2019/2/12NEW

ロングインタビュー 小林春江さんと安達清子さん①

一般財団法人 産業遺産国民会議
専務理事 加藤 康子

“端島の人は良い人ばかり。朝鮮半島出身の人も同じでした”

小林春江さん(左)と安達清子さん(右)



2016年9月の暑い日、小林春江さんに初めてお目にかかりました。加地英夫さん(長崎端島会会長)の声かけで長崎の市民会館の一室に元島民数名が集まり、戦時中の朝鮮半島出身者との思い出を語りあいました。宮崎で松本栄さん(島民の会名誉会長)にお目にかかった時のエピソードをお話しすると、会に参加していた井上秀士さんが思わず声をあげました。「松本の爺さん、まだ生きとったんか?」。その声につられて、小林春江さんも思わず身を乗り出しました。小林春江さんと松本栄さんは「幼なじみで同級生」とのこと。春江さんは座談会ではあまり積極的に話されませんでしたが、終会後部屋から出ると、「ひとりで話しすぎたら悪いと思って…」となにか言いたげでした。そこで改めて、次回の聞き取りの日程を決め、妹の安達清子さんとお二人でホテルのお部屋にお越しいただくことにしました。二回目の聞き取りでは妹さんが同席した安心感からか、初回とは打って変わって表情も明るくなり、一度家路につかれた井上さんも話足りないと戻ってこられました。長時間のインタビューでは戦時中の端島の思い出話に花が咲き、大いに盛り上がりました。しかし時間がいくらあっても足りず、三度目は春江さんのご自宅でお話を伺うことにしました。人生の大半を閉山の日まで端島で過ごした姉妹の戦時中の思い出を、二回に渡って紹介します。


プロフィール
小林春江(コバヤシハルエ)
1928年1月17日生まれ(91)
高島出身。父親は坑外勤務。2歳で端島へ移住。
1973年に、娘の進学に伴い長崎市へ移住。夫は電気係として閉山まで在住。

安達清子(アダチキヨコ)
1933年8月26日生まれ(85)
端島出身。父親の実家がある松山市に疎開、終戦を迎える。その後、端島へ戻り、1969年まで在住。端島で電工の仕事をしていた夫を事故で亡くしている。

「いまでも、終戦前の端島を思い出します」

――ご家族は何人ですか?

小林 私の上に姉と兄が三人おりまして、私、上の妹、この人、そして弟の8人兄弟。今はもうみんな亡くなって、私とこの人だけになりました。

――大家族ですね。

小林 端島に暮らしていた人たちは、大分や佐賀の九州出身の次男さん、三男さんが多かったんです。長男さんは親の跡を継ぐけど、次男さん、三男さんが端島に出稼ぎに来てね。来たときは独身でも「故郷で見合いばして、嫁にもろうたばい」と言って、うちに奥さんを見せにきた人もいました。

――端島生まれですか?

安達 姉さん(小林さん)は高島で生まれたというけれど、高島のことは覚えてないでしょう?
小林 私はね、高島で生まれて、2歳のとき端島に行ったから、端島生まれともう一緒なんですね。父は坑内勤務ではなく、掘った後を支える松の木の製材係をしとったですよ。だから坑内に入る人よりは給料が少なかったし、子どもは多いし…。戦時中ですから、「産めよ増やせよ」いうて、子どもが10人以上になったら役場から金一封が出よったらしい。本当にもらった人がおるのか、それは子どものころに聞いた話で。
安達 どの家も子だくさんで、5人兄弟とかザラにいました。わが家の場合、母が早くに亡くなりました。
小林 私が12歳の時、母は42歳で病死しました。そこから私が母親代りをしなくてはならなくて。まだ弟が生きていたので家に置いて出かけられなかったんです。それで弟を連れて、この人の手を引いて学校へ行きました。先生もね、旧姓が佐伯ですけど、「佐伯さん、頑張ってね」って、「大変ね」って言うてくださいまして。

――いまでも、端島のことを思い出すことはありますか?

小林 ありますよ。特に終戦前のことをね。
安達 私も。幼い時のほうが、記憶が鮮明って不思議だけど。
小林 私は周囲の人たちに助けていただいたことが忘れられない。母親に代わって家事や妹たちの世話を一生懸命やってきましたけど、町内の方のおかげで生きてこられたと思います。

――終戦の時、端島にいらっしゃいましたか?

安達 終戦の時、私らは父の実家のある愛媛県の松山市に疎開していました。12歳の時でした。当時、3人の兄は兵隊に行ってました。一番上の兄は満州へ行ったきり10年くらい音沙汰なしだったんです。
小林 私は終戦の時18歳。17歳だったのかな? 記憶が曖昧で…。でも苦労したことは忘れてません。私は疎開先ですぐに女子挺身隊にとられて。今治の、昔は布団工場やったとこを改造したところで飛行機の部品を作っていたんです。けれど、端島におった時にはご飯を炊くくらいしかしたことがなかったからねぇ。ハンマー持って、教官のピッという笛の号令に合わせてトンテンカンとやるけど手ばっかり叩いてさ。私が挺身隊に行ってすぐに父が病死したけん、悲しいやら情けないやらで、夜な夜な泣きよりましたよ。
安達 四国で大きな百姓をしとった親戚の家へ身を寄せたけど、私ら食べ盛りだったから「働いてもらうよ」と。慣れない農作業を一日に7~8時間もして。
小林 端島に田んぼはないから、稲を見たのは初めて。牛を見たのも初めてやったけん、餌ばやるのが怖くて。こんな毎日をいつまで過ごすのかと考えると気が遠くなりそうでしたよ。そうしたところ、兄たちが次々に私らを探して四国へ訪ねて来てくれた。終戦後もしばらくは原爆の影響で動けずにおったようなんですけど、どうにかこうにかして私らの元へ来てくれたんです。

「四国から端島に着いて、やっぱり端島はよかねぇって思いました」

安達 「端島も原爆でやられたと思ってた」とか言ってなかったっけ?
小林 どうやったかな。とにかく私は泣きながら兄たちに「もうこげんなところにはおられん。端島に行こうや」って訴えたんです。それで夜逃げみたいにして四国を出ました。
安達 着の身着のまま。夜風を防げそうな着るものだけリュックに詰めて、駅まで続く夜道をずーっと歩いたよね。
小林 大変やったけど「端島に行ってよかった。やっぱり端島はよかね」て思いました。兄たちは三菱に籍が入ったままでしたので、すぐに職員として扱ってもらえて、住まいを提供してもらうことができたんです。給料もよかったですし。
安達 私らだけじゃなく、端島に住んでる人はみんな「端島はよか」って言ってました。
小林 一生住みたいって。それくらい端島はいいところだったんですよ。
安達 端島に住んだら居心地が良くて他には行けんもんね。三菱に勤めたら社宅はタダだし、給料はきちんともらえるし。


――長崎へは、端島が閉山されて移られたんですね?

小林 こっちに来て第一びっくりしたとが、今はあれですけど、汲み取りでしたもんね。「小林さん、汲み取り代、いくらよ」「ええっ」って。端島は何でもただでしょう。そして、水道代もタダでしょう。(長崎に移ってからは)水道代がいくらですよって、前は集金に来よりましたもんね。「あら、水代も取るとですか」って、端島は何でもタダでしたからね。うゎって思って、びっくりしましたね。端島ほどいいところはなかった。喧嘩ひとつもなしでね。隣同士で、「醤油のなかとさね、貸さんね」とかって助け合って。

「長崎で『端島って、あの地獄島ね』と言われました」


――端島についてお送りした資料は読んで頂けましたか?

安達 (「岡まさはる記念長崎平和資料館」のパンフレットや林えいだい氏の)本ば見たけど、なんでこげな嘘を書けるの? 事実と全然違うよ。
小林 けど日本人にも端島を誤解してる人はいたんですよ。主人は閉山まで端島にいましたが、私は娘の学校の関係で少し早めに長崎へ移住しました。タオルを持って長崎の隣近所に引っ越しの挨拶をして回った時、わが家のすぐ下に暮らしていたおばあさんが「どこから来たと」って訊くので「端島です」と言ったら、「端島って、あの地獄島ね」って言われたんです。
安達 えっ!
小林 私もビックリしたよ。それで「地獄島って、どうして言うとですか」って尋ねたら、「犯罪を起こした人がみんなあそこにやられるけん、地獄島やろうが」って。私は「端島に一度来てください。優しい人ばかりですよ」って言いました。腹が立って「テレビの電波は、隣りが立てたらうちもっていうて、屋上はアンテナだらけですよ」「お隣の娘さんがピアノを始めたら、わが家もと娘さんにピアノを買うてあげるぐらい、皆さん裕福な暮らしぶりですよ。そげな恵まれたところが長崎にはありますか?」って泣きながら言うたんです。本当に悔しくて涙が出てね。
安達 ひどかねぇ。地獄島だなんて、そんな根も葉もないことを。

「端島の人は良い人ばかり。朝鮮半島出身ということで差別なんかなかった」

――端島で、朝鮮半島出身者へのいじめはありましたか?

安達 そげん仲やったけんね? 嘘ばっかりって思って資料読みました。端島の人たちが中国や朝鮮の人を差別したり、リンチにしたりしてたって? 冗談じゃなかよ。
小林 端島の人、良い方ばかりだったんですよ。日本の方も朝鮮の方も。差別なんかなかった。
安達 なかったよね。私は閉山になる前に結婚して端島を出たんですけど、閉山が決まった時、端島の友だちと電話で「閉山のあとはどこへ移住するの?」と話していて、朝鮮へ帰るという人が何人かいたんです。それで「あ、この人も、あの人も朝鮮の人だったのか」とちょっと驚いたりしたくらいで。
小林 日本名を名乗る人も多かったし、日本語を喋りよったからね。
安達 同級生の中には名前から朝鮮の人だなとわかる子もおったけど差別はなかった。現に私、李さんという女の子と大の仲良しでしたから。互いの家を遊び場にして、鬼ごっこしたり、ゴム跳びしたりしてました。
小林 李さんね。懐かしか。可愛いか女の子だったよね。確か李さんのお兄さんがハンサムで、若い娘さんはみんな憧れてね。女の子同士で「李さん、かっこよかね~」「あ、李さんが通りよる~」とかってキャーキャー言うて(笑)。
安達 私は李さんのお兄さんのことはあんまり覚えてないけど、差別なんかなかった。小学校の6年生くらいの時だったかな。当時、靴は配給だったんですよ。先生が子どもたちに足のサイズを訊いた時、「ハチモンハン(八文半)」というところを「ヤモンハン」と言っていた記憶があります。みんな同じように配給を受けていたんですよ。
安達 大人も差別はしていなかった。だって親が差別していたら子どもも影響を受けるでしょう。端島では午前中に起こったことが夕方には島民全員の知るところとなるというくらい、言うたら噂好きな人が多かったんですよね(笑)。でも私、一度も「朝鮮の子と遊んじゃいかんよ」とか、「あそこの家は日本人じゃないから」といった話ば聞いたことなかったです。
小林 私も一切聞いたことはなかったですね。友だちに関して、日本人とか朝鮮人とか、そんなの頭になかったですもん。

――食事はどうでしたか?

安達 配給の時なんかも、同級生の李さんが親切にしてくれて。覚えとる?
小林 配給と聞いて覚えてるのは、粉ばっかりだったということだけ。来る日も来る日も粉で作ったおうどんとか、だんご汁ばかり食べてたから、終いには見るのも嫌になって、今も嫌いなんですよ。友だちが「あそこのおうどん屋さんおいしかよ」と誘ってくれても、私は行かない。当時のことを思い出すから。
安達 李さんと一緒に配給の列に並んだこと。学校の休み時間に「先生、今日は小麦粉の配給やから行かせてください」って申し出ると、先生が「はよ行かんね」って送り出してくれて。二人でお喋りしながら並んでたから、長い列でも苦にならんかった。その頃うちは7階だったんで、小麦粉を運ぶのが大変だったんだよね。そうしたところが李さんが「佐伯さん、うちが手伝ってやるけん」って言って。
小林 優しかねぇ。

当時を語る小林春江さんと安達清子さん




(次回に続く)





加藤 康子(Koko Kato)

「明治日本の産業革命遺産」世界遺産協議会コーディネーター、
山本作兵衛ユネスコ世界記憶遺産プロジェクトコーディネーター
「明治日本の産業革命遺産」産業界プロジェクトチームコーディネーター、
「明治日本の産業革命遺産登録推薦書」、
「明治日本産業革命遺産推薦書ダイジェスト版」、
公式の明治日本の産業革命遺産関連書籍、DVD、WEBサイトの主筆並びにディレクター
元筑波大学客員教授(平成26年4月1日~平成28年3月31日)
一般財団法人産業遺産国民会議 専務理事。
2015年7月より内閣官房参与。

慶應義塾大学文学部卒業。
国際会議通訳を経て、米国CBSニュース東京支社に勤務。ハーバードケネディスクール大学院都市経済学修士課程(MCRP)を修了後、日本にて起業。
国内外の企業城下町の産業遺産研究に取り組む。
著書「産業遺産」(日本経済新聞社、1999年)ほか、世界の企業城下町のまちづくりを鉱山・製鐵の街を中心に紹介。
「エコノミスト」「学塔」「地理」など各誌に論文、エッセーを執筆。