2018/07/12NEW

井上秀士さんのこと

一般財団法人 産業遺産国民会議
専務理事 加藤 康子

『朝鮮のひとたちと、涙でわかれました』

2017年12月31日、井上秀士さんが亡くなった。享年89。戦中・戦後の端島を見つめてきた貴重な証言者であった。端島のひとたちは終戦後、朝鮮に帰るひとたちを涙で見送ったという。残された貴重なインタビューとともに、井上さんとの思い出を綴る。

「松本の爺さん、まだ生きとんのか~!」

井上秀士(いのうえひでし)さんは歓声をあげた。

井上さんは14歳の時、端島で終戦を迎えた。坑内測量班の一員だった。

 

松本さんとは、前回の編集日記(2018/0118号)で紹介した松本栄さんのことである。

 

故井上秀士さん(写真撮影:村尾昌美)

井上秀士さんは、1929年、8人兄弟(男5人、女3人)の四男として端島17号棟の8階岸壁側に生を受けた(端島の地図参照)。父は島原で宮大工をし、1925年、29歳のとき、端島に移住(当時は5人家族)、坑内の工事に従事した。井上さんは尋常小学校6年より高等小学校2年までのあいだ、長崎の学校に通学していたが、戦局が厳しくなった1944年4月、14歳で端島の三菱端島砿坑務課、測量部で坑内測量の任についた。以来、測量士として13年2カ月測量に従事した。終戦を迎えたのは井上さんが満16歳の時だった。1957年に異動で、坑内保安係員として、採炭、堀進の業務に7年4カ月勤務をした。計20年6カ月坑内で業務に従事し、34歳の時、一家4人で高島に移住した。

 

昭和年(1928年)の端島

出典:簑田直規 1930「三菱高島鉱業所端島坑実習報告」九州工業大学所蔵 をもとに作成

思い半ばで旅立つ

20161029日、その日は7月、9月に続いて三度目の聞き取りだった。井上さんは青いファイルを片手に大きな身体で4時間半、休みなく語り続けた。端島での坑内作業について質問がおよぶと、黒縁の眼鏡の奥で細い眼がきらきらと輝き、次第に早口になった。長崎の方言に慣れていない私は、何度も聞きなおしながら必死についていった。

 

  井上さんから渡された当時の資料

井上さんは聞き取りのなかで、韓国の市民団体が作成したパンフレットに強い関心を示された。その中には、上半身裸で寝ながら横になり掘っている坑夫の写真があった。それは、端島における、朝鮮半島出身者の「強制労働」のイメージとして使われているのだ。井上さんはこの写真に強く反応した。

 

韓国の市民団体が作成・第39回ユネスコ世界遺産委員会で配布したパンフレット

「大体、寝てこうするっていうとこはない、しゃがんでするというとこがおかしいわけたい」、「坑内の中で裸の作業はできんとですよ、危なくて。ちょっと落ちてきたら、石炭の粉炭みたいだけど切れるとですよ、こう。そいけん半袖はおったかもしれん、半袖は。結局、作業着がないから。そのかわりもう切れるけん、裸ではできんとですよ。裸でいいって言ったら義務違反で」

戦後の映画『緑なき島』の採炭現場のシーンにも、上半身裸の採炭夫が映っていることを私は指摘した。写真が趣味である井上さんは、端島の写真班として映画の撮影現場にも立ち会った。映画はセットで撮影、ガスが心配なので撮影隊は坑内に入れなかったという。

三度目の聞き取りが終わり井上さんが家路についたころ、私は小林春江さんと安達清子さん姉妹のインタビューを始めていた。小林さんは松本栄さんの同級生で、妹の安達さんのお二人とも端島育ちで、戦時中の端島について語っていただいた。すると井上さんがひょっこり部屋に戻ってきた。インタビュー開始から30分か40分ぐらい経ったときだった。

「どうぞ、中に入ってください」というと、ソファーから少し離れた座椅子におもむろに座られた。椅子が低かったので、大きな身体が小さく見えた。

井上さんは、小林さんと安達さんの話にしばらく聞き入っていたが、二人にうながされてソファーに移動、会話に加わった。井上さんは早口でわーっと話されるので、座が一気に明るくなった。インタビューの終わるころ、井上さんは言い残したことをゆっくりと語りはじめた。第二次大戦中のこと、米軍の魚雷のこと、終戦間際に高島二子発電所が爆撃されたときのこと等、貴重な話ばかりだった。最後に「はい、これ」と、大切に持っていた青いファイルを渡してくれた。  

「え、本当にもらっていいの?」と聞くと、「言い出せなかっただけで、渡そうと思って準備していた」とのこと。帰り際に廊下で、「あんたの顔がもう一度見ちょうなってな」と照れ臭そうに笑った。これが井上さんとの最後の会話となった。

 

 

筆者のインタビューに応じる故井上秀士さん

2017月、坂本道徳さん(井上さんの甥)のフェイスブックで、井上さんの死を知った。坂本さんは、九州伝承遺産ネットワークの会長として世界遺産の登録に尽力をされた方だ。フェイスブックには次のように投稿されていた。

 

「されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり。」


坂本道徳さん

端島の長老に別れをしてきた。
私の義理の叔父。
日には端島の大切な証言をする予定だった。
その資料を見ながらの大往生。
叔父らしい最後であった。

享年87歳。
また大切な人を失った。
通夜には何十年ぶりの親戚も集った。

「されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかて、
阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」
冥福を祈ります。                        

 

第2回目の聞き取りのとき、井上さんにポートレートを渡すと無邪気に喜んでいた。長崎市民会館で、村尾昌美カメラマンが撮影した写真を大きく引き伸ばしたものだった。

「村尾さんの作品なので使う時は教えてくださいね」というと、「葬式には使っていいんだろう?」とおっしゃった。それが現実のものとなってしまった。

年明けの1月4日、松本栄さんが企画した長崎での集いで井上さんにお目にかかる予定だった。しかし、井上さんは1231日、年越しそばをのどにつまらせて亡くなられたという。松本さんや端島元島民との再会を楽しみにされていたそうである。テーブルには軍艦島に関する韓国の資料があった。言い残したことがあったのだろう。井上さんは多くの思いを遺して亡くなられた。

 韓国で出版された軍艦島の絵本には、朝鮮半島出身者がひどい虐待や差別を受けていたとするイラストが載っている。そして韓国の市民団体は、第39回世界遺産委員会の際に、端島を表紙に使用した「盗まれた国、拉致された人々」という小冊子、「目覚めよユネスコ、目覚めよ世界、目覚めよ人類」と書かれたパンフレット、「ユネスコは良心の呵責に耐えられるのか」というチラシ等を配布している。これらの資料に対して、井上さんは最期まで反論する準備をしていたのである。

井上さんからの聞き取り

 

――端島での勤務について教えて下さい。

「卒業がちょうど14歳、14歳と2カ月ぐらいでですね。結局、端島の坑務課測量というですよね、測量、今、あるでしょう。そこに入ったとですよ。そいけん、私の時代は坑内に入るわけですね。そいけん、坑内のことも全部知っとるですよ。<中略>(昭和19年)3月21日からですね、測量部というて、坑務課測量部ですね。それが坑外のことも、坑内のことも測量するわけですね」

201626日 ザ・ホテル長崎BWプレミアコレクション)

 

「それで、坑内のことも全般、もう回るですたいね。それで、そのころ回りよると、結局、14歳でも入坑されよったわけさ。ただ女の人だけが、自分たちよりも2年ぐらい前までは女の人も入坑しよったとですよ。それが中止になって、できんごとなって、自分たちの場合は、今度は終戦になってから保護工員というてから、18歳にならんば入坑されんごとなったと。自分たちはその時代から入られたから、ずっともう回りよったですね」

「私は、34歳まで端島におって、隣の高島に出たとですよね。出たというか、会社ば異動したわけですね。坑内事故があったもんだから、一応縮小して百何名連れてから高島に入ったわけです。そして結局、定年の最後まで、60歳定年やったですけど、早期退職してから、坑内保安監督局に勤めとったけどね。一応技師にはなったけどね」

201626日 ザ・ホテル長崎BWプレミアコレクション)

  

――端島の坑内では戦時中朝鮮半島出身の少年が働いていましたか? また、彼らへの虐待はあったのでしょうか?

「それはなかね、そういうことは。全然そういうことはないですね。そういう若い人の来たっていうことは見たことないね。(中略)そういう若い人は。全然見たことない。またそういう、叩くとかなんとかそういうことをすることはないもん、全然。それはもうでたらめって言えばでたらめ。(中略)それでしかも都合のいいことには坑内全般を回るでしょう、結局。そういうことはもう知ってるわけ。箇所の条件がどうのこうのとか、結局、箇所の条件の悪かったら日本人そのものも、もの言うしね、まあ自然条件だから水が出たり、ああいうとこはあるけどさ」(20161029日 ホテルニュー長崎)

 

――島からの逃亡が発覚し銃殺されたような事件は、実際にあったのでしょうか?

「銃殺って言うばってん、鉄砲そのものもないわけさ。結局、銃剣術って、こう突くでしょうが、前を、あれ以外は結局私たちが卒業したときには青年学校って言ってから軍事教練するわけですよ。仕事から上がったら学校の校庭に集まって、軍事訓練をするわけたい。そのときに実際の銃なんかないもん全然さ。見たこともないし、またありもせん。それ大げさにだれが言うたか知らんけどさ。そういうことはない、絶対。それはもう人噛ませで、何かの芝居のごたるね」(20161029日 ホテルニュー長崎)

 

――戦時中、アメリカの潜水艦が端島に停泊していた石炭運搬船・白寿丸へ魚雷発射したことについて教えてください。

「(昭和)20年の6月11日ですね、石炭積み込みをしよるわけ、それを今度はアメリカの潜水艦が上がってきて、魚雷でついてから、沈んだら、水深7メートルしかないわけですよ。だから、座礁してるわけですよ、そこに」(2016年9月18日 長崎市民会館)

韓国の資料で、裸で横になり石炭を掘っている写真が多く使用されています。(参照:メッセージ映像「誰が歴史を捏造しているのか」) 端島炭坑で朝鮮半島出身の労働者は裸で掘っていたのでしょうか?

「これ、ドラマでつくりよったやろう、自分たちで。炭鉱そのものを全然知らんもん。結局、端島の場合は特殊なところでしょうがね。そいけん、働かせるというても、特殊なところやから。というのが、傾斜があるし、ゲージで下がらんば、いかんでしょうが。そしたら今度は傾斜があるけんさ、裸の仕事はせんもんね。この裸の作業は全然されんたい、切るから、こう。落ちてきたりなんかしたら切るけん、こんがんことはない、全然」(201626日 ザ・ホテル長崎BWプレミアコレクション)

「大体、坑内で裸の作業はできんとですよ、危なくて。ちょっと落ちてきたら、石炭の粉炭みたいだけど切れるとですよ、こう。そいけん半袖はおったかもしれん、半袖は。結局、作業着がないから。そのかわりもう切れるけん、裸ではできんとですよ。裸でいいって言ったら義務違反で」(20161029日 ホテルニュー長崎)

――寝た体勢で石炭を掘ることについて教えてください。

「大体、寝てこうするっていうとこはない、しゃがんでするというとこがおかしいわけたい、第一。小山ぐらい思とって、それは、その人、経験の無か人ばい、それは、坑内には。しゃがんでするということはない。結局、もちろん採炭そのものは傾斜が60度あるけん、それはだれでも入りきらんけんさ、その坑道を今度は、上下その坑道をつくるところにさ、7尺の梁と坑木でこう、坑道をとっていくわけ。それが今言う炭車が入るわけ」

20161029日 ホテルニュー長崎)

――職場や学校で、朝鮮半島出身者への差別はありましたか?

「自分たちの小さいときは、風呂ですね、風呂が共同風呂ですたいね、全部。共同風呂で、潮風呂〔原注:海水を沸かした風呂〕でしたね、全部。そこに全部、一緒に入りよったよね。そしたら結局、職員は差別して、本社雇いは、別に今度は水風呂ですたいね。それで、そのころの、自分たちの小学校時代の便所というのは、山手に全部あってからですね、ただ、くり抜いてあるだけですよ。それで、韓国の人の入っておるところも一緒やったと、全部。あとから9階建ての方につくったとですよ、新しく洗面所でも何でも。そいけん、もう不便かったですよ。黙っておったら落ち込むごたる、ただ掘っとるだけやから。

そういう生活やけん、何も差別しとらん。それで、結局、終戦になって団体で帰したですもんね、樺太から応援に来たり、中国から来た人は、全部、団平船(だんべいぶね)〔原注:石炭などの運搬船〕っていって大きな船のあるとですよ。あなた方、知っとるかしらんけど、団平船とかいうて、結局、昔は大きな荷物ば、大きな船がなかったでしょうが、それば積んで、太か船ですたい、漕ぎ船で。それを2艘か3艘引いて、端島小学校に全部集めて、韓国のそういう人も。日にちは別にしてから、そして全部が送り、朝6時から集合して、全部見送ったとですよ。それで、結局、私に言わせたら、ああいうこと全然なかった。というのが、このお別れというのはものすごく悲しかとさ、船でお別れするときは。中ノ島に船が入るまで、帰られんとですよ、帰りたかっても。手ばこう振るでしょうが、相手もまだ振りよるでしょう、こう。それが帰って、ようやく見えんごとなって家に帰るというか」

(2016年26日 ザ・ホテル長崎BWプレミアコレクション)

「あのときは移住するつもりで、名前ば変えたりなんかしよったですから、読みきらんけん、張又順とか女はいよったけど。そしたら結局、子どもの場合は、私たちは学校済んだら一緒に遊んだりなんかしよったですよ、ずっと。(中略)それで、さっき言うた高等2年までは女の人も同じ事務所に就職してさ。そういう、当たりよったですね、関係なく。結局、そういうふうに学校関係ではもう全然、いじめるとかなんとか、いじめるというより、向こうの人が体格のよかとよ、全部。肥えてから。そして、力も強かです。それでから、もう相撲でも何でも、けんかでも一番強かですよ、勉強はできんけど」

201626日 ザ・ホテル長崎BWプレミアコレクション)

 

――警官が朝鮮半島出身者に暴行したという証言があります。端島に警察官は何人いましたか?

「〔端島の派出所は〕1つだけで、巡査2人、巡査部長が1人おった。それ以外はなかとやけんさ」

2016年9月18日 長崎市民会館)

 

――警察官による暴行はありましたか?

「そいけんね、それがでたらめっていうのはね、警察官は坑内のことはせんとですよ、絶対。保安監督の監督所がするとやけん、坑外の出来事は警察がするけど、第一それが間違うとるですたいね」(20161029日 ホテルニュー長崎)

 






加藤 康子(Koko Kato)

「明治日本の産業革命遺産」世界遺産協議会コーディネーター、
山本作兵衛ユネスコ世界記憶遺産プロジェクトコーディネーター
「明治日本の産業革命遺産」産業界プロジェクトチームコーディネーター、
「明治日本の産業革命遺産登録推薦書」、
「明治日本産業革命遺産推薦書ダイジェスト版」、
公式の明治日本の産業革命遺産関連書籍、DVD、WEBサイトの主筆並びにディレクター
元筑波大学客員教授(平成26年4月1日~平成28年3月31日)
一般財団法人産業遺産国民会議 専務理事。
2015年7月より内閣官房参与。

慶應義塾大学文学部卒業。
国際会議通訳を経て、米国CBSニュース東京支社に勤務。ハーバードケネディスクール大学院都市経済学修士課程(MCRP)を修了後、日本にて起業。
国内外の企業城下町の産業遺産研究に取り組む。
著書「産業遺産」(日本経済新聞社、1999年)ほか、世界の企業城下町のまちづくりを鉱山・製鐵の街を中心に紹介。
「エコノミスト」「学塔」「地理」など各誌に論文、エッセーを執筆。