山口県警察史 下巻

分類コード:II-03-06-019

発行年:1982年

第1節 四 解放された第三国人

 

 

山口県の警察の成立、発展など歴史について編纂された警察史。下巻の第4章第1節では戦後の混乱や警察組織の変遷について記載されており、特に県内在住朝鮮人の動向や、朝鮮への送還開始に伴って全国から朝鮮人が殺到して起きた混乱と対応取締、集団不法行為の内容などについて詳しく記載している。

著作者:
山口県警察本部
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山口県警察史編さん委員会『山口県警察史 下巻』(山口県警察本部 1982)

p533~548

 

    四 解放された第三国人

 

第三国人の動向 わが国が降伏文書に調印した昭和二十年九月二日から、二十七年四月二十八日の平和条約発効までの六年八ヵ月間は、日本の統治権は連合軍最高司令官の制限下に置かれ、それまで内務省所管であった外国人の出入国管理はGHQの手に移った。

 ところで、ポツダム宣言の受諾に伴い、日本国の主権は本州・北海道・四国・九州および若干の小諸島に局限され、樺太・朝鮮・台湾・沖縄およびそれらの付属諸島は日本の統治から解放されたので、在日朝鮮人・台湾人等のいわゆる第三国人の処遇をめぐって種々の紛争が起こった。特に朝鮮人は戦前からの移住者に加えて、戦峙態勢の進展にともなう国民動員計画によって募集渡航した労務者をはじめ、軍人・軍属など終戦当時に日本内地に在留していた者は約二〇〇万を数えた。これらの人々のほとんどが一時に本国への引揚げを急ぎ、山口・福岡の両県に殺到した。

 当時、列車は切符に入手にも徹夜の行列をしなければならず、すし詰め列車の乗降は、すべて窓からという混乱状態の中で、朝鮮を目指して怒濤のように帰国を始めた彼らは、関釜連絡船に乗船すべく続々と下関へ詰めかけていた。しかし、関釜連絡船は欠航していたため下関駅は次第に滞留者であふれ、下関警察署では「諸君の身分一切を保障するから安心して警察に相談せよ、言葉や態度を慎んで紛議を醸すことのないように」と布告を発していたが、彼らは戦勝国意識を誇示し、次第に暴状が表面化しはじめた。長い植民地統治と精神的圧迫から解放された人びとの一部には、敗戦国日本の法律に従う義務はないと息巻き、傍若無人の限りを尽くす感があったのである。しかも、九月六日の朝鮮独立(十月十日米軍政長官により否認される)を宣布してからはいっそう甚だしく、警察権の講師も認めようとはしなかったので、残念ながらしばしば進駐米軍の援助を仰がなければならなかった。

 政府は終戦とともに、在外日本軍および一般邦人合わせて六百数十万の引揚げについて能率的活動を開始するとともに、国内にいる第三国人の本国引揚げを促進し、八月二十二日には動員労務者や復員者の優先輸送の措置をとり、GHQもその方針を引き継いで、十一月一日に「日本人にあらざる者の日本よりの送還に関する件」の覚書を日本政府に発して帰国朝鮮人の計画輸送を指令し、一般在留朝鮮人の引揚げも促進したのである。また、これら在留朝鮮人・台湾人の具体的な権利義務問題も、すべて連合軍当局の政策決定をまたなければならなかった。GHQは、十一月三日に「朝鮮人は、軍事上許す限り解放国民として扱う」ことを明らかにし、翌二十一年一月二十九日に朝鮮を日本の管轄権から除外することを発表した。在日朝鮮人・台湾人などの一般犯罪に関し、日本の裁判権を確認したのは同年二月二十九日のことで、それまでは日本警察が準拠すべき何らの方針も示されていなかったのである。

 こうした、いわば無重力状態の中で全国各地から下関方面に押し寄せる朝鮮人はひきもきらず、大津郡仙崎港が引揚港に指定されてからも、帰国朝鮮人は主に下関を経由して送り出されたが、その数は昭和二十一年末までに三三万人に及び、彼らによる不法行為も相次いで起こった(別項参照)。そのほか帰国者相手の朝鮮人闇市が下関・仙崎に出現し、累次にわたる取締りにもかかわらず、統制違反の物資を手に入れて闇売りし、ついには帰国を中止して闇商売に転向する者も出る始末であった。また、朝鮮人の団体組織として二十年十月十五日に「在日本朝鮮人連盟」が結成され、そのころ下関駅前にも「朝鮮人連盟支部」が組織された。このほか「朝鮮青年同盟」「西日本朝鮮青年連盟」などがあって、在日同胞の帰国斡旋などの救援活動を行い、警察や鉄道当局への協力面もみられた。しかし、翌二十一年二月になると、朝鮮人連盟の中央組織は、かつての対日協力者を整理していっそう組織の強化を図り、県内でも改めて下関・宇部など各地に支部が設置された。青年同盟もこれに吸収されて青年部と改称し、その活動を進めたが、反面、戦勝国民意識からくる行き過ぎもみられた。

 

帰国朝鮮人の送出 終戦と同時に帰国を希望する在日朝鮮人の移動が始まり、下関駅には全国各地から毎日一〇〇〇人を超す人びとか殺到した。しかし、関釜連絡基地であった下関港水域は、戦時中にアメリカ軍の投下した磁気機雷や、多数の沈船のため航行か危険であったので連絡船は欠航が続き、これら乗船を待つ人たちは駅構内から付近の焼跡にひしめいていた。八月三十日現在でその数は約一万人にも膨れあがった。

 ところで、終戦時に海外にあった日本の軍人・軍属は約三〇〇万人、一般の在留邦人も朝鮮・満州・華北方面を主として百数十万に及ぶものと推定されていた。これら日本人の引揚輸送と第三国人の母国帰還輸送には関釜航路所属の連絡船か当たることになったが、下関港は機雷で封鎖されていたので、厚生省は代替港として博多(福岡県)と仙崎(山口県大津郡)の二港を指定し、水路を整備するとともに、八月二十八日にはGHQから仙崎~釜山間に興安丸(七〇七九㌧)、博多~釜山間には徳寿丸。(三六一九㌧)の就航許可があって三十一日から運航を開始した。

 第一便の興安丸は、昭和二十年九月二日の夕刻に大陸からの引揚者約七〇〇〇人を乗せて仙崎港に入港した。引揚船は沖がかりで、桟橋との間は小蒸気船や漁船で運ばれたが、県厚生課・地方事務所・警察をはじめ、地元警防団や一般民の協力で、引揚証明書の発給など、上陸援護業務が進められた。当時の警察活動の状況を「防長新聞」は次のように報道している。

 

 幾十年辛酸をなめて蓄積した血と汗の結晶の財産はことごとく接収され、裸一貫で帰り着いたのだから何れの顔も感慨無量なものがあり、多くは婦女子なのだが、悲嘆断腸の涙を浮かべて静かに船から桟橋へ降り立った。

 県警察部から派遣された特高課下関出張所員の親切な誘導で、一応郷里別に整理されたが、中には長の旅路の疲れで疲労して動けないものもあり、それらは県当局や地元町民の温情で、予て準備された宿舎に収容され、温かい食事と寝床が与えられ、また医療看護の手がのべられ、二千名は仙崎で明かしたが、五千名は大部分が仙崎駅から上下数本の臨時列車でそれぞれ故郷に向かった。下り列車の約二千名は山陽線と九州線に乗替へるため下関に下車した。

 下関警察署では、この夜引揚げ邦人に温かい手をと、県特高諌より上里警部が援護に来署、山本長以下全署員が不眠不休で駅に出迎へ、婦女子を整理点検の上、かねて用意の弁当・乾パンを一人当り二食分づつを給与して静かに休憩させたのち、下り一時の九州線と、上り三時の山陽線に誘導乗車させて無事に郷里に旅立たせた。約三百名は疲労甚だしいため、市内伊崎町の長泉寺、新地・の海晏寺・妙蓮寺・特高出張所の二階などに収容して温かい保護を加へている。

                             (昭和20・9・4付)

 

 そして、その往航便に帰国朝鮮人を乗船させたのである。下関滞留者の列車輸送を開始し、そのため仙崎港岸壁は全国に数って行く引揚者と、下関から移勣して来る朝鮮人で雑踏をきわめた。

 これら帰国朝鮮人の取扱いについては、九月三日に下関駅・鉄道局管理部・下関警察署・同市役所・日本食堂下関出張所などの関係者で協議のうえ、団体の場合は引率者・団体種別・下関駅到着月日を記入した乗船申込書を提出させ、個人については到着日ごとに証明書を駅改札口で交付し、団体と個人客を先着順に取り交ぜて仙崎に輸送し、乗船させることにした。県内各警察署でも帰国希望者の便宜をはかり、また「特別便船を斡旋する」などという詐欺的行為にかからないよう注意を喚起した。

 しかし、帰国を急ぐ朝鮮人は無方針に下関や仙崎港に押し寄せ、仙崎一隻、博多六隻の引揚船では滞留者が増えるばかりであった。九月中旬、県特高課では乗船可能になれば警察署を通じて通報するので、その指示に従うよう注意を発するとともに、興安丸には午後八時から翌朝六時までかかって、定員一七五〇名のところへ多いときは八〇〇〇人も乗船させて輸送を強化したが。それでも下関の滞留者は三万人にも及んだ。アメリカ軍司令都(福岡)は九月十五日から十日間の輸送禁止措置をとり、下関警察署では警察都・水上警察署・警備隊の応援出動によって駅周辺の整理清掃を行い、帰鮮客収容所を下関桟橋に移した。

 一方、広島鉄道局下関管理部では九月十七日から引揚朝鮮人の計画輸送を開始した。しかし、暴風などにより輸送は円滑を欠き、また駅係員に対する脅迫的行為や、乗船券の闇取引が横行して計画に障害をきたしたので、十月二十七日からは警察官か協力して登録制を実施するに至った。ついで十一月一日にはGHQから日本政府に帰国朝鮮人の計画輸送を指令してきたので、その後は現住地の警察署長が発行した「帰鮮証明書」を携行する者に限り、下関または博多までの乗車券を発売することに改めた。この帰鮮証明書は、厚生省が船腹の定員に合わせて全国都道府県に割当を行い、札幌・仙台・新鴻・広島・四国の各鉄道局管内の駅から乗車する者は仙崎港で、その他は博多港で乗船させるものであった。

 ところが、この計画輸送に従わないでトラックや機帆船、なかには山口県内まで列車で到着し、徒歩で下関や仙崎に入り。乗船券の入手に狂奔する者も多かった。その大部分は出発地に送還したが。それでも十一月中旬には下関で連日一万人、仙崎でも五〇〇〇~七〇〇〇人の滞留者を数え、天候の関係で引揚船の発着が延びると、仙崎でも一万人を超える日があった。そのうえ、下関の大和町一帯には瞥察の取締りにもかかわらず、百十数軒もの闇市場が形成された。また朝鮮連盟の不穏な態度に加えて、衛生・冶安上にも少なからぬ問題があったので、十一月二十二日には鉄道・警察・日赤関係者が協議のうえ、検疫と検索が実施されることになった。検疫は二十五日到着の帰鮮客から予防注射を実施し、検索は二十六日下関駅出発の帰鮮客(仙崎へ輸送)から実施され、下関署・下関税関・MPの係員立会のもとに凶器・爆薬・禁制品を発見押収し、現金一人当たり千円以上の所持金の保管を行なったのである。

 十一月下旬には、下関駅桟橋の帰鮮客収容所を小月に移して登録受付、乗船指定を行い、仙崎にも五〇〇〇人収容の待合所を新設したが、炊事場の設営から食糧の炊き出しに至るまで、引揚者の上陸地援護と並んでこれら朝鮮人の送出業務の処理は容易でなかった。しかし、このころ船舶運営会の長博丸(二〇〇〇㌧)、大隅丸(一〇〇〇㌧)、泰北丸(一〇〇〇㌧)か新たに回航されて輸送力は四〇%増強され、計画輸送も円滑に進捗して下関や仙崎池の混乱も次第に解消されていった。

 このような状況のもとで、二十一年三月までに仙崎から乗船帰国した朝鮮人は三二万五一七人に達した。その送出業務は初めは鉄道側か行い。朝鮮人の自治組織である「在日朝鮮人帰国者救護会」が協力していたが、十月に救護会はその任務を拡大して乗船に関するいっさいの権限を握り(次項参照)、十一月には厚生省下関引揚援護局および同仙崎出張所が設置され、山口県引揚民事務所(のち山口県引揚援護事務所と改称)や警察とともに朝鮮人の引揚に協力した。また。翌二十一年二月から朝鮮に進駐したアメリカ軍軍政庁のグレイヘム少尉ほか朝鮮人係官が派遣されて、帰国後の身上相談に応じるなどの援護措置を講じ、三月十八日からはGHQの指令によって帰還希望者の登録が実施されることになった。七月以降は引傷援護局仙崎出張所が送出業務を担当し、翌二十二年三月に厚生省仙崎引湯援護局(昭和21・10・1仙崎出張所が昇格)が廃止されるまでの間に約三三万人の朝鮮人を仙崎港から送り出した。全国では下表のように一〇四万人に及んだが、このほか特別仕立の機帆船・漁船などで帰国した者もあり、後に韓国側は一四一万四二五八人と発表している。

 なお、終戦前に県内に在留していた朝鮮人は約一五万であった。全国でも大阪・福岡に次いで多く、そのうち約三万人がこの時期までに帰国したといわれる。

 

下関と仙崎の表情 「帰還を焦る朝鮮人は、各地より乗船地たる博多・仙崎(下関)・佐世保に殺到したので、これら乗船地は収拾できぬ大混乱を呈した」、また「終戦と同時にこれら朝鮮人の大多数は帰心矢の如きものがあり、資力ある者は闇船を購入して逸早く自力で引揚げたが、その他の者は帰還の方法もなく、只わいわい騒ぎながら毎日の如く関係当局に陳情抗議した」(篠崎平治著『在日朝鮮人』)というように、毎日一〇〇〇人を超す人々が下関駅に詰めかけた。九月二日からは仙崎港で往航使による送還が始まり、逐次仙崎へ輸送したが、それでも下関駅周辺は一~二万人、多いときは三万人に及ぶ滞留者であふれた。彼らは乗船の順番を待つため、下関駅待合室からその周辺に座りこみ起居したから、たちまち塵芥は山と積まれ、そこら一面の汚物で臭気鼻をつき、足の踏み場もないほどの混乱と不潔さを現出した。

 下関駅では九月二十五日に、警察署の協力で駅構内の滞留朝鮮人をことごとく大和町漁港に整理集合させ、下関消防署のポンプ車まで出動させて塵芥・汚物の除去につとめ、下関駅桟橋に帰鮮客収容所を設置した。しかし、それも束の間で駅内外は再び滞留者で埋まり汚物の海と化し、さらに乗船券の入手が困難となるにつれて、鉄選局管理部や駅係員に対する脅迫的言動が増え、あるいは滞留者を扇動して鉄道や警察に敵対的態度に出るなど、治安・衛生上重大な問題と化した。

 警察・鉄道関係者は十一月十五日にこれが対策を協議し、下関地区進駐軍からも「駅構内から朝鮮人を退去させ、十六日から構内出入り一斉禁止」の指令が発せられたので、同日、駅玄関前三〇㍍のところに柵をめぐらし、MPの協力によって滞留者を退去させ清掃を行なった。また、指定乗船券の発売も関釜桟橋に移して、MP・下関署員が警備に当たるとともに、不隠分子の一斉手入を行い、四名を検挙するなどの強硬措置を講じて、ようやく平静を取りもどしたのである。

 こうした治安・衛生上の問題とともに、駅から大和町一帯に乱立した百十数軒におよぶ闇市場もガンであった。これらの屋台店は闇の温床として市民から非難されていたが、白米飯一杯一〇円をはじめ、牛肉のすき焼から鮮魚・ぜんざい・酒・ビール・ミカンと、一般家庭では見ることのできない高価な食品類が、金さえ出せばなんでもあるという奇現象を呈したのである。これらの物資はすべて闇買出しによって手に入れたもので、なかには帰鮮を中止して一儲けしようと露店を経営する者まで現われた。

 下関警察署ではこの闇市撤廃を策し、十一月中旬に朝鮮連盟と協定して、市内在住の信用される五〇軒に営業を許可し、連盟経営の食堂を桟橋待合所に設置させて闇営業の取締りを強化した。こうして三ヵ月ぶりに闇市は解消したが、取締りの間隙を縫って闇商人や闇ブローカーが跳梁し、やがて新地町から大坪町方面に移動した。昭和二十一年一月二十八日には警察隊の一斉取締りに棍棒・石で反抗し押収物資の奪回をはかる闇商人に対し、抜刀と拳銃の威嚇射撃によって検挙するという事件も発生している。

 

下関署の闇市場粛清 下関警察署では、一月早々から数次に亘って市内の朝鮮闇商人、闇ブローカーに対して検索を行ひ、その部度数十人の不徳漢を検挙していたか、最近に至ってはさらに各種の強窃盗事件が頻発し……山本下関署長の命令で、廿八日午前八時を期して全署員は数台のトラックに分乗、市内新地から大坪にかけての朝鮮闇市場に出動した。いつもに変らぬこの闇市場には米、麦、メリケン粉、濁酒などの飲食料物資、軍靴、軍服などの衣服類、鍋釜類などの取引で大賑ひの最中に到着した警官隊に、数千人の闇商人はその場を放棄して逃走する。その隙に一部の警官隊は一斉に闇物資を押収して行く、一方では逃走する不徳漢を追って捕縄を打っては逮捕する。そのうち警官隊は手薄と見たのか、俄然これらの闇群集は矢庭に棍棒・石コロなどを持って警官隊に反抗、押収された闇物資の奪回に押し寄せて来たので、警備主任来島警部は遂に部下警官隊に抜刀を命じ、自分はピストルの威嚇射撃を行って、決死の大捕物陣を展開して警官隊は引揚げた。しかしこの日は未だ徹底的な闇市場の撤回に至らず、一部には依然不穏の態度が見られるので、引続き廿九日早朝再び第二回の一斉検挙に移り、前日同様数合のトラックに警官隊を繰り出して総検挙を実施、廿名を逮捕、闇市場は一物も剰さず撤回された。        (『防長新聞』昭21・1・30付)

 

 一方、大津郡の一漁港にすぎなかった仙崎町は、一躍国際港として大きく浮かび上がった。未曽有の大変動の中で、祖国の安否に心を馳せて満州・朝鮮から帰国する同胞と、解放を喜びながら母国へ急ぐ朝鮮人、出る者入る者、帰る者去る者明暗さまざまの表情の中に、包みきれない心の動揺を抑えて次々と移動する人々の波に、いまさらの如く敗戦という事実をまざまざと見せつけられた。

 大陸から送られてきた大豆などの雑穀が、山のように野積みされたまま放置され、腐敗して一面に悪臭を放つこの仙崎築港地帯は、外地から引揚げの上陸桟橋と、約五〇〇メートル離れた乗船波止場とに二分され、朝鮮人収容所を含む乗船場一帯は、彼らの自治組織である「在日朝鮮人帰国者救護会」が乗船に関するいっさいの権力を握っていた。従って、ここでは鉄道・県・警察も全く協力者の立場に立だされた観すらあった。

 この救護会が朝鮮人の自治統制だけでなく、乗船に関するいっさいの権力を握るに至ったのは、一つの暴力騒ぎが原因であった。嵐が三日三晩も続いた十月十三日午前八時半、突然数百名の引揚朝鮮人が鉄道桟橋出張員詰所を襲い、一四名に負傷させるという事件が発生し、派出警察官の出動で鎮まったが、翌十四日には波止場を警ら中の警察官二名も何者かに殴打されたのである。当時、乗船までには早くて一日、多くは四~五日の仙崎滞在を余儀なくされていたが、九〇〇〇名に及ぶ帰何者の収容施設は狭隘で周囲の板壁もほとんどなく、風雨の中を野ざらし同様の目にあったという神経の興奮と、帰国をあせるあまりに乗船順番に不正があると誤解しての暴動であった。もちろん、収容施設の不完備もあったが、次々とやってくる滞留者が、炊事のために小さな木片を集め、柵を抜き、板塀を剥ぎ、戸を打ち破って薪としたため、ついには便所をはじめ収容所は骨組と瓦だけという丸裸になり、当局の補修も追いつかないという悲しいシーソーゲームが展開されていたのである。根本問題の薪の供給については、輸送が許す限りの手は打たれていたが、とても全部を賄うことはできなかった。こうした事件が動機となって、救護会の自治組織は急速に任務を拡大し、治安米の炊出しから鉄道員に代わって波止場に立ち、乗船手統のいっさいを支配し指導することになったのである。日本人が乗船する場合でも、一応その了解を得なければならなかった。

 また、ここにも下関駅周辺に匹敵する闇市場が出現した。桟橋の反対側の広場一面に、むしろ掛けの即席店舗が立ち並んで繁華街をつくり、帰鮮待機者で賑わった。値段は五円均一で、煙草一〇本、ムスビ一個、マツカリ(濁酒)一杯、イモー皿、そのほか餅・ミカンから大小の日用品に至るまで、あらゆるものが悠然と取引きされ、「半島の一角そのまま 本場を凌ぐ闇市」と報道されたように異国情緒を描きだしていた。

 

第三国人の犯罪 最後にこれら第三国人にからむ犯罪の状況に触れておこう。すでに述べたように、日本の統治から解放された第三国人の一部には、戦勝国意識を誇示して報復的な態度に出るなどの横暴が表面化するとともに、戦後の離職による貧困などから刑法犯罪・経済違反を犯す者が次第に増加する傾向を示していた。しかし、これら在留朝鮮人・台湾人の具体的な権利義務問題は、連合軍当局の政策決定をまたなければならず、一般犯罪に対する日本の裁判権が確認されたのは昭和二十一年二月十九日で、それまでは日本警察の準拠すべき何らの方針も示されていなかった。従ってこれら第三国人の犯罪をめぐる警察措置には、残念ながらためらいがみられたのも事実であった。

 すなわち、二月十九日付のGHQ覚書「刑事裁判管轄横の行使」(SCAPIN七五六)によって、日本政府の占領軍軍人・連合国人に関するいっさいの刑事裁判権行使は禁止されたが、その連合国人という中には「当然中国人は包含せらるるも、朝鮮人は包含せられざること(台湾人も同様)」が明らかにされ、朝鮮人・台湾人については、わが国に裁判権のあることが確認されたのである。警保局は三月二日、「刑事裁判権の行使に関する件」(警保局防犯発甲第九号)によってこのことを全司法警察官吏へ周知徹底を図るよう通達を発しているが、その「尚書」で次のように要望している。

 

尚、朝鮮人・台湾人の取扱に関しては、従来往々疑義を生じ居りし処、今般の指令により鮮台人の一般犯罪は、我が裁判権あること確認せられ、且、我が方の捜査機関に於て犯人の逮捕、並に捜査を為すべき義務並に責任あること亦明確にせられたるを以て、鮮台人の犯罪に関しては、検事局並に現地進駐軍と緊密なる連絡をし、遅疑逡巡することなく日本人に対する犯罪捜査と同様、断乎たる措置を執り、治安確保に遺憾なきを期せられ度。

 

 こうした状態の中で、各種の不法行為が相次いだ。具体的な数字を示す資料は見当たらないが、とにかく相当数の事件が起こったことは確かである。その主なものを新聞紙上で措ってみると、まず、昭和二十年十月八日に帰鮮者で雑踏する下関駅の東西両玄関と竹筒町に、朝鮮の独立旗(太極旗)が何者かによって掲げられた。解放を誇示するものであったが、まだ国家として承認されていない国旗であったから、下関署では直ちに撤去押収している。そして同月二十二日には在関の中国人的三〇名と朝鮮人数十名が、些細なことから元特高課下関出張所広場で乱闘し、双方が棍棒で殴り合って負傷する俸件が発生した。下関署員および警備隊が出動したが納まらず、進駐軍の応援を求めてようやく一時間後に鎮圧することができたが、これが原因で進駐軍は中国人の門司移住を命じている。

 このような集団犯罪が多くなり、それも組織的団体による犯行へと移行する傾向がみられた。しかも、残念ながら当時警察の威信は地に落ち、彼らの無法は警察官にまで及んだのである。その第一は、十二月二十二日に下関市大坪町の朝鮮料理屋の酌婦数人が人民解放青年同盟幹部に連れ去られ、店主に酌婦の解放を要求する事件が発生した。届出により下関署の刑事部長ら七名が赴いて不当を諭したところ、彼らは付近の朝鮮人六〇〇人を扇動して取り囲み、暴行を働こうとしたので、警官隊を出動させて鎮圧した。また、徳山市では翌二十一年一月七日に福川町駐在所の巡査と、日本人Iが朝鮮人十数名によって拉致され、連石町の朝鮮人連盟事務所に監禁されている。徳山署では防府の進駐軍の応援をえて両人を奪還したが、事の起こりは、正月にIら数人の日本人が朝鮮人と喧嘩をして重傷を与えたのに対し、駐在巡査が直ちに措置しなかったことに激昂し、警察に頼らず自分らの手で処分するといってこの挙に出たものであった(年末の三十日に日鮮人五名共謀の船舶奪取殺人事件が発生し、捜査に奔走中ではあったが、被害届出に対する措置に不注意もあった)。さらに四月九日には下関市大坪町で、派出所員と下関本署の応援警察官が包囲され、威嚇射撃をする事態も発生している。そのほか、朝鮮人連盟員による次のような強盗・恐喝事件もあった。

 

弱みにつけ込んで脅喝 廿八日午前五時を期し、萩署では朝鮮人連盟萩支部副委員長金○○以下廿一名の現旧職員、生雲署では同連盟高俣分会長李○○ほか六名を一斉検挙、取調べの結果、萩では金以下十三名、生雲では李以下三名が次の如き悪事を働いてゐた事実が判明した。

 金以下十三名は、九月一日ごろ阿武郡高俣村鮮人玉○○さんを萩支部事務所へ拘置、同人の姪友子さんが病死したのに対し、毒殺したと称して不法監禁をなした上、暴行を加へて所持の現金百十七円を強奪したほか、日鮮人の別なく犯罪事実を掴んで傷害脅喝を敢てし、親日的鮮人に対しては民権違反者、悪質行為者と称してこれが非行を探知、萩支部委員長名で逮捕状を発し支部に引致取調べ、同様手段により脅喝、金銭を巻き上げてゐたが、その数は強盗一件五万三千円、脅喝五件六万七千五百円、脅喝未遂二伸、窃盗一件五万円のほか、脅迫一件、不法監禁五件、暴行四件に及んでをり余罪取調中。(『防長新聞』昭21・10・2付)

 

 戦後混乱期における犯罪の増加は著しいものがあった。なかでも朝鮮人の犯罪率(人ロー○万人に対する)は高く、昭和二十一年中の刑法犯では日本人七八・二に対し朝鮮人五〇一となっており(『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』)、強・窃盗、臓物罪、集団による傷害・暴行が首位を占めたほか、食糧管理法・物価統制令違反などの経済事犯も急増した。特に列車内での不法行為が目だったので、内務省警保局では日本の裁判権が確認された直後の三月二十五日から二〇日間、朝鮮人・台湾人の全国的な特別取締りを実施した。山口県ではさらに山ロ軍政部の指令によって、公安課(昭和二一・二・一警備課を改称)は治安を乱す朝鮮人で、当局の取調べを必要とする重罰者以外の不法者は、進駐軍と協力して直ちに本国送還の措置をとることとしたが、当時留置中の送還該当者は五〇人にも及んでいた。

 こうして取締りを強化したが、本県警察部では五月に改めて次の諸点に留意するよう、各署に通牒を発して警察威信の回復を図るとともに、一般県民の理解協力を求めている。

 

(1)悪質者と一般善良者との判然たる区別=地方庁は朝鮮人の高圧的態度に惑はされて遅疑逡巡し、強力な警察措置の施行に支障を招かざること。

(2)理解ある取扱ひの履行=日本人と同様に取扱ふは当然だが、彼等の単純な不法行為にも風俗・習慣・態度の差異をよく考慮すること。

(3)自主性の保持=責任回避や安易感の為、些細な事件まで占領軍の力を借り、日本警察に対する侮蔑や反感を招かざること。                   (『防長新聞』昭和21・5・13付)

 

 しかし、それでも彼らの無軌道な不法行為はやまなかった。甚だしいのは百数十名の集団が鉄道客車を不法に占拠して、米穀その他の闇物資を運搬し闇売買して巨利を博し、あるいは闇市場の場銭をめぐって集団乱闘を演じ、また帰還を躊躇する気運を巧みにとらえて政府の計画輸送を妨害した。これらの行為は国内治安に重大な影響を与えるおそれがあったので、警保局は二十一年六月二十一日に重ねて「朝鮮人等の不法行為取締に関する件」(警保局防犯発甲第四四号警保局公安発甲第五三号)を発し、(1)食糧事情の窮迫化に伴い、集団の威力を示して客車を不法に占拠し、大量の闇米を運搬するなどの鉄道輸送における不法行為の取締り、(2)朝鮮人連盟等の各種団体による政府の計画輸送妨害行為の取締り、(3)闇市場をめぐる不法行為の取締り、(4)密入国者の取締りを指示し、七月一日から一ヵ月間、指定列車の警乗も実施した。

 ところで、県下における犯罪状況の全容は不明であるが、昭和二十一年中に発生した殺人・強盗・強姦・放火等の凶悪犯罪は三〇三件で、十九年の八〇件に比し三・八倍となっている。その首位を占めるのは強盗で二一二件、検挙は一五八件、三三一名であったが、このうち朝鮮人が一六二名と四九パーセントを占めていた(『昭和二十一年中における刑事警察の回顧録』)。なお、翌二十二年中の犯罪状況は前ページ別表のとおりであった。