朝鮮農村の人口排出機構
出版年:1940年
発行者:日満農政研究会東京事務局
所蔵:国立国会図書館
日満農政研究会は、満洲や朝鮮の農業、農業に関係する環境や政策等に対する調査研究を行った財団法人。
本書は昭和10(1935)年に慶尚南道の蔚山郡蔚山邑達里で行われた人口移動に関する調査をもとに、朝鮮農村の労働力が内地へ流出していく実態を検証し論じている。
- Author
- 日満農政研究会東京事務局
Page 1
Page 2
Page 3
Page 4
Page 5
Page 6
Page 7
Page 8
Page 9
Page 10
Page 11
Page 12
Page 13
Page 14
Page 15
Page 16
Page 17
Page 18
Page 19
Page 20
Page 21
Page 22
Page 23
Page 24
朝鮮農村の人口排出機構
――慶尚南道蔚山郡蔚山邑達里に於ける人口排出
一、排出人口の数とその増減
この部落の朝鮮人現住世帯(昭和十年国勢調査当時現在)は一三七戸、人口六六一人であるが内五戸人口二〇人は水利組合工事人夫の残留組であり、一戸人口四人は商業失敗後寄留するもので昭和十二年迄に他に移出したるものであるから之を除き、定着してゐる戸数 一三一戸、人口六三七人(うち二戸は竹細工人と果物行商人である)を対象として問題を観察することにする。
扨てこの定着世帯より排出してゐる不在家族(夫、長男、長男妻子、未婚子女、未婚兄弟姉妹)の員数は一〇八人で現住人口の一七・〇%であり、排出世帯数は五一戸で、三八・九%である。この行先は内地五四人、朝鮮内五三人、満洲一人である。但し朝鮮内には本部落内雇傭者一二人を含むのであるから部落外に出てゐる不在家族員の過半数は内地に行つてゐることになる。これは本来的に家族を構成すべきもののみの計算であるが、他に分家の形式を取つて流出したるもの一一戸、三五人あり、そのうち六戸、一九人は内地行である。更に一家を挙げて内地へ渡航したるものは一〇戸、二九人あり、本居をこの部落から引払ふ際(大抵破産流離者である)一部丈内地に渡りたる四戸一九人がある。この他この部落に一時寄留した後に内地に渡りたるもの数戸あるが、それを除きこの部落に本居又は本家を持ち、或は一度定着的本居を持つたものにして内地に現住するもの丈で一二一人(内地生二〇人あり)の多きに達する。これは現住人口に対し一九・〇%(内地生れを除けば一五・九%)に当り蔚山郡の五%(昭和十一年末現在蔚山警察署調べ、但し密航者と内地生れを合算せず)慶尚南道の一三%(昭和十二年末現在、内務省警保局調べ、但し内地生れを加算す)より遥かに高い。ここに見られる如く特に内地移住者を多く出してゐるのはこの部落の特色である。これはこの部落が内地に近いといふ地理的利便の大なることにも依るが、部落出身で大正十三年渡航後土木請負業で成功したものゝ労働者募集又は呼寄が与つて大いに力があるのである
次にこれらの人口の排出の時期と増減に就て見るに先づ朝鮮内に不在家族員を出してゐる世帯は昭和五年には一六戸、排出せる有業者は一九人、附随妻子は四人であつたが昭和十年には二九戸、有業者三九人妻子一四人となつてゐる。かくの如き増加は主として一六歳前後の幼年労働の動員に依るにものであることは特に注目すべきである。
新規出村者のうちの一五人、新来住世帯から排出せる人口中の三人併せて一八人が二十才以下のものである。
内地行のものに就て見れば昭和五年には三〇世帯(他に分家の形式をとるもの二戸)が不在家族員を出してゐたのに昭和十年には三戸減つて二七戸となつてゐる。然しその間新に渡航して内地に現住してゐる人口は寧ろ一〇人増加してゐる。而して分家其他の形式をとるものを含めて部落人の内地現住者は昭和五年から十年の間に三〇人増加してゐる。この増加は大正十三年から昭和四年にかけての増加人員二〇人より大であるが、これは帰村者が其期間特に多かつたため、単なる渡航者数は大正末期から昭和の初めに掛けて最も多かつたのである。最近の傾向として妻子の呼寄又は同行者が多くなつたのは特に目立つところであり、其に対し男子有業者の新規移動が昭和八年を境とし急減したことは第二表の示す通りである。云ふまでもなく渡航条件が厳しくなつたからである。多数の候補者は内地行の切実なる希望を懐いてあらゆる機会を窺ひ、密航まで企てることを辞さない程である。それが昭和十年に僅か一人(他妻子三人)十一年に二人、(妻子なし)十二年一人、十三年三人許されたのみであつたのが昭和十四年になつては内地景気昂揚と労務動員計画とに依て一四人(内妻子四二人)まで急増してゐる。因みに昭和十四年には満洲に三人朝鮮内都市へ三人を出し部落の青年の数は愈々少くなりつゝある。
二、排出人口の世帯上に於ける地位と排出
然らば上記の如き排出人口は現住世帯に於て如何なる地位を占めるものであり、又如何なる形態で家を去るのであらうか。この点につき先づ第一に注目すべき点は第三表の示す如く夫又は長男たるものが極めて多く出てゐることである。彼等の多くは次節で示す如く耕作すべき土地を殆ど持たぬものが多い。或は多少小作地を持つてゐても高い小作料を取られては僅かの余利で生活を維持出来ないのみならず、それすら何時取上げられるか知らない極不安定なものである。父母妻子を放置し、或は家を次男に譲り渡して出稼に出なければならぬ所以である。然しこの場合内部から押出す力が弱いことゝ共に特に内地の吸引力の大なることも併せて考ふべきである。長男が次男に家の責任を押し付けて勇んで内地へ飛出した裏で次男は相当面積の耕地と住宅を譲られ、其上幾分の仕送りもされて比較的余裕ある生活をしながらも、何時も兄を怨み自らも内地へ移動せんと気構へてゐる事例は多い。更に同じく父母を養ふための目的であつても、年雇に出る場合は生活逼迫に押されて消極的に進むに対し、内地へは喜んで出発する如きは一般的に見られる事実である。これと関連して内地在住労働者への嫁入が一三人(昭和一一年の三件加算)あり昭和五―十年間の嫁入二二件中六件は内地行であることも附記する必要があるであらう。従来の結婚範囲と云へば精々二三里でその相手は大体農民と限定されてゐたのに、今は内地だと云へば喜んで嫁をやる様になつてゐる。
同じ関係は分家に於ても見られる。小農に於ては次男以下に若干の所有地又は耕地を分譲することは云ふに及ばず、その結婚費用すら支出し得ないのが普通であるために、次男三男は数年間(大抵は十年間近く)年雇生活をなし、その間に得たる貯蓄を以て結婚をなし、雇主又は他の地主より小片の土地を借入れて独立するのが与へられた殆ど唯一の分家の方式であつた。而も農業人口増加と耕地難に加へて従来の主従関係の解弛は年雇から小作農へ分家独立する道を益々狭めつゝあるのが最近までの傾向であつた。然るに偶々内地労働市場の開放は小農分家に対する絶好な新しい方式を提供したのである。気力と便宜のあるものが後者の道を選んだのは云ふまでもない。第三表の示す如く分家移住が朝鮮内より寧ろ内地が多い理由である。分家形式をとつた内地移住者も渡航当初は勿論無配偶者が大部分であつた。(大人のうち一人丈妻帯後渡航した)それが内地で結婚費用を稼いで妻を迎へたのである。現在世帯不在家族員としての次男以下もやがて同じ経路を辿るべきものである。彼等は内地に於て分家の手段丈でなく、又定着の場所をも見出してゐる。従前は内地で多少の貯蓄をすれば故郷に帰り、結婚と分家をなし、又土地を購入することを目標として海を渡りたるものであるが、今ではかくの如き希望は皆殆ど放擲してゐるのである。内地に於ける彼等の生活の不如意にも依るが、それより彼等の生活水準の上昇につれて朝鮮農村が彼等に取つて安住地たり得ない点が根本理由である。生活の倦怠に加へて特に強く感ずる朝鮮に於ける政治的社会的拘束は彼等の堪へ得ないところである。だから最近の若い者は出発当初から出稼心理よりも寧ろ自由な活発に他の社会生活を希求する気持がより強く働いてゐる。
これは一般的現象であり、夫及長男の場合に於ても妻子を呼び寄せるもの或は内地に於て結婚して居坐るものが多くなつて定着的傾向が愈々強くなりつゝあるは否めない事実である。(第三表参照)第二表の示す如く帰村者が激減してゐる事も同じ動向を指示してゐるものと見られる。特に最近抑々の門出の当初から妻子を同行するものがあるのは特異とすべきで点である。昭和九年に一人と昭和十四年に二人がある。(かくの如きことは昭和元年と昭和六年各一人、而も破産流離者にあつた丈である)大正九年以来親類知人に依り開拓されたる地盤が相当固められて来たのと、一面内地渡航者が益々移民的心理に駆られつゝあることを物語るものがある。
然し内地渡航の初期に於て夫人は長男の地位のものが出稼的性質否山師的心理さへ多分に持つてゐたことは事実であつた。それが昭和七年迄の大量的帰還に依り殆ど整理し尽され、(第四表参照)今や内地に残てゐるも又新に行く者ももう帰らぬ者のみとなりつゝある。
かくて「家」を去り又「家」を棄てる者が漸次多くなる傾向が益々濃厚になつて来てゐるが、然らば農民殊に長男の「家」に対する観念はどんなものであらうか。元来彼等に於ける「家」とは父母兄弟妻子の扶養義務で結び付けられた具体的集団以上の何物でもない。「家」の名誉の守り伝ふべきものもなく、又祖先の崇拝すべきものもない、」ために祖先の祭と墓が朝鮮の上層社会に於ける儒教道徳が示す程の有難さを持たせない。従て次男等に父母扶養
責任を負はしていない長男の内地定着を引留める要因としては僅かに老父母の生存といふ事丈であるが、それすら無視されるのが現実の事態である。
内地移住に於けると同じく朝鮮内移動に於ても農村の地盤がないために出先にて定着する傾向は段々強くなつて来てゐる。然し朝鮮に於ける一般的低賃銀の支配は妻子の呼寄せを困難にしてゐるばかりでなく、又未配偶者が世帯持ちとして従属することを内地在住労働者に比し遅らしてゐる。その中にあつて巡査面書記の下級公務業及都市的職業への移動者は比較的早く家族を呼寄せ又は結婚して落着き得るが年雇に至ると不安定性は最も深刻である。といふのは彼等の労賃は年籾三―四石(上年雇で五石)に過ぎぬから勤先地に於て妻子の生活上に於ける種々の便宜が相当得られる見込がない限りに於ては妻子の呼寄が困難であるからである。
三、人口排出の階級性と出先職業
人口を排出してゐる世帯を階級別に観察すると第五表の示す如く上層二戸、中層上四戸(内二戸は分家の形式を取れるものゝ排出世帯)中層中一〇戸、中層下一五戸、下層二二戸で下に進む程絶対数が多くなるばかりでなく、階級別総戸数に対する比率も同じく累進してゐる。
かくの如く下層になる程人口を外へ出してゐる世帯が多いのは耕地の狭小なることから来る当然な結果である。第六表の示す如く、下層中八戸は全然耕地なく一四戸は平均一・九に過ぎない。下層より上に進むに従ひ耕作反別は急増するが中層中の平均一・八反も過小なるは免れず、中層上の一八・二反も次三男に分譲する程大であるとは云へない。これらの層からも人口を排出せざるを得ない所以である。
以上の如く階級が下になる程人口排出の世帯数と比率が大きくなるのみならず、又夫、長男の地位のものゝ絶対数及比率も下の層になる程大になつてゐるのは第五表で見られる通りである。
さらに階級別考察に於て特に注目すべきことは移動地域と関連しての階級性である。即ち下層は内地への移動よりも朝鮮内移動が圧倒的に多く、中層以上は朝鮮内より内地移動が却て多いことである。内地移動者丈に就て見れば下層八戸、中層下九戸、中層中八戸、中層上三戸となつて中層中迄は階級が上昇するに従ひ人口排出世帯の比率が高まるばかりでなく、絶対数も中層中は下層と同様、中層下は下層より寧ろ一戸丈多い。排出の比率からすれば中層上は下層より寧ろ高い。これを内地現住者丈に限らず、帰村者も含めて一度内地出稼に出たものに就て色分けすれば下層は一四戸、中層下は二四戸、中層中は一九戸、中層上は七戸であり、各階級別現住世帯戸数に対する比率は下層三一・八%、中層下六三・二%、中層中七〇・四%、中層上五〇・〇%、となり、中層中の比率は極めて高い。更に昭和十年以降の内地移動者一六人一二戸の階層性を見るに中層上三戸、中層中一戸、中層下六戸であるに対し、下層は一戸のみである。
内地行に階層の高い者が相当的に多いのはこの部落丈の特殊的なものでなく、普通的に見られる現象である。東京府社会課の東京朝鮮人労働者三、六九九人に就ての郷里職業調査に依れば自作農業者が総数の七〇・四%にも達してゐる。この結果はそのまゝ信ずることは出来ないけれども以て一般の傾向は之を推知するに足るであらう。以上の如く内地行に階層の高いものが多く、朝鮮内移動に下層の者が多い傾向が存するとす(註東京府社会課、在京朝鮮人労働者現状、昭和十一年四八―五四頁に依る)れば満洲農業移民として行く者には上中層の破産流離者が多いのが特徴的である。この部落から満洲に農業者とし移動したものは十数年前に一戸、二十年前に三戸あるのみであるが四戸共破産者であるのは興味深い事実である。其後満洲移民の跡を絶つたのは内地が農業と生活に行詰つたものを引受けたことにも依るが一体に行手が少い事は確かである。最近満洲移動が更めて開始され、昭和十年に一人、昭和十三年に一人、昭和十四年三人となつてゐるが、何れも農業移民ではない。即ち昭和十三年に行きたるものは商業自営の為であり、更に昭和十四年組は土木労働者として前記電信工夫の下に走つたものである。而も労働者として流出したる三人は何れも内地渡航の希望が遂げられぬまゝに已むを得ず満洲へ動いたのは注意すべき点である。
最近南鮮農民を以てする北鮮開拓計画が既に移民招致に着手してゐるにも不拘、希望者が少いことは満洲と同じ関係にあるからである。下層は行く術がなく、中層以上は文化的に自然的に条件の劣る北鮮の未開地へ行く位なら寧ろ満洲へ飛ぶ方が策を得てゐるとなし、満洲ゟは内地移動を選ぶのが実状である。下層は満洲へ行けぬと同じく内地にも移動出来ず、中層以上は満洲よりは先づ内地を希望し、それが落選して而も村に留るを得ざる者は満洲へ進む。之が人口移動先と階級との関係を表す方式である。我々は前節で気力と便宜を持つてゐるものは朝鮮内より内地行の道を選択すると云つたが之れに資力を加へて三つの条件を具へてゐるもののみが内地渡航が出来ると云ふを得るであらう。下層は未知の世界への冒険を試みる余裕を持たない。且つ渡航費用を調達する事が極めて難事である。のみならず彼等には渡航便宜が与へられる事が極めて稀である。労賃は安くても容易に又無費用で確実収入の得られる年雇として出でざるを得ないのはこの為である。子弟の幼年労働の収入化に於ても同じ事が云へる。この場合この部落の未成年の子弟は只父母の命ずるがまゝに何も知らずに年雇生活に入らせられてゐるのである。然し彼等も年令の上昇に伴ひ自我意識が漸次成長すれば必ずや内地渡航志願の候補者として登場するのであらう。従前は年雇は小作農として分家する前提であつたが、今は内地労働者になる為の一つの階梯にさへなつてゐる。下層出身者この経歴を経ることに依り始めて内地渡航条件を具へることが出来るのである。
扨て観点を転じて排出人口の出先職業を見るに第八表の示す如く、内地に於ては土木労働者最も多く一九人(本居を移したものを加算せば三七人)職工之に次いで一三人、運転手四人、土木請負業三人の順位で数が減り、朝鮮内に於ては年雇二五人で絶対多数を占め、次位の巡査、土木労働者は遥かに少く夫々三人である。
内地に於ける出先職業に就て特に注意すべき点は先づ第一に職工が増えたことである。これは最近二〇才以下のものの移住に依て生じた新しい現象である。第二は運転手の多いことである。
短期間で而も資本を余りかけずに修行し得るのみならず、収入も多く、且つ比較的自由な職業であるために取りつき良いのである。職業の分化と関連して更に注目すべき点は階層の上に進むに従て頭脳を使ひ、又収入の比較的よい職業従事者多く、下層になる程純筋肉労働者が多い事である。
例へば中層下は内地に於て土木労働より職工が多いのに反し下層は土木労働が断然多く、又朝鮮に於て中層下は年雇は一人もなく、面書記、会社員、職工、船乗、土木労働等に従ふに反し、下層は年雇、雇女二十六人で大部分を占め、残り大工、土木労働農業兼行商各一人に過ぎない。中層中の年雇一人は幾度も内地渡航願を提出しても許可されなかつたため在来の分家の形式を年雇に求めたものであり、居酒屋一人は上層が破産して中層中にまで再起する迄の過程に起つた特異なものである。中層中になると巡査二人のみとなり、上層は小農商自営一人、運転手も一人丈である。この限りでも出先職業に於ける階級制は明瞭に看取し得るが、若しも部落に在住し且つ家に留つてはゐるが実質的には農業と農村を離脱したると認むべきものを考慮に入るれば如上の傾向は一層鮮明になるものである。即ち当部落から公務業者として蔚山邑の町に通勤してゐるものは九人(内一人は給仕、一人は病気静養、一人は臨時雇)であるがその出身階級を見れば上層五人、中層上三人、中層中一人で回想の高い処で独占してゐる(これと関連して当然兼業を一般的に述べねばならぬが、この問題は他日の機会に譲ることにし、こゝでは離村性の強い公務業丈を取つて論ずることにした。実際彼等は昭和十一年から昭和十四年迄八人中六人まで村を去つたのである。而して其他の兼業を考慮しても問題の本質を変へるものでないことを断つておく。)
斯くの如く上層及中層の中以上は朝鮮内に於ける公務業に就て村を去り、中層は内地へ渡つてそのうちの比較的上の層は高級職業中の下の層は職工及土木労働に従事し、下層は主として土木労働者となる。
その間にあつて満洲へは上層が資本を持つて商業自営のために行くか(前記昭和十三年に移動したものはもと郡の雇員で中層中の出身であるが義父の資本を活用して前職を抛棄して行つたものである)或は中層のうち特殊技術を持つ者或は内地行が叶へなかつた者が労働者として移動し、(すでに述べた最近移動した五人は、前記中層中出身一人、中層下出身二人、多年の年雇経歴をもつ下層一人である)農業移民としては、上中層の破産者が出向いて行く。これが移動地域別に見た各階層と出先職業との関係である。
四、排出人口の質と人口排出の影響
この部落から排出してゐる人口の質を観察するに、他の人口排出地方で見られると同じく大部分が質的に極めて優秀なる者であることがわかる。先づ年令に就て見るに第九表の示す如し、内地渡航者は一三才から四〇才迄の若い層が総数の七九%を占めてゐる。そのために不在家族員の現在に於ける年令別構成は第十表の示す如く一六才から四〇才迄のものが六八・七%(但し部落内排出人口十二人を除く)の高率となつてゐるに対し、一方部落在住人口は老初年が相対的に高い比率を占め、生産的労働人口の比率が相対的に低くなつてゐる。第十一表の示す如く、この部落の十六才―四十才迄の各級間人口は何れも全鮮郡部に比し低率である。これを慶尚南道と対比するに部落は十六才―二十才、二十一才―二十五才の級間に於て僅かに高く、二十六才―三十才、三十一才―四十才の級間に於て甚しく低く従て都合十六才―四十才の人口は道の三五・三%に対し部落は三四・一%で一・二%丈低い。蔚山郡に比してその差は一層大きくなる。若い者のうちでも男子が主として移出されたる結果は第十二表の示す如く、十六才―六十才迄、女百人に対する同年令男子の比率が全鮮、慶尚南道、蔚山郡の何れに比しても甚しく低くなつてゐる。
排出人口の年令と併せて質の問題として考慮すべき点は教育程度である。
而してこの部落人で新しい教育を受けたものが如何に高率な出村をしてゐるかは第十三表が之をよく示してゐる。即ち小学校修業又は卒業以上の学歴を持つ者の総数五二人中二六人は内地に移住してゐる。その二六人中一九人は昭和十年十月以前の渡航者に属し、七人はその後の移動者である。残り二六人中朝鮮内及満洲へ行きたるもの一八人留学二人、死亡一人で、残り五人のみが部落に残留してゐる。而もその五人中二人は主業が官公吏であり、一人は官庁奉職を専務としてゐるから、結局わずか二人のみが農業者として定着してゐるに過ぎない。
かくの如く小学教育を受けたものが殆ど総べて部落から流出するのは要するに朝鮮の農村及農業が文化的に経済的に彼等を吸着する力が全く無いからである。彼等は割の合はぬ農業に対し忌避的であると共に又農業労働が身についていない事は事実である。然し折角発心をしたとして、果たして朝鮮農業の現状が之を充分容れる余地があるかは甚だ疑問である。先づ経営規模の零細性は彼等の労働を吸収すべくもない。更に伝統と経験のみが支配し、而も家長の統制下にある手工業的農業に新人の創意を働かすことは殆ど不可能である。農業に於けると同じく、又部落に於ける文化的活動からも彼等は閉出しを喰はねばならない。若い新人の村に於ける発言権は老人と慣習の勢力の下に封ぜられ、農村文化建設に情熱を注がんとする欲望は官権に依て禁圧せられて了ふからである。其上に農村は文化的砂漠として何らの慰安のない世界であると来ては彼等の立つ瀬は全く無いといつても云ひ過ぎではない。
彼等がより良き生活源泉と自由な天地を求めて殆どすべてが内地又は朝鮮内都市へ移動するは水の低きに流れると同じ様に自然である。かくの如き移動は当本人の好むところ丈でなく、その父兄の喜ぶところでもある。農村父兄は教育を受けた子弟をこゝ「惨めな業」を継がせ度く無いのが本心である。官尊民卑の風習の極めて強いところで何時も恐る〳〵生活してゐる農民はその子弟を官公吏、でなければせめて官庁の給仕にでもなつて貰ひ度いのが切実な希望である。それが不可能な時は内地に飛ばせ度いのである。新しい教育を受けたる者がこの部落から殆ど総べてが流出したるのは正に如上の諸事情に基因するものである。
而して教育ある者の全的流出が部落に取つて文化的貯水池の涸渇を意味することは否めない事実である。このことの為に当局は政策実施と産業指導奨励上の部落内拠点を得る事が困難であり、又部落は新しい農業発展に対する主体的条件を強化するを得ない憾みがある。このことを最も痛切に感ずる様になつたのは昭和十一年この部落が農村振興運動の対象となつて指導部落に指定され、経済的文化的再建に取り掛かられた際である。中堅人物難と官庁指導に対する民間側からの嚮応性の欠如はこの部落に於て最も深刻であつたのであり、その故に又ある範囲内で得られる振興運動の効果すら挙げ得ずに終始したのである。
教育あるものを排出したる影響と並んで若い男子の多数排出が部落内の労働需給関係に及ぼしたる影響も見逃してはならぬところである。それは大農に取つての日雇と年雇獲得難を惹起したのである。この事が最も深刻であつたのは大正末期から昭和の初めに掛けてである。といふのは当時蔚山郡及近接郡に亙つて年雇及その候補者が内地労働者募集に応じて大量的に移動し、既に述べた如くこの期間に農民が最も多く動き出したからである。年雇需給の逼迫は年雇労賃の引上(上年雇が年に籾四石位であつたのが五石になつた)を来したばかりでなく、其他の物的又人間的待遇が急に改善され、従て年雇の地位は著しく向上したのである。幸にこの部落は内地に地理的に近接してゐる為に北方の奥地から内地渡航志願者が南進し、茲に足溜として年雇に入るものが相当多い為に(年雇数は青少年併せて三六人中部落出身は一二人である)兎に角必要な年雇は之を間に合せてゐるのであるが、腰掛人を抱へてゐる雇主の不安は何時も絶えず、且つ 年雇の一般的素質の低下を我慢しなければならなくなつてゐることは蔽ふべからざる事実である。
人口排出の影響として更に考慮しなければならぬ点は家族構成の変化及家族制度の崩壊である。
この部落の不在家族員を加ふれば一戸当平均家族員は五・三人となるべきものが現住家族員の一戸当平均は四・五人となつてゐる。一戸当現住家族員が特にこの部落に少いことは第十四表の世帯人員の比較から略々推し測る事が出来るであらう。
而して家族員の縮少は家族制度の崩壊に伴はれてゐることは注意すべき点である。本来朝鮮の家族制度は祖先――父母――長男――祖先の祭といふ基本関係を縦軸とし、絶対的家長権を横軸として仕組まれてゐるものであるが、今やその長子線が崩れて了つたのである。流出したる長男は祖先とその墓及祭が有難くない丈でなく祖先否現存父母に対する形式的義務しら忘却してゐるものは甚だ多いのである。長男の同行妻にして長く内地生活に慣れたるもの殊に内地で迎へた妻は旧来の家族制度は勿論、父母を戴く三代家族組織を是認しようとさへしない。時の流れに依て無意識的に行はれたこの部落の家族の分裂と家族制度の破壊は今やまさに時代思想に依て裏付けられんとしてゐるものと思はれる。
最後に出稼移住者が仕送に依て部落の現住家族の経済を支援してゐる状況に就て触れておくことゝしよう。先づ朝鮮内移住者に就て見るに年雇は中層出身一人の分家費用のために貯蓄するものを除き残り下層出身二四人は大体年労賃籾五斗乃至四石の大部分を本家に送つてその経済を支へ、又は助けてゐるに反し、他は会社員一人(年百円未満の送金)を除いては送金するものがないのは特異な点である。
次ぎに内地現在のものに就て見るに従来幾何かの送金をしたるものは九人、毎年送金をして来るものは九人、その一人平均送金額は五四円(昭和十年現在、最高は百円)である。これは当該世帯に取つては確かに相当な経済的援助であるけれども部落全体として見れば左程大な金額とは云へない。妻帯者が増えたのと内地景気がまだ充分展開されてゐない時期であるからであらう。然し単身出稼人の多かつた初期、而もまだ景気のよかつた大正末期から昭和の初めに掛けての送金及持還金が如何に多かつたは十五表に依て知ることが出来よう。即ち大正十五年には二十四人二、一九〇円、昭和二年には二九人、二、六六〇円にも達してゐる。当時帰村したものの一人は千円を持帰つて大々土地を購入したものもある程である。
特に大正十三年相継いで渡航した三兄弟の土木請負業者として成功したものは現に内地で数万円の財をなしてるばかりでなく、部落内外に一万数千坪の土地を購入し、且つ部落に定着してゐる一人の兄弟を自作上農にまで仕立てゝゐるのは注目すべきものがある。
然るに昭和四年以降送金額が急激に減退し続け、前述の如き昭和十年の状態に迄立至つたのであらうことは十五表の蔚山邑全体の送金額の減退からも推し測る事が出来るであらう。
最近の戦時景気の昂進と新規渡航者の増加に依り、昭和十四年には送金額が再び急激に増加し部落生活を潤してゐるところ極めて大きいとといはれてゐる。実に内地はこの部落方から多数の人口を引受けると共に現住部落人の多数の生活を■正してゐると云ふことが出来る。
五、要約
以上述べたところを要約すれば次の如し、即
一、この部落は高率の人口排出をしてゐるが特に内地に多数の農民を送出してゐる。
二、排出人口中には夫又は長男の地位のものが極めて多い。それは内部から押出す力が強いと共に、特に内地の吸引力の大なることも大きな関係がある。
三、内地移住者の内地に於ける定着性は強い。妻帯者が多くなりつゝある。長男の地位の者の定着には農民の家に対する観念の稀薄性が与つてゐる。
四、次三男に取つては内地労働市場は新しい分家の方便を供与するものである。彼等はそこに方便のみでなく、定着する場所をも見出してゐる。最近の若い層は渡航当初から永住する気持のものが多い。内地の自由と朝鮮内の政治的社会的拘束。彼等の生活意識の上昇に依る。
五、移動者の階級別。移動者は階層が下になる程絶対的にも相対的(階級別戸数に対する)にも多くなる。
六、移動者中夫又は長男の地位の者が移動も絶対数及比率(階級別戸数に対する)が大となる。
七、移動先に階級的差異がある。内地には中層以上、朝鮮内には上層及下層、満洲には上中層の破産者及中層の内地志願落選者。
この差異は移動先の文化的経済的自然的諸条件を考慮した上での選択力(特に危険負担力、移動費用調弁力、生活難と関係する気力等の相違から来る
八、出先職業にも階級制が見られる。階層が上るに従ひ頭脳的労働に就き、下層になる程純筋肉的労働に従ふ。内地に於ける職工を多く出してゐる階層(中層下)と土木労働者を主としてゐる階級(下層)の差は注目すべき点である。
九、排出人口は若い男子が圧倒的に多い。
一〇、小学教育を受けたもの五二人は殆ど総べてが流出してゐる。
一一、人口排出の影響として教育ある者を出したる結果は部落の経済的発展を阻害し、当局の政策実施上大きな困難がある。
一二、若い男子の排出は大農に取つて日雇年雇の獲得難と年雇待遇改善及質の低下。
一三、長男排出に依る長子線の崩壊、家族制度の破壊と家族の分裂。殊に内地にむかへられたる長男嫁の小家族主義的思想の把持
一四、出稼移住者の仕送に依る現住家族に対する経済的支援。朝鮮内移動者は年雇のみ。内地は景気変動と共に変動が大であるが好景気時には仕送金割が極めて大きい。内地移動に依り成功した個別的事例。