秘録大東亞戦史 朝鮮編 脱出ー朝鮮引揚史 その五ー

太平洋戦争(大東亜戦争)の戦況や実相、推移について、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、共同通信社をはじめとする日本の新聞記者などが、自分の見聞した範囲において記したルポルタージュを編集した書籍。地域方面別に1冊(或いは2冊)ずつ区切って編集したものと、地域方面ごとで区切らずに収録したものがある。

 朝鮮編は、終戦当時、朝鮮総督府の官吏であり、京城日本人世話会のメンバーとして、在ソウルの日本人居留民の保護や引揚帰国の援助を行なった森田芳夫のルポルタージュ5編を含んでいる。

 

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脱出

  ――朝鮮引揚史 その五――

春が来た。萌え出る木の芽は、邦人の心に祖国への思慕をかき立てる。もはや野宿も出来る。南へ、一縷の望みにすがって、海上を陸路を、一せいに脱出が始った。それはまた生死を賭ける苦難の旅であった。

      元京城日本人世話会 森田芳夫

 

  春まぢかに

 一月中旬から二月にかけて、京城で、朝鮮統一の準備のための米ソ会談が開かれた。アメリカのUP通信はこの会談で、

「北鮮日本人の引揚も議題になるであろう」

 と報じ、またこの会談に出席するバラサノフ氏は、石橋氏に、

「この会議で日本人の引揚ができるようになる」

 と語っていた。

 米軍政庁外事課のキャッスル中尉は京城日本人世話会職員に、

「この会談がまとまれば、東北鮮の日本人は船ではこぶ。江原道の墨湖に沢山の石炭船があので、それを元山に廻し、海路釜山経由でかえす案をもっている」

と語っていた。

しかしこの会談では、朝鮮問題自体が順調に行かず、日本人問題はとりあげられなかった。

日本人はもうじっとしていなかった時は春だ。野宿も可能である。南鮮はひきあげたニュースに北鮮のソ軍や朝鮮側も移動を黙認する動きとなった。

 

  黄海道の脱出

 黄海道の人達は、三八線にちかい土地だけに、冬の間も脱出がつづいていた。

 海州では、三八線の道案内がいて、一人につき百五十円をとっていた。その後、二月下旬には、海州日本人会として、学校の先生二十名位が案内人に養成された。

 海州から三八線の脱出は子供達でも一日行程であり、荷物も沢山もつことができた。京城では、多くの避難民の中で、海州の人達はその着物と荷物で一目でわかるといっていた。

 海州から青丹にでるのに、山間の小路をとるほかに、潮のひいたときの海岸の干潟を歩くコースが利用された。この途中の泥地の中に、足をつっこんで動けなくなり凍死した数名の人達の哀話もあった。これとは別に船ででる人達もあった。

 三月七日夜十一時頃、海州港岸壁とセメント会社の中間を、二十トンたらずの帆船で出発した二十五名の人達がいた。この人達は翌朝五時半、三八線近くの来城面沖で下船させられた。時はちょうど満潮で、春とはいえ、寒冷の遠浅を岸まで歩ゆまねばならなかった。

 海州埠頭分局長彌長氏一家は、十九才の典雄君だけが岸にたどりつき、あとの六名はとうとう海中に仆れてしまった。しかも、典雄君は、手足をひどい凍傷にやられていた。

 また天理教の三浦氏(さきに発疹チフスで死亡していた)の母堂と子供三人が、海州港から小船で出たが、沖で船が岩礁にぶつかって転覆し、ようやく岩にはい上ったものの母堂と長女は凍死し、あとの二人の兄妹が船員のしらせでやっと部落民に助けられた。しかし、この二人は、後に京城日本人世話会病院で凍傷にかかった手足の切断手術をおこなわねばならなかった。

 海州の集団的脱出は、二月下旬からはじまり、三月には毎日数十名ないし二百名近くの集団がつづいた。その頃海州の郊外に盗賊が多く、脱出者の被害がはげしいので、日本人会からソ軍に懇談すると、早速、もっとも被害の多かった泳泉の部落におもむいて、うばわれた日本人のものは奪回された。それからは被害もへって、思いきり多くの脱出がおこなわれ、四月上旬には世話会幹部も引揚げた。

 兼二浦の脱出が海州に続いた。先に脱出者から警備隊の暴行をきいていた京城日本人世話会職員が、

「もし警備隊員が京城にでてきたら殺してやる」

 といっている言葉が、兼二浦に伝えられると、警備隊の人達も、軟化せざるをえなかった。

 三月に入ってから大挙南下し、四月はじめに、あとに技術者が三十五名家族とも七十七名を残すだけとなった。

 沙里院は三月下旬にソ連司令官と保安署長から、

「日本人の脱出は追わぬ。ただし汽車の利用はいかん。旅行証明書も出さぬ」

 との言明を得て、これを勢に脱出が連続的におこなわれた。四月十八日には、残留する東洋製絲の技術員七名とその家族二十七名をのぞいて、世話会長以下日本人全員、病人姙婦も含めた三百五十一名が一団となって汽車で南下し、鶴峴に分宿し、翌朝、数十台の牛、馬車をつらねて脱出した。

 載寧は、国境線から六十キロはなれており、大体、徒歩か牛車で分散的に小さなグループとなって脱出した。

 海岸にちかい長淵、殷栗は、船で仁川へ、あるいは漢江をさかのぼって京城の麻浦に上陸している。

 このうち、長淵を十一月十一日に出発した一九九名の組は、夢金浦近くのゴシャ鎮からでて、黄海を横断し二週間かかって、熊本の天草についた。

 これは北鮮から日本へ直接脱出のまったく特異な成功例であった。

 安岳からは五月に入ってから、トラック、バスまたは徒歩で脱出した。

 これで、黄海道の日本人は脱出を終った。

 

  むすばれた南と北

 咸南の脱出を大規模に敢行したのは咸興の松村義士男氏を中心とする人達であった。脱出のためには、南鮮ことに京城と連絡をとらねばならぬ。松村氏は二月下旬、京城に潜行し、世話会をたずね、そこで古市進氏にあった。咸興の避難民の悲話は、京城の幹部も日夜心痛していたところだった。古市氏の人を信ずる篤厚な態度と、もゆる同胞救済の熱情に、松村氏は感激し、一切を吐露して語りあった。南と北の二人の心は、かたくむすばれた。

 世話会宿舎となっている清香園の一室で、起居をともにすること九日間、北鮮日本人の救済問題について具体策はなった。

 松村氏は、京城の受入状態をくわしく見、帰途三八線の状態、脱出路をしらべながら、元山、高原の日本人に連絡しつつ、咸興に三月中旬に帰ってきた。

 咸興日本人委員会の人達を中心に、脱出の秘策はすすめられた。朝鮮共産党の人達も、今は日本人を脱出せしめるよりほかにないことを知っていた。

 三月十五日から試験的脱出が汽車を利用して一日三十名程度からはじめられた。それは五十名から百名へとふやされて行った。

 四月には、「北鮮戦災委員会」という組織が生れた。引揚先の府県別の住所名簿もつくり、日本に帰ってからもお互に連絡をとって、政府に折衝し、共同事業をやろうという積極的構想をもったものだった。

 咸興では、僅かずつの人数を南下させているのではらちがあかないので、汽車で、集団的に輸送する方法を計った。四月七日、日本人委員会は(その頃磯谷季次氏が委員長になっていた)ソ軍のスクーバ警備司令官に陳情書を提出して、日本人の生活の窮状をのべ「正式な引揚ができないならば、日本人を農村に分散させるよりほかはないことにこれから農繁期になるし、場所は南の永興や安辺の平野や江原道の山林と牧場農場がもっとも適当である」

 と申したてた。

 ソ軍はこれに誠意をしめして、四月下旬に三防峡へ千六百名、安辺へ千名富坪へ四百名、五老へ五百名、新興へ五百名、計四千名の疎開命令をだした

 三防峡や安辺、富坪は南の方だからよいが、新興や五老は、咸興から北である。しかしその方へ行けといわれたものも、行って食糧の配給をもらうとまた咸興に引揚げて、次の脱出組にくわわった。

 

  どこに行ってもしかたがない

 ソ軍の方も、この日本人の南下をただの疎開とは思っていなかった。安辺疎開の引率者渡部五郎氏つぎのように報告している。

「二十六日午前七時すぎ無事に出発。人員は千名のはずなのに文坪でしらべてみると一三八七名いる。午後一時半安辺についたがソ軍からの命で

〝釈王寺まで南下させよ〟

 という。釈王寺まで行くと、安辺のポーコフ司令官が来て、さらに三防峡までおくれといった。

 二十六日の夜を、新高山駅の車中でとまり、翌朝九時に三防峡についた。そこでは保安当局の命で、旅館に分宿していると、またポーコフ司令官が来て、

〝大人四合、子供二合の割で、十日分の米を配給するから、現在の定員で早速受領の手配をさせよ〟

 という。司令官は温情的で、

〝私達にさしあたって仕事もないが〟

 とたずねると、

〝仕事のあるところに行けばよい〟

 という。

〝みんなどこへ行ってしまうのかわからないが〟

 といえば、

〝それもしかたがない〟

 という。わたし達は、その内意を明確に知ることができ、三々五々と南へ歩んで行った。」

 

  興南も元山も

 興南は、四月十七日に居留民会を改組して坂口徳蔵氏を会長に、宗像英二中西進氏を副会長にして、主として日窒関係で幹部をかため、咸興と一体になって積極的に脱出工作を展開した。

 四月下旬に、三千名が定平、永興、高原へ、五月八日には、安辺へ三千名が疎開命令をうけた。

 この安辺へ移動する時は、三千名の割当に八千名の申込みという状況であったが、二回にわたる特別列車をだしてくれた。

 この人達は、三防峡で下車して、あとは歩いて行った。五月下旬に、また二千名が梨木、襄陽まで列車利用が許された。

 元山では集団脱出をはじめる前に、四つの団体を結成した。

 もと元山府尹松田孝道氏が委員長となり、六月中旬までに二百二十余万円の脱出資金をあつめた元山救済資金募集委員会。

 日本人の動産、不動産をくわしく調査してその財産表をつくった財産調査委員会。

 対外的には「ソ軍および朝鮮側に協力して日本人の越境を監視する」といいながら、実はその警戒のすきをねらって脱出させようとする監視隊、これは左翼で朝鮮語のたくみな柏真一氏が隊長。

 また、日本人に共産主義の宣伝普及をすることを目的としながら、脱出の誘導をはかろうとする社会主義同盟、中村勲氏以下四十余名。

 咸興方面から南下してくる列車は、すべて元山にとめられ、一泊して、翌日京元線にのりこむので、従来、避難民の収容所のあった円光寺、東本願寺をあけて、咸興、興南部隊の宿舎とした。

 五月に入ってからは、東海北部線が積極的に利用された。終点の襄陽まで南下すれば、国境まで十二キロ、注文津までは二十八キロである。列車が途中で止められた際には、そこから船で注文津に下ればよかった。

 咸興、興南の人達で、海路によるものは、西湖津、内湖、九竜里、麻田から船にのり、一人千円、元山から注文津まで一人六百円が相場であった。

 元山港から出るのは、ソ軍の目につくので、二十八キロはなれた桑蔭まで行って、乗船する場合が多かった。

 咸興では、重病人百八十五名の脱出のために、三百七十名からなる担架班を編成し、医師、附添など五十名をふくめて、特別の列車をみとめてもらった。

 この人達は、襄陽で下車してからは国境線まで担架部隊が十二キロを歩き、越境後は、注文津へ十二キロを牛車やトラックで南下して行った。

 元山では、もと陸軍病院収容中の患者六十名が、ソ軍の特別許可をとって、二隻の船で南下した。

 注文津に米軍のL・S・Tが来て、釜山経由日本へ運んだ。

 六月上旬には、咸南では、咸興に二千名、興南に二千名、元山に三百余名を残すだけとなっていた。

 この間、ソ軍司令官の募集により、カムチャッカに漁業労務者として応募して行った人達もいた。これはかって日魯漁業の漁場に朝鮮人労務者を集めるのに混入したのであるが、応募すると、支度金千円、米五十キロをくれたので、それをもらって極貧者は家族の脱出費にあて、単身カムチャッカに赴くのも多かった。五月末に咸興、興南から約千名がこの年十二月までの契約で応募して行った。

 

  動かぬ平壌

北鮮で脱出工作のもっともむづかしかったのは、平壌であった。

平壌には、北鮮全域のソ軍司令部と北鮮政権があり、各々部局があり、それに、船橋、西平壌、平壌の保安署があった。他の地区ではかんたんに保安署またはソ軍警備司令官の諒解さえうければよいが、この地では、かりに一つの機関の諒解をえても、他の方の諒解をうるのがなかなかであった。

 しかも、平壌から南に下るには、大同江を渡らねばならず、その人道橋が監視されると脱出は容易ではなかったまたソ軍や北鮮側の期間と折衝するには、内紛、幹部の交替をくりかえしている日本人会は、あまりにも無力であった。

 平壌では三月に日本人会長に前日本穀産の常務河辺定吉氏、副会長に有元正義氏(郵便所長)がえらばれて、ようやく積極的に活動し、石橋美之助氏も常任委員の一人となって、満洲避難民団との連携を強くした。

 日本人会として、まず救済資金を集めることに着手した。既刊歎願はかさねられたが、ソ軍からの回答は、「正式帰還までまて」という一点ばりであった。

 ある日、満洲避難民団の安井尋志氏は、有元副会長とともに、バラサノフ氏に陳情に行った時のことを左のごとく追想している。

「バラサノフ氏は、

〝石橋氏となら会うが、他のものとは会わぬ〟

 といった。私達二人は、バラサノフ氏の私宅へおしかけてゆき、むりに会った。彼は不快な顔をしながらあってくれた。有元氏は、日本人の苦衷を訴えて、涙ながらに歎願した。

〝正式帰還になることは、まちがいない〟

 バラサノフ氏はこう答える。それでは、

〝いつか〟

 とたずねると、

〝それは自分にもわからぬ〟

という。

〝それなら日本人は、死ぬよりほかはない〟

というと、

〝死なないようできるだけ救済する〟

〝食糧事情は困難であり、日本人は放っておけば、逃げだすであろう〟

  というと、

〝日本人会は、断乎としてそれを阻止する義務がある〟

 という答えである。

 私達はこの会見をおえて帰り、平壌日本人会の幹部総会をひらき、有元氏から正式帰還の不可能な所以を率直に披歴し、のこる道は、脱出のほかなしとのべた。

 これにたいし石橋氏は反対し、

〝バラサノフ氏のいう通りに正式帰還をまて〟

 とのべた。

 ついに喧嘩になり、正式帰還と脱出派の両派にわかれることになった」

 

  引揚の虚報にうごく

 四月になって、平壌のソ軍司令部は北鮮日本人を鎮南浦、元山、興南、多獅島の四港から帰還させると発表したそれとともに、鎮南浦では、埠頭の倉庫を改造し、ソ軍少佐を長とする帰還準備収容所が開設された。まず平壌秋乙にいた三千七百名の婦女子が、四月十二、三、四日の三日間にここに移動してきた。

 これは、米ソ会談の成功を見通してその手はずをととのえたものらしかったが、良心的にな日本人のことを考えてぃれていたミルグノフ少佐は、

〝これは単なる移動であろう〟

 といって、極力秋乙にとどまるようにすすめていた。

 鎮南浦日本人会は、輸送部をつくって、その準備をととのえた。しかし引揚船は来らず、それにひきつづいて、思いがけない悲劇が待っていたのだった。

 秋乙の医師、宮田寛博士は、次のごとく報じている。

「去るものの上に幸あれと祈りつつ、急に静まりかえった秋乙では、毎日鎮南浦の人達の身を案じた。

 鎮南浦におちついた人達は来る日も来る日も海をながめて迎い船の入港を待っているとの連絡がほとんど隔日にもたらされた。

 しかし日がたつにつれ、その文面はしだいに悲観的にかたむいて行った。

 待てども待てども引揚船の姿は、港にあらわれなかったばかりか、悪魔のように猛烈におそい来った悪疫は、人人を悲歎のどん底につきおとしつつあった。

 今日は誰が仆れた、昨日は誰の子供が死んだと、悲痛な手紙が矢つぎばやにもたらされた。そして救援を求める叫びは、血のにじむおもいにかりたてるのであった。

 ミルグノフ少佐に鎮南浦の惨状を話した。彼は顔をくもらすのみであった少佐は私達をさそい、平壌市内に出かけ、薬局へと案内を命じた。彼は鎮南浦の気の毒な人達に薬品をおくるつもりであった。

 四カ月前、私達が薬品に困ったことがあった。彼は私財をもって莫大なる薬品を購入してあたえてくれた。今度もまた私財を投じて必要とするだけの薬品をあたえようというのである。

 私達は少佐の心こめたこのおくりものをたずさえて、五月二日鎮南浦へ到着した。宿舎は埠頭にある大きな倉庫で、その五棟に収容されていた。天井はなく、見上げるようなところに小さな窓がみえ、出入口は小さく、通風、換気、採光等およそ衛生的見地からは縁どおい建物であった。

 かたいコンクリートの床の上には、一杯に叺が敷きつめられて、その上にリュックサックや手廻品で堰をつくり各班のしきりがなされていた。ちょうど田舎劇場の観覧席を思いおこすのである。

 にごった空気は、頭痛と吐気をもよおす程であった。

 そして、すでに、六十余名の死者をだし、六、七百名の病人がその中でうめいている。病人の大部分は子供で、しかもきわめて、重いはし(ヽヽ)か(ヽ)患者であった。

 不眠不休の医師は、疲労の極にあった。秋乙では、はしかの流行は完全に防ぎえて、一名の犠牲者もなかっただけに、子供達のはし(ヽヽ)か(ヽ)にたいする抵抗力はまったくなかった。五棟とも完全に悪疫の巣窟と化していた。

 母血の注射もほとんどの子供にほどこされていたが、悪性のはし(ヽヽ)か(ヽ)は思う存分の猛威をふるって、片っぱしから可愛い子供を殺していった。

 二児、三児と全部の子供をうしなった母親もまれではなかった」

 ここで二百余名が死亡している。他の地区では、越冬期に死亡して、春になると死亡率は激減しているのに、ここは引揚の虚報で移動したために、思わぬ犠牲が重ねられた。

 

  平壌、鎮南浦の脱出

 平壌で最初に動いたのは、鉄道関係の人達であった。二十一年のはじめにソ軍が朝鮮の鉄道警備隊の装備編成をすることになり、鉄道関係者の集結していた寮の明けわたしを要求した。鉄道の幹部は、この機をつかんで、海州移住を韓鉄道局長に陳情して、承認されたのであった。この人達の移動が他の日本人に知れると動揺するので、大掃除をするという名目で、交通遮断をして脱出の準備をした。

 五月十一、十二日の両日、二千六百余名が、無事沙里院、鶴峴のコースで脱出してきた。

 北鮮日本人の実情をたえず東京に知らせていた京城世話会長古市氏は、この時、

「喜ばしき情報――平壌動きはじめたり」

 と情報を送っている。

 しかし平壌の動きはこれだけで、また絶えてしまった。その時、古市氏は一策を考え、在外父兄救出学生同盟の金勝登氏に、金日成氏あての脱出黙認歎願の書翰を托した。この潜行の成功はあとでのべよう。

 五月初め、古市氏の書翰をもった密使小西文雄氏が鎮南浦に入って日本人会幹部に面接して脱出をすすめた。

 やがて、五月二十二日に試験的に第一隊二百余名が、黄海道移住の名目をとって南下した。港から船に乗って大同江をさかのぼり、載寧江に入り、沙里院に出、鶴峴まで汽車にのり越境するコースをとった。これはその後きわめて順調で、二十七日から六月二日まで連日十回にわたって七千名が南下して行った。

 平壌でも、五月二十七日から、一日二回二百名ずつなら許そうという承認をえた。しかし、次の日には、一回二百名で一日四百名となり、さらに翌日はその倍の人達が汽車にのった。

 六月四日には、一貨車三十名、貨車二十両で六百名はよろしいというソ軍の許可をとりながら、賑町一帯の避難民三千六百名をつめこんで新幕まで南下させた。この三千六百名は、途中野宿を三泊して、雨にうたれながらも全員開城に出た。

 二十七日からこの日まで九日間に、南下者数は平壌だけで約一万名に達していた。

 この避難民の脱出交渉は、主として満洲避難民団側があたったが、費用は平壌在住民の負担による関係から、それら地元の人々もその中に入りこんでいた。

 またこの間、トラックで南下する小団体もいた。平壌医学専門教授のF氏は、ドイツ語のわかるソ連兵と仲よくなり、ソ連兵の運転するトラックで鶴峴まで南下した。途中の検問では、ソ連の使役に使うために海州まで護送するというソ連兵の証明書でパスしている。

 

  殺到する脱出者

 今や北鮮の日本人は、大集団となって南下をはじめた。これを迎える三八線の第一線では、今までの延安、青丹開城のほかに、高浪浦、汶山、東豆川抱川にも派遣隊がでて、その受入れは多忙をきわめた。その頃、延安に派遣されていた堀井野生夫君(京城工専学生)の手記をみよう。

 先ず到着者の宿泊の割当名簿をつくる。米軍に報告するのが朝十時と夕六時、警察への報告が正午まで、三時に駅に行き、人数の大体の見通しをもって車両の打合せをする。夕方には汽車賃をあつめ、明日の出発について注意をする。また米軍の日銀券没収にも立会う。これだけを一室々々まわって、一応仕事すむのが毎夜十二時になる

 そのまま、うすいふとんにくるまって、しばしまどろむと、どんどんと門がたたかれて次の到着である。

 すぐ起きて片づけ、またふとんにもぐりこむと、やがて三時半、出発準備である。

  各宿泊所前にならばせて点呼、駅に引率、団体切符をもとめて、六十名位しかのれない一貨車に百八十名ずつ叱咤督励してのせる。

 荷物はみんな一カ所につみかさね、人間は立たせるのである。さぞきついだろうと思うが、少い車両につみのこしのないようにするには、やむをえなかった。

 しかし、それでも途中の駅で大きな米の包をもって、力まかせに割りこんでくる朝鮮人も沢山いるという始末。

 ある時は、これにたまりかねて、一貨車の者が全員おりてしまった。すると、米軍が、朝鮮人がおろしたのではないかと調べにきた。私達は、対朝鮮人関係を考慮して、

「日本人の方でがまんできずにおりたのだ」

 と説明した。駅では、

「そのような勝手なことしては困るおりたものは歩け、絶対にのせぬ」

 というのを、隊員が一時間以上もあやまってたのみ、ようやく翌日一車両増結して送ってもらったりした。また脱出者はいろいろのことを訴えた。

「国境で子供と離れてしまったから、その子のくるまで待ちたい」

「もう一銭もありません」

「日銀券がありますが、世話会で交換して下さいませんか」

 など。時には死者も出たりした。せっかく、苦労して越えた三八線で、息をひきとった子供を、せめて火葬にしたいと涙でいう母親もあったが、

「そのような金のかかることは大変だその金は生きている人に使いなさい」

 と心を鬼にしていってやらねばならない。

 またある朝送りだしをすませた時、駅の助役が日本人らしいのが駅前に倒れているというので、とんで行ってみると、おばあさんでたしかに日本人で南無あみだぶつ南無あみだぶつと念仏をとなえている有様だ。

〝おばあさん、しっかりしなさい大丈夫ですよ〟

〝ああ、もう死ぬ、もう、あ、なまいだぶ、なまいだぶもう口が……きけない、さみ(さむい)さみ……〟

〝しっかりしなさいよ〟

 と背負って旅館につれて行った。ちょうど医者は延安に行っている。カンフルをうったり、応急手当をしていると、旅館のおやじが来てがみがみいう

「こんな死ぬような病人をつれて来てこちらも商売だから困る。昨日も一人死んだ。早くつれて行ってくれ」

 いくらたのんでもきき入れてくれない。不人情なやつだとしゃくにさわったが、しかたなく、別の旅館と交渉し一室借り、脱出者の中から使役を出して温突をたき、また女の人にたのんで看護してもらった。

 しかしだんだん弱り、ドクターが帰って来て手当の甲斐もなく、翌日の夜死んでしまった。

 

  一日平均二千名の受入

 三八線で一旦受入れられた脱出者は京城へ送られた。

 京城へ入った脱出者は、四月中に一万八千(一日平均六百)五月に二万四千(一日平均八百)最も多かったのは五月下旬に、平壌、鎮南浦が動きはじめた頃で、一日平均二千名をこえた。

 京城世話会は、その本部を駅前の二見旅館に移し、病院も設けた。まず、一度朝鮮側にかえした寺院を戻してもらって収容所とし、六十余名の世話会職員の外に、脱出者の中からも代表者にでてもらって、これらの世話にあたった。

 しかし、世話会の資金はなくなり、米軍の給与では不充分で、脱出者の食事など、一回の給食が里芋三つ四つであったり、大豆をいって弁当にしたりする有様だった。

 四月十日に吉田外務大臣の名で、京城日本人世話会の健闘にたいする感謝状がM・R・Uのドクターによっておくられてきた。これにたいして古市会長は鄭重な謝辞をのべながらその中に世話会の資金がなくなっている暗たんたる窮状を訴えた。

 

  南鮮にコレラ発生

 五月十五日に上海から釜山に上陸した朝鮮人のコレラ患者が仁川で死亡してから、南鮮にコレラがひろがった。二十日には釜山に四十名(内十三名死亡)、大田に四名(内二名死亡)仁川に一名(死亡)と発表され、軍政庁は直ちにコレラ防疫本部をもうけて本格的活動をはじめた。三十日には患者は百名になり、京城にも三名発病している

 軍政庁ではこのとき日本人脱出に関連して三つの措置をとった。

 第一に、釜山の港を閉鎖し、その代りに群山と仁川を引揚港とした。

 第二に、南下してくる北鮮の避難民は、都市に入らせないで、開城、議政府、注文津に天幕村を作って収容し、部落民と隔離して防疫につとめた。

 第三には、北鮮のソ軍に、日本人の南下を止めるように抗議したことである。

 釜山にたまっていた避難民は、群山に送られ埠頭倉庫に収容された。

 そこでは、駐屯米軍の二世、フクカガ少尉が責任者になり、釜山世話会の職員七名がうつって世話にあたった。

 六月四日から十一日までに、三隻の引揚船で四千四百名が引揚げていったその内、六月十二日出航した引揚船QO27はその中から二十一名のコレラ患者が発したため、博多に上陸できず、九州の南端をまわって、浦賀に入港している。

 仁川は、六月九日から引揚港に指定され、それ以後、七月二十日まで二万八千名の日本人がここから十八隻の引揚船にのった。

 原則として仁川では、給食もなく、宿泊もできなかった。が船にのりこむと、とうもろこし、麦、うどんなどがたっぷり補給された。

 

  国境の天幕村

 六月五日、開城の公設運動場に、米軍の天幕村が建設された。その頃が開城派遣隊の最もいそがしい時で次に隊長三吉明氏の記録の一節を借用する。

「その夜早速七百七十名が収容されたが、まだ炊事の設備もなく、なかには空腹と疲労でたおれるものも出る始末だった。

 配給食糧のとうもろこしは、風呂釜に入れてたくことにし、われわれはその燃料を集るに大わらわであった。一釜たきあげるのに四時間もかかった

 続いて後から後から殺到する南下者の受入れに休む暇もなかった。駅まで三キロ半、世話会まで二十五分かかる道を、一日に何往復かし、更に軍政庁への連絡もしなければならなかった

 天幕は五十張もたてられ、六日に二千名、七日には六千四百名が入った。

 八日の夜、十時過ぎた雨の中を、

「駅に沢山ついていますよ」

 と知らせてくれたものがあった。駅にいってみると、新幕で汽車をおり、そこから徒歩で三日かかってたどりついた平壌の三千六百名が、雨にずぶぬれになったまま、プラットホームの屋根の下にうずくまっている。

 へとへとに疲れきって、駅員から立のきを要求されても動ききれない人達だ。これで、一万四千名をこえる天幕村となった。

 翌九日、米軍に交渉して、午前十時に三百名、午後二時に三千名、六時に八百名、夜十時に二千五百名を、汽車で京城に送った。いれかわりに、また千五百名が、その日のうちに到着して来た。

 釜山世話会から、三名の応援者が来てくれた。収容中に死亡したものには開城府衛生課長の取扱いで、行路死人として、無料火葬の処置がとられることになった。

六月十一日に平壌日本人会幹部の武藤、藤井の両氏が避難民を引率してきたので、二人に天幕村の団長になってもらった。

 この頃、百十四の天幕がはられ、その通路には、世話会関係者の名がとられて、古市通り、三吉通り、藤井通り武藤通りとよばれた。

 また周囲には、鉄条網がめぐらされ入口に米兵の歩哨がたち、周りの軽快には朝鮮人警官が巡視し、日本人収容所からも青年がえらばれて、衛生清掃などに留意した。

 十三日には、開城衛生課の斡旋で、叺二千枚が購入されて各天幕にしくことができた。

 食糧は、一般にはとうもろこしが一日二合、病人には、砕米やきび(ヽヽ)が配給され、ドラム鑵の野戦式炊事場もでき上った。

 十五日から収容者は、仁川に送られた。平壌から救済資金十九万円もった吉井一次氏が、開城にきて、武藤氏にかわって団長になった」

 議政府では――駅から四キロ、日本軍がかつて軍用地として使用していた草地に、天幕がたてられた。

 はじめ。八十張たてられたが、後に開城から避難民がまわされて、百二十五張にふやされた。議政府には、米軍の一部隊が駐屯しており、交替で天幕につめかけた。

 食糧は七つの大釜で丸麦や大豆、高粱がたかれ、一日三合の割合で配給された。一週間に一度は米食さえあった副食には、ソーセージや罐詰などがあてられ、大根胡瓜などの野菜と一緒にシチューにたかれて配給された。開城よりもはるかにいい状況であった。

 六月以後は、東北鮮からの脱出者は少くなり、開城から議政府に廻ってくる人達が多くなった。収容後全員検便と注射をして、一週間後にたいてい出発していった。

 注文津では――はじめは四つ位、多くて十五張天幕がはられ、船が来て脱出者が出発すると、すぐ撤回された。

 脱出者は、東海北部線を襄陽まで南下して、それから歩いたり、または牛車にのって、三八線の国境まできた。

 国境から天幕まで約十二キロで、国境には米兵の監視兵が、一カ分隊駐屯していた。

 船で脱出者が入る場合、注文津の港にまっ直ぐに入ると、船が没収になり船員も逮捕されるので、船主は近くの海岸にばらばらに船をつけた。

 また注文津によく似た港が、三八線のすぐ北の所にあって、間違ってその方に上陸させられたり、船が警備兵にうたれて、あわてて離陸南下することも度々あった。

 食糧は、ほしいか、豆、野菜、コンビーフなどが、米軍給与として支給され、各々個人炊事を行い、共同炊事になったのは十月からであった。D・D・Tの消毒と注射は厳重であった。

 

  北鮮における移動禁止令

 南鮮のコレラの防疫のために不潔な日本人の集団を阻止せんとして、米軍は北鮮のソ軍に日本人脱出禁止を要請した。

 北鮮では、六月五日河辺平壌日本人会長が保安局長によび出されて、日本人移動禁止の命を伝えられた。七日には、北鮮交通局長から公文がでて日本人は全面的に移動禁止となった。

 北鮮日本人にとって、この命令は非常に惨酷なものとなった。ことに鎮南浦では六月六日に生活力の低い千百名を沙里院に送るのと一緒に、病人や附添人を合せて四百名を、船で仁川方面に軟化させる計画をたてていただけに一層深刻なものだった。

 

  金日成へ決死の嘆願

 古市会長の日本人帰還嘆願書をもって潜入した金勝登君が、金日成委員長に会見したのは、日本人の移動禁止令の発せられたその日であった。

 金勝君は、吉原光蔵という朝鮮人学生と一緒に五月二十八日京城を出発し六月一日青丹をへて越境。鶴峴、沙里院を経由して三日に平壌につき、四日に人民委員会を訪ねた。その時の有様を彼の手記にみよう。

「今日は、金日成に是が非でもあわねばならない。不幸にしてあうことができず、

〝僕らの父兄を帰して下さい〟

 と絶叫しながら射殺された日本人の一学徒のようになろうとも。

 私は悲壮な覚悟をきめて、駅前の広場を北鮮人民委員会へと、一歩々々あるいていった。

 死に近づくような不気味さでもある万一の場合は、東京へ連絡してもらうようにたのんである。

 私の決意は、十万の邦人のためだ。たまらなくなって死物狂で走った。門衛で身分と来訪の目的を正確につたえ金日成閣下にあわして下さいと懇願した。

 やがて、身柄は警備大隊本部に連行されて、厳重な取調べをうけた。私はこの時も必死になって面会をこうた。危険など感じられなかった。私の持っていた古市会長の嘆願書はここで押収になると、翻訳されて金日成委員長に渡されていた。

 私は翌日、ふたたび人民委員会本部を訪ねていった。そして北鮮人民委員会秘書韓炳玉氏の部屋に案内された周りの幾重にも警備された委員会の奥まった所だった。ただ広い部屋に一つの事務机のあるだけで、秘書はわかい親しみ深い人だった。

 私は約一時間にわたって、北鮮における邦人の苦境と、その安否をきずかいながら、帰りを待っている日本の子弟の気持をのべて、一日も早く日本人を帰国させていただけるようにと、一生懸命に嘆願した。

 そこへ金日成委員長が入ってきて、通訳をつけて話した。

〝我々としても日本人の苦しみはよく知っている。何とかしてやりたい。とくに日本人無為の残留は食糧事情にも大きく影響して、むしろ朝鮮の独立に阻害ある位だ。しかし現在、独立といっても、すべてソ軍の指令下にあるので、日本人送還問題も自由にできないわれわれは困窮した日本人の脱出は黙認してきている。なお、今までの朝鮮民衆の不法行為や、脱出途中の保安局員の掠奪などは、従来の感情のいきがかり上なされたことであって、決して政府の意向ではない。今後、ソ軍から特別命令のない限り、日本人の脱出はみとめるであろう〟

 私はこの言葉に、胸をおどらせながら、とぶようにして階段をおりて門を出た。成功。成功。私ははちきれる程のうれしさだった。

 さらにその翌日、私は、保安局長崔鏞健氏に面会した。日本人の帰国問題は、この人の権限だった。各部屋の入口には警備兵が立っており、給仕にいたるまで、大型小型のピストルをつけている。

 崔将軍は堂々とした体格の持主で、押しつぶしたような渋い声をだす。多年満洲において、ゲリラ戦にやいたその顔は赤黒かったが、その中に、いうにいわれない温みが感じられた。

 ともすれば嗚咽になろうとする私の歎願を、一々うなづきながら聞いていた将軍は、突然私に握手をもとめた。私は満身の力をこめてその手を握ったやがて、低いが、すみきった声で、

〝今までのような危険な脱出でなく、より安全な方法で、君達の父兄をできるだけ早く、送り届けるであろう。決して君の期待はうらぎらないようにしよう〟

 といった。

 その言葉が、私の五体にしびれるように伝わった。

 それから将軍は、共産主義をといて私を激励し、

〝為人民奮闘 石泉〟

 と名刺にかいてくれた。」

 金勝君は会見をおえてからのち、次の室で保安隊の青年たちと会見し、お互に時勢を論じあった。

 金勝君が京城にひきかえす時には、北鮮の鉄道警備員が、わざわざ東海州まで護送してくれ、トラックで三八度線を突破して、六月十三日にぶじ青丹に脱出してきた。

 彼の行動が平壌の日本人にあたえた感激は大きい。

 六月十五日には、平壌のソ軍司令官の命令が、つぎのように各地の日本人世話会に伝達されている。

 一、日本人の労働の自由を認む。

 一、日本人の三十八度以北内の旅行の自由を認む。

 一、旅行中の日本人の所持品の掠奪を禁ず。

 一、三十八度線を越える者は厳罰にする。越境の目的で旅行中の者を発見した場合は元住所に送還する。

 一、日本人技術者を優遇する。

 しかし、僅かの技術者を除いて、日本人の大かたは、この命令によって何ら救われることは出来なかった。殊に脱出の準備ですっかり持物の整理をした人々は、進駐以来十カ月たってからはじめて労働の自由をみとめられたこの処置に呆然とさえするのだった。そして、各地とも脱出に対する執拗な歎願ばかり繰返していた。

 

  東北鮮の移動禁止と松村氏の画策

 咸興では、六月四日に移動禁止令が発表された。その時咸興では、二千名が残っており、興南では一般の人々はほとんど終っていた。

 興南工場に働く日本人技術者達は、一般の集団的引揚の進捗をききながら引揚げたい望みが次第に高まっていたが、朝鮮側は残留を強望し、技術者の脱出の厳禁すらしていた。

 そのうちに、約三百名が残留者として決定し、その他の一般技術者は帰還してもよいことになった。これら帰還技術者たちは移動禁止令で汽車にのれないため一部は徒歩で、他は船で南下していった。

 この頃、咸北に残った日本人の、脱出の拠点になったのは城津であった。四月半ばに元山と連絡がとれた時、元山では、ここまで南下できるなら、あとは引受けようといい、その後吉州の貧困者二百名が元山移住の許可をとって動き出した。

 松村義士男氏も城津に行って脱出の工作をすすめ、汽車で移動するよう朝鮮側の諒解をとった。城津工場に配置されたソ連の技術将校アバトフ少佐は、日本人の技術の優秀さを認めるとともに、用のない日本人は帰した方がよかろうという意見をもっていた。

 当時日本人の移動禁止令があるにも拘らず、城津から、六月十三日に病弱者と生活困窮者など四百名が南下することになって、二輛の貨車の中間に段をこしらえてのせられた。この貨車は途中度々切離され、その都度、交渉して元山まで一週間かかって南下した。それから福渓まで行って下車、松村氏の誘導で一行は徒歩越境したのであったが、折からの梅雨で三十八度線附近の川は氾濫し、泥水の川を渡りつつ京城までたどりついた。

 それ以後、咸北からは日本人を汽車で南下せしめることは、むつかしかった。

 松村氏は、北鮮の日本人脱出禁示(ママ)令が、南鮮米軍のソ軍への抗議によるものであるため、米軍へ受入緩和の工作の必要を痛感し、京城潜入をくわだてていたが、一行が全谷まできた時、突如、氏は逮捕されてしまった。

 その頃、金日成氏を暗殺しようとした養虎団というテロ団があり、その逃亡中の一味が三八度線附近で逮捕されその余類の捜査中であった。たまたま朝鮮語はたくみで、頑強な体躯の松村氏が一味とにらまれたものだった。

 氏は、養虎団の団員とともに、ソ軍にひきたてられて、漣川に向う途中、すばやく桑林の中に逃げて、その難からのがれた。ふたたび三八度線の越境をくわだてたが、特別警戒がきびしく目的がはたせないので、古市氏にあてた手紙を一朝鮮人に託した。

「国境事情が悪化しているとの報に接し、この調査打開かたがた連絡御援助いたしたく、出京を計画いたしましたが、障害あり断念します。

 今後徒歩突破ますます困難と思われ船か、または東海北部線を利用する予定であります。

 咸南北の残った日本人は、約一万三千名、大たい元山二百、咸興千八百、興南千六百、城津三千九百、清津五百、吉州四百その他、地方農家やソ軍炊事などに従事するものが約四千います。これらも、目下保安部を通じて各都市に、集結中であります。

 城津の四百名は、本日国境を突破し残りも移動許可をとって、船をだす手はずにしております。

 ソ軍関係に、積極的に働きかけた結果、五月十七日の司令官会議で、脱出黙認と決定し、各地とも大規模な移動をはじめましたが、中途において、米軍側から抗議あり、日本人移動禁止令をうけました。

 この打開には、会長の援助にすがるより他に道はないと考え、私の出京の第一目的は、その報告と御尽力をお願いするにありました。

 私らは、五月初旬、金日成委員長と連絡なり、諒解をえて、七月十日から平壌に駐在し、御期待にそむかないように、全力を傾注します。」

 松村氏の平壌移駐は、何とかして平壌を動かしてもらいたいという古市氏の希望に添わんと努力したものだったしかしこれは実現をみなかった。

 

  古市氏米軍へ歎願

 松村氏の手紙は、無事に京城の古市氏の手にとどいた。

 古市氏は、早速七月八日南鮮の米軍政長官に、北鮮に残る日本人の南下をとめないように、嘆願書を提出した。

「私達の団体は、閣下の軍政庁の協力機関として、認められており、そのお蔭で日本人の引揚について、種々の困難の中にも、順調に活動をつづけてきました。北鮮から南下した日本人および満洲避難民はいたる処で、軍政庁の派遣隊に親切にしていただき、収容、給与、医療など、また交通に関して、非常な便宜があたえられました。これらのことにつきまして私達は、どのような言葉で感謝すればよいものか困惑いたします。なお、私達のつぎの懇願を閣下の寛大なお心に、おききとどけいただきますれば幸甚に存じます。

 北鮮には九万(平南北に八万、咸南北に一万)の日本人が残っております六月五日に、これら北鮮の日本人の移動禁止命令が、ソ軍より発せられ、ここ数日、私達の処へ南下してくる人は僅少であります。

 私達世話会は、南下してくる人達によって、北鮮日本人の実状をあきらかにしております。終戦と共に、彼等は一切を失っており生業もなく、現在は飢餓においつめられ、死をまつばかりといっても過言ではありません。

 労働力をもつものは、苦労しながらも働いておりますが、大多数の家族は、元気な男子を戦地に送っており、寡婦や孤児が多く、ことに、満洲避難民の場合は、一層ひどい状態であります。

 二月以来、ソ軍の命令によって、避難民に一日四合の配給米がありましたが、一般の食糧事情がわるいために、五月以来これもとめられ、彼らには少しの食糧もあたえられておりません。

 これら日本人の南下につき、モスコーから命のないのにもかかわらず、春以来、黄海道および咸南から日本人の南下が、つづけられてきました。

 それは、あまりにあわれな様子に、関係機関が黙認した結果だと思われます。もしも、危険や、苦しみのない計画輸送が行われますならば、かれらはよろこんでその日を待つでしょうが、現在すでに、その日をまつこともできない程、弱りきっている状況です。

 かれらの北鮮当局の黙認を利用して危険な脱出をはかってくることは、死の国から逃避をこころみると同じであります。五月の末、平壌や鎮南浦では北鮮当局の黙認によって移動できることを非常によろこんで、旅費をつくるために、すべてのものをうってしまいました。

 そこへ、予期しなかった移動禁止命令がだされたのでありまして、かれらの苛酷な運命を、大層気の毒に思っています。

 私達は連合軍総司令官マックァーサー元帥が、日本人の送還に関してソ軍と交渉しておられることをきいております。

 今や私達の切願は、閣下の尊敬する国家と軍隊の強大な力と、慈悲心にたよる外はありません、私達は、閣下に北鮮に残る九万の日本人の引揚について、特にお骨折りいただけますように衷心より懇願いたします」

 

  世話会職員をへらせ

 北鮮日本人の移動禁止命令によって六月中旬から、三八度線の脱出者はぐっとへって、開城では、六月上旬に一万四千名もいたのが、中旬には千五百名、下旬には五十名、七月上旬には百二十名となっている。

「その後、平壌、鎮南浦の状況まったく不明。京城にはもちろん新しい戦災者の到着なし。全員鳴をしずめて、そろそろ焦燥の感におそわれつつあり。一日千秋の思に、降りくらす雨にて一層憂欝をます。久しく脱出者の来らざる場合、われわれの存在まで危くなること第一の憂慮なり」

 と、古市氏は東京へこう便りを送っている。

 北鮮からの南下が少くなってくると米軍政庁は京城日本人世話会職員を八月一日から職員を二十名程度にし、九月一日をもって世話会を引揚げるように内命通知を出した。また、三八度線の第一線勤務者も減員するように宣告した。

 軍政庁はかねてから、日本人世話会には、医療部の担当以外は、

「日本人の引揚は、米軍の責任である日本では朝鮮人の送還を日本政府で行っているし、朝鮮でも日本人の帰還は朝鮮人にやらせるべきである。ただ日本人を使用する方が能率的であるから日本人にやらせている。従って日本人は要員だけを残して能率的に仕事をすべきだ」

 と主張してきた。これにたいして世話会としては、疲れはててくる北鮮の同胞のために、世話会職員を確保しておくことの強調をくりかえした。

 世話会としては、この上は、北鮮からの脱出を促進させて、減員断行の隙をあたえないようにしなければならなかった。

 このために、新義州から脱出して来た西林正蔵氏と柴田氏の二人が、悲壮な決意で三八線を越えて北上して行った。

 釜山世話会では、コレラのために港の閉鎖された閑散時代に、釜山の十八の寺院に放置されていった日本人の遺骨を調査、整理した。

 そのうち無縁のもの三千二百余柱を谷町墓地に集めて「無縁諸仏之墓」と記した墓石を刻み、七月二十八日にその慰霊祭を行った。遺族の判明していた三一五三柱は、十月に釜山世話会長鏡一以氏の引揚の時所持して博多の聖福寺に安置して、遺族に引取らせた。

 南鮮で日本人の遺骨の整理を完了して来たのは釜山だけであろう。

 鏡一以氏はこのことを「私は本当によいことをした」と述懐していた。

 

  市辺里ルートの開拓

 平壌のちかく美林里にある三井関係の工場の寮がソ軍に接収された際、その工場の寮にいた人々に特別の移動がみとめられて、七月十六日に一コ列車がだされることになった。しかしこの時、一カ月半とめられていた平壌の人たちは、この機会をねらって乗車を画策し、とうとう二千名を越える大人数になってしまった。

 この部隊は、平壌のソ軍からは南下の黙認をえたが、海州のソ軍司令官は三八線厳封の指令をかたくまもって、その越境を許さず、長淵、松禾、信川殷栗、安岳、黄州に分散を命じた。このことは、さっそく平壌にも連絡された。

 平壌の朝鮮人側の保安局員も、事情説明のために黄海道におもむき、二、三週間後に漸次南下がみとめられた。しかし殷栗組は、二カ月以上も抑留され、三八線をこえたのは、十月に入ってからであった。

 しかしこの動きが次の移動のきつかけとなった。夏すぎれば秋がくる。前年の冬の犠牲の回想は、北鮮日本人に死を意味した。今の内にぜひ南下をとくりかえす必死の歎願に、イグナトフ参謀長は、

「毎日一世帯位の少数ならみとめよう」

 と言明した。

 日本人側は、

「各地区ごとに一世帯をみとめてもらいたい」

 という諒解をとり

「一日二百名ならよろしい」

 ということになった。

 これは朝鮮人側の保安局長の方も諒解をとった。平壌日本人会が主体となって、各地区のメンバーを入れた移動委員会が、その人数の統制をおこなう約束となった。

 やがて七月下旬から目立たぬように三十名位の小団体が、二百メートル位の間隔をおいて出発していった。

 その頃、警戒の厳重な鶴峴、海州方面をさけ、移動委員会の手で、裏道の開拓がなされていた。平壌から東の方にでて、勝湖里附近から三登をへて、栗里、市辺里、大南、小南を通って、開城にでる。全行程は二百二十キロ、乗物を上手に使えば、市辺里まで、トラック(平壌から三登まで汽車も利用できた)それ以南六十キロを歩くのである。しかしトラック一台は、栗里から市辺里まで一万一千円かかり、市辺里から新渓まで六千円はらわねばならず、金のないものは全行程を歩いた。

 はじめ頃は、新幕まで、列車で下って、そこから歩いて新溪にでるものもいたが、これは平壌駅の乗車がむつかしく、あまり利用されなかった。

 移動委員会は、この脱出ルートの要所々々に誘導員を配置し、三登から市辺里までの七つの保安署や、各地の人民委員会に、誠意をつくして連絡をつけた。

 平壌に呼応して、平南の他地区が一斉に動いた。平壌日本人会から長谷川誠孝、坂戸直市郎、牧山忠夫、吉井定夫氏らのすぐれた青年達が「三八線の山猿」と自称しつつ、この南下して行く人たちの誘導に働いた。

 平壌からの南下者は、日に二千、三千とふえていった。八月八日にまた南下禁止の命令が下り、八月中旬からさらに厳重となった。

 河辺平壌日本人会長は、命ぜられて大同江人道橋に見張りのために出向くことになった。

「私は見ぬふりをするから、通ってくれ」口にいえぬ心をもちつつ彼は立っていた。

 日本人はもう南下にたいする要領をえて、あるいは平壌署、あるいは船橋署の諒解をとると、闇のトラックを買収して、夜間に南下するものもいた。

 平北では遠い江界や満浦の人達は、四月に海州移住の名目で南下し、また六月に入って、郭山や定州、青水の人達が移動しはじめ、三八線から逆送されたり、突破に成功したりしていた。

 新義州では、六月十五日のソ軍司令官の北鮮内の旅行の自由をみとめるという通報をみて、これは移動が許されたのだと感ちがいして、海州行の切符を買って南下をはじめた。しかしその多くは平壌でくいとめられ、逆送された。

 その後平北各地は市辺里ルートによって南下するようになった。戦前人にも知られなかったこの山間の道を、今や数万の日本人が小集団をつくっては野や山に寝、河を横ぎって南下していった。

 鎮南浦は、コレラのために動きがとれず、やっと九月下旬になって移動が許された。船で大同江をさかのぼり、沙里院のちかくにでて、そこから徒歩や鉄道で鶴峴にでるコースをとった。

 

  開城天幕村の人民裁判

 この脱出組で、開城の天幕村は満員の大賑いとなった。しかし収容人員の激増にたいして、食糧は不足しがちで、八月十七日からは、一日一合五勺のとうもろこしの粥だけであった。

 携帯食糧をもたないばかりか、何日か食べないでようやくたどりついたやせた母親が、泣き叫ぶ乳呑児に、僅かのとうもろこしをかみくだいて、口うつしにあたえてやったり、乾いた砂の上にとうもろこしのから(ヽヽ)をはき出してならべては、昨日は幾粒あって、今日は幾粒多かったといっている子供の姿など、胸のつまる光景であった。

 一方、苦難をかさねてきた人々は、ここまで来てほっとすると共に、欝積した感情が抑制の力をおしきって、爆発した。

 天幕を支配していた人々は、そこに軍国主義的ヒロイズムを発揮した。北鮮で避難民をおきざりにして自分が先に出発したもの、脱出途中におけるエゴイズム、あるいは、北鮮での抑留生活中の不法行為があばきだされては、暴力的制裁をうけた。

開城の悪評はひろがった。三吉隊長の力だけでは天幕村を制し得ず京城の古市会長はたびたび職員を派して注意をおくっている。

ここの医療には、九月下旬に、平壌鉄道病院の中村富一博士が脱出して来て、奉仕されていた。

九月十七日には、平壌地区一年間の死亡者の慰霊祭がおごそかにとりおこなわれた。

 

 新義州の船団脱出

八月下旬新義州は、十隻の船団による二千名の脱出がおこなわれた。

これは新義州の朝鮮労働党員(共産党の改称したもの)が、日本人の脱出は、人民委員会の手でやることはできないから、党としてやろうとて、企画協力してくれたものであった。

この十隻は、仁川港に入って来た。北鮮から船が南鮮に入った場合、その船は南鮮に没収され、船員は逮捕される。これは逆に南鮮から北に入った場合も同じであるがこの船団も逮捕され朝鮮人船員は、軍事裁判により、三カ月の体刑に処された。

この船の一隻は新義州に、逃げ帰った。新義州世話会はこのため二百万円の弁償金を支払わねばならなかった。

脱出した日本人は無事京城から釜山をへて、帰国した。

古市氏は、この船員達の釈放に奔走したが、きかれなかった。

この船員たちが受刑の身をおえてでてきたのは、冬に入る頃であった。夏服のままで出所してきた人達に、当時の世話会として充分なねぎらいもできなかった。氏は今でも、あの人達はほんとうにお気毒であったと回顧している。

その後、九月末に二千四百名が又船で南下したが、今度は要領よく日本人を下船させると北に逃げ帰った。

 

 川名氏一家の健闘

仁川で船による脱出者を受入、援助送還に、米軍とともに働いたのは残留していた川名一郎氏一家であった。

仁川世話会が全員引揚げた後、米軍政庁ブラチエンスキー中尉の希望もあって、川名氏の自宅に仁川日本人連絡部の看板がかかげられた。

川名氏の令息俊郎君(京城大学生)は英語ができ、通訳をしていたし、令嬢光子さんも女学生でかいがいしく働いた。

先に釜山がコレラのため閉鎖されて、仁川が使われた時も、その世話に当ったが、八月以後、船で仁川附近に南下者が陸続としてくる時、まったく多忙をきわめた。

新義州船団以後は、脱出船が没収を恐れて、仁川港附近の江華島、津江面、永宗島、甕津、巡威島などの警備のきびしくない所にきて敵前上陸のように日本人を陸揚げして、その船はさっさと北へ逃げて帰った。川名一家は、これら上陸者をさがして米軍に連絡し、トラックで収容してまわった。ある日などは、仁川の芝浦電気の裏岸、ドックの突堤の先端、松島、塩田先の島など五カ処に一度に上陸し、それらをトラックで集めるのに、夜あけから夜までかかった。

また西串面に上陸者のあった時は、ジープで一晩中一睡もせずに探しまわって、明け方になってようやく発見したこともあった。

九月下旬に南鮮に鉄道ストが起った時、北鮮からの脱出者はトラックで仁川におくられて、仁川から引揚船がでた。これは十月中旬までつづいた。

その内、北からの脱出専門は甕津半島の三八線以北につけるようになった。そこなら没収される憂はない。脱出者は歩いて甕津半島の三八以南に下ってくる。そこに仁川から米軍のL・S・Tが迎えに行くのである。川名氏の当時の記録をみると、

「九月十七日、五百名が甕津に上陸したとの報で、早速米軍政庁に連絡した。その頃、米軍命令で、日本から木材、セメントその他物資の輸送を終えたL・S・Tが仁川に来ていたので、その甲板に便所を急造し、食糧、水、救急薬などつみ込んで迎えにいくことにした。乗組員は船長以下みんな日本人で川名家族と米軍も二名のった。海図をしらべたが、途中には浅瀬が多く、暗礁の危険もあるので、まだ残留していた山中氏を水先案内にたてていく。山中氏は以前この附近を漁船でのり廻していた人だった。

 甕津までは、一晩でいけるちかい距離であったが、遠浅なので海岸から五キロの所に停船して調べると、そこから十四里程も離れた三八線の北の小漁港に日本人が上陸しているという。はじめだけは、甕津の米軍にトラックを借りたが、二回目からは徒歩でこれを迎えに行く。

 それからL・S・Tに乗船させるのであったが、干満の差のはげしい海岸なので満潮時を利用して小船を何回も出さねばならない。しかも二カイリ半から四カイリの潮流であるから、なかなか手間どり、全員を無事仁川に上陸させるのに五、六日もかかった。

 新義州船団の南下の成功は、安東にも伝わった。二十年十月末、安東の街は、国民政府の進攻を前に、八路軍による重要工場や建物の爆破がおこなわれていた。

 恐怖の中に、日本人達八千名は、ジャンク十隻による脱出をおこなった。この船は陸続として甕津半島につけられ、仁川にむかえられた。そのうち一隻が機関の故障をおこして群山沖の無人島にちたが、この人達も仁川に上陸した。

 

  徳島の遭難

 安東から南下船団中の一隻えびす丸は、百トンたらずの老朽貨物船(定員三百五十)に六百名、荷物千個以上をのせていた。

 十月二十九日午前九時、風速二十メートルをこえ、波浪に奔弄されてこの船は、鎮南浦沖徳島の附近の浅瀬にたたきつけられた。

 ここは大同江の海に入るところで水は渦をまき、附近の人々は「魔の島」とよび、これに近づく船は必ず坐礁、沈没するという伝説のあるところであった。

 坐礁を知って、さかまく波にとびこんだ者が数名いたが、ただちに船にたたきつけられた。船はこっぱみじんにくだけ、船首の頑丈なところと竜骨だけが残った。数十名はそれにすがりいついた。

 多数の者がその洲におりた。しかしここは、潮がみち来れば水に浸る。近くの徳島まで二キロ余り、その間、洲つづきながら三カ所は泳ぎわたらねばならなかった。

 徳島にたどりついたもの五十二名、この小さな島には、人家もなく、水一てきもない。一引者のもっていたレンズでかれたヨモギに発火させて、のろしをあげて救いをもとめた。

 この徳島に救いの船がきたのは、翌日午後であった。漂流をつづける船の破片にすがりついて助かったものが、十九名おり、ともに鎮南浦に救出された。しかし約五百人の人達は、海底の人となった。

 他の船がジャンクなのに、この船だけ機帆船であった。人々はこの船にのるものをうらやんだのであったが――

 えびす丸に乗った人達は、北九州の人が多かった。乗船者名簿は、遭難で失われてない。生存者の記憶から死亡者二百七十名だけが、明らかにされている。

 

  東北鮮の海上脱出

 平南北の移動とともに、東北鮮に残る人達も動いた。

 六月下旬に元山附近にコレラが発生して、高原、元山、安辺間の列車の運行が停止されこの方面の日本人の南下は、いよいよむつかしくなっていた。

 城津では、陸路南下する元山附近がコレラで通過できないので、海路によることとし、六月中旬から下旬にかけて、帆船や機帆船が五隻、約九百名をのせてでたが、三八線南下禁止のソ軍命令が徹底していて、そのうち四隻はまた城津へもどされてきた。

 しかし、この時、注文津附近の海岸図絵がくわしくつくられ、上陸地点の見当がつけられた。

 八月下旬に、帆船による南下が大規模に計画され、世話会で船を買い、日本人の中で船のこげるものが準備された。

 この船は、はじめは堂々と注文津の港に入って、没収される場合もあったが、しだいに要領をこころえて、あるいは注文津の手前に、あるいはその先の港に、あるいは夜陰にと上陸した。

 九月中旬から下旬にかけて三十隻の船が南下して、城津の脱出はおわり、あとに世話会職員の一部と技術者八十六名、家族とも三百名が残った。

 吉州の人達は城津にでて、船にのった。

 清津の富貴町にいた人達は、ソ連海軍の仕事をまじめにして信用があったために、脱出の際には、荷物も充分にのせ、三八線までソ連海軍の船がひいていってくれた。

 咸興に残った二千名は、ソ軍司令部に陳情したが、その際、キセリヨフ代理司令官は、

「正式引揚問題が解決せぬ今日、汽車も船もだせぬが、その他の方法なら日本人委員会の手でやったらよかろう」

 との言葉に暗示されて、技術者をのぞく全員、船で南下計画をたてた。

 九月十七日午前四時、咸興駅から臨時列車で呂湖に向い、十五隻の船団で注文津へ向って出帆した。

 その時の状景を南下団の指揮部長八谷賢次氏は「北鮮戦災現地報告」の中に左のごとく記述している。

「日没前には全員の乗船を完了したが折柄沖合はしけ(ヽヽ)模様のため即日出帆を見合せて、打よせる波のおとを楽しい帰還の交響楽とききなかがら、同夜はいかりを下したまま船中で夜を明した。

 明くれば九月十八日! 天気晴朗なれど依然波高く、十八日夜半に入りやや波の静かになるのを待って、総本部の船上からしめしたかがり(ヽヽヽ)火を合図に堂々十五隻の船団はわれさきにといかりを上げて出帆、一路海上を南下したが、沖に出てみれば波は依然高く、われわれを乗せた漁船は大波に翻弄されて木の葉のごとく、比較的大きな船はそのまま大しけをつき切って注文津に向ったが、大部分の船は一旦呂湖港外の島蔭に引返し、天候恢復を待って十九日夜半ふたたび出航した。

 かくて二十日には、警戒厳重な元山沖も通過して、この分では同夜中には三八線も越えられるものと力んでいたが、これまでの追風はいつの間にか逆風とかわり、長箭沖を通過高城沖に差しかかっていた船が、逆風と潮流のため流されて、男という男は向う鉢巻で櫓にかじりつき、船頭と共々夜を日についで漕ぎに漕いだが、夜が明けてみると、前日の地点から若干流されていた。

 その内に二日三日とたち、風はまったくなくなってベタ凪となったが、風が唯一のたよりである帆船のことであり、四挺櫓を揃えて漕ぎに漕いだが、容易に三八線が越えられず、船に準備されていた飲料水はなくなり、炊飯の薪も欠乏し、二日二晩は飲まず食わずという決死的な奮闘で、やっと三八線を越え、注文津にたどりついたのは、早くて一週間、おそいので十余日という文字通り苦難の連続であった」

 しかしまだ咸北の東北部にとり残された日本人がいた。咸興の松村義士男氏は、ソ軍のパスポートをとり、城津の小西秋雄、百瀬沖彦氏、それにハバロフスク生れの通訳佐藤栄子氏を加えて北上した。

「松村」の名は、咸北にもきこえており、ソ軍も朝鮮側もたいそう敬意をはらった。

 清津の斑竹町や会寧の人達は城津に出させ、羅津、雄基からはそれぞれ船をだして、阿吾地の人達もこれに合流させた。

 羅津では一般日本人の収容所から遠くはなれて、ソ軍の慰安婦になっていた五名の日本人女性がいた。この人達は満洲から南下したかっての外交官夫人や満鉄関係の夫人などみなインテリであったが、この逆境におちて、今は残る日本人からも軽蔑されて冷たい目をむけられていた。

 松村、小西の両氏がここにおもむいて脱出に加わるように説いた。彼女らは夢かとばかり喜んで、ソ軍から手に入れたウオッカやケーキなどで夜遅くまで饗応した。

 粗末なあばらやで、ランプの火の下はこの上には藁ベットがおいてあった。窓外の中天にかかる満月の光は、最北の港をてらし、脱出をかたる若人のたぎる熱情に、敗残の女性の嬌声は、かぎりない哀愁を訴えた。

 これらの人達をのせた船は、十月二十日過ぎから、十一月はじめにかけて、途中暴風雨になやまされながら無事注文津についている。この南下の船の中で雄基の場合二週間を要して最も苦労している。

 

  正式送還の実施

 北鮮の集団的脱出は、大体二月末からはじまって、十月中、下旬で終了した。黄海道が五月中旬、咸南北が十月下旬、平南北、咸北が十月中旬で完了している。

 あとに技術者とその家族、受刑抑留者、ソ軍に関係をもっていた婦人、日鮮結婚者およびその他特殊な人達だけが残っていた。

 三十万を数えた日本人は、もう八千人にすぎなかった。

 ソ軍は、日本人の送還を早くから公言していたが、その実現は米ソの協定にまたなければならなかった。

「いずれは正式送還ができる。その時は荷物も充分もたして帰してやる。何を好んで酷暑の中を長路歩いたり、船で苦しい脱出をするのか」

 良心的なソ軍の幹部はつねに「もう少しまて」をくりかえしていた。のんきなソ連人ならこの時をただまっていたかもしれない。しかし敗戦後の深刻な生活の中に、一割の犠牲をだした越冬の悲劇を忘れない日本人は、秋風に心をあせらせながら、丸裸で三八線をこえて行ったのだった。

 皮肉にも、この脱出の終ったあと、ソ軍から日本人の正式送還の件が公表されたのである。

 マックァーサー総司令部代表と、対日理事会ソ連代表テレビヤンコ中将の間に、ソ軍管下の日本人送還の協定がまとまったのは、十二月十九日であり、日本では十一月二十七日に、中間的妥結の発表があった。

 しかし北鮮ではこれより早く、十月の末に平壌の石橋美之助氏がバラサノフ氏から正式に通告をうけた。

「石橋、喜べ、石橋だけはソ連の言を忠実に信用してくれた。十一月十五日に正式に送還船が来るぞ」

 とつげて、今北鮮にどれだけの日本人がいるかとたずねた。石橋氏は「八千余名の日本人が残っている」と答えた。

「お前のいつもいっていた二十余万の日本人はどこへ行ったのか」

「どこへ行ったかわかりません」

 この石橋氏の返事に、バラサノフ氏は唖然としてただ

「お前は、外交官にしたら立派なものだ」

 といったという。

 この日本人の正式送還命令は、全北鮮に示達された。

 この年五月から八月にかけて、北鮮にある軍人捕虜収容所に、ソ連から二万余の人達が逆送されていた。それはソ連地区に居て病弱で労働に出動できぬ人達ばかりを集めて送りこんできたのである。収容援護は、不完全で、それに赤痢や発疹チフス、また三合里ではコレラまででて、非常に多くの死亡者をだしていた。

 この軍人捕虜の収容所にも、正式引揚のよろこびの通知はもたらされた。

 船は十二月末から一月はじめにかけて、佐世保から興南に八隻きて、軍人捕虜二万(若干一般人もふくむ)をはこび、また元山に入った栄豊丸は一般邦人をのせた。

 十二月十九日、栄豊丸乗船の際には、人民委員会派遣のブラスバンドが吹奏された。北鮮の日本人引揚に最後まで健闘した咸興の松村義士男氏、磯谷季次氏、元山の松本五郎氏、平壌の神崎邦治氏、鎮南浦の横瀬正雄氏、松田悟氏はこのとき引揚げた。

 港まで見送りにきた咸興市共産党部の李達進氏は、さり行く人達に、

「今まで日本人のしたことに悪いこともあった。また朝鮮人のしたことに悪いところもあった。しかし明日はお互に明かるく楽しく手を握って進もう」

 とはなむけの言葉をおくった。

 北鮮に残っていた日本人が、元山、興南に集結して、引揚船をまっているニュースは京城にも伝わった。脱出者もいなくなったので、開城、議政府、注文津の天幕も撤収した。京城日本人世話会も、いよいよ撤退することになった。時の首都警察庁長張沢相氏は盛大な宴を催して、最後迄敢闘した古市氏の労をねぎらった。世話会職員は十二月二十七日、「さらば朝鮮よ」をうたいつつ京城に別れをつげた。仁川の川名氏一家も、一月中旬に出発した。

 釜山世話会は先述のように二十三年夏まで残った。