秘録大東亞戦史 朝鮮編 北鮮の憂愁ー朝鮮引揚史 その四ー

太平洋戦争(大東亜戦争)の戦況や実相、推移について、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、共同通信社をはじめとする日本の新聞記者などが、自分の見聞した範囲において記したルポルタージュを編集した書籍。地域方面別に1冊(或いは2冊)ずつ区切って編集したものと、地域方面ごとで区切らずに収録したものがある。

 朝鮮編は、終戦当時、朝鮮総督府の官吏であり、京城日本人世話会のメンバーとして、在ソウルの日本人居留民の保護や引揚帰国の援助を行なった森田芳夫のルポルタージュ5編を含んでいる。

 

Author
森田芳夫
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北鮮の憂愁

  ――朝鮮引揚史 その四――

閉ざされた北鮮。避難邦人は迫る冬におびえつつ放浪する。難民に充満する諸都市。そして寒気が襲い来った。ソ連将校の温情もあったが、所詮、総てを失った人々の悲劇は痛ましい。

      元京城日本人世話会 森田芳夫

 

  咸北に残った人々

 咸北の戦禍の中に、多数の日本人が仆れていったが、戦場の中で生きのびた人達もいた。羅津には十二家族いた。彼等はソ軍が上陸してきてから、満鉄事務所に集結せしめられた。

 清津では福泉町の禅宗のお寺に、勝村勝平氏が中心となって約百名の日本人がいた。上陸したソ軍が町に残った日本人を埠頭に集めたが、その時五百名いた。

 ソ軍はその中から二十一名をひっぱりだして船にのせて、ウラジオにつれて行った。これは捕虜のつもりだったらしいが、九月初めに船で雄基に帰してくれた。

 茂山、白岩で、イワノフ少佐の言をきいてひきかえしてきた人々、満洲から南下してきた人達、附近の山野に難をさけていた人達が、だんだん集って羅津(三百名)、雄基(六百名)、会寧(二百名)、阿吾地(百二十名)、清津(八百名)に集団をなしていた。

 羅津では、府職員宿舎に収容され、海老根三郎氏(親和木材)が団長となり、雄基では辻又治氏(写真屋)が会長であった。会寧では、やけ残りの銀座通り附近の民家十軒に集結、永井勝三氏が日本人会長となり、阿吾地では、人造石油の朝鮮人合宿に集結していた。

 清津では九月はじめに、富貴町附近が日本人の集結地とみとめられ、安村賢太郎氏(漁業経営)を会長に、清津日本人会を結成した。そこにはソ連海軍の直轄地帯となっていて、ソ軍の労務に働いて生活の資とした。

 清津には、これと別に、斑竹町の三菱社宅の一部が解放されて、ここに「清津戦災者日本人会」の看板がかかげられ、清津の実業家石川観一氏が委員長となっていた。ここにはたえず北から避難民が流入して十月はじめに二千五百名を数えていた。あまりに病人が多いのでソ軍の許可をえては、二、三百名ずつ南下せしめていた。

 城津双浦の日本高周波の人達は、技師長岡野正典氏宅に、社宅本部をおいて、統制をとっていたが、十二月に「城津日本人世話会」と名をかえた。

 吉州の北鮮製紙の人達は、九月に勤労課長向井毅氏を会長に日本人会を結成した。

 咸北には、かつて七万の日本人がいた。しかし今は、以上合して約一万余、あとは六千の満鉄関係者が撫順に入ったほか、ほとんど南へ下っていた。ここは北鮮ではとり残されたようなところで、お互いの土地の連絡もできなかった。

 酷寒の冬に各地に共通して、栄養失調、発疹チフスのために仆れる人達が続出していた。

 

  避難民のまち咸興

 茂山、白岩から南下してきた人達は、ソ連兵の暴行掠奪、部落ごとにくり返される保安隊の監視や荷物の検査になやまされつつ、残暑きびしい中を、咸興、興南、元山の都市へ集結した。

 咸興にはすでに、八月二十日、清津から避難民四千名が下車して、咸鏡北道避難民会を組織し、武徳殿にその本部がもうけられていた。(引率者は松岡修二、今村八郎。近藤時次郎氏)

 九月十二、三日、咸興のソ軍司令官は、この人達が京城へ南下することを許し、特別に二コ列車をみとめた。しかし三八線をまもるソ軍は、咸興のソ軍と指揮系統が別であったために、鉄原まで南下した汽車に「出発地に帰れ」とて逆送を命じた。一部が元山で下車したほか、二千二百名は、ふたたび咸興に帰って来た。

 その後、咸興に流入する避難民がふえ、九月中旬には、一万三千名を数えていた。

 十九日咸興駅前広場には、南から咸興に逆送されたものと、城津方面から南下したもの等あわせて四千名が、野宿していた。

 たまたま興南に収容されていた英濠軍捕虜をうけとりに、米軍が京城からやってきた。ソ軍はあわてて、朝鮮保安隊に、日本人避難民を目にふれぬところにおけと命じた。

 保安隊は避難民に「咸興市外撤退」を命じた。

 四千名の日本人は三々五々、万歳橋をわたって、市内をでて、咸興から八キロの新中里で野宿生活をした。

 折からふりだした雨は連日小止みなくふりつづいた。ある避難民は当時を回想してこう語っている。

「叺一枚を頭にかぶったまま雨にうたれて、堤防におきふしの毎日々々に、持っていた米もなくなってきた。とうとう最後の三日間は、食うものの何一つなく、腹の底まで冷えきった身体を、親子でだきあったまま坐っていた。物乞いに行きたいと思いながら、いじめられるのではないかと思って、じっとしていた。夕暮れになって、遠くわら屋根の朝鮮家屋から、夕餉の煙が、雨にたなびいているのをみた時家族達は相擁したまま泣きくずれてしまった」

 この人々は、二十六日に許されて咸興に入り、それから花咲町、曙町、出雲町の遊郭、料亭などがあたえられた。

 しかしそこは、たとえば「鈴川」に二三五世帯七一三名、「由良之助」に二四三世帯七三四名、「一心楼」に一六二世帯四五〇名がおしこまれ、一畳に四名という密集ぶりであった。

 九月末には、避難民は咸南の奥地からの人を加えて、二万七千となり、一万二千の咸興在住民の二倍以上の難民をかかえていた。

 咸興の在住者側では、八月下旬に、商工経済会会頭井上清氏、事務局長土屋惟一氏を中心に、咸興日本人世話会が発会したが、九月一日に前府尹庭瀬信行氏を会長に改組し、一カ月後には、土屋氏が中心になり、十月十日には林良作氏が会長にかわった。

 このたえまない改組は、従来の日本人の指導者達ではソ軍や朝鮮側に何ら力が発揮できなかったことを物語っている。

 日本人住宅の接収がうちつづき、終戦当時の二千二百六十戸が、千二十八戸となり、それに多くの避難民を収容したので、十二月末現在一戸当りの収容人員は、二二・六名という割合であった。

 

  ざん壕式の墓穴掘り

 寒さの訪れとともに、避難民の生活は苦しくなった。着物は真夏に家をでた時のままであり、もち物はながい逃避行でなくなっていた。

 不潔な密集、極度の栄養失調に発疹チフス、再帰熱などが猛威をふるった。

 咸興日本人委員会の統計では、翌年一月までに、死亡者六千四百名をかぞえ、一月の死亡者は、一日平均五十名をこえていた。

 もっとも悲惨であった遊郭地帯の実情は、

「八畳くらいだが、戸障子は全部やぶれ、オンドルはおちたままの北向きの部屋。さむいさむい風の吹きこむその片隅に、わらぶとん二枚をびょうぶのようにかこんで、八歳くらいを頭に三人の子供がかぼそい声を出して泣いている。

〝坊やお父ちゃんいるか〟

 ときくと、

〝父ちゃんは死んだ〟

〝母ちゃんはどうしたか〟

〝母ちゃんも死んだ〟

 そうしてさかんに泣いている。そのそばに人がねている。

〝どうしたのか〟

ときいても返事がない。動かしてみると、一人が死んでいる。一人はチフスの高熱にうなされている。清津から十九名避難してきた一家だが、その内七名がたおれ、八番目が今死んで、九番目が高熱の中に苦悶しているという。その集団には四十名いるが、それを見ようとも、病院につれていこうともしない。いや、どうしてやる事もお互にできないようになってしまっているのだ」

「ある日、日本人世話会の医療部に、みすぼらしい女の人が、子供を背負ってやって来て、

〝私は駅の前で野宿をしているが、今子供が死んだから何とかしてもらいたい〟

 と、おろおろ声でいう。主人はいない。しかも、

〝この背中の子供も工合がよくない〟

 というので、みてやると、すでにその子も息絶えている〟

 子供が病気になっても、たべものもやることができず、いつかな死んでしまう。病気になっても、闘病の気魄もおこらない。死人とおなじふとんに病人が三日も四日もねている」

 という実情であった。

 十月末には、西本願寺に孤児の収容所が開設されたが、収容者二三二名のうちで、六一名は死亡した。

 この避難民の惨状にたいして、ソ軍や人民委員会は、地方に疎開せしめることとして、十一月に興南に千三百名、十二月に富坪に三千二百名、五老に七百二十名、一月には釈王寺に四百五十名を集団的に移動せしめた。

 しかし移動を命ぜられた避難民は、咸興で最低生活にも窮していた人々であった。移動して行ったさきには、施設も食糧も不十分であった。犠牲はさらに重ねられた。

 咸興では、結氷前に当時の三万名中一割が死ぬという計算で、日本人四千名が動員されて、前四十三部隊の裏山に、巾四メートル、深さ二メートル、底二メートルのざん壕式の壕を帯状に掘る作業をはじめた。

 十二月十三日にはじめて、二十四日に予定通り完了した。

 

  ヒューマニズムにもえる二人の戦士

 咸興に異色ある日本人が二人いた。その一人は、咸興合同木材会社の磯谷季次氏であり、もう一人は西松組職員松村義士男氏であった。両氏とも、真摯な性格で、かつては朝鮮人労働者のために果敢な闘争をおこなった前歴をもち、朝鮮人側に絶大な信望があった。咸興日本人世話会の人達は、両氏に新しい期待をもちはじめていた。

 十一月に入って、磯谷、松村連名で、咸興における避難民、ことに清津からきた日鉄関係の二千名余りの窮民に米がほしいと嘆願書を提出した。これら窮民は、資本家でも搾取階級でもなく搾取された労働者ではないか、この二人の主張が、市の共産党に認められ、百五十石の米が廻されたのだった。

 それから磯谷、松村二人の活躍ははじまり、日本人問題の指導的地位にたつようになった。

 磯谷、松村氏はともにヒューマニズムにもえた戦士だった。今は人民委員会の主権をにぎるかつての同志達に、現に北鮮でおこなわれている共産主義革命が、ともすれば民族ファッショ的傾向にある事例をつよく指摘し、日本帝国主義遂行の支柱たる軍隊、警察官、行政官の幹部は、すでに抑留されて、いま残る日本人は決して、新朝鮮建設の敵ではないとのべ、その日本人を飢餓線上に追いやる現状に、ひとつひとつの実例をみせて、大きな反省をもとめた。

 新しい建国の理想にもえる朝鮮人指導層は、正しい主張に謙虚だった。はじめて日本人避難民の収容所をのぞきはじめて日本人の食べているものをみた。

 やがて、この日本人避難民の惨状は、道検察所や党の責任者が直接視察して良心的に解決する努力をつづけ、検察の当事者は、ソ軍司令部にその惨状を報告した。

 ソ軍はこれをとりあげ、興福寺、医専寮を病院とし、伝染病院であった回春病院を日本人のために解放を命じたほか、もと日本陸軍病院であった済恵病院にも、四百名の患者を収容して、ソ軍軍医ペトロフ少佐が院長として、直接その治療にあたった。

 しかし、その後ペトロフ少佐は、発疹チフスに感染して、殉職死亡した。

 十二月に入って、日本人世話会は、咸北避難民団と合流して、日本人委員会と改称した。幹部の人選には、磯谷、松村両氏が主としてあたり、兵頭鉄蔵氏(醸造業)を委員長とし、轟謙次郎氏(前咸興地方交通局長)、蜂屋賢次(咸興新報編集長)、近藤時次郎(整骨柔道師範、清津警防団長)氏が副委員長となった。

 地方交通局長、警防団長のような肩書のある人が加わることについて、朝鮮人側からはげしい反対があったが、磯谷、松村両氏は、この反対をおしきって良心的な人物としてすいせんしてその承認を得るのに、二日をついやしている。

 それまで、日本人の勤労奉仕に対しては、充分な報酬がなかったのを、問題にして交渉し、一般労務者は一日五円、特殊技術者は一日八円の公定賃金をきめた。

 朝日町に日本人商店街も開かれた。

 住宅問題についても、党に交渉し、日本人家屋は絶対に接収しないこと、接収する時は、かならず代りの家をあたえるという言明をえた。糧穀の配給も、改善され、とくに二月に入って、ソ軍司令官から、日本人避難民全体に米四合、七歳以下二合、魚大人一日六十グラム、子供十歳以下三十グラムを十五日分ずつの配給が命ぜられた。

 これは、全北鮮の日本人避難民におこなわれ、「スターリン給与」といわれたものである。米十五日分の配給をうけた日本人は、夢かとばかり驚喜したものだった。これから死亡者はぐんとへった。

 

  富坪の惨劇

 十二月に、咸興から富坪に疎開を命ぜられた三二八二名は、咸北の第一線から茂山、白岩の山中をさまよい、苦難の末、咸興に入り、先述の遊郭地帯で、病魔、死魔の中を彷徨していた人達である。

 疲れはてた身体をどうやらおこして行けといわれた富坪は、もと、日本陸軍の演習廠舎だった。

 ここは終戦後、日本軍捕虜が抑留されたところで、その後荒れ放題にあれ、九棟の建物のうち、六棟までは窓ガラスが完全になかった。衣類、寝具もあたえられず、ただ叺二千枚があるだけだった。

 ガラスのないために、叺がぶらさげられた。炊事施設はなく、各自がめいめいの部屋の中で炊事をした。

 採光はできず、炊事の煤煙は室にいっぱいとなっていた。零下十五度を上下する厳寒である。

 朝鮮人民委員会の方では、最初これではあまりひどいから、健康者や事情のゆるすものは附近の農家に分散させて、手伝いをさせながら越冬させる計画をもったが、ここに配置されたソ軍隊長は、ゆう通のきかぬ軍人で、この集団を捕虜とまちがえてか、一切の外出移動を禁じた。

 わずかにあたえられた配給以外、買物もできない。栄養失調、発疹チフス、再帰熱の死者はつづいた。

 一月半ばに、ここを朝鮮側の検察当局が調査して、死者と病者のその凄惨におどろいて、実相とその原因を究明した意見書を発表して、

「一日も早く死滅の深刻から救わねばならぬ」

 と緊急な対策をもとめた。

 米の配給がおこなわれ、咸興日本人委員会から衣類がおくられ、医療の改善がすすめられたが、しかし四月までに、死亡者一四三一名を数え、逃亡者四〇〇名を除けば、死亡率四割、北鮮でもっとも多い犠牲をだしたところである。

 終戦当時、会寧郡守だった川和田秋彦氏の一家も、この富坪に流れこんでいた。翌年五月五日、脱出がみとめられる時、この富坪廠舎のうら山の死亡者の墓地で、――みんな土葬――慰霊祭がおこなわれた。墓石とてなく、ただ松の木をけずって、「嗚呼戦災日本人の墓」と刻して、そのうしろに

「この地に死亡した日本人四百三十一名の冥福を祈り、残留日本人これをたつ」

 と記した。

 川和田氏が追悼文をよみあげた時、全生存者は声をあげてなき、山野をゆるがすほどであったという。川和田氏自身もここで二人の子を失った。

 吾子ふたり非業に死にし引揚の

     かの思出は消ゆるときなし

 川和田氏は、

「行ける時があったらと思って私の子供を埋葬したところは、わかるようにしてあります。いつか行って骨を拾ってきたい」

 と語っている。

 

  工都興南と日本人技術者

 日本窒素興南工場が朝鮮人側に接収されると、日本人従業員は入場禁止となった。日本人技術者がいなくなれば工場は動かなくなることは分っていたが、

「工場を日本人の手でつづけるよりも朝鮮独立の象徴として、朝鮮人の手にうつすべし」

 という革命時の主張が勝をしめ、朝鮮人労働組合の生産管理にうつされたのである。

 興南の日本人人口二万五千名の内、九割は工場関係者であり、この処置はもっとも大きくひびいた。

 九月十五日から、日本人は従来の社宅から追放されて、せまい朝鮮人工員社宅に、二、三家族ずつ入ることとなった。

 終戦直後永安工場にいた千三百名、朱乙、吉州の日窒従業員、それから茂山、白岩から南下してきた阿吾地人造石油の人達が、親会社をたよって入ってきた。十一月には咸興から千三百名が疎開してき、避難民は一万一千をかぞえた。

 冬が近づくとともに、これら避難民の死亡者はふえて行った。日本人の土葬の墓地は、鷹峰里の背後の三角山が指定され、毎日十いくつ、二十いくつの屍体がはこばれた。

 十二月になると、ここにも各地区に長さを割あて、使役部隊によって墓壕をほったが、それも一月末にはいっぱいになってしまった。厳寒の中で、朝早く行つて焚火をしながら、掘って夕刻埋葬ができる状態だった。春までの埋葬者は、三千をかぞえた。

 興南在住者では身よりのない少年工――この人達は終戦直前に、わざわざ内地から募集してきた年端もゆかぬ人達――の犠牲が大きかった。

 十月中旬に、二百名の者が、給料三円五十銭、食糧五合配給の約束で、終戦後はじめて工場に働くことを許された。それは、もと囚人の仕事の硫安荷造係と興南蒸気係であったが、愛する工場に働きをうる喜びにみちて、一生懸命であった。

 やがて、工場のあらゆる部門に、日本人人夫が要求された。給料は十二月末に最高八円になり、その後人夫の数も次第に増し、三月末には、興南工場千二百名、本宮竜興工場千名、製錬所火薬に五百名の人達が働いていた。一方朝鮮人側から、

「朝鮮建国のために、興南工場の生産をあげねばならぬ。それには優秀な日本人技術者をむかえねばならぬ」

 という声がおこってきた。

 十月二十日に平壌から鄭濂守氏が支配人として工場に派遣されてくると、京城から集めた朝鮮人技術者で調査企画部が作られ従来の労働組合の急進派を追出すとともに、日本人技術者をむかえる工作にうつった。

 十月下旬に課長、係長級の十二名が嘱託として入り、さらに、十一月下旬宗像英二、大島幹義、昆吉郎氏ら課長級十六名が、支配人直属の調査企画部に籍をおいてから、日本人の技術者の発言は強くなっていった。

 日本人技術者には官舎もあたえられ待遇もよくなった。とくに翌年四月から、生産計画実施に際しては、多数採用し、技術者(工業卒業以上)四百五十名、事務者九十名、技能者千九百五十名、合せて約二千五百名を数えるにいたった。

 日本人の技術者には、

「従来の日本人のためというせまい観念をすてて、インターナショナルの見地から、朝鮮建国に協力しよう」

 という意見と、

「こういう環境で自己技術に陶酔して生活するよりも、一日も早く帰つて祖国再建のために一層の精進をはげまねばならぬ、今は生きるために働くのだ」

 という意見がたえず対立していた。

 十月から十二月にかけて、ソ軍は満洲で撤去した重要工場施設の物資を運んで来、その荷役作業に日本軍の捕虜が使われていたが、やがてそれにも、一般日本人の参加がもとめられた。

 興南では、九月一日に前府尹坂口実男氏を会長に、長野五助氏(元府尹)、速水源治氏(日笠運輸)を副会長として、日本人世話会が発足していたが、十月十日に改組して、在留民の九割をしめる日窒従業員に重点をおき、会長に速水源治氏がたち、委員には、日窒系の者がえらばれていた。

 十月末にまた改組して、咸北避難民団が合流した。一月に興南日本人居留民会と改称し、委員長伊藤祐義、副委員長菅公義、上野百合一、江藤茂氏の陣容となり、ソ軍や朝鮮人側との関連はきわめて順調となっていった。

 興南は港である関係から、漁船にのって注文津にむかう脱出がおこなわれその船賃は、一人千円が相場であった。しかし成功率はあまりよくなく、とくに巨額の金をもって逃れようとした人の金は、たいていまき上げられて、日本人会の難民救済費に廻された。

 

  親日的なフレンノブ司令官

 元山日本人世話会は、八月末に松本五郎(金物商、府会議員)、佐藤広吉、小林武治(商業)の三氏を委員として発会した。

 北からの避難民は七千余、その内三千余名は各住宅に間借り形式で住込んだが、他はやはり寺院、料亭、遊郭等三十余カ所に収容された。

 元山では、最初食糧が配給されなかった。松本日本人世話会長がこの実情を訴えると、ソ軍司令官は、

「一カ月以上配給がなくても騒ぐことはあたらない。我々はドイツ軍に追いつめられて、のまず喰わずで二カ月も戦った。終りには、ねずみまで、くいつくした」

 といいながら在住民だけには配給をしてくれた。

「避難民のほうがこまっている」

 というと、

「ソ軍の方は、かれらに退去命令も避難命令もだしていない。かれらが勝手に右往左往して逃げまどっている。従ってソ軍は、これら避難民を国際法上救済する義務はない。一応、みんな原住地にかえせば、彼地の司令官が救済する」

 といって考えてくれなかった。その内、ソ軍から労働者をだせという命がでたので、

「在住民は軍人に召集されていない。しかし避難民にはいる」

 と答えたところ、それをだせということになった。その報酬に現物食糧支給をもらい、避難民の原地に帰れというはなしはいつしか立ち消えとなった。

 満洲の重要工場の解体物資は、元山港からもつみだされ、日本人は十月から翌年三月までその作業に働いた。また葛麻飛行場施設の解体にも動員された。

 十月に、日本人世話会でロシヤ語講習会が開かれ、毎日一時間ソ連海軍中尉が出講し、二月下旬までつづけられた。

 また十一月には、日本人小学校が旭町分室で開かれ、午前二時間は、一、二、三年生に、午後二時間は、四、五、六年生に、算数、理科、体操の三科目が教えられ一月はじめに発疹チフス発生によって閉鎖になった。

 十一月上旬に日本軍陸軍病院(院長古賀貞敏、副院長上田竜太郎)がソ軍の管理に移り、そのまま世話会病院として発足した。その衛生兵は消毒班を組織して、避難民の各集団や各町会の発疹チフスの撲滅につとめた。

 ロシヤ語講習会や、小学校の開設や、陸軍病院の再生など、これらはとくに親日的なフレンノブソ軍警備司令官の好意によることだった。

 しかしこの地も、越冬期の死亡者千三百名をかぞえ、そのうち避難民の死亡は千名をこえた。

 高原では、はじめ東拓農場倉庫に、十一月から高原駅の寮に五百名の人達が集結した。このうち、九十名が病死している。角野竹蔵氏が日本人世話会長で健闘した。

 

  全財産を朝鮮へ譲渡して

 江原道では、高城(安達庸氏会長)、長箭(岡田村市氏会長)、庫底(和気孫吉氏会長)、襄陽など、いずれも集結させられ、財産も没収されている。表面的には民族的感情も強かったが、醇朴な漁村の朝鮮人の愛情につつまれて、脱出もその年秋から冬にかけて黙認され、船で釜山へ南下した。

 庫底の和気孫吉氏は、道庁から早急に引揚げるようにいってきたが、きかず、氏の経営する和気漁業部の朝鮮人従業員に、氏が四十余年間活動の全財産(当時の金額にして四百万円位あったという)を譲渡し、それを平等にわけるようにつげた。「私はいずれ領事館ができる頃、またきましょう」というと朝鮮人は感激して、その後も変わらぬ親愛の気持をもちつづけた。氏が朝鮮人にあたえた船は二十隻以上あったが、朝鮮人は、「その船で日本人は早く荷物をのせてお帰りなさい」

 といっていた。

 和気氏は、庫底の人達すべての引揚げた最後に、翌年三月脱出している。

 

  黄海道の人々

 海州では八月十七日「海州日本人世話会」がうまれ、初代会長は万代竜介氏であったが、二代目河野定吉、三代目河瀬貫四氏と旬日ならずして交替し、九月末にはソ連から解散命令をうけた。

 その後、十月の終りになって、樋口甲子蔵(金物商)副会長猪股宏(鐘紡水産加工品工場)木佐貫浩蔵(元府尹)氏の陣容で、中町の天理教を本部として新発足した。

 清津斑竹町に集まっていた避難民のうち、ソ軍の許可で貨車生活をおくりながら南下してきたもののうち六百名が、十二月になって平壌を経由して海州に入ってきた。これはほとんど発疹チフス患者であった。

 海州日本人会は、幹部や婦人がけんめいになってその看護、給食にあたったが、死亡者百名をだし、海州の看護人も感染して二十余名の死亡者をだしている。

 兼二浦は、日本製鉄所の町である。八月末に「内地人クラブ」結成、田所怜氏(日鉄総務部長)が会長となっていたが、その後「日本人世話会に」となり、総代に製鉄所長桜井秀三氏が就任した。

 九月中旬に、兼二浦にいる全日本人六千余名が、町から六キロはなれている湊町三田面の住宅に集結を命ぜられた。ここは大同江と黄州川で区切られた洲に、溶鉱炉からでるノロ(ヽヽ)(鋼滓)をうめたところ、掘れば海水がで、乾けば潮のふく地帯である。はじめ、朝鮮人の工員社宅地としたが、あまり条件のわるいところなので、未完成のまま放置されていた。

 十一月十五日に、小林治郎氏が総代となった。三田面の集結地には、ソ軍が婦人を強要することをふせぎ、また火の用心にそなえて、世話会で見張人をおき、これを警備隊といっていた。ところが、それがいつしか日本人の脱出監視隊となり、脱出者があると、あとを追いかけてきてこれをつかまえてなぐるけるの暴行を加えた。北鮮で日本人が日本人の脱出者を暴行で阻止した話は、兼二浦だけである。

 清津にあった日本製鉄の職員や家族五百名が、終戦直後兼二浦をたよって避難していた。この避難民の指導者は労務課長新山半治氏であった。いずこの地でも避難民の犠牲は大きかったが、ここでも発疹チフス患者がでて、四、五十名の死者をだしている。避難民は在住者に迷惑をおよぼすことを考えて、大晦日の夜、一月十二日、二月十一日の三回にわかれて脱出した。この三回目の組の脱出の際、深夜人しれず収容所の中を大掃除し、残すふとん類、食器などもきちんと整理していた。病人も一人残らず肩にし、戸板にのせて南下し、その美しい去り方は兼二浦の人達を感激させた。

 黄海道の他の地の日本人も、地区ごとに日本人会をつくった。沙里院では最初松本治雄氏が、十月から鈴木嘉平氏(農機具商)が会長になった。

 安岳は最初、岡田謙作氏が会長であったが、生駒大五郎市(安岳中学校長)が代った。

 載寧は、佐々木隆平氏、新幕は磯部貞次郎氏、黄州は古屋辰雄氏が会長であった。

 黄海道は、食糧がゆたかで、地もとの人で伝染病で仆れたものはほとんどなかった。新幕や沙里院では、北方から汽車で南下してきた避難民で、名もしれず仆れて行ったものは多い。安岳で三十二名の女性が、ソ軍におかされたという報告がいたましい。

 沙里院ではソ軍の命令で日本人は米のつみ込作業に奉仕させられていた。それは、

「ソ連におくられた日本人捕虜にたべさす米だ」と説明されていた。

 引揚の情報は出ては消えた。兼二浦の一例――十月の中旬には日鉄の船が二隻入ってくる。十月二十日頃から一日二百名ずつの列車輸送となるらしいソ軍と朝鮮側と交渉中で十一月十三日に署長から何らかの発表がある。平壌の人達は一部ひきあげ、引揚切符も配布された。鎮南浦から船で帰れる。元山から敦賀におくられる。来年の四月になりそうだ……。

 一人がなにか言うと、次の日には、集結した全日本人に拡った。そして、日本人はそれに明日の希望をかけてはうらぎられていた。

 

  幹部の交替をくりかえす平壌日本人世話会

 平壌は、北鮮駐屯ソ軍司令部の所在地である。また終戦直後、各道に結成された人民委員会は、十月にその人民委員会代表大会を平壌でひらき、翌年二月には、金日成氏を委員長に臨時人民委員会が結成された。

 政権の所在地は政治力が直接浸透する。日本帝国主義勢力の一掃、日本人の移動禁止命令は、平壌の日本人にきびしくひびいていた。

 平壌日本人会は、はじめ今井頼次郎氏(西鮮電気社長)を会長、本島文市氏(弁護士)として発足したが、九月初に今井氏が拘引され、本島氏が会長となり、九月下旬に本島氏も拘引された。

 その後、 その後、大幸一郎氏(電気商)が会長となり、副会長に中村富一氏(鉄道病院長)藤井鉄蔵氏(証券業)がおされ、華頂寺の二階に事務所がおかれた。

 その頃、人民委員会は北鮮の名望家曹晩植氏を中心とする民族主義派に対して、共産主義者は、ソ連の勢力を背景にようやく発言権が大きくなろうとしていた。

 平壌日本人委員会も献金問題からこの両派のあつれき(ヽヽヽヽ)にまきこまれ、十一月下旬には幹部が抑留されて壊滅状態になり、鈴木四郎氏(日本穀産)が会長に代った。

 鈴木氏は声望があったが、十二月末に発疹チフスで死亡し、朝鮮語の上手な香川憲一氏が会長になった。その後は、避難民側との連絡が円滑にゆかず、また日本人救済の推進体となることがむつかしかった。

 

  平壌の満洲避難民

 平南北に入った満洲避難民のために終戦直後、朝鮮人側や、ソ連機関に交渉をすすめ、全員を満洲、日本に帰すことになり、北行十六列車、南行十四列車の手配をえた。

 しかし南行列車は、それだけの人数の切符がなくて、京城にとりにゆくことなど相談しているうちに、三八線は、機関車は通るが、普通列車は通さぬことが発表されて中止となった。

 北行の方は、満洲から貨車を入れてくれるなら出そうといっていたが、ようやく、八月下旬から九月上旬にかけて四列車が進発した。

 六万名のうち、約一万名近くの満鉄関係が八月末に、七千名の満洲国官庁関係が九月はじめに満洲に帰った。

 平壌の避難民団本部は、はじめ平壌高女におかれたが、九月下旬に若松国民学校にかわった。

 最初ソ軍の日本人関係の最高責任者は、デベデフ少将であった。避難民団から満洲避難民の帰還を依頼した時、「十一月頃帰還できよう」といっていた。

 満洲避難民が、満洲紙幣の兌換をしたことが、朝鮮金融をかく乱することになったとの理由で、保安隊は満洲避難民の所持金の提出を命じ、鮮銀券三百七十万円、満銀券五百万円、日銀券二百万円をまきあげ、その日から、一人一日三円ずつの割で(それがやがて二円になり、一円になったりしたが)生活費として返還支給されることとなった。

 十月にソ軍司令部で、バラサノフ政治顧問(文官、中将待遇)が日本人関係の責任者となった。バラサノフ氏はかって日本にいたことがあり、日本語が巧みであった。彼は、北鮮にソ連の技術を輸入したいが朝鮮人はソ連語を知らないから、過渡期的には日本人をつかいたいという意見をもち、桑原英治氏(満洲避難民団長)に日本人技術者を要望した。

 桑原氏は、技術者を入れることと交換条件で、避難民の引揚問題を解決しようとして、満洲におもむき、以後満洲避難民の全責任は、石橋美之助氏(関東局)に移った。

 満洲避難民団と、平壌日本人会は、全然別個の組織であった。

 清津や平南北から流入した避難民も平壌日本人会で世話をせず、この満洲避難民団の統制下にあった。

 避難民に仕事はなかった。もちものは売らせなかった。商売も許されなかった。十月はじめに、米と雑穀の配給が若干あったが、十二月からそれもなくなった。九月下旬から十月にかけて、もと軍人だったものは逮捕され、婦女子が九割五分をしめていた。

 収容所は接収されて転々とかわり、賑町の遊郭地帯に二千三百名、ほかに崇実中学(八百五十名)、下船橋(八百名)、鉄道町会(七百二十名)など、合せて二十五カ所の収容所があった。

 やはり一畳に二名ないし、三・五一名という密集ぶりであった。

 老人と子供は早く死んだ。五才以下の子供は、一人もいない集団は多かった。火葬にするにもお金はなかった。六キロ郊外の竜山墓地まで、その死体をはこばねばならなかった。

 日本人会の葬儀係牧島正臣氏らが、人のいやがる仕事をひきうけて、死体の埋葬に奉仕した姿は、尊いものであった。

 翌年四月二十日、この墓地に石碑がたてられた。その世話人となっていた松木福次氏は、縮尺二百分の一の埋葬地平地図をつくって、その一人一人の埋葬位置に番号をつけ、名簿とともに、平壌日本人会に提出した。その名簿は紛失して今みつからないが、松木氏の手もとにある墓地図によって、一人一人の埋葬をかぞえると、二三七一名ある。

 今、南方各地に、日本人戦死者の遺骨供養の派遣団がおくられているが、この北鮮の地を日本人のたずねるのはいつ頃であろうか。

 

  命がけの歎願

 ソ軍に、帰還嘆願書がいく度かだされたが、きかれなかった。

 一月十三日に、石橋氏は死を決して、バラサノフ政治顧問に、避難民救済に関する歎願書を提出した。それは二カ条からなっていた。第一は日本人避難民に食糧の配給をしてもらいたい。第二はさきに強制的に供出させられた現金の残金を返してもらいたいことのべていた。この歎願書は早速、チシチャコフ司令官に届けられ、そして翌々日、ソ軍参謀長イグナトフ大佐の許に関係者がよばれ、朝鮮側に厳命が下り、避難民の出した金は、日本人の手にもどされることになった。

 バラサノフ氏は、石橋氏の人格には深くほれ(ヽヽ)込んでいた。石橋氏は毎日のようにバラサノフ氏と会談して、日本人救済策を講じていた。

 二月一日から、咸興地区と同様にソ軍から満洲避難民に、一人一日主食四合の配給実施となり、ここでも二月以降避難民の死亡率はぐんとへった。

 一方、日本人技術者獲得のために、満洲におもむいていた桑原氏が、一月十日に技術者名簿をもって平壌に帰ってきた。しかしバラサノフ氏は、米ソ会談で京城に出張した留守で会見ができず、そのうち氏は発疹チフスにかかって病没してしまった。

 北鮮に入った避難民の悲惨なことは満洲にもつたえられ、よびもどし運動がつづけられ、十一月下旬から二月にかけて五千名が帰って行った。

 一月末に、長春から、もと新京商業学校長神崎邦治氏が、奉天からは水崎氏が決死の覚悟で平壌にはいってきた。

 その頃、中共軍の進出で奉天、安東間で交戦があり、バラサノフ氏の忠告もあり、ついに神崎氏は思いとどまったが、水崎氏は奉天組を引率し、二百十名だけが満洲に入った。あとの千名は、新義州まで行って、帰ることもできなくなり、対岸に満洲の地をみつめながら、新義州と竜岩浦の間の府羅、竜岩浦、北中、楊市に分駐させられてしまった。

 

  秋乙の救世主ミルグノフ少佐

 平壌にいた軍人軍属とその家族は、八月末にソ軍との協定にもとずいて、平壌から六キロはなれた秋乙の陸軍官舎に集結し、四千名を数えていた。この地にはソ軍が屯営し、別に朝鮮人もいないので、朝鮮側の政治的干渉のない特殊な地域となっていた。

 はじめここは、平壌日本人会の統制下におかれていた。平壌から、もと日本軍人であったものの追求がはげしくなった時、これをさけるため、ソ軍ミルグノフ少佐の特別の配慮で、全員が駐屯ソ軍の使役要員となることになった。

 十一月下旬に平壌とは別の秋乙日本人会が結成され、佐藤豊吉氏(造兵廠平壌製造所長)が会長にえらばれた。

 日本人全員に完全な相互扶助制を実施し、靴修理(のち二工場を持つ)洗濯場、ミシン工場、自動車修理、大工、左官、食糧運搬、病院売店、理髪などから倉庫番にいたるソ連各部隊の人夫仕事をひきうけた。実動人員は毎日五六百名にもなり、その収入としての賃金や物品で全員の生活をたてていた。「働かざるもの喰うべからず」誰もかれも実によく働いた。

 竹下師団長夫人も、さいごまで、洗濯の荒仕事に働きつづけていた。

 それに秋乙に移動の際、各部隊から食糧を多く持ちはこんでいたし、ソ軍からはいつも食糧の配給をえていたために、犠牲者はきわめてすくなかった。

 翌年八月までに、死亡者は自殺者をふくめて四十名位であった。反対にその間に生れた者は六十名もいた。

 秋乙の周囲には、悲惨な日本人避難民が生地獄の相を呈していたが、ここはその人達からみれば天国のようであった。発疹チフスも再帰熱も一人の患者もなかった。平壌から乞食となって日本人がよくやってきた。

 

  鎮南浦の敢闘

 鎮南浦に終戦時に在住した日本人は八千余名で、満洲から入った避難民が八千五百名いた。

 鎮南浦日本人委員会は、最初、河村国助氏(商工会議所会頭)が会長で、鈴木隆助氏が副会長、事務所は竜井町の平壌毎日支局におかれていた。

 満洲避難民は、南三和町の朝日旅館に本部をおき、吉田蔵人氏(林産公社理事)が疎開本部長であった。

 避難民ははじめ、一部は学校などの公共施設に、他は一般人住宅に同居し、二千名は朝鮮人側に同居していたがのちに学校や社宅に入ることになった。

 十二月に入ってから、鎮南浦日本人会と満洲疎開団の一体化の必要性が叫ばれ、地元の湯浅代助氏が会長に、副会長に吉田蔵人氏と松原寛氏(日本鉱業庶務課長)がなり、二月に松原寛氏が会長に、横瀬政雄氏(理研軽金属)が副会長に就任し、さらに、六月に横瀬政雄氏が会長に、松田悟氏、岡藤次郎氏が副会長となった。これら幹部級の人達はみな四十才以下の若さで一致協力して、日本人救済に挺身した。

 とくに、日本人会は、全会員が共同予算の上で生活をするたてまえをとっていた。十月に日本人勤労組合が結成されて、収得労賃はすべてプール計算をして、弱者を救う方策をとった。労務は埠頭や鉄道荷役、大工、左官等が主で、その他十二月頃から煙草まきその他の授産に携わる者も多かった。

 満洲避難民は他地区と同じように勤労年令の男子はきわめて少なく(十二月現在で十七才から四十五才までは、六、六四七名中三八七名)その生活もやはり困窮をきわめ、ここでも千五百名の死亡者を出した。

 はじめのころ、鎮南浦から闇船による脱出が企てられたが、警戒が厳重なために成功率は少かった。陸路では平壌を通過せねばならないので、脱出は非常に困難であった。

 順川(三菱化成工場)、成興(日本鉱業金山)、勝湖里(小野田セメント)、岐陽(朝日 順川(三菱化成工場)、成興(日本鉱業金山)、勝湖里(小野田セメント)、岐陽(朝日軽金)、降仙(三菱製鋼)、价川(日鉄鉱業)など、みな日本人は集結させられた。それぞれ事業場で、一度追いだされた日本人技術者の中から少人数が採用されたが、他は一般の作業に働いて冬を越していた。

 

  平北の各地

 新義州でははじめ多田栄吉氏を会長に、長沢昭夫、足立利夫氏を副会長に、日本人世話会を結成し、事務所を本町国民学校においたが、多田氏が拘引されてからは、大田庫次郎氏が会長となり、常盤町国方商店と井上商店に事務所をおいた。十二月に会長に朝来野甚平氏(元税関吏)副会長に子迫新太郎氏(鴨江日報)がえらばれた。

 世話会は「一人の餓死者をも出さざる帰還」をモットーとして、帰還の日をまつ一方、九月中旬から朝鮮側およびソ連の要望に応じて勤労奉仕にも出動した。

「われわれの現下の勤労には二つの面がある。一は将来の善隣たる朝鮮建国にたいする協力の勤労、二に好まざるになし来った三十余年間の支配に対する償いの勤労」

 これが、当時世話会の回覧に出された言葉であった。

 男は十六才から五十六才までのものが勤労該当者として登録され、その出動率は九〇%の好成績であり、男は四日に三日、女は三日に一日出労した。しかし、これだけでは生活費は不充分であって、その余暇には各々薪割や運搬をして収入を計った。女学校三四年は紡績工場に、一年生は煙草工場にかよった。そのほかソ軍接待の為にキャバレーおよび貸席も世話会で経営した。

 満洲避難民の収容所清明寮(元師範学校寄宿舎)に発疹チフスが発生したが、二十名の死者だけでくい止めた。

 江界は八島茂氏、満浦鎮は鶴田武男氏、青水は森本盛滋氏、水豊は広田種雄氏、定州は高橋六郎氏、宣川は米村政次郎氏、岸本吉尾氏、義州は中村偆治郎氏、北中は余川久雄氏、亀城は伊藤亀代氏、南市は牛田静雄氏、朔州は南条正一氏、煕川は河村褜吉氏が世話会の中心となって働らき、一方満洲避難民団では、定州では西園広志氏(満洲国)、郭山では長野富士夫氏(満洲国経済部)、方峴では片山広吉氏(満洲国開拓総局)、亀城では堀田鉄治氏(赤峰、旅館業)、博川では斎藤久氏(満洲国)、孟中里では野口竹次氏(満洲制動機)、府羅は杉本清士氏、北中は保坂誠氏、内中は和泉侃氏らが中心になっていた。宣川の満洲避難民団の生活は、「流れる星は生きている」の藤原てい氏により明らかにされているが、越冬期の避難民の犠牲は共通して大きい。

 江界、定州、宣川、雲山では、ソ軍から日本人小学校の開設を命ぜられて定州、宣川では実現した。

 

  延吉からの釈放

 それまで延吉にあったソ連第二十五軍司令部は、年末に平壌に移駐することになった。その機会に延吉に抑留されていた官公吏一般市民千六百名が、突然、十二月三十一日に釈放された。その時の釈放の実状は次のようであった。

「午後一時になって第十八大隊(市民官吏)は装具をつけて集合、人員点呼して本門からつぎつぎに出されて行った。大隊が本道路にでて進む間は、ソ連兵がまもっていたが、半キロ程進んで将校館の前まで来た時には、いつの間にかソ連兵がいなくなって我々だけとなっていた。一同は呆然とし、はじめて自分達が自由の身になった事を知った」(以上海州刑務所須床達仁氏談)

「午後四時頃突然〝軍人と警官を除いて全部営内に集れ〟といわれたので、とるものもとりあえず戸外に出て整列すると、ソ連兵がいつもと違って銃を持たずただ一人先頭にたって我々をつれて門をでた。五、六町歩いた所で突然、

〝諸君は釈放になった。自由行動をとれ〟

 と通訳を通じて宣言すると、そのまま帰ってしまった。われわれは暮れかかった雪の荒野に放り出され、しかも朝食を喰っただけで一粒の食糧も一銭の金もなく、まったく着の身着のままであった」

    (以上定州法院福原義晴氏手記)

 厳寒期の零下二十度を下る中に、食糧もなく、着物はきたまま、徒歩で南下することは、まったくの無謀であった。

 しかしとどまるによるべない身は、この危険を突破して自分のもといたところに帰る以外に方法はなかった。その日は市民の家に分宿させてもらい、翌日から厳寒の中を徒歩の行軍がはじまった。

 慎重を期した五百名は、公安局で特別の旅行証明書をもらって四日の後に出発した。平北知事山地靖之氏等二十名は、南下の自信がなく、収容所に戻ってまた収容してもらった。

 南下する人達は、途中で朝鮮人の農家にとめてもらい、食事をめぐまれながら、会寧から茂山嶺をこえた。その頃には、落伍者が多くなり、羅南から十五日にでるソ軍の軍用列車にのせてもらったが、その時の人員は出発時の三分の二になっていた。

 その列車の中でも寒さと発疹チフス栄養失調のためぞくぞくと死者がでて主要駅ごとにその死体が下された。

 平壌についた車内にも、二十の屍体があり、一月二十八日に新義州に到着した二十五名も、みな極度の栄養失調と凍傷、それに疲労で、即日就床し、八名はすぐ死んでしまった。

 江界の人達は、羅南までに一名、高原駅車中で一名死亡し、二月一日に十七名帰つたが、一名はその翌日死亡、数日後にまた二名死んでしまった。

 

  脱出ルート

 北鮮の日本人は、不安な生活の中で、日夜南下を夢み、祖国に一日もはやく帰って再起しようと考えた。正式引揚のデマは幾度かでては消えた。三八線をどうして越すかということが、北鮮の日本人のだれにも共通した最大の問題であった。

 大金で、朝鮮人を案内にたて、朝鮮服を着て南下に成功したものもいた。生活においつめられた避難民が、このままでは死んでしまうと決意して、ただ南へ南へと歩んだものもいた。北上してきた朝鮮人の話や、先発の南下者から、どの道をどう通れば無事であるという密報は、日本人の間にいつのまにかひろがっていた。三八線附近の、くわしい小道までいれた地図が、世話会の人たちのところに入っていた。

 脱出ルートは、大体きまっていた。

 西鮮方面では、

 1 京義線の南端金郊駅まで下り、そこから徒歩で土城にでてくる。これがもっとも近いらくなコースであるが三八線の表玄関であるために、ソ軍に発見される場合があり、新幕で下車させられる場合も多かった。

2 京義線を沙里院まできて、そこから海州線にのりかえて、鶴峴で下車し、二十キロないし、二十四キロの山道を歩いて青丹にでる。このコースはもっとも多くとられ、二十一年七月頃までは、常道のようにさえなっていた。

3 沙里院から海州線と京義線の中間の小みちを歩いて延安にでる。

4 西海岸を、船で仁川附近、延安沖、うまく行けば、漢江をさかのぼって京城の麻浦にでる。

東北鮮では、

1 京元線をできるだけ南まできて下車し、福渓、鉄原、大光里、漣川、全谷などの駅から山に入り、三八線をこえて、抱川、東豆川、高浪浦へでる。

2 元山から京元線の西北の山間を通り、伊川街道にでて、三八線をこえて、高浪浦、長淵、開城にでる。

3 京元線の安辺の近くから、山間を通り、春川へでる、あるいは福渓の附近から金化をへて春川にでる。

 4 東海北部線の終点、襄陽で下車し、二十四キロ歩いて注文津にでる。

 5 東海岸を船で南下して釜山まで下る。

 これらのコースがおもであった。

 京城に南下した脱出者には、途中で年ごろの娘の行方不明になったもの、両親ともいない孤児、国境突破の際にみつかって、家族がばらばらになって半数が送りかえされたもの、或は、途中で親が病死して死体を山中に埋めてきたものなど、哀話はつづいた。

 その中で、もっともいたましたかったのは、満洲の敦化塔剌■(注:土へんに達)を八月十三日に出発した和歌山県伊都郡高野町出身の開拓団の人達であり、図們、清津、咸興をへて、平壌で一カ月余の貨車生活をおくり、その年末に、京城についた時は、三十一家族百二十三名中、死者六十七名で、残存者わずか五十六名 全家族無事なものは二世帯だけ、その死者のほとんどは平壌であった。

 十月には沙里院在留民中千五百名が十回にわかれて、団体として胸に「沙里院日本人会」の布をつけて、ソ軍の許可証をとって堂々と脱出したり、遠い鴨緑江の中流の江界の二百八十名、満浦鎮の二百五十名が年末酷寒の中を列車を利用し鶴峴ルートで一週間一名の犠牲もなく南下の朗報も交錯した。

 

  第一線の援護

 脱出者をむかえる第一線開城では、午後の汽車にのせて京城におくり、午後についた人達は、東本願寺に一晩とめて、翌日の汽車で南下させた。

 延安には、溝江鶴雄(コンロ製造業)親子六名がいて、脱出者の世話をしていた。その数は一日平均三十名程度で一両日休養の上、ふたたび徒歩で開城に向うか、或は船で京城に向っていった。溝江氏は、脱出者の発疹チフスに感染して十二月三十一日死去し、女の子四名も発疹チフスにかかって、夫人だけが一人働いていた。

 青丹には、日本人はすでにいなくなって、南下した人々は朝鮮人側に世話になり、金融組合の倉庫に収容されていた。

 米軍側では、この方面の脱出者が多いのでその世話を京城日本人会に命じ十二月三十一日に、三吉明氏を隊長にする二十代の青年や医師を含めた数名の派遣隊が、開城を拠点にして、延安、青丹におもむいた。

 一方、春川に出てくる人達のために、十一月中旬まで、岡信俠助氏(内務部長)、柏木宏二氏(警察部長)、篠田正太氏(農商部長)等が官舎にとめて世話をしていたが、それから後は、花園町の高野山別院の輪番林口教道氏が七十八才の高齢にもかかわらずただ一人残って、脱出者を迎えていたが、年末に強盗におそわれて暴行をうけたことが原因して一月一日夜逝去した。

 仁川には、海州から船で南下するほかに、大連から朝鮮人をのせた船の中に日本人が混っていた。十一月下旬から十二月にかけて約千四百名が上陸している。収容所としては、すでに朝鮮側にうつっていた浄土宗の明照寺、西本願寺を米軍の許可で使用していた。

 京城では、日本人世話会がまちかまえていた。開城からくる汽車は、夜になって京城に着く。京城駅には、かならず世話会職員が「京城日本人世話会」と記されたちょうちんをかざして立っていた。

 脱出者は、このちょうちんをみると、うれしくて泣きながらかけよって来た

 登録をすませ、戦災証明書を発行すると、収容所に入れて注射をおこない、援護の物資やお金をあたえて、引揚列車にのせた。

 十一月から三月までに、約二万の脱出者が京城の収容所に入っている。

 

  在外父兄救出学生連盟の来援

 終戦の年の秋、日本で海外に父兄をもつ学徒達によって在外父兄救出学生連盟が組織された。その機関紙「同盟時報」の第一号に、委員長藤本照男氏は、つぎのように記している。

「大きな歴史の潮流が私の故郷である大陸を吸いとってしまった。二十世紀に唯一つの迷宮があるとすれば、それは諒闇に包まれた大陸の姿である。

 報道は一斉に私達の年老いた父母の祈りと、いとけなく弟妹の号泣をつたえて来た。あまつさえ私達は海外からの送金も杜絶え、今晩の職にも事欠くという現状であった。

 風起ちぬ。いざ生きめやも、宿劫の扉を今こそ、私達の熱願でうち開かねばならぬ。九月も末であった。秋の虫が生命をなきつくす夜半、在外に父兄を持つ三人の学生が下北沢のアパートに集ったのである。――杜甫が賊を避けた夜、深い彭衙の道行が、脱走する母や弟妹の姿にとけ込んでいった。胸奥に何かしら冷たく逞しく憤ろしい英雄の情感が流れて行く。

 在外父兄救出学生同盟という名称が期せずして生れたのであった。これだ。吹荒ぶ共感の祈りから生れた私達のモチーフの唯一の表現は、……」

 それから学生達の組織的な活動が生れた。十一月十日に東京都内の共立堂で大会を開き、二十日に浦賀の引揚者へ奉仕し、その後、品川、上野、東京各駅や宿泊所で学帽姿で活動を開始し、十二月には、北は北海道、南は鹿児島にいたる全国の各大学、専門学校を網羅する組織が確立された。

 一月五日に、高松宮殿下が戦災救護会総裁として浦賀引揚民収容所におなりの際、学生から同盟の趣旨を申上げ、また二月二十四日に、藤本委員長外七名が、宮中で天皇皇后両陛下の拝謁をえた。

 学徒達は、駅や港、それから病院で働いたが、それだけでは満足できなくなった。

 やがて、帰還朝鮮人にまぎれて金勝登氏(東大)ら学徒五人が京城へあらわれたのは三月五日、御内帑金一封と恩賜の煙草を持参して来た。

 かれらの熱情は、京城世話会幹部を感激させずにはおかなかった。

 恩賜の煙草は、世話会職員が分合って一吸し、御内帑金は戦災者中の乳幼児の栄養補給にあてられた。

 学徒達は、さっそく援護第一線の開城、延安に配置された。

 

  釜山の港

 脱出者の受入の第一線は、三八線であり、第二線は京城であり、釜山は第三線であった。京城から汽車で釜山まで下れば海が見え、日本への引揚船が日の丸の標識をつけていた。脱出者達は、釜山につけばほっとするのだった。米軍はこの受入送還に責任をおって、日本人世話会に充分な力を発揮させようとした。世話会長には、その高潔な人格を謳われた前高等法院長鏡一以氏がなっていた。

 東海岸を機帆船で南下した人達にとっては、ここがその受入の第一線であった。その人達は、十二月から三月までに二十七隻、約二千名いる。

 釜山世話会の医療部では、十二月中旬から三月下旬にかけて北鮮からの南下者の婦人について、とくに健康診断をおこなった。暴行被害者一〇五名、その内性病罹病者三九名という報告がされている。