常磐炭田朝鮮人戦時動員被害者と遺族からの聞き取り調査
分類コード:II-01-04-002
在日朝鮮人史研究No.39収録
発行年:2009年
在日朝鮮人史研究会編
※一部、著者監修の元修正を加えております(赤字)
- 著作者:
- 龍田 光司
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一、はじめに
三年掛かってまだ始まったばかりと言わざるをえない韓国朝鮮人戦時動員被害者を訪ねての旅の拙い報告をする。一回の調査機関は約一ヶ月ぐらいで三回。ソウルでの準備や整理などを引くと実質はその半分である。中央の「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」(以後「真相糾明委」と略す)や地方の自治行政課の実務担当官、邑、面の戸籍係の方々など多く人達に大変お世話になった。はじめにお礼申し上げたい。何よりも高齢にもかかわらず聞き取りに応じて下さった被害者の方々に感謝したい。尚通訳のつかない場合もあり拙い韓国語での聞き取りも含む。聞き取りの間違いなどあるかと思うが、今後の調査の呼び水になればと敢えて記録した。本国に帰国した常磐炭田の被害者からの聞き取りは初めてだと思う。
二、調査の概要
(1)調査主体 サークル平和を語る集い 会長 安島克久
(2)調査員 一、二回目 龍田光司、三回目 斎藤春光 龍田光司
(3)調査年月及び調査地域
第一回 二〇〇五年五月 慶南咸陽郡、江原道横城郡、慶北義城・達城郡、忠北提川郡
第二回 二〇〇七年五月 忠清北道提川郡、江原道
第三回 二〇〇八年六月 忠清南北道、全北茂朱郡、江原道
(4)調査内容
第一回 予備調査 聞き取りへの手がかりと遺族との出会い。
犠牲者名簿を片手に、死亡者の多い慶南の咸陽郡、江原道の横城、慶北の義城、などを訪問、地方の真相糾明委の実務担当者、邑の戸籍係、自発的協力者のお蔭で初めての常磐炭田での帰国生存者に逢えた。また三人の遺族に逢い遺族の心に接する事が出来た。
ちょうどこの時、小泉・盧武鉉会談で遺骨返還に関する合意が出来、韓国のマスコミの関心が高くハンギョレ新聞やソウル新聞が取材してくれ、行く先ざきの調査に協力が得やすい結果となった。
第二回 提川郡、江原道 テーマと地域を限定
一年のブランクの後、大日本勿来炭鉱の提川勤労報国隊に関する資料があり、特に「集団暴力」事件の被告や定着記念写真を手がかりに提川を重点に調査した。江原道は常磐の最大の動員地である。横城郡では前回の一人と新たに一人の生存帰国者からのやや詳しい聞き取りが出来た。遺族からの聞き取りにも一定の前進があったが調査地域は五郡に止まった。郵送による犠牲者の戸籍調査は三五通依頼のうち回答は四通だった。回答を頂いたところは第三回目の調査に活用出来た。
第三回 忠清南北道と江原道 現地機関との連携強化
この回は予め「真相糾明委」調査三課と清州市、沃川邑への調査協力依頼を出すと共に調査員も新たに一人を加え複数で行う事が出来、いくらかの伸展があった。一つは調査三課のお骨折りで九人の生存帰国者の紹介を頂き、そのうち五人について簡単な聞き取りが出来たことである。もう一つは戦時動員における抵抗闘争に注目して、一九四三年の古河好間炭鉱の「集団暴力」事件の判決文の「被告」名を頼りに調査し、「被告」の遺族からの聞き取りが出来たことである。さらに沃川の邑事務所のご厚意で三人の遺族を紹介され聞き取りを実施出来た。後遺症による被害や遺骨の調査でも前進があった。
三、帰国者よりの聞き取り
№1 証言者 韓広熙 創氏名 清韓広熙
① 証言者の経歴 本籍 江原道横城郡隅川面、現住所 本籍に同じ、生年 一九二五年、動員期間 一九四三年六~一九四六・一、炭鉱名 古河好間炭鉱株式会社
② 聞き取りの経緯 とき 第一回二〇〇五年五月三日、第二回二〇〇七年五月三〇日、ところ 隅川面の自宅、協力者 横城郡庁自治行政課職員、経緯 韓国訪問最初の聞き取り者である。二回目と合わせ筆者が内容により整理した。
聞き取り内容
動員当時の家族構成は父と兄と本人と本人の妻と一歳になったばかりの子供、妻は二一歳、家は小作農だった。一九四三年六月、ハマジギの水田に水を引いて帰り、寝ている時、安興面の書記をはじめ何人かが家の前と後ろの入口に立って、「ここは韓○○の家だな」「本人出て来い」と同じ部落の者と隣の部落の者が叫んだ。雨が激しく降っていたので近くの部落の旅館に連れて行かれた。部落からは五人いた。其の後、横城まで歩いて、郡庁に集められた。一〇人に一人ずつ班長を置き、腕章をつけた。灰色の作業服が与えられた。ここで旅館に泊ったが何人か窓から逃げ出した。横城からは九五人いたが途中で逃げて着いたのは四五人だった。
監督は韓国語がとてもうまく「しろた」と言う人で日本人なのか韓国人なのかわからなかった。強制動員に加わった面書記、部落の協力者の名前ははっきり記憶している。横城から原州までトラックで行き、そこから汽車で釜山まで行った。釜山で大きな船に乗り、家かと思った。波が荒くてあちこち転がって船酔いがひどかった。下関から汽車に乗って好間まで来た。
炭鉱の宿舎の前には川があり、周りに農家はほとんどなく竹藪のそばに大きな農家が一軒あった。平昌から来た人たちが入っている宿舎に入った。川を渡って坑口までは歩いて行った。山を超えた別の炭鉱には同じ部落から行った人が二人ほどいた。好間は冬でも暖かく、雪が降っても地面に落ちるとすぐに消えてしまった。
炭鉱に着くと一週間は仕事についての教育を受けた。空気の力で穴を掘る■を使う仕事、穴刳り(ダイナマイト)、ピックで石炭を掘る仕事、機械をつけたり外したりする練習などをした。仕事は石炭を掘る仕事でした。ある人は背が高くて坑内の仕事ができないので食糧品を運ぶ仕事をした。食堂内の仕事は韓国人は盗むのではないかとやらせなかった。先山の組長に四人一組で坑内に入った。「ゲンバ」が見回って監督した。勤務は一週間ごとの昼夜交代、朝自分の番号に判を押した後仕事についた。体の具合が悪くて、仕事に出ないとご飯は半分に減らされた。仮病を使って仕事に出ないとうつ伏せにして尻を叩かれた。坑内で停電になったり、水をくみ出しているモーターが壊れると、水があふれて何人かが死んだ。呂光錫という人は病気で死んだので火葬にして帰国する時、遺骨を持ち帰り郡庁に納めた。わしも入所してすぐにマンキー石炭を入れて上ったり下ったりするもの―(トロッコのことか)にぶつかり腰を痛めて帰ってからも三年間は仕事が出来なかった。病院で治療を受けたがこの程度では入院させなかった。やはり食事は普段の半分に減らされた。
山の坊寮には横城の人が四五人、平昌の人が五〇人ぐらいいた。松坂寮には平安道の人たちがいたが、お互いに行き来することはなかった。畳の部屋に五人ずつ寝た。ご飯は人数に従ってお櫃に盛り、日本の女の人がよそって取り出し口から受け取った。米と麦がまじったご飯で、時々ジャガイモや海産物が付いた。昼飯は弁当を作ってくれたが先に食べてしまって空の弁当を持って行き、腹がすくと闇でご飯を売る人から五円出して食べたこともある。たばこはキセルたばこを短いキセルに詰めて吸った。酒は出ないので飲みたい人は平町に行って飲んだ。
月給は一ヶ月毎に受け取り、多く受け取ろうと少し受け取ろうと、少しずつしか与えられなかった。残ったものは貯金させられた。三〇〇円~五〇〇円ずつ家に送ったことがあった。遊んで全部使ってしまう人もいた。手紙は二~三回誰かに代って書いてもらって送った。休みの日には果樹園に行って、こっそりリンゴやナシを採って食べて、捕まると怒られた。市場に行って馬肉を買って食べたこともある。アルコールを水で薄めたものを買って飲んだこともある。飛行機が来ると日本人は坑内に入って隠れたが、韓国人は攻撃されないからと言って見物していた。
悪いことをしなければ、罰せられるようなことはない。反抗などということはとんでもないことだった。当時、前からいた人たちから配給米のことで罷業をしたとか、大きな朝鮮人の暴動があったとかの話は聞いたことはない。(質問への回答)悪いことをしなければ、特に過酷だということはなかった。
八月一五日には天皇陛下が何か演説をすると言ってラジオに出たが大東亜戦争は当分の間休戦だと言った。一六日には平町へ行って、布を買って太極旗を描いて、万歳を叫びに出ようとみんなが言った。竹の端に太極旗を作って、垂らそうと言って竹藪をみんな伐り倒した。一~二ヶ月後に、米軍に引率されて新潟に行き船を待ったが、幾日幾週間待てども船は来ないので、長崎に移動した。ここでも船がなくて幾日か待った後、荷物を積む船に乗ることになった。貯金していたお金四〇〇円も全部使ってしまった。一緒に帰って来た六人のうち李さん以外は皆死んだ。帰国後は農業をして生きて来た。手の指を負傷した時日本のやつらは切ってしまえと言ったがだめだと言い張った。それで今は変形しているが大丈夫だ。
(日本人やいわき市民に伝えたいことは)日本に行くことは行ったが、いまさら、どうし様もないことだ。謝罪はない、事実は認めるべきだ。日本にもう一度行って見たい。桜が咲いていたことを思い出す。
№2 李七星(仮名)
①証言者の経歴 本籍・現住所 江原道横城郡横城邑、生年 一九二三年、動員期間 一九四三年六月~一九四六年一月、炭鉱名 古河好間炭鉱株式会社
②聞き取りの経緯 とき 二〇〇七年五月三〇日、ところ 自宅、協力者 横城郡自治行政課職員、経緯 聞き取りと云う形式は拒否されたので単にお話と言う事で伺った。従って仮名とした。
聞き取りの内容
動員時は徴用通知書が来て三回目に家族に迷惑になるのでやむを得ず行くことになった。一九四三年六月頃、面の労務係が通知書を持ってきた時はどしゃぶりの雨が降ったいた。一緒に動員されたのは六人、班長が一人選ばれた。現在生きているのはW氏と私だけ。当時父母と三兄弟で農業を営み、結婚して四カ月目であった。郡庁に集まったのは四七人ほどであった。引率者は日本から来た朝鮮人で郡庁の裏の神社に参拝して、我が国の愛国歌のようなものを歌ったあと、トラックに乗って原州へ行った。(奥さんによると「当日は田植えの日で用があり、姑が怖くて見送りも出来なかった。新しくできた道から夫が手を振っている姿が見え、今でもその姿が目に浮かぶ」ということであった。)動員の経路は原州(汽車)⇒ソウル(汽車)⇒釜山(船)⇒下関(汽車)⇒東京⇒福島県好間炭鉱である。釜山で旅館に一泊して、日本に着くと米のご飯をくれた。釜山の旅館で四人ほど逃亡した。出発する時、人数を数えるのでわかった。
動員先の好間炭鉱は道庁(平町のことと思われる)より二〇里ぐらい(一里は日本の約十分の一)入ったところで、海へは二~三〇里出なければならない。労務者には階級がなく、技術者がいて、先山と言った。日本人と朝鮮人は半々で慶尚道や他の所から来た人たちもみんないた。周囲には他の炭鉱もあったが名前はわからない。
仕事は初めの頃は地下水のパイプ工事をさせられた。金はいくらもくれないので、石炭を掘る仕事をさせてくれと言うと日本人はかえって喜んだ。その頃は金を一杯稼いで逃亡する気だった。五人一組で仕事をした。先山が総責任を負い、坑内に入ると機械で穴をあけ、爆薬を仕掛けて爆破した。次にスコップで炭車に積んで運んだ。初めに穴を掘って入る人はそれほど危なくないが、掘り続けて幾筋か堀った後は、石炭を中から外に掘り出してしまうので崩れる危険性が高い。私が仕事をしていた時は六層目を全部掘って七層目入る時だった。何回も掘って老朽化した坑内は崩れる危険性が高かった。崩れることを「山が来た」と言った。
しかし我々がいた炭鉱は模範炭砿と言われ、大きな事故はなかった。朝夕、朝会をする時毎に副官が来て、どこそこの炭鉱が崩れたので、用心するようにとか、石炭を引き上げる電車、ケーブルには特に用心するようにとか注意させた。ご飯も十分に与えられた。主に麦が沢山入った雑穀飯を器によそってくれた。朝鮮で庶民が食べる飯よりよかった。たばこ、酒も出たが、月給から差し引いたのか、引かなかったのかはよく覚えていない。模範炭鉱ということで、殴るとかの非人間的な取り扱いはなかった。ときどき偉い人が来て、食事を検査したり、仕事をしているのを見廻った。
逃亡して捕まると半殺しだというのを聞いているので出来なかった。逃亡するなら、金に余裕がある紳士のようにふるまって行けば大丈夫だが、くたびれた格好で行ったのでは遅かれ早かれ捕まってしまう。日本語は通じるぐらいにまでは覚えた。日本語は易しい。
仕事には朝七時に出て、一時間朝会をやってから始めた。仕事は八時間きっちりやり、一週間ごとの昼夜交代勤務であった。一日何箱掘るようにと伝えられるとその量を必ずやり遂げねばならなかった。月給は一月四〇円程度受け取った。送金は一回に二〇円送ることもあれば、逃亡する時に使うのに必要なので貯めて置くこともあった。手紙は時々やった。周囲の炭鉱の人とは行き来しないように統制されたので出来なかった。
日曜は休みなので、公園の様なところで遊んだりした。どこかに出かけるときは外出証を出してもらわねばならなかった。酒も買って飲んだ。外出しても二〇里以上離れることは出来なかったし、どんな奴に捕まるかもわからないので逃亡する考えはなかった。店には行っても買うものがなかった。海藻で作ったムクのようなものを売っていたので買って食べたことがある。
八月一五日に解放になった。日本人は絶対負けたとは言わないで休戦だと言った。解放前の一ヶ月は飛行機が来て、ろくに眠れなかった。一五日以後も仕事をするように言われ一ヶ月ぐらいは仕事をした。そうして米軍の引率下に新潟に行き船を待った。炭鉱を出るとき六〇〇円もらって出て来たのに三〇〇円を誰かに貸して三〇〇円だけ持って来た。新潟で米軍の少佐と通訳が来て何日かだけ、待つようにと言ったのに四〇日ぐらい待った。船が来ないので汽車で八日間掛って長崎に移動した。爆撃で道が駄目になり早く行くことが出来なかった。長崎でもすぐには船がなくてしばらく待った。荷物を積む船があって乗った。連絡船ではなく車や荷物を積む船だった。波が高く速度が出ず船酔いになり、船が揺れると腹の底までひっくり返り吐いて苦しんだ。仕事をしていた時より帰国する時の方が苦労した。横城から来た人は皆一緒だった。船に乗って郡山に着き夕飯を食べて汽車でソウルまで来た。歩いて清涼里まで来て、汽車に乗って原州に夜着いた。そして歩いて横城まで来た(一九四六・一)。横城に帰ると親戚の人が来て、家族が腸チフスに罹っているので行くなと言われた。しかし、今まで日本でこの戦乱下でも生き延びて来たのに、病気が怖くて父母に挨拶も出来ないのでは礼に反すると考えて、家に帰った。幸い病気が漸く快方に向かっている時だったので感染しなかった。
帰国した時は娘が三歳になっていた。その後も農業をやって生きて来た。時たま徴用に送り出した人と出くわすと私が殴ったりするのではないかとひどく恐れていた。それで「お前が俺を送り出したくて送ったのか?」と聞いて、「大丈夫気にするな」と言ってやった。炭鉱で坑木を支える仕事をしていた時、車の間に挟まれ同僚に助けられて、やっと抜け出したことがあった。腰に打撲傷を負って一ヶ月病院に入院したがこのための後遺症はない。一緒に行ったHは坑内で、穴をあけて爆薬を仕掛ける仕事をしている時に爆発が起こり、避けきれないで、体の前の部分が真っ黒に焼けたことがあった。炭鉱で横城邑の人で心臓病になって死んだ人がいた。みんながおれに葬式を執り行うように言ったので火葬して、寺にある共同墓地に葬ってあげた。義兄も俺が行く前に日本に行っていた。福島県のある炭鉱にいたが炭鉱の名前はわからない。それで日本語もろくに出来ないのに、時たま訪ねて行って会ったことがある。義兄は日本語が上手で金もたくさん稼いだと言っていた。
№5 証言者 宋甲奎(八六歳)
①経歴 本籍 忠北道鎮川郡方昇面(元廣恵院面)、現住所 本籍に同じ、生年月日 一九二二年、被動員期間 一九四二年から三月~一九四五年九月末、炭鉱名 大日本勿来炭鉱
②聞き取りの経緯 年月日と場所 二〇〇八年六月三日(水) 自宅
協力者 鎮川郡庁行政課 蘆チャンホ氏
聞き取り内容
動員された炭鉱の名は「ぽくどひょん そくそんぐん むれじょん てーいるぼん炭鉱」だ(1)。動員当時の家族と言えば父母が早く亡くなっていたので苦労した。叔父と従兄弟が一緒だった。当時の仕事は木を売って生活していた。学校を出ていないので、、日本語が分からないので苦労した。この面、方昇面からは五〇人、他の面からも五〇人、合わせて一〇〇人いたよ(2)。勿来の炭鉱までどのように来たかと言うと、まず面事務所に集まり、車で天安まで行き、そこから汽車で釜山まで行った。釜山から船で下関まで行き、また汽車で上野まで行った、そして勿来に着いた。着いた時は三月で寒くはなかった。桜は見ていない。
飯場の名前は中村(ちゅんちょん)飯場だよ。建物は何軒もあり、真ん中に食堂があった。食事は薯や雑穀の入った飯で、汁ものは人間が食えるようなものでなかった。おかずはイワシなど魚も出た。タクワンは毎日出た。毎日仕事ばかりで坑内と飯場を行き来した記憶だけしかない。休みの日も外出するようなこともなかった。他のことはわからない。
仕事は坑内で石炭を積むとか、発破の手伝いをしていた。毎日とても忙しかった。発破をかけるとものすごい粉が上がる。そんな中で仕事をしていた。ガスの爆発で死んだ人もいた。賃金は月一五円ぐらいだった。送金は一五円ぐらい人に頼んで送ってもらった。送金が着いたかどうか帰ってから聞いたが受け取っていた。
悪いことをすると事務所に引っぱられて叩かれた。労務係でひどかった人は蛭田と松枝それに佐藤の名を覚えている。写真を見てもよく見えない。暴動のようなことはあっ
た。言われるままでなく、いやだと言うことはあった。
解放後年上の人たち八人で一緒に帰った。来た時と同じように上野を通り、汽車で下関へ、釜山からは汽車で天安まで来た。東京は潰れていた。帰りは八月に出発して九月まで約一ヵ月かかった。金は持っていなかった。みんなでやっと帰って来た。帰国後一ヵ月は体を壊し、仕事は出来なかった。その後は土地を借りて農業をしていた。朝鮮戦争が起こり、とても苦労した。結婚は二七歳の時にした。妻は三七年前に死んだ。現在息子夫婦と孫たちと一緒に生活している。孫は今学校に行っている。
炭鉱の仕事が原因の後遺症なのか呼吸器が良くなくて咳が出て医者に通っている。夜も咳き込むことがある。月に一回ソウルに通院している。経費もかかる。(聞き取り中
にも何回か咳き込んでいた。)
日本人に対して、今は何の関係もない。「恨」もない。(?)今回の「真相糾明委員会」の被害調査で被害認定書をもらったが何の意味もない。何か補償金のようなものをもらえるのか聞いてほしい(3)。
No.6 証言者 李興淳(八一歳) 創氏名 安平こうさい
①経歴 本籍地 忠南道洪城郡西部面、現住所 戸籍地に同じ、生年 一九二七年、 動員期間 一九四五年一月一一日~一九四五年十二月、炭鉱名 大日本勿来炭鉱
②聞き取り経緯年月日 二〇〇八年六月九日午前、場所 自宅近くの田んぼ道
協力者 洪城郡「真相糾明委」実務担当者 呉正善氏
聞き取り内容
日本に徴用されたときの家族は父母と兄が四人いたが長男は亡くなっていた。二人の兄とわしが三男だった(4)。
動員された時は農業をやったり、松の根を採って油を作る仕事をさせられていた。土地は自分の土地が少しと他は小作地だった。地主は朝鮮人だったが、当時郡内では三分の二は日本人地主で、面長も国民学校長も駐在巡査も日本人だった。動員のとき令状はなかった。区長が「誰れ誰れ、徴用だ来い」と連れに来た。行かないと叩かれた。洪城からは五〇~六〇人行った。隊長は二人だった。於沙里からは三人一緒だった。一月八日のことだった。
(写真を見せながらここにお祖父さんはいませんかと聞くと(5)電柱の横に韓服を着ているのがわしだ。こちらの背の高いのがキョンサン面の星野エイカン(二〇歳)、星野さんはとてもいい人だった。普通の韓服を着て行った。作業着などは貰わなかった。どのようにして炭鉱まで行ったかというと面から洪城まで歩いて、そこからは汽車で釜山まで行き、連絡船に乗って、また汽車に乗って行った。途中おにぎりが出たかは覚えていない。炭鉱の名前と住所は福島県石城郡大日本炭鉱花山寮だ。
仕事と言えばわしは小さかったので(当時一七歳)石炭を積んだり運んだりしていた。先山は技術者でダイナマイトを仕掛けたりして大変だった。先山になる人は韓国人の中にもいた。一日の目標は車四台マンキ三〇。(「マンキ」の意味がよく分からないがトロッコのことではないか。)交替制は二交替制、一週間で変わった。
賃金はもらっていない。ほんの少し貰った。送金はしなかった。一番苦しかったのは腹が減って死ぬほどだったことだ。食事は朝、昼 晩の三回、昼は弁当。おかずは沢庵だった。弁当はほんの少し。未成年なので酒やたばこの配給はなかったが、葡萄酒をもらったことがあった。酒もたばこも金を出しても売っていなかった。手紙は一度送ったが、仕事がきつくて出す気力がなかった。ハングルで自分が書いた。簡単な日本語は話せた。飯場で吉田中隊長がよく殴った。飯場には朝鮮人が五〇〇人ぐらいか、もっといた。朝鮮人の飯場には食堂や浴場があった。三~四棟あったか。お風呂はどろどろで真っ黒になった。
洪城から一緒に行った人で金星煥という名前の人が亡くなったかどうかは知らない。ただ洪城から行った人が亡くなったということはあった。死んだ人は火葬した。名簿がお寺にあるのは知らなかった。肺を悪くして死んだ人もたくさんいた。空襲でサイレンが鳴り、靴を履いたまま寝たことがあった。
解放後みんな一緒に帰国した。逃げた大もいて、五七~八人いたのが二〇人ほどになっていた。釜山から汽車で洪城まで来てまた歩いて於沙里まで来た。解放後も十二月までは仕事をしていた。解放後すぐに帰った人がいたかどうかは判らない。
帰国後の生活は朝鮮戦争で軍隊にとられ大変苦労した。腰が曲がっているのは炭鉱にいる時、鉄板が上から落ちて来て、腰を怪我したからだ。怪我をしても医者にもかかれず、仕事を休むことも出来なかった。同じ韓国人の監督が厳しく、殴って仕事に出させた。(見せていただくと腰には大きな傷跡が残っていた。)末の息子は体が悪くて働けないので、今も働いている。
日本人に対して「恨」はある。韓国政府の調査で三万ウォンくれると言ってくれなかった。調査をしてもなかなか補償がない。(実務担当者によると「実はここでも補償にまつわる詐欺行為があったのですよ」ということであっ
た。)
No.7 証言者 劉鳳出(八三歳) 日本名 霧島九郎
①経歴 本籍 全北道茂朱郡安城面、現住所 本籍に同じ、生年 一九二五年、 動員期間 一九四一年一〇月~一九四五年二月(三年四ヵ月間)、炭鉱名 入山採炭、常磐炭鉱
②聞き取りの経緯 年月日 二〇〇八年六月一七B、場所 自宅
協力者 茂朱郡真相糾明委実務担当者厳承燮氏 郡庁観光課通訳官近藤町代氏
聞き取り内容
動員当時の家族は父が七歳の時亡くなって、母が子供四人を育てた。兄がいて、私は二番目、弟が二人いた。土地はなかったので毋は瀬戸物を売るとか、家の手伝いをして暮らしていた。連れてこられた時は面事務所の人と巡査が来た。日本人はいなかった。捕まえられて、無理に連れて行かれた。動員当時は十六歳だった。
面事務所に集まり、安城から行った人は五〇人だった。学校に通っていた人は四人で、学生は運転手になった。班長は日本語が出来る人がなった。その後、郡庁から永同までバスで行き、さらに、釜山まで汽車で行った。
炭鉱の仕事は坑内でとても暑かった。水が出るので、機械(モーター)を使って水をくみ上げる仕事の手伝いをしていた。機械の修理。先山は日本人でガスが多いのでダイナマイトは使わず、ピックで石炭を掘った。坑内では事故はあったが一緒に行った人で死んだ人はいない。逃げた人はいる。その人は刑務所に送られた。酒ばかり飲んで仕事はしないで暴れるので送還された。安城の金チョンシクと言う人で日本人も恐ろしかったのではないか。会社では逃走を防止するため、汽車の時間には駅前に「取締」を置いていた。
賃金は一円で買うときは票を使って買った。貯金は七〇〇○円貯めていた。母が死んだ時、帰らしてくれと言ったが帰らしてくれなかった。それでその時、全部送金した。お金は受け取ったと言っていた。二男なので帰してくれなかったのだ。帰国するとき、お金をもらったかどうかは覚えていない。
食事はとにかくお腹がすいてたまらなかった。江原道の人は白菜を盗んで食べて捕まり重いものを持たされたり、殴られたりした。「腹がすいて盗むのに何が悪い」と言ったと言う。宿舎には逃亡防止のための格子のようなものはなかった。外出は信頼のある人は自由に出られた。私は仙台まで遊びに行ったこともある。休日の日曜日は大体宿舎にいたが、近くの学校の運動場でサッカーのようなことをやったこともある。
帰国したのは解放前の二月だった。満期になったので、一緒に行った人が皆一緒に帰って来た。行った時と同じように汽車と船で帰って来た。あまり苦労などはなかった。一緒に帰って来た人で今生きていのはチョンチョンスがいる。電話をすることが出来る。(電話をかけたが、ちょうど留守だった。機会を作りまたお会いすることにした。被害申告は提出しているらしい。)
当時の仕事上の後遺症はない。下の弟はソウルで死に、末弟は軍隊で体を壊して死んだ。弟たちのことを思うと今も涙が出る。日本である時こんなことがあった。仕事で重い鉄棒をつらい思いでようやく運んで来た。その時の監督が「何しに来た」と馬鹿にしたので腹が立ちその監督を殴って逃亡したのだ。でも先輩たちが集まって、日本人と交渉してくれ無事に収まった。そんなわけで、特に「恨」のようなものはない。(奥さんからの話では何年か前に毎年五万ウォンずつ集めて、日本から補償金を採ると言うことがあった。洞内の二人が仲介者になり、ソウルから来た女性が来てお金を集めて行った。どうなっているのか。これ
に対し同席していた真相糾明委の実務担当官は「真相糾明関係は私が責任者なのでそんな話があったらまず私に連絡してほしい」ということであった。)
楽しかった思い出などはない。(そこで「六〇年前の青葉寮第四寮の写真ですが何か思い出すことはありませんか」と見せると)飯場には食事を作る娘さんとおばさんらが四人いて、六〇人ぐらいが一緒にたべていた。寮にはたくさんの部屋があった。(写真を見ながら)ここで生活していた。寮は道路のわきにあって、売店もあった。タオルを票で買ったことを思い出す。(突然)「君がーようが…」「かたのみ…」(と歌い出す。後半の意味は不明)我が国で言うと愛国歌の様なものを日本では歌わされた。平松という人と一緒に仕事をしていて、近くの家まで遊びに行ったこともある。とても良い友達になっていた。(写真がきっかけとなり、すっかり和やかな雰囲気になり、訪問したことを奥さんともどもとても喜んでくれた。(6)
No.8 証言者 全炳龍(八六歳)
①経歴 本籍地 江原道麟蹄郡麒麟面、現住所 本籍地に同じ、生年 一九二七年(満八五歳)、動員期間 一九四三年八月~一九四五年一二月(二年四ヶ月)、炭鉱名 入山採炭 常磐炭鉱
②調査の経緯 年月日及び場所 二〇〇八年六月一一日午後、自宅縁側
調査協力者 麒麟面事務所 李ドンウ氏
聞き取り内容
当時の家族構成は父母、兄弟姉妹八人で私は長男。家業は農業で小作農(地主は朝鮮人)。動員時は田植の時に区長、巡査らが来て、逃げると父が代わりに捕まえられると言われた。ちょうど二〇歳ぐらいの時だった。里内では一人だけで、面事務所に集められた。その後歩いて郡庁に行った。郡庁には行く人が多かった。それからバスに押し込まれて釜山まで行った。バスにはいっぱい人が乗っていて、坂道でバスが動かなくなるとみんなで押した。ソウルから釜山までも全部バスに乗って行き一台三〇人ぐらい乗り、二台で行った。船では吐く人はいたが私は大丈夫だった。
宿泊所では逃亡する人はいた。それから汽車で行き、駅の近くに炭鉱があった。炭鉱の名前は常磐炭鉱。ぽくどひょん そくそんぐん こーひーちょん 青葉。入山炭鉱ではない(7)。炭鉱での仕事は石炭を掘ってスコップで車に積む仕事。暑くて仕事が出来ないほどだった。水につかったりしながら仕事をしていた。着物は着ないで裸だった。先山はドリルで穴をあけ、発破をかけて爆破した。仕事中に背中に炭車が当たって大けがをした。病院には行かせてもらえず、数日間休んだだけで、また仕事をさせられた。(背中をみせてくれた。)
仕事は三交代制で一週間ごとに変わった。
賃金は貰わない。マッコリーいっぱいにもならない額だった。動員された時、賃金については説明されていたかどうかはわからない。炭鉱に行くと言うことは聞いていた。募集にはたくさん金がかかったと聞かされていた。家への送金は寮長が送ると言っていたが、帰国後家族に聞くと誰も受け取っていないと言っていた。
寮では寮長のことを何と呼んでいたかは覚えていない。寮の日本人はみんな先生と呼んで挨拶をしなければならなかった。一つの寮には三〇〇人ぐらい居たようだ。仕事に出るときは五~七人位の班に分かれて行った。食事は話にもならないほど少なかった。三食あったか昼は弁当で量が少なかった。米のほかジャガイモ、サッマイモ、麦などを混ぜていた。水を飲んで腹をいっぱいにした。たばこと酒の配給はあった。私は体が小さく、働きが悪かったので支給されなかった。休日は相撲大会などをやったことがあった。逃亡して捕まる人も多く、捕まると単に叩かれるだけでなく、死ぬほど叩いて、気絶すると水をかけてまた叩いた。斎藤と江口と言う日本人が特にひどかった。韓国の班長などは叩かなかった。逆らったようなことはない。こうしろと言われればこうし、ああしろと言われればああした。
解放を迎えてその後もずっと仕事を続けていた。そのうちに集まって要求を出すようになった。集会などもあった。でも小名浜から米軍が来て弾圧した。米軍が平にいたが会うようなことはなかった。炭鉱は山の奥だから空襲は受けなかった。
帰国は汽車で帰ったかはっきりしない。食べ物がなくて大変だった。どこでどうなったかわからない。仁川で船を降りて、それからどうなったかもわからない。春川からは歩いて来た。家に帰ったのは旧暦の一二月だった。動員中よいことは一つもなかった。その後何の挨拶もないこと。悔しさは大きい。その後朝鮮戦争へ行った。死んだ人も多かった。徴用、徴兵。帰って来た人もいたが死んだ人も多かった。
四、犠牲者遺族からの聞き取り
No.1 証言者 朴冨根(犠牲者 衍根の六番目の弟)
①証言者の経歴 住所 江原道義城郡比安面、生年 一九三六年(解放時九歳で国民学校二年生)、職業~大邱の高等学校卒業後、面事務所の職員、定年退職。その他 妻と二人暮。本家は土地多し。次男、六男は土地の相続なし。本家は一族が絶えた。
②犠牲者衍根の経歴 本籍 江原道義城郡比安面、生年 一九二一年一月一九日、死亡年月日一九四一年五月
炭鉱名 磐城炭鉱、死亡原因 圧死(当時二〇歳)
③聞き取りの経緯 時間と場所 二〇〇五年五月七日 自宅(前日邑事務所で戸籍確認)
協力者 宋泰京、古船場睦子夫妻
聞き取り内容
次兄の動員当時私は五歳ぐらいで何もわからない。圧死とは聞いてなかった。次兄も土地がないので、(たぶん募集に応じ)お金を稼ぐために日本に行ったのだ。次兄は普通学校を出ていたので日本語は話せたはずである。本家は東部里四〇一番地、ここより少し離れている。次兄は二〇歳で未婚なので子どもが無いため墓を守る人はいない。今はどこに墓があるかはわからない。遺骨は外伯父が取りに行き、灰を持ち帰ったらしい。父洪九は一九五五年に無くなり、毋も三〇年前に亡くなった。現在叔父が大邱におり、日本には早稲田大学を卒業した叔父もいて、姪も大阪にいる。妻も大阪生まれだ。現在政府が行っている真相究明については大邱の甥たちが申告しようとしたが資料が無いので止めたようだ。朴政権のときの交渉で日本は補償金を払ったことになっている。いまさら、再度請求しても、非常識だといわれるだけだ。あえて請求しても意味が無い。このあたりではその時、補償金三〇万ウォンを受け取ったと言う話は聞いたことがない。次兄と一緒にこの里から行った人は金玉錫氏がいる。三年前に亡くなったが奥さんは現在一人暮らしをしている。この近くなので会いに行けばよい。兄弟のように付き合っていた。日本での話しはあまり聞いていない。日本の国民に言いたいことは日本とは一番近い兄弟の国だから、過去にあったことは早く清算して仲良くやっていきたい。(聞き取りを終えて、お土産に、いわきのずり山から持ってきた石炭の混じった「ぼた」を送った。冨根氏はこみ上げてくる感情を抑えながら、年若く死んだ次男のことを思い「父は生前心の病気に掛かって死んでいった。父の墓にこの土をかけてやりたい。」と言葉を失った。父の悲しみの日々を見ていた氏の素直な感情なのだろう。)
No.2 証言者 金浩仁(犠牲者金冨鎮の甥)
①証言者の経歴 本籍 江原道義城郡安平面、現住所 本籍に同じ、生年月 一九三七年九月(六九歳)。その他 奥さんは死亡。子ども夫婦の孫たちに囲まれ尽生活している。当時、農地二反歩。
②犠牲者金冨鎮の経歴 本籍 証言者に同じ、生年 一九二三年一〇月、入所年月 一九四〇年九月二四日、死亡年月日及び場所 一九四〇年一〇月一〇日(入所後二週間で病死、一八歳) 内郷村宮、炭鉱名 磐城炭鉱、一九三九年結婚(長男一九四一年生、現在議政府在住 会社員)
③聞き取りの経緯時間と場所 二〇〇五年五月七日 自宅(前日邑事務所で戸籍確認)
聞き取り協力者・宋泰京、古船場睦子(通訳)夫妻
聞き取り内容
叔父が動員された当時のとは、ほとんどわからない。冨鎮の妻権氏は二~三年同居の後、家を出て、二人の子どもは伯父、伯母である父と母が育てた。補償金とかはわからないが、遺骨をとりに行った大きな従兄弟の旅費の負担が大変だったということを聞いている。補償金など出なかったと聞いている。(ともいい。かなり扱いがひどかったような印象を受ける。)今回の政府で行っている真相究明の被害調査については証拠は何もないので申告の仕様がない。父は二〇年前、母は一六年前に亡くなって、私は小学校二年のとき解放を迎えたので、何もわからない。どうしようもない。日本人に対して言いたいのは恨めしいことは恨めしいが(以下、私には聞き取れず)「骨まで、日本人に対する悪い思いがしみこんでいる。犬豚よりもひどい仕打ちを受けた。いまさら語って何になるか」「日本に資料があるならそれを出して補償すべきだ」。「補償を通じて事実を認めてほしい」(と通訳。確認したが温厚な人柄の浩仁氏は静かにうずくだけであった。)議政府に住んでいる従兄弟は、年に一度は欠かさず、父冨鎮氏のお墓参りに来る(8)。
No.3 証言者 柳寅燮(犠牲者柳得詰の長男)
①証言者の経歴 本籍 忠清北道提川郡錦城面、現住所 江原道原州市、生年 一九三一年(父が死んだとき国民学校五年)
③犠牲者得詰の経歴 本籍 証言者に同じ、生年 一九〇九年 死亡年月日 一九四四年四月、死亡原因 炭車暴走、炭鉱名 大日本勿来炭鉱、記載 過去帳(出蔵寺)災害原簿
③聞き取りの経緯時間と場所 二〇〇七年五月二九日 自宅、
経緯 第一回の訪問時面事務所の協力で戸籍確認(原州移転)、第二回目は中央の真相糾明委の協力により被害申告をしていることが判明し聞き取りに至る。すでに訪問の目的意図について充分理解されている関係で、心からの歓待を受け行うことが出来た。戦時動員のひとつの側面を知る貴重な証言を得ることが出来た。
聞き取り内容
父が動員されたのは私が国民学校三年の頃で、父は土地がないのでいろいろな商売に手を出していたがうまくいかず、金を稼ぐ心算で、「徴用」に応じたものと思われる(9)。
父が亡くなった(一九〇九年生丿当時三五歳)ときの思い出としては、母と親戚の有力な人が一緒に遺骨を取りに行き、持ち帰ったこと。当時国民学校の五年生だった。その後、母親は小さな土地で農業をしながら三人の妹達を育て非常に苦労したこと。母は父よりも年上で五七歳の時亡くなった(一九〇七年生(10))。当時父が産業戦士として動員に応じたので、学校で慰問作文を書かされた折、先生から家は貧乏だが大変良い慰問文を書いたと褒められ、張り出されたことがある。これが卒業生名簿です。終戦の年に学校を卒業した後、二年間ほど錦城面事務所に勤めた。事情で辞めた後、忠州で公務員のような仕事をしていた。妻とは一七歳で結婚した。
今は年金と娘四人の仕送りで生活しているが、長男が交通事故で死に二人の孫を残している。(ご本人は矍鑠として元気で、頭脳も明晰である。原州に引っ越したのは一九七八年で故郷の城内里の隣の月窟里も一九七九年にダムエ事により水没した為と思われる。若くして母親を助けながら不幸を乗り越え生きでこられた厳しい風格が感じられる。氏との面談を通じ、訪ねて来たことをとても喜んでくれていることがわかった。今後もできる限りの協力をして、いわきの市民との交流の懸け橋になっていただけたらと思った。)
No.5 証言者 崔チョン玉(犠牲者文山千植の妹)
①証言者経歴 本籍 江原道横城郡書院面、現住所 江原道原州市冨論面、生年月 一九三六年四月(七四歳)
②犠牲者文山千植の経歴 本籍 証言者に同じ、生年 一九二二年(動員時二二歳)、動員期間 一九四三年一二月三日~一九四四年七月一六日、炭鉱名 常磐炭鉱(青葉第四西寮)、死亡原因 急性腹膜炎(過去帳惣善寺)
③聞き取り経緯 年月日二〇〇八年六月一二日、場所 市庁自治行政課の執務室
協力者 行政課李ミンソン氏、真相糾明委実務担当者 李チョンヒ氏
聞き取り内容
当時の家族構成は父母と兄と姉と私(末妹)の五人家族、兄弟は六人いたが二人亡くなり三人になっていた。動員当時一九四三年ごろ従兄弟も一緒に動員されたらしい。動員時のことはわからない。当時八歳くらいでおんぶされたり、かわいかってもらった思い出しかない。顔もよく覚えている。生きて帰って来ている従兄弟から聞いた話では、「当時六人で仕事をしていた。ワイヤーが切れて炭車に挟まれ大けがをした。一週間入院した後、病院で亡くなった。」と聞いている。遺骨は従兄弟が送ってよこしたと聞いているが誰が持って来たのかわからない。
補償金はなかった。写真は送ってよこしたが、父母が死んだ時に一緒に燃やしてしまった。送金はしてこなかったが、たばこを送ってよこしていたと言う。父母は解放後に息子を亡くして気落ちしてすぐに死んだ。私は一八歳だったので結婚して、夫と暮らすようになった。夫はいい人で子供も五人生まれ、それぞれ独立して生活している。夫は三〇年前亡くなって今は一人暮らしをしている。
犠牲者の遺族会が出来、「お金を送って来ただけではだめだ。どの病院で、どのようにして死んだかきちんと確認させるべきだ。」と言うことで、会の職員と遺族会の会員が裁判を起こした。私は一回目に日本に行く時は飛行機代がなくて、行けなかった。二回目は二〇人ほどが飛行機で行った。日本の大きな裁判所だった。どこのなんと言う裁判所かはわからない。その後、みんなが何回行ったかもわからない(11)。(「犠牲者名簿」によると兄さんの所属は青葉第四西寮であった。長澤秀氏保存の当時の写真を見て涙ぐみながら見入っていた。すでに常磐炭田関係者でこうした裁判にかかわった人がいたことが初めて判明した。)
No.6 証言者 李相来(五三歳) 動員被害者の甥
①証言者経歴 本籍 忠北道沃川郡北面、現住所 忠南道太田広域市、生年 一九五五年、職業 アパート管理人
②犠牲者宮本(李)貴成の経歴 本籍 証言者に同じ、生年 一九二〇年二月二七日、 死亡年月日 一九四二年一二月一七日、死亡原因 落盤圧死(重症死亡)、動員炭鉱名 古河好間炭鉱(松阪寮先山央)
③聞き取りの経緯一 年月日 二〇〇八年六月一七日、場所 自宅(奥さん同席)
聞き取り内容
叔父さんの動員当時のことは何もわかりません。一九六〇年代に亡くなった私の柤母はちょうど私が一〇歳のころ、毎日毎日大門を開いて、泣きながら息子たちの帰りを待ちわびていたのを思い出します。詳しいことは当時、分からなかったが後で里長さんに聞いてわかったのは、祖母は長男も二男も三男も強制動員で取られ、三男貴成以外は行く先も判らなったが途中で逃亡したので生きて帰って来たと言う。息子の死が信じられず毎日待ち続けたのではないか。
今回の政府の調査では亡くなった叔父の話や、里長さんが証明してくれたので申請する事が出来た。(訪問を心か。ら喜んでくれ、おばあさんへの思いとダブるのか、叔父に対すどんな情報も大切に聞いてくれた。親から子への思いが伝わる時、遺族訪問がどんなに大切かを再認識させられた。)
No.7 証言者 全潤夏(六五歳) 動員被害者の末弟
①証言者経歴 本籍忠北道沃川郡沃川面、現住所市内アパート、生年月 一九四三年一月(兄が亡くなった日に生まれた。)、職業 アパート管理人
②犠牲者全炳夏の経歴 本籍 沃川郡郡北面、住所 忠清北道報恩郡テジョン面、 生年月日 一九二三年九月一二日、炭鉱名 古河好間炭鉱、死亡年月日 一九四一二年一月一二日(一九歳四ヶ月)、死亡原因 実車の暴走、坑内変死(長寿院)
③聞き取りの経緯 年月日 二〇〇八年六月一六日、場所証言者自宅
協力者 沃川邑戸籍係 呉漢斗氏
聞き取り内容
私が兄の亡くなった日に生まれたと言う。動員当時は兄のほかに姉と父母がいた。毋は兄のほかに、朝鮮戦争で姉も亡くし、気がおかしくなり、列車に触れて一九七五年に亡くなった。家の仕事は報恩郡で農業をしていた。
動員は面事務所の役人が連れて行った。貧乏でお金を稼ぐために行ったという。遺骨は誰かが一人で取りに行ったと聞いている。旅費等のことは聞いていない。その後の母
の悲しみは大きかった。そしてさらに姉を亡くし、二人の子供を亡くした。
韓国政府の真相糾明の事業については二〇〇六年四月に被害者遺族の認定を受けた。しかしその後どうなっているのだろうか。日本人や日本の政府に対して思うことは私は家が貧乏で高校にも行けなかった。今はアパートの管理人をして過ごしているが息子にも金を送ってやらなければならないような状態だ。生活は苦しいので被害者への補償には期待している。日本は先進国になったのだから、お金もある。当時、強制労働させたのだから、その子孫に生活が出来るぐらいの補償はしなければならないのではないかと考えている。現在炭鉱の後継者がいるのなら、補償すべきだ。兄が亡くなった時の戸籍には届け人、太田寛志と言う人の名前があるが、必ず探して消息を聞かせてほしい。(沃川邑の保存する戸籍の全炳夏の項には「福島県石城郡好間村大字上好間古河好間炭鉱第一新斜坑南電車坑壱千弐
百昇本卸左圧〇〇〇〇(ハングル)○○壱九四三冠壱髫 入O〇〇〇〇(ハングル) 太田寛志〇〇(ハングル)」とある。)
五、帰国者遺族からの聞き取り
No.2 証言者 金周讃(七八歳) 被害者金先鳳の息子
①証言者の経歴 住所 忠北道清原郡玉山面、生年 一九三〇年
②動員被害者金先鳳の経歴(先鳳は戸籍上の名で普通は正萬と名乗っていた) 本籍 証言者住所に同じ、生年 一九〇〇年、「集団暴力事件」「被告」、当時年齢 四三歳(一九四三年四月)、動員期間 一九四三年ごろ~一九四六年四月(周讃一八歳)、炭鉱名 古河好間炭鉱、死亡年 帰国後の一九四八年(周讃二三歳の時、事故死)
③聞き取りの経緯 年月日及び場所 二〇〇八年六月四日 自宅 尹チョンロン 朴鐘安
協力者 清原郡自治行政課差涙嘉一氏、同 朴颪嬉氏清州経済通商課(通訳官) 申任仙氏
聞き取り内容
どのようにして動員されたと言うとご飯を食べているところへ面事務所まで来いと言われ、出たまま帰って来なかった。父の動員当時の家族は父と叔父と私と一緒に生活していた。父の後、叔父もすぐ北海道に動員されたので一人になり、他人の家に住み込みで仕事をしていた。父からの送金は毎月一〇円から二〇円を必ず送ってよこした。父は酒も飲まなかった。送金は梧倉にある郵便局に送られ、お札は特別なにおいがしたのを覚えている。もらったお金をためて、土地を買った。一、〇〇〇坪ぐらいだ。
父が会社に反抗したと言う話を聞いたことはある。警察署で死ぬほど叩かれたたと言うことを聞いた。なぜ反抗したかというと監視が厳しく、うるさくて、すぐ叩き、自由を与えなかったからだと言っていた。警察で叩かれて、障害など残ったと言うようなことは聞いていない。父は帰国後、反抗したことについて、公民館などで話をした。日本の女性はやさしいとか、とにかくユーモアのある人だった。歌がとても上手で周りの人が聞き惚れるほどだった。特に民謡が得意だった。小さくて痩せた人だったが、喧嘩早いような人ではなかった(12)。
解放後、三〇円を持っていたが、帰る途中で一銭もなくなってしまったと言っていた。炭鉱ではご飯は白いご飯を腹いっぱい食べられたと言っていた。日本人に対しては個人的には皆いい人だ。感情的には悪いものを持っている。
六、韓国訪問調査と証言の分析
(1) 犠牲者の遺族の生活と思い
① この度の韓国訪問調査のそもそものきっかけは栃木県の「下野チョソン問題研究会」の孫大勇氏の「アリラン通信」No.22への報告や紀州鉱山の現地調査報告に刺激され、動員犠牲者(韓国では現地死亡者と言う)の本籍が判明している場合その遺族を捜し出したいと言うことから始まった。こうした調査を行う場合の鄭恵ギョン氏の助言を生かして、何の為の調査かと言う原点に立って、犠牲者への慰霊と遺族への慰労の観点を重視するように心がけた。この気持ちは今も変わらない。
② 現在までに判っている常磐炭田の炭鉱犠牲者は長澤秀氏によれば二九六人である。調査の第一歩はこの「戦時下常磐炭田の朝鮮大鉱夫殉職者名簿」をもとにそれを地域ごと郡毎に組み替え一部修正した「死亡者名簿」を片手に最も犠牲者の多い地域を訪問調査する事から始まった。現地で調査を支えてくれたのは各邑面の戸籍係と自発的な市民の調査への献身的協力のお蔭である。
調査主体となった「サークル平和を語る集い」はいわき勿来地域を中心に地域の戦争の傷跡の調査や平和教育のための戦争展の開催など二〇年来活動して来た公民館サークルである。ここ数年アジアの人々への加害とのかかわりで地域の朝鮮大戦時動員を取り組み、長澤秀氏の仲介による「サハリン二重徴用関係の調査団」や「遺族の訪日」の受け入れにも全面的な協力をしている。訪問調査の主体はこのサークルである。今後被害者や犠牲者遺族の受け入れなども考えている。
③ 現在判明している犠牲者遺族は聞き取りを実施した八人と戸籍簿や電話などを通じ遺族が判明している一〇人を合わせると一八人の動向がっかめている。帰国後死亡した戦時動員被害者の遺族については聞き取り三人を含め一六人の情報が掴めている。聞き取りを実施した八人を中心に遺族の実態について報告する。
犠牲者遺族のうち一番多いのは娘五人、息子二人の子供で次に多いのが甥四人、弟が三人、父親、孫が各一人、面会拒否、亡失が各一人である。犠牲者の妻が生きている場合はゼロで残念ながら一番つらい思いをした当時者からは死亡当時の事を聞くことは出来ていない。孫との電話連絡ではほとんど祖父の死亡時の状況について知ることはなかった。
④ 戸籍簿の調査については南原と咸陽の第一回目以来、第二回目の郵送による調査依頼で一〇数ヶ所の邑または面の戸籍係の手を煩わして行った。協力をしてくれ判明したのは、上記一邑一面のほかに、義城邑、提川錦城面、蔚珍邑、沃川邑の六邑面である。戸籍調査の意義は日本支配時代のものが残存している場合は死亡地の届け人の名や家族関係などを知る重要な資料である。本籍の番地までわかる場合は徐籍簿を通じてほぼ確実に犠牲者を見つけ出せる。六・二六戦争の激しかった江原道などで原簿が残っていない場合が多く調査は困難であった。栃木県の郵送調査はかなりの高率で回答を得られたようであるが二〇〇七年の調査ではプライバシー保護の観点から遺族でない場合は大使館を通じて行うようにとの忠告さえ送付されて来た。政府や当事者がその意思がない場合、戦時犠牲者の実態はつかめないと言うことか。
➄ 犠牲者が既婚者の場合は当事者が独立した土地を持っている時は農業により子供を育てているが、そうでない場合は離婚により婚家を去り、子どもは祖父母により育てられる場合が多かったのではないか。子供が国民学校に通っている年齢に達していた場合は父の為に慰問文か書いて送った記憶を持っていた。なお聞き取りは出来かかった二人の娘の場合は孤老の生活や施設での生活のため面会が出来なかった。今回の政府の被害調査の申告も出来て。いない。別の娘の一人は朴政権下の調査に申告をして慰労金を受けとっていた。
犠牲者が独身の場合はその墓所は守り手がないために亡失している。本家の甥や弟、妹に当たる遺族は若くして世を去った犠牲者を悼む父や母たちの悲嘆を伝えてくれ胸が痛んだ。息子の死に命を縮めた父荀姿、大門を開いて毎晩息子の帰りを待ち続ける祖母の姿、背中に負ぶわれたやさしかった兄への思いなど。今も生き続ける犠牲者への遺族たちの思いを知ることができた。
⑥ 最後に遺骨の返還や犠牲者への補償、扶助の問題であるが、公務上病死については募集期は各炭鉱の鉱夫扶助規則、官斡旋期は勤労報国隊員に準ずる扶助規則(官斡旋労務者援護規則など)さらに徴用期は、国民徴用扶助規則によったものと思われる。募集期磐城炭鉱で動員後一〇日で病死した金冨鎮の場合は遺骨を取りに行った遺族の旅費の支給さえ覚束なかったようで今も恨みを残している。ただ質問に答えたほとんどの遺族は遺骨を持ち帰っており、現在市内に残っている三体や坡州普光寺に送還されている二〇数体の遺骨についてはどうした事情があって当時持ち帰れなかったのかは不明である。瑞芳寺保管の一体は現地の戸籍調査では探し出せなかった。今回の訪問で願成寺保管の急性肺炎による死亡者朴守福については本籍の蔚山から慶州に移っている妹の所在を確認する事が出来た。今回の真相糾明委員会の調査の成果と言える。
(2) 帰国した戦時動員被害者からの聞き取り
① 帰国者たちからの聞き取りの経緯と証言の概略常磐炭田への戦時動員被害者の中で現在生存者をさがし出せたのはほとんどの場合二〇〇四年韓国政府に設置された「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」の協力のお蔭である。調査一課、後の三課、さらに地方委員会の実務担当者のご協力なくしてはあり得なかった。特に第三回目の調査に当たっては戦時動員被害申告者のうち福島県該当者で現在生きていらっしゃる二四九人の中から四四人の方に電話連絡の上九人の面談の諒回を得て頂いた。三週間の滞在の間、「集団暴力」事件関係や遺族の訪問もある中で、六人の被害者に逢い直接お話を伺う事の出来た意味は大きい。
第一回目の初めての動員者からの聞き取りとなった韓広煕氏は横城の自治行政課の協力で始まったばかりの戦時動員被害者の申告者二九三名の中から常磐炭田に動員され面会を同意してくれた方である。地域の二番目の大手炭鉱である古河好間での二年余の動員の体験を持っている。官斡旋期の強制連行の実態や労働、待遇、解放、帰国の全過程が比較的リアルに判ると共に日本人への思いについても触れられている。
同時に動員された李七星は二回目の訪問時に得た公表を前提にしない聞き取りであったが貴重な内容を含むので仮名で内容のみ報告させてもらった。特に同炭鉱が「束日本一」の優良鉱を誇っていた実態を一部反映してか「模範炭鉱」と言う同氏の証言内容となったと思われる。その意味で宥和的と思われる労務管理採用の背景に何があったか注目される。また帰国時の経路が初めて明らかになり貴重な証言である。
地域炭鉱の統制会員三番手の大日本勿来炭鉱への被動員者宋甲奎氏の三年余の動員期間中の体験は鮮明であり、朝鮮人飯場として地域で知られた「中村飯場」の名が地名と共にスラスラと出た。中でも後遺症と見られる呼吸器疾患は今後の調査課題で塵肺の可能性が高い。解放と同時に自力帰国開始の背景も注目される。
またもう一人の李興淳氏は徴用期末の被動員者で動員期間は短いが入所記念写真に韓服を着た自分の姿を発見、洪城郡からの六〇人の童顔の被動員者を含む「応徴士」の一人としての体験は貴重である。
次に古河好間炭鉱の動員者からの聞き取りはこの回に二人を加え四人となった。金昌越氏は二か月余で逃亡した。特に「集団暴力」事件の最年長の被告金先鳳の同じ洞内に住み、よく知りあった仲と言うことである。八四歳と言う高齢にもかかわらずとても元気なので今後の証言に期待できる。氏との出会いは清原郡の自治行政課はじめ真相糾明実務担当者のお骨折りに負う(13)。
古河好間の張圭福氏は現在京畿道の田舎で孫に囲まれ幸せに暮らしている。動員中も電気係としてみんなからかわいがられた記憶と徴兵検査により帰国した珍しい経験を持っている(14)。
入山採炭・常磐炭鉱に募集期から敗戦間際まで動員されていた劉鳳出氏は母子家庭の二男で同郷の先輩動員者たちからも年少故に保護されていたようだ。一九四五年一月に帰国した。動員期間が長いだけに当時のある寮入所式の写真を見せるとよく覚えていて、日本人との交流を含め興味ある証言が得られた。
最後の全炳龍氏の住まいは北漢江の最上流の麒麟面の山奥であった。聞き取りは面職員の親切な協力で実現した。「よい思い出など一つもない」と吐き捨てるように述べられた。官斡旋期入山採炭、常磐炭鉱に動員された方である。真相糾明委では古河好間への被動員者としているが証言内容からして入山採炭四三年八月、江原道一〇〇人の「供出」の一人として動員されたと思われる。
真相糾明委より紹介された九人うちの論山と茂朱のもう一人の方については電話での連絡で意図が通ぜず訪問を断られた。また慶州の盂氏はお会い出来たが交通事故の後遺症のため聞き取りの出来る状態でなかった。茂朱では郡庁、清原では清州市庁から派遣された通訳官のお世話になった。また拙い韓国語の仲介をして下さったそれぞれの協力者の方々には心より感謝申し上げる。
② 帰国した戦時動員被害者からの聞き取り内容の分析―強制連行の観点から―
三回にわたって訪問した被動員者について動員の強制連行性について検討する。対象者は生存者八人で募集期一人、官斡旋期五人で徴用期は一人である。そのうち動員時の証言があるのは七人で、一番早い一九四一年一〇月の劉氏は募集期であるが巡査と面職員が来て「捕まえた」など強制的である。また、二男であると言う理由で母死亡時も返されなかった。入山採炭では茂朱からの一〇〇人の受け入れが一九四二年二月にも行われている(満期者現在調)。次に官斡旋期の一九四三年六月に古河好間炭鉱に入所した韓広煕氏と李七星氏の場合は典型的な官斡旋期の連行形態と言える。面の書記はじめ部落の有力者を伴って家の出口を塞いだ上でそのまま連行された韓広煕氏。何回かの通知書での強要に家族への迷惑を考えて同意した李氏のいずれの場合も行政的な手法と社会的強制力に加え有無を言わさぬ動員だと言える。さらに全氏の場合は長男であるにもかかわらず、逃げると「父が代わりに引っ張られるので」と言う。区長や巡査面職員が来て連れて行かれた。徴用期の李氏の場合は暴力を伴ったことを証言している。どの時期も動員時の強制性は共通していると言える。動員時の地域的特質を敢
えて抽出できる段階ではない。
③ 動員の強制労働性についての検討
動員の強制労働性を検討する指標として「職種の選択の自由」、「休息の自由」、「外出、通信の自由」、「退職の自由」が労務管理の物理的「暴力」により束縛されるとか、警察力により拘束されることがなかったかを検討することが考えられる。
職種は全員坑内労働で、張氏は車、電気の修理、劉氏は排水管理などの職種への採用もあり、制限されてはいるが年少者への配慮だろうか。好間炭鉱の早期入山者の犠牲者李貴成は先山である。技術資格の必要な職種就業者は戦時動員の朝鮮大労働者の中に占める比率はそう高くはないと思われる。常磐炭鉱の「第一回伊川郡寮別満期者名簿」(五九人)と言う限られた資料での試算によると二九%である。
労務による就業督促の厳しさ特に負傷時の取扱いに現れ、入院はもちろん、全氏の場合は「炭車の事故で怪我をしても休めなかった」ことや劉氏は休んだことがばれると、労務に呼ばれ、叩かれたことを、宋氏は「夜昼なく働かされた記憶しかない」と証言に見える。
劉氏によると外出の許可は「信頼される大」にはあったともいい、いわき市史には「古河好間では監視が厳しく常時四~五〇人の警官や労務が監視しており外出日には近くの駅の改札口に労務係員が待機して各警察署と連絡を取りつつ逃亡を防止した」とある。逃亡した金昌越氏は休日を利用している。これらの証言は当時の入山採炭の一九四二年九月の「外出を中心とする訓練」規定の許可制、集団制、外出時間などの制限と、個人的な成果を見て許可を与えて行った様子が読み取れる。李七星によると外出範囲は二〇㎞以内で、山を越えた炭鉱に居る義兄との面会をしている。好間や平に酒を飲みに行くとか、日本人が付き添えば劉氏のように仙台にも行くことが出来た。
逃亡者への半殺しのリンチは李七星始め、多くの残留者が逃亡を思いとどまる要因になっているがそれにもかかわらず逃亡は後を絶たない。逃亡時の暴力的制裁は全国共通である。金昌越氏は食事やその他のことはともかくとして落盤を目の前にしての坑内労働の危険性が一番の理由として挙げている。特高月報によると東北地区は「都市の生活にあこがれて」と言う項目が他地域に比べて多い。
次に契約期間終了後の退職の自由について。官斡旋期以後の「定着指導」という労働強制は家族呼び寄せ、一時帰休、奨励金などの優遇策とともに警察力を使ってまで執拗に行われた。劉氏の場合は一九四五年二月に満期により集団帰国した例である。この頃一九四四年の円満帰国率は全国では一〇%以下である。常磐地区では入山、磐城をあわせた満期者は一九四四年一月から四五年三月まで一五一九人で朝鮮人労働者の三〇%である。そのうちどれだけ定着したかは掴めていない。この年の一〇月には四〇〇人を超える集団帰国の動きがあり警察の介入により、慰留されていることを考えるとこうした帰国があったことは興味深い例である(15)。劉氏を支える同期の集団のつながりは強いことは確かである。また宋氏の場合はたぶん常磐炭田での解放後最初の帰国で八・一五その日に八人の先輩たちと集団で帰国し始めたものと思われ、詳しくは聞けなかったが、解放前からの動きが一挙にあらわれたのではないか(16)。両者の帰国を可能にした背景に抵抗運動があったとするなら強制動員政策そのものの屋台骨を揺すぶる行為であるだけ重要である。
④ 賃金や待遇における民族差別性についての検討
賃金についての質問に対し「貰っていない」李氏、全氏、「覚えていない」張氏、もらったとしても「ほんの少し」「マックォリー一杯にもならない」など否定的。宋氏は「月一五円ぐらい、」金昌越氏は一日一円五〇銭、月三〇円~五〇円と一般的な数値。劉氏は一日一円で買うときは購買票で買った。
送金については「他人任せ」張氏。「寮長が送ったと言ったが。誰も受け取っていなかった」と全氏。「七〇〇〇円貯めて母が死んだ時送った。」劉氏。「月一〇円ずつ、貯めて土地を一〇〇〇坪買った」金周讃氏など。「送らなかった」李氏、「たばこだけ受け取った」崔氏で、郵便局で受け取りに行き「お札のにおいまで覚えている」金周讃氏。こうした証言で見る限り敗戦の年に動員された李氏と全氏以外は送金はそれなりに行われていたことを思わせるが少ない例も軽視できない。戦後の賃金の清算についてはきちんとした聞き取りが出来なかった。
食事は「汁は人間のくえるものでなかった」宋氏。「お腹がすいてたまらなかった」李氏、張氏、劉氏。「水を飲んで腹いっぱいにした」全氏ら食べ盛の若者は何よりもつらかったこととして挙げている。挙句は「腹が減って盗むのがなぜ悪い」と居直った江原道の白菜を盗んで食べて暴力のバツを受けた人が述べた言葉を肯定的に振り返っている劉氏。好間の年輩の金昌越氏「おかずは沢庵ならそれ一品」「少なかった」と述べている。しかし先鳳氏の息子周讃は父から「白い飯を腹いっぱい食べた」は違った印象を聞いている。果たして実際はどうだったのか。この炭鉱では四一年八月に飯米を従来の一日八合から四合に減量したところ一六五人が罷業に入り、会社は六合五勺で妥協したと特高月報にある。四三年入所の韓氏は「コメと麦が混じって時々ジャガイモや海産物がついた。」「弁当を先に食べてしまって、売店で買って食べた」李七星は「ご飯は十分与えられ」「麦のたくさんはいった雑穀で」「朝鮮で庶民の食べる飯よりよかった。」などの証言と合わせ、こうした運動の影響も考えられる。お隣の小田炭鉱でもどんぶり二杯を合わせて汁をかけて食べたと言う証言もあり、激しい肉体労働に見合うある程度の食事は増産政策のためにも支給されたのか。どの炭鉱でも一般的には日本人は食糧の不足時代でも炭鉱は優遇されたことを証言している。しかし常磐湯本から地域に残った在日朝鮮人の林潤植氏は「故郷はるか」で地下足袋や靴下や特別配給の酒の労務によるピンはねを指摘している。寮長の姿勢によるがそれは単なる偶然ではなく朝鮮人寮の体質を反映するのだろうか。
寮の規模や、間取もある程度聞き取れるが、張氏、劉氏も窓の格子などについての「記憶がない。」のはどうしたのだろうか。宿舎の構造に差別はなくても、収容大数や利用の仕方により大きな違いが出ることを指摘したい。
⑤ 後遺症や身体の障害について
日本は戦時労務動員者に対し「内鮮一体」「産業戦士」ともてはやしながら、戦後は厄介者扱いで早期帰国をさ
せた後は一遍の回顧すらしなかった。日本では常磐炭鉱の塵肺訴訟の和解から大きな前進を見たが朝鮮人の塵肺関係被害については放置されたままである。他に報告されたに事例は聞いていない。全国塵肺患者同盟のいわき支部長によると常磐では検診を受けた人は五〇〇人、認定者四八人、死亡者四六人と言う。大日本炭鉱関係者は一人である。塵肺の症状は咳と痰が出て突発性の場合は咳止めが効を奏する。症状は進行し、呼吸困難のため歩行も困難になる。被害期間には関係なく吸引した粉じんの量による。レントゲンを撮ればほぼ診断出来るとのことだ。
忠清道鎮川郡の宋甼奎氏は一九四二年三月かち四五年八月まで大日本炭鉱で採炭補助貝として勤め粉じんの大量吸引をしており、それ以前は農業その後も農業である。現在激しい咳に苦しめられ痰も出る。一般被害者の認定は受けているが未だ補償金は支給されていない。ソウルの病院に月一度ぐらい通っている。
真相糾明委員会によると塵肺の救済支援組織は立ち上げ中で、支援立法は○八年の八、九月ごろ出来るので症状と証明者がいれば申請が出来るとのことだった。
日本に来ての診断は高齢のため難しいが、会社はつぶれていても労災による救済は出来るはずだ。日本における定期検診は二年前に終わっていると言う。原爆の救済が実現している今こうした障害救済への道が開けないものか。
その他の障害についても同様であるが韓国政府の責任で補償を行っている。韓広熈氏の手指の変形、李興淳氏の腰骨など身体的障害だけでなく、心の傷と合わせて、今私たち加害国民として何か出来るかを明らかにしなければならない。
(3) 帰国後死亡者遺族からの聞き取り
① 二、三回目の調査では平区裁判所「集団暴力」事件の被告たちの足取りを追って地域における朝鮮人労働者の抵抗運動の断面を明らかにしたいと思い調査した。しか
し被害者本人はほとんど帰国後死亡している。遺族からの聞き取りとなった。朝鮮人の戦時労働動員期の抵抗運動については先行研究を踏まえて、私なりの理解に基づき常磐炭鉱の抵抗運動の実態を通じ把握する手がかりを得たいと考えている。「逃亡」と「直接行動」(暴力事件)は朝鮮人戦時動員期の抵抗運動の二つの大きな流れであり、西成田豊氏は前者を九州、後者は「労働争議」ではあるが北海道の抵抗闘争の地域的特質としている。特に概念の検討も含め否定的に評価されることのありかちな「直接行動」を朝鮮人の戦時労働動員における抵抗の重要な形態として注目している。
広範な逃亡者を含み込んだ在日朝鮮人世界との関連において、極めて民族的な抵抗運動としての性格を持つのではないかと考えている。労働争議における民族主義的運動との関連が官斡旋期以後強まることは指摘されているがこうした組織的運動とは別個に「流言」や「造言飛語」の形態までを含むロコミの情報が移動性の強いと言われる朝鮮人労働者の行動と一体となって一見無秩序に見える抵抗運動を支え、人間としてのぎりぎりの要求を掲げた幅広い連帯運動となっていったのではないか。みすぼらしい聞き取りも抵抗運漕の研究への私の出発点としたい(17)。
② 大日本勿来炭鉱での一九四二年一二月の提川「勤労報国隊」の「集団暴力」事件については安聖一氏からの聞き取りが唯一である。残念ながら父の事件についての証言は何一つ得ることが出来ずわずかに四四年一一月の定着記念写真に写っている父の顔を確認する事が出来ただけである。当時の事件関係者で罰金刑を受けた人たちは引き続き同炭鉱に残り解放後一定期間まで働いていたことが分かったにすぎない(14)。今回の二人の生存帰還者からはそれらしい動きを聞き取ることは出来なかった。
③ 古河好間「集団暴力」事件については判決文に載っている被告二三人のうち最年長者の金先鳳の長男金周讃の聞き取りが出来た。しかも清州市と清原郡の職員の巧みなリード下で打ち解けた雰囲気の中で聞き取りが出来た。帰国後もこの事件を誇らしく語っていること、酒一つ飲まずキチンと送金をするまじめで朗らかな人柄、厳しい監視や暴力的労務管理に対する長い間の積もった反発など重要な証言を得ることが出来た。二三人のうち生存者の申告はないが九名の遺族の被害申告が出ている。そのうちの一人の聞き取りも同意されているので、今後遺族たちからの事件の真相に迫る二次的ではあるが証言を得ることが出来ることを期待している。尚日本人の死亡者があるにもかかわらず判決文には表れないことや「首謀者」七人は帰ってこなかったと言う日本人の証言からすると別の判決文が存在する可能性もある。こうした暴動が遠く延安の反戦運動の指導者の耳にも入っていることからこの種の事件の囗から囗への広がりの速さを示しているように思われる。
④ 福島県における朝鮮人の戦時動員期における紛議は試算によると七〇件、紛議参加者三六三二人。逃亡者は五三二九人である。このうち直接行動は三〇件一〇三二人
である。
七、調査方法についての反省と今後の課題
① 調査の方法について
三回目の二週間は二人で聞き取りを実施することが出来、写真と録音は斎藤氏が専属で行ったため失敗もなく主な聞き取りはすべて録音が出来、写真も採取の経過が分かる程度十分取れた。通訳官がついてくれた時はやはり詳しく聞き取ることが出来た。単独での採集は余程の下準備がないと抜け落ちることが多かった。今後とも出来れば複数での聞き取りが望ましい。
②生存者からの調査について
三回目は真相糾明委員会の協力により六名の生存者から聞き取りを実施することが出来た。あらかじめ頂いた名簿より前日以前に訪問確認をしたが、訪問の趣旨が理解出来ていない場合もあった。拙い韓国語の電話では十分趣旨が理解してもらえず、二人の被害者については訪問を断られた。そのほかは地方の「真相糾明委」の実務担当官の協力で思いのほかスムーズに行った場合が多い。入山採炭の青葉寮など具体的写真等の資料がある場合は話がはずみ、良い結果を得ることが出来た。磐城内郷関係の被害者からの聞き取りは今回含めることが出来なかった。好間炭鉱の「集団暴力事件」については生存者からの聞き取りはすでに難しいことが分かった。しかし遺族からの聞き取りも実態把握に役に立つことがわかった。ようやく三回目の調査で後遺症についての事例が出てきたことは大きい意味がある。予想はされていたが今なお苦しんでいる姿を目の前にして、課題の大きさにショックを受けた。
③ 遺族への慰労と精神的、生活的な被害の調査について
三回目調査で遺族の損害賠償訴訟の関係遺族と会うことが出来た。それだけに遺族の犠牲者への思いも強い。その思いをいわきの人たちに伝えたい。現在の遺族の生活苦と被害の直接的因果関係を指摘することは難しくても、遺族の補償への願いが強いことを感じる事例があった。遺族からの聞き取りは強制動員の実態を直接的に採取することには繋がらないが、遺族とお会いして犠牲者への遺族の深い悲しみに接するにつけ、継続の必要を強く感じた。
なお、文中の( )は筆者の補彙である
二〇〇九年七月
注
(1) 韓国読みで「福島県石城郡勿来町大日本炭鉱」と言う意味。
(2) 石炭統制会東部支部資料では大日本勿来炭鉱の動員は一九四二年四月から統計が始まり、月末在籍数が八○人となっている。この動員は証言からすると忠清北道からのものと考えられる。
(3) 私たちの調査も真相糾明委の仲介で来たのでその一環だと思っていた。日本の民間団体で慰労と本当のことを市民に伝えるために来たと説明したら感謝された。後遺傷害の可能性のある実態が判明した。まず事実の把握に努めたい。
(4) 奥さんの話によると結婚したのは[八歳の時で、主人は一五歳の時だった。徴用された時は長男を身ごもっていたと言う。
(5) 写真は大日本勿来炭鉱の通訳官と労務係長が持っていた「應徴士 洪城隊第一次入山記念撮影」と「昭和二〇年三月一日入社式を行う 洪城隊」と書かれている写真のコピー。
(6) 写真の提供は青葉第四寮は永山亘氏、入山式の写真は長澤秀氏である。
(7) 「こーひーちょん」に当てはまる町、村は見つからない。入山と云う言葉の記 はなかった。
(8) 電話番号を教えて頂き、連絡はとったがまだ長男との面会は実現していない。
(9) 父の動員地は九州の明治鉱業所の平山鉱と思っていたらしいが「真相糾明委員会」の判断によるものであった。これは間違い。
(10) 寅燮氏は一九三一年生まれで、現在七六歳である。提川錦城面中田に住む池茂栄氏によると寅燮氏は年上だが同級生であった。寅燮氏は級長で池氏は副級長だったと言う。
(11) 「江原道太平洋戦争犠牲者遺族補償請求訴訟」一九九一年二四人の軍人、軍属、労働者が提訴した裁判のことか。この裁判は九一年一二月東京地裁、九六年一二月東京高裁、同一一月請求棄却。「損害賠償と謝罪要求」に対し「道義的責任を指摘することが出来るが法的責任を肯定するに足りない」として棄却した。
「百万人の身世打令」より
(12) 「集団暴力事件」について。この「事件」は一九四三年四月二五日と二六日にわたり古河好間炭鉱の巻き上げ付近での日本人と朝鮮大労動者の抗争をきっかけに四〇〇人を超す朝鮮人鉱夫が立ちあがった事件。日本人長屋や浴場を破壊し、日本人一人の死者を含む大規模な反抗闘争となった。信頼のある労務係の説得で沈静したとも、憲兵隊の出動があり鎮圧されたともいう。中心人物と看做された二三人が送検され、懲役一○ヵ月を最高とする処罰を受けた。一九四三年当時の日本での朝鮮人の抵抗運動史上でも大規模な闘争と考えられる。事件後の会社の労務政策の変化に注目している。
(13) 今回紙面の都合で割愛せざるを得なかった。
(14) 紙面の関係で割愛せざるを得なかった。
(15) 常磐炭鉱で一九四五年九月柬から一〇月初めにかけ総勢四九一人の定着拒否の抵抗運動が一九四五年以後の散発的な帰国者を可能にした背景であろうと考える。こうした定着指導拒否の運動は決して孤立的偶然的なものでなく北海道における六、八、一〇月の大規模な定着拒否闘争との関連性について注目している。
(16) 一九四四年月の東京での支部勤労部長会議の席で勿来からは「空気よくない」「定着指導はよくない」「警察力により定着したので結果悪し」とあり、会議全体でも常磐班では強圧的な警察力による定着指導はよくないという結論が出ているようである。
(17) この仮説は長澤秀氏の「第二次大戦末期の朝鮮人の闘い」の発想に負う。