戦時戦後の日本経済 下

分類コード:I-05-01-001

発行年:1951年

第5章 労働力の動員 徴用

戦時経済の専門家であるジェローム・コーヘン(コーエン)の著作。第5章では、朝鮮人の徴用など戦時の労務動員の概要について、英文資料などを参照して著述している。

著作者:
J.B.コーヘン
    Page 1
  • Page 2
  • Page 3
  • Page 4

戦時戦後の日本経済・下

 

 日本人は鉱山や建設中の金属工場や仲仕としての頑強な重労働者の必要に応ずるために、朝鮮人労働者の移入に頼った。女子も学生ももちろんこれには利用できないからである。推定によれば、太平洋戦争の勃発当時、日本には百四〇万の朝鮮人が居住しており、そのうちの七七七、〇〇〇人が労働者であって、六九二、〇〇〇人がそれ以外の者であった。これらの労働者のうち二二〇、〇〇〇人は土木事業に、二〇八、〇〇〇人は製造工業に、九四、〇〇〇人は鉱山業に、二七、〇〇〇人は仲仕等に従事していた。農業或いは漁業に従事していたものは僅か九、四〇〇人にすぎなかった((八八))。日本人は実際の計画を上回る多数の朝鮮人の移入を欲していたが、朝鮮総督の反対でこのことは行われなかった。総督は最良の労働者を日本へ送出すことにより朝鮮における軍需生産が妨げられていると繰返し抗議した((八九))。一九三九―四五年に亙り九〇七、六九七人の朝鮮人をもってくる計画がつくられたが、割当数の僅か七三%が充たされたにすぎなかった。つれてこられた朝鮮人のほぼ半数は炭坑へ送られた。炭坑が朝鮮人を必要とするということは石炭統制会の繰返し主張するところであった。同統制会は戦争の末期に報告書の中で言った――

「日本の鉱山業の著しい特色は機械力の利用が殆んど行われていないということである。それは鉱石の所在と品質が貧しく経営上引合わないからである。労働者が大いに求められている所以である。航空機工業の非常な強調のために、坑木や爆発薬や重油や備品等の不足が労力の不足に伴った。召集されたり入隊したりする者のうちのますます多くが熟練せる青年であり炭坑労働にとって最も欠くべからざる人々であった。労働日と労働時間の増大にもとづく疲労の累積にもとづく事故の増大と労働成果の減少とは、地下労働に対する悪感情を日本人に懐かせてしまった。この理由のために朝鮮人および中国人の労働者が移入されねばならない((九〇))。」

 これに加えて、三一、二二九人の中国人労働者が主に炭坑用に移入された((九一))。朝鮮人労働老も中国人労働者もいずれも二ヵ年の労働契約でつれてこられた。一九四四年の終りに近づいて契約が満期になった者或いは満期になろうとした者はもう一年止まるように「忠告」された。この忠告をきかずに帰国を願い出た者は不幸にも船便がないと云いきかされた。同時に内務省は朝鮮人および台湾人の取扱い改善の告示を出して言った—―

「朝鮮人および台湾人を戦争努力に充てるためには、政治的にまた政治的以外の点において彼らの処遇が改善さるべきである。処遇の改善の方法は概してつぎの如くである。

 (一)日本人は朝鮮人および台湾人を理解ずるよう啓蒙せられねばならぬ。

 (二)警察は日本人に対すると同様の思遣りをもって彼らを遇せねばならぬ。

 (三)朝鮮人労働老の管理は改善されねばならぬ。

 (四)教育に関するかぎり機会均等が実現されるであろう。云々((九二))。」

 日本では教育の機会はほとんど失われていたから、最後の点は容易に実現されるものであった。朝鮮人は割合に農業に用いられることが少かったが、それは監督が困難であり日木人が彼らを信頼しなかったからであった。或る農林省の官僚が云ったように、「米をつくるために彼ら朝鮮人が欲しいというのであれば、彼らを朝鮮に残しておくのと少しも変るところはないだろう。」一九四五年には破らは土木事業や疎開や防衛計画に日雇労働者として大規模に傭われた。一九四四年においてさえも彼らは日本における最大の四四人の土木請負業者の使用人の半ば以上を占めていた。移入された六六七、六八四人の朝鮮人は民間の男子労働力の僅かの比率を占めていたにすぎないが、炭鉱業や土木事業に於ては『頑強な男子に対する特別の必要を充たした。

 

 

八九 一九四〇年から一九四四年に至る朝鮮の人口と労働者の変化は前頁の表の如くであった。

九〇 Report on workers in the Mine. op. cit., p. 11.

九一 厚生省の報告は言う――「輸入は昭和十九年(民国革命第三三年)(一九四四年)日本政府と北シナ労務協会との間に締結された。日本への労務供給協定にもとづいて行われた。労働者は二ヵ年供給されることになっており、日本はその費用の全部を負担することになっていた。」The Use of Imported Chinese Labor, Welfare Ministry, Memorandum, Tokyo, October 10, 1945 p.2.

九二 Project to Better the Treatment of Koreans and Formosans, Home Ministry, Tokyo, December 5, 1944.

 

※注八九に出てくる「前頁の表」は省略