新編広島県警察史

分類コード:III-004

発行年:1954年

第一編 一二節~一三節

第二編 第三節

著作者:
広島県警察連絡協議会
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広島県警察史編修委員会『新編広島県警察史』(広島県警察連絡協議会 1954)

p594-604

          第十二節 華人旁務者の警備

 

 戦時下における生産力の拡充は、国家の至上命令であつた。このため昭和十三年月より実施に移された労働統制は、昭和十五年度よりは「労務動員計画」に進み、更に労務の需給逼迫から単なる労務動員では事足りなくなり、昭和十七年から「国民動員計画」に改められ、労務配置法令が矢継早に公布されて文字通り国民皆励運動が展開されるに至つた。

 このように国内の総力を挙げて生産増強に邁進したのであるが、尚労務の配値は充分ではなかつた。そこで政府は、昭和十七年十一月閣議で労務者需給逼迫の対策として北支及び中支より中国人苦力を移入することを決定し、早急に実施することとなつた。この決定によると、華人労務者の移入については大東亜省の指導により華北労工協会がその衝に当り、国内における労務配置は厚生省が各種統制団体を通じて事業場に配分し、事業場における視察警戒は内務省(警察)かその任に当ることとされた。

 この閣議決定に基いて、昭和十八年三月頃より全国各地に華人労務者が移入されることとなつたのである。

 広島県では、昭和十八年中は華人労務者の移入をみなかつたが、昭和十九年四月県下山県郡の日本発送電株式会社安野水力発電所建設株式会社西松組が華人労務者移入計画を厚生省に申請し、許可されるに至り、本県も愈々華人労秘者を受入れることとなつた。同年四月、県では厚生省の通牒に基き、関係各方面にその受入態勢整備につき指示し、海港検疫及び警備措置について準備を進めた。

 受入作業場では、昭和十九年四月より責任者を華北に派遣して各般の交渉に当らせていたが、同年八月五日華人労務者三百五十七名の募集斡旋を得て下関市に到着、翌八月六日山県郡安野村の作業場現場に到着した。この華人労務者は、大隊編成として四ヶ中隊に分け、山県郡加計町三ヶ所、同郡安野村一ヶ所、計四ヶ所に宿舎を設けて収容し、大隊長、中隊長には華工中より選任し、原則として自律的統制によつて規律した。そうして八月十日より作業を開始し、終戦に至るまで作業を継続したのである。

 この警備については、受入事業場側警備監視員十六名、警察官八名。計二十四名を以つてこれに当らせることとした。所轄加計警察署では、同年八月十三日より安野華工警備隊を開設し、所属警察官巡査八名を配置して、華エと作業場側の接衝の斡旋役を兼ねて治安警備の万全を期した。

 越えて昭和二十年二月に至り、安芸郡矢野町広島港運株式会社が労務払底の打開策として日本港運業会を通じて大連福昌華工会社より華人労務者二百八名を受入れ、矢野町の同会社に収容して港湾荷役作業に従事させた。所轄海田市警察署では巡査四名を配置して、逃走防止其の他の警備に任じた。この港湾荷役華エは其の後出入船舶の減少により昭和二十年六月富山県伏木港に転出した。

 戦時下敵国人である華人労務者については、特にその動静に警戒を要するものがあり、県では特高課員を随時現地に派遣して視察せしめると共に、所轄警察署も厳重な警戒警備に当つたのである。

 山県郡下の華人は戦時中概ね勤勉に就労し、内地人との接触も極めて友好的で憂慮された不祥事件等の発生もなく、平穏に経過した。しかし、その裏面には戦勝国としての我が国民感情が大きな力をもつていたようで、戦況緊迫して我が国の危機が漸く一般に知らされた終戦直前頃には、華工の間には不穏の空気が漲り、それは先づ強力なる統制への反撥となつて現れた。県下における親日派華工隊員撲殺事件等はその現れの一つである。昭和二十年七月十三日、偶々食事給与上の不平から端を発し、炊事班長(華エ)と口論を始めた華工隊員十数名は、これを制止した大隊長及び外一名を撲り殺した。撲殺された大隊長外一名は隊内で最も親日的で事業場側に協力的で隊員が平常より憎悪していたものであつた。この事件は、燈火管制中の出来事で、且つ咄嵯の間に敢行されたので警備警察官が事前に察知することができなかつたが、事件発生直後、被疑者十三名を検挙して所轄加計警察署に留置取調べを開始した。

 この事件発生後間もなく八月十五日終戦を迎えた。

 終戦時広鳥県下の華人労務者の数は、当初受入三百五十七名の内、疾病送還十三名、病死十七名、事故死七名、他殺死二名、計三十八名が減じて、三百十八名(内一名入監、十三名留置)となつていた。終戦後の状況は、本来第三編に譲るぺきであるが、便宜上ここで述べることとする。

 終戦と共に、華人労務者の態度は俄然豹変し、作業放棄は勿論、戦勝国人なりとして横暴の限りを尽し、或は賃金の不当要求、或は集団強窃盗の敢行、或は留置中の華人釈放を迫つて警察署を襲う等、治安上憂慮すぺき状態となつた。所轄加計警察署長は、治安の悪化に対処して、終戦直後華人警備、警察官吏四名を増員して、警備の万全を期したが、終戦直後のことで、刑事裁判権等について中央からの明確な指示はなく、その取扱に苦慮し、鎭撫説得に努める等凡ゆる努力を傾注して治安の維持に当つた。

 昭和二十年十月、連合国軍が本県下に進駐するに至り、進駐に参加した中華民国軍の着手したことは、第一に在日華エの解放であつた。即ち身柄拘束者の釈破を要求し、就労中の死亡者についての死亡原因其の他待遇、虐待行為の有無等、関係者につき詳細取調が開始されたが、その取扱いには細心の注意が払われていたので、不当の取扱いはなかつたとの諒解がついた。

 その間にも華人労務者の不法行為は続き、県では同年十月二十九日遂に呉地区駐屯米軍憲兵隊にこれが取締方を要請し、同隊より憲兵四名の分駐を得て警備の万全を期した。

 十一月二十四日に至つて米郡の取計いにより華人労務者三百十八名全員を呉市広町の米軍駐屯地区に移住せしめ、間もなく連合国軍によつて本国に送還された。

 労務逼迫対策として移入された華人労務者の数は、終戦時国内の一道、二府、十一県に亘つて二十三万一千余名であつたが、昭和二十一年三月頃までには殆ど送還された。

 終戦後三ヶ月間広島県下における華人労務者の動静は甚だ険悪であつたけれども大事の発生をみるに至らなかつたのは、地勢上の不利を克服し、少数の陣容によつてよく治安の維持に専念した、所轄加計警察署長加藤廂以下全署員の並々ならぬ労苦の賜というべきであろう。

 尚華人労務者の状況については、昭和二十年十一月加計警察署長より警察部長に宛て、次の通り報告している。

 

      中華民国人状況報告

 一、移入ノ状況

  (略)

 二、配置並ニ就労状況

  (略)

 三、警備状況

  (略)

 四、賃金ノ支払方法

  終戦前ハ雇傭契約書ニヨリ訓練期間ハ一ヶ月一人一日ニ付二円(食事付)、訓練期間経過後ハ普通賃金一人一日ニ付五円トシ、毎月二十日締切、華工協会駐在員立会ノ上勘定シ、賃金ノ金額各個人別ニ貯金セシメ、ソノ中カラ一ヶ月五円乃至三十円程度ノ小使ヲ駐在員ヲシテ各自ニ交付シ、本人達ノ要求ニヨリ給与以外ノ物品ハ警備員其ノ他ニ於テ購入斡旋シテソノ購入費ハ勘定カラ差引クコトトシタリ。但シ医薬食糧ハ事業主側負担トス。終戦後ハ、稼働停止後ノ支給金ハ日当ノ六割以上支払方政府ノ指示ニ基キ、西松組ハ十割全額支払ヲ実施セルモ、華人労務者ヨリ、一部ノ者ハ入住以来疾病ニテ休養セシ日及ピ自己ノ勝手ニ休業セシ日ニ対スル全期間ノ日当全額(五円)ノ支払方不当要求有リ。西松組ハ当時ノ状況ヲ考慮シ、止ムヲ得ザルト認メ、コレガ全額支払ヲ為シタリ。

支払金額ハ次ノ通リ。

(一)昭和二十年十一月二十四日聯合国軍バロサ中佐渡シ     

  一金参拾弐萬百五拾七円参銭

   内 貯蓄額参拾壱萬五千五百九拾壱円五拾九銭

   利子 四千七百六十五円四拾四銭                 

(二)昭和二十年十一月十五日聯合国軍陳金仁中尉渡

  死亡者二十五名分貯金

   一金二千百参拾弐円九拾銭

(三)不当要求ニヨル支払

  一金拾六萬八千九百拾円

 五、食糧給与状況

  主要食糧ハ、契約条項ニヨレバ、一人一日七百瓦強ナルモ、当初メリケン粉、雑穀等ニテ約八百瓦ヲ配給セラレ、昭和十九年十月ヨリ一人一ヶ月八瓩ノ特配ヲ受ケテ一ヶ月一人三十瓩ノ配給ヲ実施セリ。終戦後米食ノ要求ヲナセルヲ以テ、昭和二十年九月ヨリ白米一日一人五合ノ割ニテ支給ス。副食物、野菜ノ給与ニツイテハ、一般配給以外ニ一宿舎一名乃至三名ノ買出人夫ヲ附ケ、コレガ買出ニ当ルト共ニ、附近町村民ニ依頼一週一回ノ供出ヲ求メ、之ヲ配給ス。調味料ハ一般配給量ニ労務者用加配並ニ脂肪分ヲ好ム故ヲ以テ牛脂、食用油等特配セリ。

六、終戦後ニ於ケル動向

 終戦後華人ノ態度ハ、日増ニ横暴トナリ、五人、十人卜隊ヲ組ミテハ附近村落ヲ徘徊シ、鶏魚類(飼養中ノ鯉等)、蔬菜類等ノ食糧品ハモトヨリ、鍋釜、又ハ自転車、時計、靴等凡ユル物品ヲ強奪シ(或ル程度ノ代金ヲ置ク場合多シ)、住民ニ対スル暴行事件等モ敢行スルニ至レリ。

 当署トシテハ、県及ビ中央ノ指示ニ基キ、雇傭主西松組ヲ指導シ、華人ノ要求等モ出来ル限リ受入レ、便宜供与ニ努メル一方、華人ニ対シテハ其ノ要求ハ穏健裡ニ申込ヲ為サシメル様指導スルト共ニ、附近住民ニ対シテハ隠忍自重シ、紛争ヲ起サヌ様厳ニ戒告シ、厳重ナル警備実施ヲ続ケタルガ、華人中ニハ煽動的態度ニ出ル者モアリテ、益々ソノ動静険悪卜ナリタルタメ、十月ニ入リ聯合軍側MPノ駐屯ヲ請ヒ、コレト協カシテ警備ニ従事シ、十一月二十六日当地ヲ引揚ゲル迄、大事件ノ発生ナキヲ得タル状態ナリ。

(1)終戦後ノ不法要求ハ左ノ如シ。

 主食ハ穀粉(主トシテ小麦粉)一人一日一瓩ヲ配給シ居リタル処、「我々中華人ノ主食ハ「マントウ」デハナク米デアルカラ米ヲ配給セヨ」卜称シ、一日六合(当時重労働者ノ米配給量ハ三合)ヲ要求シ来り、雇傭主西松組ハ其ノ処置ニ困リ当署ニ善処方申入レタルニ付、代表者ヲ招キ現在ノ食糧事情ヲ説明シ、一人一日五合配給ニ了解ヲ求メタ結果コレニ決定セリ。

(2)酒ノ不法要求

 終戦後安野村字坪野ノ華人ハ

     佐伯郡水内村 相良酒造店

ヨリ強制的ニ酒ヲ一日八升乃至一斗五升位ヲ買ヒ取リ、飲酒スル状態卜ナリ、コレヲ阻止スルニ至ラザル内ニ加計町宇津浪、同町土居ノ華人コレヲ知ルヤ十月十七

     加計町 加計酒造店

 ニ四十名位集団デ押掛ケ、酒ヲ強奪セントスルニ及ビ、当署デハ直チニコレヲ阻止シ、代表者ヲ招キ酒ノ自由販売禁止ノ旨ヲ説明シタルガ、聞キ入レズ、遂ニ税務署等ト協議、全華人ニ一日一合ヲ配給スルコトヲ約シ、事無キヲ得タリ。爾来転住スル迄コノ配給ヲ継続セリ。

(3)其ノ他

 農作物其ノ他ヲ窃取強奪シタル数ハ百六十余件ニ及ベリ。

 

 

p894~905

    第三節 第三国人(主として朝鮮人)の暴虐と警察

 敗戦によつて我が国の領土に変更が加えられることとなつた結果、従来我が国籍を有するものの中にはその移動を生ずるものが出た。朝鮮人、台湾人及び沖縄人等がそれで、これらは何れも終戦後日本人ではなくなつたのであるが、国際法上の外国人に該当しないので第三国人という名称をもつて呼称されるようになつた。これら第三国人は、すべてがそうではなかつたが、終戦を契機として不法越軌行為に出る者が多く、少からず警察を悩ました。これら不法行為敢行の原因は色々考えられるが、第竿三国人の「既に日本人ではないのであるから、日本の主権に服す義務がない」という潜在的意識がヽ警察の取締に対する反撥となつて現れたものであろう。このような現象の最も顕著であつたのは、第三国人中人口の最も多い朝鮮人であつた。以下終戦直後における朝鮮人を中心とした第三国人の不法行為及びこれに対する対策等についてその概況を記述して置く。

 終戦直後、八月十六日、既に朝鮮では京城府内において独立万才の示威運動が起り、漸次全鮮に波汲し、地方によつては、官公の行政機関を無視し臨時人民委員会なるものを結成し、専檀的に警備、運輸、食糧品配給機関等を接収し、或は警察署の接収、武器、弾薬等の引渡しを強要し、これがため駐在所等を占拠され、武器弾薬を強奪されて家族と共に自決する警察官もあるという状態で、全く名状すべがらざる混乱に陥つたのであつた。終戦直後の朝鮮の状況が報ぜられるに及んで、我が国に在留する朝鮮人の動揺は甚しいものがあり、先を争つて帰還を急いだ。このような現象に、朝鮮における日本人に対する暴虐行為によつて在留朝鮮人に報復手段が加えられるとでも思つたのが、全く名状し難いものがあり、全国各地から帰還のため下関地方に集結し、このため鉄道輸送の大混乱を来したのである。戦時中労務対策によつて集団移入計画等によつて内地在留の朝鮮人の数は極度に膨張し、終戦時全国で百九十三万人と推定され、この中集団移入労務者が約二十五万人を占める状況であつた。終戦直後、これらのものの中、特に炭坑労務者が動揺し、早急に帰国を希望して各地で紛議を醸すに至つたので、政府は、朝鮮人の不安動揺の防止対策として、帰還を希望する者を至急に送還することとし、九月二日から関釜連絡船就航と同時に連合国最高司令部の援助により送還を実施し、同時に中央興生会を通じて全国興生会に通牒を発して、朝鮮人に対する生活援護其の他必要な保護を加うべきことを指示したのである。

 終戦直後の広島県下在住朝鮮人は約六万人と推定されるが、終戦と同時に帰還を急いで混乱状態を呈したことは全国的傾向と同様であつた。これら朝鮮人は、或は帰還のための旅費の捻出を目的とするのか、或は途中の食糧確保のためからか、終戦後牛の密殺等によつて暴利を得、又は米麦等食糧の闇売買、集荷等を敢行する傾向が顕著となつた。広島県は、特に瀬戸内海を擁する交通上の要衝に位置する関係から、阪神方面から帰鮮のため一時寄港、又は寄住する者が相当数に上り、これらの者が、或は食糧の配給を強要し、又は野荒しを敢行し、甚しきは民家に立入り食事の強要をし、或は食料物資の闇取引を敢行する等一般県民の不安感を醸成する程であつた。しかも朝鮮人の不法行為は、警察の当初の保護対策に乗じて次第に激化し、昭和二十年十二月には、在日朝鮮人保護指導並びに帰還輸送促進、朝鮮人の犯罪予防検挙等を目途とする在日朝鮮人連盟広島県本部を結成(本部安芸郡船越町花都、本部長李秀淵)し、連盟内に保安隊と称するものを結成して朝鮮人に対する警察類似行為を実施し、警察の行なう取締の妨害を敢行するに至つた。即ち、警察官が主食の闇取締を開始すると直ちに前述の保安隊なるものが現場に出動し、朝鮮人が警察官の取調べを受けると、「朝鮮人を日本警察が取調べる権利はない、朝鮮人の犯罪については朝鮮連盟で実施する。本件は警察部長も了解済である。」と称し、押収米麦の返還を強要し、警察官吏の勢力が弱いとみると、押収米麦、被疑者等を奪還する等の挙に出たのである。このような事件は、昭和二十年十二月頃から翌二十一年四、五月頃にかけて殆ど連日のように発生し、しかも全県下に波及した。その最もたるものが、昭和二十一年二月の朝鮮人連盟上下支部の警察署襲撃(未遂)事件であつた。この事件は、上下警察署が経済事犯一斉取締の結果、被疑者として朝鮮人を拘束したことに端を発し、地元朝鮮連盟甲奴支部がこれを奪還せんとして、庄原、三次、府中方面連盟支部に来援を求め、約百二十名の朝鮮人を集結して、上下警察署を襲撃しようとした事件で、この報に接した警察では、直ちに福山、三次、庄原、府中各警察署より五十名の警察官を応援派遣し、別に忠海町進駐の米軍一ケ小隊の応援を得てこれが鎮圧に当り、二月二十五日に至り不穏行動した朝鮮人百八十名を逮捕、米麦類約二石、日本刀一振、樫棍棒七十本を押収した。

 朝鮮人に対する刑事裁判権については、昭和二十一年二月の連合国最高司令部の「刑事裁判権行使に関する覚書」によつて日本側にあることが明らかにされたのであるが、それまでは警察自体が朝鮮人の犯罪事件についての取扱い方針が確定しておらなかつた。このような警察自体の捜査上の間隙に乗じて朝鮮人による不法行為が頻発し、朝鮮人による警察類似行為が出現する結果となつたともみられる。朝鮮人に対する刑事裁判権を明確にされてからは、警察も朝鮮人による不法行為に対する取締の徹底を期したのであるが、一般的犯罪の大波に乗つた朝鮮人の不法行為は特に顕著なものがあり、容易に終息しなかつた。朝鮮人等第三国人の不法行為の頻発と相俟つて、在留華人の不法行為が頻発し、しかもこのような現象は全国的のもので、各府県共その対策に腐心したのである。

 政府も鮮華人による不法行為頻発の全国的傾向に対処して、昭和二十一年三月、治安確保と併せて鮮華人等の幽霊人口による食糧の不当配給を是正するため、朝鮮人、中華人、琉球人、台湾人、及び沖縄人の登録を実施し、帰還希望者には列車指定による無賃乗車、乗船地の食糧配給等の特典を与える本国送還を実施することとした。勿論、この措置は、連合国最高司令部の指令に基くものであつた。かくて三月の登録に基いて帰還希望したものについては、四月より計画送還が開始され、十二月に至つて打切られた。この計画送還による朝鮮人の送還状況は、全国で総登録人員六十四万七千六名中帰還希望者は五十二万を算したが、実際に帰還した者は僅か八万余に過ぎなかつた。広島県においても、朝鮮人総登録人員二万四千二百九十一名中帰還希望者一万九千七百五十九名を算したにも拘らず、期間中帰還したものは五千八百六十一名に過ぎなかつた。計画送還の進捗不振の原因は種々あつたが、主として朝鮮内における政治上、経済上の不安のため帰国後の生活の見透しがつかないこと、特にこれらの情勢が誇大に朝鮮人間に伝えられたこと、携行できる金銭荷物に制限が設けられたこと等に起因したようである。広島県でも当初帰還希望者が相当多数あつたにも拘らず、各町村関係者の計画送還に対する熱意なく、これに朝鮮人連盟等の妨害的行為もあつて、計画送還の進捗が著しく阻害された。即ち、県下山県郡地方在住の朝鮮人は大部分帰還希望申請を了してその準備を進めていた処、昭和二十一年六月頃、朝鮮人連盟安佐支部役員等が「計画送還は日本政府の陰謀で、朝鮮人の居住権を侵すものである。朝鮮人は日本政府の命令に服する義務はないので、計画送還に応ずる必要はない」というような悪質な妨害言辞をもつて煽動して帰還希望者を翻意せしめた事件が発生し、関係者を憂慮させたが、在海田市英連邦軍憲兵隊でもこの事件を重要視し、該事案を占領目的阻害行為として採り上げ、妨害した連盟関係者を処刑すると共に、同憲兵隊長は県下の朝鮮連盟本部、支部の責任者約五十名に対し出頭を命じ、公安課長、海田市警察署長立会の上で、「(一)日本に居住する朝鮮人は日本の法律に従うこと、(二)従来の情報によれば、警察官の正当な職務執行を又は今回の計画送還を妨害する事実かある。これは真に好ましからぬ事である。(三)将来日本警察にはよく協力し提携してゆかねばならない。(四)若し非協力的な事実があれば進駐軍で厳粛処置する。(五)以上の事を管内の鮮人に承知さすよう指導せよ」との諸事項を厳達し、爾後の計画送還進捗に事なきを得たような一駒もあつた。計画送還は、その事務については、市町村が主体となつてこれを扱つたのであるが、送還警備については警察の担当とされた。計画送還送出港は博多、仙崎の二港が指定され、広島県よりの送還は仙崎港とされたので、送還の度毎に警察官の警備員を附けて仙崎に至るまでの警備に当つたのである。

 治安対策のため相当力を注いだ計画送還も実質的効果を挙げ得ず、又一旦帰国した朝鮮人の中には、国内の政情不安定のため治安は乱れ、物価は高騰し、生活が極めて困難な実情を知つて密入国する者があり、特に昭和二十一年春頃から密入国者が急増する有様となつた。しかもこれらの密入国者の多くは正規の物資配給を受けず、転々と住所を変えて闇行商又は強窃盗等各種不法行為を敢行する外、帰還希望者に対し鮮内事情を誇大に宣伝して政府の送還計画を妨害したのである。このような密入国者等一部不良分子の言動が影響して、在留朝鮮人間に帰還の希望を棄てさせ、これが延いては、闇行為其の他の不法行為によつて生活を維持せんとする風潮に拍車をかける結果となり、在留朝鮮人の不法行為は漸次増加すると共に次第に彼等の生活手段と化していつた。しかも彼等は集団して食糧の買出しを敢行し、このため列車を不法に占拠し、又は無賃乗車を行い、或はこれが取締に当つた警察に対し不当の要求をし、又は其の他不当要求を貫徹するために官公庁等を包囲襲撃し、或は保安隊等の自衛組織をもつて警察類似の越軌行動を公然と敢行する等、全く治外法権的蔑視観念より諸法令を無視抹殺しようとするような傾向か顕著になつた。これが対策としては、登録制による送還の促進、其の他の施策と併行して警察取締を強化し、不穏事件の発生防止に努めたのである。広島県では、このような情勢に対処して、昭和二十一年三月、内務省よりの指示もあつて、鉄道地区内において朝鮮人が集団威力をかつて切符の優先販売、優先乗車、面会の強要を為し、或は不正乗車、客車の不法占拠等の悪質な不法行為を防止鎮圧すると共に経済事犯の取締を厳行するため、鉄道局と協議して鉄道地区内の不法行為取締計画を樹立し、鉄道沿線各警察署を動員して三名乃至五名の特別検索隊を編成し、これを山陽本線、可部線、芸備線、福塩線各列車及び主要駅に出動させて厳重な取締を開始した。鉄道地区内の不法行為取締については、内務省でも、昭和二十二年一月、東海道線、山陽線の直通列車に沿道府県の武装警察官を乗車せしめて列車警乗を実施することとしたが、同年六月に至り各府県で実施中の鉄道地区内の不正行為取締計画は内務省の計画する「列車警乗取締」に統一されることとなり、従つて広島県か実施していた山陽線の列車取締は爾後「列車警乗」として内秘省の直接指示の下に実施され、各支線については県独自の計両によつて進められることとなつた。この列車警乗は、鉄道列車内における交通秩序の維持と鉄道地区内における不法行為発生防遏のため貢献するところが多大で、警察制度改革後も国家地方警察によつて継続実施され、昭和二十六年に至り鉄道公安官に引継いだ。次いで昭和二十一年六月、広鳥県では、県下全警察官を動員して博徒、神農会等暴力行為の虞あるものを加えて朝鮮人団体の一斉取締を実施し、連盟が使用していた軍需物資たる自動車九輛をはじめ多くの賍品、武器等を押收し、これらに関連する犯罪被疑者として八十五名(日本人二十三名、朝鮮人六十二名)を検挙した。この一斉取締は、終戦後広鳥県で行われた朝鮮人に対する取締中最大のもので、その成果も大きく、不法行為を敢行する朝鮮人は勿論、県下の暴力的団体に大打撃を与えたものであつた。このような各種の取締にも拘らず、尚朝鮮人連盟等を背景とする保安隊、又は自治隊と称するものの所謂警察類似行為による不法逮捕、監禁、説諭、訓戒等の越軌行為が跡を絶たず、この情勢を見兼ねてか在吉浦の米軍情報部(CIC)では、昭和二十一年十月、在日朝鮮人連盟広島県本部委員長金剛石等連盟幹部十三名に出頭を命じ。(一)朝鮮人の保安隊、自治隊又は之等警察類似行為を行う団体は直ちに解散せよ。(二)朝鮮人の保安隊、自治隊又は之等警察類似行為を行う団体の標識として腕部や胸部に山形の如きものを附したり又は棍棒を持つて歩いてはいけない。(三)右に違反した者は進駐軍で処罰する。(四)朝鮮人連盟委員長は右事項を県下連盟支部員に通達すぺし」と厳達をした。

 昭和二十一年春頃から激増した密入国者の対策としては、偶々同年六月朝鮮においてコレラか流行し、これが密入国者によつて日本に伝染するに至り連合国最高司令部は六月十二日附をもつて「日本への不法入国抑制に関する覚書」を発して、日本港湾に不法入港せんとする船舶を監視し、これを逮捕するための日本政府の断乎たる処置を要求した。これに基いて内務省では、同月「日本への不法入国抑制に関する暫定的緊急取締要綱」を策定して各府県に指示した。これによると、主たる不正入国地管轄県では武装警官を乗組ませた警備船による海上警備を実施し、又不正入国の最も多い山口、福岡、佐賀、長崎、島根の六県には沿岸警察署一署毎に一舎の割合で密航監視哨を設置して警備補助員を哨員に充てて密航に対する監視を厳重にし、発見した密入国船は、検疫後その乗員、乗客及ぴ荷物共仙崎、佐世保又は舞鶴へ回航させ、当該港所在の米軍官憲に引渡し、密入国者を発見した場合は、直ちに検挙して検疫手統を了し、最寄の前記指定港米国陸軍官憲に引渡すこととなつた。広鳥県でも、昭和二十一年八月には、密入国者の一斉取締を実施して、六十三名を検挙し、警部を長とする警備警察官四十名を附して仙崎港に送出し、該港駐屯進駐軍に引渡した。又、内務省は、不正入国の最も多い北九州並びに日本海に面する中国各県の警備力を増強することとした。広鳥県も、この警備力増強のため、昭和二十一年十一月に巡査定員六十名の増強方を指示され、十二月に水上警察を設置して海上犯罪取締と併せて不正入国者の取締を強化したのである。尚昭和二十二年五月、外国人の入国措置を適切にしその取扱の適正を期する目的をもつて外国人登録令(ポ勅)が施行されたが、一般台湾人及び朝鮮人はこの勅令に関しては外国人としての適用を受け、従つて密入国は爾後この勅令に基く強制送還措置を講ずることとなつた。

 登録制の実施、計画送還、列車警乗、密入国者の強制送還等各般の措置により、言語に絶した朝鮮人の不法行為も漸次暴力的事犯から経済事犯に移行し、やがてそれは生活の手段としての恒久的なものに変つていつた。即ち、朝鮮人による酒の密造が漸次増加し`しかも大規模のものとなつたのは、このような事情によるもので、広島県においても、昭和二十一年夏頃から朝鮮人による酒の密造事犯が特に顕著となつた。

 県警察部では、広島財務局と協議して密造酒並主食事犯一斉取締を計画し、同年十月、県下朝鮮人密集地域可部、海田市、広島、尾道、呉、西条、吉田、三次、庄原の各地域を管轄する警察署、税務署の警察官延五百名、税務官吏百五十名を動員し、これに進駐軍憲兵隊より三十名の応援を得て該地域朝鮮人部落の一斉手入を実施した。この取締の結果は、押敗米麦類十三石、密造酒五十六石、被疑者二百名に及ぶ大成果であつた。警察側の成果が大きかつただけにこの一斉取締の朝鮮人側に及ぼした影響も亦大きかつたようで、この事件直後、県下在住の朝鮮人は、各地において朝鮮人民生活擁護大会なるものを開いて「今回の一斉取締は朝鮮人部落のみを対象としたもので民族的弾圧であつた。総べて検索は令状を必要とするにも拘らず、進駐軍の命令と偽つて令状を所持せずに捜索を行つた。」等を挙げて警察の不当を非難し、警察部、財務局に対しては被疑者の釈放、押収物件の返還を迫り、十一月に入つてからは、連日のように数百名乃至二千名にも及ぶ集団をもつて警察部、財務局にデモをかける等盛に気勢を挙げ、広島軍政部長等の説示によつて漸く鎮静したというような随伴的事件も発生した。

 朝鮮人による不法行為も警察懸命の取締によつて漸次逓減したが、昭和二十二年末頃からは朝鮮の政情の影響を受けて、在留朝鮮人の動向は、従来のような単純な反官的不法行為から、次第に政治的、国際的な動きに変り、治安上別な意味で注意を要する問題となつた。即ち、所謂三十八度線によつて南、北に区分された朝鮮国内の情勢がその儘日本在留朝鮮人の心裡と思想に影響し、在留鮮人は南、北の両系統に分れて対立抗争を続け、日本国内の諸問題についても各々の立場によつて両様の行動をとるようになり、屡々治安上の問題を惹起するようになつた。これらの問題については次編第三章第二節で詳述する。

 尚、朝鮮人と共に終戦後特に不法行為が顕著であつたのは、華人就中台湾人であつた。ここで華人(台湾人)の不法行為と警察歌締の状況に触れて置こう。

 終戦直後の広島県下在留の華人は僅か二十数名に過ぎず、その大半は台湾人で、主として尾道地方を中心に商業を営んで居た。米軍が広島県下に進駐している間は、米軍の圧力を慮つたのか、格別の動きをみせず平静を持して居たが、米軍か英連邦軍に交替するや、俄然その動きが活発となつた。即ち、昭和二十一年一月下旬には、尾道市在住の華人中国華僑連合会尾道支部(本部は神戸方面に置かれていた)を結成し、京、阪、神各地より華人を転入させ、尾道駅建物疎開跡広場に飲食店を濫設し、鮮人、内地人を使用し、或はこれらと共同出資して旅行者対手に飲食物の高価販売を行う所謂闇市を開設した。当時の物資逼迫の影響を受けて、この闇市は殷賑を極め、忽ち六十名程度に膨張した。これら華人は、当初大阪本部の指令と称し、華僑の福利厚生並びに自主的指導取締を標榜し、警察に協力的態度を示したが、次第にその勢力が増大するにつれ暴力的不法行為を敢行するようになつた。即ち、彼等は戦勝国人として自負し、「戦敗国たる日本の法令に従う要はなく、日本の刑事裁判権は華僑には及ばない。吾々の行動は自由なり」と揚言して各地の華僑と連絡行勤し、一方会員の生活を維持する為と称し米穀等食糧の闇買付を為し、或は軍転用物資を盗取してこれを彼等が経営する闇市で販売し、警察の取締に遇うや、集団でこれを妨害し、或は犯人奪還を企て、多衆の威力と兇器を示して警察官を威迫し、治安を擾乱すること甚しいものがあつた。これら事例を掲げると、二月十八日には尾道在住の華人数名が庄原警察署に押掛け、拳銃を擬して警察官を脅迫し、同署が食糧管理法違反として逮捕していた華人の釈放を要求してこれを逃走せしめ、二月十九日には尾道駅前闇市場取締中の警察官に対し傷害を与へ、又同日、豊田郡大乗村に保管中の元軍需物資生ゴムを盗取せんとして数十名の集団をもつて船舶を利用して海上よりこれを襲つたが、敢行寸前これを探知した竹原警察署員によつて阻止されるや、拳銃を乱射して逃走し、このとき一部華人が逮捕されたが、其の後、この逮捕者の釈放を要求して警察に強談、威迫を加える等暴行の限りを尽したのであつた。

 台湾人に対する刑事裁判権については、朝鮮人と同様終戦直後明確を欠くものがあり、一時警察側でもこの取扱に躊躇したことは否めない事実で、この事が彼等に乗ずる好機を与えた感があつた。昭和二十一年三月、広島駐屯の第七十六軍政部から警察部長宛「朝鮮人及び其の他前日本領諸国民の日本裁判管轄権に関する件」という通牒が発せられ、「日本国刑事裁判所は占領軍に対する犯罪以外は日本国法規に基き朝鮮人及び台湾人を審理する管轄権を有す」として連合国最高司令部の政策を敷衍したのも、前述したような警察側の態度を是正さすためのものであつたといえよう。

 このように台湾人に対する刑事裁判権の問題も明確となつたので、相次ぐ不法行為を抜本的に摘発するため警察部では、県下華人犯罪の策源地としての尾道駅前華人経営の闇市場に対する徹底的取締を計画して、三月五日、尾道警察署及び近接警察署の警察官七十余名を動員し、防犯課長総指揮の下に一斉検索を実施した。この取締の結果、日本刀、匕首、拳銃等多くの兇器及び主食二石余を押収した外、これに関連する被疑者及び既往不法行為関係の被疑者二十五名を検挙した。この取締によつて主要人物が悉く拘束されて勢を失つたためか、又警察の断乎たる処置が効を奏してか、県下在住の華人は、其の後、注目すべき不法行為もなく、漸次穏健となつた。