秘録大東亞戦史 朝鮮編 ソ連の参戦ー朝鮮引揚史 その一ー

秘録大東亜戦史 朝鮮編(富士書苑 1953)

 太平洋戦争(大東亜戦争)の戦況や実相、推移について、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、共同通信社をはじめとする日本の新聞記者などが、自分の見聞した範囲において記したルポルタージュを編集した書籍。地域方面別に1冊(或いは2冊)ずつ区切って編集したものと、地域方面ごとで区切らずに収録したものがある。

 朝鮮編は、終戦当時、朝鮮総督府の官吏であり、京城日本人世話会のメンバーとして、在ソウルの日本人居留民の保護や引揚帰国の援助を行なった森田芳夫のルポルタージュ5編を含んでいる。

 

Author
森田芳夫
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p9~29

 

ソ連の参戦

  ――朝鮮引揚史 その一――

羅津、清津の爆撃につぐ急速なソ連軍の進攻。慌しい軍民の動静をここに探る。羅津埠頭の海空の激戦、清津の戦闘、そして避難を急ぐ一般民に根こそぎの動員令が下る。馴れぬ手に銃を執って戦った新参兵も多かった。

      元京城日本人世話会 森田芳夫

 

日本の糧道、北鮮の港

 昭和二十年三月に入ると、もう関釜間の連絡は、B二九の出撃や潜航艇の出没で欠航しがちになった。大陸と日本内地は、羅津、雄基、清津、城津の諸港と裏日本をつなぐ日本海ルートが残されていた。

 本土決戦が提唱され、ことに、日本内地の食糧難が甚だしくなった時、関東軍貯蔵の軍兵器類と満洲雑穀の日本転送がいそがれた。

 三月に、大本営から北村少将以下、多数の参謀連が、羅津に駐在した。

 羅津が満州の物資の積出港であった関係から、羅津から上三峰までは満鉄の経営であり、羅津に満鉄埠頭局がおかれていた。今まで羅津の積込、積卸荷物量は、月七万五千トンであったのが、月三十万トンに上げるように命令された。

 大連埠頭局の幹部の移駐とともに、埠頭の熟練苦力、吉林、間島省内の在留朝鮮人勤労隊、地元市民の勤労奉仕、加えて軍の暁部隊の進駐で、積荷能力は上がって行き、一日最高一万二千トンにまで及んだ。

 六月になると、日本内地の食糧の窮乏が極度にはげしく、食糧を主とする輸送にきりかえられた。満洲産の大豆、粟、高粱などが羅津の港に集結した。

 麻袋が不足していたため、バラ積輸送まで始めたが、羅津の港には未積載の大豆が山とつまれていた。雨期に入ってから、腐敗した大豆で、埠頭ばかりでなく、羅津市内一ぱいにその臭気はひろがっていた。その頃、羅津を通過して行く旅客は、食糧欠乏の時に、埠頭にこぼれた大豆をおし気もなく踏みつぶして、その上を歩む勿体なさを語っていた。

 輸送にあたる軍隊や作業隊員の転入のために、学校がその宿舎になり、府内の民家もわりあてをうけた。教育は中止となっていた。

 四月には、片田大尉を指揮官とする海軍航空隊(飛行機五機、兵員約二五〇名)が羅津湾内に根拠地を設けたがその飛行機は下駄ばき機にすぎなかった。輸送船の洋上掩護が任務とされていたが、ガソリン不足のために、飛行圏は極端に制限されていた。

 陸軍側は――ここに羅津要塞があったが――六月頃から高射砲陣地の構築に着手した。かつて神戸で敵機十六機を撃墜した勇士、井出大尉を指揮官とする高射砲隊が、陣地構築を始め、市民の外、初等学校生徒三年以下の男女全員が、炎暑の中を洗面器に砂を入れて運んでいた。

 沖縄を基地とするB二九は、七月中旬以来、ほとんど隔日、それも、時間はきまつて午後十一時頃来襲して、多数の爆弾を海中に投下した。それは時限爆弾が多く、その掃海に一方ならぬ苦労が重ねられた。出入の船の中でその犠牲となるものも、漸次その数をましていた。

 緊迫した情勢下に、参謀本部は暁部隊、農林省と会議をひらき、集積した食糧を八月上旬に日本に輸送をする完了する目標をたて、羅津に十七隻、雄基に十八隻の船が入港していた。

 

  二分していた日本軍

 その頃、朝鮮にいた日本軍は、日本本土決戦に呼応しつつ、二分した作戦をとらざるを得なくなっていた。

 米軍が沖縄のつぎに進攻してくる予定地の一つに、大本営は済州島を想定した。

 地図を開けばわかる。この島をおさえれば、朝鮮海峡を制圧でき、また黄海を制し得る。

 漢拏山の山腹にトーチカが縦横につくられ、飛行場が整備された。四月には、ここに第五十八軍がおかれ、終戦時の兵力は三個師半、五万をかぞえた。七月には、この島にいる日本人婦女子は朝鮮本土に疎開し、のこる男は、米軍上陸の際に山中に入って軍とともに玉砕する準備をしていた。

 済州島のつぎに釜山附近や、群山附近が、米軍進攻地に想定された。その地帯にトーチカがつくられ、部隊が配置された。

しかし、その頃、すでに北からソ連軍の重圧はひしひしと感ぜられていた。日ソ中立条約不延長の通告後、ことに五月ドイツ屈服後、ソ軍の東方移送は積極的となった。

五月末の大本営命令は、南鮮の朝鮮軍(その時第十七方面軍という作戦軍になっていた)は南方から進攻してくる米軍にそなえ、北鮮の日本軍は関東軍の傘下に入ってソ軍にあたることが示されていた。

七月に、咸興に、第三十四軍が新設された。

 平時に、朝鮮の兵力は京城と羅南の二個師団にすぎなかったが、終戦時には三十五万をこえていた。その頃、ある参謀はこういっていた。

「ソ連は熟柿戦法だ、柿がまさに熟して落ちるとき、でてくるのだ」

 八月六日、米軍は原子爆弾を広島におとした。ソ連は機を失せず宣戦布告。南の米軍の上陸する前に、北からソ軍が侵攻してきた。

 

  炎々と燃える羅津埠頭

 八月八日午後十一時五十四、五分、羅津の人々は、雄基嶺方面に、数十機編隊の爆音をきいた。つづいて市街の中心につり星のように照明弾がなげつけられた。

 昼をあざむくあかるさの中に大爆撃が開始された。埠頭の関東軍の大倉庫が炎々ともえ、異様な爆発の音が、敵機の爆撃の音といりまじってきこえてきた。

 港にあった一万トン級のメルボルン丸をはじめ、諸船は、敵機の爆撃から逃れようとして右往左往した。

 はじめは甲板にすえた高射砲で敵機を迎撃したが、或は敵弾を蒙って煙火を吐き、或は機雷にふれて沈没していった。

 第一回の梯団が爆撃をおわって北方の空に姿を消すと、また次の第二の梯団がおそった。

 東の空がしらむ頃埠頭附近のめぼしい建物はほとんどやられてしまったが敵機は、なおも執拗に爆撃の手をゆるめない。

 第一回の爆撃の際に、市街中央の昭和橋に投弾され橋際の警察署が爆風と破片で相当被害をうけた。また羅津郵便局が爆撃をうけ、電灯線も各所で切断され、電話電灯ともに使用不能となり、ラジオは全くきかれなくなった。過去数十年、巨費を投じて築造された満鉄桟橋も甚大な被害をうけた。

 敵機一機が撃墜された。なかばやけただれた操縦士の死体をだして、市民達はこれはどこの人間だろうと合議した。洋行したことのある歯科医の大西氏にみせたところ、「どうもソ連人らしい」と判断した。

 市民は女学校裏の鉄柱洞やトンネルの中に退避した。九日午後も、また敵機は梯団をなして猛烈な爆撃をつづけた。

 羅津周辺の十二ヵ所の高射砲陣地はそれまでに沈黙させられていた。

 

  たたかう船舶兵

 当時、ソ連機にたいする船舶兵の抗戦は実に果敢であった。次にかかげるのは、天正丸(三千三百トン)乗組の暁第二九五三部隊の船舶兵第一連隊森本勇氏の対空戦闘記の一節である。

敵機が来るたびに「うってはいかん」といわれた隊長は敵編隊がわが船に襲ってきたとき、はじめて号令をかけた。敵機がつつこむ寸前だ。

「おまえ等の日頃の訓練の成果を発揮するのは今だ」「うて」

今までじりじりしていた各砲手は一せいに火ぶたをきった。敵機は黒鷲のようにおそってくる。猛烈な爆撃投弾をくった。一回の投弾三発である。頭の上でしゅっしゅっとうなってくる。海面で「どかん」となるそのあいだの息のつまるような思い一段と大きな音がした。爆撃の反動で、船はぐらつく、ふとみると前の柱に肉の断片がついている。あっと思って横の一段下をみれば四、五名の兵隊がやられている。一人の上等兵は手のひらをやられてざくろのようになっている。一人の兵隊は指をとばされて、おさえながら、それでも機銃にすがっている。

 また大きな音がした。耳がやぶれそうだ。ふりかえると、機関銃の砲口が自分の耳に向かっている。射手に

「無茶するな」

と怒つたら、

「すまんすまん丁度よいところに敵機がきたんだ」

と笑った。ふと横をみると自分のすぐそばに倒れている分隊長が、

「膝をやられた。骨はくだけているだろう。血どめをしてくれ、このロープで」

といって腰からロープをはずして自分にわたした。自分は力一杯しばりばながらその弾が貫通していたら、自分のどてっ腹に入っていることをおもいぞっとした。夕ぐれ暗くなって、傷ついた戦友に、

「早くよくなって帰ってこいよ」

「おお元気で早く帰ってくるぜ、後をしっかりたのむぞ」

といってボートの中と船の上からわかれた。

 

 この暁部隊も弾をうちつくし、十日朝退船命令をうけ、のこる全員上陸し、清津目ざして南下した。

 

  姿を消した軍隊

 その夕刻、北村羅津府尹(市長)が憲兵隊の幹部にあって戦況をきくと、

「来襲の敵機は、大体ソ連機に相違ない。しかしソ連の来襲は、アメリカその他への義理合上参加したもので、真から日本とたたかう意思ありとは思えない。ちょうど張鼓峰事件の時のようなものだ」

という回答であり、市民のことを心配してきくと、

「避難命令はだす必要なし」

 と明言していた。

その夜、市内各配給所に、主食米、味噌、醤油一ヵ月分の無条件即時配給が命ぜられた。

 八月五日に竣工したばかりの府尹官舎横の待避壕に、府の事務が移され、その夜係長以上はここで執務した。府内各中初等学校の勅語、御真影は、もれなくこの退避壕内特別室にうつすべく各学校長に通達された。十日も朝から梯団の来襲がつづき、機銃掃射でさながら豆を煎るような有様だった。

 この頃、軍は憲兵隊とともに府民に知られないようにいつしか姿を消していた。「予定の退却」の軍機保持のためとその理由をあとで明らかにしている。しかしのこる市民のことはどうして考えなかったのだろうか。

 北村府尹はその手記に次のように書いている。

「十日午前十時すぎ、中原警察署長とともに憲兵隊を訪れると驚くべしもぬけの殻だ。裏庭にブスブス煙がみえ、重要書類を焼却したらしいあとがみえる。そこへ補助憲兵一人帰ってきたのできくと、

〝自分は早朝から外部の警戒を被命帰ってみると隊長以下の姿がみえないのでさがしているところだ〟

との答え、平素威張りちらした憲兵が、関係方面になんらの連絡もつけず、市民をうち捨ていち早く逃げさるとは憤激にたえない。

午後も爆撃はつづいている。これ以上最悪の場合があるだろうか、さいわいソ軍がまだ羅津に上陸してこない。よし、避難命令を出そうと決意した」

その頃羅津の港は岸壁のドラム鑵が破裂して、油は海上にながれ、文字通り火の海であった。

満鉄関係者(家族とも六千名いた)は、一般市民とすこし離れた地区におり、軍と連絡が密であったので、十日朝、待避命令をうけた。全員を三十六班にわけて、統制をとりながら、その日十五時までに水源地に集合するよう命令されていた。

雄基も、羅津とおなじ八日夜十二時前に、十二個の照明弾により全市街は照し出された。それと前後して、その管下土里駐在所は、図們江を渡河して来た快速艇の一団により、襲撃放火された。

雄基の爆撃は、羅津より少しおくれて、九日午前五時頃からはじまった。

まず船と埠頭がねらわれた。船の乗組員の重軽傷者が、雄基にある羅津陸軍病院に収容されたが、それだけでは不充分なので、道立病院にもはこばれた。

市街はソ連機の跳梁にまかし、市民は九日午後、山手方面に避難した。

十日朝五時、木原憲兵隊長、郡守、佐々木邑長、梅津警察署長と実地調査のため来ていた手塚道兵事課長と協議して、九時に退去命令が発せられた。

十一日、警察、兵営、憲兵隊、埠頭倉庫は自爆した。

邑会議員、消防司令吉田伊蔵氏は、十一日夕方まで残り、その夕刻ソ連軍艦が二隻入港して、上陸開始を見とどけてから避難している。

 

 馬乳山の攻防戦

張鼓峰附近のソ軍も慶興より侵入を開始した。九日午前三時半に、雄基郵便局は青鶴出張所からの電話で慶興対岸にて交戦中の情報をうけ、ひきつづき慶興からも同様の連絡あり、午前八時には、ソ軍が青鶴部隊を包囲したと通知し、同時に列車の運行は停止となり、国境方面との連絡をたたれたと報告している。

第百二十七師団(主力は八道河子にあり)隷下の慶興にあった一コ中隊は九日の戦闘で約五十%の損害をこうむったと報告されている。

関東軍は、このソ軍の進攻して来る日を期してはいた。しかし戦法としては、まず山間に入り、迎撃態勢をとるにあった。羅津、雄基にいる日本軍がいち早く退却したのは、この予定の作戦であった。

しかしのこされた人達もいた。雄基附近のある分隊は、敵の海上からの猛砲撃をうけ、気がついたときは、その分隊だけになっていたので、がむしゃらに南下したという。

羅津から転進した一人の兵隊は、国境附近の塹壕に憲兵隊が前線にむかって死守する構えをとり、子供を背にした妻が、その壕で炊事をしつつ「救援をたのみますよ」といった姿は、わすれられないと語っている。

第一線部隊の後退する中に、ただ一つ積極的な抗戦のみられたのは、慶源の馬乳山である。

第七十九師団司令部は、南陽に、第二九一連隊本部(連隊長杉山香也大佐)が慶源の南方におかれていた。開戦直後、琿春を攻略したソ軍は、十三日朝逐次南下して訓戎の鉄橋を突破し、慶源の南方馬乳山に戦車をつらねて攻めて来たった。

第四中隊(中隊長小野長生中尉)はこれを迎撃し、月明山にいた第五中隊(中隊長西本昇一見習士官)が救援におもむいた。この附近は広い平面の密林地帯で、日本軍は、戦車にたいして壮烈な肉迫攻撃をおこなったが、西本中隊の大部分は戦死し、小野中尉も戦死した。

十七日にようやく停戦が徹底し、日本軍は南陽附近に集結し、武装解除をうけた。

この抗戦は、ただ二コ中隊による分散的戦闘であるが日本軍の撤退を追求するソ軍を一時的に阻止する役割をはたしたといえよう。

 

 根こそぎ動員と南鮮軍北上

八月九日午前九時、咸北警察部長から、ソ軍進攻の情報が発表された。羅南師管区兵事部は、この非常事態に、在郷軍人に最後の、根こそぎ動員の召集令状を発し、十日に部隊編成をし、会寧の召集部隊には慶興を、羅津の召集部隊には羅津海岸を、清津の召集部隊には、清津湾の警備を命じた。しかし慶興も羅津も応召と同時に、部隊は退却をはじめていた。

日本軍のあとを追って避難しようとする人達の中にも、召集令状がばらまかれた。民間の工場、その他枢要な地位にある人達もこの危急に、妻子の受難を目前に知りつつ召集に応じた。まじめな日本人は、この召集者に万歳をさけんで見送った。

清津にあった咸北道庁職員のごときは、課長以下、高等官十数名が召集をうけ、これでは行政機能を停止せざるをえないとして、参謀長に抗議してようやく取消されたほどであった。

南鮮で米軍の防備に専念していた第十七方面軍も、にわかに北鮮へのあたらしいかまえをとった。

九日大邱付近にいて、済州島へ転進を準備中であった第百二十師団の主力は京城附近に集結が命ぜられた。

十日、大本営命令により、第十七方面軍は、関東軍の戦闘序列に入り、ついで関東軍の命令にもとづき、咸興を本拠としていた第三十四軍は、第十七方面軍の指揮下に入り、同時に第百二十師団は関東軍司令官の直轄となり、平壌附近に集結を命ぜられた。

当時全州にいた第三百二十師団にはその主力を元山に集中して、三十四軍の指揮下に入るよう下命された。また仁川造兵廠から新しい銃弾を咸興に急送した。

一方、第十七方面軍としては、参謀副長菅井少将を羅南師管区部隊の戦闘指導のため、現地に急派せしめた。菅井少将は七月二十二日から大本営で開かれた会議に出席し、八月四日夜、京城に帰着したばかりであった。

(その大本営における会議は、日本、朝鮮、満洲、中国の参謀長級のものを集めて、最後の本土決戦作戦打合せを行なったのであり七月六日の最終決戦を主張した御前会議の状況がつたえられ、断乎たたかいぬく決意がみなぎっていた。しかもソ軍がこんなに早くでてくるとは、その会議に参席した誰も考えなかったという)

 菅井少将は、九日夜、京城発の急行列車で北行、八月十一日朝五時、羅南についた。ただちに師管区司令官西脇中将と連絡し、その日午後、道庁で渡部道知事、加納警察部長にあい、道としての対策をきき、さらに清津北方広周嶺附近を視察したのち、清津防衛の部隊長を集めて、ソ軍迎撃について作戦をねった。

 空軍の部隊は、北鮮各地にも駐屯していたが、今はソ軍への防備よりも、米空軍にそなえねばならない。また機数も少く、集中攻撃はできないので、待避作戦をとっていた。

 最後の召集令状で集った兵隊は、六割が朝鮮人、それに未教育の二十歳以下のものもいる。これでは戦争ができない。清津防衛のために、もっとも近い咸興の第三十四軍から兵力をかりるよりほかはなかった。

 菅井少将は、十三日咸興にむかった。同少将が咸興についたのは、十四日の朝であり、十五日正午のラジオ放送を第三十四軍司令官とともにきいた。もういくさは終ったのである。

 

  銃のうち方を教えながら

 九日、午後三時清津の埠頭や市内はソ軍の大爆撃をうけた。十三日午前十一時すぎ、ソ軍は清津へ上陸作戦を敢行した。

 その時の戦闘を実戦の体験者にきこう。

 特設警備隊第四五一大隊第四中隊早瀬健吾氏の談(清津日赤病院から応召)

「十二日正午召集されて、海岸附近の警備を命ぜられ、第四中隊は、三菱製鋼に本部をおいた。十三日朝水南橋と輸城橋間の海岸に、陣地構築中であったが、(被服、武器とも不完全であったので運搬しているうちに)十一時すぎ、海上のソ軍から猛然たる艦砲射撃がはじまった。つづいて煙幕がはられ、上陸用舟艇がくりだされた。

高抹山にある山砲三門は、このうち第一上陸用舟艇を転覆させたが、第二舟艇の上陸を許し、第三舟艇は航路をかえ上陸、その後二、三隻は転覆させたが、つぎつぎに上陸をゆるした。(わが山砲三門には実弾三十発くらいしかなかったという)

特警隊第四五一大隊は、はじめて召集された朝鮮人が多く、また十八、九歳のはじめて小銃を手にするものもあり、薬盒もないため、実弾は服のポケットにできるだけいれさせ、とうもろこし畑の中で、装填を教えてソ軍に向っていた。

部隊は漸次後退し、その夕方天馬山中に入り、ソ軍はその後を追って麓まで進出し、まったくの乱戦となった。その頃すでに、大隊長、副官は戦死していた。天馬山の小学校内で、ソ兵七人を殺した。その時の戦闘は、まるで兵隊ごっこで、

「お前はこちらから行け、おれはこちらかを廻るから」

という調子でたたかっていた。ソ軍の服装はきたなく、各自、自動小銃チェッコ銃、小銃をもち、背に小さい袋をもった軽装であった。

 部隊は武器がたらず、その夜羅南におもむき、師管区司令部に武器をもとめたが、あたえられず、さらに駱駝山奪還の命をうけて、陣地にむかい、十五日朝、斑竹町の日鉄社宅に入った。

 その日、濃霧が清津一帯にたちこめている中に、ソ軍機が頭上を乱舞し、ソ軍艦は清津港に横づけとなって艦砲射撃をおこない、日本軍の迫撃砲から応酬さかんであった。

 駱駝山の一方の高い方のこぶをソ軍にとられ、ソ軍はそこに重機をすえて、日本軍に応戦した。わが軍は斬込みをおこなったが、部隊に多数の戦死傷を出し、ついに十五日夜部隊は後退し、十六日夕方羅南に入った」

特設警備隊第四一〇工兵隊(七四五五部隊)に召集された杉原慶一氏談(城津高周波より応召)

「八月十二日、城津で召集をうけ、清津の輸城川の傍の科学博物館に集合の通知をうけ、その夜についた。部隊の八割以上は、未教育の朝鮮人兵であった。

十三日被服をもらっている最中ににわかに砲弾の音がし、‶空襲〟とさけばれ全員防空壕に飛びこんだ。頭上を機関銃弾がとぶ。しばらくしてそれが海岸のソ軍の上陸用舟艇からうたれたものとわかった。

私達は防空壕をでて海岸をみると兵隊がうろついている。敵か味方かわからない。(海岸まで一キロ位)そのうち、自動小銃や機関銃をうってくるので、敵だとわかった。

堤防にへばりついて応戦する。羅南の師管区司令部に救援をたのんだがやってこない。その夜は堤防についたまま夜をあかした。朝鮮人兵はほとんど脱走し、一コ小隊は十二、三名になっていた。

このままいても仕方がない。むしろ敵に突込もうということにきまり午前五時頃、私達は渡河して、ソ軍の中に突入した。乱戦の中に、その地区のソ軍は十二名の死体をのこしたまま逃走した。その時大隊長石井中尉は、ソ軍に二十メートルの近距離で、腹部に銃弾をうけて戦死をとげた。味方はソ軍にあたえた以上の損害であった。

ソ軍の兵隊は、陸戦隊で、給与もよく、戦死者の背のうには、ウォッカ、アメリカ製缶詰、糧秣が一日分入っており、靴は、アメリカ兵とおなじものをはき、七十発自動小銃をもち、雑のうに数千発の弾をもっていたのには驚ろかされた。

羅南地区司令部員がやって来て、勇敢だといってほめ、私達の戦果を公表した。

その日、夜に巡洋艦、駆逐艦来りソ軍はどんどん上陸してきた。夜、羅南に退却した」

 

  日本艦隊の出現

 羅南清津間の別峰陣地に配属された部隊少尉吉岡峻一氏談(古茂山小野田セメント工場長)

 「八月十二日午前四時召集令状が来り、十二時までに清津日本製鉄クラブに出頭を命ぜられた。午前九時についた。

 茂山、古茂山、富寧、羅南の人達ばかりで、そこで一コ大隊が編成された。朝鮮人が六割をしめ、日本人も未教育のものが多かった。私は第一小隊長を命ぜられた。大隊長は山中大尉。武器は小銃のみ、被服なく、国民服に襟章をぬいつけ、帽子だけあたえられた。十三日午前大隊長、中隊長は別峰高地にのぼり、陣地の予定地を物色中であった。突然、私の隊の班長が、

〝小隊長海上〟

 とさけぶ。みれば海面に、長さ十四、五メートルの軽快な上陸用舟艇三隻が、艇頭に機関銃と砲をすえ飛行機の爆音と同じ音をたてながら天馬山の埠頭にむかって驀進している。とみるまにすっと煙幕をはりはじめた。

〝敵!!〟

私は大声でさけんで中隊長に知らせるとともに、兵に弾薬をわたした。煙幕がはられたので視野がきかぬ。附近の高射砲部隊は、高射砲を平らにして二三発うったがあたらなかった。前面の銃の託送できるところに兵を配置して弾こめをおしえた。

 その夜、ソ軍の爆撃機が編隊で来り、三菱、日鉄附近を爆撃した。また上陸ソ軍と交戦する小銃やチェッコ銃がさかんに聞えてくる。

〝日本軍ウラジオに逆上陸せり〟

〝沖縄奪回せり〟

 のニュースがどこからか入ってくる。大隊長は、

〝ソ軍に一部上陸を許したが、前線部隊がおさえている〟

 と発表した。そのうち、

〝帝国海軍来る〟

 誰かがさけぶ。みると海は堂々たる艦隊が悠然とその姿をあらわした。

〝ああ海軍が来た、もう大丈夫だ、早く羅南に報告しなければ〟

 などいっている。

〝今に上陸用舟艇などみなやられるぞ〟

 とみているが、一向にそういう気配はない。その艦隊がソ連のものだと気附いたのは、しばらくしてからだった。

 その夜、ソ連艦は港に入り、埠頭に横づけとなった。友軍の照光隊が来て探照灯で天満山方面を照した。天馬山でさかんにきり込みをやっているので、その援助のためという。照すごとに海から砲弾がうちこまれる。その夜羅南への街道上を避難民の列が、

〝皇軍斬込中〟

 とさけんで通って行く。日鉄社宅に入って休むが、艦砲射撃にすぐ起される。十五日羅南に退却した」

 国境方面から羅南に後退してきた部隊も、新編成され、戦線にむけられた。十四日夜半、ソ軍一コ師が上陸、十五日は上陸したソ軍戦車隊と輸城川より漁港、清津間で、激戦がくりかえされた。その頃、清津の大きな建物は、自他の砲火で炎焼し、輸城変電所が自爆してからラジオはまったくきこえなくなった。

 ソ軍は十六、七日羅南に大爆撃をおこなった。

 十七日、地区司令部は、朱乙に後退指揮下部隊は朱乙北方山地に布陣、師管区司令部は、十三日魚游洞に移り、清津、羅南西方高地に布陣したが、十八日朝、師管区司令官は、吉州に転進を決していた。

 十六日、十八日吉州は大爆撃をうけた。日本軍は生気嶺のトンネルを自爆して、ソ軍の南下をくいとめようとした。

 

  樹立されていた避難計画

 咸北が戦場になるのを予想していた軍としては、一般日本人の避難計画も樹立していた。これは羅津の例をとると、二十年四月に第十九師団防衛会議で現地の軍、憲兵隊長、府尹の集合の際に、軍司令官から極秘命令として示達されたもので、

「その時期は、司令官から府に通告する。咸北のものは、茂山、恵山鎮を経て平南にでる。羅津の場合、鉄柱洞、鹿谷、会寧、茂山、恵山鎮から鴨緑江岸にそって南下し平南の成川にでる」

 というコースであった。

 これはこの年の七月に改めて道防衛本部から第九十八号計画として指示されていた。羅津、雄基の人々に、この危急の時、当局が指示したのはこのコースであった。しかしこの方面の人々は、かならずしも、みなこの会寧、茂山に向ったのではなくて、相当数の人達は、南下する軍人達にまじって、海岸づたいに清津方面にむかっていた。

 

  阿吾地人造石油工場の撤退

 国境近くでいちばん日本人の多かった町は阿吾地の灰岩で、ここには日本窒素系の人造石油の工場がある。

 八月九日午前二時頃、工場の夜勤者は雄基方面に当って、照空灯の光が交錯し、爆弾の炸裂音がさかんにきこえそのたびごとに火焔のたち上るのをみたという。午前六時、空襲警報発令全員工場に集合、「ソ連と開戦」がはじめて通達された。

 午後一時頃、空襲警報の頻繁なために、運転を停止し、午後三時頃、

「工場の諸装置は、敵侵入の場合、利用されないように処置せよ」

 という知事命令がでて工場の各現場では、重要図面の埋没隠匿とか、重要機器の主要部分取りはずし秘匿とかの諸処置をおこなった。この頃

「ソ軍が灰岩より数里の下汝坪まで来り、第一線部隊と対峙中」

 との情報が入り、ついで「落下傘部隊降下の算大なり」とか「阿吾地爆撃さる」などの報知とともに、最初の負傷者が附属病院にはこびこまれた。

 午後六時頃、婦女子の待避命令が来夜に入って社宅部隊の避難計画がたてられ、工場では、全員にあらかじめ用意してあった竹槍が渡され、最後の場合の斬込準備が命ぜられた。深夜、

「ソ軍は阿吾地駅より一里の地点に迫った」

 という情報に病人や老幼者をはこぶ車を手配しようとしたが、牛車は全部警察や憲兵におさえられ、わずかに工場のトラック一台と乗用車一台だけが役立つという状態であった。

 十日午前四時頃待避許可がでて、第一線陣地の江八嶺の背後を目標に、従業員を率いて社宅の者全員進発、午前六時半、従業員もグラウンドに集合し、工場にむかって訣別の挨拶をした後、社宅部隊のあとを追った。

 午前八時、従業員部隊は、社宅部隊においつき、そこで家族単位に編成しなおして、炎熱の中を、時に敵機の襲来をうけながら江八嶺の嶮をこえた。

 病人も老人も子供もあえぎあえぎ歩くこの婉々たる徒歩行進を、第一線部隊のトラック、乗馬部隊、警察憲兵のトラック、牛車がこれを蹴ちらすように追いこして行った。

 阿吾地の人達は、途中で野宿四泊、十四日会寧にたどりついた。

 記録はその時に六千名の日本人は全員灰岩工場から撤退したことになっているが、あとに二人の日本人女性がのこっていた。有地よし子さん(二六)と伊藤和子さんである。

「私は、故郷にかえっても身寄りもないので、ソ軍がくるまでいてその時いさぎよく死のうと思ってのこりました。私がのこるというと、親しかった伊藤和子さんものこるといってきかないので二人でおりました。あとは静かなものでした。朝鮮人が物資をすこし掠奪しただけです。十一日に慶興から二人の逃亡日本兵が灰岩を通って、私達がいるのにおどろいていましたが、その兵隊はまだ阿吾地駅はなんともないといっていました。

十三日朝、ソ軍の飛行機が一台通っただけでした。その朝、阿吾地の菅原憲兵分隊長がトラックに乗ってやってきました。私達にここに止まってはいけないといって、そのトラックで工場の人達の避難している沙谷にはこばれました。

そこで工場の人達にあって、灰岩工場が無事であることを申しましたら、十四日朝トラック二台で引返して避難者のために食糧や衣類をとりに行って、みんな助かったといっていました」

 

  会寧市街を憲兵隊が焼く

 九日午前九時、道庁から川和田会寧郡守に

「羅津に敵軍が上陸したので、羅津、雄基、阿吾地の住民は全員会寧に入るから収容施設をととのえよ」

 と電話があった。会寧郡としては、当時食糧が会寧住民の一週間分しかないので、道庁に対し、食糧の配送を乞うて承諾をえた。十日午前十時道庁から電報で

「羅津上陸軍は、ソ軍と判明した。ソ軍は日本に宣戦布告せり。わが方はこれに応ぜざる見込み」

 と連絡された。

「会寧平野で決戦」を軍は豪語していたが、退却作戦に傾いた。その頃から会寧に、国境第一線から避難してくる人たちがつかれきってたどりついていた。

 駅前はそれらの人々で埋まり、なまなましい第一線の戦禍の昂奮をつたえた。会寧をでて南下する列車は軍がおさえていたが、それらにも人々が鈴なりにのっていた。

 十一日夜、政務総監発の電報が川和田郡守あてに来り、

「日本人官公吏およびその家族は、茂山をへて平南へ避難すべし」

 と避難コースがしめされ、深夜、会寧のおもな日本人有力者が、邑事務所に召集され、以上の電報内容がつたえられ、徒歩による避難が決議された。「徒歩による」とは、軍が列車をおさえているために、民間人の計画的輸送などは到底思いもよらなかったからである。

 十三日午前八時、会寧郡守は、「撤退準備」の指令を発し、その日から日本人の山奥への移動がはじまった。

 十三日夜、鉄道関係の家族達は、列車で南下した。会寧邑民の主なものは戦争の推移をみる気分もあって、茂山郡松鶴洞附近に避難した。

 あとに残った憲兵隊員は、十四日夜会寧市内の警察署、邑事務所、郵便局税関、朝鮮銀行、殖産銀行、金融組合鉄道関係建物や軍の施設に放火し、そのために目ぬき通りは灰燼に帰した。

 十五日朝、会寧に集結した羅津の満鉄関係を主とする人達は、満洲へ避難のため北上列車(十輛)で進発したが、(約二千名乗車)図們駅で(上三峰の鉄橋は十四日自爆していた)ソ軍機の直撃弾をうけ死傷三百余名をだした。

 第二列車(約二千名乗車、これは十四日夜南陽の避難民をのせて清津まで行ったが、交戦中なので、南下できずまた北上したもの)は南陽の背後のトンネルで退避、これらは吉林をへて、二十日から二十一日撫順着、あとに三コ列車が撫順に集結した。(総数六千二百名、この人達は撫順で越冬し、翌年コロ島経由で引揚げた)

 会寧から南下に成功したさいごの列車は、八月十四日にでている。これはその夜、清津の戦場地帯で、四、五時間停車し、各地で避難日本人をのせつつ南下し、十八日朝、京城に入った。

 

  砲煙につつまれた清津をあとに

 九日に暁部隊の撤退開始とともに、清津の警察署、鉄道、その他の家族は集団的に列車による南下輸送をはじめた。この人達は一昼夜内外で京城に入った。

 十一日に、師団長から一般府民に避難命令がでた。避難先は、羅南西方の富潤洞である。しのつく雨の中に避難がはじまったが、そのうちに連絡があって避難取りやめとなった。十二日十一時、一般軍人官公吏家族へ引揚命令がでて、市民にはその夜発令された。

 警察署、憲兵隊(前商工経済会)などの主要建物の自爆と、ソ連の爆撃で清津の町は猛焔につつまれしかもソ軍の進出で、清羅間の連絡が遮断され、名状できぬ混乱におちいった。

 十五日午前五時を期して、渡部知事以下の道幹部および河野清津府尹等は一般避難民を誘導しつつも山にむかった。

 知事は避難民をひきいて山間の等外道路を北進し途中三泊し、十八日茂山に入り、営林署庁舎に道庁本部を開いた。羅南、茂山の軍用道路をつくるために、八月に入てから茂山鉱山の職員および苦力をあげて道路開発工事をつづけていたが、この避難民の中からも日鮮人を工事助力のために人員を割いていた。十五日古茂山が爆撃をうけた。

 

  ソ軍茂山地区へ進駐

 羅津、雄基、清津、阿吾地、慶源、会寧、南陽のほか、満洲地区からの避難民たちは、終戦も知らずに茂山へ茂山へ集ってきた。茂山では、あらゆる施設が解放され、十八日頃、集まった人数は三万とみつもりされた。

 食糧は急をつげて、道当局は府郡面を督励して、その集積に奔走していた。避難民はつぎからつぎへ集まってきたが、一方ソ軍の近づいてくるのをおそれて、南下するものもつづいた。

 十九日、従来軍に専用されていた白茂線は道庁側の手にうつされ、(三分の一は軍人輸送)北村羅津府尹の指揮のもとに一般避難民の列車輸送がはじめられた。当時の実情について北村府尹の手記にみよう。

「輸送順序を戦禍の最も大であったと何人も肯定する羅津、雄基、清津その他の順位にし、各府郡邑面指導者に乗車票(簡単なもの)を交付し、輸送区間はとりあえず、茂山―延社間の折返し運転により、茂山邑滞留者を一時も早く、かつ一歩でも南下せしむることに決定、その旨一般に周知せしめたところ、数日来、軍部側の乗車拒否に解禁を待っていた市民は、なだれをうって集まり、駅構内外を埋めつくし、乗車せんとすると、構内にいた軍人が、大声叱咤、全員を構外に押出さんとする。

甚だしいのは、会寧陸軍軍馬補充部の輓馬、乗馬取りまぜ数百頭集結したものを貨車に積み込んでいる。

白茂線は、狭軌の鉄道であり、貨車一輛に、人間ならすし詰めにして五、六十名、軍馬は六頭が精いっぱいである。機関車の牽引力も最高十二―三輛である。

ある警察署長が、

〝輸送責任者である北村が、羅津府尹なるが故に、羅津府民を第一位においたのは不都合だきってしまえ〟

といって抜剣して駅長室に飛込んできた。かくて十九日の避難民輸送計画は、丸潰れになった。

二十日、全車輛の三分の一を軍部の輸送に割愛、その他は避難民に充てることにつき軍の諒解成立した。

かくて一列車、十六―七輛に編成し、人員も無理詰めにして七、八十名位のせた。駅構内外の混雑は言語に絶する。

狂気の如く先を争い乗車する避難民が、午後四時頃、突如列車から飛降り、構外に出る者もあるので、理由をきくと、

〝今陸軍中尉の軍服をつけた軍人が畏きあたりより停船命令も出た。戦争は、すでに終結を告げたから、お前達はもう避難する必要がなくなった。一時も早く原住地に帰るが良策なり〟

と、警告したという。

我等には、寝耳に水のニュースだ真疑を確かむべく、営林署に人を走らせると、道本部でもさような情報に接していないとの回答、正しく後方攪乱の戦術だ……早速四方に警察官を派し、人相その他によりそれらしい軍人を捜索せしむると、間もなく一人の中尉を連行した。みると羅津に進駐した暁部隊の佐藤中尉だ。

〝本日富寧地区に羅津要塞司令官以下所属部隊が集結している処へ、種村大佐が見え、司令官に停船命令を伝達された〟

という。

何か証拠があるかと尋ねると、関東軍司令官が各隷下部隊に発した命令を半紙四つ切型に謄写した(表日本文、裏露文)もの数枚を、所持している。

尚脳裡半信半疑の域を脱しない。一方全神経が複雑な感情に支配され只呆然と立ちすくんだまま暫し時の経過を忘れていた。

早速、知事の指示をうけたが、避難計画には変更なしということに決った。即刻このことを一般に周知し再び輸送に専従する。

二十一日、終夜運転で邑内滞留避難民は、相当緩和されたと思ったが、後から後から流れ込むので、減少どころか最初にくらべて尚増加の傾向にある。特に昨日頃より阿吾地人石の工員が続々集結してくる。

二十二日、前夜に引きつづき輸送事務に専心、特に延社からの貨車逆送に意を払う」

(北村留吉府尹はその後ソ軍に抑留、二十四年ソ連から最後の引揚船で帰国したが、二十五年十月急逝。本稿は、その逝去一ヵ月前に執筆された遺稿の一節である)

二十一日に、ソ軍は古茂山に侵入し二十二日に茂山に進出してくる予定であった。

 知事は、ソ軍の進駐を一日間待ってもらって、避難民を安全に移動させようとし、加納警察部長、井上一人高等課長、入江国政警部、小手川巡査部長(通訳)の四名が白旗をかかげて山を下って行った。この四名は廃茂山でソ軍の前衛にあい、古茂山のソ軍部隊につれて行かれそのまま抑留となった。

 二十二日から交通関係者自身が南下したために、白茂線は動かなくなり、あとにのこる人達は、徒歩で南下するよう告示文が出された。

 この附近は千メートル以上の高原地帯である。秋草さきみだれ、うつくしい秋色の山々であったが、土地のやせた山岳地帯の食糧難は深刻であった。その上、高冷地であり、朝夕はうす着の身に寒さが一入沁みた。遠く国境方面からつかれきって歩きつづけた人々のなかで、老人子供は精根つきはてて仆れはじめていた。

 二十三日に知事等は延社に移動し、警察署に道庁本部をおいた。当時延社には六千名位の避難日本人がいた。

 

  知事はソ軍の手に

 二十五日、ソ軍イワノフ少佐以下八十名が延社に三台のトラックでやって来て、宿所(署長官舎)で朝食中の道幹部を包囲した。朱乙の奥にいた白系ロシア人のヤンコフスキーが通訳であった。

 日本軍は武装解除をうけ、知事以下二十五名はソ軍の逮捕状をつきつけられ、抑留されて山を下った。その時ソ軍のイワノフ少佐は、

「ロザノフ大将の命により清津の郵便局の裏庭に収容する」

 といゝ、一行の中には、清津電話新しく行政庁が開かれ、そのアドバイザーになると思ったものもいた。

 この附近は食糧の不充分な山地だけに、地元民からこれ以上の協力はできないという要望もあり、二十七日には十二日分の食糧が配給され、吉州、城津をめざして南下するように手配された。

 二十六日ソ軍が白岩に進駐した。日本人代表三十名が出むかえた時、イワノフ少佐は、

「非戦闘員たる日本人には、なんらの危害もくわえない。日本人は各自従前の居住地で生業にいそしめ、避難日本人の衣食にこまつている状況もよく知っている。交通機関が恢復すれば希望港から送還してやる」

 とかたった。

 この言葉を信じて一部雄基、羅津、阿吾地に引返したものもいた。

 咸北から京城に向う列車は十二日まで順調に運行されていたが、それからは不規則となり、城津からでるようになった。咸北の戦場地帯から南にのがれた人達は、城津から汽車で南下した。吉州、城津の人達も、南に避難をはじめた。

ただ吉州の北鮮製紙工場の日本人七百五十名と、城津の南約四キロの双浦にある高周波関係の人達五千名は動かなかった。

 

 山下、パーシバルの額のもとで

終戦の日、朝鮮軍司令部から飛行機で、参謀植弘少佐が羅南におもむいたが、すでに羅南がソ軍の手中にあるために、着陸できなかった。しかたなく

「大命により、八月十五日に停船命令が発せられた」

 という軍司令官のビラを四千枚咸興で印刷し、羅南附近の部隊に空中からばらまいた。

 日本兵はそれを拾っていたが、前線の軍幹部は謀略命令としてうけつけずこれを拾うことを禁じた。

 しかたなく植弘参謀は、第三十四軍日向参謀と同行して、咸興から飛行機で会文飛行場にむかい、その飛行機から徒歩で、朱乙温堡の北の陣地におもむき、侘美少将に停戦をつたえた。

 植弘参謀はさらに、東方山地を北上した。魚游洞の師管区司令部のもとについたのは、十九日午後六時ごろ、おりしも白川参謀長は、二コ大隊をひきいて、夜襲を決行せんとするところであった。すぐ浅野少佐参謀、田中金一中尉が、停戦申込の軍使として、ソ軍側におもむいた。

 ソ軍からの要求で、二十日午前九時に羅南道知事官舎に、西脇師管区司令官、白川参謀長、植弘参謀、浅野参謀、田中金一中尉は通訳とともにおもむいた。皮肉にも、その応接室には、シンガポール陥落の際の山下、パーシバル将軍の額がかかげられていた。

 ソ軍の師団長は、労働者風の赤みがかった肉づきのよいすごみのある男でいうことをきかねばやるぞという威嚇的態度をとり、参謀長はおとなしい作戦型の男であった。

 二十日、十六時までに日本軍は、練兵場に集結するよう命ぜられ、武装解除の指示がつたえられた。会談は十一時におわった。

 植弘参謀は、自分は停戦命令をつたえにきた結果を、朝鮮軍司令官に報告する義務があることを主張して、ソ軍師団長から証明書をもらい、今きた山路を引かえし、城津、咸興をへて、京城に帰り復命した。

 またべつに、参謀種村大佐が飛行機で延吉の村上軍司令官のもとに派遣された。種村参謀は、その連絡をおえた後、トラックで会寧、古茂山をへて、羅南に入り、西脇司令官に連絡をとったのが、二十日十三時、すでにソ軍との交渉のおわった後であり、種村参謀はそのままソ軍に抑留の身となった。

 この連絡により、羅津要塞司令官は十九日に廃茂山にて、隷下部隊にソ軍への降伏を伝達し、武装解除をうけた。

 さらに二十一日、参謀副長久保満雄少将は、副官および岡田通訳官とともに、M・C輸送機で新京におもむいたが、雨のために奉天飛行場に不時着し、そこに張家口から進駐したボブロフ中尉から一晩鄭重な待遇をうけ、翌日新義州、平壌にとび、竹下司令官と連絡の上、咸興に行き、京城にかえった。

 

光栄ある捕虜となれ

しかしこの附近の戦は、まったく混乱状態であり、終戦の真義が解されずまた、武装解除の徹底はむずかしかった。

 羅南地区司令部員陸軍中尉高崎謙三氏の談によると、終戦の情報は、師管区司令部に十五日に入ったという。

 この情報は、侘美少将につたえられまた西脇中将、白川参謀長にもつたえられたが、二人とも信ぜず、侘美少将は、この報を師管区司令部にただしたが、否定したので、そのまま戦をつづけていた。

 植弘参謀によりはじめて確報となった。

 当時魚游洞に移っていた師管区本部にいた者の話をきくと、十八日午後四時、今まで故障で中絶していた無電の連絡ができた時、はじめて終戦の報が入った。それをききただそうとしたが故障で返答がなかったという。

 部隊はデマとしたい気持からかその翌日白川参謀長が夜襲を決行しようとしたのである。

 十八日、朱乙の南方で、ソ軍のタンクに日本軍の将校がのり、またソ軍将校がトラックにのり、日本人の通訳つきで、停戦だから武器をすてろと叫んでいた。

 ある部隊は、十八日に日本軍の飛行機からのビラで終戦を知ったが、デマだとしていた。たまたま植弘参謀にあい、

「終戦を信じない」

 といったところ、

「大元帥陛下の命にそむくか」

 といって大喝された。しかし、

「日本の今後をみとどける前に、玉砕するのはつまらぬ。シベリアに行くくらいなら満洲ににげよう」

 といって逃げ出したという。

 いままで、絶対に捕虜になるなと訓練していたために、幹部も苦心して、あるいは、

「大元帥陛下の命により光栄ある捕虜になれ」

「今回にかぎり陛下は捕虜とはおもわれぬ」

 などいっている。

 また、ノモンハン事件のような一時的停戦だという考は、地区司令部の首脳部ももっており、十八日依る植弘参謀により終戦の伝えられた時、停戦条件を有利にするため、にわかに部隊に北上を命じ、ソ軍に近接した羅南南方二キロの羅赤嶺まで復帰せしめている。

 また武装解除をうけ、収容所へおくられても、捕虜になることを信ぜず、帰国して部下の論功にするために、そのくわしい記録をとった将校もいた。

 終戦をきいて四散した部隊も多かった。

 戦場を離脱して、吉州までにげた兵隊は、二十三日午前十一時、一般人ののる避難列車にのって南下しようとしたが、汽車は発車直後、ソ軍の戦車隊に阻止され、軍人だけ捕えられた。

 

  満洲避難民の南下

 ソ軍は八月九日早朝、北鮮侵攻と時を同じくして、ハイラル、琿春、東寧正面に進攻し、つゞいてハルビン、新京、奉天、公主嶺等の主要都市を爆撃した。

 関東軍司令部は、開戦第一日、早くも予定の計画にしたがって、通化に移動を開始したが、それとともに、新京十万の日本人に、強制疎開命令を出した。当時の事情を関東軍司令部附鉄道官矢能巌氏は左のごとく語っていた。

「九日朝、軍司令部で交通参謀と打合せて、新京にいる非戦闘員はただちに、非戦闘区域にだすことが決せられた。その後、満洲国総務長官によばれて、満洲国と軍との会談をおこない、それが終ったのがお昼すぎであった。その時、第一の疎開列車を午後四時にだすことをきめた。しかし満洲国官吏側としては、その家族達をすぐだすことはできないというので、統制のとれた軍の家族の方からだすことになった。午後四時はのびて午後六時になってようやく最初の列車が進発した。その後は統制のとれた団体から出発することになった」

ソ連開戦とともに関東軍は第十七方面軍に至急電報で左の如くつたえた。

「最大輸送量をもって、新京、奉天地区の一般住民、 満洲国役人、軍人軍属の家族の輸送を実施するにつき援助を依頼す」

 第十七方面軍としては、京城以南が将来戦禍の中心地帯になることを予想し、平安、南北道知事にその受入を依頼した。両道では、それぞれ鉄道沿線の収容建物と受入人数を調査し、食糧その他の準備で多忙をきわめた。

 新京の軍関係家族、満洲国関係家族は、まず平壌に入ったが、その後は、列車が安東から新義州につくまでの一時間におちつく予定地を指示された。奉天、公主嶺からも疎開列車がでて、十五日までつづいて北鮮に入った。

 

  西北鮮に止まった六万人

 関東軍家族の指揮官は、砂糖少将で後に山県少佐参謀がかわり、平壌停車場に疎開本部がおかれた。満洲国側は桑原英治、安井尋志の両氏が代表となり、桑原英治氏が全避難民本部長となった。

 その時北鮮に入った人の総数について、後に新京の東北地方救済総会でまとめた「北韓疎開者状況」には、平北二万名、平南三万八千七百名とかぞえその内訳を軍人軍属家族一万六千満鉄家族一万六千七百、その他一般二万六千としている。

 平壌は、二万一千余、軍関係者、関東局、大使館、在満教務部、海軍武官府特別建設団、新京酒保、新京、奉天の一般市民が集った。鎮南浦へはほとんど新京からで、その総数は七千五百名であった。最初鎮南浦近郊竜岡郡内に(竜岡、花島、徳洞等)千五百名ばらまかれ、竜岡温泉に竜岡地区疎開団事務所がおかれたが、八月二十一日に治安が悪化したために、臨時列車で鎮南浦に移住合流した。

 平南北には新京の人が多かったが、平北には奉天から古邑、車輦館、嶺美に入ったほか公主嶺から南市、外下、内中に約二千名、熱河赤峰から古邑、南市、宣川、亀城、大安に約九百名入った。

 新義州には特定の職域団体は入らなかったが、朝鮮への関門だっただけに、約千名を前後して、たえず出入があった。

 満洲避難民中には、着の身着のままでとび出した人達もいたが、贅沢に貨車をおさえた軍人達は、豚、鶏、味噌醤油はもち論、兵器廠関係のものなどは、木綿、金巾、自動車まで持ってきた上、多額の金を持ち来ったために地元民の反感をかうこともあった。

 各地ともその収容所は、学校、教会寺院、その他公共施設などがおもで、官民、日鮮とも誠意をつくして接待した。しかし到着して三、四日で終戦を知った、朝鮮人側の感情は急変し、収容所はおおく公共的なところだけに追放され苦難の生活に転落して行った。

 この満洲からの避難民で北鮮で留まらず、京城や釜山まで南下し、順調に日本に帰還した人達がいた。その中には航空士官学校満洲派遣部隊の五千五百名、興安中省の約六千名等がいた。