時局下の朝鮮

発行年:1938年

発行元:京城日報社

国立国会図書館所蔵

京城日報社は日本統治下の朝鮮で朝鮮総督府の機関紙として「京城日報」を発行するほか、総督府の施政や方針に基づく広報、周知や啓蒙のための出版物を刊行していた。本書もその一つであり、日中戦争が始まり、国家総動員法が制定され国家の総力を戦時経済に振り向けるようになった昭和13(1938)年の時点において、朝鮮の経済的な発展とその価値の重要さ、帝国臣民としての朝鮮人の変化を、内地の日本人に対して訴え強調するものとなっている。

※(そのため、経済上の統計数字以外の記述については、ある程度割り引いて受け取る必要があることに注意)

著作者:
京城日報社
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時局下の朝鮮

                 京城日報社編

      一 遠征将士の感懐

          第二の祖国を発見して

 内地の人々は事変の初め、朝鮮を通過して北支に出征した兵士から朝鮮に於ける内鮮同胞の爆発的な歓送迎、愛国の至情を報告されたであらう。軍隊輸送の頻繁に行はれた数ヶ月間、全朝鮮は文字通りの大陸兵站基地となつて、来る日も〳〵、朝も夜中も万歳と旗の波で出征将士を送つたのであつた。その純情と感激は内地の如何なる地方にも劣るものではなかつた。恐らく兵士達は、懐かしい郷土を踏出す時と同様の感激に戦慄した事であらう。

 御用船の甲板に立つ勇士達は、関門の山々が暮れ行く煙霧の中に遠ざかる時、これが祖国との永別だと武者振ひする。玄海灘の濤声は、祖国との別れの曲と聞こえ、口には出さずともすべての勇士は悲壮な決意を固めるのである。所が、一夜明けて朝鮮に上陸した兵士達は、実に思ひもかけぬ第二の祖国をこゝに発見して驚き、呆れ、そして感激させられる。先づ埠頭は日の丸の旗、万歳の嵐、町と言ふ町、家と言ふ家には国旗が飜り、大人も子供も、男も女も、赤誠を傾けて勇士を犒らひ、恰もこの町、この村からの出征を送るやうに熟狂してゐる。北行する沿道も亦山村水廓、至る所赤心の氾濫である。野末の一軒家で日の丸を打振る老媼、田圃に鋤鍬を捧げて万歳を叫ぶ白衣の同胞、駅と言ふ駅には小国民の大群集が怒濤のやうな歓呼を送り、勇士等は睡む暇さへない。

 この熱狂、この歓送は勿論在留内地人だけの事ではない。二千万の朝鮮同胞が、内地人同様或はそれ以上に赤心を動員してゐるのである。宿営地では、宿舎を命ぜられなかつた朝鮮同胞から真瓜や野菜などを担ぎ込む者が引きも切らぬ。軍用列車の停車場では、国防婦人会の襷も甲斐々々しい白衣の婦人達が内地人に立交つて茶の接待をする。頭を洗つてやる。冷水に絞つたタオルで兵士達の汗ぱんだ身体を拭いてやる。中には二三十分の時間を利用してシヤツの洗濯をする者もある。恐らくこれ程の誠意を罩め、且つ行届いた奉仕は内地の如何なる地方にも滅多には見られぬであらう。

 玄海灘の南に消えた山を最後の一顧と瞼に焼付けた出征将士は、思ひもかけず海を越えたこゝにも懐かしい祖国と、同胞を発見して新たな感激に打たれ、感激は勇気となり張り切つた士気はさらに勃然として昂つて来る。在留内地人の歓待、固より懐かしいものに相違ないが、勇士の心を最も強く打つものは朝鮮同胞の赤誠である。内地人に少しも変らず、都会も田舎も、老いも若きも、男も女も、朝鮮を挙げて銃後の奉仕に起上つてゐるのであるから、その感激は筆紙に尽し難い。遠征の将士は軍用列車の窓から完全に内地化した朝鮮を眺め、内鮮一体の結実を銃後の赤誠として味はひつゝ北支へ出征して行つた。

 

       二 起上つた半島同胞

            懸命な銃後の奉仕

 内地からの出動将兵を歓送する愛国風景は、事変下に於ける半島軍国風景の、ホンの一断面に過ぎない。半島には今、事変を発足点として愛国の嵐が渦巻き、完全な内鮮一体を理想とする趙国愛が火の柱となつて燃上つて居るのだ。上は中枢院の参議や貴族富豪から、下は貧農、日傭人夫に至るまで銃後の勤めをその義務とし、兵士を送り、恤兵に応じ、ありとあらゆる軍国の国民的負担に進んで協力して居る。軍用列車に示す赤誠は、この全朝鮮に漲る愛国の怒濤が打寄せたものである。

 朝鮮在住の内地人中からも続々として応召される勇士がある。勇士を出した町や村では、内鮮人一体となつてこれを送り出す光景、内地と少しも変りはない。幟の林立て、中にはバンドまで雇入れて行を壮んにしてゐる。京城市中でも場末に住んでゐると町内は半島人が多い。況んや田舎に行くと、内地人は出征者自身の一家だけと言ふ村もある。さうした村や町の出征軍人は必ず、内地人の多い町内よりも盛んで且つ熱誠を罩めた歓送を受ける。長髯白衣の隣人が幟を担ぎ、白衣の国防帰人会員がこれに続いて勇士を営門に送り込む風景は昭和十二年に始めて現はれた躍進日本の新らしい象徴である。それは真実に村中総出、町内総出で見送るのてある。京城日報社はそれらの見送人のため、事変以米『天に代りて』の軍歌を何百万枚刷つたか知れない。刷つても刷つても足りない。用紙不足の際、社の会計係は渋面を作るが、嬉しい渋面である。会計係の渋面に比例して半島同胞の内地化は徹底して行く。

 皇軍慰問や、国防への献金は満洲事変以来漸増の傾向にあつたが、今回の事変でこれも爆発的に激増した。富豪の中には一人で飛行機や高射砲を献納する者もあるが、昨年七月から本年六月迄の一ヶ年この総額は四百万円を突破し、京城日報の取扱つたものゝみでも十三万円以上となつた。これらの外に、軍車後援聯盟とかその他間接的な銃後奉仕の献金や費用を合算すると、恐らく昨一年問の累計は六百万円を下るまいと推参される。

 勿論何の強制を加へられたものでなく、自然に集積された愛国の結晶である。女や子供が一日の労力を金に代へた献金もあれば、全村一日の奉仕による馬糧の献納もある。献金の額、固より驚くに足るが、それよりも献金に現はれた朝鮮同胞の愛国心、祖国愛への覚醒こそは更に驚嘆すべきものと言はねばならぬ。多数の鮮人中には密かに不軌を思ふ者必ずしもないとは言へなかつた。それが今は進んで津々浦々から暴支膺懲への献金が集まるのである。こゝに半島人心の歴史的転換が発見される。

 卒直に言つて上流朝鮮人の中には日本の統治に満足しない者があつた。貴族、富豪、識者と言はれる者に不逞思想を抱く者がないとは言へなかつた。それらがこの事変と共に一挙に転向し、心から日本の統治を翼賛し、進んで協力するやうにさへなつたのである。それらの人々は全半島を巡回講演して時局の認識、世界の大勢、内鮮一体の理想を説き啓蒙と結東に努力してゐる。有名な往年独立運動の首領尹致 氏の如き、生涯日本語を使はずと誓つた程の人であるが、今は真つ先に立つて民衆を指導し、朝鮮神宮の広前で行はれる各種の軍国行事には、いつも司会者として挨拶を述べる程である。儒者も僧侶も、近頃は基督教徒でさへもが国家中心主義を説いて銃後運動に協力し、神社参拝問題の如き、さしもの永年の癌も跡方もなく解決して終つた。

 上流婦人は昨今でも他人の男性に見える事を厭ふと言ふ程の保守状態で、大多数の婦人は依然たる内房生活を墨守してゐるが、時局の波はこの内房に迄押寄せて、上流婦人の国民的覚醒を促がし、遂にこれを街頭にまで引出した。何か銃後の勤務めを果さねばならない程に社会が湧立つて来たのである。金允用男、韓相龍、朴栄喆三氏の夫人が首唱者となつて上流婦人の大会を開き、愛国運動於に乗出す事を申合せたが、会長に推された尹徳栄子爵の老夫人は、『先づ本日の出席者全部、身につけた貴金属を献納しやうではありませんか』と発議し、自ら真つ先に金の簪を抜いて卓上にさし置いた。列席の人達もみなこれはならつて或は金簪を抜き、指輪を外して差出したので忽ち卓上黄金の山を築いた。この会はこの故に金釵会と名づけられ、李王家の御下賜金まで拝して自来活発に行動してゐる。

       三 泣かされる赤心

            ある兵士と少年の話

 時局認識と銃後の奉仕は、かやうに完璧に近い程に行届いてゐる。内地以上とは言へぬかも知れないが、内地同様の緊張と赤誠は全半島に漲つてゐると断言出来る。

 実情を見ぬ人々、特に嘗つての朝鮮を知る人々は、この愛国熱や銃後奉仕を、官庁の作為や奨励、或は一部階級の官権迎合などと見るかも知れない。官憲を虎の如く恐れ、官に対しては毫厘でも隠匿して納付しまいと習性づけられた半島人が、進んで何万、何百万と言ふ献金をするなどと言ふ事は、事実信ぜられない程の激変である。併し、この激変が頗る自然に、何人もそれと心附かぬ中に行はれた所に、半島人心の一大変化がある。太陽に恵まれた草木のやうに、日本の統治に抱かれた半島人の祖国愛は自然に成長して来たのである。そして支那事変の秋に遭遇して、それが自然なる愛国の穣りとなつて現はれたのが半島今日の実際である。

 如何に半島人の銃後奉仕が真情に満ちたものであるか。至る所に誠意の結晶を見出す事が出来る。

 失業してある裏町に住んでゐた一人の在郷勇士に召集令状が下つた。勿論、本人は勇躍して応召する事になつたが、後に残る妻子四人の上を思ふと勇士の心は断腸の思である。晴れの門出に一人の激励してくれる者もなければ、幟一本もなく、妻子と別れの盃に注ぐ酒の一滴もない。どこで聞いたか、これを知つた八軒長屋の同胞一同は長屋の勇士を心配さすなと、めい〳〵財布の底を叩いて酒や肴を買込み送別の宴を張り、幟を買ふ金はないので有合せの布切れや蓆に祝出征の文字を書き一同兵営まで見送つた。残る妻子は今も温かい長屋一同の心尽しで無事に生活してゐる。

 またある勇士が応召の仕皮をして居る所へ来合せた家主の半島人は、印座に留守中の家賃全免を申出た。この話が新聞で報道されると、あちらでもこちらでも応召勇士の家賃を免除する者が現はれ、今は一つの流行のやうになつて終つた。

 南鮮地方では女達が、繭検査場の入口で一掴みづつの繭を献納する運動が起り、これを村々で真綿に紡ぎ、各地の女学校に依頼して何万枚かのチヨツキに仕立て上げて出征勇士へ送つてゐる。受取つた勇士はチヨツキの暖か味よりもより以上、半島婦人の心の温か味を感じて居るに相違ない。

 こう言ふ話がある。現金に乏しい農村では、献金の代りに労力や物の献納が連りに行はれて居るが、最も多いのは馬糧である。部落総出で一日を馬糧献納日と定め、老若挙つて草刈りをやる。所が刈つた草を乾して居る中に、時には雨となる事もある。さうした時、この農村の同胞達は乾草を温突に拡げて火で乾かすのである。勿論、家族一同は草と入れ代りに土間に下りて寝起する。これ程の真心、前線への誠意の籠つた献納が教へて出来る事であらうか。言付けたり、奨励したりして出来る事では到底ない。 

 兵士達がこの同胞の温かいい心づくしを如何に感激して受けて居るか。それは前線から慰問袋に答へる手紙、軍司令部や総督府、京城日報などに寄せて来る謝状などにはきつと現れてゐるが、その一つにこう言ふ話がある。沿道の駅毎に受ける熱誠溢れる歓送に感激した一兵士が、ある駅頭で熱心に水を運んだり、タオルを絞つてくれたりして居る少年に小さな紙包を手渡して発つて行つた。開けて見ると五円紙幣と鉛筆の走り書き『諸君の真心には心の底から感謝する。諮君が立派な日本人となつてゐる事を見てこんな嬉しい事はない。出征する僕は戦死を覚悟してゐるから金の必要はない。少ないがこれで鉛筆でも買つてしつかり勉強の上強い日本国民となつて呉れ給へ』と書いてあつた。読んだ小国民はこれを先生に報告すると共に金はそのまゝ国防献金に差出した。兵士の心、少年の心、一分の隙もなく、一毫の作為もなく、完全な内鮮一体、挙国一致の活きた模範ではあるまいか。

 朝鮮が日本になり切りて居るとはまだ言へまい。けれども内鮮一体の理想だけは真に徹底し、少なくも精神的結束大勢だけは出来上つて来たと言へる。

 

       四 皇道統治の勝利

            物心両面の半島日本化

 二つの大きな民族が、一つの国家としてこれ程精神的に融合した事実は、歴史のどこを探しても発見出来ない。史家や人類学者の研究に従へば、内鮮両族は元来同根同祖で、同一民族と言ふ事である。併し、二千年以上も国を異にし、環境を異にし、全く異なつた歴史を作つて来たのみならず、時には利害相反し、相争つた事も少なくはない。殊に近世に於ける両民族の関係は、決して円満であつたとは言へなかつた。この両民族が喜悲の脈を共にし、前述のやうな精神的結合を遂げ得たと言ふ事は、人類歴史の新記録であり、現代の奇蹟と言ふても言ひ遇きではあるまい。文明を誇り、人道を高唱する欧米諸国のどこに、内鮮両族のやうな関係が見られやうか。

 この半鳥の愛国運動を喚起し、精神的一体化を齎らした原因は何か。それは武力による強圧でもなければ、植民政策の技術的成功でも勿論ない。武力圧迫や植民政策は欧米人の方が遥かに日本人よりも巧妙、老練である。日本の成功した唯一の原因は、統治の根本方針たる皇道精神に外ならぬ。皇道精神は世界の人類に対して絶対無私無差別、一視同仁である。新たに日本国民となつた半島の同胞は、併合の第一日から内地の同胞と同一に取扱はれる事となつた。勿論、教育を異にし、風俗習慣を異にし、言語を異にし、歴史を異にする朝鮮民族に、直ちに全面的に内地人同様の待遇を与ふる事は事実上不可能である。差別を附し、取扱を異にする点のある事は事実問題として已むを得ない。併し、それは原則でなく過渡期に於ける特例である事を忘れてはならぬ。朝鮮統治の理想は、一日も早く朝鮮同胞を更生向上せしめ、これを内地人と同一水準にまで引上げ、一切の差別を撤廃するにある。一切の努力と施政はこの理想に向つて費され、寸毫の虚偽もない。欧米の植民地統治は、民衆を犠牲として母国の繁栄を維持するにある。開発も施政も母国の繁栄と富強のためであつて、植民地は単にその搾取の源泉たるに止まつてゐる。

 日本の朝鮮統治は然らず、朝鮮を向上せしめ内鮮一体化することによつて繁栄と富強、而して平和を求め文明の発展に貢献しやうとするのである。この根本方針は併合の第一日から、一分の動揺もなく一日の緩みもなく、又一点の偽瞞もなく実施されて来た。この赫灼たる皇道精神が太陽の光被するやうに、全半島の民衆を遍照し、これを奮起せしめ、覚醒せしめ、今日見る如き内鮮の精神的一致となり銃後愛国の大旋風となつたものである。外国人から見れば、或は今日の朝鮮民衆の態度は不可思議かも知れない。これは皇道を解し、日本精神を解し、日本統治の実際を研究せぬ以上理解されぬが当然である。

 

       五 魂の籠つた政治

            朝鮮施政二三の例

 朝鮮の開発、朝鮮人の更生に対して、日本の統治が如何なる犠牲を払つて来たか。幾十億の財を注ぎこみ、幾千の生命を捧げ、日本の有するあらゆる力を悉くこゝに費して来て居る。其の親心、朝鮮を起上らせる真心でなくてかゝる統治が行へるものではない。朝鮮を更生させつゝある真の力は、日本の経済力や文化の力ではなく、これを用ゆる皇道精神にある。太陽の万物に対する無私の愛、親の子に対する純愛と至誠こそが朝鮮を起上らせてゐるのである。

 日本の統治は真つ先に治安を確保した。暗黒と不安の半島は、日本内地同様世界無比の安寧平和郷となつた。官匪と言はれ、虎よりも恐れられてゐた貪官汚吏は一掃され、最高の文化政治、公正明朗な近代的施政はこれに代つた。鉄道や道路は縦横に新設され、農工商を始め各種の産業は続々改良されて国民経済力は見る〳〵中に発展して行つた。生活の充実、安定が齎される一方、文化の進歩によりその向上は正に飛躍的であつた。治水や衛生設備は無に等しい状熊から、第一流の文明国に匹敵するやうにさへなつた。かつては一度の出水に数千の人命を奪ひ、一夏の伝染病に幾万の犠牲を出してゐたこの国が、今は伝染病を珍らしがるやうになり、百人の溺死者でもあれば号外が出る有様となつた。

 併合当時千三百万であつた人口は、今は二千百万となつた。二十八年間に六割の激増である。戸口調査の正確となつたゝめ、統計上で増えたものもあるには相違ないがそれを差引いても三割以上の自然増加は認められやう。これは一面に疫病や天災による死亡の減少と、半面に経済力の充実による自然増加があるためで、欧米の植民地人口の漸減状態と対比すれば、施政の相違正に顕然たりと言ふべきである。

 交通の発達、水利の改良、森林の造成、工場の建設、学校の増設等は誰れが目にも明らかに朝鮮の向上を明らかにし、日本の努力を物語つてゐる。併し、それだけなら日本を俟たずとも、他の国々にもある。真に尊とい、日本統治の特傲はそれらの裏に籠められた精神にある。一本の道路、一筋の堤防にも魂が籠つてゐる。朝鮮農家を更生せしめた米作だけについて考へて見てもどれ程の努力が払はれたか。今日の種子を作り上げるだけに日本内地全部の種子を十数年に互つて試験し、改良してこれを一戸々々に強制するやうにして普及せしめたものである。この努力の結果は年産八億の米となり、内地移出四億と言ふ盛況を生むに至つた。

 旅行者は禿山と聞いてゐた朝鮮の山々が、案外緑化されて居るのに驚くであらう。これは第一には峻烈な森林原野保護条令――下枝一本を切つても厳罰する――の御蔭である。砂防工事、植樹などの大規模な施設による事勿論であるが、寺内総督以来毎年神武天皇祭を期して行はれる植樹祭の精神的効果を見落してはならない。この日全鮮では総督以下官民総出で木を植える。貴族富豪も内房に垂れこめてゐる家族一同を引連れて参加し、内鮮家族連れの野外大懇親会が朝鮮中に開かれ、年毎に青み渡つて行く野と山を秦しむのである。植える木の数は五千万本か一億本に過ぎないが、半島同胞の胸の荒地に植付ける心の苗木は無限の力となりつゝある。

 東拓や金融組合を通ずる農村更生の指導などは、内地のそれ以上、至れり尽くせりの親心を示してゐる。教育が朝鮮更生の基礎となる事は言ふまでもないが、半島の教育は単なる教室教育、机上教育のみではない。教育と経済、文字と生活を直接結び付け児童の成長が直ちに我が家、我が村の更生、充実となるやうに工夫されてゐる。一つの例を上げると、一年生に入学すると同時に教師は児童に、自宅で生れた卯を全部持參する事を命ずる。鶏を飼はぬ子供には繩や乾草などの作業をさせる。集まつた卵や乾草は学校の手でそれ〴〵金に代へ、二年生になる時はそれが一円か二円の貯金となつてゐる。第二年目にはこの金でよく卵を生む鶏鶴を買つて与へ、その又卵を学校で貯金にしてやる。第三年目か第四年目には四五円の貯金となつてこれが豚の児に代る。そして卒業する時には、卒業免状と共に仔牛の一頭位を連れて帰るのである。ある地方では養蠶を教へ、ある地方では羊を飼はせ、ホームスパンを織らせる。村に文字が普及すると同時に牛が増へ、豚が増へ、貯蓄も出来る。

 この苦心とこの用意、これがあらゆる統治の部門尽くに行はれ、真剣な更生を促がしてゐるのが朝鮮施設の実情である。官吏と言へば匪賊以上に恐れ、政治と言へば不正私曲と思ひ込んでゐた朝鮮民衆は、この皇道政治に接し始めてその本然の力に目覚めた。二千年の悪政に歪曲し尽されたその精神も漸やく純情を取戻した。昔は資産を作る事は官吏と匪賊の害を招く原因であつたが、今は働く事の楽しめる時代となつた。かくて山野の緑化と共に人心も亦緑化し、日本精神は十三道の隅々に迄行渡つて来たのである。

 

      六 朝鮮更生の足跡

            この経済的躍進を見よ

 総督府前財務局長現殖銀頭取林繁蔵氏が、次のやうな回顧談をした事がある。

 昔、二十五年前僕が始めて総督府に職を奉じた時、先輩目賀田男は、朝鮮統治の目標は朝鮮人の経済生活をゼロにするにある。我々の力で今後の五十年間に之を達成し得れぱ大成功だと言はれた。実に奇怪な事であるがよく聞いて見ると、朝鮮人の生活なるものは永遠の赤字生活、マイナスの経済であつた。そこで当時の先輩は政治の改良と産業の発達によつてこのマイナス生活を引上げ、プラス、マイナス、ゼロにまで持つて行く事を目標とされて居つたのである。昨今はゼロ所か、生活の内容は格段の向上を遂げながら既にプラスの生活にさへなりつゝある事は、当年ゼロであつた貯蓄が十五億近くなつて居る事でも明瞭だ。

 林氏の言ふ通り半島の経済生活は既にプラスとなつて来た。四百万戸全部が黒字生活でない事は言ふまでもないが、その少なからぬ分が黒字となつてゐる事は明らかである。併合当時の明治四十三年に於ける貯蓄は総額二千二百八十万円に過ぎなかつた。勿論この大部分は内地人のものである。それが最近の統計によれば銀行預金四億一千五百万円、郵便貯金五千八百万円、金融組合貯蓄一億六千二百万円、簡易保険二億円、生命保険四億五千万円、信託預金五千六百万円、無尽契約一億三千七百万円、合計十四億七千八百万円に達してゐる。内鮮人の内訳は不明であるが、少なくともこの半額以上が朝鮮側のものである事は確実と言へる。朝鮮の更生を数字に現はした証明書である。

 この富を蓄積せしめた半島の産業は、併合以来如何に発達して来たか。これこそは日本の統治能力を世界に明示する具体的証拠である。まづ生産総額に就いて之を見る。

 

昭和十一年

明治四十三年

 

 

昭和十一年

明治四十三年

農産

十二億円

三億三千万円

 

工産

七億三千万円

千九百万円

鉱産

一億一千万円

六百万円

 

水産

一億六千万円

九百万円

林産

一億二千万円

二百万円

 

二十三億円

三億六千万円

 実に六倍半の激増である。

 貿易額より見た朝鮮経済の発展は次の通りである。

 

昭和十二年

明治四十三年

 

 

昭和十二年

明治四十三年

輸移出

六億八千万円

二千万円

 

十五億四千万円

六千万円

輸移入

八億六千万円

四千万円

 

 

 

 

 当年二千万円に満たなかつた輸移出は実に三十四倍の六億八千万に達し、総額に於いて六千万円の貿易は二十五倍余の十五億を突破するに至つてゐる。経済的実力の向上充実知るべしである。

 

      七 米と鉄と金を中心に

           産業界空前の躍進譜

 各種生産の内外について検討すればその飛躍はさらに顕著となる。朝鮮産業の大宗とも言ふべき農産についてこれを見れば米は昭和十三年度に於いて二千六百余万石と言ふ開闢以来の大豊作で、内千百余万石は内地に移出されて居るから、約四億円現金は内地から朝鮮農家へ支払はれる事となつた。同年麦の実収は大麦九百八十万石、小麦二百万石、裸麦二百八十万石、合計千四百余万石でその金額一億三四千万円に上つてゐる。棉花は二億斤三千五百万円、蠶繭は千三百万瓩千八十万円、同加工品三千七百万円、雑穀八千万円、畜産五千万円と言ふ盛況で、この殆んど全額が三百万戸の朝鮮農家の収入となるのである。

 奥地に於ける林産は人絹パルプ工業を促がし、既に一億以上の収入となつてゐる。沿岸特に北鮮に於ける水産は、頻々たるソビエツトとの紛争で有名な如く、近年の朝鮮景気の一要素となりてゐる。総額一億六七千万円の水揚をなし鰯漁業のみでも六七千万を下らない。而もこの魚油によつて北鮮に化学工業を誘致し、鴨緑江の水力電気と結び付いて国防第一線を守る火薬を製造しつゝあると言ふに至つては、新興朝鮮の帝国に占むる地位の重大さが知れるであらう。

 朝鮮最近の繁栄を説く者は必ず、鉱産と新興工業の発展に先づ指を屈する。朝鮮景気は山成金による鉱山景気と思はれる程に鉱山開発は活溌である。

 時局の反映もあるが最近の鉱山熱は全く物凄い。昭和八年の鉱業出願五千二百十件、同十年には、一万百五十三件に上り逐年激増の一途を辿り十一年末の許可鉱区六千五百十三鉱区、その鉱産額は八年の四千八百万円に対し十一年一億一千万円、十二年は概算一億五千万円に上つてゐる。種類は鉄、石炭、タングステン、モリブデン等の軍需工業必需品を始め、各種の鉱物に及んでゐるが、中にも金は半島鉱産の王者であり、又非常時日本が朝鮮に俟つ最大の要求である。

 金産の概要は

 

数量

価額

 

 

数量

価額

昭和八年

一一、五〇七(瓩)

二九、三九三(千円)

 

昭和十年

一四、七〇九(瓩)

五一、九六一(千円)

同 九年

一二、四二七

三八、五三七

 

同十一年

―  

六八、七二七

となつてゐるが十二年の概算は八千万円に上り、更らに本年度からは政府の大産金計画に応じ大躍進を遂げる事となつた。即ち、政府は十三年から五ヶ年計画で百三十五噸の年産に達せしめんと産金奨励に努め、国策産金会社を設立したが、百Ξ十五噸の中朝鮮はその約六割以上七十五噸を引受け、昭和十七年には二億八千五百万円を産出しやうとしてゐる。これがため総督府は道路、配電網その他仙の積極施設や、採鉱、試掘の奨励、新規採掘、拡張の補助に乗出し全半島にゴールド・ラッシュ時代を現出してゐる。

 鉄は平安南道及咸鏡北道に産し、就中咸北茂山の鉄鉱は非常時日本に取つて救ひの神となり、三菱の手により大々的採掘と附近の海港清津へ一大製鉄所の設立準備中である。

 石炭も北部諸道に産し、咸北阿吾地の石炭は人造石油原料として野口系の手により液化されつゝある。

 併合当時の朝鮮には勿論、工業らしいものは皆無であつた。それが今日は工産総額七億二千八百万円に上り農産物に次ぐ朝鮮の重要産業となりつゝある。現在半島工業の主なるものを挙げれば地下資源と結ぶ精錬、セメントを始め紡績、人絹、製紙、林産加工、ビール、無水アルコール、砂糖等から鉄工業、造船、電力、化学工業、石炭液化、火薬、自動車、飛行機等の重工業に及び特に京城、平壌、新義州附近及び咸南北清津、咸興一帯の工業発展は目を驚かすに足るものがある。有名なる野口系の長津江及赴戦江発電所は、鴨緑江の水流を堰止め、之を日本海に落し、その落差数千尺を利用して四十万キロの電力を起して居るもので、目下工事中の鴨緑江本流ダムエ事が完成すれば一挙百万キロの電力を得る言ふから、その規模の雄大知るべしである。

 満洲は政府が躍起となつても、内地資本は依然躊躇してゐる。朝鮮は招かずとも洪水のやうに内地資本が流入し、至る所に工場を建設してゐる。経済的に見れば種々の原因もあらうが、要するに朝鮮が完仝な日本帝国の一部となり、資本の最も安全且つ有利な土地であるがために外ならぬ。

 

      八 空前の黄金景気時代

          かくて国民的自覚起る

 これを要するに朝鮮経済界の現状は、内地資本の流入による大産業の勃興と、総督府の保護指導による農村の復興とが相俟ち相依つて、都市農村一斉に空前の景気に恵まれ繁栄を来してゐると言へる。米の豊作とその価格騰貴は農村の収入を往年の数倍十数倍とした。工業の勃興は労働者及農村子弟に賃金収入を与へ、彼等の生活を赤字から救出し、若干のプラス、貯蓄をさへ招来した。昭和十三年の土木建築工費は概算二億三千万円と算せられ、その中七千万円は賃銀として支払はれると言ふのである。半島は今や鋒余りの土建インフレのため、労力不足を来し、満洲苦力の移入をさへ考慮し始めてゐる。

 酒、煙草を始め大衆向商品の売行は加速度をもつて激増し、内地商品は茲に一大消費地を見出した。左記五種商品につき内地に於ける代表的大会社の売上総高に対する朝鮮の割合を見ると次の如くである。

     

一、菓子 

二十五パーセント

 

四、自動車及附属品

二十六パーセント

二、化粧品

二十三パーセント

 

五、書籍

二十パーセント

三、薬品

二十八パーセント

 

 

 

 実に総売上高の四分の一乃至五分の一は朝鮮が占めてゐるのである。某社の自転車の如きは大阪、名古屋、福岡三支店の売上合計よりも京城支店のそれが多いと言はれる程である。

 往年の朝鮮には十万円以上の資産家など寥々数へる程しかなかつたものであるが、今日は百万長者位なら京城市中にでも幾十人もあり、千万長者さへ既に出来て来た。一切の生活内容が向上一新されつゝある事は言ふまでもない。

 貯蓄は零から十五億になつたが最近の国民貯蓄運動には京畿道一道のみで二億円の純貯蓄を目標とし、愛国公債などは売出し毎に即日売切れの好況を示し文字通り朝鮮は空前の黄金景気の波に乗つてゐる。

 この経済的向上、生活の充実があつて初めて日本統治の意義が明白となつたのである。平和と、秋序と、幸福と、繁栄とは日本の統治に帰して以来始めて朝鮮民族の上に訪れた。二千年来偽瞞と虐政に慣らされて来た二千万の民衆に、偽瞞なく私曲なく只民衆の幸福を図る日本統治の真面目が漸やく諒解されて来た。

 一面知識の進歩による世界的認識の向上があり、日本国民たる事の光栄と幸福は満洲事変、支那事変により切実に痛感されて来た。この間当局の指導もすべて時宜に適し、かくて国恩報謝の感情湧然と全道に起り、愛国運動となり、内鮮一体の美事なる結実となつたのである。

 

      九 南統治の指導精神

            教育令改正の目指すもの

 この朝鮮の現状に対して、現当局は如何なる統治を行つてゐるか。

 南総督の施政は、経済的には農工併進主義を取り、精神的には内鮮一体を信条とし一切の政治尽くこれに発してゐると言へる。宇垣大将の朝鮮統治は、経済的には農村振興を眼目とし、農民の充実向上に専ら力を注いだ。同時に精神的には自力更生心田開発のスローガンが示す如く、先づ自立自強の途を開かしむる事に努力した。南統治はこの宇垣統治の精神を継ぎ、その延長線上に一は農工併進策を取り、一は皇民精神の徹底による内鮮一体化に力を尽してゐる。宇垣大将の築いた基礎工事の上に壮大な内地風の大建築を起してゐるのが南総督である

 南総督となつて二年、予算は三億から五億に膨張した。膨脹した大部分は鉄道、道路、橋梁、港湾、治山、治水その他の国策事業に投ぜられ、金、鉄、石炭、化学工業紡績、電力事業は超スピードをもつて奨励され、拡張されつゝある。五七年の将来半島の北部には幾多の新興工業地帯が出現し、大陸兵站基地として申分なき施設が行はれるに相違ない。

 南総督の最も力を尽してゐる事は教育、特に半島少年の精神教育である。これがため本年四月一日、教育令は未曾有の大改革を断行した。改革の要旨は多岐に亙つてゐるが、これを漸くすれば、

一、皇民精神の徹底

一、国語教育の普及

一、内鮮差別の撤廃

一、実業教育の拡充

一、義務教育の促進

 

の五点に帰する。皇民精神の徹底は従来も閑却した訳ではないが、今後は特に教育の中心をこゝに置かしめ、教育の目的は健全なる皇国臣民を養成するにありとの綱領の下に訓育せしむる事とし、自ら左の如き皇国臣民の誓詞を撰んで日夕学校は固より 諸官庁その他で斉唱せしめてゐる。この結果が知らず〳〵半島児童に自覚と信念を与へつゝある事は言ふまでもない。

      皇国臣民ノ誓詞             

【其ノ一】

【其ノ二】

一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス

一、我等ハ皇国臣民ナリ忠誠以テ君国ニ報ゼン

二、私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス

二、我等皇国臣民ハ互ニ信愛協力シ以テ団結ヲ固クセン

三、私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ国民トナリマス

三、我等皇国臣民ハ忍苦鍛錬力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン

 差別教育の廃止は朝鮮側の宿望であつたが、この機会に普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校の名称を廃止して全部小学校、中学校、高等女学校と改称し、同時に教科々目をも改め、共学の自由を許し、一切の差別を全廃して終つた。

 就学児童は九十万に上つてゐるがその就学率は現在まだ二割六分に過ぎない。今回の改正はこの点に向つて英断を振ひ、十年計画をもつて就学率を九割以上に引上げ義務教育を完成せんと、まづ本年度に於て学級の大増加を計り、普通教育の大拡張を断行した。教育令制定以来の一大英断である。

 従来普通学校は固より、高等普通学校、女子高等普通学校にあつても朝鮮語による教授時間が相当に多かつた。今回は小学校の上級及中等学校では随意科目として以外朝鮮語を廃し、全部国語により教育する事とした。同時にその内容に一大刷新を加へた事言ふ迄もない。

 実業教育は中等学校、専門学校共に頗る寥々として閑却されてゐたが、今後は努めて実業教育機関を奨励する事とし、農学校、商業学校、工業学校及びそれらの専門学校の新設が各地に計画されてゐる。京城大学に於いても本年から理工科の予科学生が募集された。

 この総督府の改革の理想はよく全鮮に徹底して大なる感謝を呼んでゐるが、半面外人による教育機関は教会の勢力と共に急速に凋落し、殆んど大半閉鎖又は休校して終つた。十年後の朝鮮子弟は内地と全く同一な教育を受ける事となるであらう。

 

      十 志願兵制度の実施

          熱烈な半島青年の要望

 地理的に見れば朝鮮が、日本の大陸に対する前進基地である事は何人にも諒解される。併し、一歩朝鮮の内部を検討すれば、それは資源に於いて人的にも物的にも大陸兵站基地として不可欠の要素を具へてゐる事が判明する。物的資源は鉄、石炭、金、電力等日本の要求するところを多分に負担し、今又人的資源に於いても二千万の同胞挙つて国防の第一線基地に参加し、その壮丁は銃を執つて前線の任務に服するまでになつた。朝鮮は健全な日本として起上つて来たのだ。而も大陸への前衛として重大な任務を帯びて起上つた。朝鮮の実力は物的にも人的にも十分祖国の期待に沿ひ得る。こゝに現代朝鮮の重要性がある。

 

      十一 内鮮一体の完成期

            歴史の問題として扱へ

 これ程の進歩を遂げ、一体化されては来つたが、内鮮の差別が全く一掃され、平等となり切つたわけでは勿論ない。兵役にしても然り、官吏の待遇、任用、或は民間の 採用その他差別と不平等は頗る多い。こゝに一部鮮人の不満が宿り、煽動家不逞の徒の乗ずる隙が生ずる。歴代の総督は営々としてこの差別撤廃に努力して来た。併し二千年の分立は一朝一夕にこれを打破する事は不可能である。風俗習慣の如きは歴史的時間をもつてする外融和合一の方法がない。現総督は時代の圧力に乗じて特に差別の撤廃に努力し、教育刷新、志願兵採用の如き歴史的事業に手を染めたが、一面日常の鎖事から施政の全般に細心の注意をもつてこれに尽してゐる。

 昨年は朝鮮側の警官のみに特に増俸俸して差別の距離を短縮した。本年に入つては各道庁に産業部長を置いて鮮人官吏の勅任々用を拡大してゐる。さらに又朝鮮出身者を裁判長に任用する新例を開き、事実をもつて差別の門戸を次々と打破しつゝある。やがて他の要職、警察部長、総督府の局長等にも半島出身者の任命される日も恐らく遠くはあるまい。

 総督のこの方針は民間にも反映して至る所に半島人の昇進、待遇改善が行はれ、風俗、飲食等の日常生活の変化等と相俟つて両者の生活はいよ〳〵接近融合の度を深めつゝある。かつては全く仝く顧みもせなかつた神社參邦も今は自然に行はれ、朝鮮神宮一年間の参拝者昭和八年には五十五万であつたもの、昨年は二百二万に上りその大半は朝鮮人と言ふ有様となり、村々に至るまで喜々として神社の奉祀が行はれ始めた。

 内鮮の差別は精神的には取除かれ、両者は同根同祖に目覚め、民衆は内鮮一体に満悦してゐる。残された差別と不平等は極力除かれなけれぱならぬ。当局も国民もこれに協力し、努力してゐる。世にはこの残された差別現象を目して永劫解決の途無き如く憶断したり、甚だしきに至つては日本の誠意を侮蔑したりする浅薄漢がある。二つの事業会社が合併しても、完全な融合と清算には数年の時日を要する。況んや二千年以上の分立から復原して九千万以上の民族が一大国家となつたのであるから、ぞの完全な融合、平等化には半世紀や一世紀の時日を要する事は当然過ぎる話ではないか。

 日本の真意は現に朝鮮の更生によつて明証された。英国百五十年の統治による印度或は蘭領南洋、仏領印度支那の現状と朝鮮の現状と比較したならぱ彼我の関係、その統治の理想の相違は一目瞭然と言はねばならぬ。彼れは永遠の奴隷として搾取の源泉となし、我れは家族として共に富強を図り、喜怒哀楽を斉しくしやうとしてゐるのである。同じく差別はあつても、彼れの差別は永劫不変、皮膚の色を変ぜぬ限り撤廃されざるもの、我れの差別は日に月に消滅して行くものである。

 半島に於ける内鮮の関係は頗る良好である。その結果が銃後の愛国熱となつて爆発してゐるものである。併し、内地や満洲、支那等に於ける内地人の態度には時に遭憾とされるものがなくもない。心なき差別観念を無意誠に露出する内地人を見る時位、朝鮮関係者として不愉快な事はない。反省と新たなる認識を望みたいものである。