として検挙取締、不法入国者の護送、及び収容所の警備を、厚生省は不法入国者収容所の維持管理を、運輸省は船舶による送還業務を受け持つこととなつた。そうして警察の管理下に不法入国者の最も多い山口、福岡、佐賀、長崎、鳥取、島根の各県には密航監視哨が設置されたのである。同年十二月十日再び「日本への不法入国の抑止に関する覚書」が発せられ、積極的措置の続行を日本政府に指令して来たので、警察による沿岸警備は一層強化された。一方日本政府においては、前記四月二日の覚書により、最高司令官の許可により入国する外国人の登録、及び不法入国の取締に関する国内法の制定を示唆されたので、内務省を中心に関係各省協議の結果、一年を経て漸く成案を得、昭和二十二年四月二十八日、閣議決定、同年五月二日、勅令第二〇七号を以て「外国人登録令」を公布した。同令第三条には最高司令官の承認をうけた者以外の外国人は当分の間本邦に入ることは出来ない旨が規定され、原則として一般外国人の入国を禁止したのである。そしてこれらの規定に違反して入国した者に対しては、六ヶ月以下の懲役又は禁錮若しくは一千円以下の罰金を科すことが出来、又国外退去を強制することが出来る旨も規定された。そうして終戦以来地位の曖昧であつた非日本人たる朝鮮人及び台湾人は、同令の適用については同令第十一条により当分の間外国人とみなされ、外国人登録の義務を生ずることとなつた。かくて外国人登録令の実施によつて外国人の出入国に関する管理は、覚書と登録令の二本建により連用されることとなつたので、密入国者の取締は更に一段と強化され、総司令部も同年七月八日及び十二月二十三日、それぞれ覚書を発して具体的措置を指令して来たので、日本政府は現地進駐軍の協力によりこれが実施に当つた。次いで昭和二十三年五月一日、海上保安庁が設置され、海上における不法事案の取締を実施したが、依然として密入国事犯は減少せず、悪化増大する傾向を示したので、政府は昭和二十四年五月十九日、次官会議決定「不法入国者の取締に関する件」により、関係各省間の緊密な提携を強調し能率の増進を図り以て取締の万全を期することとなつた。同年六月二十二日、総司令部は「入国管理部設置に関する覚書」を発し同年十一月一日以降は、個人の不法入国に対する防止の責任は、日本政府が負担すべきことを指示して来たが、更に同年十一月三日、「日本への不法入国抑止に関する覚書」を発し、不法入国防止についての日本政府の責任を重ねて強調し、総司令部覚書及び日本の法律命令により、これらの取締を励行すべきことを指令して来た。これが為政府は、前記覚書に基き、昭和二十四年八月十日、政令第二九九号「出入国の管理に関する政令」を公布し、新たに外務省管理局内に「入国管理部」を設置し、合法的出入国の管理の外に、不法入国の取締、及び不法入国者の送還に関する関係行政機関の事務の連絡調整を行うこととした。しかして不法入国取締に関する関係行政機関としては、外務省、国家地方警察本部、法務府、運輸省、海上保安庁、厚生省等があり、各省の事務分担はそれぞれ定められていたが、この事務の完全な実施を期する為にはなお不充分であることが痛感されていた。
昭和二十五年二月二十日、総司令都は「税関、出入国及び検疫事務に関する覚書」を発し、現行の税関、出入国及び検疫に関する実施方法に再検討を加え、一般的国際慣行に合致した、実効的な管理を確立すべきことを指令して来た。かかるうちに同年六月二十五日、朝鮮動乱が発生し、やがて朝鮮よりの不法入国者が激増する徴候も顕著となつたので、早急にこの統一機関を設置することが要請されるに至つた。同年九月十五日、「出入国に関する覚書」が発せられ、従来の不法入国取締に関する政府機構にまだまだ弱点があることを指摘し、合法的出入国者の管理のみならず、不法入国取締に関する事項に係る政策の樹立、管理の実施及び積極的調整を行う機構を確立すべきことを指令して来た。この覚書に基き日本政府は、この事務を統一的に所管せしめる為、九月三十日政令第二九五号を以て「出入国管理庁設置令」を公布し、前記入国管理部を中心に、外務省外局として「出入国管理庁」を設置したのであるが、これに対し総司令部は、司法保護組織又は警察組織と別個の独立した新機構の設置をみたことはよいが、不法入国者に対する退去強制の手続が依然として、司法手続を基礎にしている点は、一般国際慣行にマッチしていないとの理由を以て、新しい手続法令の制定を要望して来た。これが為政府は、昭和二十六年二月二十八日、‐ポツダム政令を以て「不法入国者等退去強制手続令」を制定公布したのである。しかるに同手続令の主要都分の実施に先立ち、偶々本問題指導の為総司令部がアメリカ本国より招聘した米人顧問」から、前記手続令は実行上難点が多いこと、及び講和条約の発効を間近に控えて、単に退去強制手続のみならず、出入国全般に亙つての手続を含んだ包括的な管理令を制定すべき旨の勧告があつた結果、その指導に従い、出入国全般に亙る諸管理を規定した処の、「出入国管理令」が昭和二十六年十月四日、政令第三一九号として公布、同年十一月一日施行となり、同時にこの政令を連用するに必要な入国管理庁設置令をも改正し、茲において連合軍総司令部の覚書に応え、且つ国際慣行に一致した法令と機構の整備を実現することとなつたのである。と同時に外国人の出入国管理権も全面的に日本政府に委譲されることとなつたので、我国は終戦後七年振りでこれが自主性を回復したのである。只朝鮮人及び台湾人の不法入国の取締は、諸般の事情から当分の間は引続き外国人登録令によることとした。しかし講和条約の発効により朝鮮人及び台湾人は正式に日本の国籍を離脱し法律上の外国人となることとなり、そうすれば同じ外国人の出入国取締について二つの法令が存在するという不合理を生ずるので、これが改正に着手し、昭和二十七年四月二十八日、法律第一二五号を以て「外国人登録法」を制定公布し、外国人の出入国の管理は、すべて出入国管理令一本により運用することとなつた(講和条約の発効により在日朝鮮人及び台湾人は名実共に外国人となつたのでその出入国に関しては出入国管理令の適用を全面的にうけることは申すまでもない)。更に同日付法律第一二六号、「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律」により、出入国管理令は法律的効果を持つこととなつた。なお同年八月一日、行政機構の改革により、入国管理庁は外務省外局より法務省内局に移管され、その名称を「法務省入国管理局」と改めたが、所掌事務の内容には変更がない。
第三節 密入国の実態
一 密入国の原因
終戦後我国は占領軍の管理下に民主主々義国家として着々再建の歩を進めていたが、かつて我国の版図であつた朝鮮その他の地域は、必ずしも我国と歩調を一にして諸般の改革がなされず、その上、共産主義勢力が複雑に錯綜し、為に我国との間に大きな政治的、思想的、経済的な懸隔が生ずるに至つた。この懸隔を仮りに「落差」と呼ぷならばこの「落差」の原原因こそ密入国の必然的、法則的な原因であると言えよう。終戦直後より最近までの具体的原因、換言すれば密入国の目的をみてみると概ね、「社会不安よりの逃避」「出稼」「勉学」「面会」「同居」「徴兵忌避」「密貿易」等に大別されるが、この外少数ではあるが政治的な特殊の任務を帯びた危険な目的を持つて入国してくる者もある。しかしこの原因もその時々の情勢により多少の変化が生ずることは当然で、終戦直後より二、三年間は、「社会不安よりの逃避」が圧倒的に多かつた。これは朝鮮が南北鮮に分れて対立し、同胞相喰む惨劇を繰り返し、南鮮政府の施策も亦国民の期待に合致せざるものがあり、特に峻厳な反共政策の強行は警察国家の印象を強く与え、加えて経済事情の悪化から国民の大都分は日常生活に極度の不安を覚え、日本の安定せる生活に憧れ、扁舟に身を托し、南北相剋の祖国を後に密入国して来る者が多かつたのである。
二 密入国の手段方法
(一)利用船舶等
密航に利用される船舶は、その大都分は十㌧以下の小型発動汽船(機帆船)であり、一回の輸送量は十名前後から二十名程度である。なかには十㌧以上二十㌧位のもので数十名乃至百名近くまでの多数を運搬したものもあるが、これらの事例は極めて稀れである。小型船が多く利用される理由としては
○検拳没収された場合、被害が比較的軽微で済むこと。
○船舶の操作及び入手が比較的容易であること。
○小型のため比較的官憲の目を免れ易いこと。
〇小型のため、如何なる地点にも接岸が容易に出来ること。
などがあげられよう。更にこれら船舶は比較的老朽船が多いことも特徴であるが、これも前記の如く、価格の問題、没収された場合の被害の軽微等が狙いのようである。
これら船舶の舶主は比較的日本人が多いが、最近では朝鮮人がこれを買受け、或は一航海毎にチャーターしているものも相当ある。また船員も日本人が比較的多いが、これは彼等が日本近海の航路及び沿岸の地理に明るいため警戒線を巧みに突破して目的を達し易いからであるといわれている。
(二)出港時における状況
密入国者の出港時における手段方法は、概ね「密航ブローカーの斡旋によるもの」及び「同志と共に船舶を入手して自らこれを操舵してくるもの――即ち自力によるもの」の二種に大別されるが、特に密航ブローカーの斡旋によるものが圧倒的に多い。
A 密航ブローカーによるもの
密航ブローカーは、いわゆる密航基地といわれる釜山、馬山、統営、麗水等の各地の港に居住し、常に本国官憲の動静監視は勿論、日本在住の親戚、知人等と連絡をとり、日本の取締機関の動静までも注意して居るという徹底振りであり、また九州、山陰地方の海岸線の状況、密航監視哨の配置状況等も研究知悉しているといわれる。そうして密航希望者を募集して或る人数に達すれば、巧みに法網の間隙を狙つて敢行するので、その成功率は相当高いのである。こうした密航ブローカーの中には船舶までも所有するものと、しからざるものとがあるが、後者の場合の密航料金は、先ず密航ブローカーが受取り保管し、成功した時、即ち日本々土に接岸した時始めて船主に対し、船賃を支払うという方法をとるものが多い。従つて船主(船長)としては(ブローカーも含めて)何処でもよいから早く接岸して密航者を上陸せしめ、逸旱く逃走するというのが通例である。また受入側の日本にも、彼等と気脈を通ずる密航ブローカーが対馬、九州、山陰地方に在つて互に緊密な連絡をとり、密入国を一層容易にしている。これら密航ブローカーに支払う一回の料金は区々であるが、概ね一万五千円乃至三万円程度のようで殆んど前払いである。また密航ブローカーの中には、多数の登録証明書を不正所持し、希望する者に対しては、相当高価な値段でこれを売りつけているものもある。
B 自力によるもの
密入国者自身が、船舶を入手して、自力によつて密入国するのは、密入国者に相当資力があつて、船舶を購入する能力があり、且つ、船員、漁夫等で船舶操舵、航海等に自信のあるもの(同志の中にこれら経験者が混じる場合も含む)なのであつて、しかも日本国内の事情、特に海岸線の状況等を知悉している場合などに行われる模様である。また彼等が密航ブローカーの手を経ず相当の困難を克服してまで、自力による理由としては
〇密航料金が高いので、むしろボロ船を購入して使用した方が格安になることがある。
○しかも場合によつては、目的達成の後、他に転売すれば、更に有利になる。
○密航ブローカーは、兎角ただ金を取ればよいという商売意識が強いため、機械的となり最終的責任を持たないのが普通であるため、自力による方が却つて成功率が高いと信じて行う。
などがあるようである。
(三)上陸地における状況
密航船は、比較的警戒手薄な海岸線を選んで接岸するが、その時機は、深夜又は早朝で船は直ちに遁走するのが通常である。接岸時には懐中電灯の点滅、発火信号等により、陸上と相互に連絡をとりながら、安全地帯に誘導する等の方法も行われる。また上陸地附近には日本在住の親戚、知人等が出迎えて居て、予め準備された計画に基き、極めて巧妙に目的地に伴つてゆくものもあり、これらの場合には往々にして不正入手した登録証明書が用意されていることが多い。こうした出迎人のない者は、ブローカー等の斡旋により、一時上陸地附近の木賃宿、民家等に待機し、その間登録証明書の入手をはかつたり、或は知人縁故者に連絡をつけ、金銭その他の援助をうけたりするのである。また彼等は、汽車、バス等の定期的な交通機関をさけ、ハイヤーを雇つて一挙に、その地を脱出し阪神方面に潜入するという方法もとつているようである。こうした密入国者は、何れも小型船に無理矢理多数が押しこめられ、或は船底等に缶詰状態にされてくるので、上陸時には、半死半生の状態であることが多く、余りの苦しさに耐えかねて、発見されることを覚悟の上で、船長を脅迫して無理に接岸させたので検挙されたという事例もある。
(四)その他
その他の密入国の手段方法としては
○鮮魚運搬船に便乗してくるもの
○遭難船を装つて入国するもの
○正規入港の船員として入国し、ショアパスで上陸後、逃走して密入国の目的を果たすもの
○船員を買収して船倉等に潜伏してくるもの
○特別な組織に庇護されて乗船してくるもの
などの各種があるが、その数は極く少数である。
(五)密航コース
密航コースは大別して南鮮コース、北鮮コース、及び国際航路コースに分けられるがその大部分は南鮮コースである。
(1)南鮮コースは釜山、馬山、統営、麗水、鎮海、済州島等を出発地とし
○北九州、山陰方面に直航するもの
○対馬、隠岐に寄港して後、同方面に向うもの
○九州南岸を迂廻して豊後水道を経て瀬戸内海に入るもの
○九州南岸より四国の太平洋沿岸に上陸し又は紀伊水道に入り和歌山、徳島、神戸、大阪方面に上陸するもの
等があるが中でも朝鮮よりの最短コースである長崎、山口、福岡に向うものが最も多い。これらの地点は取締が最も厳重であるがその危険を侵してまで両方面に向う理由としては
○密航料金の低廉
○航行の安全性が高い
○使用船舶の性能の劣悪
等が挙げられよう。
(2)北鮮コースをとるものは極めて少いのであるが元山を出発港として新潟、石川、富山、秋田、函館等の北陸、北海道方面に向うのが常で北鮮地域よりの出航が多いので特殊任務を有する場合が多い。
(3)国際航路コースを利用するものは殆んど密貿易を伴うもので三池、下関、呉、神戸、四日市、名古屋、横浜等に上陸しているがその数は少い。
三 密入国取締実施状況
密入国者の取締は昭和二十一年四月より開始されたのであるが取締開始以来昨年までの八年間の取締実施状況は次表の通りである。
A(総検挙数)
検挙数 |
検挙者数 |
逃走確認数 |
強制送還数 |
||||
検挙機関別 |
警察 |
海上保安庁 |
合計 |
||||
年度別 |
上陸地 |
上陸地以外 |
計 |
||||
昭和二一 |
一七、七三七 |
一、三七四 |
一九、一〇七 |
三、六八三 |
一五、九二五 |
||
〃二二 |
五、四二一 |
七一六 |
六、一三七 |
一、四六七 |
六、二九六 |
||
〃二三 |
六、四五五 |
四六〇 |
六、九一五 |
一、三五八 |
八、二七三 |
二、〇四六 |
六、二〇七 |
〃二四 |
七、九三一 |
一、二四九 |
九、一八〇 |
七二九 |
九、九〇九 |
二、七〇〇 |
七、六六三 |
〃二五 |
二、四四二 |
五三四 |
二、九七六 |
三三〇 |
三、三〇六 |
一、一七〇 |
二、三一九 |
〃二六 |
三、七〇四 |
三六四 |
四、〇六八 |
七二一 |
四、七八九 |
一、一四三 |
二、一七二 |
〃二七 |
二、五五八 |
四八一 |
三、〇三九 |
三七一 |
三、四一〇 |
七〇五 |
二、三二〇 |
〃二八 |
一、四〇四 |
四九九 |
一、九〇三 |
三一三 |
二、二一六 |
三八七 |
二、六八五 |
計 |
四七、六五二 |
五、六七七 |
五三、三二五 |
三、八二二 |
五七、一五一 |
一三、三一一 |
四五、五八七 |
B(警察検挙数)
年度別 |
密入国者数(上陸地) |
検挙率 |
上陸地以外の検挙者数 |
検挙者総数 |
強制送還数 |
||
検挙数 |
逃走確認数 |
合計 |
|||||
昭和二一 |
一七、七三七 |
三、六八三 |
二一、四二〇 |
八三% |
一、三七四 |
一九、一一一 |
一五、九二五 |
〃二二 |
五、四二一 |
一、四六七 |
六、八八八 |
七九% |
七一六 |
六、一三七 |
六、二九六 |
〃二三 |
六、四五五 |
二、〇四六 |
八、五〇〇 |
七六% |
四六〇 |
六、九一五 |
六、二〇七 |
〃二四 |
七、九三一 |
二、七〇〇 |
一、六四一 |
七〇% |
一、二四九 |
九、一八〇 |
七、六六三 |
〃二五 |
二、四四二 |
一、一七〇 |
三、六一二 |
六八% |
五三四 |
二、九七六 |
二、三一九 |
〃二六 |
三、七〇四 |
一、一四三 |
四、八四七 |
七七% |
三六四 |
四、〇六八 |
二、一七二 |
〃二七 |
二、五五八 |
七〇五 |
三、二六三 |
七八% |
四八一 |
三、〇三九 |
二、三二〇 |
〃二八 |
一、四〇四 |
三八七 |
一、七九一 |
七八% |
四九九 |
一、九〇三 |
二、六八五 |
計 |
四七、六五二 |
一三、三一一 |
六〇、九六三 |
七八% |
五、六七七 |
五三、三二九 |
四五、五八七 |
取締結果をみると昭和二十一年が圧倒的に多いが、これは終戦直後計画送還により一旦帰国した彼等が、本国の社会不安から逃避の為に多数再入国して来た結果であり、この傾向は同年夏頃に至りその極に達したかの観があつたが、その後密航監視哨の設置等による沿岸警備力の強化によつて急激にその数を減少した。昭和二十二年より同二十四年までの三年間は、築年累増の傾向を示したが、これは朝鮮における諸般の事情が依然として好転しないのに反し、日本は敗戦による一時的混乱を脱却して漸次平常の状態に向いつつあつた為、いやが上にも朝鮮人の対日憧憬:をそそつた為であるとみられている。これに反し、昭和二十五年度の激減の原因は、明らかに同年一月実施した我国の外国人登録証明書の一斉切替措置により証明書の偽造変造又は不正入手等が比較的困難となり、延いては密入国が容易に発見されること、及び同年六月の朝鮮動乱の発生により国外逃避者に対する厳罰方針、これに伴う沿岸取締の強化等の朝鮮本国の諸方針が綜合反映した結果と思料され、遂に前年度の三分の一に減少したのである。その後現在までに停戦問題、南鮮における徴兵令の施行等若干の情勢変化はあつたが、密入国の趨向乃至数量等には差程の変化はみられなかつた。強いてあげれば徴兵忌避の為と認められる学生の密入国が稍々増加した程度である。なお取締開始以来一昨年末までの密入国検挙人員は、上陸地検挙者、四七、六五二人、上陸地以外の検挙者、五、六七七人、海上保安庁による検挙者(但し昭和二三、五以降)三、八二二人、合計五七、一五二人で、年間平均約七、一四〇人である。又上陸地検挙を免れて日本国内に潜入した密入国者の中には、上陸地において逮捕された共犯者の自供によつて逃走の事実が認定された者と、全然官憲の視線に触れていない者が含まれているわけである。前者については前表に示した通り、一応の数字が出ているが、後者に
ついてはその概数を知ることさえ不可能である。試みに逃走認定人員と上陸地以外の検挙人員を対比してみると差引七、六三四人が現在未逮捕となつて居りこれに視線外密入国者を加えると相当数の密入国者が逐年累積しつつあることが判る(情報によれば逮捕されるのは三回に一回とも言われているが何れにしても視線外密入国者が相当多いことは推定に難くない)。
p190~227
第七章 不法行為
第一節 概説
朝鮮人は概して文化教育の程度も低く、遵法精神が稀薄である上、性格も事大主義で、附和雷同し易く、感情的で、兇暴性に富み、且つ巧利的で、狡猾、奢侈虚栄的で、射倖心に富み、勤労意欲に欠けている等の複雑なものを持っているが、これらの諸点は、反面長所の存在を認めながらも、朝鮮人の国民性に共通した欠陥とみることが出来る。殊に在日朝鮮人中には朝鮮本国における比較的下層社会に位置した者が多いといわれるので、これらの諸欠陥が特に顕著に露呈されるといってもよく、このことは統計面に現われた彼等の高度な犯罪率によっても容易に証明し得る処である。
このように虞犯的要素を多分に内包している上、終戦後に「日共」の支配下に入った「朝連」の指導者達が、一般大衆を革命勢力の実力行動則隊に訓練する為に、凡ゆる機会を捉えて、広汎な政治闘争乃至暴力闘争に駆り立てたので、この種傾向に一層の拍車をかけ、彼等の各種不法行為は当局の措置不適当と相俟つて戦後の混乱を一層助長し、社会人心を極度の不安に陥らしめ、一時はさながら無警察状態を現出したといってもよい程であつた。これは朝鮮人の心底に潜在していた複雑な民族感情が敗戦を突破として一挙に爆発した結果であるとみられないこともなく、いわば過渡期における特異現象のみを以て彼等の国民性全般を律することは聊か妥当性を欠くものといわなければならないが、終戦以来九年を経過し国情も漸く平常に戻り、国内治安も急速に回復されつつある今日においても、なお且つ彼等の犯罪率が依然として日本人や他の外国人に比し極めて高度であることは何を物語るものであろうか、彼我共に悲しむべき現実である。又これら不法行為の発生状況をみるに、常に内外の言説情勢に大きく影響され、朝鮮本国及び共産主義国家の諸施策に呼応して伸縮することは勿論、日本政府の対朝鮮人政策とも密接な関連があつたことも否めぬ事実である。終戦後八年間におけるこれら不法行為の推移状況を時期的に区分すれば、概ね次の五期に分けてみることが出来よう。
第一期(終戦より昭和二十一年二月迄)
終戦後戦勝国民と僭称した在日朝鮮人は、敗戦国の法律に服従する必要はないとして、国内随所に不法越軌行為を敢行し、世人をひんしゅくせしめたが、これは解放民放としての思い上りによるのは勿論、占領軍の彼等に対する態度が不明確であつたこと、及び敗戦の衝撃によつて虚脱状態に陥つた日本官憲の自信喪失による取締の不徹底等が綜合反映した結果でもある。本期における主なる事案は、退職慰労金等の不当要求をめぐる不法行為、日鮮人間の集団闘争、帰国問題に起因する不穏行動、保安隊等(朝鮮人の自衛組織)の警察権類似行為、主食の集団買出し等で著名事件としては、新潟日報社襲撃事件がある。
第二期(昭和二十四年九月迄)(朝連解散迄)
昭和二十一年二月十九日、連合国総司令部より「刑事裁判権の行使に関する覚書」が発せられ、一応取締の法的根拠も明確化したので、官憲の取締が稍々積極的にはなつたが、彼等の不法行為はさらに減少の傾向はなく、却って警察取締に対する反撃、反撃反撥行為が続発した。この外、日鮮人間の集団闘争、「朝連」対「民団」の対立抗争、集団買出しによる列車妨害(客車の不法占拠)、集団的強窃盗、大規模な詐欺事件等も多数発生した。殊に本期の特徴は「朝連」が「日共」の前衛として実カ行動隊に変貌したので、組織的尖鋭的な各種不法事業が頻発し、「朝連」の最も華やかな隆盛期であつたことである。本期間中の主な著名事件は、首相官邸デモ事件、阪神教育事件、益田事件、深川事件、下関市事件である。
第三期(昭和二十五年六月迄)(朝鮮動乱発生迄)
「朝連」「民青」の解散により朝鮮人の不法行為は一応激減したが、「朝連」解散措置に伴う財産接収をめぐり、「日共」及び旧「朝連」幹部の指導下に防衛闘争委員会を設けて接収を妨害せんとし、各地において関係当局に対する強力な反撃乃至陳情抗議闘争が反覆展開されたが、その中の代表的なものは台東会館事件である。
第四期(昭和二十七年四月迄)(講和条約発効迄)
昭和二十五年六月二十五日、朝鮮動乱の発生直後北鮮糸勢力は、祖国防衛委員会(祖防委)及在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を相次いで結成し、北鮮軍の勝利を期待する為の祖国防衛闘争を協力に推進することとなつた。これが為祖国防衛を主たるスローガンとした反米、灰占的各種集会、デモ行進等が各地において頻繁に開催実施され、民族意識の昂揚を図つたので、反米ビラの配頒布事件、南鮮向軍需品の生産輸送妨害事件等が発生し、同年秋には「日共」と提携して、レッドパージ反対闘争、生活権擁護闘争を強力に推進し、同時多発的な各種不法行為を敢行したのである。昭和二十六年秋、「出入国管理令」が制定されるや、強制送還反対闘争を熾烈に展開し、国会、外務省、法務省等に波状的集団陳情デモを行い、警察官署その他の権力機関に対しては実力的攻撃が行われたが、これら不法行為には同年春より打出された「日共」の、いわゆる「四~五仝協」による軍事方針の影響をうけ、拳銃及び火焔ビン、硫酸ビン、催涙ガス等の簡易武器が多数使用されたのである。本期問における著名事件としては、第二神戸事件、王子事件、大和町事件、東成警察署襲撃事件、日野事件、高砂町事件等の多数がある。
第五期(現在まで)
昭和二十七年四月二十八日、講和条約の発効により在日朝鮮人は法律上の外国人となったが、実質的には日韓基本条約の未締結等により何等の変化も生せず、従って前年春より打出された「日共」の軍事方針に基く不法行為も相変らず跡を絶たず、五月一日のメーデーには「日共」と共に、いわゆる皇居前事件と称する戦前最大の騒擾事件を惹起して内外の世人を瞠目せしめ、更に六月二十五日の朝鮮動乱記念日には大阪における吹田騒擾事件、東京新宿駅前における警察官との衝突事件、七月七日には愛知県における大須事件等、悪質大規模な不法行為が続出するなど、国内治安情勢は日増しに悪化したが、七月十五日アカハタ紙上に発表された街頭的軍事活動を批判した「日共」の徳田論文を契機として、さしも乱発した不法事案も漸減の一途を辿り、組織的計画的なものは影をひそめ、九月末より実施された外国人登録証明書の一斉切替措置にっいても予想した不法行為は殆んどなく何れも合法闘争に終始し平穏裡に終了したのである。その後朝鮮人学校の私立化問題、日韓会談の再開問題等が発生し、それぞれ北鮮系勢力による反対闘争が執拗に強力に展開されてはいるが何れも合法線の枠内におけるもので不法行為の段階には発展していない。
以上は終戦後より現在までの朝鮮人による集団的不法行為乃至警備事犯の推移を概観したのであるが、その詳細は後記の通りである。
○註 以下の説明は関係資料の不足、統計様式の不統一等から正確且つ体系的に提えることが出来ず、年度毎に別個の観点から眺めざるを得ず、読者の理解に甚しい不便を与えることとなることは洵に遺憾であることを予めお断りしておきたい。
第二節 年度別発生状況
一 昭和二十年度(終戦より同年末迄)
終戦後本邦に在住していた朝鮮人のうち、嘗つての日本支配に反感を懐いていた一部指導分子は「我々は今まで搾取、圧迫の奴れい的差別待遇をうけて来た。終戦により解放された現在、我々は連合国人であるから敗戦国日本の法令に従う義務はない」「我々は二等国民で日本国民は四等国民となつた。従つて我々は日本人より優遇されるのが当然であるということを凡ゆる方法で、日本人に自覚させねばならない」「戦時中我々を虐待した日本人は戦犯として制裁を加えねばならない」等の反日乃至侮日的言辞を弄して大衆を指導し、煽動する一方、失業、生活難、帰国問題等にて動揺している同胞を巧みに捉え、これを結集して多衆の勢威により問題を解決せんとし、全国的に各種団体の結成をはかつた。このようにして指導煽動された一般大衆は、従来の圧伏していた諸感情が反動的に一次に爆発し、日本の諸法令を無視抹殺し、官憲と対立抗争し、その暴状は目に余るものがあつた。例えば食糧の集団買出しに威力を示して乗車券の優先入手をはかり、或は客車を不法占兆し、又官公署、事業場等に不当要求をなし、拒否されるやこれを包囲襲撃し、或は保安隊と称する自衛隊が公然として各種の警察権類似の越軌行為を敢行した。もとより警察当局においても、斯種不法行為の鎮圧防止には相当の努力を払つたのであるが、終戦直後の混乱した社会情勢や、警察機構の改編、朝鮮人に対する刑事裁判権の不明確等、各種の根本的な原因により多少の間隙が生じたことは否めぬ事実であらう。本期間中における不法行為の発生は一二八件で、その月別発生状況は
八月 五件
九月 一九件
十月 二六件
十一月 三六件
十二月 四二件
となり、毎月増加の一途を辿つたが、これを内容的に類別すると
日本人指導員に対する集団暴行 六件
物資配給をめぐる不穏行動 八件
賭博勝負の口論による集団闘争 五件
日鮮人間の闘争 八件
朝鮮人、中華人間の集団闘争 五件
帰鮮問題をめぐる不穏行動 二一件
退職、慰労金等の不当要求 三四件
集団的強窃盗事件 八件
官公署等に対する不法不当要求 一四件
保安隊の警察権類似行為 九件
事務所の不法占拠事件 二件
朝鮮人団体間の集団闘争 六件
その他 二件
となつて居り、終戦前には予想だにせぬような不法事業が多数発生したのである。これを時期的にみると、八、九、十月の三ケ月は、主として集団稼働場たる炭砿地帯において、会社側日本人指導員に対する反感、朝鮮人、中華人の感情的対立、賭博勝負、その他の口論等に発端する集団暴行乃至集団闘争、並に帰鮮問題に関連する退職金、旅費等の不当要求に伴う不穏行動等が発生して居り、十月中旬以降十一月においては、陸続として結成された朝鮮人各種自治団体(「朝連」を始め約三〇〇団体)が、軍需工場、事業所等に対する退職慰労金等の不法不当要求闘争に積極的に参加し、団体の威力を示して暴行脅迫をなし、或は引揚計画の輸送を拒否する等の不穏行動が激増し、十二月においては、官公署に対する不法不当要求が著増した外、興生会(朝鮮人の生活振興をはかる日本政府の外廓団体)の財産及び事務所の不法接収事案、朝鮮人団体相互間の勢力争いに伴う不法行為、日鮮人間の闘争等も多数発生したが、これらの事件には常に拳銃、日本刀等の兇器が多数使用されたのである。
二 昭和二十一年度
本年中における朝鮮人の不法行為発生件数は、五、三三六件(参加人員約五万人)の多数に上り、これを月別にみると
一月 三二件 参加人員三、〇四七人
二月 七一件 〃 四、〇三六人
三月 一〇五件 〃 四、九八七人
四月 二〇九件 〃 四、四二三人
五月 一三六件 〃 二、一四四人
六月 一五八件 〃 二、八五四人
七月 九九二件 〃 六、〇四四人
八月 七五九件 〃 五、四八八人
九月 一、一二一件 〃 六、五九八人
十月 一、○六〇件 〃 六、九八一人
十一月 三五六件 〃 一、七二四人
十二月 三三七件 〃 一、四八八人
となり、一ケ月平均、釣四四〇件発生しているが、特に七月乃至十月には、八〇〇乃至一、一〇〇件の多数が発生している。これら不法行為の内容及び趨向は前年中と大差なく
警察官(署)に対する不法行為 一七九件
朝鮮人間の集団闘争 一〇八件
集団的強窃盗事件 五七二件
警察権類似行為 一二八件
官公署に対する不当要求 二、四〇七件
集目的暴行傷害事件 四五三件
集団的詐欺及び恐喝事件 一四七件
金融緊急措置法違反 一六件
鉄道輸送関係不法行為 五八〇件
その他 七五〇件
の如くであるが、特に目立つのは、集団買出しの為の列車(客車)の不法占拠が頻発したことである。本年中における著名な事件としては十二月二十日の首相官邸デモ事件がある。
三 昭和二十二年度
本年に入っても不法不軌行為は依然として減少せず、多衆集団しての軍需物資保管倉庫の襲撃や隠匿物資の摘発と称しての恐喝事件、或は集団威力を以てする鉄道乗車券の優先購入並に無賃乗車、客車の不法占拠、主食の大量買出し等殆んど前年中と同様で、これが発生総件数は五、六八一件、参加人員約一五、六〇〇人で、前年に比すれば、件数において約三〇〇件増加しているが、参加人員においては、逆に三分の一に減少している。これは大事件が減少し小事件が反対に多発して
いることを示すもので、これが発生状況を月別にみてみると
一月 三三七件 参加人員 一、〇六〇人
二月 三五一件 〃 八七八人
三月 三〇七件 〃 一、三一九人
四月 三〇九件 〃 一、八五五人
五月 三四二件 〃 一、三六四人
六月 四五〇件 〃 一、二三六人
七月 四五八件 〃 一、七七〇人
八月 七三八件 〃 一、六四三人
九月 七五三件 〃 一、三五八人
十月 八二六件 〃 一、四一九人
十一月 四六〇件 〃 八一八人
十二月 三四八件 〃 八八一人
の通りで、一ケ月平均、約四七〇件が発生して居り、八、九、十の三ケ月は、他の月に比し倍増している。これら不法行為の内容は、前年と大差なく
警察官(署)に対する不法行為 六九件
朝鮮人団体間の集団闘争 六五件
集団的強窃盗事件 一、一八四件
警察類類似行為 一四件
官公署等に対する不当要求 一一件
集団的暴行傷害事件 三七三件
集団的詐欺及び恐喝事件 三四八件
鉄道輸送に関する不法行為 三一八件
その他 三、二九九件
となるが、これを前年に比較してみると、前年中最も多かった官公署等に対する不当要求に随伴発生した不法行為(二、四〇七件)、及び警察権類似行為(一二八件)が殆んど跡を絶っているに反し、集団的強窃盗事件(五七二件)及び集団的詐欺恐喝事件(一四三件)が二乃至三倍に著増していることが特徴的である。この外朝鮮人団体間の集団闘争、日鮮人間の集団闘争、鉄道輸送に関する不法行為等は依然として滅少していない。更に本年中における不法特異事案としては二・一ストに対する動向、茲に保守党系国会議員の政見発表演説会に対する妨害事件がある。
四 昭和二十三年度
本年中における特異重要な不法行為の発生件数は八六件で、これが参加人員は、約五四、○○○人である。これを内容別にみてみると
教育関係事件 五件
警察官に対する公務執行妨害 五件
密造酒取締をめぐる不穏行動 一八件
北鮮政府樹立記念式をめぐる不法行為 八件
朝鮮人間の集団闘争 一二件
日鮮人間の集団闘争 一九件
であるが、更にこれを詳説すると次の通りである。
(一)教育関係事件
昭和二十三年一月文部省は、無認可朝鮮人学校を軌道にのせる為、各府県に対し、朝鮮人学校の取締に関する通牒を発した。これが為各府県においては、三月十五日より一斉に朝鮮人学校の責任者に対し、文部省の方針を示達すると共に、改組手続の勧告をした処、北鮮系朝鮮人等は「朝連」の指導により、各地に朝鮮人学校不当弾圧人民大会を開催して気勢を昂げると共に、県庁市町村役場等に押しかけ抗議したが、特に岡山、山口、兵庫、大阪等が激しかつたが、就中四月二十三、四日大阪、神戸に発生した、いわゆる阪神教育事件は規模も大きく、占領軍が非常事態宣言を布告した程の騒擾事件で、検挙者実に一、八〇〇名の多数に及び、首謀者多数は軍事裁判の結果、国外追放をされたのである。
(二)北鮮政府樹立記念式をめぐる不法行為
昭和二十三年十月北鮮系諸団体においては、各地において北鮮政府樹立慶祝記念大会を頻繁に開催したが、その際掲揚を禁止されている北鮮国旗、又は国旗を標示せるポスター等を掲(示)揚したので、これが取締を行った警察官及びMPとの間に紛争を生じた事案で、岡山、神奈川、宮城、岐阜、大阪、熊本の各府県に発生したが、これら被疑者はいづれも軍事裁判に附されたが、その数は四十三名である。
(三)朝鮮人間の集団闘争
朝鮮人間の集団闘争は、「朝連」対「民団」又は「民青」対「建青」の勢力争いに起因するもので、発生の府県別内訳は、兵庫三件、大阪、神奈川各二什、静岡、福島、三重、山ロ、群馬各一件となつている。これが原因は何れも思想的対立による勢力争いであるが、直接の動機は「民団」支部結成に対する「朝連」側の妨害行為によるものが圧倒的に多い。
(四)日鮮人間の集団闘争
日鮮人間の集団闘争は、静岡外十六府県に発生しているが、日本人側の対手は殆んど香具師で、これに次ぐのが不良青年、土建労務者等である。その原因は些細な口論、賭博の勝負、露店の縄張争い等から発生しているが、その遠因は独立国民としての対日本人感情と、終戦後横暴を極めた対朝鮮人感情の衝突にあるようである。これらの闘争は相互に兇器を持って多数が参加し、乱闘 するのが特徴的で、従つて両者に多数の負傷者が出るのが通例である。比較的大規模な事件としては、浜松事件(静岡)水俣事件(熊本)五所ケ原事件(青森)がある。
五 昭和二十四年度
本年度内における集団的不法行為の発生件数は、一〇八件(参加人員約二万人)で、その内訳は
日鮮人間の集団不法行為 一四件
朝鮮人間の集団不法行為 二九件
密造酒取締を繞る不法行為 三一件
警察官(署)に対する不法行為 一九件
「朝連」「民青」の解散に伴う不法行為 一〇件
朝鮮人学校閉鎖を繞る不法行為 五件
で、これを前年に比較すると、密造酒取締をめぐる不法行為、朝鮮人間の集団不法行為及び警察官署に対する不法行為は、二乃至四倍に増加して居り、日鮮人間の集団不法行為は、五件減少している。日鮮人間の集団不法行為は、山口、東京、石川、青森、奈良、神奈川、岩手、宮城、福島、兵庫、広島、福井、栃木の各府県に発生し、これが参加総人員は朝鮮人側約一、〇〇〇人、日本人側約三〇〇人(殆んど香具師)である。これが直接の原因は、「飲酒の上から」六件「些細な口論から」三件「露店の縄張争いから」二件「其の他」三件となつているが、大規模なものはなかつた。朝鮮人間の集団不法行為は二九件で、参加総人員は約七、〇〇〇人である。府県別発生状況は、山口四件、岐阜四件、千葉、和歌山、福岡、宮城各二件、岩手、三重、広島、北海道、静岡、兵庫、東京、岡山、新潟、大分、滋賀、大阪が各一件である。これが直接の原因は「民団支部結成の妨害によるもの」七件「飲酒及び些細な口論から」八件「八・一五記念日における両者の衝突によるもの」四件「民団員に対するリンチ」「ビラ貼付の妨害」各二件「其の他」四件である。大規模な事案は五月八日の東京における学生団員事件、八月十五日の下関事件がある。
警察官署に対する不法行為は、一九件で、府県別発生状況は、東京、広島、福島、神奈川、岡山各二件、島根、兵庫、愛媛、愛知、福井、京都、千葉、滋賀、岩手各一件である。これが原因及び態様は警察の服務執行に対する妨害、警察官に対する暴行傷害、警察署、派出所等に対する襲撃等である。特異なものは島根県益田町における隠退蔵物資摘発をめぐる公務執行妨害事件(検挙者三九名)、福井県本郷付巡査部長派出所における警察官暴行事件(検挙者五名)、千葉県千葉駅における業務妨害事件(検挙者二〇名)、広島市における日鋼事件、福島県平市における警察署占拠事件、岡山駅前におけるソ連引揚者出迎をめぐつての不法行為等がある。
「朝連」「民青」の解散に伴う不法行為の発生状況は、山口三件、福岡二件、石川、福井、神奈川、富山、各二件で、検挙総人員は一六二名である。違反内容は殆んど公務執行妨害で、その他は公安条例違反、封印破棄等で当局の適切な警備措置、その他により反抗反対の大衆行動は活発に行われたが、不法行為に発展したものは予想外に尠かつた。十月十九日、全国一斉に朝鮮人学校の閉鎖と接収見分を行つたが、これに伴う不法行為も意外に尠く、神奈川四件、千葉一件の計五件で、検挙者は四九名で、違反の態様は封印破棄、公務執行妨害、不退去、器物毀棄等である。
六 昭和二十五年度
本年中における不法行為の発生件数は、一四六件(参加人員約四、五〇〇名)で、その内訳は
警察官署に対する不法行為 一七件
密造酒取締をめぐる不法行為 二件
朝鮮人間の集団闘争 二一件
日鮮人間の集団闘争 二件
政令第三二五号違反 一〇五件
であり、前年に比較すると、いづれも減少して居り、特に密造酒取締をめぐる不法行為及び日鮮人間の集団闘争が約九〇パーセント激減している。本年の特徴は、朝鮮動乱の発生により政令第三二五号違反(反米、反占ビラの配頒布)が激発したことで、総発生件数の約七〇パーセント強を示している。
警察官署に対する不法行為は、東京、福岡、群馬、山梨、岡山、神奈川、兵庫、愛知、京都、長野の各府県に発生し、特に東京、岡山、神奈川に多発したが、著名なものは、東京都における旧「朝連」財産接収問題をめぐる台東会館事件、神戸市長田区役所における生活権擁護闘争による吏員軟禁事件、滋賀県大津職安所及び同検察庁における公務執行妨害事件がある。朝鮮人間の集団闘争は、茨城(三件)静岡(二件)滋賀(二件)岡山(二件)秋田、長野、栃木、大阪、干葉、愛知、三重、山ロ、東京、福岡、兵庫、大分(各一件)の各府県に発生して居るが、その形態は従来通り殆んど旧「朝連」系対「民団」系の勢力争いで、その直接の原因も喧嘩口論(六件)、「民団」支部結成の妨害(五件)、飲酒の結果(四件)その他となって居る。比較的規模の大なるものは千葉県横芝町における「民団」支部結成の妨害事件一件である。
七 昭和二十六年度
本年中における不法行為の発生件数は、二一一件(参加人員約七、二〇〇名)で、その内訳は
警察官署に対する不法行為 一六件
密造酒取締をめぐる不法行為 二五件
朝鮮人間の集団闘争 一四件
日鮮人間の集団闘争 三件
政令第三二五号違反 一五三件
で、総発生件数は前年より約五〇パーセント増加している。主なる増加率は政令第三二五号違反約三一%、密造酒取締をめぐる不法行為約九二%で、警察官署に対する不法行為及び日鮮人間の集団闘争は変化がないが、朝鮮人間の集団闘争が約五〇パーセント減少していることは、当時の客観情勢に全く背反する現象であることは特徴的である。警察官署に対する不法行為の主なるものは三重県四日市における「旧朝連」財産の接収をめぐる硫酸ビン投擲事件、大阪市東成警察署に対する催涙ガス投入事件、東京王子朝鮮人中学校における政令第三二五号違反捜査に対する反抗事件及び滋賀県日野町における強制送還反対の自転車デモ事件等かおる。朝鮮人間の集団闘争も、数的には一応減少しているが、神奈川県大和町における大規模な両者の乱闘事件及び大阪市における「民団」系経営の軍需品製造工場襲撃事件等、特異事案が発生している。
八 昭和二十七年度
本年中における不法行為の特徴は、各種権力機関に対するものが多発して居ることであり、しかもその暴徒が組織的に訓練された行動をとって居ること、及びこれら犯行に使用された兇器が稚拙ではあるが化学的製法によるものが多かったことなどである。これらの傾向はもとより朝鮮人自体の問題から発生したことも見逃せない原因の一つではあるが、最も有力な原因は、前年秋より打出された「日共」のいわゆる軍事方針の影響によるものと認められ代表的著名事件としては、メーデー騒擾事件、吹田事件、大須事件等がある。これに次ぐのは、南北鮮糸の思想的対立による不法行為即ち同族相闘事件が激発していることである。もとより両者の抗争は終戦以来の宿命ともいえるものであるが、本年に入つてからはその様相が深刻で且つ規模が大きくなつて来たことに特徴がある。この特徴は前年秋頃より現われ始めた傾向であり、その原因は、前記「日共」の軍事方針との関係、日韓会談、強制送還問題、朝鮮動乱の停戦問題が相錯綜して反映した結果であると認められる。本年中に発生した不法行為は三九六件で、その内訳は次の通りである。
(一)内容別状況
不法行為の内容を「権力機関に対するもの」「民団対旧朝連の対立によるもの」及び「その他」の三種に分類してみると
1 権力機関に対するもの
発生件数 一七四件(全体の約四四%)
検挙〃 八四件(発生に対し約四八%)
検挙人員 九一四名
2 「民団」対「旧朝連」の対立によるもの
発生件数 一四〇件(全体の約三五%)
検挙〃 六〇件(発生に対し約四二%)
検挙人員 二九六名
3 その他
発生件数 八二件(全体の約二一%)
検挙〃 六〇件(発生に対し約七三%)
検挙人員 三九五名
の通りで、発生率は「権力機関に対するもの」「民団対旧朝連の対立によるもの」「その他」の順となつているが、検挙率からみると「その他」が圧倒的に高率で、他の二つは概ね同程度である。更に「権力機関に対するもの」を「警察機関」「悦務機関」「法務機関」(裁判、検察、公安調査庁……以下同じ)及び「職安及び他方自治機関」(職業安定所、府県庁、市町村役所……以下同じ)に細分してみると
発生件数 一三四件(権力機関全体の約七七%)
検挙〃 六〇件(発生に対し約四四%)
検挙人員 七八九名
2 税務機関
発生件数 一三件(同前 約四七、五%)
検挙〃 六件(同前 約四六%)
検挙人員 三八名
3 法務機関
発生件数 一一件(同前 約六、三%)
検挙〃 八件(同前 約七、二%)
検挙人員 四六名
4 職安及び地方自治機関
発生件数 一六件(同前 約九、二%)
検挙〃 一〇件(同前 約六三%)
検挙人員 四一名
となつて居り「警察機関」に対するものが圧倒的に多く発生して居り、その他は殆んど同率である。このように警察機関に対するものが一番高率であるのは、権力機関の中でも最も警察が彼等に対する接触面が多いことによる反感、或は警察が他の権力機関の代表的存在(或る意味での)であるので、これに損害を与えることによつて生ずる各種影響力の増大等、種々の意味を含んだ狙いによるものと思料されるが、反面最も武装化した実力部隊である警察に一番挑戦率が多いという点に注意しなければならない。換言すれば「日共」の、いわゆる軍事方針を最も忠実に実践した証左でもあるとみられるわけである。検挙率は「法務機関に対するもの」が一番よく、次いで「職安及び自治機関に対するもの」「税務機関に対するもの」となり「警察機関に対するもの」が最も低率であることは皮肉である。
なお、これら不法行為のうち「権力機関に対するもの」及び「民団対旧朝連」の対立によるものについてその対象別(又は被害別)をみてみると
A 権力機関に対するもの
(1)警察機関
警察署 一四件
派出所 四七件
駐在所 一三件
個人 四二件
(2)税務機関
施設 三件
私宅 一件
個人 二件
(3)法務機関
施設 五件
私宅 一件
個人 三件
(4)職安及び地方自治機関
施設 九件
私宅 二件
個人 二件
B 「民団」対「旧朝連」の対立によるもの
「民団」事務所 三九件
「民団]員私宅 四六件
「旧朝連」事務所 一件
「旧朝連」員私宅 一件
個人(両者合計) 四九件
となって居る。施設に対する攻撃は火焔ビン、人糞等の投入が多く、人に対しては暴行脅迫傷害等が多い。「民団隊旧朝連の対立によるもの」は殆んど「旧朝連」系の一方的攻撃によるもので「民団」系は受身の立場に立つている。これは現在の両者の力関係及びその性格(団体の)を如実に示して居るもので、この闘争による人的被害は死傷者七五名あり、如何に両者の対立が深刻であるかが想像されよう。
(二)発生(検挙)月別状況
発生及び検挙状況を月別にみると
一月 発生件数 一五件 検挙件数 四件 同上人員 四〇名
二月 〃 三二件 〃 一三件 〃 六一名
三月 〃 六七件 〃 二五件 〃 一二六名
四月 〃 三五件 〃 一六件 〃 一〇九名
五月 〃 三五件 〃 一四件 〃 二〇二名
六月 〃 四一件 〃 二八件 〃 三四一名
七月 〃 三八件 〃 二六件 〃 四七〇名
八月 〃 三八件 〃 二五件 〃 一一三名
九月 〃 三五件 〃 三一件 〃 七三名
十月 〃 二六件 〃 九件 〃 一九名
十一月 〃 八件 〃 七件 〃 四五名
十二月 〃 六件 〃 六件 〃 六名
計 〃 三九六件 〃 二〇四件 〃 一、六〇五名
となって居り、一ケ月の平均発生は三三件(検挙二七件、検挙人員約一三四名)、となって居る。これを上下半期別にみると、上半期は二四五件で全体の約六二%、下半期は一五一件、三八%で、上半期が圧倒的に多い。更に「権力機関に対するもの」のみについてみると、上半期、一三三件(七六%)下半期四一件(二四%)で、その差は全体の場合よりはるかに高率である。これが原因は種々あるが、最大の原因は前述した如く「日共」の軍事方針の影響によるとみられる事実は否定出来ない(七月中旬出された「日共」の徳田論文―街頭的軍事活動を批判したもの―を契機としてこの種不法行為が激減している)。
(三)使用兇器並に手段方法別状況
これら不法行為に使用された兇器及び手段方法を分類してみると
暴行 一六三件 三三%
傷害 七九件 一六%
その他 七七件 一五、五%
脅迫 五九件 一二%
火焔ビン投入 四二件 八、五%
投石 三六件 七三(ママ)%
人糞投入 一六件 三三(ママ)%
拳銃発射 五件 一%
催涙ガス投入 五件 一%
放火 五件 一%
爆薬使用 四件 〇、八%
硫酸ビン投入 三件 〇、六%
となり、化学製軽武器が多数使用されていることは注目されよう。
(四)発生地域別状況
本年中に発生した不法行為についてその発生状況を地域別にみてみると、兵庫、六〇件(一五%)大阪、五四件(一四%)福岡、東京各二九件(七、三%)山口、二二件(五、五%)京都、二〇件(五、三%)滋賀、一六件、岡山、一五件、広島、一二件、茨城、奈良、各九件の順に多く発生して居り、他の各県は七乃至一件である。大地域別にみると、京阪神地区が全体の約三四%で流石に多く在住人口と全く正比例しているが、その他の府県においても概ねこの傾向を示して居る。更にこれを内容別に分頻してみると次のようである。
1 権力機関に対するもの
兵庫、三九件(二二%)大阪、三一件(一二%)京都、一六件(九%)福岡、一〇件(六%)岡山、八件、滋賀、広島各七件、東京、群馬各五件、新潟、四件、茨城、山口、青森、奈良各三件、その他の県は二乃至一件となって居り、京阪神地区が全体の約四四%強を占めて居る。
2 「民団」対「旧朝連」の対立によるもの
東京、一九件(一四%)福岡、一八件(一三%)大阪、一三件(九%)兵庫、一二件(九%)山口、一一件(八%)滋賀、茨城各五件、栃木、四件、奈良、青森、北海道、熊本、大分各三件、その他の府県は二乃至一件となる。
3 その他
大阪、一〇件(一二%)兵庫、九件(一一%)山口、八件(一〇%)岡山、六件、東京、五件、神奈川、滋賀各四件、その他の府県三乃至一件である。
九 昭和二十八年度
昨年七月中旬以後における、日共の戦術転換に呼応して、北鮮系朝鮮人の軍事活動も、表面的には全く影をひそめ、専ら裏面における軍事訓練乃至学習に重点を指向したので、本年においては集団的不法行為の発生は極めて少なく、流血悪質な事件を続発せしめて、未曾有の社会不安を醸成した前年に比較してみると隔世の感があり、数においても、その激減振りは著しい。たが本年度における特徴として目立つものは、日鮮人問の紛争事犯の発生の増加で、昭和二十五年以降昨年までの三年間は、僅か二―四件にすぎなかつたが、本年は十六件(全体の約一〇%)発生し、昭和二十三、四年頃の混乱時代と同じ数字を示していることは注目すべきである。これが一般的原因としては、講和条約の発効後、民族の独立と国内革新を要求して立上つた右翼の台頭―活発な右翼運動の展開に影響された国民感情の対立等にあると思料されるが、特に日韓会談の決裂、李承晩ライン問題、竹島問題等の発生は、此の種傾向に一層拍車をかけたのである。本年中に発生した不法行為一六七件について、その内訳をみると次のようである。
(一)内容別状況
不法行為の内容を「権力機関に対するもの」「民団系対民戦系の対立によるもの」及び「その他」の三種に分類してみると
1 権力機関に対するもの
発生件数 四六件(全体の約二八%)
検挙件数 四四件(発生に対し約九六%)
検挙人員 一〇七名
2 民団系対民戦系の対立によるもの
発生件数 三一件(全体の約一八%)
検挙件数 二五件(発生に対し約八四%)
検挙人員 九八名
3 その他
発生件数 九〇件(全体の約五四%)
検挙件数 六九件(発生に対し約七七%)
検挙人員 二〇二名
の通りで、発生率は、「その他」「権力機関に対するもの」「民団系対民戦系の対立によるもの」の順に多くなって居り、前年度と対比してみると「権力機関に対するもの」と「その他」が全く逆転して本年は「その他」が多くなつている。これに対し検挙率は「権力機関に対するもの」が最もよく、次いで「民団系対民戦系の対立によるもの」「その他」の順である。更に「権力機関に対するもの」を「警察機関」「税務機関」「法務機関」(裁判、検察、公安調査庁……以下同じ)及び「地方自治機関」(府県庁、市町村役所……以下同じ)に細分してみると
(1)警察機関
発生件数 二一件(権力機関全体の約四六%)
検挙件数 二〇件
検挙人員 三九名
(2)税務機関
発生件数 一六件(同前 約三五%)
検挙件数 一六件
検挙人員 五三名
(3)法務機関
発生件数 二件(同前 約四%)
検挙件数 二件
検挙人員 四名
(4)地方自治機関
発生件数 七件(同前 約一五%)
検挙件数 六件
検挙人員 一一名
となつて居り、警察機関に対するものが前年同様一番多いが、その比率は前年(七七%)に比べると、本年(四六%)は極めて低率である。次いで「税務機関」「地方自治機関」「法務機関」の順となるが、特に前年に比し顕著な傾向は「税務機関」に対するものが件数において三件、比率において約四倍強(他の場合はいづれも激減している)にはね上つていることであるが、これは経済界の不況による生活困窮から生活擁護闘争乃至税金闘争等が活発に展開された結果である。
検挙率はいづれの場合も百%に近く、前年に比し約二倍という好成績である。なお、「権力機関に対するもの」及び「民団系対民戦系の対立によるもの」について、その攻撃対象別(又は被害別)をみてみると
A 権力機関に対するもの
(1)警察機関
警察署 四件
派出所、駐在所 二件
私宅 一件
個人 一五件
(2)税務機関
施設 二件
個人 三件
その他 一一件
(3)法務機関
私宅 一件
個人 一件
(4)地方自治機関
施設 一件
私宅 四件
個人 二件
B 民団系対民戦系の対立によるもの
民団事務所 三件
民団員私宅 六件
個人(両者) 二二件
となつている。「民団系対民戦系の対立によるもの」は、ほとんど民戦系の一方的攻撃によるものが多い。
(二)発生(検挙)月別状況
一月 発生件数 一三件 検挙件数一一件 同上人員 二九名
二月 〃 一一〃 〃 一〇〃 〃 二四名
三月 〃 一四〃 〃 一三〃 〃 四九名
囚月 〃 十八〃 〃 一四〃 〃 一九名
五月 〃 二四〃 〃 一五〃 〃 三〇名
六月 〃 一一〃 〃 七〃 〃 三七名
七月 〃 一六〃 〃 一五〃 〃 五八名
八月 〃 一一〃 〃 一一〃 〃 三八名
九月 〃 一五〃 〃 一三〃 〃 二一名
十月 〃 七〃 〃 六〃 〃 一〇名
十一月 〃 一六〃 〃 一三〃 〃 六八名
十二月 〃 一一〃 〃 一〇〃 〃 二四名
計 一六七件 一三八件 四〇七名
となって居り、一ヶ月の平均発生は約一四件(検挙約一一件、検挙人員約三四名)で、これを上下半期則にみると上半期が一五件多い。
(三)使用凶器別
これら不法行為に使用された兇器は
火焔瓶 一件(四三件)
ダイナマイト ー件(二三件)
竹槍 一件( 八件)
日本刀 二件( 一件)
人糞 三件(一六件)
投石 六件(二七件)
その他 三三件(二六件―拳銃五、催涙ガス三、硫酸ビン三を含む)
となり、前年(括弧内)と対比してみると質量の激減、変化は著しいものがある。
(四)発生地域別状況
本年中に発生した不法行為について、その発生状況を地域別にみてみると、神奈川一三件、東京、熊本各一二件、岡山一一件、栃木一〇件、兵庫、福岡各七件等、の順に多く発生して居り、宮城、山形、秋田、山梨、奈良、福井、石川.富山、徳島、佐賀には全然発生なく他の府県は五―一件である。大地域別にみると関東地方五二件、近畿、中国、九州各地方は各三二件、東北地方一二件、北海道六件となつている。更にこれを内容別に分類してみると次のようである。
1 権力機関に対するもの
岡山六件、和歌山四件、福島、神奈川、福岡各三件、青森、新潟、群馬、兵庫、滋賀、岐阜、長崎、熊本各二件、岩手、東京、京都、愛知、三重、広島、島根、香川、愛媛、高知各一件で特別多発した地域はない。
2 民団系対民戦系の対立によるもの
熊本五件、神奈川、大分各三件、干葉、大阪、兵庫、広島、山口各二件、青森、東京、新潟、栃木、長野、岐阜、福岡各一件である。
3 その他
東京一〇件、栃木九件、神奈川七件、熊本、北海道、岡山各五件、島根、京都各四件、青森、群馬、大阪、兵庫、福岡、大分、鹿児島各三件、岩手、千葉、愛知、広島、宮崎各二件、福島、埼玉、茨城、静岡、長野、滋賀、岐阜、鳥取、山ロ、香川各一件である。
※p187~188の表について
原典の表記のうち、表内の漢数字をアラビア数字に改め、明らかな計算ミスについて下段に修正値を追加したもの
三 密入国取締実施状況 密入国者の取締は昭和二十一年四月より開始されたのであるが取締開始以来昨年までの八年間の取締実施状況は次表の通りである。
A(総検挙数)
検挙数 |
検挙者数 |
逃走確認数 |
強制送還数 |
||||
検挙機関別 |
警察 |
海上保安庁 |
合計 |
||||
年度別 |
上陸地 |
上陸地以外 |
計 |
||||
昭和21 |
17,737 |
1,374 |
19,107 |
3,683 |
15,925 |
||
〃22 |
5,421 |
716 |
6,137 |
1,467 |
6,296 |
||
〃23 |
6,455 |
460 |
6,915 |
1,358 |
8,273 |
2,046 |
6,207 |
〃24 |
7,931 |
1,249 |
9,180 |
729 |
9,909 |
2,700 |
7,663 |
〃25 |
2,442 |
534 |
2,976 |
330 |
3,306 |
1,170 |
2,319 |
〃26 |
3,704 |
364 |
4,068 |
721 |
4,789 |
1,143 |
2,172 |
〃27 |
2,558 |
481 |
3,039 |
371 |
3,410 |
705 |
2,320 |
〃28 |
1,404 |
499 |
1,903 |
313 |
2,216 |
387 |
2,685 |
計 |
47,652 |
5,677 |
53,325 |
3,822 |
57,151 |
13,311 |
45,587 |
B(警察検挙数)
年度別 |
密入国者数(上陸地) |
検挙率 |
上陸地以外の検挙者数 |
検挙者総数 |
強制送還数 |
||
検挙数 |
逃走確認数 |
合計 |
|||||
昭和21 |
17,737 |
3,683 |
21,420 |
83% |
1,374 |
19,111 |
15,925 |
〃22 |
5,421 |
1,467 |
6,888 |
79% |
716 |
6,137 |
6,296 |
〃23 |
6,455 |
2,046 |
8,500 |
76% |
460 |
6,915 |
6,207 |
〃24 |
7,931 |
2,700 |
1,641 |
70% |
1,249 |
9,180 |
7,663 |
〃25 |
2,442 |
1,170 |
3,612 |
68% |
534 |
2,976 |
2,319 |
〃26 |
3,704 |
1,143 |
4,847 |
77% |
364 |
4,068 |
2,172 |
〃27 |
2,558 |
705 |
3,263 |
78% |
481 |
3,039 |
2,320 |
〃28 |
1,404 |
387 |
1,791 |
78% |
499 |
1,903 |
2,685 |
計 |
47,652 |
13,311 |
60,963 |
78% |
5,677 |
53,329 |
45,587 |
p217の昭和27年度の「(三)使用兇器並に手段方法別状況」の内訳について
投石(三六件)が「七三%」、人糞投入(一六件)が「三三%」となっているが、計算すると、それぞれ「七、三%」「三、三%」の誤記誤植であるだろうと思われる。しかし、原典のままとした。