秘録大東亞戦史 朝鮮編 解放の嵐の中にー朝鮮引揚史 その二ー

太平洋戦争(大東亜戦争)の戦況や実相、推移について、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、共同通信社をはじめとする日本の新聞記者などが、自分の見聞した範囲において記したルポルタージュを編集した書籍。地域方面別に1冊(或いは2冊)ずつ区切って編集したものと、地域方面ごとで区切らずに収録したものがある。

 朝鮮編は、終戦当時、朝鮮総督府の官吏であり、京城日本人世話会のメンバーとして、在ソウルの日本人居留民の保護や引揚帰国の援助を行なった森田芳夫のルポルタージュ5編を含んでいる。

 

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解放の嵐の中に

  ――朝鮮引揚史 その二――

戦いは終った。解放に躍動する朝鮮の黎明。しかし混沌の日々、邦人の身辺は多難の様相を呈していく。同胞相擁すべく、日本人世話会が次々に誕生した。

      元京城日本人世話会 森田芳夫

 

民族解放の驚喜

最も確実な終戦の報を総督府が入手したのは、八月十四日午後十一時であった。ポツダム宣言受諾に関する詔書の原稿全文が同盟通信京城支局に電話で報ぜられ、それが総督府の西広警務局長に伝えられたのである。

翌十五日午前六時、遠藤政務総監は呂運亨氏を、総監官邸に招いた。呂運亨氏は当時の朝鮮人側左派に連携をもつ民族主義の運動の巨頭である。遠藤政務総監は、終戦を告げ、政治犯の釈放決定を語り、治安維持に協力を求めた。

 呂運亨氏はこれを諾した。

 翌十六日から、呂運亨氏を委員長とし、安在鴻氏を副委員長とする「朝鮮建国準備委員会」が発足し、檄がとび、学徒隊、治安隊の結成準備がはじまつた。

 政治犯のデモに始まり、解放に驚喜する民族の嵐は、中保与作氏の「掠奪と赤色の劫火」に記されているので、ここには省略しよう。

 十六日正午、呂運亨氏が徽文中学の広場に集った数千の熱狂せる群衆に、朝鮮建国準備委員会結成の経過と抱負をのべ、その中で、「朝鮮日本両民族がたがいにわかれるこの日に気持ちよくわかれ、誤解からおたがいに血を流さぬよう」に説いたこと、その日午後三時から、副委員長安在鴻氏が京城放送局から放送した中に、

「国民各位、男女老幼はこの間、言語動静を格別注意して、日本人住民の心事感情を刺戟することのなきよう尽力せねばならぬ、四十年間の総督政治はすでに過去のことである。まして朝鮮、日本両民族の政治形態がいかに変動しても、自主互譲、アジア諸民族としてのつながれた各自の使命をはたさねばならない。日本にいる五百万朝鮮同胞が、日本国民諸君とおなじく受難の生活をしていることをおもう時、朝鮮在住百幾十万の日本住民諸君の生命、財産の絶対確保が必要であることを聡明な国民諸氏が充分に理解せられることをうたがわない」

 と叫んだ言葉は、日本人の胸中にも深くきざみこまれたことであった。

 

日本軍の出動

八月十四日の夜、第十七方面軍井原参謀長が、京城同盟通信社から終戦の詔書原稿の入っていることをつたえられた時、はじめて終戦の決定を知った。軍は非公式に、終戦の情報を入手していたが、デマであると一蹴し、決戦へ驀進を期していた。当時、最終の御前会議まで決戦を主張しつづけていた阿南陸相の決意に一貫していたのである。

 北鮮の戦場にただちに植弘参謀が停戦伝達にとんだ。

 入営前、警官の職にあったものは、十五日夕除隊し、(全鮮約四千名)警官に復帰している。また朝鮮人入営者にも、全員除隊の命を発した。

 血気にはやる青年将校に痛憤のあまり自決するものあり、平壌では第五空軍の第十六戦隊長以下将校六名、六七式重爆機にのり、思いきりとんだ後、平壌飛行場内に自爆し、京城でも少年航空兵特攻隊員が愛機とともに自爆した。

 十六日、朝鮮建国準備委員会の活躍により、京城市内が騒然たる革命の暴風につつまれた時、はじめて軍司令部は総監、呂運亨氏との工作を知り、わかき参謀は軍を無視した総督府を叱責し、各地の軍隊は、日本人保護に必要な地点に出動した。

 朝鮮人側の迫害になやんでいた僻地の日本人は、軍隊の援護によって都市に集結してきた。不法な接収をとりもどし、無秩序の民衆運動の弾圧をおこなった。

 また軍としては、来たるべき武装解除後にそなえて、九千名の将兵を警察官に転属させる措置を講じ、特設警備隊として銃剣をもつたまま警察官の服装をあたえて、各地に赴任させた。

 井原参謀長は、全軍に命を下し、武力は最悪の事態にかぎり発動し、また「絶対に軍隊を一コ小隊以下にするな」

 とつたえ、京城の部隊では町を歩く時は、どんな場合でもかならず三人以上と厳命された。

 それは民衆の日本軍隊にたいする軽侮の念をなくし、あくまでも流血をふせごうとするにあった。

 しかし一方、日本軍が治安の指導権をにぎろうとしたためかえって混乱を来したところも少くはなかった。日本軍は力をもつも、朝鮮の政情や、民間の動きにうとい。通常民間人に接していないために、政治的折衝がまずい。

 忠清北道では気慨のある坪井幸生警察部長は、道内治安に全責任をもち、日本軍に関与せしめなかったのは特記されよう。各地で日本軍は、

「治安維持は責任をおう。軍は最後に引揚げる」

 と揚言していたが、北鮮で軍がまっ先に武装解除、抑留され、南鮮でもいち早く引揚を命ぜられた。その短かい生命の見とおしもなく、軍が威力を発動せんとし、一般日本人もまた従来の観念から、この軍に頼ろうとしたためことに北鮮では悲劇を大きくした。

 

  小鹿島の悲劇

 終戦後、南鮮でもっとも多く犠牲者をだした所は、全南小鹿島であった。

 ここは美しい小島で、ライ患者六千名を収容した更生園があった。これは宇垣総督時代に作られ、朝鮮に世界一が三つある。水豊ダムと金剛山とこの小鹿島の更生園であるといわれていた――

 ここが終戦を知ったのは、十七日午後であった。

 その翌朝、園長西亀三圭氏は、終戦を発表したが、その直後、朝鮮人職員による朝鮮人治安維持会が、更生園の接収を要求して小鹿島神社を焼打し万歳を連呼した。

 朝鮮人職員が自分達の手で経営をつづけようとするのに対して、患者側(朝鮮人)は、自治委員会の下に経営すべきを主張して譲らず、とくに十九日にライ患者の受刑者七十名が、内外呼応して破獄し、その破獄者とともに患者は朝鮮人職員を襲撃した。

 朝鮮人職員は、対岸に救いをもとめ、救援の朝鮮人とともに暴動する患者にたいして発砲し、ついに犠牲者数十名をだした。

 これは二十二日、日本軍の出動で鎮静に帰した。

 日本人全員二百余名は、その間一ヵ所に集結して、この事件にまきこまれず、日本軍撤退と同時に、麗水にでて引揚げた。

 

  勝手に帰ればよいのだ

 終戦直後、茫然自失したかのごとき日本人も、朝鮮側のはなばなしい活躍に愕然として、あたらしい事態の認識をせねばならなかった。

 戦争は八月十五日におわった。しかし民族革命のあらしはその日からはじまった。抑圧された民族は、今蹶起する。何かといえばすぐ総督府の力と軍の力を考えていたがもうそれもなくなった。もろくもつぶれた日本人の生活権をおもう時、大多数の日本人を支配したのは、ただ「日本へ帰ろう」という気持ちだった。

 官庁、銀行、会社、団体は二ヵ月分の俸給と退職金を支出した。引揚の準備が始まった。どこからともなく古物買が多数あらわれた。一獲千金を夢みるにわか古物商がふだんの数十倍にのぼったことであろう。

 当時の交通局は、京城から一日二コ列車大田から一列車の計画をたてていたが、混乱の中で厳格に遂行されなかった。南下者には交通局長の発行する輸送証明書を交付し、それで列車が指定された。交付の方針は、戦災者、老幼婦女子、終戦事務特別従業者の家族、その他特別事情のある者を優先的としたが、それは厳重に守られなかった。

 日本人は釜山をはじめ南鮮の港に殺到した。

 もっとも積極的に引揚を奨励したのは、慶南の信原知事であった。終戦直後、知事は全道の警察に指令して、奥地の日本人は、荷物をできるだけもって釜山、鎮海、馬山、統営、三千浦の港にでること、日本人警察官が勢子となって、日本人かり出しの任務を完遂するよう指令した。

 釜山は日本民族海外発展第一歩の地ここに永年の地盤をきずいていた日本人はこの知事の指令に強硬に反対し、居留民団的組織の必要を主張した。しかし知事は、事態は従来のあまい考えをゆるさない。一日も早く家財をもって日本に引揚げるよう強調していた。

 米軍令により、八月二十五日午前零時を期し、百トン以上の船舶は航行禁止となった。しかし、帰還朝鮮人をはこぶ関係からすぐ連絡船が復活した。

 また××行の旗をたてた多くの機帆船が動いていた。日本に帰る人は、その船に勝手にのって行けばよかった。税関も荷物の検査も何もなかった。荷物ものせられる、早ければ十二時間、おそくとも一昼夜で着くというので、みな争って乗った。しかしその間、暴風雨その他機雷、海賊船などで犠牲も相当でた。

 米軍が計画輸送を実施した十月十六日からこの機帆船は禁止された。

 

  無軌道引揚

 全南でも各港からおもいおもいの引揚がおこなわれた。道庁としては特別に佐賀県唐津市に職員を派して受入態勢の準備をした。

 唐津市に上陸したものは、全南、全北、慶南のものを合せて四万名におよんだという。

 さらに道庁は、六十二トンのセメント運搬船二隻を買入れて輸送をはじめたが、九月九日木浦を出発し、一週間をへて唐津に着き、乗船者は上陸したが、おりからの颱風のため、一隻は大破、一隻は沈没し、その折返し運転計画は水泡に帰した。

 全北は群山から船で引揚がおこなわれた。軍関係暁部隊の港荷役関係がもっとも早く、民間人の引揚がつづいた。扶安からもおこなわれた。

 全北の山間部の警官家族は、全州に集結し、麗水にでて、そこから唐津にむかった。(船は三十トンが二隻で各各百名ちかく乗せた)第三回目に二隻中の一隻は、九月中旬の大暴風雨にあい、難破し、それ以後の消息を知らない。

 慶北は、浦項や甘浦からヤミ船がでた。道警察官家族のために、九月二日浦項を出発した百トンの老朽船は、途中難船して慶南に寄港、九月十一日に萩についている。

 江原道東海岸は、漁船で悠々と引揚をおこなっている。三陟のごときは、全日本人三千が八月二十日頃から計画的に傭船をし、その数三十隻ほとんど全員が日本に帰還している。(ほかに二千名の以北からの南下者も送った)これには三陟署長押川熊次郎氏の決死的健闘が特記されよう。

 しかし、いずれの地もはじめはヤミ船で悠々と引揚ができたが、のちに朝鮮人側の建国準備委員会、保安隊、青年隊員により荷物の検査がおこなわれその個数、内容に制限がおこなわれ、禁止された。そしてまた各地とも、九月上旬から中旬の大暴風雨になやまされ、犠牲者を出している。

 この無軌道引揚の日本側の受入れについての実情を博多港の場合についてみると、八月十八日から二十四日までに、朝鮮方面から二十七隻の船が入港している。

 これらの船は、日本にいた朝鮮人をのせて、釜山へ廻船した。

 正式に米軍命で動いた最初の船は、徳寿丸で、終戦前から山陰の須佐に逃避していたが、朝鮮との間の就航を命ぜられ、九月一日釜山におもむき、軍人約二千五百名をのせて九月三日の朝入港している。

最初この引揚者の受入にあたったのは、博多の場合は福岡県庁であった。船がいつ来るかわからない。県庁からみていて沖に船がみえると、係官が乾パンと外食券と引揚証明書をもって港にとんで行き、上陸者にそれをわたした。

 博多港だけでなくて、西公園の浜辺や、糸島郡、粕屋郡、宗像郡一帯の海岸に無軌道にヤミ船で上陸してくる、そのつど県の職員がかけまわって証明書と外食券をその上陸者に配っているという状態であった。

 

  水田財務局長の苦慮

 引揚者にとってお金は重大問題である。永年の生活地盤を失い、わずかにもてるものだけをもって本国に帰らねばならない時、できるだけの金をもち帰ろうとするのは、誰しも共通の心理であった。ことに朝鮮人側の建国さわぎで、銀行や郵便局への信頼がいつまでつづけられるかわからなかった。

 日本人は退職金をもらっても、それを預けようとはしなかった。考えるのは、引出して持っておくことだけだった。十六日から銀行や金融組合や郵便局の前に、金を引出す人々の長い行列がつづいた。銀行は鮮銀券の取付になることをおそれて、整理に名をかりて午前中だけの業務となった。

 終戦当時の朝鮮銀行券の発行高は、四十九億円余であり、そのうち全鮮の主な銀行に三十余億の鮮銀券を準備していた。

 しかし貯金は預入なく、全額引出しのみであった。それに終戦にともなう退職金や業務関係の支払その他多額の支出が、軍や官公署や公共団体を通じておこなわれた。京城に準備した鮮銀券は、みるみるへって行き、放任すれば数日でなくなるおそれがあった。

 地方から京城へ特殊の警戒をした密使が来て、鮮銀券をはこんだ。平安北道のごときは、八月二十五日内務部長会議の際高橋内務部長が飛行機で来て鮮銀券をつめるだけつんで三百万円持って帰った。

 その頃京城では一日に数回、金融関係者が集って、少くなる鮮銀券についての対策を講じていた。銀行閉鎖論もたびたび論ぜられた。しかし今モラトリアムを施行することは、総督統治に不信をまねくこと、とくに治安の悪化が予想つかぬほど深刻になるので、何としてもそれはやめようということに一致した結論をえた。

 モラトリアムはおこなわぬ、インフレは最低限度にとどめる、しかも日本人の本国帰還は、金融上の不安なくおこなわしめる。これが当時総督府の水田財務局長の樹立した方針であった。

 鮮内の銀行に対して払戻は継続せしめるが、鮮銀券をできるだけ節約して小切手その他でおこなわしめることを指令し、また八月十七日に財務局長談として、インフレの防止および盗難の予防のために預金引出はできるだけおこなわぬこと、日本に引揚げた場合には朝鮮内の通帳で毎月五百円を限度として便宜払出がおこなわれること、また日本に本店のある銀行の送金小切手は、日本に持参すれば有効であることをラジオで放送した。

 また当時日本に五億の鮮銀券のストックがあった。これを早急に朝鮮に運搬する手筈をすすめ、朝鮮銀行の三宅監査役が飛行機で東上し、大蔵省に交渉して、二十三日に飛行機で朝鮮にはこんできた。

 一方、昭和二十年春ころから京城で鮮銀券を印刷する準備をすすめていたが、終戦後ただちにそれを督促し、印刷せしめた。動員されたのは、朝鮮書籍の印刷工場と、近沢印刷の一部であり、米軍進駐に間にあうように九月八日に千円札を七十億円準備するのに成功した。しかしこれはてをつけずにそのまま米軍にわたされ、その後この紙幣は世に出なかった。

 

  恨まれたラジオ放送

 八月十七日の財務局長の放送は、一般日本人の最大関心事だけに、全鮮にひろく徹底した。盗難をおそれて、出した金をまた預入れた人達もおり、また札束では持帰りが困難なのでわざわざ送金小切手にかえたものもいた。引出を抑制した効果は相当にあった。

 総督府はこの預金通帳をもち帰った場合、それから月五百円の引出のことと、小切手の件について、大蔵省に交渉してその同意をえた。九月二十三日までは、日本内で実行された。しかし二十三日以後は、送金小切手は米軍命によりその言明と違って無効となってしまった。

 さらに米軍政布告第三号に通貨の輸出入禁止が発表され、「紙幣、貨幣および債券の輸出入をふくむ対外金融取引の禁止」の条項の債券に貯金通帳が当る見解がとられ、計画輸送の当初には、日本に持帰りが認められなかった。所有者に釜山で受領書を交付の上とりあげられることになった。

 これは十二月中旬に解除されたが、その間の引揚者は没収されたもの多くまた持帰れぬものならばとて、二、三割引きの値で朝鮮人に廉売したものも多かった。

 ことに治安の悪い北鮮では、郵便貯金なら盗まれても安心だというわけで、また預入れたものが相当あった。しかしその後、北鮮の人民委員会は、この貯金の払出を認めなかった。興南の実例は八月二十九日になって二十六日以前の預入は払出をせずと発表した

 朝鮮引揚者は、この財務局長の放送を恨んでいるものが多い。

 日銀券の流布交換は、米軍政庁で厳禁された。しかし引揚者は何とかして日銀券をかくしてもち帰ろうとした。日本から引揚げてきた朝鮮人が日銀券を沢山に持帰り、それとの交換が、ヤミでおこなわれた。

 はじめは日銀券の方が率がよかったが、漸次同額となり、やがて日本人が少くなってくると、日銀券が氾濫して終戦の翌年春頃は日銀券千円が鮮銀券六百円くらいにまでなった。釜山で検査をうける際に、千円札のほうがかくすのに便利なので、同じ日銀券でも千円札が十円札よりも二割位高かった。

 

  日本人世話会の発足

 八月十六日午後、総督府は総督、政務総監のほか局長列席し、京城在住の日本人の民間側の有力者を招いて事態についての説明をおこなった。その時招かれたのは、京城電気社長穂積真六郎、朝鮮繊維産業会社々長湯村辰二郎、朝鮮商工会議所会頭人見二郎、食糧営団理事長渡辺忍氏等であった。総監から、

「総督府が正面にたって時局の収拾にあたることをさけて、呂運亨氏に治安維持の協力を依頼した。ところが朝鮮人側は、政権を移譲されたかのごとく解してさわいでいる。総督府としてはそんなひろい範囲の委任ではなかったのだ」

 という話であった。しかしこの説明は、招かれた人達を到底納得させなかった。穂積氏はこの説明に憤然として

「われわれは小さい時から義士銘々伝や忠臣蔵などを何のために読んできたか、この場合の為政者の態度に、大石の城明渡しくらいの決心がないとしたならば、何の顔あって朝鮮の終末を祖国に報じうるであろう。もう少ししっかりした態度をわれわれ人民にしめしてほしい」

 と発言している。

 その時、総督府の庁舎の外には、独立万歳をさけぶ民衆のデモがおしよせて門で制止されるのをおしきり、庁舎の入口まで迫ってきた。総督府当局は、武装警官を配置して、ようやくそのなだれをくいとめている状態であった。

 総督府には、もうこの民族のあらしの中に堪えきる力はなくなった。朝鮮民族は独立する。総督府にかわって日本軍が治安維持に出動し、「軍は健在なり」とさけんでいる。

 しかしその日本軍も、米ソ両軍ひとたび進駐し来るや、ただちに武装解除されねばならない。なによりも民間の組織が必要なのだ。

 時局にもっとも敏感な動きをなしうるのは新聞人である。朝日新聞京城支局長伊集院兼雄氏は、十七日夕刻、総督官邸に行き、阿部総督に面会を申込み、総督府の機能は無力化している現状において、別に日本人の連絡機関を結成したいことをつげ、すぐその夜穂積氏宅に電話をかけて、民間組織結成の必要を力説し、朝鮮電業社長久保田豊氏、朝鮮重要物資営団理事長渡辺豊日子氏、渡辺忍氏、旧京城日報支配人安井俊雄氏らと協議、十八日に日本人会結成を議し、会長に穂積氏、副会長に久保田豊、渡辺豊日子両氏の決定をみた。

 

  相ついで生る日本人世話会

 穂積氏は、朝鮮総督府殖産局長を十年つとめ、日鮮官民に信望があった久保田氏は朝鮮水力電気の開発者として世界的に名声あり、渡辺氏は国民義勇隊の副司令であったことからひきだされたのである。

 総督府は、この会の出現に賛意を表した。ただ従来「朝鮮人」に対して「内地人」といっていたのをにわかに「日本人」というのはどうか、また「世話会」という方が政治性がなくてよいという意見が加えられ、会名は「京城内地人世話会」とあらためられた。しかし九月中旬になると「内地人」というのは、朝鮮人を日本人扱いにしているところからきていて、かえって朝鮮人に悪いからとて「日本人世話会」と改められた。

 軍では世話会の出現を大いに喜んで即刻軍の電話で積極的に援助するよう命令している。

 二十日、世話会の事務所は商工経済会におかれ、事務局長に、興亜総本部大陸局長、代議士陸軍少将金子定一氏、次長に前国民総力朝鮮連盟総務部長伊藤憲郎氏、総務部長に朝鮮商工経済会常務理事杉山茂一氏、事業部長に前京城府尹古市進氏、調査部長に京城大学教授鈴木武雄氏が就任した金子、伊藤氏は、特に朝鮮人に知己が多いのでえらばれたのである。

 世話会はその趣意書に、

「この急転機に際し来るべき新朝鮮のために、よき協力者としてその光栄ある発達に寄与すべきこと」

 とうたい、規約に、

「京城在住内地人をもって組織し、内地人間相互の連絡協調ならびに互助をはかる」

 を目的とした。

 世話会は、徒に組織の整備を待っていなかった。もう在住日本人の中心的るつぼになっていた。革命の動きに興奮するもの、時局の急変に戸惑うもの、窮状になやむ避難民、みんなここに集った。寄附金がもちこまれ、物品が集められた。各種の意見情報がつぎつぎもたらされた。おちついた企画よりも目前のことが今日の議となり、仕事となった。

 引揚に急奔する日本人の家具、衣類を百貨店で正当なねだんで買上げること。輸送がきくまでその保管の準備、荷づくりのために木箱の斡旋、除隊兵の就職斡旋、南下してきた避難民の世話、雑然とした仕事にみんな動いていた。世話会の仕事がどうやら軌道にのってきたのは、九月に入ってからであった。

 京城に「内地人世話会生る」この報はラジオで全鮮につたえられた。また二十四日に総督府企画課長名で、各道知事あてに「内地人世話会設立に関する件」の通牒が発せられ、その組織を指令した。駐屯した軍も積極的に援助した。どこででも民間組織を熱望していただけに、つぎつぎとうまれた。

 仁川では八月二十一日に「内地人連絡懇話会」がうまれたが、京城の世話会結成をきいて二十六日に「内地人世話会」が発会、会長加藤平太郎氏、(朝鮮精米社長)副会長小谷益次郎氏(仁川府会副議長)森秀雄氏(会議所会頭)および長野永治氏(東洋紡績工場長)がおされ、事務所は宮町紅屋池田氏店舗(後に本町二丁目松屋)におかれた。

 東洋紡績にあった綿布を、朝鮮人側の業者とともに、日本人、朝鮮人の人口割でうりさばくことにきめこの日本人側へのうりさばく権利を世話会がにぎり、四十八万円の利益をおさめ、これを資金とし、ほかに寄附金六十万円を得ている。

 開城は、八月末結成、当時の道立病院長が会長、後に府会議員岡本豊喜氏が代った。

 清州では兵事部長命で、八月十七日から「内地人親和会」がうまれ、会長鮎川栄司氏(朝鮮貨物自動車支店長)副会長市川幸右衛門氏(朝鮮運送支店長)伊藤東之進氏(商工会議所理事)で事務所は邑事務所におかれた。八月二十四日に「内地人世話会」と改名した。

 資金は学校組合費をまだ徴収していなかったので、その三分の一程度の額を会費としてあつめ、さらに朝鮮軍から十一万円、ほかに寄附金十余万円を基としている。

 大田では八月下旬発会、事務所は春日町の営団内に設けられ、会長は青柳八百造氏、(南鮮電気支店長)で富士平氏(道会議員)辻万太郎氏(実業家)市岡米男氏(朝鮮興業支店長)等が部長となった。のちに会長に道内務部長麻生憲治氏が就任した。

 大邱でも八月下旬発会、会長は杉原平太郎氏(府会副議長)副会長に町田六郎氏(薬種商)森西平三郎氏(土木請負業)がおされ、事務所は幸町の土建協会があてられた。

 資金は総督府の三十万円、軍からの二十万円を基金としている。

 釜山世話会は九月一日に香椎源太郎氏を会長に、池田佐忠氏を事務局長として慶南商工経済会で発会、二十五日に釜山商工経済会に移った。

 全州は八月下旬発会、吉谷氏(酒醸造)が会長であったが、後石川荘四郎氏(全州法院長)が代り、松波千海氏(全州日報社長)が副会長になった。

会費は各戸百円以上の寄附金および軍から十万円の寄付を基とした。

群山は八月十九日樋口虎三氏(南鮮合同副社長)が会長に、光富嘉八氏(印刷業)脇田春次氏(道会議員)伊藤忠孝氏(府会議員)が副会長におされた。事務所ははじめは商工会議所、のちに幼稚園にうつった。

資金は群山府に保管していた道への寄附金八万円と軍から譲りうけた物資を基とした。

光州は会長に石川光文氏、副会長には道の戦時対策部長木下麟太郎氏が就任、道地方課の職員も入って官民一体の組織となっている。

木浦日本人世話会は、八月二十五日結成、会長は中島健三氏(府会副議長)副会長は村上直助氏(商工会議所会長)であった。

二万円の交附金の外、寄附金、手数料収入など七十万円を基金としている。

春川は最初は、村上文八郎氏(商業)が会長、岡信侠助氏(道内務部長)が副会長となり、後に岡信氏が会長となった。

北鮮の各地にも生れたがそれはあとでしるそう。世話会の当初は、いずれも居留民団を予想して結成され、その土地にもっとも馴じみ深い人々がえらばれた。

多くは三十年、五十年とその土地で生れ、その地に育った人々である。世話会の幹部になったほとんどの人は、引揚をかんがえず、朝鮮を故郷としたものであり、朝鮮人側ともよく、しかも日本人の生活をまもるためには、自己の生命もかえりみぬ人々であった。

緊急のなかで事務的でなく、予算もなく、ゆきあたりばったりの仕事ぶりであった。軍のように力なく、官のように組織もなかったが、同胞愛にもえた人格と至誠で、苦難の仕事を敢行している。

この人たちの下で、はたらいた世話会の職員も、自らこの難局に積極的にあたろうという熱意をもったものが多かった。

ちょうど夏休みであったので、学生や生徒が、その機構の中にとびこんでくれたことは、世話会の活動を非常に元気づけたのだった。