日本製鐵株式会社史

分類コード:I-05-02-003

発行年:1959年

第3部第6篇(3)労務動員の強化と労務者の質的低下

     (4)戦時労務の破綻

所蔵:国立国会図書館

 

日本製鐵株式会社社史編集委員会が1959年に編集刊行した非売品。八幡製鉄所や釜石製鉄所など国内の代表的な製鉄設備を有した日本製鐵の社史であり、戦時の徴用、労働状況などについても、会社資料や統計を引用して記述している。

 

著作者:
日本製鐵株式会社
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(2)日華事変下の労務

 日鉄発足以来すくなくとも日華事変勃発の当時まで、日鉄の経営は、鉄鋼国策の線に沿って生産に、設備拡充に、また需要に対する供給に、きわめて順調な進展をとげた。たとえば、第8回定時株主総会(昭和12年12月23日)における平生取締役会長の演説は、その間の状況をつぎのように語っている。

 

 「本期ニ於ケル当社業績ノ大要ヲ申上ゲマスルニ、溶鉱炉及製鋼圧延其ノ他生産設備ハ引続キ全能力ヲ挙ゲテ増産ニ努メルト共ニ、設備ノ増加等モアリマシテ、事変ノ為多数ノ応召者ヲ出シ其ノ他亦種々ノ影響ガアツタニモ拘ラズ、生産高ハ前期以上ヲ挙グルコトヲ得タノデアリマス。・・・・・・当社ハ現下ノ時局ニ対応シテ極力生産力ノ拡充ニ努メ、急激ニ増加セル需要ニ対スル供給ヲ増加スルト共ニ、一方配給組織ノ改善ニ依リ鉄鋼価格ノ安定ヲ図ツテ居ル次第デアリマス。」

 

 しかし、このような順調な発展も、戦局の拡大化につれて、昭和13年(1938)のころから工事建設用資材および労働力の逼迫等、わけても熟練労働者の払底によって、ようやく困難となってきた。同じく平生会長の第12回株主総会(昭和14年

12月21日)演説をみると、

 

「本期ニ於テモ溶鉱炉及製鋼炉其ノ他生産設備ハ引続キ全能力ヲ挙ゲテ増産ニ努メマシタガ、労力ノ不足ヲ来シマシタノミナラズ、地方的ノ天候不順ニ因ル著シキ渇水ト電力ノ供給不足等ニ因リマシテ、前期ニ比シ操業上一層ノ困難ヲ来シマシタガ、之ヲ克服シマシテ概ネ順調ナル成績ヲ収ムルコトヲ得タノデアリマス。

 第3次拡張ニ属スル輸西新工場、並ニ第4次拡張ニ属スル広畑工場ノ各銑鋼一貫設備、及第5次拡張ニ属スル清津工場ノ製銑設備建設工事モ亦、工事用資材及労力不足ハ免レヌ所デアリマシタガ、極力善処シマシテ工事ノ促進ニ努メマシタ結果、広畑工場ノ方ハ去ル10月15日、輸西工場ノ方ハ本月15日ヲ以チマシテ夫々溶鉱炉各1基ノ火入ヲ無事集中スルコトガ出来タノデアリマス。

 之ニ依リマシテ向後ノ生産モ一段ト拡充セラルルワケデアリ、又其ノ他ノ拡張工事モ鋭意其ノ進捗ニ努力致シテ居ル次第デアリマスガ、前述ノ如キ諸事情ニ因リ前途ハ益々困難ヲ加フルコトト存ジマス。」

 

とあり、輸西の仲町工場や広畑製鉄所等本格的な新設工場設備がようやく稼働しはじめ、いよいよ強力な生産作業に第一歩をふみ出そうとしたところ、一方では、はやくも残部諸工事遂行上の諸困難と、労働力の逼迫とがあらわれたことがのべられている。

 これよりさき、周知のごとく昭和13年(1938)4月に国家総動員法が公布され、5月から施行された。同法は戦争目的の達成のために「国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様、人的及物的資源ヲ統制運用スル」ことを目的としたもので、労務に関しては、政府に対して大要つぎの事柄を遂行する権限をあたえた。

 

 ⅰ)徴兵上障碍とならぬかぎりにおいて国民を徴用すること。

 ⅱ)国民および法人その他の団体をして、国または地方公共機関に協力せしめること。

 ⅲ)従業者の使用・雇入・解雇や、賃金その他労働条件を規制すること。

 ⅳ)労働争議を予防あるいは解決するほか、労働争議に関する行為の制限、または禁止をなすこと。

 ⅴ)国民の職業能力および経験に関して申告を要求し、かつ検査すること。

 ⅵ)工場あるいは各種の養成機関または学校に対し、技能者の強制的養成を命令すること。

 

これは、日華事変の時代から太平洋戦争時代にかけての労働統制に関する基本的な法律となった。そして、この総動員法の法的権限にもとづいて、まず昭和13年8月に学校卒業者使用制限令、ついで14年1月、国民職業能力申告令、3月、従業者雇入制限令・技能者養成令・賃銀統制令、7月、国民徴用令など、一連の労働統制法規が、(ことに熟練労働者の確保ということをめぐって)つくられたほか、同年7月には昭和14年度の労務者新規需要を110万人と概定した戦時体制下最初の労働動員計画が、内閣企画院から発表された。この計画は、長期戦にそなえて、①軍需生産の促進、②生産拡張計画の遂行、③輸出の増進、④民需品の確保などの諸目的を達成するため、あらゆる労務供給の調査と有効な労務統制の樹立とを意図したもので、昭和13年12月に閣議決定の運びとなった「生産力拡充計画」すなわち鉄鋼・石炭・軽金属等15の国防産業および基礎産業の確立方策、ないし軍需関係品目の充実強化方策に対応したものであった。

 さて、日鉄はこのような政府の労働動員政策に、あるいは規制され、あるいは促進されて、戦時下の労務問題に対処していったのである。

 昭和14年(1939)4月1日、日鉄はまず国民精神総動員の主旨に則って「一、 天業翼賛 一、 職務精励 一、 親和協同」の3ヵ条からなる社是を、社中一般に達した。これに産業報国会が相ついで結成されていったのであるが、あたかもこれと時を同じくして、まず工場事業場技能者養成令による教育が、八幡製鉄所各現場において開始され、やがて同所教習所を庶務部福利課の所管より所長直属機関に分離昇格せしめたのをはじめ、同年7月には第1回作業所長会議を本店にて開催し、「生産力拡充計画遂行ニ関スル件」のほか、「従業員ノ充員及養成ニ関スル件」につき、ことに労務者不足対策・職員登用・技能者養成・技術者交流等の問題に関して、本店ならびに各作業所相互間の意見の交換、対策の調整を企図するところがあった。

 昭和14年(1939)10月、広畑製鉄所はその建設工事一部成って溶鉱炉の火入れを行ったが、同所は作業開始にさき立って所要工員の養成を八幡製鉄所に委託し、また八幡からの工員転傭をはかった。その結果、昭和16年度初期における広畑製鉄所の労務者充員状況(昭和16年5月末現在)をみると、工員現在人員(3,626名)中およそ2割に当る人員が、八幡より転傭の熟練工員(329名)、および八幡において委託養成を終了した半熟練工員(392名)によって占められた。

 同様の施策は輸西製鉄所(とくに仲町工場)その他の作業所に対しても行われた。

 しかし、昭和14~15年のころから、各作業所とも製鋼業に適する体格優秀なる「重筋労働者」に応召者がようやくいちじるしく、その補充はますます困難となり、その代員として体位低下せる未熟練者を多数充足した結果、工員の素質も漸次低下し、労働能率にも深刻な影響をあたえるにいたった。いま試みに、昭和15年(1940)12月末日現在における八幡製鉄所の「工員勤続年数別人員」構成を示すと、第5表のごとくであり、官営製鉄所と

 

 

表(略)

 

 

して発足以来すでに40年の伝統をもっていた八幡製鉄所においてすら、当時はやくも、勤続5年以下の工員の構成率が過半を占める状況におちついたのであった。かつて昭和11年度(昭和12年3月末現在)においては、八幡工員(21,617人)の平均勤続年数が10年3ヵ月、5ヵ年以上勤続者が全体の67%を占めていたこと(同所『工場労働統計』)と対比すると、日華事変時代にいかに激しく労働者の質的構成が変わっていったかが察せられる。

 

(3)労務動員の強化と労務者の質的低下

 だが、質的なことはしばらく措くとして、昭和16年(1941)までは、とにかく量的には一般募集の方法による必要人員の大量充足によって、おおむね所期の目的を達することができた。労務の充足問題にいちじるしい逼迫の度を加えたのは、いうまでもなく同年12月の太平洋戦争への突入である。

 太平洋戦争の勃発は軍動員の飛躍的強化をもたらした。このため労務者の減少は顕著となり、軍需産業の拡充強化にともなう労働者の新規増員の要請はますます熾烈となったにもかかわらず、不足人員の充足はいよいよ困難となり、さらに技能者の枯渇が作業遂行上の一大隘路となり、昭和17年には労務者の争奪戦さえ、産業界に激化するようになった。そこで日鉄は、各作業所とも中堅技能労務者の自家養成を強化し、その補充に力を注いだが、十分な成果をあげるにいたらず、ついに昭和17年4月、日鉄においても重要工場たる八幡・広畑の2作業所につき、製鋼業としては最初の労務者強制徴用(国民徴用令にもとづく)を行うにいたった。当初の徴用割当人員は八幡500名、広畑450名であった。(これよりさき、昭和16年11月~12月に、国民登録令および徴用令がその適用範囲を拡張され、16歳から40歳にいたる全男子、また16歳から25歳までの未婚女子をも登録者にふくみ、厚生省指定工場についてこれら登録者の徴用が実施されうる状況になっていた。日鉄最初の徴用も、もとよりこうした政府の労働動員対策と表裏一体をなすもので、徴用の基礎をなす各種の登録制度は以後数次にわたって拡張強化された。)

 ついで同月17日、まず八幡製鉄所が重要事業場労務管理令(昭和17年2月24日、勅令第106号)第2条による重要事業場に指定されたのをはじめ、広畑製鉄所(9月)その他作業所も相ついで指定工場となった。かくて日鉄各作業所は、国家総動員法およびその発動にもとづく特定の諸法令によって、直接に商工省(のち昭和18年11月に軍需省)や厚生省の指導監督をうける政府管理工場となり、その国策との結合は労務管理の面からもいよいよ深いものとなった。(ここで「重要事業場」とは「総動員物資ノ生産若ハ修理、又ハ国家総動員上必要ナル運輸ニ関スル業務ヲ営ム工場、鉱山其ノ他ノ場所ニシテ、厚生大臣ノ指定スルモノ」をいう。)

 ところで日鉄は、徴用工員の急速確保によって、労務不足の補充を量的にはなしえたものの、それによって従業員の一般的水準のいちじるしい低下を余儀なくされたこともまた、やむをえないことであった。たとえば、八幡製鉄所には昭和17年(1942)4月、10月、12月の3度にわたって合計1,774名の徴用工員が入所しているが、その内訳を年齢別、前職別、体格状況別に示すと第6表のとおりで、年齢的には20歳以下、前職状況では農業・商業・その他の従事者の合計、また体格のうえからは最低位の者が、いずれも過半数を占めている。

 一方、昭和17年5月、太平洋戦争勃発後はじめての労働動員計画が内閣企画院から発表された。この計画では、従来使われてきた「労務動員」の名称は、「国民動員」と改められ、大要つぎのような声明がなされた。

  「昭和17年度の動員計画の目的は、現状にかんがみ戦争努力の急激な発出をもたらし、国民の職業上の慣習における遠大な改革を達成するにある。国民の労務状況を概観すれば、日華事変以来労務需給の状況はより逼迫してきている。このことを考慮にいれて、政府は動員計画の強化に着手した。本計画は国民登録の拡大、労務需給調整令の改正、勤労報告協力令および事業場労務管理令の強化案等をおり込んでいる。」

これに加え、昭和17年から満14歳以上のすべての学徒が、その学校のいかんを問わず動員されることになり、さらに昭和18年度には、前年(昭和17年)度におけると同数の労働者を朝鮮から移入するほか、日本に居住している中国人および朝鮮人や、俘虜や、囚人が労働動員計画のなかにとりいれられることになった。昭和18年度の労務割当において、最大の優先権を与えられたのは、製鋼・石炭・航空機・軽金属・造船の5産業であった。

昭和17年から18年にかけて、日鉄においては、あらゆる方法を講じつつ労務給源の確保につとめた。すなわち、さきの八幡・広畑についで、輸西・釜石・富士・大阪の内地全作業所においても徴用を実施したほか、この手段によっても予定の労務者を完全には充足しえなかったために、一方では男子未成年工員および女子工員の採用につとめ、他方では特殊労務者として朝鮮人工員を集団移入するとともに、学徒・女子挺身隊・勤労報国隊を受入れ、補助的作業部門に使役した。(動員学徒の真摯な活動には涙ぐましいものがあり、当時多くの賞讃をうけたものである。)当局からの指令にしたがって、内地各作業所において戦時俘虜の使役がはじめられたのもこの時期である。

つぎに外地関係についてであるが、朝鮮の兼二浦・清津両製鉄所とも、従来工員の大多数は朝鮮人によって占められ、戦時下においてもその補充獲得はさほど困難ではなかったが、内地人の求人難には深刻なものがあった。その主原因は、満洲・華北をひかえて内地人の休職者が激減したためである。兼二浦においては昭和17年12月末ついに工員の比率は朝鮮人82%、内地人18%となり、昭和18年度には内地工員補充の対策として除隊者・内地人養成工等の募集に重点をおき、充員運動を展開したという(兼二浦『現況報告』昭和18年2月)。清津もまた同様で、内地人工員の充足、移動防止および出勤率の向上は、戦時下の最急務の問題であった(第7表参照)。

なお、昭和17年ころから漸次具体化されつつあった小型溶鉱炉を中心とする日鉄の外地製鉄計画(石景山その他)の実施に対応して、ことに昭和18年には様々の技術者および工員補充計画が立てられ、実行に移された。また、これら外地製鉄所の建設と操業に当っては、おびただしい数に上る現地人の工員や人夫が動員された。大冶鉱業所にしても第8表にみるごとく全従業員(11,618名)の9割に当る華人労働者が使役された。

かくて、日鉄の労務構成は太平洋戦争の深刻化とともにますます複雑化していった。この事態に対処して、日鉄では日華事変の時代にひきつづき、関係会社および外地事業を含めて、大日鉄としての人事を行い適所に人材の派遣を行ったほか、人材の他部門からの吸収にもつとめた。また昭和18年には、職員・準職員の定員を定め、不当な要因を擁しないよう注意をはらった。

さらに、迫りくる戦局の危機にそなえて敢然と立上り、日鉄は、たとえば昭和17年12月より翌年3月にかけて各作業所に「大東亜戦新記録月間」を実施し、従業員の潜勢力を喚起したが、これによってかなりの効果をあげることができた。わけても八幡製鉄所における成果には一時めざましいものがあり、17年12月には第9表にみるごとく創業以来の新記録をも樹立した。しかし、全般的にみて、稼働人員数の増加にくらべると、作業能率がいちじるしく低下していったことはやむをえぬ事実であった。

 

(4)戦時労務の破綻

 戦局の拡大と長期化にともなう諸情勢の悪化はいかんともしがたく、ことに一般労務者の不足は必然的に農業労働者を工場に吸収したため、春秋2期の農繁期には各作業所とも多数の農業出身者を一時的に帰郷させざるをえず、この期間における作業の遂行に相当の影響をおよぼした。一方、食糧事情の逼迫にともなう体力の低下や病気および買出しの不偏化等によって、労務者1人当り平均延労働時間も漸次低下の一途をたどるようになった(日鉄『各年度別ノ兵事、空襲、食糧等ニ起因スル労働力ノ影響ニ付テ』昭和20年10月)。

 昭和18年(1943)10月、政府は「企業ノ国家性ノ明確化」「生産責任制の確立」および「企業行政ノ刷新」をなし、もって軍需生産の飛躍的増強を図ることを目的として、軍需会社法(法律第108号)を制定公布し、12月より施行した。(この間、昭和18年11月に商工省ほか3省が廃止されて、軍需省が設置された。)従来、総動員法にもとづく工場事業場管理令によって個々の工業事業場の国家管理が行われていたが、軍需会社法は企業全体を国家の管理のもとにおき、生産責任制を明確化して従業員の経営者に対する服従を公的なものにするとともに、資材・動力・労力等を重点的に注入しようとするものであった。本法によって各産業企業と国家との結合はより密接なものとなったわけであるが、昭和19年1月、日鉄は同法にもとづく軍需会社としての指定をうけ、八幡・輸西・釜石・富士・大阪・広畑各作業所の労務管理に対して、同法の規制を全面的にうけることになった。(清津・兼二浦は19年3月朝鮮総督より指定をうけた。)

 しかし、昭和19年(1944)にはいってから、応召者の数は、特令によって兵役への動員をまぬがれた一部の主要技術者等の場合をのぞいても、さらに急激に増加し、同年度における応召者の在籍労務者に対する各作業所平均比率は、およそ25%の多きに達した。また全作業所における特殊労務者数も普通(常傭)工員に対し20%に達し、補助的部門のみならず主作業にも、直接従事させねばならぬ情勢となった。これに加え、昭和19年にはすでに空襲激化の予想にもとづく防空施設の強化拡充等のため、労務者の勤務時間・作業能率は少なからぬ影響をうけつつあったが、ことに同年8月20日の八幡における大空襲の体験は、日鉄全作業所に対し防空態勢の緊急整備を要請することとなり、復旧作業に相当数の労務者の動員を要した八幡製鉄所はもとより、他作業所においても、以後作業時間の相当部分を防空対策に充てねばならなくなった。このため技術水準はますます低下し、生産能率が急速に悪化していったのは自然の勢いであった。

 昭和20年(1945)は太平洋戦争に、いわゆる「本土決戦」をむかえた年である。この年には食糧の増産が国内の最重要課題となった。そこで農業要因の確保を図るため、労務者中農業経験者を一部徴用解除のうえ帰農させるという非常措置を講ずるにいたり、さらに各作業所においても、それぞれ自家農園に作業労務者を動員し、食糧事情の打開につとめた。(石炭増産の要請に応ずるため、労務者の一部を炭山に派遣したのもこのころである。)いまや、新しい労務給源はまったく枯渇に瀕し、技能者はいうにおよばず、徴用工・動員学徒・勤労報国隊・朝鮮人工員すら、もはやその数的増加を期待できぬこととなり、わずかに原料難、輸送難その他の事情から休廃止となるべき工場の従業員を配置転換することによって、当面の打開策とした。しかし空襲による混乱、交通や食糧事情の逼迫化等は、この応急対策をも容易には進捗させなかった。そのうち原料の極度の枯渇は、部門によってはかえって労働力の余剰をすら招来するにいたり、生産の麻痺状態がはじまった。そして、昭和20年7月14日、第1次釜石艦砲射撃、翌15日輸西艦砲射撃、8月8日八幡空爆、翌9日第2次釜石艦砲射撃と、戦災による被害相つぎ、従業員からも多数の死者・負傷者・家屋焼失者等を出し、まさに疲労困ぱいの極みに達せんとしたとき、終戦をむかえるにいたったのであった。

 

(5)終戦より日鉄解体まで

 以上は戦時下における日鉄労務状況の概略である。敗戦によって日鉄は南鮮の兼二浦・清津両製鉄所その他外地関係事業所をすべて失った。いま戦後本土勤労課よりGHQに提出した資料によれば、昭和20年8月15日現在における内地各作業所の労務者在籍人員は第10表のごとくであった。日鉄は一方では、兼二浦・清津をはじめおよそ2万名におよぶ外地関係従業員の整理あるいは内地への受入れ態勢を整えるとともに、他方ではこれら内地各作業所従業員の整理にかかったわけで、それはあの傾斜生産方式ないし八幡集中生産を中軸とする戦後の鉄鋼生産回復の涙ぐましい努力の過程のなかで、同時的に行われたのである。

 これよりさき昭和20年10月には、国民勤労動員・重要事業場労務管理令など、戦時下の各種労務関係法が廃止され、12月には国家総動員法も廃止された。戦後の労務人員整理は、当然のことながら、まず国家強制による臨時雇傭者、すなわち前表中「特殊労務者」に対して実施された。ついで一般従業者に対しても、退職希望者その他について行われることになったわけであるが、普通工員は将来の操業度の回復にそなえ、かつ熟練工の散逸を防ぐため、積極的な整理はなされなかった。しかし、昭和21年7月、いわゆる八幡集中生産が実施にはいるや、一時他作業所はまったく休止状態となり、従業員数もしだいに減少した。

 昭和22年(1947)、職業安定所の施行(同年12月1日)があり、これにともなって、翌23年2月末をもって労務者供給業が全面的に禁止されたので、各作業所とも、労務者(人夫)の確保をも直轄の仕事に切りかえた。一方、昭和20年秋から翌年はじめのころにかけて、後述のごとく各作業所に労働組合あるいは従業員組合が相ついで結成され、21年4月には日鉄労組連合会がつくられた。これに対し、日鉄本社ならびに作業所では、経営者側および組合側双方の委員より成る労務委員会・経営協議会を設け、労働協約・給与改訂・その他経営に関する事項等につき、労使強力して問題を処理するところがあった。

 また他方、このころから、まず昭和22年3月に戦後最初の溶鉱炉の火入れが輸西製鉄所において行われたのをはじめ、翌23年5月の釜石第10溶鉱炉の火入れ、ついで24年1月の広畑再開準備指令というように、鉄鋼生産もいよいよ復興の緒につき、これにしたがって日鉄各作業所(大阪は一時大阪工場、大阪事務所となったが、昭和24年大鉄工業として日鉄より分離)の労務もまた、徐々に平和時の正則的状態に復し、昭和25年3月の日鉄解体の日をむかえたのである。