当時の端島を伝える新聞報道
歴史を紐解く材料のひとつとして、新聞記事の検証があります。 そこから浮かび上がってくるのは、当時の端島の実像です。 ここでは、象徴的な記事についていくつかご紹介します。
鮮人坑夫 日本人坑夫と乱闘 1918年<大正7年>7月6日
昼寝をしていた朝鮮人坑夫に日本人坑夫がちょっかいを出して負傷させてしまい、謝罪するが、朝鮮人坑夫が復讐のため大勢で押しかけ大乱闘に。これにより日本人坑夫3人が傷害罪で送検。
東洋日の出新聞(1918年<大正7年>7月11日付)
長崎附近の朝鮮村 1922年<大正11年>6月8日
当時の端島の様子が記されている東亜日報の特派員記事。「ここで数百円さえ金を貯めたら必ず故郷に帰って行く者が多い」と端島で働く朝鮮人労務者の証言が詳しく報じられている。
東亜日報(1922年<大正11年>6月8日付)
炭の下敷き 四名が無残の死 1927年<昭和2年>5月24日
端島炭坑坑内で、5月24日の午前・午後と二回にわたり大規模な粉炭墜落があり、4名が死亡した。4名のうち1名が朝鮮人坑夫。
長崎日日新聞(1927年<昭和2年>5月27日付)
突如浸水 九名の坑夫行方不明 1929年<昭和4年>1月5日
5日午前5時頃、第四坑第六片付近で突然増水し、作業中の坑夫11名が行方不明に。うち2名が死体で発見される。副長ら各技術員が入坑し、捜査停水に努力するが失敗。新式の米国式クロート救命機を使い、3名からなる救命隊で救助にあたる。
長崎日日新聞(1929年<昭和4年>1月6日付)
端島最大のガス爆発事故 1935年<昭和10年>3月26日
端島炭坑最大のガス爆発事故。長崎日日新聞からは号外も出て、事故の詳細が報じられた。坑内で救出にあたった最高幹部が二次爆発に巻き込まれ死亡。報道によれば30日夕刊時点で、この事故による死亡者が27名に達したと報じている。死亡者の内訳は日本人18名、朝鮮人9名である。端島炭坑で朝鮮人坑夫だけが危険な仕事に従事させられていたとするような事実は見当たらない。なお当時の端島は総人口3千2百名、従業員1千名のうち坑夫7百名(長崎日日新聞)
長崎日日新聞(1935年<昭和10年>3月27日号外)
長崎港外端島炭坑瓦斯大爆發惨事詳報
死の二千尺坑底へ 残された七名の運命
重症三名死亡 炭坑病院に収容手当中 「安全第一」の坑口に首うなだれた坑夫ら
炭坑最高幹部の雄々しき責任感 小川副長以下職に殉じて重症
年産炭額二十五万トン 今回が最も大きな被害
長崎日日新聞(1935年<昭和10年>3月27日夕刊)
端島炭坑大爆発 大音響を発して発火 死傷者三十余名
密閉壁を吹飛ばし 火焔は猛烈に噴出す
涙を押へて生存者を犠牲とする 一旦水を入れて消火
長崎日日新聞(1935年<昭和10年>3月29日夕刊)
港外端島炭坑大爆発惨禍続報
死亡者遂に二十三名 収容者次から次へと絶命
長崎日日新聞(1935年<昭和10年>3月30日夕刊)
ただ一人を残して 死亡者遂に二十七名
日鮮融和のため積極的に動く 1935年<昭和10年>6月14日
長崎県で暮らす朝鮮人の相互の親睦と向上をはかるため、14日に「相愛会長崎県本部」を発足させ、佐世保で盛大な発会式が行われる。この組織は内地にいる朝鮮人の融和と救済、和親のため積極的に活動することが期待される。
長崎日日新聞(1935年<昭和10年>6月9日)
高島端島炭坑一割増給 1937年<昭和12年>7月1日
高島・端島の両炭坑で、7月1日から一斉に一律で日給の一割を値上げすることに決定した。職員も月俸百円以下の者に対して一割増給を発表。
長崎日日新聞(1937年<昭和12年>7月1日)
端島の朝鮮人坑夫12名が賭博により検挙 1938年<昭和13年>11月24日
端島の炭坑内で賭博をしていた12名の朝鮮人坑夫を梅香崎署が検挙した。自供によると朝鮮で流行していた花札遊びで一勝負につき拾銭の賭博を開帳。二百数十回にわたり勝負をしていた。端島炭坑で朝鮮人坑夫に給与が支払われなかったという証言があるが、この事件では朝鮮人坑夫にも給与が支払われていたことが確認できる。
長崎日日新聞(1938年<昭和13年>11月26日)
優良半島人を採用 1939年<昭和14年>12月9日
内鮮融和を進め、炭坑の労働力不足を補うため、朝鮮人労務者の大規模な内地への移入を実施。11月下旬から青年層を内地へ渡航させ、長崎紹介所により1,500人を、北松炭田、崎戸、高島、端島へと斡旋した。
長崎日日新聞(1939年<昭和14年>12月9日)
半島人坑夫続々乗込む 1939年<昭和14年>12月21日
朝鮮人坑夫たちが北松炭田で好成績を上げたことから、長崎県下の炭坑で着目され、続々と移入計画が立ち上がった。
長崎日日新聞(1939年<昭和14年>12月21日)
半島労務者 激励慰安會 1942年<昭和17年>10月13日
相浦署の計画として 産報・協和会主催で相撲大会、優勝旗争奪戦を開催。11.28~29 各炭坑の半島人労務者激励慰安のため協和会主催で奇術、曲芸、映画などの慰問隊巡回、情趣と興味で教化修養を実施する。
長崎日報(1942年<昭和17年>10月13日)