京城日報(昭和3年6月3日付)朝鮮人勞働者へ親しみの現はれ
この昭和館は、1928年6月20日付木浦申報にあった「地方庁で共同宿泊所とか相当保護の方法」の一環である。下関は釜山との連絡航路「関釜航路」の発着地であり、国鉄の連絡船が就航していた。内地渡航を目指す朝鮮人はまず大阪か下関までの国鉄切符を購入し、下関を中継地として大阪や東京、各地方に向かうことが多かった。そのため下関に滞在、定着する者も多く、その保護援護が重要な問題となっていた。
記事中にある「モヒ患者」はモルヒネ中毒者を指し、1928(昭和3)年7月以降の地元での漫然渡航阻止策において、渡航不許可項目に挙げられるようになった。
木村健二「在日朝鮮人協和会体制の末端機構-山口県の事例を中心に-」(『地域共創センター年報 8号』(下関市立大学附属地域共創センター 2015)掲載)によれば、1920年代から増加した内地の朝鮮人労働者に対して、山口県では、1925(大正14)年に彦島で職業紹介、救済事業などを行う内鮮共和会が設立され、下関で日鮮親和会が設立され、これが1928(昭和3)年の山口昭和館に発展したことが指摘されている。山口昭和館は、労働者の保護救済だけでなく、旅行者への応対や夜間学校、託児といった朝鮮人全般に対する援護を行う融和施設として機能した。
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内地渡航者の福音として出來上がった昭和館
下關に於ける昭和館落成式に臨席した總督府神尾社㑹課長は一日夜歸城し、左の如く昭和館の事業及び内地に於ける渡航朝鮮人の現狀に就て語る
昭和館は、内地渡航朝鮮人の救済を目的として建設されたもので、山口縣恵福㑹、總督府から各五千圓づゝ補助し、其の他二萬五千餘圓は山口縣下主として下の關市からの寄付金によって、総經費四萬餘圓で建設されたものである。
下の關市にあっては、市内の有力者からの勞動者に近い者まで全市を舉げて寄付し、その熱心な様は涙ぐましいものが見受けられた。落成式の如きも、僅に一圓餘の宴㑹に全縣下から集まってこれに参加し、如何に同地方において朝鮮人問題に熱心であるかが判る。
昭和館は簡易の寝臺があって百二十名が宿泊され、三名の朝鮮語に巧な内地人の書記がゐて、これがかわるがわる下關驛に出て渡來朝鮮人の保護に當たり宿泊を要するものは昭和館に同行してゐる。
昭和館は簡易宿泊の外朝鮮人へ授產事業、職業紹介、簡易診療等に當たってゐる。設置場所は下關の大坪といふ所にあって、その附近には一千五百名近い朝鮮人が集團し、昭和館はその中心機關となってゐる。
この昭和館は内地における朝鮮人救濟事業中、最も見るべきもので、大阪の内鮮協和㑹に次ぐものである。内地に於ける朝鮮人の現狀は、自由勞働者は概してよくないが、定着してゐるものは自由勞働者よりよいようである。
一番困るのはモヒ患者で、これが小窃盗などを働き、朝鮮人一般が不評をまねくことおびたゞしい。
モヒ患者などは努めて渡航せしめぬようにせねば、内地でも困るであらう。
(寫眞は昭和館)
