日本における朝鮮少数民族

分類コード:I-05-01-002_II-03-06-006 

発行年:1961年

第2章・第3章・第4章・第5章・第6章

 

朝鮮米軍政庁に勤務し、のちにハーバード大学教授となり朝鮮史の大家となったエドワード・W・ワグナーが1951年に執筆刊行した。在日朝鮮人の来歴、第二次世界大戦前・戦後の状況や、米軍政下の朝鮮について、史料や統計を用いて記述しており、在日朝鮮人史についての初期の研究・資料とされている。

 

著作者:
エドワード.W.ワグナー
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エドワード・W・ワグナー『日本における朝鮮少数民族 1904年~1950年』

外務省アジア局北東アジア課 訳

 

第1章 歴史的背景

 

 朝鮮人は,およそ,記録の上では,日本歴史の当初から日本に在住している。事実,今日,学問上の通説では,日本人の先祖には朝鮮半島をへて日本にはいつた諸種族の血が強くまじつているとされている(1)。このことは,もちろん,今日われわれが朝鮮人・日本人とよんでいる種族集団や,その国家組織の出現よりずつと前に起こつたものである。こうした長い歴史的過程において,両民族・両国の間には事件も起こつた。それらの事件は,今日の在日朝鮮人少数民族問題の性質を理解しようとする以上,みのがすことのできないものである。約言すれば,今日の在日朝鮮人少数民族の不幸な立場は,大体において,明治維新以後における経済的・政治的な勢力関係に負うものではあるが,また,簡単には究明しがたい,深い歴史的な根底をもつ社会学的・心理学的諸要因のもたらしたものでもある。したがつて,1900年以前の日本・朝鮮関係の要所々々を瞥見しておくのが適当である。

 13世紀にいたるまでの1,000年以上の間,日本の対朝鮮関係上,もつとも意義深い事実は,朝鮮が中国文化を日本に伝えるためのかけ橋となつたことである。朝鮮の僧侶・科学者・芸術家・学者は,相ついで中国文明の種子を日本にまいただけでなく,かれらは発芽した芽を育成するために日本に残留した。また,7世紀ごろ,約2,500名が朝鮮王国から日本へ避難してきて優遇されたが,これは日本の開化に非常な刺戟を与えたものと思われる。

 朝鮮は,日本に中国文化を取りついだだけでなく,朝鮮自身の文化をもこれにつけ加えて与えた。この点で,日本は,依然として朝鮮に対し文化上多くの負債を持つているのであるが,日本はそれに対してどの程度感謝の念をもつているかをかつて示したことがないようである。各般の中国文明が非常にすばらしいのに幻惑され,朝鮮も自国と同じように,中国の弟子であると考えた。朝鮮の文化的寄与を受け入れながら,これを伝えた朝鮮人の貢献に対しては,それにふさわしい尊敬の念を払おうとしなかつた。中国人の学者が,しばしば日本の階級組織の上層部の要職・顕職を得たのに反し,朝鮮人は冷遇されて,通常写字生として奉仕し,おもに事務的な仕事に追いやられた。

 日本・朝鮮両国を渦中に投じた数次にわたる大規模な軍事的事件の最初のものは,13世紀に入つて起こつた。この事件が,文化の移入方式に重大な変化をもたらすとともに,両民族間に敵愾心を生むこととなつたのであるが,その累は現代にまでもち越されている。民族関係からみてもつとも重大な軍事的事件は,16世紀後期に秀吉の試みた7年間にわたる朝鮮征伐であつた。

 この戦役が朝鮮に与えた戦禍について,日本の一史家は,つぎのように記述している。

 「朝鮮文明は実質上破壊され,……朝鮮王室の墓までもあらされ,略奪された。戦争の終わつたときには,朝鮮は廃墟と化していた。それほど荒廃はひどかつた。それから,朝鮮人は日本に対して大きな敵意をいだくようになつた。今日でさえ,朝鮮には,世界史上もつとも残酷で理不尽な戦争の一つである7年戦役の恐怖をものがたる遺跡・口伝・文献があふれている。……このようにして朝鮮は,各世代にわたり,日本の残虐行為をいきいきと記憶しつづけている。」(2)

 日本の帝国主義的冒険は失敗したが,しかし,空手で引き揚げたのではなかつた。このとき,朝鮮で日本武士はほとんどの金属活字をあつめてしまつたが,日本はこの金属活字による印刷術を会得した。朝鮮人の熟練工が捕虜として連行され,日本はかれらから織物・製陶の術を学んだ。「このように一国の文明を全面的に根絶し,それを他国へ移植したことは史上にその類例を見ない」と記されている(3)。

 17世紀のはじめから明治維新後にいたるまで,日本と朝鮮の公式な関係は,両国の新しい支配者が即位するというような重大なときに,ときどき使節を交換するだけであつた。これについては,朝鮮側に多分に責任があつた。7年戦役の被害を蒙むつた直後、朝鮮の支配者たちは,中国に一層つよく依存しようとし,日本とはできるだけ関係をもたないことをのぞんだ。しかし,中国との交渉をふたたび開くことに熱心であつた日本には,仲介者としての朝鮮の助力がどうしても必要であつた。その結果,しばらくの間は,日本は,哀願的にくりかえしくりかえし辞をひくくして,朝鮮の意を迎えようとした。徳川時代を通じて,日本との一切の関係は,日本から口火を切つてはじめてこれに応ずるというのが,朝鮮の一貫した政策であつた。

 こういう型の日鮮関係の根本的な改変は,当然に,明治維新をまつて行なわれた。7年戦役の損失をとりかえし得なかつた朝鮮は,ほぼ中国と同じような衰退期にあつた。この間日本では,漸次民族主義的・国家主義的意識が台頭し,それが新しい,活気のある天皇神話に発展したが,これは日本が他民族他国民に優越するという根本観念を内包するものであつた。1905年に,この思想は,はじめて制度となつて朝鮮に行なわれ,征服者の被征服者に対する政治関係として実現された。したがつて,個人的・社会的な面で,日本人が朝鮮人に対して優越者の態度でのぞんでいたとしても,驚ろくにはあたらない。

 さらに,右に述べた歴史的要因に加うるに,日本人の心意には「一つがうまく行くと,万事がうまく行くものだ」という考えがあり,それが日本史を通じてたえず一つの旋律を奏でている。西欧諸国の「成功」は,主としてその優秀な武力に表示されているが,日本人の国家価値評価の尺度からすると,西欧諸国はこれがために久しきにわたり比較的高い地位を与えられているのだ,といつてよい。他方,朝鮮は,西欧の挑戦に応戦できなかつただけでなく,日本の手をへて投薬された二番煎じの近代化という弱い薬さえ呑みくだすことができなかつた。したがつて,朝鮮および朝鮮民族が受けたものは,漠然たる侮蔑感といつたものではなかつた。かれらの地位は,もともと劣等であり,梯子の最下段にちかいものであつた。

 このように,日鮮関係の歴史は,朝鮮人側には敵愾心と不信の態度,日本人側には嫌悪と侮蔑の態度が存在することをつよく示している。これらの要素が,現代の在日朝鮮人少数民族問題展開の舞台である歴史的骨格の一部をなしている。加うるに,両民族のそれぞれの歴史には,根づよい劣等感が横たわつているようである。この劣等感は,朝鮮人の場合は,1,600年前の過去の朝鮮への誇張した愛着により,日本人の場合には,他民族に対する人種的優越性をつよく主張することにより,補正されている。これらすべての要素は,在日朝鮮人少数民族問題の中心を占める1,900年以後の日鮮関係の局面を記述するにあたつて,その中に,ときどき,こつそり顔をだすことになろう。

注(1)Edwin O. Reischauer : Japan, Past and Present, New York, 1947年, 9頁。

(2)Yoshi S. Kuno : Japanese Expansion on the Asiatic Continent, Berkeley, 1937年, 第1巻,175頁。

(3)同上書,176頁。

 

 

第2章 朝鮮人が日本に移住した初期の状態(1904年~1937年)

 

 利用できる資料にもとづいていえば,朝鮮人の日本移住は,1920年から1930年までの10年間以前には,重大な問題ではなかつたし,また,重大な問題になりそうにも思われなかつた。在日朝鮮人の数について最初に記録されているのは,1904年のものであるが,そのころ,在日外国人総数1万5,497名中,朝鮮人の数は227名であつた(1)。なお,1905年中に日本に入国した外国人は,1万6,530名であり,そのうち1,944名が朝鮮人であつた(2)。その実数は,はつきりしないが,この朝鮮人のうち,大多数は学生であつたと見てよかろう。

 1910年以前の在日朝鮮人が,どんな意味からいつても,外国人であつたことは,注意すべきであつて,他の外国人と同様に,かれらを代表する外交機関をもつていた。しかし,1910年8月,日本が朝鮮を併合したとき,大韓帝国の全臣民は自動的に日本臣民,さらに正確にいうと,朝鮮系の日本臣民となつたのである。国家としての朝鮮が消滅するとともに,朝鮮市民という身分も即時に消滅することになつた。しかし,そのかわりに,朝鮮人は,日本の市民権ではなく,日本の国籍を得た。これは,朝鮮人である日本臣民は,朝鮮にいようと,日本にいようと,日本市民としての権利と特権を享受しないことを意味した。併合後のはじめころは,このことは,在日朝鮮人少数民族に関するかぎり,ほとんど重要性をもたなかつた。たとえば,1913年には,日本在住の朝鮮人はわずかに3,600名に過ぎなかつたからである(3)。第1次世界大戦後の10年間,一つには日本産業が発展したために,また一つには故国が貧窮化したために,不況に見舞われた南朝鮮の農民で職を日本に求めるものの数がどしどしふえていつた。そして,日本にきたかれらは,日本の労働者の下層の人たちと競争することになつた。同時に比較的少数の

学生・知識人・商人などが日本に定住した。こうして,当時大きくなりつつあつた朝鮮人問題は,いよいよ複雑なものとなつてきた。1929年にはじまつてその後数年間は,朝鮮人移住をいくらか緩慢にする力が働いたが,日本が世界的不況の苦悶を脱して,アジアの征服をめざして第一歩をふみだすや,朝鮮人の労働力を求める傾向が強化されて,ふたたび多数の朝鮮人が日本にひきよせられることとなつた。この移住は,日本の中国侵略のときまでつづけられたが,それは初期の朝鮮人流入のあり方にそつくりであつた。そこで,1937年という年は,朝鮮人の日本移住の初期の状態を論ずるにあたつて,都合のよい区切りになる。

注(1)Japan Year book, 1906年,東京,21頁。

(2)同上書22頁。

(3)高橋亀吉「日本産業労働論」東京,1937年,450頁。

 

朝鮮人労働者の流入

 1921年から1931年の10年間における朝鮮人の日本への純移住数は,約40万に達した。その大部分は,経済地位の向上をもとめて,日本にやつてきた過剰農民であつた。かれらは低賃金で不熟練労働にしたがつたが,一般にかれらはとても文盲で,見境なく法律に違反し,また非常に不安定な分子であつた。1920年には日本に約4万人の朝鮮人がいたが,そのほとんどが日本産業の戦争景気の結果,移住してきたものである(4)。しかし,泡沫景気が消え,日本が10年以上にわたる慢性的な不景気に入つた後も,なお朝鮮人の移住数は相変らず上昇しつづけた。1923年末には,在日朝鮮人の数は8万に達し(5)。つぎの2年間には2倍となり,そのつぎの3年間にさらに2倍になつた。1929年には,世界的不況が日本に影響したため,いくらか減つたが,それでも,1930年の国勢調査の結果では,当時41万9,000名の朝鮮人が日本に在住していた(6)。

 日本に入つてくる朝鮮人がふえた根本的原因は,朝鮮の農村が急速に窮乏したことであり,この窮乏化は,1920年代の10年問にいちじるしく進行した。朝鮮における日本人地主が莫大な農地を手に入れたために,ますます多くの朝鮮人農民層が危険なまでに低い生活水準に押し下げられてしまつた。

 南朝鮮では,とくにそれが甚だしかつた。南朝鮮は豊かな米産地帯であり,当然に日本人の入植者や金融資本家はここに最初の地歩をかためていた。耕作地主は急転直下,負債にあえぐ小作人に,さらに「火田民」に転落した。(火田民とは火田の民であり,「飢餓に追われて転々と流浪する貧民であり,…………かれらは播種する前に国有林をやき払つて畑をひらく」)。(7)この転落をさける唯一の活動は移民であつた。おしひしがれた朝鮮農民にとつて,日本への移住こそは,もつとも有望な避難所をうることであつた。朝鮮人は日本臣民であり,日本への移住がさして困難ではなかつたからである。

 在日朝鮮人少数民族のもとの職業・出身地別についての利用できる資料によると,その大多数が小自作農であつたことが明らかである。1929年の一調査報告によると,在日朝鮮人の90パーセントは,かつて小作農か不熟練労働者であつたものである(8)。神戸で働いていた3,642名の朝鮮人についての1936年の一調査によれば,その90パーセント以上が朝鮮にいたときは農民であり,6.4パーセントが商業(おそらく雑多な小商店経営)に従事したものであり,残りは,運送・建築・製革・漁撈・工場労働・事務員・公務員の職種にわたるが,それぞれ1パーセントたらずであつた(9)。出身地についてみると,朝鮮軍政庁作成の不完全な統計によれば,1945年11月,12月の両月,日本から引き揚げた朝鮮人引揚者の約85パーセントは,まず米の主要産地たる朝鮮最南部4道にある目的地に帰つている(10)。1946年3月,引揚のために日本で登録が行なわれたが,その登録人員約65万の朝鮮人中,38度線以北に引き揚げることを希望したものが,わずかに1万名であつたことはさらに注意に値いする事実である。(11)

 不況の農業地帯から他の地域へ移住する移住民は,結局大工業地域へたどりつくということが予想されるが,記録をみるとその予想どおりになつている。在日朝鮮人は「1929年には,全府県に分散していたが,……………その半数以上は大工業都市のある5府県に集中していた。」(12) かれらの落着き先が圧倒的に都会であることは,60万名の現に在日する朝鮮人の地理的分布をみても証明されるところである。60万名の約6分の5は,工業地帯である大阪・兵庫・東京・愛知・福岡の都府県に在住している(13)。

 農民から工業労働者になつた朝鮮人が,日本でできることといえば不熟練な労働しかなかつた。在日朝鮮人の職業別統計は,用語が統一されていないので困るが,それでも,朝鮮人の労働力のおよそ90パーセントが不熟練労働の性質のものであることがわかる。多数の朝鮮人が,鉱山・建築工事・仲仕・土方といつたような仕事に携わつた。一例をあげると,1924年の全就労者の23パーセントにあたる2万520名の朝鮮人は,鉱山労働者であつた(14)。1928年の分類では,就労朝鮮人総数26万5,593名の,91.4パーセントが不熟練労働者であつた(15)。このうち,8パーセントは農業労働者で,残りは主として「雑多な日雇労働」をする工業労働者であつた。1929年に27万1,278名の朝鮮人について行なつた職業別調査では,日雇労働者・炭坑夫が,約50パーセントを占め,工場経営者,上にあげた以外のその他労働者および老幼婦女子が余りの大体6パーセントを占めていた(16)。日本内務省で作られた1936年の統計は,朝鮮人労働者を熟練を要する度合によつて分類することをせず,あたまから,朝鮮人の大部分が公共事業・仲仕・鉱山などに従事する不熟練筋肉労働者であつたとしている(17)。

 朝鮮人労働者が不熟練であり,また1920年代の日本の経済的不況が就労競争をはげしくしたため,朝鮮人は,非常な低賃金で働かねばならなかつた。「1923年ごろまで,日本における〔朝鮮人〕労働者の賃金水準は,日本人労働者と差があつたが,それ以後は,その差がだんだんなくなつた」と記述しているものがある(18)。しかし,この主張は,事実によつて裏書されていないようである。1928年の佐賀県での日本人・朝鮮人の日当を比較すれば,4種の主要な職業(日傭労働者・土方・仲仕・農業労働者)において,朝鮮人労働者は,日本人の賃金の半額より甚だしく少ない額からわずかに多い額におよぶ賃金を受けていた(19)。「外国からやすい労働力を補充すること」を主張した文献もある(20)。しかも,後述するように,日本の労働組合または政党で,朝鮮人労働者・日本人労働者の同一労働・同一賃金を公然主張した事例もまた若干は記録に残つている。

 右にのべたところの在日朝鮮人労働者の二つの特性,すなわち不熟練であり,したがつて低賃金であるということのほかに,なお,朝鮮人労働者について一般的にいえる三つの特性がある。文盲であること。犯罪的傾向がつよいこと,永続性の欠除,すなわち不安定なことである。かれらの出身先や,経済的に下層階級であるという点を考えれば,多くの朝鮮人が文盲であつたということは驚くにあたらない。1910年に,朝鮮において小学校・中学校に就学した子供は,わずかに,2万1,000名にすぎなかつた。その親たちはそれよりもめぐまれていなかつた。1930年には,この数字は50万近くにまではね上がつたが,1939年においてさえ,朝鮮の子供は3名のうち1名だけが学校に通つている有様であつた(21),在日朝鮮人についての統計は,非常に断片的なものであるが,1922年の在大阪朝鮮人1万8,000名についての調査では,その53.9%が文盲となつている。ただ2,900名だけが日本語を話すことができ,あとはやや日本語を解するか,または全然解しないものであつた(22)。

 在日朝鮮人間の一般犯罪率は高かつたようである。普通には貧困と無知が犯罪の原因であるが,ここではさらに朝鮮人が日本の法律に対してまことに無頓着であつたことをあげねばならない。朝鮮人の文化的伝統からいうと,個人の法律に対する関係は主観的なものであり,このことが朝鮮人の頭にたたき込まれていた。それに,近くは,朝鮮の併合と1919年のような朝鮮人の突発的暴動に対する残酷な鎮圧が行なわれたので,わずかに日本の法律がもつていた道徳的制裁力も必然的に失なわれてしまつたのである。「ジャパン・クロニクル」のような控え目の新聞でも,それをくつてみれば,朝鮮人の犯罪行為がたびたび報道されているのに驚かされる。日本人側にいわせれば,「無事入国を許されながら,まつたく仕事につこうとせずに,国内に流浪し,いろいろな犯罪をおかす朝鮮人労働者が多数いる」という不満がある(23)。 在日朝鮮人の他のもう一つの特性は,その人口が大規模に更新されることであつた。一般的にいつで,ある年の移民が短期間だけ滞在して他のより大きな集団と入れ代わるとすれば,同化という根本問題はそれだけ非常に困難となろう。都合のわるいことに,どの年でもよいが,日本に入つた朝鮮人のうちでどれほどのものが,多少とも定住しようとしたか,またどれだけのものが単なる一時的滞在者であつたかを調査する資料がない。しかし,現存する統計だけによつても在日朝鮮人の人口が流動的なものであつたことがわかる。1917年から1932年までの間,16万6,000名ほどの朝鮮人が日本に入つたが,ただ一つの例外を除いて,朝鮮に帰つたものより日本に入国したものが多く,その歩どまりは最低1920年の6,500名から最高1929年の5万5,000名となつている(24)。他の資料によれば「1917年から1929年の間に118万6,310名の朝鮮人が日本に入国したが,84万7,777名が朝鮮に帰つた。その大部分はどちらも労働者であつた」とある(25)。

 1931年から1937年までの間の朝鮮人の日本流入は,それより以前の移住とは異なる特徴を若干示している。第1に注意すべきことは,日華事変遂行の軍備のために,日本では労働力の需要が増大しているにもかかわらず,1930年に41万9,000名であつた在日朝鮮人が,1936年末に66万名となつていて,その増加率が低下しているという,一見矛盾した現象である(26)。これには,つぎの三つの理由がある。(1)日本には,たよるべき日本自体の担当数の過剰農民があつたこと。(2)朝鮮自体の工業化によつて,過剰朝鮮人のいく分かを吸収したこと。(3)1930年代のはじめ,朝鮮人が満州に入植をはじめ,それが制限される1936年まで,10万以上の朝鮮人が年々満州に入るようになつたこと(27)。第2に朝鮮の工業化が進むにつれて,大した数ではないが,朝鮮人の熟練労働者が出現しはじめた。同様にまた,朝鮮における日本の施政のおかげで,その後の朝鮮人移住者は,文盲でないものがふえ,日本語と日本式教養をよりよく身につけるようになつた。しかしながらかれらの出身地別および出身職業別,日本での職種・賃金などの点については,1931年から1937年までの朝鮮人移住者,それ以前の移住者とちがわなかつたようである。

注(4)Ishii Ryoichi : Population Pressure and Economic Life in Japan, London, 1937年,207頁。

(5)Harada Shuichi : Labour Conditions in Japan, New York, 1928年,103頁。

(6)Schumpeter, Allen, Gordon and Penrose : Industrialization of Japan and Manchukuo, New York, 1940年,70頁。

(7)Andrew J. Grajdanzey : "Korea under changing Orders", Far Eastern Survey, 1939年12月20日,293頁。

(8)Ishii 前掲書,207頁。

(9)神戸市社会課報告(高橋 前掲書,455頁に引用)。

(10)USAMGIK : Repatriation(1945年9月25日~12月31日)朝鮮,ソウル,1946年,72頁~78頁。

(11)この数字は,政治的その他の事情に対する考慮から,いくらか少なくしてあるかもしれない。しかし,登録が行なわれたのは,戦後の比較的早い時期であり,また北朝鮮へ引き揚げてからでも,南朝鮮へたやすく転入できた点などからみて,この数字は,当時の在日朝鮮人中,38度線以北の北朝鮮に住んだことのあるものの数をかなり正碓に伝えているものとみる方が正しかろう。

(12)Ishii 前掲書,207頁。

(13)在日朝鮮人連盟の極東委員会への陳情書,1948年6月15日。

(14)Harada 前掲書,103頁~104頁。

(15)付録第1表をみよ。

(16)Ishii 前掲書,207頁。

(17)付録第2表をみよ。

(18)Ishii 前掲書,208頁。

(19)福岡地方職業紹介事務局「福岡地方における朝鮮人の労働状況」(高橋 前掲書,457頁に引用)。 

(20)Harada 前掲書,105~106頁,Upton close : Challenge Behind the Face of Japan, 1934年,344頁,John R, Embree : The  Japanese Nation, New York, 1945年,245頁~246頁。

(21)Grajdanzev : Modern Korea, New York, 1944年,261頁~262頁。

(22)Harada 前掲書,103頁~104頁。

(23)高橋 前掲書,448頁。

(24)同上書,449頁。

(25)「大阪毎日」1931年2月2日記事,(international Labour Office : Industrial Labour in Japan, Geneva, 1933年,314頁に引用)。

(26)在日朝鮮人連盟,陳情書,1948年6月15日。

(27)Kurt Bloch : "Japan Shifts her Populations" Asia, 1939年12月,680頁。

 

朝鮮人少数民族中のその他の要素

 小自作農出身の一般労働者が朝鮮人移住者の主流をなしていたが,そのほかに,少数ではあるが,重要な意義をもつ集団がいた。そのうちでとくに三つの集団をあげれば,実業家・学生および「知識階級」である。

 朝鮮人実業家の大部分は,多くの朝鮮人が在住しているから成り立つたもののようである。そのほとんどが小規模の小売商人またはきわめて小さい事業家であつた。1936年には,5,000名をわずかにこえる実業家がいたが,「旅館・料理店の経営者およびその従業員」という部類のものである。おもうに,かれらの多くは,住居と営業所を兼ねたささやかな建物をもつていることを特徴とする,いわゆる東洋型のものであつた。実業界でかなり重要な地位をしめた朝鮮人も,少数いたことはいたが,かれらは日本人の事業と緊密に結びついていたものであり,またそうせざるを得なかつたであろう。戦後の調査資料を基にして遡つて推定すると,当時,ゴム製品・繊維工業界などに朝鮮人の有力実業家が点在していたようにも思われる。全体としてみるとき,朝鮮人社会におけるこれら企業家の存在はみのがせない重要性をもつていたが,それはかれらが比較的に安定した構成分子からなつており,したがつて,戦後の日本において,朝鮮人の経済地盤を拡大するための出発点となりえたからである。

 朝鮮人学生は,すでに朝鮮の正式併合の前から,相当数のものが日本に来航しはじめていたが,かれらの来航が著しく増大したのは,第1次世界大戦後のことである。1920年当時1,000名以上の大学程度の朝鮮人学生が,日本にいたが(28),それから数年のうちに,その数は約3,000名に増加した(29)。なお,その後も増加をつづけて,1937年には,8,000名ちかくに達した(30)。高等程度の学校教育を終え,さらに営業をつづけようと希望する朝鮮青年の数は,増加するにかかわらず,この青年たちを受けいれることのできる高度の教育施設が朝鮮にはなかつたのである。さらに,1919年の朝鮮独立運励が不成功に終つてからは,とくに朝鮮人は高等教育の必要を痛感したようである。同時に朝鮮総督は,日本統治によく協力する朝鮮人の子弟をおもな対象として,かれらが日本で教育をうける機会を与える計画をたてた。したがつて,在日朝鮮学生中には,自活しながら教育をうけたものと,朝鮮から仕送りをうけたものとの二つのグループがあり,明らかに区別されていた。学業を終えると,後者の方は一般に朝鮮に帰つて公職につくか,または,ゆたかな家族の関係事業に従事したようである。

 他方,まずしいグループの学生は,日本に留まることが多く,朝鮮人知識階級の仲間に加わつた。これらの人たち,専心,社会科学・文学・芸術に没入する,どちらかといえば,ボヘミアン的集団であつた。こういう種類の生活を朝鮮でやろうとしても,朝鮮人としてのかれらには,望めないものであつたから,かれらは勉学を通じて教養を身につけ,1920年代の日本において,かれらの創作意欲の吐け口をいくらかでも見つけることができたのである。

 当時,日本の大学生活の内外に見られた自由で知的な昂奮にかられて,朝鮮人の学生や知識階級たちが朝鮮人プロレタリア運動の有力な急先鋒となるにいたつた。ヨ-ロッパにおける戦後処理の特質と最近の朝鮮自体の劇的な独立企図は,政治的にも,文化的にも,これら教育ある朝鮮人たちの民族主主義的熱望をかりたてた。しかし,民族主義者であることは,また革命主義者であることを意味した。なぜならば,非暴力手段をもつて朝鮮独立の目的を達することは問題になり得なかつたからである。したがつて,かれらが政治

的には朝鮮人の中のより過激な分子の考え方に接近し,また,朝鮮の日本からの解放というかれらの理想に対し,日本人中ただひとり全幅の同情を寄せる日本共産党の教義に近づいたのは避くべからざることであつた。

注(28)Japan Year Book, 1921年~1922年,東京,586頁。

(29)Kim San : Song of Ariran, New York,  1941年,36頁。

(30)朝鮮人連盟,陳情書,1948年6月15日。

 

朝鮮人の移住が日本人に与えた衝撃

 ここにのべた期間の大体を通じて,朝鮮人が母国を去るようになつたほとんど唯一の原因は,経済的不況であり,やすい労賃でよければ,日本にはかれらを受け入れる労働市場があつたので,朝鮮人が新らしい環境に与えた直接の衝撃は,何よりもまず経済的なものであつた。この衝撃は,おもに朝鮮人と経済的競争をしなければならない日本人,すなわち下層労働者階級の蒙むつたものである。

 朝鮮人労働者が大規模に流入してきたことは,日本人,とくに日雇労働者の賃金水準低下に重要な影響を与えた。日本人経済学者,高橋亀吉教授は,つぎのように書いている。朝鮮人労働者は「日雇労働市場の日本人労働者にとつて代り,…………またさほどの熟練を要しない。むしろ体力を必要とする労働の全分野で,日本人労働者の有力な競走者となり,後者の労働諸条件は前者の水準にまで低下せしめられるにいたつた」と(31)。こういうようになつていつたことについて,従来三つの理由があげられた。第1に朝鮮人の生活水準はひくいので,低賃金で働らきえたこと。第2にかれらは農民出身で非常に健康にめぐまれた体躯の持主であつたので,体力を必要とする仕事に非常に適していたこと。最後に,かれら朝鮮人は,不熟練労働者さえ嫌がる劣悪な生活諸条件に「生れつき」順応性があつたことである。

 1936年の神戸市の厚生関係官の手になる調査はきわめて不備なものであるが(この問題についての総合的研究がされていなかった。)それにもとづいて高橋教授は,神戸地域在住朝鮮人の50パーセントが16才ないし45才(もつとも元気旺盛な労働年令)であり,50才以上はわずか5パーセントであるとのべた(32)。さらに1万6,000名以上におよぶ右の神戸在住朝鮮人の98.5パーセントは,非常な健康体であつたとのことである。要約すれば,朝鮮人には適応性があるということになつた。すなわち,かれらは「豚小舎を思わせる住居に住み,粗食に甘んじ,ぼろをまとい,みじめな低水準の暮しをしている。かように,労働条件がどんなに悪くとも,この最下層民はそれに堪え得られる」(33)。

 さらに世の注目をひいたのは,在日朝鮮人はものすごく自然増加率が高いという主張であつた。まとまつた調査によつたものではないが,朝鮮人人口の40パーセント以上は15才以下の子供であることがわかつた。また,1930年の国勢調査では,帰還と流入の差引きから算出した在日朝鮮人数よりも,約9万名だけ在日朝鮮人が多いという結果になつたが,この事実から,朝鮮人の出生率が異常に高いという推定が行なわれた。しかし,これらの調査は,大都市区城で行なわれたものである。したがつて,人口も比較的に稠密でない地方の炭坑やその他で仕事をしていて,日本に家族のない,かなり多くの朝鮮人男子労働者には現われていなかつた。さらにまた,いかがわしい,やみのルートから多数の朝鮮人が日本に入つたことも考えられるが,これは表面の数字には出てこない。それにしても子供が朝鮮人社会でかなり大きな割合をしめしていることは,疑いをいれないし(1948年の朝鮮人少数民族の37パーセントは18才以下の子供であつた)したがつて,朝鮮人の出生率が日本人より高いことは事実である(34)。

 朝鮮人移住者は,低貸金で働らくことができたので,日本人失業者の増加を招いただけでなく,失業救済事業の面でも日本人失業者と競争することになつた。大都市の冬期の失業者救済計画で,雇傭された労働者の大半が朝鮮人であつた物音が少なくなかつた。1925年にこの計画で就業したものの12パーセントが朝鮮人であつたのに,1928年には54パーセントをしめた。

 1929年には42パーセントに落ちたが,これは朝鮮人の総数が減少したから

でなく,むしろ,かような日本人就業者数が増大したためであつた(35)。公共事業計画に雇傭されようとして,かなりの朝鮮労働者が年々朝鮮から日本の大都市に移住してきたので,この情勢は一層悪くなつていつた(36)。

 日本の新聞は,朝鮮人の労働者が日本人労働者に与える影響について,たびたび論評を加えた。そのなかで,一方で朝鮮人労働者の素朴な性質を誇張しながら,また一方で,朝鮮人に対する日本人の敵意を醸成しているが,そのやり方は,引用に価しよう。すなわち大阪の一新聞の社説に「………〔日本人〕労働者が大挙して職や食を求めて役所におしかけるのは不穏である。何万という朝鮮人労働者が現在日本にいるが,かれらはこのような不都合なことをしない。かれらは低賃金で懸命に働く。もし日本人労働者が朝鮮人のように低賃金でよく働くならば,仕事は常にあるだろう。『働かざるものは食うべからず』といいながら低貸金で働くことをいさぎよしとしない日本人労働者の態度は矛盾している」とのべている(37)。

 日本にいる朝鮮人は,アメリカの工業地域における最近の移民にまつたくよく似た立場にあるから,かれらが日本人労働者の憤慨の的となり,生活程度・道徳がひくく,腹ぐろい信用のおけない「きたない外国人」と目されるのは至極当然である。不幸にして,実際にこの結論を一見裏付けるものがあり,日本の世論もこれに賛同した。無学文盲で経済的にはあぶれもののかれらが,その風采と態度をもつてしては,かれらになげつけられる侮蔑的なレッテルをはねかえすことは,あまりにも困難なことである。なおまた,言語が不自由な場合には,日本人の中にはいり込んできた朝鮮人の外国人的性格は実際以下に評価されざるを得なかつた。それに,日本政府もときおり朝鮮人の革命的または暴徒的活動を誇大に吹聴して,反朝鮮人的感情に特別の刺戟を与えた。

 朝鮮人に対する日本人の敵意のもう一つの原因は,一国の機構内におけるかれらの変則的地位から生じた。日本人・朝鮮人が共通して熱望するものはほとんどなかつたし,二つのひどく異なつた価値体系がそれの生活を支配した。朝鮮人は,日本人が普通にもつている歴史的・文化的伝統を欠いていた。また,かれらは,日本における官憲万能政治の主柱となつているあの強力な内的または心理的強制力の虜ともなつていなかつた。もちろん,朝鮮にも国家主義はあつたが,それは,すでに朝鮮の独立運動を粉砕した日本の国家主義とは直接かつ,するどく対立するものであつた。日本の国籍をもつことから起こる責務は,日本人にとつては重要な意味のあることであつたが,一般の朝鮮人はこれに重みを感じなかつた。かれらは,いやいやながらこれに応ずるという表面的な反応を示したに過ぎなかつた。

 往々にして怨恨の余波が暴力と流血沙汰になつて燃えあがつた。とくに著しい例は,1923年の地露の際に起こつた。そのとき,数千名の朝鮮人が狼狽した日本人に虐殺された。地震中のできごとについては,まちまちの説明があつて,どれもこれこそは真相だと主張している。しかし,日本人の政治的分子が大衆の昂奮・混乱に乗じて,地震の直後に民族的憎悪をあおるに成功したことは確かなようである。東京の朝鮮人が略奪・放火を行ない,水道に毒物を混入したなどの風説がひろがつた。東京の警視総監は,この朝鮮人を抑圧するため「あらゆる必要な手段をとるよう」国民に要望した。日本愛国青年団は街を巡回し,朝鮮人らしいものはかたつぱしから捕え,かれら自身の手で何百人かの朝鮮人を殺し,他人にも負けずにやれとすすめた。暴民の群は朝鮮人居住地区をおそつた。東京では,保護するという名目で数百名の朝鮮人が兵営内に連れ込まれ,そこで斬殺された。政府の役人自身が朝鮮人の暴行を放送し(後には公式にこれを否定したが),虐殺を鼓舞した。暴動は朝鮮人の集中していた大阪・名古屋などの都市にも波及した。ついに政府がのり出し,軍隊が出動してこの血の洗礼は終わりを告げたが,その後,政府は,事実の隠蔽に最善をつくし,また,日本の裁判所は結局これらの殺害者を不問に付した。そして,遺族側の請求権は一切とりあげられなかつた(39)。

注(31)Miriam S. Farley : "Korean Labor in Japan Depresses Wage Level", Far Eastern Survey, 1937年6月23日,151頁。

(32)高橋 前掲書,455頁。

(33)同上書,453頁。

(34)Irene B. Taeuber, "The Population Potential of Post-War Korea," Far Eastern Quarterly, 1946年5月号,302頁など。

(35)高橋 前掲書。

(36)O. Akiyama : "The Unemployment Problem and Chosenese Workers", Social Reform, 1929年12月, 120頁(Ishii 前掲書,208頁に引用)。

(37)大阪時事(Japan Chronicle, Kobe, 1925年1月22日,91頁に引用)。

(38)E. Herbert Norman : "Mass Hysteria in Japan", Far Eastern Survey, 1945年3月28日,69~70頁。Robert T. Oliver : Korea' Forgotten Nation, Washington, 1944年,91頁~92頁。Japan Chronicle, 1925年2月5日,16頁。

 

朝鮮人の不満を招いた諸要因

 朝鮮人が日本におけるかれらの運命の不遇をかこつには,十分な理由があるというので,かれら朝鮮人の一般的な経済上の苦境や,日本人がかれらに示す敵意についての発言は実に多く行なわれてきた。しかし,朝鮮人少数民族の堕落・不満に加えて,問題を悪化せしめた他の要因にあつた。そのおもなものは,朝鮮人子弟に対する教育上の機会についての問題,住宅設備,貯蓄の朝鮮向け送金の問題である。

 いろいろの事情のため,在日朝鮮人の子弟のほとんどが,最小限度の学校教育さえ受けなかつた。朝鮮人子弟も,日本人同様に,授業料免除の初等義務教育を受けることになつていたが,この規定を朝鮮人に適用する措置がほとんど採られなかつた。就学期がきても,児童の家庭が極貧のため,学校に行けないことが往々にしてあつた。登校したものは日本人の学校から子供なりの虐待と軽侮をうけた。朝鮮人の両親の立場にとつてさらに重要なことは,受ける教育が精神を型にはめ,朝鮮人児童の民族意識を弱めるような日本的教育であつたことである。1936年の日本政府の一調査は,朝鮮人の小学校就学児童が5万1,000名,すなわち就学適令児童総数の60%と記録しており,そのうちのごく少数が中学および上級学校に進学した(39)。朝鮮人はこれを朝鮮本国の事情と対照することができた。朝鮮においては,就学適令の日本人少年少女はほとんどもれなく小学校に在学し,また,高等学校入学適令者の約半数が高等学校に在学していたのである(40)。

 在日朝鮮人は,アメリカにおける黒人に非常によく似ており,明らかな法律上の強制があつたわけではないが,日本諸都市の貧民地区に貧弱な住居を定める傾向があつた。かれらの低い経済的地位がそうさせたのであるが,また貧窮下にある少数民族の群にしばしばみられる集団本能も,これに作用したのであろう。ときには,朝鮮人はトタン板の端切れで粗末な仮小屋をたて雨露をしのぐ宿とした。また,鉄道暗渠に仮の宿をする朝鮮人労働者もいた。ときには,朝鮮人が借料を払つているにもかかわらず,それを追い立てようとして,夜間に無頼漢をさしむける日本人地主もあつた。また,国会における議員の質問報告の中にも,朝鮮人住居の不完全を衝いたものがしばしばある。

 貯えた金を朝鮮に送る問題は,家族をのこして来たものにとつては重大問題であつた。朝鮮人少数民族の恐らく約25%(1936年で約16万5,000名)(41)が,この問題に当面した。統計資料を欠いているが,在日朝鮮人に与えられた唯一の天恵といえば,かれらの提供するやすい労働力であつたので,その賃金水準をできるだけひくくしておこうとしてあらゆる機会が利用されたことは推測できる。朝鮮人に対する給与が低率であるのに加え,そのほか実際の手取り額をへらす昔ながらの術策がとられた。たとえば,強制保険料が差しひかれ,非能率・浪費をあることないこと取りあげて,これに罰金を課した。さらにまた,日本へ来る交通費や日本における仕事先を確保するため,多くの朝鮮人が高い手数料をとりこむ,いわゆる労働ブローカーに債務を負うていた。これらの失費のため,家庭に送金し得る朝鮮人一人一人の収入残金は少なくなつた。1937年の日華事変後,契約に基づいて多数の朝鮮人労働者が移入されはじめたとき,こうした種類の慣行が,朝鮮人の間でさらに

大きな不満の種となつた。

注(39)朝鮮人連盟,陳情書。1948年6月15日。

(40)Grajdanzev : Modern Korea, 262頁。

(41)戦後の資料から推測。

 

日本政府の役割

 1931年までの在日朝鮮人少数民族に対する日本政府の態度は,不断に動揺していた。広い意味で,これは,日本国内における偏狭な国家主義者と,より自由主義的な勢力との間の政権争奪闘争の反映であつた。積極的な面についていえば,政府は朝鮮人の労働ならびに生活の諸条件を改善すべく,はかない努力をしたし,また,一時は朝鮮人労働者の日本への流入の規制措置をとつたが,その実施はうまくいかなかつた。他方,朝鮮人の法律上の地位は依然としてひくかつた。朝鮮人労働者がかれらの利害のために団結しようとする試みは,政治的あるいは民族主義的な試みと同じく,全般的に抑圧された。真の代表的組織のかわりとして,日本政府は,世間に向かつて非常に高尚な主義を掲げながら,事実は朝鮮人を抑制する警察取締の一機関である追従的・半官的団体を助成した。

 1931年以後,朝鮮人少数民族問題に対する政府の政策は,継続的な朝鮮人の移住に,実質的な利害をもつ日本の有力分子,すなわち軍国主義者およびその支持者によつて形づくられるようになつた。かれらの目的は,在日朝鮮人を日本の戦時機構の要求に従属させ,軍事的冒険を成就するために利用しようとするにあつた。日本政府の政策は公式には「朝鮮人を日本人の水準にひきあげ」かつ,「内地人・半島人間によりよい理解と調和を招来する」 ことを目的としていた。こうして,在日朝鮮人は,実現されない平等を約束された。ついに,朝鮮人は単なる一商品となりさがり,その利用はもつぱら特定の「統制団体」によつて行なわれるようになつた。

 法理論からは,在日朝鮮人は,日本人とほとんど完全に同等な取り扱いをうけたものであるが,実際には非常にひくい地位を占めていた。日本は朝鮮人に対する法の適用で非常なジレンマに直面した。日本は,アジアにおける対等国間の盟主とみずから公言し,また,日本帝国にぞくする全民族が完全な共同体であると宣言した手前,少なくとも表面的には,日本人と在日朝鮮人間に法的差別のないことが必要であつた。しかも,朝鮮人に完全平等の地位を許せば,異端者であり,もつとも非協力的な分子を強化するという危険があつた。さらに,在日朝鮮人に日本市民の全特権が許与されるとすれば,政府は朝鮮にいる朝鮮人がなぜ同様な取り扱いを受けないかの理由を説明するに苦しむ結果になる。他方,もし在日朝鮮人が日本人より非常に劣つた地位におかれるとすれば,公的に発表した仰々しい言葉が各地の朝鮮人やその他の人々に空疎なものと聞えることになる。朝鮮人の法的地位決定には,朝鮮人移民に対する日本人大衆の反応も考慮することが必要であつた。

 日本政府が漸進的に作りあげた解決は,朝鮮人を平等に処遇することを公的に確認すること,日本人市民のもつ若干の特権は許与すること,しかも完全な市民権の付与は注意深く回避することがあつた。1919年の朝鮮人の独立運動の直接の成果として,朝鮮人・日本人の平等を宜言する詔勅が発せられたが,この譲歩も事実上の意味はほとんどなかつた。1925年の成年男子普通選挙法の通過後,在日朝鮮人は日本の選挙で投票することができるようになつたが,(朝鮮にいる朝鮮人はできなかつた)その選挙法のせまい適用範囲からみて,多数の朝鮮人に投票権があつたかどうかは疑問である。また,生活救護または他の類似の政府扶助を受けるものは選挙権がなく,有権者は1年以上一定の所に住んでいなくてはならないという二つの制限規定があり,これがとくに朝鮮人にとつて打撃であつた。それに,朝鮮人・日本人とも婦人は投票できなかつた。しかし,1名またはそれ以上の朝鮮人が数度国会議員に選ばれ,一朝鮮人が貴族院議員に勅任された証拠がある(42)。

 しかしながら,これらの朝鮮人は,結婚または養子緑組により日本の市民権を正式に得ていたかそうでなければ,日本市民になりすましていたものである。あとで明らかにするが,1930年代中期以後のある時期には,朝鮮人

は公式に,または実際上,日本の選挙権を完全に奪われた。さらに,朝鮮人は,ながい問,日本市民の最高級の特権,すなわち武器を所持する特権をもたなかつた。最後に,朝鮮人は戸籍を日本に移すことを禁ぜられていた。このことは民法上・商法上のある種の権利の喪失を意味した。そこで,根本的に,在日朝鮮人とは,朝鮮にいる朝鮮人の水準と一般日本人の水準との中間のどこかに法的地位をもつ日本国民であつたということができる。

 公的地位は別として,朝鮮人は日本に入国した場合,法律上の利益と損失の双方を経験した。朝鮮・日本それぞれの民法・刑法・商法は根本的には同じものであつたが,日本の法律のもとでは,朝鮮人の地位は一般に朝鮮におけるより有利であつた。たとえば,日本では行政命令違反に対する処罰は朝鮮におけるほど厳重でなかつた。朝鮮では法令は多少とも住民を威圧する意図を反映したものだつた。もう一つ大事なことは,日本では,法律的事件を略式の警察処分で扱う例が朝鮮よりも稀であつたことである。それとは反対に,朝鮮では,法令について慣習による若干の特令がみとめられたが,日本ではもちろんそういうことはなかつた。さらに,朝鮮人は,朝鮮では朝鮮人判事による裁判を受けることができたが,これは日本ではあり得ないことだつた。在日朝鮮人に対する法律の実際的な運用は,さらに重要なことであつた。朝鮮人だけを切り離して,差別的取り扱いをするようにという立法も公の発表も表面上はなかつたし,またありえようはずもなかつた。しかしながら,選択的に法律を実施するという形で。法的な差別はしばしばみられた。戦前の日本のような国では,なすべし,なすぺからず集の実施について,ひろい裁量権が法の実施機関に与えられていたので,犠牲者をえらび出し,刑罰も犠牲者次第で変えることは,たやすいことであつた。

 日本政府の第一の関心事は,政治的・団体的活動をする朝鮮人の動きに向けられていた。一般に,朝鮮人は,自分の国を永久に日本に屈従させる気にもなつていなかつたし,甘んじてもいなかつた。そのために,大小の事件がたえず起き,日本当局には相当に驚愕の種であった。朝鮮人学生・知識階級が,朝鮮独立を推進する目的で左翼の政治的教義を抱懐するという傾向は,すでにいちじるしかつたが,これがため,かれらを取り締まるという,とくに難かしい問題が生じていた。さらにまた,朝鮮人労働者の組織化とかれらの煽動による罷業の可能性が不断の危険をはらんでいた。これらの点で,朝鮮人問題は,潜在する日本人破壊活動分子がひきおこす問題とほとんど異なるところはなかつたし,またそれに対する取り扱いぶりも本質的には同一であつた。選択的に法律を実施すること,つまり,その極端なものとして警察のテロが用いられ,また朝鮮人御用団体の設立も行なわれた。それに加えて,朝鮮人の日本入国を制限する措置も進められた。

 この当時,日本共産党が,朝鮮人労働者を組織し,朝鮮人の学生・知識階級をかれらの戦列に加えようととくに意図した証拠はないが,抑圧下にある在日朝鮮人少数民族というグループを当然に自分の同盟者にすることができたであろうことは間違いない。ともあれ,その多くは以前,在日学生であつた国外の朝鮮人共産主義者・革命家の団体が,在日朝鮮人の動向を注視していた兆候はある(43)。1936年に,中国にいた一朝鮮人共産主義者が日本にいる30万以上の労働者は共産主義者の指導下にあり,かつ「…………在日朝鮮人労働者総同盟は10万以上のよく組織された組合員を擁し,…………かれらは日本人共産主義者と完全に協力していくであろう…………」と公言した。これは誇大であるが,しかし意味ぶかい発言であつた(44)。朝鮮民族戦線行動要綱(1936年7月起草)中には,つぎの勧告が含まれていた。すなわち,「在日全朝鮮人労働者・学生・商人は一致団結し,日本人の反ファシスト人民戦線に積極的に参加するとともに,故国の民族戦線と緊密に結合しなければならない」(45)。朝鮮人間の「危険思想分子」が跡を絶たなかつたことは,日本の新聞報道が証明している。その報道によると,東京だけでもほとんど学生からなる約2,000名の危険思想分子がいたことになる(46)。1923年に今上天皇を爆弾で暗殺しようとした未遂事件は,もつとも世の視聴をひいた在日朝鮮人の関係した反日事件の一つであつたが,そのほかにも,舌禍からはじまつて帝国議会爆破計画におよぶ「陰謀」が企てられた。

 朝鮮人労働者を組繊化しようとする努力が少しは行なわれたが,これら

は,いずれも妨害や直接の弾圧にあつた。そうして組織された組合は,予期どおり,日本人労働運動の左翼系と同じ立場をとつた。これは朝鮮人の一般的な政治信条に一致し,またそれは,かれらが日本人大衆に不人気なので,日本人左翼派とだけ提携できた事実を雄弁に物語つている。しかし,結局,朝鮮人労働組合は,日本の他の自由主義的で,進歩的な諸勢力と運命をともにし,日本政府により完全に抑圧または壊滅された。

 しかしながら,朝鮮人団体で抑圧されないものがあつた。それは日鮮「融和」の促進を目的とするものであつた。1921年に設けられた相愛会がそうした団体の最初のものであり,朝鮮において日本側に全面的に協力した朝鮮人により設立された。またかれらは,日本の役人の命令で,日本でこの計画に着手し,日本および在朝鮮の朝鮮銀行から資金の援助を受けた。相愛会の全役員は朝鮮人であつたが,顧問として,日本人名士,とくに軍の大立物,朝鮮総督府の役人らが名をつらねていた。相愛会は朝鮮人の雇傭と朝鮮への帰還旅行証明書の発給に関連する事柄に対して相当な管理権を行使していただけに,それに加入することは事実上強制的であつた。それは非公式ながら日本警察と緊密な連絡をもち,また,朝鮮人の同盟罷業のぶちこわし,朝鮮人労働組合活動についての情報提供に活躍したといわれている。つまり,相愛会の公表した目的は,「朝鮮人を日本人の地位にたかめ」,朝鮮人・日本人間の兄弟感・互敬感を育成するにあつたが,実際には,おもに取締り機関としてはたらき,圧制方式により日本化計画を遂行せんと試みたのである(47)。

 相愛会のほかにも,類似の目的をもつた他の団体が日本に出現した。朝鮮人少数民族の数が増大するにつれて,日本政府は,「融和」と「指導」に一層努力する必要を認めたが,依然として,その仕事は私的団体にやらせるのが最善であると考えた。その結果,進んで朝鮮人問題に一役買おうとする団体には,財政援助が与えられた。1930年代初期に,「朝鮮人移住者の同化を助成し,かれらに健全な思想を注入するため」,内務省社会局の予算に5万円が計上され(48),その後,毎年,割当は増額された。しかし多くの団体が現われ,しかもその全部がこの資金の分け前を要求したため,目的ほとんど達せられなかつた。

 しかしながら,大阪府に一つ,神奈川県(横浜)に一つ,ともに「内鮮協和会」と呼ばれた団体は,府県庁と密接な連携をもつて非常な成功をおさめたため,それを全国各地に設立することにきまつた。これは1936年に行なわれたが,その際,中央協和会が日本政府の半官的機関として,内務省(のちに厚生省)管轄の下に設置され,日本各府県に地方支所・出張所をもつことになつた。協和会についての詳しい論述は,むしろ戦時下日本の問題なので,ここでは内務省警保局長・厚生省社会局長連名の説明書抜萃を付記するにとどめる。この文書は,協和会の三原則をつぎのように略述した。

(1) 全国的基礎にたつて,日鮮の融和を促進する。

(2) 朝鮮人に関係するすべての活動を緊密に総合する。

(3) 誠意と忍耐をもつて朝鮮人の早急日本化を実現する(49)。

 朝鮮人少数民族統制のためのもう一つの代替策として,移住の制限が行なわれた。移住制限策は1920年代にかなり大問題となり注意をひいた。1922年の統制緩和の結果,日本に流入する朝鮮人労働者が依然としてへらなかつたからである。日本の新聞はとくに制限を主張し,かつ,中国人移民による日本労働市場に対する脅威も,この制限方策によつて除くことができた事実を指摘した。給与・処遇の平等が問題解決策であると主張していた組織労働者側から,この移住制限論に対する反対意見がほとんど出なかつたのは興味深いことであつた(50)。しかしながら,もし移住制限が行なわれれば,日本の労働運動は非常に強化され,また,朝鮮人の日本産業に対する主要な価値,すなわち極度にやすい労賃という利点が失なわれることになつたであろう。結果として朝鮮人労働者の移入について行なわれたことといえば,平等な処遇を与えることでなく,むしろ移住制限をすることであつた。それは1925年10月に具体化した(51)。

 1925年に実施された移住制限は,範囲・効果のいずれにおいても小規模であつた。五つの基準を設け,つぎのものだけが日本への入国を許された。

(1)信用ある被傭者たりうるもの。

(2)渡航費その他の必要な経費を支払つた後,なお60円を所持するもの。

(3)モルヒネ常用者でないもの。

(4)ブローカー(埠頭での見せ金などを貸したり,証明書を供給する)に債務を負わないもの。

(5)出身地の警察署長から釜山港事務所長あての許可書を有するもの(許可書付与のことは,事前に釜山港事務所に報告されねばならない)。(訳者注,これは釜山港事務所長ではなく釜山水上署長である)(52)。

 これらの禁止条件があるにかかわらず,1927年には8万3,477名の朝鮮人が朝鮮海峡の渡航を防止されたが,なお,24万6,809名は渡航に成功した(58)。すでにのべたように在日朝鮮人人口は1925年以降急速に増加した。これは明らかに移住制限規定が非常に厳格には実施されなかつたことを意味している。

 移住制限規定は,終戦近くまで少なくとも名目上は存続していたようであるが,ほとんど問題にされなかつたこともまた明らかである。もちろん,何人も職を得られるようになつた1931年以後は,日本人側から制限実施を求める理由は少なくなつた。なお,朝鮮人の移住制限は,日本政府が主として一層能率的な安定性ある朝鮮人労働者の移住を確保するため計画したものと,結論してもよいように思う。故意によるにしろ,偶然によるにしろ,このような計画は,戦時下の在日朝鮮人の役割と密接な関係をもつことになつた。

注(42)Ishii 前掲書208頁。水野錬太郎 "From Korea to Chosen" Contemporary Japan, 1933年9月,217頁。China Weekly Review, 上海1937年6月5日,20頁。

(43)今日の多くの朝鮮人共産主義指導者らは,日本で教育をうけ中国で革命的経験をつんだ。

(44)Kim San 前掲書,198頁。

(45)同上書,230頁。 

(46)都新聞記事(Japan Chronicle, 1925年4月2日,525頁に引用) Japan Chronicle には次のように付記している。「その2,000名のうち大部分が1,800名の朝鮮人学生から出ているとすれば,学生中で思想的分子の占める率は非常に高いものに違いない」。

(47)金斗鎔「日本におけを(ママ)反朝鮮民族運動史」,東京,1947年,19頁~2頁,"Koreans Demanding End of Persecution in Manchuria!, Trans Pacific, 1927年12月24日,13頁。

(48)Catherine Porter : "Korea and Formosa as Colonies of Japan", Far Eastern Survey, 1926年4月22日,68頁。

(49)金斗鎔 前掲書,29頁~41頁,協和会の創設と機能については,China Weekly Review, 1939年8月19日,378頁~379頁,「東亜新秩序創造の生命力としての内鮮一体」(朝鮮総督陸軍大将南次郎の「文芸春秋」に執筆したものの訳である。)。

(50)Harada 前掲書,105頁。International Labour Office 前掲書,100頁。Andrew Roth : Dilemma in Japan, Boston 1945年,208頁。

(51)International Labour Office 前掲書,313頁。

(52)高橋 前掲書,449頁。

(53)同上書,448頁。

 

 

第3章 戦時下日本における朝鮮人少数民族(1937年~1945年)

 

 1937年から1945年にいたる戦時中に,日本にきた朝鮮人移民は,その性格において従前とは異なるものがあつた。1937年以前には,個人の経済的な必要性が,移民を余儀なくさせた唯一の理由であつた。しかし,戦争が進展するにつれ,この傾向を阻止する動きがあらわれた。それは日本の戦争継続努力にとつて,朝鮮の食糧生産が重要になり,また,朝鮮における工業化の発展が過剰農業人口を朝鮮内で吸収するようになつたからである。他方,日本工業はますます多くの労働者を必要とするようになり,そのために朝鮮人は,日本の鉱山および工場におびきよせられ,そこでむりに働らかされることになつた。しかしながら,結局,朝鮮人だけでは十分でなかつたので,小規模ながら中国人や台湾人もつれて来られ,また少数の連合軍捕虜をも就労させた。

 日華事変の長期化のために,日本経済は,労働力の不足をきたした。これは日本の降伏のときまで終始痛切な問題であつた。日本政府は,この8年間を通じて,ますます経済上の些細なことについても直接に立案し,調整する役割を演じ,労働力の問題についてはいろいろの方法を講じた。その方法の一つとして,巨大な朝鮮人労働力が利用され,日本にすでに在住している朝鮮人だけでなく,多くの朝鮮人が日本産業で働くために契約にもとづいて連れてこられた。約125万名の朝鮮人が産業に追加投入されたので,日本の産業労働力の規摸は約6分の1増加し,総人数に関するかぎりでは,日本産業の要求に合致することができた。

 しかし,かれらの労力に対する需要が増加したにもかかわらず,朝鮮人労働者は,わずかの物質的利益を得たにすぎなかつた。貸金は少しはあげられたが,生活費はそれ以上にぐつとあがつた。そのことは日本人労働者についても一般的にいえることだつた。日本における賃金の上昇割合は,1937年7月から1939年12月の間に平均17%上昇したが,一方,生活費はその間に30.7%増加した(1)。そうしてこの不均衡は,時日の経過とともにますます大きくなつた。さらに戦時の赤字財政は,賃金手取り額を最少限にするよう,あらゆる節約を要求した。朝鮮人労働力の戦時における移入によつて利益をうけたものは,朝鮮にいる朝鮮人労働者だけであつたようだ。朝鮮における日本人雇主は,労働コストがあがつたというので不満であつた,そして,日本で朝鮮人労働者をひろく雇傭したことは,もつぱら,朝鮮の労働市場における朝鮮人労働者の立場を有利にしたことが指摘された(2)。

 しかしながら,なんといつても最大の労働問題は,熟練労働者の不足であり,かつ,その低い労働生産性であつた。これについては,朝鮮人はほとんど助けにならなかつた。朝鮮人は必要な技術をもつていなかつたし,また日本の戦争遂行に真剣な協力を喜ろこんでする考えはなかつた。日本の産業にとつて朝鮮人は重要であつたにもかかわらず,かれらの地位は依然ひくかつた。これは,当然に,過去と現在に受けた不公平な取り扱いを強く意識させ,戦争をかれら自身の平等と自国の独立を勝ちととるための手段とみなすにいたらしめた。戦争木期まで重大事件は起らなかつたけれども,怠業や,デマを流したりする朝鮮人の破壊行動がしばしば起つて,日本当局に「朝鮮人の危機」が存在することを十分に確信せしめた。

 かくして日本政府はふたたび意図するところとは喰い違つた行動を余儀なくされた。というのは,ますます多くの朝鮮人が,日本産業の第一線に召集されるにしたがつて,かれらに対する管理はますますきびしくなつたからである。日本人と朝鮮人の相互反感のため。どちらか一方の士気を犠牲にしなければ,他方の士気を高めることが困難なので,問題は複雑になつた。朝鮮人の不満が戦争行為を妨害することをさけるために懐柔策もとられた。しかしながら,大体の方向としては,日本政府は,戦争前から試験ずみの抑圧政策を拡張し強化した。そのようなやり方は,さしあたり大いにききめがあつたが,しかし,ながい眼でみれば,問題を重大化することになつた。

 戦時の朝鮮人を論ずる上に重要なものとして,労働者の団体とは別に,他の朝鮮人の一団がある。学生・知識階級は,非常に政治的および民族的意識が高いので警察では特別の注意をかれらに払つた。学生だけが,戦争に直接参加する名誉を与えられたようである。1938年の法律にもとづいて,朝鮮のきわめて少数の者が,日本の軍隊に特別志願することを許可されたけれど,ごく一部の例外をのぞいて,在日朝鮮人を軍籍にいれる企てがなされたようにみえない。これは,おそらくかれらを生産戦線で利用する方が役に立つという理由にもとづくものであつたろう。他の朝鮮人―自由職業家・実業家・商人など—は,日本人同様,総動員法の適用を受け,かれらの大部分は疑いなく労働力にふり向けられた。

 戦争末期になつて,はじめて朝鮮人の不満の根本的原因のいくつかを除去することによつて,朝鮮人問題をやわらげようとする方法が審議された。しかし,そうした提案の大部分は議論の域を出なかつたし,また,たとえ,それが法律として公布されても施行されることはなかつたであろう。問題を整理することもたしかに大事なことではあつたが,しかし,解決には時日がかかるし,しかもその時日もなかつた。そして,なによりも虚心担懐に話しあつたり,客観的に考えたりすることが必要であつたが,これが日本人にも朝鮮人にもできうることではなかつた。したがつて,戦争が終わつたとき,朝鮮人問題は解決どころではなく,新しい,一層おそるべき形をとつてあらわれた。

注(1)Miriam S. Farley : "Spurt in Japan's Living Costs Bears Heavily on Labor", Far Eastern Survey, 1940年5月12日,131頁。

(2)Grajdanzev : "Korea Under Changing Orders", 297頁。

 

朝鮮人労働者の利用

 100万人以上にものぼる朝鮮人労働者は,通常,不熟練労働者として日本の軍需産業とその関連産業にやとわれた。しばらくの間,朝鮮人労働者の移住は,自発的な形で続けられた。しかし,戦争の緊迫にともない,徴用制度が施行され,朝鮮人労働者は契約にもとづいて,移入されることになつた。全体からみて,朝鮮人労働者の生産性は劣つていたけれども,人数の上では,日本の要求を満足させたように思われる。

 1936年末に,66万名の朝鮮人が日本にいた。1941年末の報告では日本本土に146万9,000名となつており,そのうち77万7,000名以上が労働者であつた(3)。1936年,1941年の職業別統計によると,朝鮮人鉱夫は9万1,000名で9倍に増加し,土木労働者は,1936年の8万7,000名に対し,1941年には22万1,000名に,また製造工業の労働者は10万名増加した(4),失業者の数は,1941年にはわずかに339名であつた。断片的な統計しかないが,依然として,かなり大きい労働力の移動がつづいていたことがわかる。1939年から1940年までの2年間に入国した朝鮮人は,帰国した数を22万4,000名だけオーバーしているが,この2年間に帰国した朝鮮人も40万名に達している(5)。

 1941年後の統計上の数字は,信用しがたい。1942年から1945年の間に,ざつと52万名の朝鮮人契約労働者が日本本土につれて来られた。これらの人人は炭坑方面に22万6,700名,金属鉱業方面に5万3,600名,土木方面に7万8,500名および工場その他に16万1,500名というように割りふりされた(6)。また,この期間中に,契約にもとづかない労働者,あるいはその他の朝鮮人がどれくらい日本に来たか,またどれだけの朝鮮人が朝鮮に帰つたかは分らないので,終戦時の在日朝鮮人の正確な数をつかむことは不可能である。大体190万から240万と見積られる。後者の数字は,多分,1945年初頭のことと考えられるが,ほぼ朝鮮人少数民族の最高数を現わしており,また前者のひくい数字は1945年8月15日になお日本に残留していた朝鮮人数とかなりよく一致するものとみてよい。

 朝鮮人労働者の補充は,1939年半ばまでは自発的に行なわれたものであつたと思われる。その年の7月に,日本政府は,広範囲の国民登録令を公布したが,それにより日本内地および旧帝国領土にすむ15才から50才までの年

令の男性を,生業別,または職業別に分類することを計画した(1)。この勅令によると,「国民徴用」は,職業紹介所およびその他正規の紹介機関で得られない場合にだけ適用されることになつていた。(訳者注,著者がここで国民登録令 People's Registration Ordinance とよんでいるものは,その叙述内容からみると,国家総動員法の規定に基づく国民職業能力申告令[1939年1月7日公布,1月20日施行,これにより職業能力の申告をせしめる]と国民徴用令(1939年7月8日公布,同15日施行)の両者を混こうしている。)その後につづく3会計年度の各年度について,ある特殊な基幹産業に必要と思われる追加労働力を日本はどれだけ補充すべきかという見積り計画が,このとき作成された。その計画によると,1939年において,朝鮮人は8万5,000名の増加,すなわち予定必要人員104万名の8%,1940年は7万8,000名,すなわち予定必要人員の7%,1941年は8万1,000名,すなわち予定必要人員の4%をしめるはずであつた(8)。しかしながら,実際には,合計14万7,000名だけの朝鮮人契約労働者がこの3年間に日本につれてこられた(9)。

 日本は,こうして,パール・ハ-バー攻撃前には,大規模な国内の労務統制の合理化をはかることによつて,必要な労働者を得ることができた。1941年の終りまでに,本土内において利用し得る労働力の動員・割当についてできるだけの手をつくしたけれども,ひきつづき不断の努力をこの方面に傾注した。1942年7月1日に労務調整令が施行されたが,これは,不急業務に従事しているものを重要産業に従事させ,あるいは,かれらに「…決戦に参加する機会」を与えることを意図するものであつた(10)。またこれによつて人手を失つた不急職業に婦人が進出することを容易にする措置がとられた。(訳者注,この1942年7月1日とあるのは,1943年7月1日の誤りではないかと思われる。1943年6月15日に改正労務調整令が公布され,7月1日に施行された。(10)の注記にも,1943年7月1日の放送を記している。) 1943年7月に戦時行政特例法が公布され,雇傭の補充および割当方法の円滑化をはかり,また労務官庁の管轄権争いを除くことにつとめた(11)。(訳者注,この公布は1944年3月18日である。)1943年11月に,軍需省が設立され,労務行政と労務管理に関して広範な権限を与えられた(12)。また,ますます多くの産業が重要産業表に加えられたので,朝鮮人によつてなされる。労務の大部分は,その管轄権が厚生省から軍需省に移された。(ただし,朝鮮人に関するその他の管理機能が厚生省の協和会の手からはなれたという証拠はない。)しかし,これらの努力にもかかわらず,われわれのすでにみたように,日本は,多くの追加労働力需要を満たすためには,朝鮮人移住者をあてにせざるを得なかつた。ここで注意しなければならないことは,朝鮮人を日本人とともに単なる体力以上のもの。を必要とする職場に配置する努力がほとんどなされなかつたことである。逆に,朝鮮人は炭坑や土木部門において,軍務やその他の仕事などへの移動・訓練のために引きぬかれた日本人労働者のあとを埋めた。

 朝鮮人労働者の日本戦時経済に与えた重要さをもつともよく説明する実例は,日本の鉱業,とくに石炭鉱業を研究すればわかる。日本の石炭鉱業は,戦争のほとんどはじめからひきつづき隘路であつた。石炭の需用が増加するのに比して,供給する石炭が不足した理由の一つは,安定した労働者がたりないことと,これに関与するすべての労働者の能率が低いことであつた。話にならぬ安全設備・低賃金,全般的に劣悪な労働条件により,伝統的に,炭坑における労働は毛嫌らいされていた(13)。また過去において鉱業で働く者の大部分は,季節労働者,とくに農夫であつた(14)。

 さらに,また鉱業会社は,しばしばかれらの労働者に対して半ば封建的性格の厳重な管理を実行した(15)。労働力に継続性がなく,たえず離散するために,労働生産性が自然に低下した。そのために,石炭分野における労働力問題の部分的解決にさえ,さらに多くの労働者を必要とするばかりでなく,同時にやとつた労働力の安定性を確保することも必要であつた。

 この目的のためにとられた手段の一つは,1933年以来実施していた地下労働における婦人の雇傭禁止を廃止したこと,いま一つの手段は,朝鮮人労働者の移入を増加することであつた。1940年のはじめに,日本の信ずべき筋は「(石炭)鉱業における労働力の不足は,昨年来実施したところの大規模な朝鮮人労働者の移入によつて目にみえて緩和された」と断言した(16)。これ

は,そのときには疑いなく真実であつたが,しかし太平洋戦争の緊迫にともなつて,石炭に対する需要は非常に増大し,石炭鉱業における労働力不足という古い問題が再発し,かつ,問題の重大性が強化された。労働力に対する需要は増大するばかりで,このため朝鮮人労働者にますます強くよりかかることになつた。1941年には,33万9,000名の炭坑労働者中,6万1,000名が朝鮮人労働者であり,1945年の3月の終わりには,総計41万6,000名の炭坑夫のうち,13万5,000名が朝鮮人であった(17)。1939年には,朝鮮人は全炭坑労働力の6%であつたが,1945年の3月には33%をしめた(16)。

 朝鮮人労働者は,日本をして最小限度の石炭需要を満足せしめることによつて生産に重要な役割を果したけれども,それによつて問題が理想的に解決されたわけではなかつた。朝鮮人は鉱山にとどまることに不本意であり,またかれらはかなり非能率的であつたので,いろいろと困つた事態が生じた。

 また,あとでのべるように,朝鮮人坑夫は,不穏な連中でもあつた。政府および石炭統制協会は,石炭産業における労働力の安定について非常な関心をはらい,この障害を克服するためにいろいろな計画をもち出した。労務徴用をもとめる要求が強く叫ばれるとともに,石炭鉱業を軍需産業に編入する必要性が強調された(19)。しかし,これらの施策は採用されなかつたらしい。そのかわりに,府県庁を通じで一層厳重な管理が行なわれた(20)。また,報償制度の合理化(21),生産刺激計画ならびに生産「調整」機関に力点が置かれた(22)。しかしながら,結果は満足できるものではなかつた。たとえば,朝鮮人労働者間の移動は,依然としてはげしかつた。1941年の会計年度から1945年の会計年度を通じて,31万2,000名の朝鮮人坑夫が従業員名簿にはのつていたが,実は,朝鮮人の炭坑労働者は,一番多いときでも総計13万7,000名を数えるにすぎなかった(23)。

 さらにその上,朝鮮人徴用労働者は,比較的に能率が上がらなかつた(24)。日本の一資料は,「1940年から1944年までに徴用労働者の数は29%増加したが,1944年におけるかれらの1人あたりの生産指数は,1940年の72%にすぎなかつた」とのべたうえ,つぎのように付言している。すなわち「これは,若い人や熟練労働者が朝鮮人や年とつた人におきかえられたこと,そして新しく補充されたこれらの労働者の生産能力がおきかえられた従前の労働者よりも,ずつと低かつたということを意味するかも知れない」(25)。日本の計画において朝鮮人労働者が異彩をはなつたのは,炭鉱業だけでは決してなかつた。手当り次第にほんのちよつと資料を引用してみても,この事実がよくわかる。鉄鋼産業における朝鮮人は,1945年8月15日において1万2,669名を数えた。そして「かれらは,いやいやながらではあつたが,日雇労務者の不足を大いに救つた。」(26) 1944年,軽金属工業における熟練労働者の不足が激化したとき,軽金属統制協会は,「もし役にたつなら老人であろうと,若者であろうと,また朝鮮人労働者であろうと,新しい労働者を受け入れる」と発表するにいたつた(27)。事実,1941年当時の軍需産業における労働者は日本人の男であつた。しかし,1944年には,労働者のおよそ半分が婦人・学生および朝鮮人であつた。」(28) 1943年に日本当局は,大規模な外国人船員の訓練をすると発表した。(訳者注,この意味は不明である。あるいは1943年に朝鮮人の海軍志願兵訓練所が開設されたことを指すものかもしれない。) そして,これに関連して「朝鮮海岸からビルマ,さらに南洋群島にかけて尨大な人的資源が存すること」を強調した(29)。朝鮮人労働者は,農業生産にも使われた。若い朝鮮人は,農業技術訓練の目的もあつて短期間だけ朝鮮からつれて来られるということが多かつたが(30),また日本の農場ではたらくためにも連れてこられた。そして,これについては,前線に召集された日本人農夫の家族を助けるために,1942年に常設的な朝鮮人銃後報国団の成立したことも記録に残つている(31)。

注(3)内閣企画院「和昭(ママ)18年国家総動員実施計画」昭和18年6月14日,東京,128頁。(U.S. Strategic Bombing Survey : Japanese Wartime Standard of Living and Utilization of Manpower, 1947年1月,表EEE, 130頁に引用)。

(4)付録第2表をみよ。

(5)1943年の東京放送,Office of Strategic Services, Research and Analysis Branch : Programs of Japan in Korea, Honolulu, 1945年,8頁。

(6)USSBS : JWSLUM 表 FFF, 130頁。

(7)Tokyo Gazette, 1939年8月,120頁~123頁。国民徴用令(1939年7月4日,日本閣議決定)。

(8)USSBS : JWSLUM, 53頁~54頁。

(9)同上書,表FFF, 130頁。

(10)1943年7月7日の東京放送,0SS : Man Power in Japan and Occupied Areas, Honolulu, 1944年,第1巻,32頁。

(11)1943年9月16日の東京放送,同上。

(12)1944年3月24日の東京放送,同上書,7頁。

(13)K. Bloch : "Coal and Power Shortage in Japan", Far Eastern Survey, 1940年2月14日,41頁。

(14)War Department (Civil Affairs Handbook, パンフレット No.31~208) : Japan, Prefectural Studies, Preliminary Report on Coal Mining Industry of Japan, 1945年10月30日,42頁。

(15)Bloch : "Japan on Her Own", Far Eastern Survey, 1941年11月3日,247頁。

(16)東亜経済ニュース,東京。1940年3月,2頁。

(17)USSBS : Coals and Metals in Japan's War Economy, 1947年4月,8表,17頁。

(18)War Department 前掲書,40頁 ; USSBS, JWSLUM, 表 NNN, 132頁。

(19)1944年4月8日の東京放送,OSS : MJOA, 第1巻,102頁。

(20)1944年1月31日の東京放送,同上書,l01頁~102頁。

(21)1944年4月15日の東京放送,同上書,102頁。

(22)1944年4月8日の東京放送,同上。

(23)USSBS : JWSLUM, 132頁。

(24)War Department 前掲書,38頁 ; Bloch : "How Japan Feels the Strain", Asia, 1939年6月,375頁。

(25)War Department 前掲書,38頁~39頁。

(26)USSBS : CMJWE, 76頁。

(27)1944年6月11日の東京放送,OSS : MJOA, 第1巻,106頁。

(28)USSBS : Japanese War Production Industries, 1946年11月15日,7頁~8頁。

(29)1942年6月7日の東京放送,OSS : MJOA, 第1巻,95頁。

(30)1942年7月6日,1943年6月25日,1944年4月5日の東京放送,同上書,203頁。

(31)Grajdanzev : "Japan's Economy Since Pearl Harbor (第2部), "Far Eastern Survey", 1943年6月30日,129頁。

 

 

朝鮮人の反抗

 朝鮮人労働者およびその他の朝鮮人が,日本当局に反抗を試みたことは注目すべき事実である。とくに,朝鮮人学生は積極的に反抗し,朝鮮人労働者の怠業・暴力行為を激励したようである。さらに,朝鮮人の在外革命団体および日本共産党は,朝鮮人少数民族の窮状を利用して,日本の戦争遂行努力を破壊しようと謀つたようである。

 朝鮮人労働者のほかに,日本における朝鮮人大学生もまた,直接に戦争遂行に協力した。少数ではあるけれども,かれらは日本への敵対行動の重要な原因になつたと思われる。1947年に,日本の専門学校および大学で勉強する朝鮮人青年は1万3,300名であつた(32)。この数字は,学徒特別志願兵制度が施行された1943年10月においても同様で,大して変りはなかつたと推定される。その後の6か月問に,1,388名の在日朝鮮人学生が学徒出陣で日本軍に入隊するために朝鮮に帰つた(33)。その後,これにならつて朝鮮に帰つたものもある。志願応募をしなかつたものは,常勤または非常勤の労働者として働くことを強制され,かれらは概してすでに多数の朝鮮人労働者が送りこまれていた産業に配置されたようである。

 こういう状況において,学生たちは,朝鮮人労働者を激励して,かれらのだれでもが心の中にもつている反抗的態度を公然とあらわすようにさせた。一調査者は,「朝鮮人労働者は朝鮮人学生たちから大いに煽動されたらしい」とのべている(34)。ことに戦況が悪化するにつれて,朝鮮人社会の積極的な分子は,勢力を結集し,戦争遂行妨害の行動に出でざるを得なかつた。「サボタージュをしたり,デマをとばしたり,また最初のべた民族主義団体を組織しようとはかつたものは学生であり,かれらがもつとも目立つた存在であつたことは明らかである。」(35)

 一方,日本側の一文書では,これについてつぎのようにのべている。「大多数の朝鮮人は…漸次日鮮融和の現実をうけいれており,生産能力を増加する面でも,武器をとる軍事面においても立派な役目を果している。」(36) しかし,ある日本の雑誌は,つぎのような不満をのべている。

 「炭坑や軍需工場で,仕事についての紛争や妨害行為があるときには,いつも幾人かの非愛国的な朝鮮人がかならず関係している。真の日本臣民として,かれらに好意ある処置を与えたにもかかわらず,かれらはわれわれの聖戦に全力をつくそうとしない。反対に仕事をおくらし,仮病をつかい,製作中の製品に重要な部品をつけることを忘れたりしている。そのくせ賃金と食物について不平をいう。われわれが生存のためにたたかつているとき,意外にもストライキやサボタージュがあつたという事実,そしてまたそれがつねに朝鮮人によつて起こされたという事実を記録しなければならぬことは,まことになげかわしい。」(37)

 同じ雑誌に,鉱山および工場において朝鮮人が連座したある1年間の事件の件数がのせてある。それによると,445件に7万8,000名の朝鮮人労働者が連座している。また炭坑における「秩序維持」にときどき軍隊が出動したことも書かれてある。(しかし「大体,終戦までに大事件が起こらなかつた」ことも付記されている。)(39)

 学生以外のものが,朝鮮人労働者の反抗を激励する役割を演じたことを示すいくつかの証拠がある。1941年12月,重慶における朝鮮民族革命党の第6回全体会議は,「日本における反戦運動に対して協力と助手をさしのべるように」在日朝鮮人によびかけた(39)。同会議は,また,中国の諜報活動をしながら思うままに日本帝国の一地方から他の地方に出没している朝鮮人の能力を賞揚するついでに,日本の基幹産業にも朝鮮人が雇傭されていることを指摘している(40)。

 さらにまた,公然たる朝鮮人の抵抗活動は,日本共産党の活溌な地下運動と関係があつたようである。内務省の「公安課」および「特別高等警察課」の報告書類によると,日本警察は,戦時日本において共産主義運動が再発するのではないかと危惧しており,しかも朝鮮人労働者がそういう動きのもととなるように思われるとみでいたことがわかる。1944年のはじめにはつぎの記載がある。「特別に注意すべき傾向,左のとおり。

 (1)いわゆる「人民戦線」戦術を通じて,合法のわく内の運動や偽装を利用する運動がしだいにめだつてきている。……

 (2)最近の社会条件の急速な変化が共産主義運動に有利な機会として十分に利用されている。……

 (3)運動の中核体である共産党を再建しようとする再起運動が,過去とまつたく同じように活溌になつている。……

 (4)この運動と中国共産党との関係は,非常に親密になつた。…」(41)

この最後の点について,ある朝鮮人共産主義者が,中国共産党と連結をとろうとして不成功に終つたことが,記されている。この朝鮮人共産主義者は逮捕される前には,蒙古の国境あたりまで潜入していた。

 さらに,1944年8月に刊行された特別(公安)警察月報(訳者注,「特高警察月報」のことと思われる。)にはつぎのような記載がある。「重要産業に,はたらく共産主義者たちは,かれらの職場において重要な秘密を入手し,相互に情報を交換する。……そして日本がひとたび戦でつぶされた場合に果たすべき各自の役割を決めている。……〔これは〕もつとも巧妙,かつ,執拗な現在の共産主義活動の危険をさながらに示す証拠である。……」(42)また,別のところでは,つぎのような見通しを与えている。すなわち,軍需生産をあげるためにこの国につれて来られる朝鮮人(および中国人)が増加するにつれ,「……滲透する日本人共産主義者および(朝鮮人?)独立分子は……労働者大衆の不平・不満を利用して,反戦・反軍の感情をまきおこすことにつとめるであろう。……そして,かれらは,一挙にその叛乱目的を達するであろう。」(43) 戦後来日したあるアメリカ調査団は,要約して,つぎのような結論をくだした。「治安に関する占領軍指令が当初において予想した破壊活動分子は,共産主義者たちを別とすれば,1人として組織的な反抗運動を展開

したものがなかつたようである。ただ,朝鮮人だけがあるいは例外となるかも知れない」。(44)

注(32)1943年,東京放送,OSS : PJK, 66頁。

(33)1941年4月4日の東京放送,同上書,20頁。

(34)USSBS : Effects of Strategic Bombing on Japanese Morale, 1947年6月,213頁。

(35)同上。

(36)同上。

(37)"Korea Today…A Storm is Brewing", Uoice(ママ) of Korea, Washington, D.C. 1944年2月12日。

(38)USSBS : CMJWE, 17頁。

(39)重慶 National Herald, 1942年1月14日~15日に発表され,Oliver 前掲書に引用されている「1941年12月に採択された朝鮮民族革命党第6回総会宣言書」

(40)J. Kyuang Dunn : "Korea Seeks Recognition", Far Eastern Survey, 1944年10月18日,199頁。

(41)USSBS : ESBJM, 237頁。

(42)同上。

(43)同上書,233頁。

(44)同上書,237頁。

 

日本側の対抗措置

 復活した共産主義運動当面の,あるいは今後の脅威にうち勝つために,日本当局が,警察の直接行動にたよつたことは明らかである。これはまた,朝鮮人学生の不満に対してとつた手段でもあつた。ここに朝鮮人学生のかいた二通の陳述書がある。日本警察が攻撃的態度をとり,虎視たんたんとしていたことの証拠として引用してみよう。一人の学生はつぎのように宣言している。「もし徴兵をのがれることが不可能であるならば……われわれは われの後につづくものを啓蒙し,かれらのものに独立精神を育てることに全力をつくすべきである。万一われわれが戦場に臨んだならば,われわれは敵側に逃げるか,あるいは敵に情報を与えるかして,敵を援助することにつとめめ(ママ)なければならない。敵の援助を求めつつわれわれは独立のゴールに達するよう努力しなければならない。」(45) 昼間は肉体労働に従事していた他の2名の学生は,1944年,つぎのような感想を表明している。「われわれが学院に入学するにあたつてのいろいろな制限は,わが民放の知識階級が成長するのを阻止するためのものである。朝鮮と日本の一体(訳者注,当時「内鮮一体」の語が使われた。)は,掛け声ばかりである。……日本においては実行されていない。……日本人はわれわれの権利あるいは利益を増進させないのみか,かえつてわれわれにより重い義務と負担を課している。かれらはわれわれに日本語の使用を強制し,朝鮮語の使用を禁じている。……われわれは選挙権をもつていない。それなのに徴兵を押しつけられている。」(46) これらの陳述を行たつたあと,すぐ逮捕されたので,それは警察の一件書類に綴じこまれている。

 右の事実とは対照的であるが,一般の朝鮮人労働者の間の反対意見は,少なくともそれが外面的実際行動にならなかつたときには,譲歩とおどろくべき融和的態度をもつて処理された。加うるに,管理方法として宣伝がひろく利用された。宣伝にあたつて採用された基本線が大体四つあつたとみてよい。それは日本当局の説得による管理方法なるものをよく示している。すなわち,(a)労働条件の改善およびそれに関連した創意工夫,(b)宣伝の性質をもつた個人的アピール,(c)間接宣伝の採用,および(d)朝鮮人の基本的身分の変更(あるいは変更の約束)である。

 われわれが注意してきたように,朝鮮人労働者が得る賃金は,伝統的に同一の仕事をする日本人とくらべて下位にあつた。この状態は一つ二つの例(朝鮮人炭坑夫は日本人なみの賃金をもらつたといわれている。)(47) を除いては,少なくとも1944年の終わりまでつづいた。その年の4月,朝鮮において,日本人被雇傭者への支払いと額において「同じ」になるように,朝鮮人被雇傭者への報酬を日本人会社が増額しても「差し支えない」と発表され

た。しかし,そこには「(その会社の)経理能力の限度内において」調整さるべきであるという免除規定がふくまれていた(48)。これと同様のことが日本でも実施されたと信ぜられる。だが,朝鮮人がこの種の賃金の増額により名目上の利益を得たとしても,その増額分の大部分は吸いとられたらしい。労働者は「国民貯金」・郵便貯金・戦時債券などの名で強制貯金をさせられた(49)。そして,毎月少額しか朝鮮に送金できなかつたようである(50)。しかし戦後に朝鮮人が,かれらの以前の雇傭主に対して行なつた要求の性質から判断すると,かれらの収入の大部分は強制的に支払わされた「勤務」費(年金・保険・保健・災害,また,ときには食糧とか住宅に要する費用)に食われた。

 1944年に,2年間の契約満了により幾千の朝鮮人炭坑夫が朝鮮に帰ることを憂慮した日本政府は,さらに1年間契約を延長することを決定した。この政策はうんと砂糖をまぶして朝鮮人に提示された。この余分の年数だけ働らくことを「契約した」人々には,「いろいろな手厚い施設」が供され,適当な金メダルが授与され,家族呼寄せの手当とその機会が与えられた。これら家族と一緒になつた人々は,日本人の間で生活することができるようになり,また独身者は,日本人労働者と同じ区域に居住が与えられるというのであり,その住宅区域の改善も約束された。すぐれた労働者の出世を促進する道が開かれた(51)。朝鮮人炭坑夫に仕事をつづけさせるかわりに,定期的に朝鮮に帰ることを許可する案も出された(52)。

 「すべてがいまや軍隊式に行なわれる。そして,鉱山は,生産の戦場になつた」と1944年に日本のラジオ放送はのべた(53)。これは日本産業に雇われている労働者の生産力を向上させるために,ひろくとられた新しいやり方であつた。炭坑夫は,しばしば軍隊のような組織に編成され,各隊はその指揮者の名によつてよばれた。また「立派に混乱なく働らいている朝鮮からきた青年団についても同じようにするのが有効である。……」(54) そしてもつとも目ざましい成績を示した隊の産業戦士には功労賞が授与された。

 第2の奨励手段は,個人個人への訴えであつた。1944年に,大政翼賛会は,戦争における「戦かう朝鮮」の役割を日本内地に説明するために,また,「朝鮮生れの兵隊ならびに朝鮮生れの在日産業戦士をなぐさめ,激励するために」朝鮮から激励団を派遣することを計画した(55)。この激励団は,興亜同盟総本部(事務局)および国民総力朝鮮連盟が共同発起したもので,朝鮮にいる30名の著名な日本人および朝鮮人指導者から構成された(56)。さらに,日本で短期間に働らくためにやつて来た朝鮮青年農業報国隊は,たびたび東条首相や小磯首相を訪問して激励の言葉を与えられた(57)。これが在朝鮮朝鮮人への効果を主眼としてなされたことは疑いないが,このようなことを放送したのは,また,在日朝鮮人をねらつたものであつた。

 いたるところで,朝鮮人に対して宣伝による訴えを行なつたが,その際には,しばしば日本における朝鮮人の模範的な功績を挙げてこれを賞賛した。一つの事例として徴用に対するある3名の朝鮮人の反応が東京放送局を通じて劇化された。1名は徴用をまたないで労働奉仕を志願したのである。他の1名は,妻に仕事を託し「立派な日本人として」かれの仕事についた。また残る1名は,一人息子が危篤であるにかかわらず,「わたくしは朝鮮に生まれたけれども,立派な日本人である。だから日本臣民としての義務を果さなければならない」とのべて徴用に応じたというのである(59)。日本のラジオは,あらゆる障害を排除して,至高の美徳を示す他の事例をほめそやした。それはつぎのようなものであつた。「これらの若い娘たちが,日本にくるために朝鮮を去つてからすでに1か月になる。かの女たちの小さい胸のなかには,この戦争は自分たちの手を通じて押しすすめなければならぬという決意があつた。かの女たちの心は,若者たちに負けずに頑張らなければならないという気持で燃えていた。そして,つねに忙がしい生産の第一線で戦いつづけている。」(59) 日本における朝鮮人は,かれらのたえぬ努力の代償に,ある重要な実質的特権を二,三与えられはしたけれども,大部分は単に精神的な餌で満足させられねばならなかつたことは明らかである。さらにまた,かれらの不平等で劣等な基本的地位には,まつたく手がつけられなかつた。1943年の後期に,司法省において在日朝鮮人に対しその本籍を現住所に移すことを許

可することについて審議が行なわれた(60)。これは,本籍をうつした朝鮮人に日本市民権に属するいくつかの権利をあたえることにひとしいものであつたが,最後的な決定は,このときには行なわれなかつた。しかし,小磯大将が首相の職についたとき,かれは「日本に居住する(台湾人および朝鮮人)の処遇をただちに,また思い切つて改善することを希望する」と発表した(61)。多分,小磯首相が朝鮮総督の地位からよびもどされたばかりであつたという事実が,1944年後半期に行なわれた広範囲の審議を促進することになつたのであろう。

 「台湾人および朝鮮人の政治的処遇調査」委員会は,委員長に小磯首相,閣僚から2名の副委員長,ならびに関係各省,議員および「学識経験あるもの」のなかから選ばれた委員で構成された。委員会の最初の会合で小磯首相は宣言した。「……これら同胞の深い真心をわが国民生活の経緯に完全におりこんで行くことが,今後の戦争遂行上もつとも重要なことである。……そしてその主なる目的は,これらの人々の気持の中に,おなじ帝国臣民として,なんら差別なしに,本土にある日本人と同様の待遇を受けるという確信を吹きこむことにあらねばならぬ……」(62)。しかし不幸にも,考慮中であるという特別な政治上の改革なるものは公表されなかつたようである。ただつぎのような無意味な逃げ口上だけが発表された。「台湾人および朝鮮人の政治上の処遇に関する改善の重要事項が,調査委員会における審議内容である」(63)。

 しかしながら「一般的処遇」の改善については,いくつかの報告が列挙されている。以前は「警察扱いとして,ほとんど全面的に制限されていた」日本への旅行および日本からの旅行を,個人の自由にするはずであつた。差別待遇とみなされるようなことをさけるために警察の取扱いを全般的に改善することが約束された。「善良な」朝鮮人被雇傭者は,責任ある地位につくことを許されることになつていた。「警察と密接な関係をもつ機関」である協和会は,興生会と改称して,厚生業務をする筈であつた。日本の有名な中学校は「過去において朝鮮人学生の入学を拒否した」が,以後は日本学生と同様な待遇をかれらにに(ママ)与えることにするというのであつた。雇傭条件を改善し,「すべての日本人と同様に」どこへでもかれらの本籍を移すことができることになる筈であつた(64)。これらは実際思い切つた改革であつた。しかし,これらが法令として公布されたことを示す証拠はない。朝鮮人は天皇の「……朝鮮の人々は,日本本土の人々と等しく処遇されなければならぬ……」(訳者注,1919年の詔書に「一視同仁朕力臣民トシテ秋毫ノ差異アルコトナク」とあるが,このときには詔書は出ていない。1944年第85臨時議会の詔書に「とくに命じて,朝鮮および台湾の住民のために,帝岡議会の議員たるの途をひらき,広く衆庶をして国政に参与せしむ」とのべられている。)という言葉によつてわずかになぐさめられた(65)。

 奨励による手段が効果がなかつた場合には,協和会が津々浦々にあつて,待ちかまえていた。われわれは,日本政府の公の片腕としての協和会が,1936年に設置され,日本全県に組織をもち「融和」「一体」および「同化」の目的をかかげていたことをすでにのべた。さらに,その綱領および組織を詳細に観察すると,それが日本にいる朝鮮人にどのような影響をあたえたかが明らかになつてくる。

 協和会の活動は,朝鮮人の日常生活すべての面にわたり,また,朝鮮人個人個人の行動,ときには言語にまでタッチしていた。協和会の綱領には,つぎの6項目がふくまれていた。

(1) 皇民精神の涵養

(2) 矯風教化(礼儀作法の指導,衛生,公衆道徳,義務教育,団体訓練。租税および家賃の納付履行など)

(3) 福祉増進(生活,住居,隣保施設,共済組合,職業補導,貯蓄,診療,慰安,娯楽などをふくむ)

(4) 保護(内容を説明すれば,朝鮮人関係事業に関する密接な連絡,学生の就職,身上相談,注射,定期の帰郷など)

(5) 朝鮮人の実態調査

(6) 宣伝(日本および朝鮮双方にいる朝鮮人に対し日本を説明するためのあらゆる手段による宣伝)(60)

 これらは,大体どれも非常にもつともらしくきこえ,朝鮮人の実質的な福祉のために多くのことがなされたことは疑いない。しかし実際のところ,協和会は,元来,統制機関であつた。これはその組織・構成をみれば明らかで

ある(61)。

 簡単にいえば,すべての朝鮮人労働者は10名ずつの単位に編成されていた。4単位ごとに1名の巡回指導員がついていた。この4単位のグループがさらに三つ集まつて「自彊隊」を組織し,朝鮮人の雇われている職場に置かれた協和会「職場分会」に従属していた。この職場分会は,道府県の下のレベルの地区事務所の管轄下にあり(訳者注,県の下のブロック的区域を指すものと思われる)にさらに県を通じてより高い協和事業調査会(朝鮮人の教化・善導・保護に関する事項を審議決定することを目的とする)につながり,これが中央協和会につながつていた。道府県レベルについてみると,企業または施設に関する協和会の事務所があつて,雇傭の切り替え,職業補導,宣伝,住宅問題,診療などをつかさどつていた。協和会が直接監督して事件を処理できないような地域に住んでいる朝鮮人の場合には,町村役場や地方警察の施設が協和会の代りをつとめた。また,学生の指導のための特別の事務所が設けられた(訳者注,朝鮮奨学会を指す)。すべての朝鮮人はその地域の協和会の管轄下にあると否とを問わず,登録することを要求され(これは公表された綱領の「矯風教化」に該当する),常時身分証を携帯していなければならなかつた。さらにまた,前身の相愛会と同じように,ただしもつときびしく,協和会は,雇傭を統制し,朝鮮への往復に必要な証明書の発給をつかさどつた。協和会の会員になることは,強制的であつた。それが強制でなかつたとしても,会員にならなくては,日本への入国あるいは日本居住が事実上難かしかつたであろう。

注(45)USSBS : ESBJM, 243頁。

(46)同上。

(47)USSBS : CMJWE, 17頁。

(48)1944年4月21日の京城放送,0SS : PJK, 16頁。

(49)1942年10月17日の東京放送,OSS : Financial Programs of Japan in Japan and Occupied Areas, Honolulu, 1944年,第1巻,37頁。

(50)Grajdanzev : Modern Korea, 237頁。

(51)1944年5月31日の東京放送,OSS : MJOA, 第1巻,102頁。

(52)War Department 前掲書,40頁。

(53)同上書,42頁。

(54)同上書,43頁。

(55)1944年5月24日の東京放送,OSS : PJK, 10頁。

(56)1944年5月10日の東京放送, OSS : MJOA, 第1巻,5頁。

(57)1943年6月25日および1944年8月2日の東京放送,0SS : PJK, 34頁~35頁。

(58)1944年5月20日の東京放送,同上書,10頁~11頁。

(59)1944年8月10日の京城放送,同上書,35頁。

(60)1943年10月23日の東京放送,OSS : MJOA,第1巻,4頁。

(61)1944年12月26日の東京放送,0SS : PJK, 13頁。

(62)同上。

(63)同上。

(64)同上。

(65)1944年4月21日の京城放送,OSS : MJOA, 第2巻,201頁。

(66)金斗鎔,前掲書,30頁~33頁。

(67)付録Bをみよ。

 

朝鮮人と日本人との関係

 1937年から1945年までの戦争の期間に,日本人と朝鮮人の相互の感情は好転しなかつたとみてよい。たしかに,朝鮮人は日本の労働市場において,もはや競争的存在ではなかつた。しかし,これは,朝鮮人が働らいていた鉱山および工場で,朝鮮人の反抗がかもしだした新しい憎悪感情のために割り引きされたにちがいない。朝鮮人の側では,もはや失業の影におびやかされることはなかつたけれども,責任は重くかれらの肩にかかり,かれらの生活や仕事に対する統制はいよいよきびしくなつたので,これがためかれらがすでに心にもつていた恨みを深めずにはおかなかつた。

 この日本・朝鮮双方の立場については,朝鮮人の流言に関する特殊な事件がそれをよく示している。日本の警察記録に対する戦後の調査によれば,多分1945年の春に記録されたものらしいのが,ある大空襲の後では,朝鮮人については日本人間の流言は,その前と比較して2倍に増加し,また一方,朝鮮人の間における流言は2倍以上に増加したという報告がある。とくに警察では,つぎのようなことを指摘している。(1)朝鮮人の間における節操の欠除やかれらの経済違反に関して日本人がとやかく話すことは減つたが,朝鮮人が敵の作戦を助け,また,敵の軍事行動を目前にして逃亡したなどという流言は多くなつた。(2)空襲の激化以来「内地人の間に,朝鮮人を疑がう傾向がでてきた」。そして,(3)「逃亡するとか,そのかわりに朝鮮へ帰国するとか,ということを口にする人々(朝鮮人),……(そして)敵を助けたいとか,あるいは作戦地から逃亡したいとかいう希望をのべる人々」の(数が増加した)。(68)

 朝鮮人の流言についての具体的事例が,別の文書にもあつた。アメリカにいる朝鮮人が義勇軍を組織し日本にむかつて攻撃してくるという言いふるされた題目に尾ひれをつけて,ある朝鮮人は,「……現に,数日前,北九州を爆撃した飛行機の塔乗員は大部分が朝鮮人であつた」という意見をのべた(69)。一朝鮮婦人は,「もし敵の落下傘部隊がきた場合,かれらは日本人を殺すだろうが,おそらく朝鮮人を助けるだろう」との流言をいいふらしたが,それがひろく流布された(70)。そのころ,日本人の間には,朝鮮人のような少数犠牲民族に対しての流言やその非をならすことがするどくおこつたが,朝鮮人側の流言には,逆に迫害された民族としての昂揚された自信と速やかな解放への期待とがあらわれていた。

 日本人と朝鮮人の間の緊張が増加したことは,ますます取締当局の荷を重くした。戦争当初,取締当局は共産主義者およびその他の左派と同じように,在留朝鮮人を分類して,厳重な監視を命じた。朝鮮人労働者および学生にはとくに眼を光らせた。朝鮮人の日本への旅行および日本国内の旅行を特別な制限のもとにおいたのは,かかる監視を容易にするためであつた。これまで述べたほか,当局が懸念し,そのために抑圧政策をとつたことを示すものとして,1943年1月の警察のつぎのような指令は,いくらか長く引用するに価しよう。

「朝鮮人の性格上注目されるのは,執念深さとその追従性,すなわち権力者に対する崇敬である。それで……かれらの思想的活動は独立運動に転化する可能性が多分にあり,したがつて……かれらが破壊行動を行なう危険がある。……この事実に徴して,半島人に対する徹底的な取り締まりと指導が必要である。日本・朝鮮関係を研究または調査する目的をもつて,日本に在留する朝鮮人の監視や,極秘の調査を強化すべきはもちろん,とくに,学生および知識階級についてしかりである。勉学以外(の目的)で,日本に在留すると思われる者は,破壊活動に関してとくに警戒しなければならない。」

 「独立に対する要求が朝鮮人の一部のサークルで叫ばれはじめている事実にかえりみて,……厳重な警戒が一般朝鮮人の活動についても,つづけられなければならない。(71)

 反朝鮮感情が,一般国民間に流布していたので(したがつて機会あるごとに,当局は融和をはかり,反朝鮮感情を静めようとして努力した)(72),かかる政策は,ひろい国民的支持を期待することができた。

注(68)USSBS : ESBJM, 250頁。

(69)同上。

(70)同上。

(71)同上書。235頁。

(72)同上。

 

 

第4章 戦後日本における朝鮮人少数民族

(1945年8月15日~1948年8月15日)

 

 1945年8月15日には,大体200万の朝鮮人が日本に存在していた。おそらくその約半数は強制労働者とその家族であつた。かれらの生活水準はつねに極度に低く,とくにその当時は,日本の戦時経済に固く結びつけられていた。終戦と,それにともなつて起こつた混乱状態は,かれらの脚下からその経済的基盤を奪いとり,もはやかれらには,日本で生活を維持する手段がほとんど残されていなかつた。そのうえ,終戦は,かれらの本国に解放をもたらした。ほとんど40年にわたつてみつづけた夢は,ここに頂点に達した。

 そこで数千の朝鮮人は,日本にある家庭をすて,運ぶことのできない財産を処理して,朝鮮へ帰つた。最初は,ほとんどすべての朝鮮人が引き揚げるように思われたが,アメリカ占領軍が日本に到着した直後に,引揚者の持ちかえる金と財産の額に厳重な制限が加えられた。これらの制限は,その後若干緩和されたが,多くの朝鮮人は,朝鮮ではじめから生活をやり直そうとするよりも,むしろ日本にとどまることを選んだ。

 他方,日本降伏直後に,一朝鮮人団体が組織されて,日本在住の全朝鮮人,ならびに,すでに朝鮮に引き揚げた朝鮮人労働者のために活動すると声明した。その組織と活動方針とが全朝鮮人を包容するという点では,朝鮮人の生活を擁護し,その権利を増進するという以前の協和会にちよつと似ていた。事実,協和会の掲げた目的は,そうであつた。しかし,こんどの団体は,その根本的な考え方やその実行手段の多くにおいて,協和会とはまるで違つていた。表面は一種の生活擁護団体であつたが,しかし中味は政治団体であり,共産主義ではなかつたが,極左的であつた。そして目的を達成するためにしばしば非合法と騒擾の手段に訴えた。連合国民の享有すべるすべての権利と特権を朝鮮人に与えることを要求した。さらに特別待遇を与えるよう尨大にして執拗な要求をした。この団体の指導下に,朝鮮人は団結して日本の「帝国主義者」に対抗した。そして,占領軍もしくは日本の一切の官憲に対して筋の通らないきわめて感情的な態度をとつた。

 日本降伏直後の半年ばかりは,朝鮮人は,アメリカ占領軍のやり方,その全般的には同情ある態度から便益をえた。朝鮮人をこれまでの圧制的差別的待遇から解放することは,占領軍民主化方針から当然に出てくることであつた。朝鮮人の各種団体が次々に行なつた過大な要求は,公式には決して承認されなかつたが,しかしはつきりと否定されもしなかつた。そして若干の点では,日本人以上の特権的地位を与えられた。

 他方,少なくとも,法的には朝鮮人は日本人と区別さるべきではない,という強い主張が他の占領政策のうちに暗示された。多くの朝鮮人が引き揚げないということが次第に明らかになつてきたので,朝鮮人の身分を明確に定義する必要が生じてきた。さらに,朝鮮人の行なう掠奪行為が確認・未確認を合わせて増大した結果,占領軍が当初朝鮮人に対してもつていた同情的態度は焦慮と敵意に変わつた。こうした事情であつたから,日本に在住することをえらんだ朝鮮人に対して,やがて強硬手段がとられることになつた。全朝鮮人は引き揚げる機会を与えられた。そして,引き揚げないものには,日本人のもたない権利は与えないことになつていた。かれらは日本国民として分類されることになり,他のすべての日本人と同様に日本の機関によつて統治されるものとされた。

 日本政府は,朝鮮人問題を独自に処理するため,このような前進信号の出るのを長いこと待つていたのである。きわめて多くの朝鮮人が隊をくんで,やみ取引その他の不法行為に従事していた。かれらは公然と禁止行為を行ない,日本の警察の干渉を無視してかかつた。最初,日本の警察は,これら不法分子をおさえようとしなかつた。政府の諸機関は,中央の機関でさえ,朝鮮人諸団体を公的機関として取り扱つていた。そしてこれら政府機関も警察も,解放された朝鮮人に対して,どの範囲の管轄権をもつものか見当がつかなかつた。ただ占領軍から直接の命令を受けたときにだけ,日本の官憲は朝鮮人の要求を認めることを拒絶した。それも,拒絶したのは,自分たちでなく,アメリ力側であることを相手に諒解させるように気を配つた。しかし,いかなる場合にも,朝鮮人の掠奪行為と要求は,占領軍官憲に報告した。占領軍官憲の下には,たちまちこの種の報告が山のように積まれたが,日本当局者は,これらの報告をたびたび全体の関連から切り離して行なつた。そして,自分たちがいかに,問題を処理する力がないかをアメリカ側に印象づけた。

 しかし,日本政府は,朝鮮人処遇についての十分の権限が付与される以前においても,占領軍が朝鮮人に与えようと思つていた自由と平等を朝鮮人が享受することを妨げるのに懸命であつた。このために,警察による威嚇と監視が広く行なわれた。国家的便益は朝鮮人に対しては極度に制限して与えられた。日本の新聞と公衆は,これに協力して,敵対宣伝と差別行為によつて朝鮮人を以前の劣等地位に引きとめようとした。したがつて,朝鮮人は,今後,日本国民として処遇されるとの声明が出るや,圧迫と差別とは一段と強化された。そして,これが大きく響いて,日本における朝鮮人の地位の悪化にさらに拍車をかけた。とくに,占領の第1年目か,そこらには,異常なほどに恵まれていた朝鮮人の経済的地位は,これによる影響を蒙むつた。日本側からする差別および経済統制の全般的強化の結果として,朝鮮人の生活は非常に悪い状態に追いこまれるにいたつた。

 それにもかかわらず,その後の2年間,すなわち1947年,1948年に,日本における本拠を引き払つて朝鮮に帰つたものは,ほとんどなかつた。かれらは,その団体の力でもつて,かれらが偏頗と考えた日本政府の一切のやり方と戦いつづけた。しかし,占領軍の態度が硬化してからは,要するに負けいくさであつた。朝鮮人側は,その地位がだんだん弱化してくるのをみて,悲観と敗北感を強く感じはじめた。かれらが外国の領土における招かれざる異邦人であると思い出したのも,もつともであつた。アメリカ占領3年後においても,朝鮮人問題は依然として未解決のままであつた。

 日本の一評論家は,1939年,つぎのように述べた。「日本本土に定着した100万名近い朝鮮人が同化するかどうかはきわめで興味ぶかい問題である。かれらは二,三年たつたら,日本の言語・習慣・風俗を完全に吸収して,ほとんど朝鮮出身者たる痕跡を残さないであろう」。(1)

 戦後日本における事態は,右の意見がいかに完全な幻想であつたかを証明することになつた。厳重な警察の取り締まりから解放された朝鮮人は,ここに楽観的に描かれたものとはまつたく異なつた生きものであつた。朝鮮人の同化力欠如,その本質的な「朝鮮人根性」,しかもこの朝鮮人に変則的に日本国民という法的性格を与えたこと,ここに戦後日本における朝鮮人少数民族問題なるものをおこした異状な混乱の根本がある。

注(1)T.Matsuzawa ; "New Chosen", Contemporary Japan, 1939年,6月,163頁。

 

引揚問題

 1945年8月15日から1948年8月15日までに,約140万の朝鮮人が朝鮮に帰つた。日本降伏直後,正式の引揚げが開始されない前に,何万もの朝鮮人が民間の輸送船で帰国した。これはすでに戦争中の1944年後半に開始された帰国運動の継続であつた。日本戦時経済の崩壊が進むとともに,多数の朝鮮人契約労務者は強制的に解雇され,かれらは自由に帰国することができた。アメリカの空襲が激しくなるにつれ,その他の朝鮮人も朝鮮への集団移住に加わつた(日本人も朝鮮へ疎開した)1945年8月15日までに,おそらく30万から50万の朝鮮人がすでに日本を去つていたものと思われる。

 占領軍当局が引揚運動を引きうけると,引揚げの条件は極度に窮屈になつた。引揚者は,朝鮮へ無料で帰ることができたが,しかし自分のかつげる荷!しかもつことができなかつた。さらに引揚者は他人にとつて有用なものをもつていつてはいけなかつた。そして1,000円しか両替できなかつたので,やむなく日本に置いてきたものの代りを朝鮮で買うこともできなかつた。加うるに,朝鮮には洪水・流行病・米騒動があり,引揚者は冷遇されるという話をきかされた。荷物に対する制限は漸次緩和されたけれど,一番重要な持帰り金の点はずつと変更にならなかつた。しかも,朝鮮でも日本でもインフレーションは引き続き悪化していつた。結局,60万以上の朝鮮人が引揚げ受諾を拒絶した。

 1945年8月15日から同年11月30日までは朝鮮人引揚げの「自発的集団出国」期と呼ぶことができよう。この3か月半の間に,恐らくは80万を下らない朝鮮人が帰国した。そのうちの52万5,000名は何らの統制もうけない帰国者であつた(2)。矛盾した話であるが,このグループのものは全然制限をうけなかつたのに,これを差し引いた残りの27万5,000名は,その後にもみないほど厳重な制限をうけた。

 天皇の降伏放送後の約3か月半の間は,朝鮮への引揚げは大体において引揚者各自が独力で行なつたものであつた。日本政府は,朝鮮人引揚者の動きを制限するような態度を全然とらなかつた。アメリカ占領軍は,有効な統制を行なうに先だつてまず兵力を充実し,かつ,客観情勢に通暁しなければならなかつた。朝鮮人にしてみれば,一刻も早く解放された本国に帰るというのは当然であり,また必要なことでもあつた。

 したがつて,朝鮮人は,本州南西部および北九州の各港に文字どおり蝟集した。そして可能な一切の方法を利用して渡航しようとした。大小あらゆる型の漁船を借り入れ,買いいれ,あるいは盗みだした。切実な引揚げ要求に応ずるため急速に寄せ集められた多数の小舟に殺到して,ちよつとしたスペースをも買いもとめた。正規に日本と朝鮮間の航路に就航していた大きな船舶および当時たまたま近海にあつたその他の船舶は,片道で日本人を運び,帰りの片道で朝鮮人を運んだ。このときの輸送全人員を知る方法はないが,1945年12月日以前にこうしたやり方で引き揚げた朝鮮人が大体52万5,000名であつたと推定される。

 この無計画な引揚方法を継続すれば,帰国を希望する全朝鮮人の急速な引揚げが完了したであろうことは疑いをいれない。しかし,ここに他の考慮を要する重要な事情があつた。この大規模な,非公式な引揚げは,重大な衛生問題を惹起したのである。また,朝鮮人のもち帰つた莫大な日本金がやみ市場で両替された。朝鮮側の銀行はその受け入れを禁止されていたからである。船舶は他の各地域から貨物および引揚者を輸送するのにいくらあつても足りなかつたのである。こうした事情から,司令部は一定の引揚手続を発表し,日本政府にその実施を命じた。しかし,その効果は即座にはあがらなかつた。朝鮮人が依然として自分たちの手で引揚げを続けたからである。たとえば,11月8日に,司令部は「日本人の運航する船舶が朝鮮と下関地区の諸港の間を往来して無許可引揚げを行なつている。……」といつている(3)。そして,日本政府にその中止を指令した。だが,統制規則が漸次実施され,それがきわめて有効であることが明らかになつた。無許可引揚げは急速に衰え,1945年12月末においては,これを無視してよい程に減少した。

 朝鮮人の引揚げを包括的に処理する司令部の最初の指令は,11月1日に発表された(4)。それは,日本にいる一切の朝鮮人・台湾人および琉球人に対し日本政府の負担で本国に帰る機会を与える責任を果すにあたり,厚生省のとるべき手続を概説したものである。朝鮮人の引揚げについては,とくに4項目にわたる指示事項が記されている。厚生省はつぎの措置をとらねばならないとされた。(1)門司・下関・博多地区,大阪・神戸地区,その他の地区と日本を3大別し,この順序で朝鮮人を送還すること。(2)これらの各地区のうちでは復員軍人を優先的に扱い,ついで,もと強制労務者,その他のものという順序で送還すること。(3)引揚民事務所に移すよう指示のあるまで朝鮮人をその住所に足止めする措置をとること。(4)朝鮮人および中国人の炭坑労務者をおそくとも11月14日から毎日1,000名の割合で出発させること。また,引揚民事務所の混雑を防止し引揚者に無用の苦痛を与えないために,新聞・ラジオにより引揚計画の重要事項をすべての関係者に周知ささせることをも,日本政府に指示した。

 11月1日付指令には,以前の指令が一諸(ママ)になつて含まれている。持ち帰り金の手続きに関するものや,各引揚者が持ち帰れる財産の量を規定した指令である(5)。通貨に関する規定は重要であつて,これは各引揚者が「1名当り1,000円以内の円貨」を携帯できることを認めたものであつて,この額をこえる円貨は,債権証書・財産所有権証書と同様,各人からとりあげてその受領証を与えることとしている(6)。荷物は各引揚者がもてるだけの量に制限された。この通貨と荷物との制限は,以後1948年8月15日まで引き続き有効であつた。これらの規定が,もと日本占領地域から引き揚げる一般日本人に対する制限規定と,主なる点ではちがつていないことは注意してよいことで

ある。

 朝鮮人引揚げの第2期は,1945年12月1日から1946年末までの1年余の期間である。1946年末をもつて朝鮮人引揚げの公的計画は終了した。この期間に約52万5,000名の引揚者が引揚援護局の手をとおつた。実施手続きは完備し,漸次厳格に実施されたけれども,推定5万名の朝鮮人がこの網を逃れた。また,この時期には,通貨および荷物に対する多くの制限が漸次緩和されたし,引揚者の数が急激に減少した。

 通貨に関する規定は,引揚計画の終了前に2度緩和された。輸出規則が1945年12月に修正され,朝鮮人(および中国人)引揚者に対し,日本または引揚先にあたる国で発行された郵便貯金通帳・銀行預金通帳・保険証書を日本から持ち帰ることを許した(7)。1946年3月には,さらに「日本にある金融機関あてにふり出され,それらの機関によつて発行された小切手・為替手形・預金証書で日本で支払わるべきものを持ち帰ること」が許された(9)。しかし,日本と朝鮮の間では一切の金融取引が禁止されていたので,これらの緩和措置はいずれも引揚者個人にとつては大した意味がなかつた。その上,随分努力が払われたが,結局,1,000円の制限は,依然,除かれなかつた。

 これに対し,荷物の方では重要な譲歩が行なわれた。1946年3月16日に出た包括的な引揚指令において,司令部は,つぎのような文句で荷物規定をくり返している。「(朝鮮人・中国人および台湾人)は,所有者に専属する衣類と,身廻品を携帯することができる。しかも,各人が一時に携帯しうる量に限定する」(9),しかるに,11日後にはこのところが削除され,日本政府は4月1日以降,引揚者1名あたり250ポンドまでの身廻品を携行させる権限を与えられた。ただし,荷物をふやしたために引揚計画を遅延させるようなことになつてはならないとされた(1O)。しかしながら,いかなる荷物といえども,所有者が携行しないかぎり船積みすることを許されなかつた。5月になつて2回にわたり司令部はこの規定を守るように日本政府の注意を促がした(11)。

 4か月後に,この方針は廃棄されて,新らしい方針が示された。朝鮮軍政庁の勧告があり,5か月にわたる交渉ののち,司令部は朝鮮人・台湾人および中国人の所有する財産をみずから携帯しない場合でも船積輸送できるという計画を発表した(12)。これによると,所有者に専属する衣類・身廻品・家庭道具類をさらに250ポンド余分に船積輸送することを地方軍政部宛申請することができた。また,「(引き揚げようとするもの)が所有する軽機械および工具は,1945年9月2日現在において一切の質権・抵当権が設定されておらず,重量が4,000ポンド以内であれば」,占領軍の許可をえて輸送することができることになつた。その実施期日は1946年8月1日であつたが,細目指示・書式・正式発表などは9月4日まで行なわれなかつた(13)。9月4日になつて,とくに1項が加えられ,4,000ポンド以上の所有者も,司令部経済科学局から直接許可をとれば,これを輸送することができることになつた。また,その際の諒解では,この方針に均霑する機会は,すでに引き揚げた朝鮮人にも,少なくとも部分的に,与えられるはずであつた。しかし,船舶の便がないので,日本にいる朝鮮人の輸送がすべて終了するまでは,これを実施することが不可能であつた。

 朝鮮人の引揚げがまばらな程に減少し,即時引揚げを望む朝鮮人がまとまつた数に達しないことが明らかになりはじめてから,司令部は引き揚げる資格あるすべてのものに引揚特権を最後的に提供する措置をとつた。すなわち,日本政府は,一切の朝鮮人・中国人・琉球人および台湾人が引揚げを希望するかどうかを決定するために,かれらに登録させることを命ぜられた(14)。引揚げを希望しないと登録したものは,引揚げの特権を喪失した。登録するよう

に通知をうけながら登録しなかつたものは,引揚げを希望しないものと見なされた。指定の期日に50万5,806名の朝鮮人が南朝鮮への引揚げを登録し,9,701名が北朝鮮への引揚げを登録した(15)。したがつて大体13万7,000名が引揚げを希望しないことが明らかになつた。そこで総司令部は,毎日6,000名分の船舶を割り当てた。そして,引揚げを希望する朝鮮人は1946年8月30日までに日本から出国すべしと指令した(16)。日本政府は,呼び出されたとき引揚援護局に赴むくことを拒絶し,日本政府の費用で引き揚げる権利を喪失したとみとめられるもののリストを作成しておくことを命ぜられた。

 しかしながら,残留朝鮮人の多くは,少なくともその当時においては,朝鮮に帰ることにまつたく熱意がなかつた。持ち帰り荷物と財産の制限解除さえも,朝鮮人引揚げ数の不断の減少にほとんど影響しなかつた。携帯によらない財産輸送の申請を行なう余裕を与えるために,かつ,さらに多くの朝鮮人が帰るだろうとの考慮もあつて,総司令部は締め切り期日を9月30日まで延期した(17)。そして後になつて再度の延期を行なつた(18)。しかし,この最後の期日は本当に最後的のはずであつた。総司令部はいつた。「いかなる場合にも,1946年12月31日以後には引揚げ延期を許さない。………朝鮮人は釜山まで送還する。………引揚げを希望するすべての朝鮮人は日本から出国するか,また引揚げの特権を放棄するか,いずれかになる。」不可抗な事情で日本政府の引揚指示に応ぜられなかつた朝鮮人には(19),12月末日までの期間をかぎり一定の猶予期間が認められた。この覚書にもとづいて,正式の朝鮮人引揚計画は,1946年12月末日をもつて幕をとじた。

 朝鮮人引揚げの第3期は,1947年1月1日から1948年8月15日までである。正式の引揚計画は1946年12月31日に終了したが,引揚げそのものは停止しなかつた。少しづつの朝鮮人が引き続き朝鮮海峡を横断した。これらの引揚げに対する占領軍の正式許可は当初は存在しなかつた。しかし,占領軍当局の統制下にある日本の船舶によつて行なわれたものであり,以前と同様に占領軍の定めた規定にしたがつて実施された。ざつと1万5,000名がこの第3期に引き揚げた。

 正式引揚計画終了の直接の結果は,朝鮮人の国外への流出が一時的に停止したことであつた。1947年1月中には,1名の朝鮮人も朝鮮に引き揚げた記録がない。しかし,翌月には引揚げ活動がふたたびはじまつた。そのとき約800名の朝鮮人が締め切り期限に間にあわなかつたことを当局に訴えて成功した。それに続く6か月間に,平均毎日1,200名の朝鮮人が朝鮮に帰つた。これは,これまでの引揚計画を非公式に継続したものであつた。これらのものの多くは,その引揚特権を放棄していたものであつた。しかし,総司令部はかれらの帰国するのを非常に喜んだ。朝鮮の軍政庁当局も引き続き流入するな朝鮮人の受け入れになんらの反対も表明しなかつた。これらの追加引揚朝鮮人が不可抗な事情でこれより以前に帰ることができなかつたという口実は,間もなく不要となつた。というのは,日本への不法入国を企てて逮捕された朝鮮人を送還するための配船が認められ,その船舶に引揚者を乗船させることが許されたからである。日本政府は,また,できるだけ多数の朝鮮人を厄払いしたがつていたので,こんどは上陸地までの鉄道運賃を無料にすることを申し出た。こうして朝鮮人は,実際には前と同じ条件で帰国することができた。しかし,ときに例外はあつたにしても,携帯できない財産の輸送は,これらの「非公式の」引揚者には適用されないままであつたことを忘れてはならない。

 引揚計画はこうして1947年8月の半ばまで継続した。このとき,在朝鮮米軍司令官ホッジ中将は,「引揚朝鮮人はその引揚げの権利を放棄せず,自発的に引揚げを願い出たものにかぎる旨の保証」を総司令部に要請するよう指令した。さらに,「各人が南朝鮮に引き揚げる前に在朝鮮米軍司令部から許可を得る…………」ように総司令部あて具申することになつた(20)。文書の往来があつてから,司令部は引揚げを3種類の朝鮮人にかぎるという指示を発した。

 「(1)不法に日本に入国して逮捕されたもの。(2)連合軍軍事裁判で強制退去の判決をうけたもの。(3)その他総司令部が許可したもの。このなかには,引揚げの権利を喪失しなかつた在日朝鮮人で,引揚げを願いでたものがふくまれ

る(21)。総司令部は将来の朝鮮人引揚げに対する最終的許可権を保持したけれども,実際には第3種の朝鮮人は朝鮮で発付された各自の許可書類を日本で受けとれば,それだけで引き揚げることができた。

 朝鮮人引揚者に個々の許可証を発行するには,随分面倒な手続きがあつた。これから引き揚げようとするものは,日本で申請を行なわねばならなかつた。するとその書類を朝鮮に廻付する前に,まず地方にある米軍情報機関で審査した。朝鮮では,各申請書を米軍情報部でふたたび調査し審査したのちに,「本人は朝鮮にとつて好ましい人間である。または同情すべき事情がある」という理由でこれを許可した(22)。そこで,申請書は日本に返され,「日本政府は申請した朝鮮人に対し,最初の便船で国に帰つてさしつかえないことを通知することになつていた。この手続きは最初から終りまでに2か月から4か月かかつた。

 それにもかかわらず,この手続きは朝鮮人の引揚げにただ一時的なブレーキを加えたにすぎなかつた。1948年5月末日までに1,000名たらずの申請があつて,そのほとんどが許可された。だが,時日の経過とともに,申請者の数が著しく増えてきた。ついに,1948年8月15日には,引揚げを求める申請者とその家族との数が月に500名という目標に近くなりだした。行政上の煩瑣と遅延がつけ加わつたことを除けば,朝鮮人の引揚げは1年前の振り出しに戻ろうとしていた。数字的には,引揚者の流出はほとんど1年前と差異がなかつた。そして引揚げは,通貨および荷物に関する同一制限方針のもとに行なわれた。

 これまでの叙述は,大体,朝鮮人のアメリカ占領朝鮮地域への引揚げについての統計と手続きに関する事項にかぎられていた。ところが,このほかに,引揚げについて注目すべき三つの事項がある。すなわち,朝鮮人の北朝鮮への引揚げ,朝鮮人の日本への不法入国,朝鮮人炭坑労務者の引揚げである。

 朝鮮人の北朝鮮への引揚げに対するアメリカとソ連の両当局間の協定は1946年12月19日になつてやつと成立した(23)。その方針は,主なる点では,南朝鮮向けの引揚げの方針と同一であつて,1947年初頭に実施されて,盛夏までに終つた。ただの351名の朝鮮人が選ばれてこの方法で引き揚げた(24)。しかし,北朝鮮に帰ることを望む朝鮮人としては,いつでも南朝鮮をとおつて訳なく帰ればよかつたのであり,事実多数の朝鮮人がそうして北朝鮮に帰つたことを忘れてはならない。さらに考えてみると,在日朝鮮人少数民族で北朝鮮から移住してきたものはごく少数だつたのである。

 多数の朝鮮人が,その後,不法に日本に再入国しようと企てた。日本に帰りたいという願望は,大体,朝鮮における経済的窮迫によつて促進された。これは戦争前の事情と同様であつた。しかし,また,日本にある財産を取り戻そうとするもの,日本の大学に入りたいというもの,事業を日本にもつているもの,やむをえない一身上の事情のあるものも多かつた。しかし,日本へ旅行する許可をうることはほとんど不可能であつたから,不法手段が用いられた。1946年の7月と8月とで1万7,570名の朝鮮人が不法入国を企てて逮捕された(25)。ところが,その他の多数のものは冒険に成功した。しかしながら,厳重な取り締り手段がとられたので,その結果,この不法な移住は事実上停止したように思われる。

 朝鮮人炭坑労務者の引揚げは特別に重大な問題をひきおこした。すでに記したように1945年4月現在,日本の炭坑には約13万5,000名の朝鮮人が使用されていた。終戦時に,これらの朝鮮人は中国人炭坑労務者とともに,いつせいに,帰国と労働条件の改善を要求した。日本の需要をまかなうためのみならず,南朝鮮の最少限の需要に応ずるためにも,日本の石炭生産を高水準に維持することは緊急事であつた。これがため,日本人労務者をもつて代えることができるまで朝鮮人炭坑労務者を職場に残す必要があつた。こうした考慮にたつて,総司令部の経済科学局は,日本政府に対して,(日本の炭坑にいる朝鮮人労務者が)「朝鮮に送金を希望する貯金と給料とを定期的に集め,それを日本銀行の特別勘定に預け入れるための措置を即時とること」を指令した(26)。

 しかし,この炭坑労務者に対する処置は実施できなかつた。朝鮮人の不満がきわめて深刻であつたからである。総司令部の「総覧」"Summation"第1号は,解放された朝鮮人および中国人の炭坑労務者が「非常に不穏な状態」にあると報じ(27),これを終戦後における3大労働紛争の一つであるとした。総司令部労働局ではつぎのようにいつている。「主として常盤(本州北部)の炭坑地区および北海道においてであるが,労働条件・賃銀・食糧配給ならびに日本人雇傭主の就労規則に反対して行なわれた朝鮮人と中国人のストライキは」非常な重大事件であつた。「これらのストライキは解放された人民が圧迫的な労働慣習に対し本能的に反撥したものである。暴力に訴える事件も起つた。ある場合には秩序を回復し,これを維持するために憲兵が関与しなければならなかつた」(28)。それが1か月たつと,労働争議はほとんど皆無となり,炭坑地帯における朝鮮人・中国人による紛争以外には重大なものはなくなつた。「事実上の奴隷状態から解放された朝鮮人・中国人は,炭坑において労働を継統することを拒絶した。そして暴力と威かくによつて日本人が労働を継続することをも妨害した。(かれらが)解放されて漸次引き揚げたので…………石炭生産はいちじるしく減少する結果となつた」(29)。

 かくして,日本石炭産業の復興の進捗するに先きだつて,紛争を惹起する労務者を引揚げさせることが必要となつた。事実,占領軍官憲ができるだけ早くかれらを移動させた方がよいと信ずるにいたる前に,数千名の朝鮮人炭坑労務者が炭坑を去つた。たとえぱ,ある報告は,1945年8月15日前に北海道では27万名の朝鮮人が炭坑を去り,そのうち12万名は,占領軍が配置につく前に,北海道を去つて朝鮮および日本各地に赴いたと述べている(30)。11月の第3週までに,それらの残留した朝鮮人のうち10万名が引き揚げた。そのほか炭坑に残ることを希望したものも,(会社の所有する)住居を去つて,代りに来る日本人労働者のために場所をあけなければならなかつた。1945年末までに朝鮮人炭坑労務者の大部分が引き揚げた。13万名の朝鮮人・中国人が引き揚げたという記述が,11月の「集録」に見える。そして1946年1月には,このかつての重大問題が過去の問題として扱われている(31)。

注(1)T. Matsuzawa : "New Chosen", Contemporary Japan, 1939年6月,463頁。

(2)この引揚げ及びその後の全般的引揚げの統計に付ては,付録第4表参照,

(3)Scapin(日本政府に対する総司令部の覚書)251号,"Repatriation Reception Centers", (引揚援護局) 1945年11月8日。

(4)Scapin 224号,"Repatriation of Non-Japanese from Japan"〔非日本人の日本からの引揚げ〕1945年11月1日。

(5)このうち最初の指令は,引揚げ待機中の朝鮮人に対し食糧・衣料・仮住居・医薬の用意をするように要求し,かつ,朝鮮から日本人を送りかえしている日本の船を引きつづき朝鮮人の日本引揚げに使用することを許したものである。Scap : Summation of Non-Military Activities in Japan and Korea, No. 1. 1945年10月,10頁。

(6)Scapin 142, "Reception Centers in Japan for Processing Repatriates", (引揚者を待機させるための日本における受入れ機関) 1945年10月15日。

(7)Scap : Summation, No. 3. 1945年12月,140頁。

(8)Scapin 822, "Repatriation". (引揚げ) 1946年3月16日。

(9)同上。

(10)Scapin 822/2, "Repatriation" (引揚げ) 1946年3月27日。ここで参考までに注意したいことは,朝鮮人引揚者が朝鮮で下船するものを目撃したものは,この250ポンドの携帯許可が少なくとも大人の朝鮮人が一時に運び得る数量に対する追加であるかどうかを疑問としたであろうことである。

(11)Scapin 1201-A, "Baggage of Korean Repatriates" (朝鮮人引揚者の荷物) 1946年5月11日。Scapin 1307-A, "Baggage of Korean Repatriates, (朝鮮人引揚者の荷物) 1946年5月22日。

(12)Scapin 927/5, "Repatriation", (引揚げ) 1946年7月13日。

(13)Headquarters Eighth Army, Operational Directive No. 77,"Shipment of Limited Amounts of Korean-owned Property in Japan to Korea". (日本にある朝鮮人所有財産の制限された数量の朝鮮への船積み輸送) 1946年9月4日。

(14)Scapin 746, "Registration of Koreans, Chinese, Ryukyuans,and Formosans". (朝鮮人・中国人・琉球人および台湾人の登録) 1946年2月17日。

(15)Scap : Summation (Japan), No. 11, 1946年8月,255頁。

(16)Scapin 872, "Repatriation of Chinese, Formosans, and Koreans", (中国人・台湾人および朝鮮人の引揚げ) 1946年4月9日。

(17)Scapin 876, "Repatriation of Chinese, Formosans, and Koreans", (中国人・台湾人および朝鮮人の引揚げ) 1946年4月13日。

(18)Scapin 927/7, "Repatriation", (引揚げ). 1946年9月10日。

(19)指示にしたがうことを拒否したものは,最初,失権者リストに記載された。しかし,この抜穴にもぐり抜ける朝鮮人もあつたので,総司令部は指示にしたがわなかつたものすべてに対して刑罰として権利を喪失せしめることを要求した。         ’

(20)G-3 XXIV Corps to OFA USAMGIK, Memorandum, "Repatriation of Koreans from Japan", (朝鮮人の日本からの引揚げ) 1947年8月12日。

(21)Scap to XXIV Corps, 1st Indorsement, 1947年10月11日,to letter, "Repatriation of Koreans from Japan", (朝鮮人の日本からの引揚げ) 1947年8月27日。

(22)G-3 XXIV Corps to Chief of Staff XXIV Corps, Memorandum, "Clearance for Ree Woo Thack, and wife and daughter, and establishment of Policy and procedure for clearance, (李ウータックおよびその妻と娘に対する許可および許可に関する方針と手続きの確立) 1947年10月15日。

(23)Scap : Summation (Japan) No. 15, 1946年12月,224頁。

(24)Scap : Release, "Statue of Repatriation", 1948年2月20日。

(25)Scap : Summation (Japan), No. 24, 1947年9月,33頁。

(26)Scapin 207, "Payments of Savings and Allotments in Korea of Korean Laborers in Japanese Coal Mines", (日本炭坑における朝鮮人労務者の貯金および給料の朝鮮での支払), 1945年10月29日。

(27)Scap Summation, No. 1, 1945年10月。45頁。

(28)同上,81頁。

(29)Scap : Summation, No. 2, "1945年11月,99頁~100頁。

(30)USAMGIK, Repatriation, 66頁。

(31)Scap : Summation, No. 2. 1945年11月,100頁;Scap : Summation, No. 4, 1946年1月,96頁。

 

朝鮮人連盟およびその他の団体

 日本か降伏するやいなや,朝鮮人団体が自発的に沸きあがつてきた。そのすべてのものが,「日本に在住する朝鮮人の権利を増進するとともに,その生命財産を保護すること」を主張した(32)。最初,それら団体の名称は,結成の地域に応じてさまざまであつた。しかし,やがて,統一の必要性が認識され,これを実現する指導者が現われた。真に驚嘆すべき組織的努力が払われ,その結果として,急速に単一団体が創立され,在日本朝鮮人連盟(訳者注,以下著者は「連盟」 League と略称しているが,訳では「朝連」の語を使う)と称した。

 しばらくの間は,朝連が唯一最大の団体であり,朝鮮人の大多数を傘下においた。朝鮮人を引き続き掌握しようとして日本全国に支部を増設した。そしてその存在を朝鮮人にしつかり意識させるために,途方もなく大きな活動を展開した。そのためにしばしば非合法手段に訴えた。また,朝連はもつぱら政治活動に従事し,日本政界の共産主義派と提携した。その結果,ついに一部が朝連から分離して並立団体を結成するにいたつた。朝連はこれらの団体と不断に宣伝戦・実力戦をまじえた。

 利害関係と希望が共通であるところから,朝連の指導者は急速に無数の小さい地方の朝鮮人グループを強力な中央機関に編入することに成功した。1945年8月15日,「指導」委員会と「対策」委員会が,東京と大阪で「区」単位に設けられた。これらの委員会が,県単位の「準備委員会」に統合された。ついで,県単位組織の代表者がより広い地域を単位とする組織を作るために招集された。10月17日,在日本朝鮮人連盟総本部が結成された。東京に中央事務局,各県に地方事務局,市および区に支部が設けられ,朝鮮人の密集しているところは市区以外にも支部が作られた。

 朝連の活動は非常に広汎であつて,朝鮮人の利害に関係すると思われるすべての分野に及んだ。日本の政界に参加する以外に,朝連はみずから多くの政治運動を行なつた。普通は,現代朝鮮史の重要な日を記念したり,またはかれらが朝鮮人に不利だと考える日本政府もしくは占領軍の政策に抗議したりするためのものであつた。これらの政治集会において,朝連は日本側の「圧迫」に対し朝鮮人を保護すると約束した。そして,朝連の活動に協力するものには,経済的保障と社会的平等を与えるという餌を差し出した。他の領域では,福祉機関として活動し,朝鮮人の教育に足をふみいれ,その他の文化活動を行なつた。個々人の問題については,朝連は朝鮮人の不平が,正しいものであると否とを問わず,大衆を動かすものでなければとりあげなかつた。朝連は,援助を行なうにあたつては,朝鮮へ引き揚げようとするものと,日本にとどまろうとするものとの区別をしなかつた。そして事実,しばらくの間は朝連が朝鮮人引揚計画の中心となつて活動した。要するに,朝連は朝鮮人大衆に対してその存在を主張し,連盟員を掌握するためにあらゆる手段をとつた。

 朝連の活動中,もつともはなばなしかつたのは,朝鮮人引揚げに関する活動であつた。多数の朝鮮人は,即時引揚げを要求した。これがため,朝連はその力を強化する好機を与えられた。もつとも引揚げで連盟員は当然に滅少するわけであつた。ことに大阪地区の朝連は自分達で引揚げ計画をたてて,それを管理した。運輸省と大きな船会社は船舶を朝連の処置に委ねることを要求された。同時に,朝連代表は日本官憲に協力して,大阪その他の港に朝鮮人を輸送する特別列車を仕立てることを計画した。引揚者のために,運賃は本人が自発的に支払うか,または能力に応じて払うということにしたりした。朝鮮に持ち帰るべき荷物とか通貨に対する制限についても,もちろん不幸はほとんどなかつた。

 引揚げが占領軍の指揮下に入つたとき、朝連の役割は変化したが,しばらくは,依然活発に活動した。日本政府は朝鮮人引揚げのため,毎日一定の船舶量だけは確保させられた。また,これに応じた特別輸送列車の計画もたてられた。朝連は日本政府に圧力を加えて,船室の割り当てをうけるべき朝鮮人を選定する仕事を扱うことになつた。朝連はこれで非常な権力をえた。というのは,事実上,朝連が引揚特権喪失者リストの作成者になつたからである。したがつて,もし,朝連が希望すれば,自己の親しいものの引揚げを延期し,その代りに無関係のものを呼び出すことができた。あるいは,報酬を出すものだけに便宜を与えることができたのである。あれやこれやで,朝連が朝鮮人引揚げの筋書を妨害したので,ついに総司令部はつぎの指令を出すこととなつた。「…………朝鮮人の引揚げを計画し実施することは日本帝国政府の責任であり,…………この責任は全的にしろ,部分的にしろ,いかなる朝鮮人団体にも委任さるべきではない」(33)。

 その他,各種の方法で,朝連は朝鮮人と朝鮮人のおかれている地位や団体の問題に介入した。朝連はかなり広汎な厚生運動を展開したが,一部は自己の財力により,一部は日本の厚生省から捻出された財力によつたものである。1946年の和歌山の地震,翌年の関東地方の洪水にあたつて,朝連はとくに罹災朝鮮人の救済に活動した。朝連は強力な部隊を動かして報復を行なつたのみならず,法の執行および判決に関する司法機構の応用を阻止して朝鮮人を擁護した。実際,ある地方では朝連は刑事上の朝鮮人被疑者すべての引き渡しをうけてその管理下におくことを要求した。調査を行なつて起訴された犯罪事実があつたときには,ふたたびこれを日本側へ引き渡すというのであつた。しかし,これは実現されなかつた。また,朝連は,根本的には朝鮮民族文化の内容をもつたひろい文化運動を計画した。映画をつくつたり(おもに記録映画形式の宣伝的映画であつた),また書籍・新聞を発行した。しかし,教育問題にはもつとも熱心であつた。この問題は今少し先に論じよう。

 朝鮮人の間に,その活動を行なうに必要な権威と手段は,主として僣取,臨機応変主義,暴力で獲得された。すでに朝鮮人引揚計画についてみたように,朝連は前もつて政府の権力と特権を奪取した。日本政府を軽蔑し,占領軍の指令を無視した。やみ屋活動・詭弁・恐喝によつて財源を獲得した。これらの手段はたびたび必然的に協力な戦術に訴えることになつたが,朝連はこれによつて,その思い切つた計画をある程度実現することができた。

 朝連が事務所を入手した手口は,端的に朝連のやり方を明らかにしてくれる。東京に連絡事務所として使用するため,元朝鮮総督の建てた近代式ビルディングがあつた。朝連はもち前の押しでもつて朝連総本部に使用するためその半分に近い場所を先取した。それだけならよいが,さらに進んで,若干の住宅をも占拠した。これまた,元総督府関係の半官半民団体の名義になつているものであつた。しかも,これら資産の一部を売却することさえした。大阪では,朝鮮銀行の建物に移り,実力で追い出されるまで動かなかつた。朝連は,いわば,総督府が力で剥ぎとつた朝鮮の衣鉢をうけつぐのだ,というのがその弁明であつた(31)。しかし,このような理由のふり廻せない場合には,必要な施設を占拠し,あるいは力づくで借りいれた。そして,こうした場台,その行動の合法性を詰問されたら,朝連では長いこと抑圧されてきた朝鮮人大衆の代表であるから道徳的にその資格があると答えたにちがいない。

 朝連のとつた広範囲の非合法手段,法律無視のやり方は,その活動資金の賄ない方に現われている。もつとも重要な財源は,朝鮮人引揚げであることがわかつた。総司令部が引揚げを管理する以前には,引揚者は自分たちの汽車賃を支払つていた。鉄道運賃が無料になり,この無料規定が1945年10月15日にさかのぼつて実施されたとき,朝連は日本政府に払いもどしを要求して,明らかに成功した。総司令部は,これがため,つぎのように声明せざるを得なかつた。「払いもどしを行なうときは,各個人に支払わねばならない。しかし,各個人が引掲げてしまつているから,ある団体が正当な代理権をもつてそうした個人の代理者として行動しているという合法的証拠がなければ,これは明らかに不可能な要求である」(35)。さらに重要な財源は引揚者自身からもたらされた。朝連は,多数の引揚者に勧めて銀行預金帳・郵便貯金通帳を朝連に預けさせた。朝連は大蔵省との直接交渉によつてこれらの預金を引き出すことができた。それは総司令部の命令で厳重な制限の枠に入つていたものであるが,1946年1月から4月の間に1億円以上が引きだされた。

 朝連のいま一つのドル箱は,朝鮮人の元日本人雇傭主に対する数多い請求権であつた。総司令部の指令は,日本軍隊またはその機関や,日本の会社に勤務し雇傭されていた朝鮮人に対する差別的取扱いを禁止していた。これを楯にして,朝連は朝鮮人労働者を雇つていた日本人会社とつぎつぎに交渉した。会社が支払いに応ずるところでは,朝連は個人にかわつて古い賃金・別居手当・死亡手当・傷害手当などを受けとつた。会社が朝連を法的根拠のある代理人と認めないときは,強制手段に訴え,これがたびたび功を奏した。しかも,被傭者は,たいてい朝鮮に帰つていたので,こうしてとつたものは,大体朝連の金庫にはいつた。

 そのほかに注目すべき朝連の収入源は,やみ取引であつた。朝鮮人は朝連の連盟員の資格で,不法なやみ取引に従事したのではなかつたが,朝連はそれによつて間接に儲けたのであつた。朝連は若干の露店商団体をその保護下におき,問題の起つたときはその交渉手腕を発揮した。しばらくの間,朝連は東京警視庁と協定を結んで,これから利益をえた。というのは,警視庁は朝鮮人のやみ商人を襲撃して没収した商品を公定価で朝連に売つたのである。そのかわり朝連はその物資を困つている朝鮮人に配給することを約した。しかし,これをやみのルートに流すことがしばしばであつた。

 朝連の金と力は,大部分が強力な政治活動をまかなうのに使われた。朝連は,その発足間際から日本共産党の組織する大きな政治的示威運動に参加した。実際,朝鮮人共産党員と日本人共産党員の古強者が最初から朝連の運動を指導した。最初からでなくとも,とにかく,設立直後にかれらが指導権を掌握したものと思われる。

 まず第1に,朝連の組織と構成は,朝鮮における人民共和国のそれと非常によく似ている。人民共和国は,1945年9月7日,アメリカ占領軍が朝鮮の仁川に上陸したとき,地方において勢力を有し,ある程度は全国的にも勢力をもつていた。この人民共和国は,やがて共産主義者に乗つとられ,(共産系)南朝鮮労働党の中核となつた。地方に散在する委員会が強力な中央機関として自発的に団結したが,それが自発的であるかどうか怪しいという点では朝連も人民共和国も同じであつた。全国的に有名な人物呂運亨が人民共和国の名義上の首領となり看板になつたように,朝連は有名なクリスチャンで政治的に穏健派である尹槿を会長にかつぎあげた。両者とも実権は中央委員会もしくは総本部にあつた。地方支部の幹部は,民主的手続きで決定されたのに,中央に近づくにしたがつて幹部選出に対する連盟員の発言は弱まつた。これらの相類似した事態が単なる一致でなかつたことは,朝連の大物小物の役員13名からなる代表団が1946年初頭,朝鮮に赴き,人民共和国の全国総本部員と正式に膝を交えたことからも推測することができる(36)。

 朝連初期の政治活動は,朝連と日本共産党との間に緊密な連携の存したことを明示している。たとえば1945年11月,東京で行なわれたボルシェヴィキ「10月革命」記念祭の公表写真には,はつきり朝鮮の旗をもつた旗手がのつている。朝連は,1946年のメーデーの集会に参加したのみならず,連合国対日理事会あての有名な書簡に11名の日本共産党員とともに署名した。この書簡は,対日理事会のアメリカ人議長が公言したように,「外国語」で書かれた最初のものであり(37),日本労働階級の不平を詳記したものであつた。このときの朝連代表者であり,かつ,朝連の政治的方向づけにもつとも功績があり,その一貫した性格を保持するのにおそらく他の何人よりも有力であつた男は,金天海であつた。かれは朝連の最高幹部であり,また日本共産党中央執行委員会の一員でもあつた。

 さらに,占領軍の公式記録によると,朝連が,初期においては,占領軍側から日本政界の極左翼の一分子とみられていたことは明らかである。総司令部は,1945年12月,月次報告において,朝連を日本3大極左政党の一つにあげ,これを共産系としている(38)。アメリ力側情報機関の調査では,朝連と共産党の間の緊密な紐帯を確認し,周到な機構上の交錯と統合関係を示す図表を作成している。また十分に確認されたわけではないが,右情報機関の工作エ座員は,日本共産党のために全国に資金を配布する役目をしたのが朝連の伝書使であることを報告している。

 朝連の指導者たちは全朝鮮人の抱いていた統一への力強い欲求を自分たちの目的に利用する老練さをもつていた。この老練さのおかげで,朝連は一大組織運動を展開し,当初のこるは在日朝鮮人の圧倒的大多数を代表すると主張することができた。しかし,朝連の大胆な計画が内部に政治的亀裂を生ずるにいたることは避けがたいことであつた。1945年の末に,二つの別の団体ができた。これらの団体は,朝連の優勢な地位をひどく脅かすものではなかつたが,朝連に対して激しく公然と競争関係にたつた。

 朝連内におけるこのような分裂は,まず朝連と対立する在日朝鮮建国促進青年同盟(訳者注,以下「建青」と略称する)の創立となつて現われた。その名誉会長として建青は朴烈をかつぎあげた。かれはおそらく日本における一番有名な朝鮮人であり,現在の天皇に対する大逆罪で1924年から1945年まで,政治犯として投獄されていた人物である。しかし,建青を実際に支配したのは,小さな一団の青年たちであつた。かれらはその背景からいつても,経験からいつても,大体が新顔であつて,ただ戦後日本経済の廃墟の上にかれらが築きあげた財力によつて指導的地位にのし上つた連中であつた。政治的にはかれらは立派な右翼であつた。また連盟およびソヴィェトを奉戴する北朝鮮政府を否定し,むしろ米軍地域の李承晩派に属するとみられた。朝連と同じように,建青もあらゆる政冶的機微を逃さず,朝鮮の国慶日は慶祝するし,朝鮮に関する米ソ合同委員会の開催というような重大時に際しては関係の米官辺に陳情運動を行なつたりした。だが,建青は日本の政治には余り深入りしなかつた。ただし,日本社会党とは若干の接触があつた。原則的な問題や,朝鮮の名誉が攻撃されたりして危険にさらされたときには,穏和な手段に訴えて圧力を加えるというのが,建青が朝鮮人のために行なつた政冶運動であつて,まずそれ以上に出ることはなかつた。他面,建青はまた機関紙をもち,若干の学校を創立し,小規模ではあつたが,文化活動・厚生活動にも携わつた。建青がいかほどの会員数を得たかは明言しえないが,実力において遥かに微力とはいえ,建青は朝連につぐものであつたとはいえる。後になつてこの建青が中核となり,その周囲に右翼諸派のゆるい連合体が作られることになつた。

 この連合体のできたのは,1947年の半ばごろであつたが,これは朝連反対

派が統-戦線を形成しようとして久しく努力してきたその努力の結実であつた。この連合体に加わつた他のおもな党派は,小さくてあまり有力でない新朝鮮建設同盟だつた。これまた青年の団体で,一般会員も指導者も建青と交錯していた。ここにいう新しい連合体がすなわち朝鮮居留民団であるが,これは建青の作つた紙上機関にすぎないといつても不正確ではあるまい。民団の重要な役職はもと建青役員によつて占められ,しかも建青は正式には解体しなかつたからである。

 右翼朝鮮人団体と左翼の朝連とはたえずいがみあつた。建青からいわせれば,朝連役員は罪人であり共産主義者であつた。朝連側からみれば,建青は「裏切りのならずもののギャング」であつた。かれらの思想上の争いが縄ばり問題についてはしばしば暴力斗争となつた。おたがいに好んで事務所を襲撃しあつた。一度は東京の華族会館の真前で堂々と射撃戦も行なわれた。妥協と統一の試みが行なわれなかつたわけではないが,一つも成功しなかつた。かれらが,たまたま同調したのは,全朝鮮人に共通な権利または利害が危険となるようなきわめて稀な場合に限られていた。

 朝連と建青のほかにも沢山の朝鮮人団体があつた。いずれも科学・交化・事業などの特珠な利害関係から生まれたものであつた。このような団体は,もちろん,どんな社会でも存在するものであり,とく少数民族の間にあつては当然のものである。ただし,このように団体を簇生させることによつて朝鮮人が日本人社会の主流からさらに遠ざかつたことだけは指摘しておかねばならない。また,このような団体は,すべて政治的には日和見的であつたが,通常,戦後日本において朝鮮人全体が享受した独特の身分はいつでも十分にこれを利用したのである。 

注(32)USAMGIK : Repatriation 付録,157頁。

(33)Scapin 927/2, "Repatriation", (引揚げ)1946年5月20日。

(34)朝鮮の「人民共和党」との類似を指摘しておきたい。「人民共和党」は久しく自分を朝鮮の合法政府と称していたが,占領軍が「共和国」という国本における総督府財産に対する権利を,人民共和党の掲げた朝鮮における主権宣言から,援用したのであろう。(訳者注,ここにいう人民共和党 People's Republic Party in Korea は,当時の人民共和国の中核となった「人民委員会」あるいは呂運亨の党首となった「人民党」のいずれかを指すものと思われる。)

(35)Scapin 685, "Pailway(ママ) Fares Charged to Koreans", (朝鮮人の負担した鉄道運賃). 1946年1月31日。

(36)代表団は非合法の旅行をした。これに関して,数か月後に代表団員を強制退去しょうとする考慮が払われたことは興味深い。これは主として日本への不当な再入国を理由としてなされる筈であった。しかし,これに対して朝鮮人側が広汎な反撃を行なうことが確実視されたので,沙汰やみとなった。

(37)Mark Gayn : Japan Diary, New York, 1948年,217頁。

(38)Scap : Summation, No. 3, 1945年12月,20頁。

 

アメリカの占領政策

 総司令部が日本の舞台に登場したとき,朝鮮人が大声をあげてこれを歓迎する用意をしていることに総司令部は気がつかなかつた.そして,朝鮮人はまつしぐらに故国への引揚げに殺到したから,発生せんとしている問題もこの引揚げによつて解消すると推定したのはまた当然であつた。したがつて重大な朝鮮人少数民族問題の存在が認識されるには相当の時間を必要とした。そのうえ,朝鮮人対策の樹立について総司令部はほとんど他にたよるところがなかつた。上級の政策機関から与えられていた基本指令には,在日朝鮮人に対し自発的に本国へ引き揚げる機会を付与すべし,との規定が含まれていたけれども,特殊な要求に関するものを除いては,その後ワシントンからはなんらの指示も行なわれていなかつた。総司令部内にも在日朝鮮人に関する事案を主管する機関が一つもなかつた。占領当初の二,三か月間は,とくにそうであつたが,大体において占領軍の各機関がその正規の日常業務を遂行する際に,朝鮮人問題に当面すると,そのときそのときに処理していたといつてよい。これらの機関が出した指令は朝鮮人に有利なものが多かつたが朝鮮人少数民族に対する首尾一貫性ある政策を構成するものでなかつたのはやむをえない。

 朝鮮人少数民族の立場に対する総司令部の最初の反応は同情的なものであつた。朝鮮人炭坑夫がストライキをやつたり,従前契約労働者だつたものが,日本人の雇傭主に平等の給与を要求したりしていた。引揚者に対する冷淡な処遇,差別的な警察上の取り扱いや訴訟上の慣行が騒然たる抗議をまき起していた。さらに,日本の法律中には明らかに朝鮮人のみならず,他の在留民にも全体主義的な統制を課する条文があつた。指令による民主化の流れが朝鮮人の間におけるこれらの障壁を取り除いた。同時に,特別法による差別待遇を防止することを目的とする指令も出た。その間指令によるにせよ,実際の政策によるにせよ,占領軍は朝鮮人に対して日本人以上の特権的地位を与えるように思われた。しかし,同時に,他の指令では,実際にそう書いてはないが,朝鮮人の地位は日本人と同様であるという意味がくみとれた。占領のそもそもの当初において,若干の総司令部の指令は,はつきり朝鮮人を指しているのではないが,かれらがこれまで日本人の下で苦しめられてきた法律による圧迫と差別とから朝鮮人を解放した。たとえば,以前日本の軍隊に服役した朝鮮人,あるいは日本人の会社にやとわれていた朝鮮人に対する差別待遇を禁止せよというようなことが部分的に特記されている。ここに一つ初期の指令がある。これはその後の部分的な指令に対する基本をなすものであるが,つぎのことを命じている。すなわち「一切の法律・勅令・命令・規則の規定にして,これを適用したとき…人種・国籍・信仰・政治的意見の別によつて個々人の立場を不利にしたり,または有利にしたりするようなものはすべて廃止し,その運用を即時中止すること」というのであつた(39)。この指令はさらに,治安維持と思想取締りに関する法律を列挙し,思想・言論・集会などの統制にあたる内務省の部局を廃止することを命じている。このようにして協和会の崩壊は時日問題となつた。

 総司令部は,成文法でないところの差別的な不文法,すなわち差別的慣行に対して正面から攻撃を行ない「〔雇傭政策において〕…いかなる労働者に対しても,国籍・信条または社会的地位を理由として絶対に差別を行なわないよう保証すること」を日本政府に指令した(40)。なお,このとき,さらに,引き揚げないで日本に残留する朝鮮人には,「国籍については同じような事情のもとで日本人に与えられると同一の権利・特権・機会が保証されるだろう」と布告した。また,占領軍ではたらく機会は,引揚げ待機中の朝鮮人に対しても差別なく与えられる筈であつた。その後,間もなく「日本にいるいかなる個人または集団でも,就労不能の理由で配給物資の配給迂を受ける際に不利な差別扱いをうけたり……あるいは政治的・宗教的・経済的信念の相違のため差別待遇をうけることなからしむるため,即刻必要な施策をおこなうべし」との指令が発せられた。これにより少なくとも紙の上では,朝鮮人はその利益をうけることとなつた(41)。これは,ついで「差別的また優先的取扱いをすることなく,すべての貧窮者にひとしく適切な食糧・衣料・宿舎・医療」などを与える規定にまでひろげられた(42)。

 占領軍のとつたその他の行動は,朝鮮人の解放がかれらの地位を日本人よりもいくらか上にひきあげたという考えを強めるものであつた。ある場合には,朝鮮人は日本の法廷で特権的地位を与えられた。1946年2月の総司令部の覚書は,「……朝鮮に帰還する意志あることについての適当な証拠を提供した朝鮮人に対し,日本の刑事法廷が下した判決は,総司令部が審査し,しかるべき措置をとるものとする」と述べている(43)。この措置は,日本の法廷における救済手段がつくされた後,はじめてとらるべきもので,かつ,いかなる場合にも,すでに下された判決を重くすることをしないというものであつた。さらに,「占領軍の安全に対する有害な行為……許可を得ないで占領軍の財産を所有・取得・受領または処分すること」(44) および,その他の類似の違反行為を日本の刑事法廷の管轄外とした諸指令は,他の者と同様,朝鮮人をも日本法律適用の圈外におくことに役立つた。少数の朝鮮人は,通訳・翻訳者などのようなものとして,占領軍に直接雇傭され,他の外国人なみのすべての特権をゆるされた。その特権には軍の食糧・宿舎はおろか,徽章をとりさつた制服着用までも許す規定をふくんでいた。朝鮮人の財産は,通常占領軍用に徴用されることがなかつたし,また,そのほかにも地域的に,あるいは個人的にかれらを優遇する措置がとられたことは明らかである。

 しかしその他の総司令部の発表からうかがわれるところでは,朝鮮人は連合国国民またはその他の特権的集団と同一視されるものではなく,法的には日本人と一括して取り扱わるべきであるとの考え方があつた。連合国国民・中立国人・敵国人を定義した最初の総司令部の指令では,朝鮮人をこれらの範疇のどれにも含めていなかつたし,また「戦争の結果,その地位に変更を来した諸国」(アルゼンィン・フィンランド・イタリア・スカンディナヴィア)の国民としても取り扱つてはいなかつた(45)。糧食などの特別追加配給を無国籍人,中国領事館の証明ある台湾人をふくむ多くの在日外国人に対し支給せよという指令のあつたときにも,朝鮮人については言及されなかつた(46)。その後,総司令部の政策は,連合国国民の特別配給を,日本在住のすべての外国人に適用することを必要としたが,「この指令は,日本残留をえらび,かつ日本人同様の割り当てを受けている朝鮮人に対する食糧割り当を変更するものと解してはならない。」ことをとくに強調している(47)。訴訟手続については,総司令部は,連合国国民に対する日本の刑事裁判権の行使を禁止し,日本の法廷が裁判することを許されていた連合国国民をふくむ民事事件については,再審権を留保した(49)。しかし,朝鮮人はこれらの特権からは除外された。なお特別財産税法および増加所得税法による税の支払いは,とくに連合国国民には免除したが,朝鮮人にはこれを課した。

 朝鮮人の地位についての疑わしい点は,すべて短時日にぬぐいとらるべきであつた。数千人の朝鮮人が引き揚げようとしないことは明らかであつた。占領の仕事は,朝鮮人がいなければ比較的平穏である筈だつたが,主として朝鮮人諸団体の無責任な行動のために,在日朝鮮人が大きな障害となつた。すでに大阪地区では,所管当局でもある地方軍政部から1946年3月の登録に際し引揚げの希望を表明した全朝鮮人の強制引揚げを要求する提案が出されていた。この勧告は強い言葉でのべられていた。もしそれが承認されておれば,朝鮮人の人口を約13万5,000名までにへらすことができたであろう。しかしこの提案は,もしこれを採用するとすれば,引揚げは自発的なものとするとの米国政府の誓約をやぶる結果となり,かつ根深い反撥を招くおそれありとして拒否された。さらに,また,総司令部は,1946年5月ごろには,すでに一定方針を決定したうえ,新しい政策に対するワシントンの極東委員会の承認を得ていた。

 1946年11月12日の公式の新聞発表では「総司令部の計画によつて故国に引き揚げることを拒否する朝鮮人は,日本国籍を保持するものとみなされるであろう」との声明が行なわれた(49)。朝鮮人の活溌な抗議にかかわらず,この基本的政策の声明には,なんらの変更も見られなかつた。その声明発表後,総司令部は,在日朝鮮人に影響を及ぼす事柄について直接手を触れることはあまりなかつた。その後,総司令部が干渉した場合でも,その行動に以前ほどの同情・寛容さは見られなくなつたのが目立つた。総司令部の眼からみれば,法的には日本に朝鮮人はもはや存在しないのであつた。朝鮮人はすべて日本人になつたからである。とはいえ,朝鮮人問題は依然としてあとを絶たず,その処置をしなければならなかつた。大部分これらの問題は,総司令部の既定の広い政策のわく内で,日本政府の自由裁量に委ねられた。

注(39)Scapin 93,"Removal of Restrictions on Political Civil and Religious Liberties", (政治的・公民的・宗教的自由についての制限の除去),1945年10月4日。

(40)Scapin 360, "Employment Policies", (雇傭政策),1945年11月28日。

(41)Scapin 404, "Relief and Welfare Plans", (救済と福利計画),1945年12月8日。

(42)Scapin 775, "Public Assistance", (公共援助),1946年2月27日。

(43)Scapin 757, "Review of Sentences Imposed Upon Koreans and Certain Other Nationals", (朝鮮人および他の特定国人に対する判決の審査) 1946年2月19日。

(44)Scapin 756, "Exercise of Criminal Jurisdiction", (刑事裁判権)

(45)Scapin 217, "Definition of United Nations, Neutral Nations and Enemy Nations", (連合国・中立国・敵国の定義),1945年

10月31日。結局,朝鮮は,オーストリア・フィンランド・イタリア・タイならびにソ連支配下のバルチックおよびバルカン諸国の「特殊地位国」と同一視された。Scapin 1912, "Definition of United, Neutral, Enemy, Special Status and Undetermined Status Nations," 1948年6月12日。

(46)Scapin 1094, "Ration for United Nations Nationals, Neutral Nationals and Stateless Personss", (連合国国民・中立国人および無国籍人に対る食糧配給),1946年7月30日。

(47)Scapin 1841, "Ration for United Nations Nationals, Neutral and Enemy Nationals and Stateless Persons", (連合国国民・中立国人および無国籍人に対する食糧配給),1948年1月9日。

(48)Scapin 756, "Exercise of Criminal Jurisdtion" (刑事裁判権),1946年2月19日。Scapin 777, "Exercise of Civil Jurisdiction", (民事裁判権),1946年2月26日。

(49)David Conde : "The Korean Minority in Japan", Far Eastern Survey, 1947年2月26日,45頁。

 

日本の役割

 日本政府の初期の態度で明らかな特色をなすものは,朝鮮人に対する日本政府の権限の不明確さであつた。日本政府の統治機構は一掃され,その代りに支離滅裂の指令が沢山出たが,それらの指令が知らされ,了解されても,朝鮮人の定義や,朝鮮人の行動に応じて日本政府の管轄権も動くように思われた。朝鮮人自身の途方もない主張や図太い行動は事態をすつきりすることに役立つこともなかつたし,とくに政府機関の所在地から遠く隔つている場合は,抑制することも困難であつた。朝鮮人は自分らは解放民放で,日本人は敗戦国民であるとのあまりにも単純すぎる考えをしやべりまわつた。在日本,在朝鮮のいずれをとわず,朝鮮人は日本の法律がかれらに適用されるわけが理解できず,そのために愉快気に日本の法律を無視する態度をとつた。最終的に検討した結果,「日本の警察は法と秩序の維持に対し責任を有するものである」とのことがとくに総司令部から通告されていても(54),日本政府は,朝鮮人が関係している場合は,用心深くことにあたつた。

 それにもかかわらず,日本政府は極めて効果的に朝鮮人にやり返しをした。あるときは,総司令部の指令を出し抜き,または回避し,思慮深い高圧戦術に訴えることにより,直接朝鮮人に対し圧迫を加えた。また,あるときは,主要な武器として宣伝と諷刺が用いられ,その攻撃は,日本国民か,または,占領機関を間においた間接的なものであつた。

 引揚計画の実施にあたつて,日本政府はくりかえし総司令部の指令の精神をおかし,またしばしばその明文に違背した。引揚援護局や引揚船の不満足な状態について,総司令部はくりかえし指令して正しくするよう注意を与えた。この不満足な状態は大部分が施設・給与の不適正によるものであつたが,一方,朝鮮人はほとんど顧みられないでもよいというように朝鮮人を犠牲にしながら,日本人引揚者はできるだけの好遇を受けるべきだとしたのは当然のことであつた。朝鮮人の持ち帰りを許されているものが抑えられ,また没収を命ぜられたものに対しても受領証が与えられずに終つた事例が多かつた。朝鮮人に適用される引揚政策の規定を日本政府が十分に朝鮮人に知らさなかつたことは,多分に故意とみなさるべきことであるが,実際重大なことであつた。自分たちは引揚げが強制的なものであると理解させられたと、後になつて不満を述べた朝鮮人が多い。事実上行なわれた手荷物・通貨制限の緩和などは,適切に公表されなかつた。手荷物以外の財産の船舶積送の計画を朝鮮人に周知せしめるためにあらゆる手段をつくすようにとの総司令部からの明らかな指令があつたにもかかわらず,しらべてみると,九州地区でただ1回の発表があつただけで,それも細目の立案以前,すなわち実施期日の決定以前であつた。

 同様な計略が他の方面でも用いられた。朝鮮人炭坑夫は,朝鮮に送金をゆるすとの総司令部の指令の規定については知らされなかつた(51),総司令部の命令を無視して,日本政府は政治上の理由で処罰されていた数名の朝鮮人を獄中に入れていた。このような場合,あるときには,確実に釈放させるために総司令部が特別指令を出したこともあつた(52)。総司令部の一指令は,刑期を服し終わり,正式に釈放出所を許されるまでは,日本政府が朝鮮人受刑者の引揚げを行なうことを禁じたが,これは,「当該判決を免除したり,軽減する日本政府固有の特権をいかなる意味においても侵害するものと解さるべきでない」と付加していた(53)。総司令部の意向をまげて,日本政府は,これを引揚げの条件として判決を赦免しようとする方策に利用した。さらに一歩を進め,日本政府は,引き揚げなければ投獄すると威嚇して多数の朝鮮人を追放するのに成功した。朝鮮人の日本への不法入国抑制に関する総司令部命令の実施,および人口の都市への移動防止を口実に(54),日本側当局は,1946年9月,大阪において,朝鮮人だけに登録制をはじめたが,これは戦前の協和会の不断の警察的監視の特色を具体化したものであつた。この登録は,占領軍当局の承認なく行なわれた。

 不良朝鮮人による掠奪・不法活動の事実を拡大して,日本官憲は新聞のたすけをうけ,朝鮮人に対し猛烈な宣伝戦を行なつた。この宣伝の重点は,原則的に朝鮮人のやみ市の活動,その乱行および日本への不法入国の脅威におかれた。1946年7月13日の東京毎日の社説に「朝鮮人の戦後の生活振りは、卒直にいつて日本人の感情を不必要に刺戟している」とのべ,また付言

して,朝鮮人のやみ市商人は,「かれら自身の生活保護に急なあまり,政府の食糧・物価政策に悪影轡を及ぼすもの」としている。右論説は,「朝鮮人は,政府統制の範囲外にあるが,〔しかし〕,日本に残留する朝鮮人は,日本の警察力行使を否認する地位にないというのが,マッカーサー司令部の意見である」と結論している(55)。他の新聞は,朝鮮人や他の外国人のために日本人の露店商人が直面させられた不公正な競争について報じ,かつ,朝鮮人・台湾人の武装ギャングにより白昼公然と行なわれる暴力沙汰・強奪・掠奪を痛嘆した。  

 日本の国会においてもまた叫びがあげられた。その叫びは,故意に人種的憎悪の火をかき立てようとする中傷的性質を帯びるようになつた。北海道選出の進歩党員椎熊三郎の8月17日の演説は,ある程度長く引用する値打がある。椎熊氏はその中でつぎのようにのべた。

「降伏のときまで,日本人として日本に在住してきた台湾人・朝鮮人が,あたかも戦勝国民かのように威張つているのをわれわれは傍観黙視しておれない。なる程われわれは敗戦国民に違いないが,降伏の最後の瞬間まで,日本の法令下に生活してきたものが,急に征服者のように振舞う態度をとり,なんらの許可もなく占領軍専用の鉄道車輌にのり込み,日本人乗客を侮蔑・圧迫し,あるいはその他の場所で言語道断の暴力を働くことは慨嘆に堪えない。これら朝鮮人・台湾人の行動は敗戦の苦しみの中にあるわれわれの血をわきたたせる。」

「朝鮮人は,すべてのやみ市場活動の中核をなし,またかれらの無法な行動は今日の日本のすべての商取引や社会生活に影響を及ぼしている。かれらは警察をはばからず,輸出入禁制品の取り引きを誇示し,またなんらの税もはらつていない。流通新円の3分の1は今やかれらの手中にあるとの風評がある。石橋湛山大蔵大臣は1週間前,国会で500億の流通円の中200億円は,『引き揚げずに日本に残つている第三国人の手の中』にあると述べた。もしこの風説にして真実とするならば,無力の日本商人は,それら朝鮮人・台湾人の全体と対抗できない。事実,大阪・神戸においてはすべての露店・飲食店は朝鮮人・台湾人の手中に帰したといわれている。」(50)

 総司令部は,1946年8月の新聞発表によつて,うつかりして反朝鮮人的興奮を助長した。その発表は,つぎのようにいつている。「約5,000名の朝鮮人が夜陰にまぎれて上陸したが,検挙され,〔本国に〕送還された。朝鮮人の流入は健全な占領と日本人全体に対する脅威である。来入するかれらのあるものは,コレラ・チブスをひろめるおそれがある。…また,あるものは,やみ市場で活動する目的で日本にきた。最近日本から引き揚げた他のものは,朝鮮に送り帰されるときに残して行かねばならなかつた家財や貴重品をあつめている。」(57) このような不利な新聞記のため,必然的に,朝鮮人は,官憲の念入りの差別的な取扱いを受けるとともに,折にふれ日本人市民からも苦しめられた。

 日本人側攻撃のいま一つの鉾先は,朝鮮人たるものがつまらないものであり,犯罪性があり,また信用しがたいものであることを占領軍に思いこませることに向けられた。とはいえ,翻つて朝鮮人の協力なしでは満足な仕事は一つとしてできなかつたであろう。しかし,日本人側は,朝鮮人により行なわれた非行の数々を詳細に報告するのをやめなかつた。ときには,朝鮮人の妨害が,日本側が占領指令を履行しないことの口実にされた。朝鮮人がアメリカ官憲に近づくためには日本人通訳に頼らざるを得なかつたが,その通訳が朝鮮人を不利な地位におかんがため,故意に訪問の理由を曲げたりしたことがたびたびあつた。あるとき,一日本刑務所が占領官憲の差し迫つた臨検を予告された際、朝鮮人だけが収監されているように見せるために,日本人受刑者全員をその日だけ「仮出所」を許した。どんな事件が起ろうとも,日本側は,朝鮮人の脅威はどうすることもできないと見せかけていたように思われる。それは,朝鮮人に対する統制上の強大な権力付与を得ようとしたからである。

 日本側が朝鮮人に対して欲した権限は,「処遇上は」朝鮮人を日本人として類別した1945年11月の声明に含まれていた。この政策を承認するにあたつて,ワシントンの極東委員会は,朝鮮人を,敵意ある日本人分子から保護することに注意が払わるべきことを付け加えた。これらのおそれは,根拠のないものではなかつた。朝鮮人は,日本人として取り扱われる筈ではあつたが,取扱いをするものは日本人自身であつた。朝鮮人の法的地位が明確にされたことは,朝鮮人に対する差別運動が故意に醸成され,全国的規模を呈するようになる時期がここにはじまつたことを意味する。朝鮮人に対し,新しくはじめられた差別的取扱いの顕著な特色は,組緻的な警察の威嚇であつた。専断的捜索と逮捕は,朝鮮人をほとんど防ぎようのない不断の圧制的恐怖におとしいれた。日本の公私の機関は一緒になつて朝鮮人の権利を足下にした。その結果,日本における朝鮮人の地位はますます不安なものとなつた。

注(50)Scapin 61, "Looting by Chinese Laborers", (中国人労働者による略奪),1945年9月26日; Scapin 1111-A, "Misconducts Committed by Koreans", (朝鮮人により犯された暴行),1946年4月29日。

(51)2年後,日本政府は,同案による集金額についての総司令部の説明要求を無視した。

(52)Scapin 1181, "Release from Prison and Repatriation of a Korean National", (朝鮮人の刑務所からの釈放と引揚げ),1946年9月5日。

(53)Scapin 729, "Repatriation of Korean Prisoners", (朝鮮人受刑者の引揚げ),1946年2月11日。

(54)Scapin 1735-A, "Suppression of Illegal Entry into Japan", (日本への不法入国阻止),1946年7月16日; Scapin 563, "Control of Population Movements", (人口移動の統制),1946年1月8日。

(55)Conde 前掲書,42頁。

(56)同上書,42頁~43頁。

(57)同上書,43頁。

 

朝鮮人の経済的地位

 不幸にして,戦後の日本における朝鮮人の経済的地位を統計的に説明することは困難である。そこで,この点についての論説は,いささか概括的なものに限らねばならない。第1に,以前の契約労働者をふくむ経済的最下層の朝鮮人の大部分は,できるだけはやく朝鮮に帰つた。さらに,比較的裕福な朝鮮人分子が日本に残留したのは,その所有財産を朝鮮に移転することができなかつたからに外ならないことも思いあわせるべきである。これらのものは,しばらくの間,非常に繁昌をきわめた。同時に,朝鮮人の他の分子は,最初のころは,終戦時の戦時産業における失業や経済的混乱の影響をあまり蒙むらなかつた。朝鮮人は,やみ市場において非常に活溌に動き,また有力な朝鮮人団体から経済的その他の支持をうけた。しかし,まもなく朝鮮人の経済的運命は悪い方へと変つた。朝鮮人の法的地位の問題が決定された後は,新経済施策と日本人側の差別的圧迫により,全朝鮮人社会の経済的地位は,急速に悪化することになつた。 

 朝鮮人企業家は,占領の第1年目ごろは,自力で非常にうまくやれたようである。朝鮮人は敗戦による土気沮喪くらいのことでへこたれることもなかつたし,また漫然と政府あるいは適当な産業統制団体が繰業再開を命ずるまでぐずぐずしてはいなかつた。かれらはストップされた原料使用についての占領軍当局の不承認などを気にすることもなく,また賠償の可能性とか,工業生産高の向上とかを気づかうこともなかつた。若干の朝鮮人,とくに繊維品製造業者は,軍の酒保への納入契約を得ることにより安全な販路確保に成功した。朝鮮人の法的地位の不明確さのために,かれらはその製品の一部を公定価格により占領軍用として「徴発される」こともなく,また朝鮮人の小売業者に直接製品をさばくことにより,仲買人の通常の利潤が排除されることもしばしばであつた。さらに,若干の少数朝鮮人は,目先のはやい日本人に名義を貸して工場主とさせられたようである。もつとも,それら日本人は,後日,その所有権をふたたび主張するにあたつて,非常な困難をなめた。集積された資本は,生産事業に再投資される傾向にあつた。中島航空機発動機工場は,日本におけるこの種事業の最大なものでまた賠償の対象と目せらるべき最初の会社の一つであつたが,朝鮮人実業家グループが,この全体の買収について,占領軍の承認を得んとした努力は,この顕著な例といえよう。

 日本に残留した朝鮮人中のあるものは,以前かれらが占めたものより非常に高度な経済的地位を得たようである。これは,手広いやみ市場取り引きとか,あるいはかれらの日常でない地位や勢力を不当に利用することによつて成しとげられたものであり,それ以外には,他のどんな手段で達成されたかを想像することは困難である。もつとも,非常に多くの朝鮮人がこの繁栄を享受したとするのは誤りであろう(59)。たしかに,朝鮮人雇傭の前途は常にきびしいものであつた。なぜならば,かれら朝鮮人は,日本人のように熟練していなかたつし,また一般に朝鮮人の雇主によつてのみ機会均等を期待し得るに過ぎなかつたからである。そして,大体,朝鮮人の法的地位がはつきりしくると同時に,全経済戦線にわたる統制強化が,あらゆる階層の朝鮮人に重大な影響を及ぼした。最初にとられた施策の一つは露店または街商という名のもとにかくれたやみ市場を公認することであつた。古いやみ市の機構をとりこわす際に,日本警察はときおり日本人商人には事前に警告し,朝鮮人その他の非日本人業者にたいしては抜打的手入れを行なつた。さらに露店などの営業許可を日本官憲から得ねばならなかつた事実は,朝鮮人をそれだけ不利にした。

 1946年末には,朝鮮人社会は決定的な経済的退潮期に遭遇した。不法所得の源は,ますますかれらに閉ざされていつた。総司令部の示唆で発せられた飲食店閉鎖命令は,とくに朝鮮人にとつて非常な打撃であつた。大阪だけでも600軒以上のこの種朝鮮人所有の営業店が影響をうけた。さまざまの日本人業者の団体からしめ出された朝鮮人実業家は,原料入手や製品販売にあたつて困難した。朝鮮人製造業者が差別的な商取引き上の慣行からいくらかでも自由になるためには,日本人の援助をうけねばならなかつた事例が少なくなかつた。工業管理についての複雑な法規を日本側が実施する際に,その実施は公平には行なわれなかつた。朝鮮人ゴム製品製造業者に製品の完全加工が許されたことはたしかにそうであるが,技術上の欠陥を理由として製品は没収される結果に終つた。沿岸航路用船舶にある朝鮮人の積荷は,朝鮮向け密輸の容疑でいつでも没収された。また。日本人が海外貿易をはじめたとき,朝鮮人輸出業者は,輸出承認を取るために,日本政府機関の貿易庁を説得するのに困難をなめた。

 朝鮮人社会は,その経済的頽勢に対しほとんどなすところを知らなかつた。ほとんどの全朝鮮人がぞくしていた日本の都市住民層自身も,経済的に極度に疲弊していた。何万人という日本人が失業または劣悪な条件で雇傭されているかぎり,職を得ることは,朝鮮人にとつて不可能であつた。日本政府の朝鮮人に対する失業救済・保健その他の厚生事業用資金の額は,いうに足りないものであつた。そして朝鮮人は,同様に困窮している日本人とはちがつて,頼るべき農村近親者のような人々をもたなかつたから,かれら朝鮮人の窮状は絶望に瀕したものであつた。ほとんどの朝鮮人にとつて,依然として,引揚げだけが最後の手段であつたが,とくに実業家にとつては,通貨と財産の移転制限はどうにもならない障碍となつた。ほとんど無一物ながらも,貧困で人口過剰,そのうえ二分されている故国に僥倖をたのんで日本を去ろうとする朝鮮人はほとんどなかつた。諸要素をかれこれ計算して,朝鮮人は大部分日本に残ることにきめた。

注(58)1946年3月現在で1,000名たらずの朝鮮人が,10万円以上の資産を所有していたとみられ,したがって特別財産税の適用をうけた。

 

3 大事件

 1946年末,60万を僅かにこえる朝鮮人が日本に残留していた。公式の引揚計画は終わり,残留朝鮮人は少なくとも当分の間日本に居残ることをえらんだ。そうすることにより,かれらは,実際には,日本人となることをえらんだ訳である。しかし,その法的地位如何にかかわらず,かれらは,集団としては,依然として多分に朝鮮人であつた。事実,かれらは,かれらを「日本国民」の呼称で呼ぶことは有効なものといえないとしてあくまでもそれを拒否した。法的な用語以上のものが,ともに生活している本当の日本人から朝鮮人を引き離していることを,かれらはその行動によつて十分に明らかにした。在日朝鮮人の基本的態度を表明したものとして,三つの事件をとくによりぬくことができる。同時に,かくして朝鮮人が直面した両主役たる総司令部および日本政府の政策とその実施の性格,ならびにこれら3勢力が如何に牽制しあつたかが明らかにされ得よう。

 これらの事件の最初のものは,1947年初頭の財産税法公布に関連して起こつた。これは各個人の富の平均化を実現しようとした高率の累進課税で,1946年3月3日現在で,10万円以上の評価資産所有者に適用された。連合国国民をのぞく全日本居住者に課せられるものであつた。朝鮮人・台湾人・その他の少数の諸外国人にこれを適用するとの決定は,ワシントンの極東委員会により承認された。

 この法律で,課税対象となる財産を所有する朝鮮人は,1,000名を僅かに上廻る程度であつたにかかわらず,朝鮮人社会は,一体となつてこの施策のどんな朝鮮人に対する適用にも,強く反対した。かれらは,主として精神上の根拠からこの立場をとつた。朝鮮人は,この課税の必要は,日本の侵略戦争遂行の結果であつて,戦争に対する責任はなんら自分たちにはないから,朝鮮人はこの税金を支払うことを要求されるべきでないと主張した。外国人はその居住する国の課税法律に服するとの国際慣行に反して,連合国 国民が免除されている点が指摘された。そこで日本の専制下40年にわたり苛斂誅求の結果,貧困と奴隷に追い込まれた朝鮮人には,同様な特別の考慮が与えられるべきである。財産税の支払いは,多年の苦闘により築きあげた朝鮮人の資産を涸渇させる大負担となるであろうと主張した。この理由により,課税するどころか,むしろ損害賠償請求権が朝鮮人にはあるはずである。なおまた,(これこそ恐らく論議の真のねらいであろうが,)在日外国人中,ほとんどただひとり朝鮮人のみに対し財産税を行なうことは,朝鮮の国家的矜持と威信に対する重大な侮辱であるというのであつた。

 対朝鮮人財産税に対する朝鮮人の反撃は,その制定前でさえ明らかであつたが,右法律実施とともに,朝鮮人の反対はさらに強固なものとなつた。1946年12月13日,在日朝鮮人大会(朝連主催)の議長は,マッカーサー元帥あての決議文をおくり,その中に「われらは,日本人に適用され,外国人には適用されない諸法律からわれわれを免除するよう貴下に歎願する。われわれは外国人に属するものであり,賠償支払いに関連するこういう諸法律をまもることはできない」(59)と述べている。

 3月1日,独立運動記念大会でよまれたマッカーサー元帥あての特別歎願書中には,つぎのことが記されていた。すなわち,「解放民族の名誉にかけて,このように不公正にして屈辱的な法律は,われわれにとりたえ難いばかりでなく,これにしたがうことは不可能なことである。」(60) 1947年4月には,建青の職員たちは総司令部の外交局長と会見し,財産税免除の歎願に対し,個人的考慮を払われんことを要請した。

 組織化された反対のもつとも印象的事件が在日朝鮮人生活擁護委員会の掩護のもとに起こつた。この委員会は朝連により指導され,また朝鮮人多数の代表を含むグループであり,その目的は朝鮮人の法的地位の声明および財産税とたたかうことであつた。1946年12月20日,3万以上の朝鮮人が,これら二つの問題についての指導者の演説をきくべく,皇居前広場に集合し,その後吉田首相官邸前を行進した。この大会と行進を挙行する承認は,事前に日本の警視庁から受けていた。その演説はいずれも挑発的または煽動的なものではなかつたが,デモ隊が首相官邸前を行進中,小さないざこざが発生した。それは日本警察と朝鮮人行進者との間の不遜な言葉のやりとりの結果からのようであつた。

 その騒ぎが起こつたときに,10名の朝鮮人代表が吉田首相官邸内において歎願書を提出していた。集団暴行については政治的団体指導者に責任ありとする総司令部の政策によりこの10名の朝鮮人が暴動参加と煽動のかどで告発された。これらの行為は,占領軍の安全に有害とされ,この10名は12月26日,軍事裁判にかけられた。朝鮮人による弁護準備期間の要請も拒否された。裁判において被告中の1名だけが,犯行につき同一人であることが証人により認められ,また10名のだれも事件当時に首相官邸から外へ出たという証拠はなにら出されなかつた。実際に暴動に参加したとか煽動に共諜したとかの証拠もなかつた。それにもかかわらず10名の全被告は有罪となり,それぞれ禁錮5年,罰金7万5,000円の判決をうけた。この判決はその後1年の禁錮に減刑され,後に,この裁判がひきおこした広範囲な不評の反響に大きく影響され,朝鮮への強制送還にふりかえられた。一アメリカ人観察者はこの訴訟手続を評して「あらかじめ決定済みの判決に到達するための素通り的な法的手続」と特徴づけた。朝鮮にいるアメリカ人の法律家たちは,裁判記録を再検して,朝鮮人被告側の「暴動の煽動を構成する各個の,または共同の活動を明白に示す十分な証拠はみられないようだ」(61)との信念を表明した。しかし,強制送還命令は遂行され,また3か月後には,大会の主催者の委員会に関係したさらに3名の朝鮮人が裁判に付され,これもまた送還された。

 朝鮮人の激烈な抗議にもかかわらず,財産税をかれらにも及ぼすとの規定はなんら修正を見なかつた。しかし,朝鮮人は1人として税金を期日前に払わなかつた。1年間だけの延期を保障する規定があつたが,大抵の朝鮮人がこの規定に一時逃れをした。ともあれ1947年7月末までには朝鮮人からの資本課税は徴収されなかつた。かつ,若干の朝鮮人は,今日もなお依然として不払いの態度をかえないでいるのではなかろうか。

 朝鮮人による財産税問題の論議が下火になつたと思うも束の間,今度は外国人登録法に反対する抗議がもち上った。1946年秋,日本政府が大阪地域居住の朝鮮人に特別登録をなさしめようとしたことがおもいだされる。この努力は成功しなかつた。しかし,その登録実施が誤解されたにかかわらず,その趣旨は健全なものであつた。行政上も管理上も,在日全外国人の登録は非常に必要であつた。それで総司令部の示唆を受け,日本の国会は1947年の外国人登録令を制定した。登録が主として朝鮮人を目標においたことは否定できない。なぜなら,かれらは日本においてはるかに数多くかつ厄介な少数民族であつたからである。しかもこの登録は,占領軍構成員あるいはそれに付随するものをのぞく在日全外国人の一斉登録を要求するものであつたから,なにら差別的なものではなかつた。

 しかしながら,不幸にして,登録令は,いろいろの重要な点で朝鮮人の感情を害するようなものであつた。登録が写真・指紋・登録証の常時携帯の要件をふくんでいたことから,憎むべき戦前の登録の類似規定をおもい起こさせた。在日朝鮮人で,不法在留でないことを立証するに困難を感ずるものがすくなくなかつた。当時人口10万以上の都市に転入することを禁止する規定があり,一般の朝鮮人の生活は,この規定をうまくさけて都市に入りこむことにかかつていた。したがつて,登録証をもたなければならないということになると,この人口移動が当然にできないことになる。さらに,朝鮮人は,引揚同胞の配給通帳を使用して二重配給をとることになれていたが,登録はこのごまかしを暴露することになる。さらにもつともな根拠にたつていえば,朝鮮人は,登録の目的だけでかれらを外国人として区別するその法律の文句を好まなかつた。なお悪いことは,日本側が周知宣伝を行なうにあたつて,朝鮮人は法的には日本国民であるが,外国人登録法の適用をうけねばならぬ点を意地悪く不賢明にも強調したことである。

 朝鮮人はかれら全体の重大関心事として,例により団結して正式に5項目の異議をとなえた。かれらの主張は,(1)登録は確立された国際的手続きに基づいていない。(2)登録は各種朝鮮人団体により行なわれるべきで,日本政府によりなさるべきでない。(3)朝鮮人は外国人としての十分なまた継続的な取扱いが与えられるべきで,登録目的のみのために外国人取扱いを受けるべきでない。(4)在日朝鮮人の生命財産は,正当に保護されるべきである。(5)日本政府は,日本人に朝鮮人の地位を理解尊重させる措置を講ずべきである(62)。もちろんこれらの議論は,外国人登録令に厳密にあてはまるものでなかつたが,占領軍当局と日本政府の政策によつて朝鮮人に与えられた地位を決して受容しないという,かれらのあらたな決意を反映するものであつた。

 しかし,占領軍当局は朝鮮人の立場にほとんど同情を示すことなく,もし多数の朝鮮人が登録しなければ,かれらの指導者が責任をとわれるだろうと発表した。登録に応じないものに対しては,厳罰があるにかかわらず,朝鮮人諸団体は,その会員に登録令に従わないよう指令を発した。この指令は起訴の根拠を与えることを避けて口答(ママ)で行なわれた。したがつて,1か月の登録期間が1947年7月31日で終つたが,朝鮮人はほとんど登録しなかつた。60万の朝鮮人の逮捕裁判は,不可能な仕事であつたから,登録の締切は8月31日まで延期された。8月10日までに東京在住の朝鮮人のわずか3パーセントが登録し,大阪では5パーセントであつた。8月22日,総司令部は,登録の目的は,朝鮮人たちの権利を保護するもので,制限するものでないことを強調する新聞記事発表をしなければならなかつた。登録令の規定に対する朝鮮人団体の反対意見を注意深く検討したことは,右の新間発表にも述べられているが,だからといつて,なにら朝鮮人より登録の責任を解除することにはならなかつた。この種の甘言と罰金・禁錮・強制送還による威圧とを併せ用いて,ついに朝連と建青に8月31日前に全朝鮮人を登録させることをその支部に指令するよう説得した。そうしてさえ,全朝鮮人の登録が終つたのは10月になつてからであつた。登録の結果の特色は,朝鮮人自身以外何人も窺がい知ることができないほど,在日朝鮮人の数の多いことが判明したことである。

 登録が完了して間もなく,外国人登録に興味あるサイドライトを投ずる一つの事例が生じた。100名ちかい朝鮮人のー団が,朝鮮にいる近親知友を訪問するために,3か月の予定で登録開始の前に横浜をたつた。そうすることで,かれらは片道の引揚げ以外の日鮮両国間のすべての旅行を防止しようとする日本と朝鮮双方の厳重な管理をたくみに出し抜いた。しかし,かれらが横浜の自宅に帰つたとき,かれらはもちろん,外国人登録証を所持しなかつたため,逮捕された。そこで,かれらの処置が,活発な論争の種となつた。かれらは不法に日本に再入国したということで,強制送還に付されることになつたが,他方,かれらは日本国籍を有するのだから,日本への入国を拒否すべきでないという弁護論も主張された。かれらは,朝鮮の政府当局の関知するかぎりでは,朝鮮国土に足をふみ入れておらなかつたのであるから,朝鮮人としての資格をまだ獲得するにいたつていなかつたのである。結局,かれらは登録されたうえで,日本残留を許された。しかし,朝鮮人は同様のことが再び起こらぬよう用心をした。いくばくもなくして,引揚朝鮮人がかれらの友人または団体に自分たちの登録証をのこして行くことが普通となつた。このことが停止されたとき,この種の証明書の活発な闇取引が日本側・朝鮮側双方の港で行なわれるようになつた。

 在日朝鮮人を巻きこんだこれらすべての事件を完全に顔色なからしめた大事件は,l947年1月に,朝鮮人の教育問題について起こつた破局的事件であつた。朝鮮人社会の解放後,かれらの最初の関心事の一つは,朝鮮人児童の教育であつた。とくに朝鮮人は,現存の日本の教育制度を通じて,かれらの教育目的を達成しようという努力はほとんどしなかつた。そのかわりに,朝鮮人は自治的な教育計画を樹立・運営することにより,かれら自身の方法でこの問題を解決する道をえらんだ。こうした方針を支持する主張にも理由はあつた。第1に,ちかい過去の記憶がなまなましく朝鮮人の心に残つていた。日本の降伏前,朝鮮人児童は,日本の学校に入学を許された場合,被征服民族の人々にとつては,とくにのろわしい盲目的愛国主義教育を受けさせられた。したがつて,朝鮮人は,戦後日本のたどる教育方針にふかい不信をいだいていた。第2に,戦後日本の学校施設はまつたく不適当であつた。戦争により荒廃したうえに,占領軍用,その他教育以外の目的に転用されて減少していた。日本人引揚者の流入と戦時要員の解放により,学校施設は負担過重となつていた。そこで朝鮮人は,日本側が,朝鮮人児童に対し教育の機会を与えんとする好意をもつているとしても,実際にそれができるかどうかを疑がつた。第3に,終戦時,朝鮮人は日本に残留させられるようになるなどとはほとんど夢想だにしなかつた。そこで,かれらの関心は,朝鮮語の授業と間近かにひかえた故国での生活についての教育とを早急に始めることであつた。最後の要因であり,おそらくもつとも重大な要因は,つぎのことであつた。すなわち,教育についての朝鮮人社会の希望を満すように配慮するばかりでなく,また朝鮮人教育の形式・実体を管理するうえでも,朝鮮人団体休,とくに朝連がすでに既得権をもつているということであつた。

 1946年9月末までに,朝連は,小学校525,中等学校4,高級の学校または学院12を「北海道から九州・鹿児島にまで」設置するに成功していた。1947年10月には,これらの数字は小学校541,中学校7,青年学校22と高級の学院8となり,学童・生徒6万2,000名と教員1,50O名をもつにいたつた。(63) 若干の朝連の学校は,朝連所有か,または朝連によりとくにたてられた建物内にあつたが,他のものは日本人建物のあいている時間を利用した。事情はさまざまであつたが,一般に朝連による教育は,日本側の最低標準から遥かに劣つていた。学童対教師の割合は,しばしば50対1以上であつた。教師は知識・訓練ともに貧弱であつたし,教員免状のないものが多かつた。また、教科書は標準以下のものであり,かつ,供給も不足がちで,大部分は朝連の手で朝鮮語で編集・刊行されていた。教科は,組織化されておらず,また不完全であり,多くの場合,教授内容は強い共産主義的傾向を帯びていた。このことはもちろん,初等級より上の朝連学校では,なおさらであつた。事実少なくとも「高級の学院」の中の3校では,共産主義的方針に則した思想教育がもつぱら行なわれた。

 朝連系のほかに,建青もまたその傘下におそらく40ほどの学校を擁していた。大体,それらの学校の標準も低いものであつたが,日本側および占領軍当局側の見地からは,建青系諸学校の教科の思想的内容は,朝連系のものほど反対すべきものではなかつた。ところどころに,とくに京都には,無所属で非政治的な朝鮮人グループの経営する少数の朝鮮人学校があつた。重要な教科上のちがいはあつたが,大部分,これらの学校の標準は,日本人学校に匹敵するものであつた。たとえば,京都のある無所属系学校で使用の教科書は,在朝鮮軍政庁承認の現地学校用のものの複製であつた。

 当初,占領軍当局は速成の朝鮮人教育計画を公式にみとめなかつた。占領軍当局の注意は,むしろ,日本人教育から好ましからざる特色を排除するという根本目的に集中された。教授要目と教科書の改訂,教師の補充,教授の方法,訓練の補正がなされて後,はじめて,総司令部の民間情報教育局は,学校の施設・便益といつた関係諸問題に,その精力を集中することができた。1947年10月になつて,はじめて「朝鮮人諸学校は,正規の教科の追加科目として朝鮮語を教えることを許されるとの例外を認められるほかは,日本(文部省)のすべての指令にしたがわしめるよう日本政府に指令する」との提案がなされた。(64) こうして,2年以上の間,占領軍当局は,非常な苦難と経費をかけて設立された朝鮮人学校の分布網には干渉しなかつた。事実,場合によつては,朝鮮人は,地方単位で,独自の計画を推進して行くよう励まされたことさえある。地方の軍政府機関も,日本側の占領政策の遂行ぶりを監視するのに忙殺されていたころは,こうした負担に煩わされることを欲しなかつた。

 同時に,日本人自身も,明らかに朝鮮人の計画にほとんど反対しなかつた。多くの場合,日本側は学校建物,その他の施設を朝鮮人に一時的に使用せしめることに応じていた(なんらかの圧迫でこれに応じたことはもちろんである)要請により日本の教育関係官が朝鮮人諸学校を視察し,きわめて少数のものだけが私立学校関係法律の規準にかなつていると証明したことは事実である。証明申請をしなかつた朝鮮人学校について,右の法律を実施するための努力はまつたく払われなかつた。多くの朝鮮人学校は,公認されていなかつたため,日本政府から財政的,あるいはその他の援助を受け得なかつた。さらに,これらの学校は,自治的に運営されていたため,総司令部がはじめた根本的な教育改革の主流はこれら学校にはふれることなく素通りした。

 しかし,総司令部はながい間,日本の学校制度機構の根本的変革を行なおうと計画しており,この機会を選んで,朝鮮人学校をも日本法律の範囲内に入れようとした。そこで,1948年1月24日,日本文部省は,朝鮮人経営学校についての方針書を発した。学校教育法,その他の日本の教育関係諸規則は,朝鮮人諸学校にも適用されること,朝鮮人児童は法的基準に合致した公立,または私立の学校に就学すること,朝鮮人学校の教師は,政府法令にしたがつて審査に付せらるべきことが各都道府県知事あてに通達された。(63) 同時に,追加通牒が出されて,朝鮮人を,すべての日本人学院構内から引き払らわせることを要求した。もし朝鮮人学校が認可をうければ,特別教科目として朝鮮語を教え得るということが朝鮮人に対する唯一の懐柔策であつた。正規の教程,あるいはその他の科目が朝鮮語で教えられるとしても,それは義務教育制度を補足するための特別学級または特別学校でなされねばならぬというのであつた。

 日本側官辺は,2月末まで,上記政策の発表をおさえていたようであつたが,朝鮮人は他の方からその消息を知つた。1947年12月ごろには,早くも若干地域の朝鮮人は,設備と教師陣を整備して,学校の水準を引き上げる詳細な案を作成することに着手した。しかし,多くの朝鮮人は,朝鮮人学童に対する基本的教育目的は,朝鮮人市民としてのかれらの将来の役割に対して準備する教育でなければならないと考えた。かれらは,日本人諸学校における民主化の進捗に疑いをもちつづけ,また日本式教育はかれらの目的に資するものとは考えなかつた。

 朝連指導のもとに,朝鮮人教育の自律権維持のため非常な努力が行なわれた。朝鮮独立運動記念日の行事として,朝連は1948年3月1日に大阪で1万5,000名ちかい朝鮮人を大会に参集せしめた。公式決議として,そこで採用された10のスローガンの一つは「在日朝鮮人教育の自治権の確認」であつた。(66) 朝連は,他の朝鮮人諸団体の代表を加えた朝鮮人教育対策委員会を組織したが,この委員会は4点からなる「朝鮮人教育自律の原則」案を作成した。この4原則とは,つぎのとおり。(1)教育用語は朝鮮語とする。(2)教科書は,朝鮮人委員会で編さんし,かつ,総司令部の検閲を得たものを使用する。(3)学校の経営管理は,朝鮮人父兄がそれぞれ個人の能力に応じてこれに参与する。(4)日本語を必修課目として採用する。(67) 大阪駐留第25師団長あてに,朝鮮人学童から約200通の同文の手紙が送られたが,これは朝連の指導によるものであつた。(68) この手紙の本文の一節をつぎに掲げよう。

「わたくしたちは大阪の朝鮮人小学校男女生徒です。わたくしたち朝鮮人兄弟姉妹を無情な日本の圧制下より解放されたのは偉大な貴国軍隊でありました。……それで,尊敬するわたくしたちの諸先生が,自国語で朝鮮の学科を自由に教えて下さることのできるよう貴下の貴重な御考慮をお願いいたします。どうか先生方に自由をお与え下さい。そうしてこの先生方のもとで,教育をうけた生徒が,将来世界の他の独立平和愛好の国に立派に伍して行く強く統一された独立朝鮮の形成・擁護に役立つことができるようにして下さい。」(59)

 これらの,また類似の戦術もなんらの効果はなかつた。認可をうけない朝鮮人諸学校に対する閉鎖命令が4月1日に全日本にわたつて実施された。

 特殊な事情により,教育問題が神戸市において,もつともすごい強烈さをもつて爆発した。神戸在住朝鮮人の原籍地は大抵南朝鮮であつたが,神戸市長はかつて南朝鮮のある道の知事であつた関係もあり,朝鮮人に対しことさらに敵意を示した。他方,神戸の朝連事務所の陣容は,とくに強情な連中からなつていた。日本当局との交渉の基礎として,神戸の朝連は,一連の決議を採川した。その中には,つぎのような事項があつた。「(1)日本当局は,明らかに,すべての既成事実をみとめることを拒否し,かつ,朝鮮人から教育の自主権を奪う傾向にある。…(4)新しい施策は,朝鮮人教育に干渉することを意味し,かつ,抑圧行為であるので,朝鮮人は絶対にこれに反対する。(5)…朝鮮人は教育法…には{反対}しないが,使用言語・教材および運営方法は,従来通りであることを要望する。…(8)(神戸の)三つの〔日本側〕建物からの立ち退きは,3,000名の学童を街頭に投げ出すことになり,かつ朝鮮人も税金を納めている以上,これら学校の使用権をもつものであるから,この建物を返還することに同意できない」。(70) 朝鮮人の要求が変更されない以上,代案のあり得ないことは明らかであつた。しかし,公平にみて,日本側は妥協案に到達するため,なにらの重要な企図をしなかつたといわねばならない。

 このような状況下にあつては,行きづまりを打開するものは,ただ暴力だけであつた。三つの日本側学校建物からの立ち退きの最後の期限は4月15日となつていた。14日に数千の朝鮮人が県庁前に抗議のため集合し,朝鮮人委員会がかねてから要求していた知事との会見の成り行きを待つた。知事が現われなかつたので,委員連は県庁の建物内にすわり込み,知事の現われるのを待つた。その夜,2名の朝鮮人代表が,アメリカ憲兵に逮捕された。それは憲兵が,県庁が暴行現場となつたとの報を受けたからであつた。しかし,かれらはすぐ釈放された。翌日の夕方になつても,知事は依然として姿を現わさず,右朝鮮人たちは退去を命ぜられたにかかわらず,県庁内からたち去ることを拒否した。しばらくたつて,暴行沙汰がおこり,65名の朝鮮人が実力による立ち退きを強行されている中に日本側警察の手により逮捕された。これをきつかけとして緊張は頂点に達し,突撃と逆襲のもみあいとなり,朝鮮人の示威,警察側の解散命令,暴動と血まみれの鎮圧により,事態は急速な悪化を来すことになつた。ついに4月24日,激昂した朝鮮人群衆が外側で見張る中を,500名の朝鮮人が県庁建物内に突入し,知事室になだれ込んだ。この種の強迫のもとにおかれ,かつ,電話線切断により,外部との連絡を断たれた知事は,「(1)さきに発せられた学校閉鎖命令の撤回,(2)(日本側)学校返還の延期,(3)(さきに逮捕された)朝鮮人の即時釈放」に同意した(71)。右の趣旨の文書を受領のうえ,朝鮮人らは引き揚げた。いわゆる「神戸の包囲」は6時間にわたつて行なわれた。

 4月25日早暁,神戸およびその周辺地域において,大量の逮捕がはじまつた。総司令部の許可を得て,現地軍司令官は,非常事態の宣言を発した。これは日本占領史上最初にして唯一のものであつた。第8軍総司令官アイケルバーカー中将は,事態収拾のため,26日みずから現地に到着した。130名あまりの日本人共産党員のほか,約1,600名の朝鮮人が逮捕された(72)。 このほか,1か月あまりにわたる紛争中,日本警察により逮捕された朝鮮人は,おそらく3,000名に達した。数百名の負傷者をだし,一方,物的損害は数百万円に達した。長期にわたつて精査された結果,8名の朝鮮人と10名の日本人共産党員が大阪の第8軍軍事委員会の審問を受けた。1948年6月28日,全被告に対し,占領目的に有害な行為をしたかどで有罪と認めるとの判決が下された。この朝鮮人たちは,1年ないし3年の禁錮刑に服役後,強制送還する旨を宣告され,一方,日本人被告は,3年ないし4年の禁錮刑を言い渡された(73)。

 一方この間,日本のその他の都市においても,はなばなしさではやや劣るが,難事件が起つていた。朝連はデモ実行者を特別列車により随所に移動させて,それを有効に利用することまでして,数えきれない程のデモを行なつた(74)。しかし,概して総司令部の態度は,まことにおだやかな慰撫的なもので,大部分の地域では,学校の閉鎖および立ち退き命令突施の延期が認められた。それも朝連を満足させるところとならず,小さな紛争は神戸事件発生時までつづいて起つた。もつともこのときから,朝連は闘争場裡からは引きさがつて,総司令部のいう条件で自己経営の学校に対する認可を得ようと努力しはじめた。かくして不安な小康は得られたが,問題に対する最後の解決はそれから1年あまりたつた後の朝連自体の解散によつてはじめて得られた。

注(59)OFA USAMGIK to the Military Governor USAMIGK, Memorandum "Application of Capital Levy Tax to Koreans in Japan", (在日朝鮮人への財産税の適用),1947年6月30日。

(60)同上。

(61)Department of Justice USAMGIK to OFA USAMFIK, Memorandum, "Trial of Koreans in Japan", (在日朝鮮人の裁判) 1947年3月?

(62)Tokyo Liaison Office USAMGIK to OFA USAMGIK,Weekly Report, 1947年7月14日~20日。

(63)朝鮮人連盟,陳情書,1948年6月15日。

(64)Tokyo Liaison Office USAMGIK to OFA USAMGIK, Weekly Report, 1947年10月19日~25日。

(65)Scap : Summation (Japan),No. 31, 1948年4月,303頁。

(66)USAMGIK : South Korea Interim Government Activities NO. 30, 19483月30日, 10頁。その他のスローガンはここに特別の関連をもつものではないが,やはり朝連の方法論・理論を示すものとして,適切なものである。それらはつぎのとおりである。「(1)米ソ軍隊の朝鮮からの即時かつ同時撤退。(2)政府当局の不当な圧迫の排除。(3)不当課税反対。(4)公安委員会への朝鮮人団体の参加。(5)朝鮮新報のボイコットおよび日本政府から同紙に対する新聞用紙の割当停止〔朝鮮新報は,右翼系朝鮮語新聞で,朝連の諸政策,とくに朝連による朝鮮人学校運営に反対していた〕。(6)外国人登録の廃止。(7)朝鮮の即時かつ完全な独立。(8)日本・朝鮮両国における朝鮮人団体および政党からの反動的・反民主分子の排除。(9)民主人民戦線への忠誠。

(67)朝鮮人連盟,陳情書。1948年6月15日。

(68)目標選択についてこれより不幸なことは想像され得ない。第25師団司令官は2度も日本から朝鮮人追放を企図した人で,おそらく他のいかなる占領軍要人よりも朝鮮人に対し同情のうすい人物であった。

(69)USAMGIK : SKIG Activities, No.30,1948年3月,12頁。

(70)朝鮮人連盟,陳情書,1948年6月15日。

(71)同上。

(72) 日本人共産党員が,予備大会に朝連指導者とともに,演壇上にあらわれ,またデモ計画にかれらとともに加わった。占領軍調査筋では日本人共産党員が事件背後の主動力であり,事件をそこまでもっていったものと信じていたようであるが、これは現実的な見方ではないようである。すでに問題が起ってしまった後で,日本共産党員が,そうはならなかったかもしれない極端な方向に事件を推しやる助けをなしたとみるのが,もっとも真相に近いようである。

(73)Scap : Summation (Japan) No. 33, 1948年6月,6O頁。

(74)これを物語るー例としては,3月30日,広島において,朝連が3月31日の大会の犠牲者救援委員会を組織することが報告されている。

 

 

第5章 米軍政下における朝鮮の役割

 

 米軍政下の朝鮮において,二つの勢力が日本国内の少数民族である朝鮮人の問題について,積極的関心を示した。このうちで,より重要な在朝鮮米軍政庁は,在日朝鮮人に関係のある特定の問題についていくらか懸念して総司令部に要請を行なつたが,概してこの交渉はほとんど成功しなかった。さらに,軍政庁は,連絡事務所を日本に設けることができた。これが朝鮮人に対し準領事的代表の役割を果し,かれらがより公正な取扱いを獲得するに役立つた。

 朝鮮のいろいろな機関も,日本内の朝鮮人の苦境について,積極的関心を示した。しかし,権力の手綱はおもに米軍の手に握られていたので,朝鮮人の努力は実際にそう重要なものでなかった。にもかかわらず,朝鮮過渡政府の官吏・立法議院および新聞は,かれらのできるかぎりの圧力を朝鮮にいる占領軍と総司令部に加え,またこの問題を朝鮮の一般世論の最前面に押しだした。

 

組織と構造の問題

 朝鮮の軍政庁内においては,在日朝鮮人少数民族に関し積極的政策をとることが,占領軍にとつてもつとも有利であると一般に信ぜられていた。しかし,そのような政策を遂行する途上には,重大な障害があつた。これらは主として,朝鮮占領軍の組織と構造に固有のものであつた。

 第1に,軍政庁内の朝鮮人問題について管理権をもつ機関は,軍政庁内で,異常なほど重きがおかれなかつた。その機関というのは外事課であつた。しかし占領下の朝鮮には,ごくわずかの「外交事務」しかなかつたので,外事課は小さく,比較的に無力であつた。対外事務の処理は,正常な時には一番はなやかな存在であるが,軍政下にあつては,ほぼ最下位に近い位置をしめるにすぎなかつた。

 第2に,軍政庁は朝鮮内においてすら,占領軍の最高機関としての資格を有しなかつた。したがつて,軍政庁が企画し,勧告した方針がかならずしも総司令部に伝達されなかつた。朝鮮における占領機構のおそらくもつとも顕著な特徴は,その本質的な二元性であつた。在朝鮮米陸軍というのが,至上命令の別名であつた。そして朝鮮における戦術上・政治上の最終責任を有していた。この下のレベルに,第24軍団と軍政庁とがあり,両者は理論的には同一の地位にあつた。しかし,実際上は,在朝鮮米陸軍とは同一物

に対する別名みたいなものであつた。なぜなら,両者は要員において,組織的構造およびその機能において基本的に同一であつたからである。一方,軍政庁は別個の司令部であり,組織の上では,それの果す統治機能の要求にあうような機構をもつていた。

 理論上は独立体である軍政庁が,独立体としての働らきをすることは,決して許されなかつた。その内部伝達網は,自身のものであつたが,対外的な公式の接触は「いろいろなチャネルをとおして」行なわなければならなかつた。これが,朝鮮におけるあらゆる政策事項のいわゆる最後的決定権が軍団にあるという事実の機構面であつた。これは軍政庁がしばしば官僚主義によつて妨げられたということを意味するばかりでなく,指揮系統の一段上である軍団の各部局がしばしば相矛盾する指示を軍政庁に課したことを意味した。

 さらにそのうえ,軍団の幹部は,大部分,アメリ力軍人によつて,構成されていたことが強調されなくてはならない。これらの人たちは,統治上の問題に通暁する方法も望みももつていなかつた。在日朝鮮人問題については,とくにそうであつた。そしてそれは軍団の普通の視野をまつたくこえた事項であり,実際,より上級の司令部の所管に属することであつた。

 軍政庁が集団から独立していなかつたように,軍団も極東軍司令部系統の最高機関たる総司令部から独立してはいなかつた。朝鮮に対する戦術上・政治上の最終的責任は,マッカーサー将軍にあつた。1947年8月1日以後,朝鮮はたしかに政治上のことについては,総司令部の手を経ることなしにワシントンに直接接触することができた。しかし,軍団は,戦術的には依然有用であつた。そして軍事上の上級下級の関係によつて養なわれた態度は容易に払拭されることがなかつた。軍団(すなわち在朝鮮米陸軍)は,総司令部に推せんしたり,懇請したりするほかは,何事もなしえず,わずかにホッジ中将の署名のみが,マッカーサー司令部に対して幾分の重みをもつことができた。

 

朝鮮人の引揚げにおける在朝鮮米軍政庁の活動

 米軍政庁の在日朝鮮人に対する最初の関心は,その引揚げに関連して起こされた。朝鮮人の集団引揚げは,米軍の第1陣が仁川港に上陸する約3週間前から行なわれていた。占領軍が釜山地域の効果的な管理をはじめたのは,さらに3週間の後,すなわち1945年9月27日ごろであつたが,この地域に引揚者が流れこんでいた。これら何千もの人々の帰還のもたらした影響はもちろん大変なものであつた。引揚者には医療的処置をし,仮りの住いが与えら

れ,困窮者には衣料と食糧が支給され,帰郷のため輸送の便を計るなど,いろいろのことをしてやらなければならなかつた。要するに,あらゆる活動は統制され,系統だてられ,何千もの日本人の流出との調整もはからなければならなかつた。

 引揚げを円滑に進めることに多くの努力が注がれたので,最初は,基本的政策までは考慮がはらわれなかつた。さらに,朝鮮にあるいずれの機関も,最初の引揚政策の決定に参与していなかつた。ワシントンから総司令部への指令は,「引揚げは,厳格に朝鮮人の自由意志によるべし」というだけのことを明記した一般的性質のものであつたように思われる。そこで,その規則や手続を制定するのは,総司令部の責任となつた。朝鮮側は,ときに手続き上のことがらについて,意見をのべる機会を与えられたが,政策決定ついて(ママ)は,その決定後でなければ知らされなかつた。

 しかし,朝鮮における米軍政庁の目的が,引揚者のはこび得る現金と荷物の分量に対する厳格な制限によつて阻まれていることが間もなく明らかになつた。したがつてこれらの制限の緩和をはかろうとする努力が試みられた。1946年2月「日本における朝鮮人の処遇について」と題する書簡が外事課において作られ,総司令部に提出された。その書簡は,要するに現金制限に対する朝鮮側の不満を述べ,荷物と現金の許可量について実質上の増額が認可されるように要請したものであつた。総司令部は「日本人の財産を国外に密輸出する手段に,朝鮮人引揚者を使用する口実を与えるものであるから,持帰り通貨の増額はできない」旨回答した。しかし,朝鮮側は,荷物許可量を増すことについては,より詳細な計画を提出するよう指示された。その結果,長い交渉が行なわれて,新計画が作られ,その規定は1946年9月4日に公表された。その間に,おそらくは朝鮮側が重大関心を示した結果であろうが,荷物許可量は,一度増額されており,金融証券類の持帰りについての制限も緩和されていた。そのとき(1946年9月)にはまた,朝鮮人の引揚げは,浅瀬にのりあげて,実際上とまつていた。

 この荷物許可量に関する新計画では,当初には,まだ引き揚げていない朝鮮人に対して,250ポンドの身廻り品と引越荷物(各引揚者が携帯できる250ポンドの荷物のほかに)の別送船積みを申請することを許可し,また,4,000ポンドまでの道具類・軽機械類および営業用備品の船積み申請をも許可した。すべてこういう財産は,1945年9月2日,またはそれ以前に所有し,質権や抵当権が設定されておらないものでなければならなかつた。各申込者は,荷造りし,その地方の鉄道荷受機関に搬入することを必要とし,また船積みにともなう襲用は自弁しなければならなかつた。また船積みについての認可を最寄りの地方軍政部(在日本)から受けなければならなかつた。

 このような形の計画は,理想とはほど遠かつた。したがつて,引揚条件の改善を叫びつづける朝鮮人の要求をしずめることはできなかつた。その結果,軍政庁は,たえずその手続きを簡単にし,その条項を拡げ,申請期限を延長することにつとめた。この計画の実施に先き立つて,道具類・軽機械・営業用備品の船積みは4,000ポンドをこえても,総司令部経済科学局の認可があれば許可されると改められた。同時に,この計画はすでに引き揚げた朝鮮人にも適用されるようにひろめられたが,しかしこの人たちは,ただ4,000ポンド以下の軽機械類の財産の船積みだけが許可された。さらに,引き揚げた朝鮮人たちは,この計画のために日本に帰るということは許可されなかつたので,荷造りや占領軍の認可を取ることなどについて責任をもつ代理人として日本にいる誰かを指定しなければならなかつた(1)。1946年11月5日,すでに引き揚げた朝鮮人に対して,4,000ポンドを超過する軽機械類の財産の船積みを申請することが認可された(2)。1948年のはじめに,さらに身廻り品や,世帯の正常で快適な生活を営むに必要な引越荷物類は,各人の携帯品をも含めて,一世帯4,000ポンドを超えない範囲内で,船積みが許可された(3)。

 これらの改正および重要でないその他の改正も,軍政庁の懇請によつて実現し,またそれは1948年7月1日までは,すでに引き揚げた朝鮮人にも適用することができた。しかし,なお日本に残つている朝鮮人に対しては,この計画実施の終期は,集団引揚げ終了の1946年12月末日と同時であつた。この後には,自分の財産を運ぶことのできる船をもつた朝鮮人だけが前もつて許可を得て,250ポンド以上の財産を持ちかえることができた,しかしこの目的で船を買うことは,この計画の規定ではできなかつた。

 携帯現金の増額ということは,このような財産移動計画によつて,みのがすことのできない大きな問題であつた。もし資本の全部,または一部を移動できるのでなかつたら,たとえば小さな印刷業に付属している設備を持ちかえることを許すということは,まつたく空しいジェスチャアにすぎないものであつた。携帯現金の増額という問題は,1947年後期までは,2度と公式に言い出されなかつたが,総司令部がこの提案をうけ入れるかどうかについての打診は,定期的に行なわれた。

 総司令部は,依然かかる意見を好まなかつた。それが多分に朝鮮経済に,インフレーション的効果を及ぼす恐れのあること,およびより恵まれぬ条件のもとに引き揚げた人々に対する差別待遇の要素を含むものであることを総司令部は指摘した。おそらくこれらいずれよりも,なお重要な理由は,終戦直後の特殊な地位を利用して,利益をしめた朝鮮人たちが,その不正所得を朝鮮に持ちかえるのではないかという恐れであつた。朝鮮軍政庁の機関も,かかる議論に動かされないわけでもなかつた。うなぎ上りで上昇するインフレーションは,もっとも重大な問題であつた。また,すでに引き揚げた朝鮮人の態度に及ぼす効果も軽視することができなかつた。

 それにもかかわらず,個々に引揚げについての審宣をうけた朝鮮人に対しては,一世帯あたり5万円を限度として日本内の特別勘定に預金する案について,総司令部の許可を得ようとする企てが,1947年11月になされた。この案によると,それと同額が各個人に対し,朝鮮の銀行に保証され,そこから毎月5,000ウォン(ウォンは円と等価である。訳者注,円は朝鮮語でウォンとよむ。)の引出しが認められるというのであつた(4)。小範囲ではあるけれど,この提案は,1947年5月以来,北朝鮮からの朝鮮人避難民に実施されているものと同様に,将来の引揚者が朝鮮において生活を再建する間少なくともその生活費だけは保証してくれるものと思われた(5)。しかし,この提案は,日本においていろいろな意見にぶつかつた。ある総司令部の機関は5万円という限度は余りに少なすぎると考え,他の機関は,修正をした上で,採用することに同意した。しかるに一方,この問題について管轄権を持つ第三の機関は,この提案全体を拒否したいという立場をとつた。こうした意見相違のために,朝鮮の軍事占領が終つた1948年8月15日までに,結局同意とも反対とも決定されなかつた。

 米軍政庁は,引揚政策に直接影響をあたえるもう一つの重要な機会をもつた。そして,この機会を利用して,在日朝鮮人の引揚げの道が完全に閉ざされることのないようにした。ホッジ将軍は,すでに1947年8月中旬に,朝鮮人の引揚げを「引揚げの権利を抛棄せず,自由意志によつて,引揚げを希望する者」にかぎるようにとの希望を公表していた。この提言は,それが政策となつた場合に,軍政庁の基本原理に相反することになるものであつた。すなわち,日本の朝鮮人問題のもつとも容易な解決策は,自由意志により,かつよい条件のもとに,できるかぎり多くの朝鮮人を引き揚げさせるというのが軍

政庁の基本原理であつた。引揚げをいかなる点においても制限するのは,賢明でないと考えたのである。

 したがつて,軍政庁は,総司令部への書簡の中で,日本政府は,朝鮮人に刑罰を課し,これを理由として望ましからぬと考えた朝鮮人を放遂して来たが,これは自由意志によることを基本とする引揚計画をくつがえすものであ

ることを強調し,引揚げをもつて懲役に代えることは,日本国内の朝鮮人の犯罪的傾向を増大するおそれのあることを指摘した。また,「不法入国が証明された場合以外は,朝鮮人は〔受刑〕宣告によつて服役する代りに,送還されるようなことがあつてはならない。……民間人犯罪者が送還されるときには,〔かれらの〕送還を行なう前に,完全な記録が提出されるべきであり,そして,朝鮮人の送還に先き立つて,〔朝鮮から〕入国許可証が得られねばならぬ。……」ことを要請した(6)。総司令部は,引揚申請許可の最終的決定をする権利を保留しただけで,これらの要請には,全面的に同意した。

 しかし,実際に最終の決定権を行使したのは朝鮮の軍政庁であつて,最終的同意を与え,あるいはそれを保留した。軍団の方では「もし調査の結果,その問題となつている個人が,朝鮮において望ましい人物であるか,または

酌量すべき事情がある場合は,外事課の要請に基づき,その引揚申請の許可について考慮する。……」という政策をたてていた(7)。ところがその外事課は,明白に望ましくないものでない以上は,あらゆる個人の申請を許可することを望んだ。軍団では,ときに不満の意を表明したが,外事課の要請に反対することはなかつた。かくして,ごく少数のたとえば,南朝鮮に本籍をもたぬもの,あるいは在監者のようなものを除いて,すべて引揚げを希望するものは,アメリカ占領地区内に帰ることを許された。

注(1)Headquarters Eighth Army, Opaerational(ママ) Directive No. 77, 1946年9月4日。

 

(2)Headquarters Eighth Army, Operational Directive No. 77/2. 1946年11月5日。

(3)Headquarters Eighth Army,Operational Directive No. 77/9. 1948年1月20日。

(4)OFA USAMGIK to Department of Finance USAMGIK, Memorandum, "Proposed Plan to Increase Monetary Allowances of

Koreans returning from Japan" (日本から帰還する朝鮮人の所持金増額に関する提案) 1947年11月26日。

(5)Department of Finance USAMGK, Memorandum, "Bank of Chosen Notes Brought by Refugees from North Korea to be Depasited into Blocked Accounts", (北朝鮮からの避難民の持ち来たる朝鮮銀行券で,封鎖勘定に預け入れすべきもの) 1947年5月6日。

(6)USAFIK to SCAP, Letter, "Repatriation of Koreans from Japan", (在日朝鮮人の引揚げ) 1947年8月27日。

(7)G-3 XXIV Corps to Chief of Staff XXlV Corps, Memorandum, "Clearance for Ree Woo Thack, and wife and daughter, and establishment of policy and procedure for clearance", (李ウータックおよびその妻と娘に対する入国許可ならびに許可に関する方針と手続き) 1947年10月15日。

 

在朝鮮米軍政庁のその他の活動

 引揚げ以外にも軍政庁が,在日朝鮮人のために,関心をもつた問題があつた。その中の一つは,かれらの国籍に関する問題で,1946年11月の総司令部の声明はこの問題の頂点を示すものであつた。その際,総司令部が,引揚げを拒絶した朝鮮人は,処遇に関しては日本国籍を保持しているものとみなされるであろうという方針を発表したことを思い起こされたい。この峻烈な規制を前もつて知らされなかつた朝鮮側は,それに原則的に反対し,総司令部の措置が高圧的態度であるといつて憤慨した。日本国内の朝鮮人の反撥と同様に,朝鮮の新聞・政界および一般世論における反撥は,極度に批判的であつた。それは朝鮮の民衆と軍政庁との関係を傷つけずにはおかなかつた.

 このため,軍政庁は,日本占領軍の必要にもこたえ,しかもさらに朝鮮人の気持にもあう妥協策を作成したいという考えのもとに,このことについて総司令部の再考を強く要請した。しかし,総司令部は,占領軍が存在する以上,在日朝鮮人の差別待遇はあり得ないと主張して,右の発表を変更することを一切拒否した。総司令部は,周到にもこの新政策に対する同意をワシントンから前もつて得ており,これを動かすことはできなかつた。

 このことと多くの点で似通つていたのは,日本の財産税措置を,朝鮮人にも適用するという決定であつた。この場合,極東委員会は,国連国人に対しては,財産税をしないと定めていた。日本内および本国の朝鮮人のこの措置に対するはげしい非難に驚かされて,軍政庁はこの打撃をやわらげてもらおうと努力した。総司令部への書簡の中で,軍政庁はつぎのような提案を行なつた。「引揚朝鮮人の日本に残した財産を保護する措置を講ずべきである。……(そして)朝鮮人から徴収した税は,終局的には将来の朝鮮政府に移譲するという前提のもとに,特別勘定に組みいれておくべきである」(8)。この場合にもまた,総司令部は,すでに決定した政策を改訂しようとはしなかつた。

 非常に重要なことがらについては,軍政庁は,いつも在日朝鮮人のために有利に調停することができなかつた。これは明らかであるが,さして重要でないことがらについては,軍政庁は,しばしばうまくやることができた。それは,多く日本内にある連絡事務所を通ずることによつてえたのであり,そこを通ずることにより,非常に自由な行動ができた。

 最初の連絡団は,米人および朝鮮人よりなり,日本の占領軍当局の要請によつて,1945年10月に日本へ派遣された。この連絡団は,移動使節団であり,たいてい,引揚施設の検査,あるいは引揚計画の組織や手続きにいそがしく活動した。その唯一の仕事は,朝鮮人の引揚げであり、それに精力的にとつくみ,多くの条件に改善をもたらすことができた。不幸にも,2名の朝鮮人代表がアメリカ人の部員と離れて仕事をしていたが,かれらは,その間,政治運動というか,おそらくは自分個人の勢力強化というか,そうした活動と公式の仕事とを混合したために,監視つきで朝鮮に送還させられた。この出来ごとのために,軍政庁は,その後,連絡の目的を達することがさらに困難になつた。なぜなら,総司令部は,それ以後,朝鮮人連絡官には,1名あるいは数名のアメリ力将校がつきそい,かれらを直接監督することを主張してゆずらなかつたからである。

 1946年2月,朝鮮人引揚者が通過する主要な港である仙崎と博多に連絡班が設けられた。その事務所は,引揚援護局の構内に設けられ,朝鮮人引揚者がかれらをとりまいている多くの問題について相談に行く集合場所として役立つた。朝鮮人連絡官は,たとえば引揚者の日本妻に入国許可証を発行するような領事的な働らきをした。かれらは,引揚げの手続きを監督した。すなわち,引揚朝鮮人が許された特権をすべて与えられたか,また適当な食糧と宿舎を日本側から提供されたかなどをたしかめた。また,かれらは,帰国に必要な予備講習会を開催し,引揚者に終戦後,朝鮮内に起こつたいろいろな事件を分らせるための資料を配布した。

 連絡班は,また地方の朝鮮人社会に関する面でもいろいろの活動をした。定期的に各種朝鮮人団体の指導者と会合を開いて,かれらに関係のある占領政策を説明したこともあつた。緊急事件について朝鮮内の家族と連絡をとること,朝鮮人の所有財産を朝鮮に移すための助力,朝鮮人に対する差別待遇の調査と是正,日本人会社が朝鮮人被雇用者に支払うべき金の集金(未払いの給料,特別別居手当など),朝鮮人の収容されている日本の刑務所を調査し,仮出所資格のある者の引揚手続きをすることなどの仕事を行なつた。要するに,通常,政府は在外国民のために公式代表を置くのであるが,在日朝鮮人がそれに匹敵するような代表をもち,その保護をうけるよう,あらゆる努力がなされたのである。

 1946年2月の総司令部あて書簡の結果,朝鮮は,アメリカ人の監督のもとに朝鮮人職員によつて構成される連絡事務所を四つだけ増設する許可を得ていた。その朝鮮人職員の第1陣は,4月に東京に行くよう指令された。東京では,総司令部・日本政府およびすべての重要な朝鮮人団体の中央事務局と緊密な接触を保つことができた。東京連絡事務所(TLO)は主として,その長であつた米軍士官が異常に有能な人物であつたので,非常に有力な連絡機関となり,在日朝鮮人・軍政庁,また日本占領機関にも価値のある貢献をすることができた。

 東京連絡事務所は,総司令部および第8軍への朝鮮問題に関する軍政庁のあらゆる通報の基準となる資料を作成した。それは,日本占領軍の付属機関として行動した。そして,朝鮮人の作製したフィルムを検閲し,東京地方の朝鮮人の荷物船積みを許可し,朝鮮人の引揚申請を処理する仕事をやつた。それは,占領軍と朝鮮人社会との間の緩衝地帯として,またチャネルとしての役割を果した。ある場合には,占領軍の命令あるいは警告が,朝鮮人団体をその不法に占拠した建物内から動かすことができなかつたときに,東京連絡事務所は,そのグループを説得し,移動させることに成功した。朝鮮人は,総司令部の教育法令施行の切迫を前もつて知らされ,それに対してかれらの側の態勢を整備する機会を与えられた。その逆もまた真実であつた。東京連絡事務所は,多くの朝鮮暴行事件が与えた最初のショックを吸収し力バーして,それによつて朝鮮人と総司令部との間の反感の成長をおくらせた。東京連絡事務所は,とくに,1947年の外国人登録令および資本課税法公布のときにあたつて,その抑制力を発揮した。東京事務所は,朝鮮人相互間のはげしい喧嘩や日本人との紛争を調停した。その努力によつて,日本の大学にいる朝鮮人学生の教育のために学資が与えられ,特別の場合に朝鮮国旗を掲揚することが許可され,朝鮮人の住居は占領軍に接収されることを免れるなど,いろいろのことが行なわれた。明らかに,東京事務所(およびその姉妹事務所)は,実際に,占領軍に与えた朝鮮人の重荷,また逆に朝鮮人に与えた占領軍の重荷の双方を軽くしたのである。

 仙崎港における引揚げ活動が停止されたので,仙崎の連絡事務所は,1946年夏に閉鎖されたが,11月には,日本における朝鮮人社会の中心である大阪に新しい事務所が開設された。それは大阪およびその近辺の都市に在住する15万をこえる朝鮮人のために,東京事務所とほとんど同じ活動をした。その初期の活動に関する一つの不幸なエピソードは,しばらくの間,日本内のすべての連絡事務所の仕事の継続を危くする程の重大な反響を呼んだ(9)。妥協の結果,朝鮮からの抗議も)空しく,1947年4月25日,博多事務所は閉鎖されることになつた。結局は将来,これと同様のことが起こることになりそうであつた。総司令部はこのとき,つぎのような見解を示した。「朝鮮連絡班は,朝鮮人引揚げを援助するために,総司令部により設けられたものである。ただ二つの連絡所だけを日本に残し,しかもその閉鎖は残るわずかの引揚業務が終るまで,しばらくの間,保留する」(10)。しかし,軍政庁の初期の書簡への返書の中で,総司令部は集団引揚計画終了の後も,軍政庁の代表が引きつづき日本にとどまる必要性を承認した(11)。東京および大阪連絡事務所は,その資格を「定期的に再審査」されたが,朝鮮占領のつづく間,活動をつづけた。

注(8)USAMGIK to SCAP, Letter, "Application of Capital Levy Tax Law to Koreans in Japan", (在日朝鮮人に対する財産税法の適用) 1947年7月3日。

(9)大阪の第25師団司令官の朝鮮人居留民に対する非同情的態度は有名であったが,同司令官は,大阪連絡事務所が朝鮮人の不法行為を度を越した友好的政策で助長したとして非難した。その後,さらに同司令官が同事務所の米人顧問召還を要求したので,上述の状勢は一段と悪化した。

(10)Scap to USAFIK, 3rd Indorsement, May 1, 1947, to USAMGIK to Scap,Letter, "Retention of USAMGIK Liaison Team in Hakata, Japan", (博多における米軍政庁連絡班の存続) April 19,1947.

(11)USAMGIK to SCAP, Letter, "USAMGIK Liaison Team in Japan", (日本における在朝鮮米軍政庁連絡班),1946年10月2日。

 

朝鮮人の関心

 軍政下の朝鮮おける権力構造の性質上,現地の朝鮮人は,政策樹立の役割を演ずることは,できなかつたが,他の方法で影響を及ぼした。朝鮮人の大きな関心は,海外同咆にむかつてはたらいた。この場合は,日本内の圧迫されている同胞に対してであつたが,それは,全朝鮮人に流れる単なる感情を越えた心からの同情であつた。引揚問題の政治的意味は,まず,それを利用して利を得ようとする朝鮮内の朝鮮人分子によつてみとめられた。引揚計画の兵站部門は,朝鮮人の責任ではなかつたにもかかわらず,多すぎるほどの救済および福祉団体が簇生し,引き揚げた不幸な人たちを助けようとたがいに競いあつた。しかしながら,すでに,引き揚げた一人一人の朝鮮人の諸問題は,はやくも忘れられがちであつた。そのかわりまだ残留しているものに注意の焦点がふたたび向けられた。この点で,朝鮮の新聞は,このことを一般国民に忘れさせないことに主導的役割を果した。そして,また,ある場合には,朝鮮臨時立法議院および軍政庁の朝鮮人職員がこれに唱和した。

 博多連絡事務所の閉鎖に対して起こつた批判の嵐は,在日朝鮮人問題に対して,朝鮮の新聞の行なつた反撥の代表的なものであつた。博多事務所は,1947年4月10日,総司令部の命によつて,閉鎖せられたもので,日本政府はなんら関知しないことであつた。4月13日から27日までの間に,24の論説が京城およびその他の町の12のちがつた朝鮮の新聞にあらわれ,いずれもこの処置をはげしく非難した。あるカソリックの新聞は,つぎのような見出しをつけた。すなわち,「日本内のわが同胞への迫害。……日本の奸計により,わずかの生存の権利そのものすら脅かされる。……継続的陰謀博多事務所の閉鎖をもたらす。」(12) のちに,同新聞の社説は,日本の国会議員および政府職員の朝鮮人に対する悪口を掲載し,また,1923年の地震のあとの朝鮮人虐殺を地下からよび返して書き立てた(13)。ある極右翼機関紙は,よびものの記事に「在日朝鮮人への迫害たかまる。……朝鮮人60万追放計画……日本の対朝鮮悪宣伝,博多連絡事務所の閉鎖をもたらす」という見出しをつけた(14)。左翼紙もまけずに,つぎの文を第一面の全面にひろげた。「日本政府によるわが同胞の圧迫をみよ。……日本いまだ侵略意図を放棄せず。……食料配給は制限され,財産移送妨害さる。……博多連絡所問題に国論沸騰鵬……同事務所継続の請願起草中……臨時立法議院,総司令部への抗議文を起草」(15)。

 在日朝鮮人のために発言したもう一つの要素は,〔南〕朝鮮臨時立法議院であつた。その立法議院の政治的な構成は,選出された中間右派と,指名された中間派と左翼の議席がほぼ同数であつた。したがつて臨時立法議院によるどの問題の考慮も,すべて党派的であった。しかし,この場合も,在日朝鮮人の直面した問題は,その魔力を発揮し,平常の意見の相違は,ことごとくとけさり,圧倒的な意見の一致がもたらされた。1年半の間の活動で,立法議院は,11の法律を通過せしめ,4決議を採択したが,後者のうち2は在日朝鮮人に関するものであつた。マッカーサー元帥に対し博多の「非公式の朝鮮領事の地位」を撤廃しないよう懇願するメッセージを送るべきであるとの提案が出たこともある(16)。1週間の後に,臨時立法議院の歴史上,最初の満場一致の決議により,総司令部に対し「朝鮮人には戦争責任がないので,かれらには財産税を免除するよう」要請した(17)。

 ときおり,朝鮮の執政府,すなわち,閣僚級朝鮮人の団体も,日本にいる朝鮮人の問題について活動した。ある場合には執政府は,総司令部に提出する一つの提案に対して朝鮮軍政長官の支持を得るのに成功したこともあつた。従来は,アメリカ軍のチャネルをへて総司令官の耳に達することは,不可能なことであつたが……。しかし,一般的にいつて,執政府は,在日朝鮮人のために,みずからすすんで関心を示すことがなかつた。

注(12)「京郷新聞」1947年4月13日朝鮮,ソウル。

(13)「京郷新聞」1947年4月16日。

(14)「東亜日報」1947年4月13日。

(15)「ソウル新聞」1947年4月26日。

(16)南朝鮮臨時立法議院第53次会議決議,1947年4月17日。

(17)南朝鮮臨時立法議院第57次会議決議,1947年4月25日。

 

 

第6章 1948年以降の在日朝鮮人少数民族

 

 1948年8月15日以降,在日朝鮮人の地位は着実に低下した。総司令部は,朝鮮人問題に,直接手をくだすことをやめたが,日本政府が強硬政策をつづけることに対し,明らかに心からの賛意をあらわした。南北両朝鮮政府の成立は,ただ朝鮮人社会内部の政治的分割線をよりきびしくするに役立つたのみであつた。日本における南朝鮮政府代表は,従来の米軍政庁派遣の代表よりは,弱体であつた。多くの朝鮮人は,不安定な生活を辛うじてやつて行く程度であつたにもかかわらず,引揚げを希望するものは,ほとんどなかつた。

 日本当局に対する抵抗はあまりへらず,常套的な終戦直後のやり方を踏襲した。日本人・朝鮮人関係が改善されるようなことは,何も起きなかつた。事実,朝鮮人の引き起こす不法行為の増加は,この関係が悪化したことを信ぜしめるに十分である。ついに在日朝鮮人は,二つの大きな衝撃を受けた。1949年9月,朝鮮人連盟は,日本政府の命によつて,解散せしめられた。朝鮮事変は,在日朝鮮人に新たな圧力を加えることとなり,また,在日朝鮮人に対し南北いずれの側にたつかの決定を強くせまつた。

 

その後の引揚げ

 1948年8月15日以後において引揚げの手続きは一つの重要な点で緩和されたが,これは在日朝鮮人の本国への引揚げの率にほとんど効果を及ぼさなかつた。1949年5月の少し前に,ながい懸案であつた朝鮮人引揚者に許される所持金の増額が総司令部によつて,ついに許可された。すなわち,これからの引揚者は一世帯につき10万円を持ちだすことが許可された。資金の移動は東京銀行の大韓民国の勘定に預け入れ,韓国政府の関係機関にその受領証を提出してそれを引き出すという手続きで機械的に行なわれた(1)。そして移送される金は,引揚者が1945年9月2日以前に蓄財した金であること,また,朝鮮での預金の引出しについては毎月の最高額を制限すること,という細部の条件があつたものと思われる。また,交換率が日本の1円に対して朝鮮の1ウォンであることも,当然に考えられることである。資金移動の緩和という譲歩を行なつた目的は引揚げを刺戟するにあつたが、こうした制限をつければ引揚げを刺戟する効能を失なうことが明白であつた。実際,この所持金制限の緩和は,あまりにもおそすぎて,なにら朝鮮人の引揚げにめだつた効果を及ぼしえなかつた。

 以上のこととは別であるが,米軍政庁から韓国政府に変つたことは,引揚げの手続きになんら重要な変化をもたらさなかつた。軍政庁連絡事務所にかわつて,こんどは在日韓国代表部を通じて申請が行なわれるようになつた。これがため,多分,貧困ケースについては,一層同情的に吟味し,また,政治的臭いのある申請については,一層注意して審査することになつたであろう。信じうる統計によると,1948年10月から1949年5月までは,引揚げはまつたく停止した。これはおそらく軍政庁から韓国政府へかわつたために認可がおくれたためであろう。韓国になつてからの最初の16か月間,すなわち1949年の12月末日までに,6,000名たらずの朝鮮人が韓国に帰つた。これを加えて,韓国政府の記録と概算によれば,終戦以後の引揚者の累計数は,141万4,258名となつた(2)。

 韓国政府樹立以後,日本から北朝鮮に引き揚げた朝鮮人の記録は,まつたくない。朝鮮人の引揚げは,朝鮮事変勃発以後,停止された。

注(1)興味あることには,東京銀行の韓国政府勘定は,その大部分が,初期の朝鮮人引揚者たちからとりあげた通貨,すなわち従前の1,000円の限度をこえる通貨からなりたつている。

(2)韓国:Statistical Summation, 第12号,1949年12月,9頁。総司令部と日本政府とで符号する数宇は,1950年4月までの94万5,420名である。

 

朝鮮人連盟とその弾圧

 朝鮮人連盟が朝鮮人学校問題で挫折したことは,在日朝鮮人社会の生活上に,それが占める主要勢力としての地位に実際の影響を及ぼすものではなかつた。朝連が朝鮮民衆の上にもつている勢力を弱めるどころか,この事件は朝連を高揚した殉教者的な雰囲気で包んだようだつた。これがために,朝連が1名の会員をも失なつた証拠もなければ,また〔南〕朝鮮駐日代表部の信頼と支持をうけていた右翼朝鮮人によつて,その強大な地位に重大な侵害を受けたことを示す証拠もなかつた。

 韓国の建国によつて,朝鮮における分派活動は盛んになり,ひきつづく北朝鮮の人民共和国の建設によつて,それがさらにつよめられたので,朝連はいよいよ堂々と共産主義の旗色を鮮明にするにいたつた。朝連は,あらゆる機会を通じて,日本共産党の活動および日本共産党の関係する政治活動に参加し,1949年7月,共産党に煽動された700名のデモ隊が平市の福島県事務所(訳者注・地方事務所)を襲撃したとき,デモ隊は,「ブラスバンドに導かれ,その土地の朝鮮人がこれに加勢した」。(3) 日本青年会議が第2回の「国際青年の日」を祝つて開かれたが,同会議は朝連の従属機関である朝鮮民主青年同盟に支持のメッセージを送つた(4)。吉田内閣打倒のために開かれた大阪の民衆大会に,朝連も参加した。このデモは,警官との乱闘に終わり,75名が負傷した(5)。

 北朝鮮政権に対する朝連の絶対的な支持は,総司令部および日本の治安当局との衝突をまねくことになつた。朝連は,新政府祝賀のある集会を主催して,野坂参三およびあるソ連官吏の祝辞を受けた。朝鮮からもこの祝賀式に参加するために,代表がきたとのことである(6)。このとき以来,朝連は,その事務所や行事のあるときに北朝鮮の旗を掲げることを主張した。このような掲揚を禁止する総司令部の決定は,朝連によつて「拒否」された(7)。それにつづいて,その命令を実施しようとする日本警官との間に,多くの衝突をひきおこした。

 1949年の4月末,神戸騒擾事件の1週年を記念して,朝連は多くのことを行なつた。朝鮮人が集団的に住んでいる日本中のいたるところで,大衆集会がつぎつぎに行なわれた。2万の朝鮮人が大阪の大会に集まり,神戸ではこの重要な行事に参集する準備をしたものが8万におよんだと報ぜられた。ときにはデモが,「生活を守れ」というスローガンを旗じるしとして,行なわれたことも興味あることである。

 一方,以前にもあつたように,朝連は文化活動についての広大な計画をたてた。そして,いかなる場所で,いかなる程度の権利の侵害があつても,朝鮮人の「諸権利」を擁護するために戦つた(9)。その上,1948年4月の事件は,朝連による朝鮮人学校の直接運営をただちに停止させはしなかつた。1949年10月に,なお57の主として小学校が,朝連の管轄のもとにあり,総数7,000名が籍をおいていた。これは在日274の朝鮮人学校の生従(ママ)総数4万939名,教師1,357名の20%以上であつた。これらのうち,どれだけが最初は朝連の学校であり,後に他の擁護のもとに改組されたものであるかは詳らかでない(10)。

 現在の日本における朝鮮人の教育は,ただ推測し得るだけである。1949年11月には,おそらく180校以上の公式に認可された朝鮮人学校が運営されていたと思われる。その前月に閉鎖を命ぜられた他の90ほどの学校については,改組申請が拒否されたが,おそらく最後的な拒否ではなかつたであろう(11)。原則として,閉鎖された朝鮮人学校の生徒は,日本人の学校に編入することになつていた。しかし,設備が不備なので,朝鮮人のために,特別学級,あるいは分校を設ける必要が大体認められた。小学校の特別課程として,朝鮮語と朝鮮歴史の教授をするための規定がつくられ,中学校では朝鮮語を外国語として教授してもよいことになつた。もし,正当に認可をうければ,朝鮮人教師を採用することもできた(12)。

 1949年9月8日,日本政府はあらかじめはつきりした警告なく,朝連とその青年部にあたる朝鮮民主青年同盟の解散を命令した。日本の法務総裁のこの処置を説明した談話は,「日本の民主化ならびに平和国家の再建を甚しく攪乱している……テロリストおよび……常習的賭博者の団体」に対し,日本政府が,ひきつづいて戦つてきた事実を強調した。その談話は,不法な集団が日本の法律に対するデモや騒擾に参加したこと,またそれが日本の警察ならびに税務署の職務遂行の妨害をしたことを全般的に非難した。とくに,占領軍命令を犯して,北朝鮮の国旗を掲揚したこと,および占領軍の軍人に暴行を加えた二つの事件について,朝連の責任を問うた。学校騒擾事件で朝連がはたした役割をも挙げている。これらの理由によつて,朝連は「団体等規制令第2条の条項に該当する」テロ的な団体であるとらく印をおされた(13)。この政府の処置が明白に意図するところは,少数の破壊的分子に支配されている反民主的・テロ的な集団を解体し,「これらの団体の一般構成員を解放する」ことであつた。同時に,宮城県(仙台)の右翼の大韓居留民団および日本人のギャングじみた小さな四つの「テロ団」が解散を命ぜられた。仙台のグループの隊員は,約200名であつた。法務府の数字によると,朝鮮人連盟と民主青年同盟は,40万5,532名という驚くべき会員をもつていた(14)。

 この朝連の壊滅に対し,関係のある日本ならびに外国の観察者たちは,共通した解釈をとつた。すなわち,この「日本内の共産党的組織に対する最初の大打撃」(15) は,あらゆる面において,「最近の共産党によつて起こされた騒擾に加わつたとみられるすべての左翼的団体を非合法とする戦の第1歩」であると見たのである(16)。朝日新聞は,杜説において,この種の処置は,「ただに少数の団体のみならず,左翼の網の目のような組織全体を目標とするものである」と述べた。野坂参三は,法務総裁を訪ね,この処置は「ポッダム宣言ならびに日本憲法に違背する」と抗議した(17)。解散の1か月後,対日理事会のソヴィェト代表デレヴャンコ将軍は,アメリカ側が積極的に日本政府の民主的労働団体に対する圧迫を援助しているという非難をした中に、この朝鮮人連盟と青年組織の「粉砕」のことをもふくめていた(18)。 朝連そのものの反撥も,急速連かつ断乎たるものであつた。政府の命令にしたがうことを拒絶する旨の声明をただちに行なつた。ついで,朝連は,総司令部にこの命令に反対するよう訴えた。これが成功しなかつたので,政府を相手に民事訴訟を起こし,告発されたようなテロ団体ではないと主張した(20)。訴訟が迅速な解散命令の執行を妨げたか否かはわからないが,しかし6か月以上たつてから,東京の朝連本部接収の際に,大規模な騒擾が起こり,108名の警官と「多くの」朝鮮人が負傷した(21)。

 朝連は解散させられ,その朝鮮人指導者たちは,公職から追放されたのみならず,朝連の所有していた財産はすべて没収された。これらの財産は,おそらくは朝連の名によつて所有されていた法人資産に限定されたものであろうが,1か月後になつてから,「日本中の各所にある大よそ700の事務所・家屋・診療所,その他の施設で……価格7,000万円以上のものである」と伝えられた(22)。日本の法務総裁は「没収財産は在日朝鮮人の福祉のために使用されることとなろう」と発表したが,このためにまじめな努力がなされたとは信じがたい。

 朝連の潰滅も,日本における組織的な朝鮮人左翼活動に終焉をもたらすものではなかつた。朝連の,ある県本部の約50名のものが一団となつて共産党に入党したという記録がある(23)。解放(ママ)命令のあと3週問たつかたたない

のに,朝鮮人が合法的組織の仮面の下に,カムバックしようと努力している兆候があることを法務府では指摘している(24)。その後数か月,とくに朝鮮事変が勃発してから,前の朝連要人たちに指導された多くの朝鮮人団体が新しく続出したようである。おそらく,この現象は,地下指導者の指令で成就され,地方分権の基盤にたつて,細心に擬装された朝連の再興をある程度表現したものであろう。

注(3)Nippon Times 東京, 1949年7月2日,1頁。

(4)Nippon Times 1948年9月7日,3頁。

(5)NT. 1949年3月29日,2頁。

(6)NT. 1948年10月18日,2頁。

(7)NT. 1948年10月17日,1頁。

(8)Nippon Times 1949年4月25日,1頁。

(9)たとえば Nippon Times, 1948年11月18日,2頁および NT, 1949年4月16日,3頁を見よ。

(10)NT, 1949年10月20日,1頁および3頁。このとき,日本文部省は,「朝連が日本の教育基本法にもとづいて……在日朝鮮人教育を実施するという文部省との基本諒解事項を侵害した」と非難した。

(11)NT, 1949年11月7日,3頁。

(12)NT, 1949年11月4日,3頁。

(13)この日本の法規は,日本の盲目的愛国主義およぴ軍国主義的性格をもつ団体を永久に押えつけておくことを目的とした総司令部の初期のー指令によって,できたものである。

  Scapin, "Abolition of Certain Political Parties, Associations, Societies and other Organizations", (ある種の政党・協会・団休,その他の組織の解体),1946年1月4日.(Japan Year Book, 1946~48年, 付録19頁に引用)。

   テロリズムに関するこの指令の条項は。明らかに日本における「暗殺による政治」の復活を防止するためのものであった。協和会のような名うての団体が,この指令の適用をうけたのは,皮肉なことである。

(14)Nippon Times,1949年9月9日,1頁,3頁。

(15)Christian Science Monitor, 1949年9月9日,12頁。

(16)New York Times, 1949年9月10日,5頁。

(17)同上

(18)NT, 1949年12月22日,3頁。

(19)New York Times, 1949年9月9日,12頁。

(20)Nippon Times, 1949年9月16日,5頁。

NT, 1949年10月6日,3頁。

(21)NYT, 1950年3月21日,10頁。

(22)NT, 1949年11月11日,3頁。

(23)NT, 1949年9月13日,3頁。

(24)NT, 1949年9月29日,3頁。

 

大韓民国の態度

 朝鮮の軍事的占領の終了とともに,在日朝鮮人は,日本におけるもつとも有力な,擁護者を失なつた。新らしい韓国の政策は,効果的でもなければ,特別に同情的でもなかつた。これは別に驚くべきことではない。日本におけるアメリカ当局ならびに日本の当局と交渉するのは,アメリカ人が朝鮮にかわつて行なう方が,純粋に朝鮮の機関が行なうよりも効果的であつた。しかして,政治的視野において,根本的ひらきがあつたので,韓国政府の代表と在日朝鮮人社会との相互の信頼と緊密な協力は不可能であつた。

 初代の駐日韓国首席代表の声明が,それをよく示している。「代表部は韓国居留民団を支持するか」との質問をうけて,かれは「それは一貫して韓国に忠誠をつくす唯一の在日朝鮮人の政治的団体であるから」同居留民団を極力援助すると答えた。「……それは韓国政府によつて承認された唯一の在日朝鮮人の集団である」(25)。その代表部が在日朝鮮人の登録を計画していたとき,代表部は「われわれは,誰が忠誠であるかを知つているから,なにら忠誠の誓を要求しない」と説明した(26)。

 韓国代表部は,朝連に関して論議することは,朝鮮人の忠誠の問題を実際に試験してみる好機であるとみた。日本政府の処置を称賛しつつ,(27) 代表部は総司令部に対して,朝連の学校が移譲せられ,代表部の管理の下で,再開されるようにとの要望書を提出した(29)。さらに,代表部は学校以外の朝連財産の所有をも求めた。これらの施設は「青年や老人に民主主義について教えたり,またキリスト教の福音を日本にひろめる教会として」使用するとのことであつた(29)。

 一方,韓国代表部は,あらゆる機会に引揚条件の緩和と朝鮮人が外国人の資格を与えらるべきこととを力説した。しかし,不幸にも,代表部の発言は,かつて日本の手中にあつた朝鮮人がなめた過去の苦しみを不当に強調しすぎて,より現実的な考慮を無視していた(30)。こうした態度を極端に示す一例が,1950年1月に行なわれる新しい外国人登録を発表した際に起こつた。

 朝鮮人の「半外国人・半日本人」という地位が不当であると抗議するとともに,代表部は,登録にあたつて「朝鮮人」という日本語を使うことになつている点に攻撃を集中した。これは「すべての韓国人を北朝鮮の共産主義者たちと一緒に結び合わせてしまうことであり,また『朝鮮人』という名にひそめられているかつての侮蔑をかれらの上にあびせかけるものである」といつて非難したのである。代表部は,さらにつぎのようにいつている。「われわれが敗けて廃止されたと思つている,古い日本政府があらゆる悪い意味をこめて付けた名称を,現在の日本政府は存続させようとくわだてている。われわれはこの企図に断乎として反対する。(31)

 韓国本国の政府当局者は,一般に,駐日代表部よりずつと強い朝鮮人支持の立場をとつた。これはおそらく大部分が国内政治に対する考慮にもとづくものであつたろうが,しかし,また,朝鮮人少数民族問題が,韓国と日本政府および日本人との関係を危地に陥らせるという事実に気づいていたからでもある。李大統領の声明は,とくに興味のあるものである。朝連系の学校が閉鎖されたとき,李大統領は日本政府が日本の共産党系の学校をも閉鎖する態度をとつているかどうかを承知したいといつた(32)。かれはまた,朝連の加盟員が,東京の中央事務局建物の接収に対して,行なつた抗議を正当であると擁護した(33)。しかし,これを共産主義者等を甘やかしたものとまちがえるわけにはいかなかつた。かれは,大統領になつて間もなく,日本政府に朝鮮人「攪乱者」を韓国に送りかえすよう提案した。「かれらがわれわれの隣人に迷惑をかけるよりは,むしろ韓国内でいざこざを起してもらつたほうがよい」とかれはいつた。「もしかれらが韓国で事件をおこすならば,われわれの刑務所がかれらの世話をする」。(34) 韓国大統領は,朝鮮人問題のある一面に非常にするどい理解をしめし,総司令部のアメリカ人職員の態度に憤懣を爆発させた。かれが「ちんぴら士官ども」と呼ぶマッカーサーの幕僚が「朝鮮人と日本人が仲よくさせることを甚しく困難にしている」と攻撃した。

 そしてさらに,これは本当だ,とかれはいつた。というのは,日本びいきのアメリカ士官たちは,「朝鮮人はみな過激派で無政府主義者で悪漢である」という趣旨の日本人のいいはじめた宣伝を奨励し,受けいれたので,「日本人自身よりもなお悪い」からである。日本の目的は,朝鮮人を日本から追い出すことにあるとかれはつけ加えていつている(35)。

 韓国政府の他の機関によつてなされた二つの処置も注意されねばならない。その一つは,海外にすむ朝鮮人は,領事館および大使館に登録されるという国会の議決であつた。これは,国籍変更を行なおうとする努力に法的基礎を与えるものであつた(36)。1950年5月末に,外務部長官は,「李政府の柱石たる大韓青年団は,日本に支部を結成するため,団員を日本に派遣する」と発表した(37)。朝鮮事変のために,この計画は実現しなかつたが,これはおそらく韓国における「再教育」制度を在日朝鮮人少数民族にも拡げようとしたものであろう。

注(25)(訳者注=原文にはこの項に何もかかれていない。)

(26)Nippon Times, 1949年10月1日,1頁。

(27)NT, 1949年9月9日,1頁。

(28)NT, 1949年10月22日,1頁。

(29)NT, 1949年9月18日,1頁。

(30)このような声明の例は,NT,1950年1月13日,1頁;NT,1949年9月23日,3頁;NT,1949年10月8日,1頁にある。

(31)Nippon Times, 1950年1月17日,3頁。この非難は,『朝鮮』という文字が,北朝鮮政府の名に現われているが,南朝鮮の共和国(訳者注,韓国)の名には部分的にも現われていないという事実にもとづいている。後者の名(訳者注=韓国)は「南方に起こったもので,保守的・文学的階級につねに親しまれたものであり,それに反して,…………朝鮮という文字は北方に生まれたものであり,つねに庶民的であり,方言的な名」であつたことが指摘されている。 George M. McCune : Korea Today, Cambridge, 1950年,221頁注を見よ。

    完全な蔑称である「半島人」(半島の住民)という名は別として,「朝鮮人」というのは,英語のコリアンに対する唯一の日本語である。

(32)NT, 1949年10月23日,1頁。

(33)NT, 1950年4月2日,2頁。

(34)NT, 1948年9月10日,2頁。

NT, 1948年8月19日,1頁。

(35)New York Times, 1949年7月29日,4頁。

(36)NT, 1949年11月12日,登録は李大統領の指令によって,はじまることになっていたが、この指令は与えなかつた模様である。韓国代表部による在日朝鮮人の登録は,韓国国会の議決以前にはじめられ,しかも非公式に行なわれた。このようにして非公式に南朝鮮の政権への帰依を表明したものの数は詳らかでない。大阪地区において2万2,000名ないし2万3,000名の朝鮮人が登録したと伝えられている。NT,1950年6月30日,7頁,

(37)NT, 1950年5月29日,3頁。

 

朝鮮人社会についての解説

 朝鮮人の犯罪と不法行為を証拠にもとづいて若干観察することは,現在の在日朝鮮人少数民族問題のいくつかの面についての理解を助けることになるであろう(38)。たとえば,朝鮮人社会全般の経済的困難は,不法な方法で,生活の資を得る朝鮮人の逮捕理由から推断できるであろう。そのような行動としては,ちつぽけなやみ屋商売から高度に組織された倉庫破りにまである。この後者のような程度の違法は,他の範ちゆうに入れらるべきものであるが,大多数の朝鮮人犯罪は悲惨な経済的要求を動機としているようである。朝鮮人の違法行為が,酒の密造ややみ煙草の製造のような製造業に集中していることは,この見方を支持するものといえよう。その他のおもな朝鮮人の不法な職業といえば,主として消費物資の無許可輸送であるが,これとても大体正常な雇用機会の得られないことが原因である。

 朝鮮人が北朝鮮の旗を掲揚すること,またはその旗を画いたポスターを掲示することが占領軍から禁止され,それに対し朝鮮人が抗議したが,これはまたちがつた性質のものであつた。日本における共産主義者の戦略にもとづく臨時の指令が,朝鮮人が執拗に違法行為を犯すことに対して,部分的責任があることは疑いない。しかし,これだけでは,朝鮮人全員がかれらの幸福を危うくすると主張することの説明にはならない。こういう種類の不法行為の基本的動機は,全朝鮮人社会にある一般的な不安感と被迫害感にあるように思われる。この場合の例では,北朝鮮旗は在日朝鮮人の地位を改善するために,戦いつづけた唯一の政治路線を象徴するものである。多くの朝鮮人にとつて,このながい闘争の記録が,他のイデオロギーの支持者から日本における共産主義の代表を識別するおもな特徴であつた。かくして,共産主義者に指導されているという事実から,一般の朝鮮人は共産主義を否認する方向にいかないで,むしろ共産主義に好意をもつようになつた。

 ほとんどすべての朝鮮人の不法行為は,そうした行為を犯罪としてみたとき,普通にもつている意味以上の影響をまきおこした。これは,ある程度は当然,日本の報道機関がそれに必要以上の注意を喚起したことによるものであるが,さらにそれ以上の要素は,小さな事件を派手な訴訟事件にする朝人の性癖であつた。朝鮮人を逮捕しようとする際に,違法者とは同じ朝鮮人の血をひいているという以外は,何の関係もない朝鮮人分子がこれに加わつて暴徒と化した例はきわめて多い。そのうえ,政治問題に関しての朝鮮人同志の闘争にともなう暴力は,日本人の眼に朝鮮人の無法さをより鮮やかに示さずにはおかなかつた。 

 たとえ,このような事情で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかつたとしても,この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた悪い影響は依然として甚大なものがある。朝鮮人の掠奪行為が,大部分,下層民の日常生活にとつてきわめて重要な地域において行なわれたということもあつた。さらに朝鮮人は,日本に不法入国しようとしたが,ときには伝染病をももちこんだという事情もあって,この不安をつよめる実例を提供した。朝鮮人は「悪者」だという心理が,時の流れとともに,日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由は,なにもないのである。

注(38)次節に述べた事情は,Nippon Times の記事の中から抜萃したものである。

 

在日朝鮮人と朝鮮事変

 朝鮮事変の勃発により,日本における当局は,全朝鮮人社会を今までよりきびしい監視の下においた。日本人の共産主義に対しても,1950年6月のはじめに,「アカハ夕」編集員の追放という形でそのような処置のとられたことが思い起こされるであろう。北朝鮮の攻撃の直後,アカハタは,発行を禁止された。その理由は,つぎのようであつた。すなわち「……………外国からの侵略の道具であり,朝鮮の情勢を論ずるにあたり,真実の曲解を日本人およびこの場合はとくに多くの朝鮮人在留民の間にまきちらすのを常とした……」(39)。8月7日までに121の左翼新聞が発行を停止され,その中には疑う余地もなく,すべての朝鮮人左翼新間もふくまれていた(40)。日本政府は,ただちに朝鮮人共産主義者および各地の共産主義者が「この朝鮮の内戦をふたたび日本内で暴力を振う口実として利用すること」のないように手配した。全警察隊は,朝鮮人を厳重に監視する態勢をとつた。日本の海上保安庁は,朝鮮人の日本への不法入国の企てを防ぐため,その舟艇を北九州海岸の沖に集結する命令をうけた(41)。

 在日朝鮮人は,その本国における戦争によつて,二つの方向に引きさかれた。北朝鮮のラジオは,かれらに日本を基地とする南朝鮮援助をサボタージュするよう呼びかけた。この北朝鮮からの呼びかけに対する朝鮮人の反応は,広範囲に北朝鮮支持の活動が起こり,また計画されたことから推測できる。直接のサボタージュをふくむごく少数の事例しか報告されなかつたが,アメリカの援助を攻撃し,北朝鮮援助資金を募るビラを印刷し配布したため,多数の朝鮮人が逮捕された。この種の活動は,新らたに作られた朝鮮人の組織と日本共産党とに指導されたものと思われる(42)。おそらくは,従来あつたよりもさらに多くの朝鮮人の「抗議デモ」が朝鮮事変のぼつ発以来行なわれた。それらの中のいくつかは,学校分離や課税の問題のように,朝鮮人のながくつづいている不幸に原因するが,その他のデモは朝鮮の戦争に関連するものであつた。中共の介入以来,朝鮮人騒擾の波は関東や関西地方を通じて広がつた。これらの特微は,「暴力的で,予め計画されたもの」であることであり,日本の官憲は,これを「治安を乱そうとする相呼応した企て」とみなした(43)。これら最近の朝鮮人の騒擾は,国際共産主義が直接に指導しているものとひろく信ぜられた(44)。

 一方,朝鮮人は,韓国軍の志願兵となることや,そのほか韓国支持の活動へ参加することを求められた。右翼の大韓居留民団は,朝鮮での軍務に服するために,在日朝鮮人を募集する運動をはじめた(45)。その後,韓国代表部とマッカーサー元帥の幕僚との間で,在日朝鮮人青年5万名を徴集する計画についての会談が進行中であることが報ぜられた。韓国公使は「『兵役適令の5万名以上の青年』がいる。しかし,5万名以上の青年を信頼して軍務に就かせうるものか,どうかは疑わしい」と注意し,さらに「戦争がはじまつて以来,500名の朝鮮人が志願を申し出た。しかし朝鮮人の中の共産主義分子は朝鮮人の徴集に強い反対をとなえている」とつけ加えた(46)。9月に最初の朝鮮人志願兵の訓練がはじまつたことがわかつた(47)。しかし,これらの計画がその後どの程度に進展したかは明らかでない。

 朝鮮事変は,日本内の朝鮮人社会がもつジレンマを深めた。将来の朝鮮の市民権は,現在の忠誠宣言によつてきまるのであろう。しかし,在日朝鮮人はいかなる決断をするであろうか。南北いずれの側が最後に勝利を収めようとも南北両軍によつて行なわれた荒廃をおもえば,朝鮮に帰ることを真剣に希望する朝鮮人はほとんどいまい。しかも,在日朝鮮人をとりかこむ苛酷な条件は改善の見込がほとんどない。在日朝鮮人は,日本人がかれらにいだく敵意をやわらげる力もなければ,またその敵意から生ずる不平等な地位に対して,戦う力もない。かれらの母国の動乱は,かれらに対する日米当局の疑惑と反感を深める結果になつたが,在日朝鮮人はその影響からも脱れることもできない。かくて,この動乱は,もともと変則であつたかれらの地位をさらに悪化させてしまつた。将来はどうなるか。在日朝鮮人少数民族問題の満足すべき解決あるいは改善の見込みは,無期限に延期されたのである。

注(39)New York Times, 1950年6月27日,5頁。

(40)NTY, 1950年8月7日,3頁。

朝鮮人連盟の機関誌は,禁止されたアカハタの後継紙とともに,1950年10月に発行を停止された。NT,1950年10月1日,1頁。11月に追放はほとんどおわり,日本内で,共産主義者およびそのシンパとみなされた者1万1,000名が,追放リストに載せられたと発表された。NT,1950年11月16日,1頁。この数字には,おもな朝鮮人左翼指導者は,ほとんどすべてが含まれていたに違いない。

(41)New York Times, 1950年6月27日,6頁。

(42)サボタージュの例については NT,1950年8月22日,1頁および NT,1950年10月2日,3頁を見よ。アメリカの援助などについての批判文については,NT,1950年7月4日,3頁。NT,1950年8月12日,7頁。NT,1950年12月2日,2頁を見よ。

(43)NT, 1950年12月3日,1頁。NT, 1950年12月6日,7頁。

(44)たとえば,NT,1950年12月19日,1頁を見よ。

(45)New York Times, 1950年6月30日,2頁。

(46)New York Times, 1950年8月26日,3頁。

(47)NT, 1950年9月15日,3頁。