秘録大東亞戦史 朝鮮編 三八線に変貌する北と南ー朝鮮引揚史 その三ー

太平洋戦争(大東亜戦争)の戦況や実相、推移について、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、共同通信社をはじめとする日本の新聞記者などが、自分の見聞した範囲において記したルポルタージュを編集した書籍。地域方面別に1冊(或いは2冊)ずつ区切って編集したものと、地域方面ごとで区切らずに収録したものがある。

 朝鮮編は、終戦当時、朝鮮総督府の官吏であり、京城日本人世話会のメンバーとして、在ソウルの日本人居留民の保護や引揚帰国の援助を行なった森田芳夫のルポルタージュ5編を含んでいる。

 

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三八線に変貌する北と南

  ――朝鮮引揚史 その三――

ソ軍は北鮮へ、米軍は南鮮へ、図上にひかれた緯度線を境に朝鮮の希望は分断された。それはまた邦人の祖国への道を岐った。南鮮の引揚はかくして順調に進んだ。南は南、北は北の明暗を描いて……

      元京城日本人世話会 森田芳夫

 

  ひかれた分断線

 日本のポツダム宣言受諾は、アメリカが予期したより、はやすぎた。

 関東軍の精鋭は、戦わずして白旗をかかげる時、満洲はソ軍に占領される。朝鮮もまた、ソ軍は清津に上陸しており、京城には十数時間で南下しうる。これにたいして、米軍はもっとも近いところで沖縄だ。ソ軍の南下を何とかしてくいとめねばならない。

 八月十三、四日頃、地図をみつめていたワシントンの国務、陸軍、海軍の三省連絡調整委員会の人達は、朝鮮地図の上に一線をひいた。

「ここらまでソ連の南下をみとめよう」

 この提案はスターリンのみとめるところとなった。それが三十八度線だった。

 しかしそれは朝鮮の永遠の分断を表明したものではなくて朝鮮の独立のために「日本の降伏を処理するため」日本軍を武装解除し、日本軍を送還せしめ、日本勢力を一掃するための米ソ両軍の分担線だった。

 これが、その後の朝鮮の最大苦悶線となると、当時のだれが考えただろうか。

 朝鮮総督府が三八度線のことを東京から知らされたのは、ずっとおくれて八月二十二日であった。

 

  秋山師団長の自決

 八月十七日、京城で日本軍が治安の指導権をとることを発表したとき咸興の第三十四軍司令官は、咸興府内の有力者三十余名を招いて、参謀長から

「正式に停戦協定が成立するまでは、絶対に日本軍の武装解除はなく、軍としてはあらたに警備司令部をおいて治安の維持につとめる。ソ軍の進駐の際には当然国際法をまもって、軍使をたててくるが、もし正々堂々として来ない時には、軍は当然これを敵としてあくまでも一戦をまじえる。咸興在住民の生命、財産は、軍が保証する。引揚の際には在住民を軍の先頭にする。おちついて平素の業務に精励されたい」

 と言明した。

 しかしその翌日の夕方には、ソ軍戦艦三隻が元山に入港してきた。日本軍は何等の姿勢もしめさなかった。

二十一日には、さらにソ連輸送船五隻が入港し、ソ軍二千余名が上陸し、元山港の要地を占領した。

 元山駅郊外で京元線は遮断され、一部のソ連兵はさらに南進した。二十二日元山の陸海軍部隊は武装解除をうけた。

 定平にいた第一三七師団長秋山義光中将は、十七日師団管下に陣地撤収命令を下達する手筈をととのえたのち宮城遥拝所で十文字に割腹、頸動脈を切断し、副官深沢大尉の介錯のもとに従容たる自決をとげ、「辞世、万世護、正四位義光」としてつぎの詩歌をのこした。

 精鋭将成時既遷

 正気凝発青年間

 神州遥拝留魂魄

 秋風埋骨万年山

 事しあらば千たび八千たびあらわれむ うちどの敵にやはかけかさむ

 全鮮師団長で、自決したのは、秋山中将だけである。

 二十三日には、第三十四軍の武装解除がおこなわれた。独立歩兵第百九大隊長坪井大佐は、二十四日自決した。

 

  道ごとに人民政権結成

 二十一日に、ソ軍先遣隊は北方から戦車をつらねて咸興に進駐した。沿線の日本軍、憲兵、警察官は、みな武装解除をうけた。

 二十四日、ソ連朝鮮進駐軍司令官チシチヤコフ大将は、幕僚とともに咸興に来り、行政権移譲の交渉をおこなった。

 その時総督府から警備課長森浩氏、保安課長磯崎広行氏、大池通訳官、朝鮮軍から久保少将のほか、大桃中佐、小谷中佐、植弘少佐等も来って参席したが具体案は一切岸知事を相手におこなうことを発表し、京城から来たものは、なんらなすことなく帰らねばならなかった。

 二十五日夜九時に、日本側各方面有力者がソ軍司令部に招集され

「都容浩を委員長とする朝鮮民族咸境(ママ)南道執行委員会に、咸南の行政治安一切の委任」

 が宣言された。

 二十六日、興南工場はじめ、重要施設機関は相ついで執行委員会の手に接収された。二十七日に志村警察署長以下ソ軍に抑留、二十八日、岸知事以下日本人側の道各部長課長高等官等二十一名自動車二台で道庁を出発し、元山につれて行くといい、実は咸興のソ軍兵舎内に入れられ、のちに九月十五日宣徳の収容所に移された。

 二十八日、道警察部特高主任小堤源彌氏は、夫人とともに日本刀で割腹自決した。

 ソ軍は、二十五日、襄陽に進駐、京元線は二十四日以後全谷、東豆川間で遮断された。

 ソ軍は、一時三八線以南の春川、開城まで南下した。

 二十五日、ソ軍が海州に進駐、その日以後京義線は不通となった。九月二日に、筒井知事はソ軍よ道の行政を黄海道人民政治委員会に引きつぐよう命ぜられたが、委員会左右の抗争が大きく十三日に、左派が中心となった黄海道人民委員会(委員長金徳永氏)に正式に接収された。その日から警察関係、道庁幹部、法院関係者などの抑留がつづいた。

 平南で曹晩植氏を委員長とする人民政治委員会に、平北で李裕弼氏を委員長とする人民政治委員会に、日本側の行政の接収された経緯は、村、山路両氏の記録があるので、ここに重複をさけよう。ソ連は、北鮮において日本軍および警察を武装解除し、道その他の機関の主脳部を抑留し、従来の日本勢力の一掃をはかった。それとともに、各道ごとに朝鮮人政権を結成せしめた。そこに従来の日本人の勢力や頭脳や技術を使おうという意図は少しもなかった。

 それは急激な革命であった。刑務所からでた独立運動者、海外から帰った革命家は、この機運をつかんだ。あたらしい支配者により秩序ある過渡期をむかえようとした日本人の期待は一切失われた。

 

  七将官飛行機で延吉へ

 二十五日にソ軍の本部隊が平壌に進駐し、ラーニン陸軍中佐と平壌師管区竹下中将との間に、停戦に関する協定がおこなわれた際、朝鮮軍管区参謀副長久保少将は、飛行機で来り、その協定にたちあった、その時、

「明日午前十時に三十八度以北の朝鮮にいる少将以上のものを、平壌ホテルに出頭させるよう」

 命じた。当時平壌および咸南に七名の将官がいた。久保少将が

「何のためか」

 とたずねたところ、明日返事をするということであった。

 その翌日、七将官のあつまった際、チシチャコフ大将は、明日もう一度来るよう、その際に副官一名、兵一名を帯同すること、被服は夏冬一着ずつ、食糧は一週間分持参するようにのべ、

「赤軍最高統帥部の命により、延吉に護送する」

 ことをあきらかにした。

 二十八日午前十時に、この七将官は輸送機で延吉におくられ、後、牡丹江にうつされた。

 

  参謀長の令息

 三十一日、ソ軍からの要求で、井原参謀長は、京城から飛行機で平壌におもむき、ソ軍参謀長シャーニン少将と会見し、その際日本軍隊は秋乙兵舎に収容し、各々三ヵ月分の食糧をもたしめることが決定された。

 ことに満洲からの避難民の保護についても、ソ軍に懇請して諒解を得た。しかしその夜、八時には、日本軍は明朝八時までに、三合里兵舎に移れというソ軍命をうけた。

 井原参謀長がこの交渉で平壌にまた三十一日の夜、参謀長の令息(早大から学徒出陣、当時見習士官であった)が、上官の心づかいでその宿舎に来て同宿した。

「お父さん、お父さんの帰る時に京城につれて行って下さい」

「お前が俺の子でなければ一人くらい何とでもなるが、俺にはできないよ」

「今に私達はソ軍につれて行かれると皆いっているのですが――」

「そういうことをいうものではない。そういっているとその言葉通りになるよ」

「みな逃げた方がよいといって、軍服をぬいで逃げている」

「お前は、最後まで軍規をまもって上官の命のままに動くのだよ」

 淋しい一夜であった。令息は、その後捕虜として三合里におくられ、延吉の収容所に廻され、極度の栄養失調となり、その後コロ島まで送還されたがそこで病没した。遺骨だけが父の手に届けられた。

「お前が死んでくれたおかげで、世間へすこしでも申訳がたつ」

 井原氏は男泣きに泣きながらその遺骨をだきしめていたという。

 

  北鮮日本軍の抑留

 ソ軍は日本軍の武装解除後、将校、下士官兵を別々にして、千名を一コ大隊とし、その千名に指揮する将校をつけて統制をとった。今までの軍隊組織はなくなった。

 西北鮮にいた部隊は、三合里の演習廠舎に三万四千、彌勒洞の演習廠舎に二千余集結せしめられた。彌勒洞は将校兵団が主であった。

 咸南および城津附近にいた部隊は、富坪、宣徳、五老里、咸興、興南に約三万、咸北部隊は、古茂山に七千、富寧に三千集結せしめられた。この中には警察官および行政官幹部のほか、民間人の一部の人達がいた。

 彌勒洞は最初から食糧をゆたかにはこび、廠舎の収容力も充分あったので楽であったが、三合里は廠舎だけに収容できなくて、馬小屋を利用し、また幕舎を作って収容した。

 古茂山では小野田セメントの工員社宅や小学校に収容されたが、それにはみでた人達は、土をほってむしろをかぶせたその中で生活した。しかしそれも三坪ぐらいの広さに三十名位入り、昼夜交替で寝ている状態だった。

 富寧では、鐘紡カーバイト工場の徴用工宿舎のほかに、集合所、馬小屋などのコンクリートの上にむしろを敷いて、生活していた。富寧、古茂山とも一日主食一合五勺程度で、栄養失調、発疹チフス患者が多くでた。

 これらの収容所は、ソ連へ送る前に一時いれておいたものなので、ノルマ仕事はなかった。しかし一部の人達は羅津、清津のソ連軍物資積おろし作業、興南、元山埠頭で、満洲における解体物資輸送の荷積、平壌駅構内作業、鉄道修理作業の使役に服務させられた。

 日本軍人、軍属の逃亡者の逮捕は秋から冬へつづけられた。軍人でなくとも、数をあわせるために、たまたま通りあわせた年頃の日本人を逮捕抑留した例は各地でみられた。

 行政官の抑留の範囲は、ソ軍によりまちまちで道ごとに違っていた。咸北は知事、内務、財務部長、課長七名、羅津府尹、慶源種馬牧場長、咸南は知事、鉱工、農商部長、課長十六名、端川郡守、咸興刑務所長、平南は知事会計課長、府尹、平北は知事、府尹、鴨江日報社長、税務署長、刑務所長、黄海道は知事以下、内務、財務、鉱工部長、課長級以上が抑留された。各道とも警察部は部長以下ほとんど決定的に抑留された。

 平壌まで南下していた新京大使館員二十八名(そのうちタイピスト六名をふくむ)も抑留された。

 とくに今までソ連のいれたスパイを検挙したもの、ソ連の無線を受信したとみられた清津の無線電信局関係者、興南のNZ工場解体責任者なども調査されてソ連におくられた。

 あとに三合里、秋乙(栗里収容所という)興南、古茂山、富寧の収容所に若干の日本軍捕虜がのこった。

 

  日本政府のこころみた外交的努力

 ソ軍の進駐とともに一変した北鮮の様相は、脱出者により逐一京城につたえられ、さらに東京におくられた。

 日本政府はこれに対処するため、八月二十三日に、マックァーサー司令官あてに、

「満洲、蒙彊、北鮮で日本軍および居留民が無法な発砲、掠奪、強姦の犠牲になっているので、日本軍に武器をもつことを許してもらいたい」

 と要請した。二十八日に、朝鮮総督から外務大臣に、咸南や平南の道庁幹部が抑留されたことやソ軍の暴行を訴えて、

「南鮮に進駐する米軍がこのようなことをおこなわぬよう米軍司令官に談判されたい」

 と電報をうった。

 日本政府は、マックァーサー司令官あてに、北鮮の事態が急速に悪化したことをつげ、その情勢が南鮮に波及するおそれがあるので「すみやかに日本軍にかわって治安維持に任じる連合軍の到着を切望し、日本軍の武装解除と行政機関の接収に充分配慮されたい」とのべた。二十九日、総督府は京城のソ連総領事に、北鮮のソ軍司令官に交渉するようたのんだが、ソ連総領事は自分は直接北鮮のソ軍司令官と折衝する権限がないといって応じなかった。また、政務総監は外務次官に電報をおくり、京城のソ連総領事が平壌のソ軍司令官に面会できるよう、駐日ソ連大使を通じて諒解をえてほしいとのべ、日本人の生命財産を保護し、官公吏、警察官の抑留をやめること、興南日窒の工場施設には、日本人職員を留用すること、咸北の白岩、茂山間に避難している日本人の救護のことを要望した

 外務省は、ソ連政府と直接交渉ができないので、日本におけるソ連の利益保護事務をおこなっていたスエーデン公使にたのんで、駐日ソ連大使を通じて、この総督府からの要求を平壌のソ軍司令官につたえてほしいとたのみ、またスエーデンの岡本公使あてに同じことをたのんだ。しかしソ連のロゾフスキー外務人民委員代理は、

「日本が降伏したので、ソ連の利益事務は、マックァーサー司令部で処理される。ソ連に存在する日本人の地位は一方的に処理される」 

 と回答してきた。

 九月九日、マックァーサー司令部に満洲、北鮮の事態の改善を希望し、日本人引揚のために、新京、奉天、山海関から釜山への直通列車の運転、南北朝鮮間の鉄道運行、羅津、清津、元山鎮南浦、大連への配船、日本人引揚打ちあわせのため、東京から京城経由で、新京へ輸送機一機の派遣の許可をねがった。しかしそれについて、北鮮のことや釜山への直通列車再開は、ソ連の所管であると回答してきた。

 九月十日に重光外務大臣は、スイスの加瀬公使に電報をおくり、北鮮や満洲のことについて、ゼネバの赤十字本部に援助を懇請するよう指令し、一方またスエーデンの岡本公使にもスエーデン政府にかさねて依頼すること、また、外交関係の再開するまでは、スエーデンを利益保護国とみとめてもらうようソ連への再交渉を要望した。

 スイスの加瀬公使は、赤十字国際委員会副総裁のジュスヴィエール氏と会見したが、

「ソ連官憲との直接連絡は、ヨーロッパでも不可能にちかい。むしろ米英側を動かす方がよいから、東京のジュノー博士にマックァーサー司令官への連絡を訓令する」

 という返答だった。ジュノー博士はその後十月六日京城まで来て、北鮮に入ろうとしたが、許可がえられずに日本に帰った。

 十月十二日、ソ軍参謀将校五名が、平壌から京城の米軍司令部にやってきた事をきいて、終戦連絡事務局児玉総裁は、ただちに総司令部のサザランド参謀長に書翰を送り、北鮮日本人救済についての覚書を渡すよう依頼した。

 また外務省は、かつてソ連にいたことのある亀山参事官を送って直接ソ軍との交渉にあたらしめんとした。亀山氏はマックァーサー司令官の許可をえて、京城に行き、ソ連総領事に北鮮のソ軍司令官へ連絡をたのんだが、

「自分の権限は南鮮だけに限定されているから、ソ軍司令官への紹介は何の効果もない」

 とてことわられ、また総司令部から北鮮のソ軍司令官に交渉したが、

「この種出張の要をみとめず」

 という返事で、ついに目的がはたされずに帰ってきた。

 東京政府は外交的にあらゆる手を講じた。しかし一つも現地の日本人にひびく成果をあげえなかった。敗戦直後の混沌たる情勢下、戦後の工作にいそがしい米ソは、日本政府の要求を問題にしなかったのである。

 九月から十月、朝鮮の秋はもう冷たい。北鮮からの脱出者はひきもきらずつぎつぎ寒させまる中に苦闘する日本人の実情を語った。

 

  南鮮の日本軍後退と米軍の進駐

 戦争がおわって二日たった八月十七日には、沖縄の米軍と、朝鮮軍管区司令部との無電連絡がとれはじめた。

 十八日、京城汝矣島飛行場にダグラス機が来た。これは戦時中に朝鮮にはこばれた英豪捕虜収容所への連絡にきたものであり、日本軍に捕虜収容所の所在地をたずね、各収容所(京城、仁川五百名、興南三百名)にドラム缶にいろいろ援護物資をいれたものを落して行った。

 八月十七日にこの捕虜は釈放になった。宿舎は収容所であったが、ぱりっとした服をきて、毎日町をぶらついていた。一般の人達は進駐軍とまちがえるものもいた。(援護物資はその後三回にわたって飛行機からおとされた。京城、仁川の捕虜五百名は、九月十日帰国、興南の三百名は九月二十日興南を出発し、仁川経由で帰還した。)

 八月三十一日、沖縄にある米第二十四軍の朝鮮進駐があきらかにされた

 九月六日、米軍先遣部隊が金浦の飛行場に到着、交渉の結果、

「日本軍は、九月十二日までに漢江以南の地に撤退する。撤退できぬものは一カ所に集結し、その最後の撤退時限を十日十二時とす」

 と決せられた。九月八日午後一時、米軍機の乱舞するなかに米軍艦艇二十五隻が仁川沖に姿をあらわし、上陸用舟艇で月尾島に上陸を開始した。

 日本軍は規定通りに撤退した。復員軍人中にわかに警官になったものが、代って警備についた。

 七日から十日まで、撤退にいそぐ在城部隊とともに、竜山にあった五千戸の陸軍官舎の軍人家族も行動を共にした。それは、陸軍官舎が米軍に接収されることになっていたからでもあった

 京城に日本軍の進駐依頼五十年、今漢江南方に撤退することは、終戦以来既定の事実ではあったが、去る軍人も見送る在留日本人も感慨深かった。

 撤退の日の朝、上月司令官は多忙のために副官を代りに穂積世話会長のもとに派して鄭重に後事を托され、偕行社の残金四百万円を世話会に贈った

 その日井原参謀長から穂積世話会長あての書翰につぎのごとく記している

「残らんと念願せしもの、まず去らざるべからざる運命、咏嘆のいたりにして、かつまた、貴下御一統に相すまぬ次第、なにとぞご諒承下されたく、漢水冷やかなるを眺めつつ、南山をふりかえりるる去る悲痛、五十年ただ一回の恨事に御座候」

 九日朝から米軍部隊は、京仁街道を疾走して京城に入り、総督府構内の広場にキャンプをはった。

 九月九日午後三時四十五分、総督府第一会議室で降伏文書受諾の儀式がおこなわれた。午後四時二十分総督府正面門前の日本国旗を降しこれに代って星条旗が軍楽吹奏裡に掲揚された。

 調印式後、太平洋米国陸軍総司令部布告は一号から三号まで公布された。かくて総督統治三十六年は終った。

 十三日に米軍は開城に進駐し(ソ軍は十一日まで開城にいた)十六日には釜山に進駐した。清州(忠北)進駐は九月十七日、春川(江原道)進駐は九月二十日、大邱(慶北)は九月下旬、全州(全北)は九月二十九日、光州(全南)は十月五日、大田(忠南)は十月初旬であった。

 十二日、西広警務局長が解任され、憲兵司令官L・E・シュイツ代将が兼任、京城府尹にキロフ少佐が新任された。

 十四日には政務総監以下各局長が罷免され、今後行政顧問としてのこることを命ぜられた。各局、各課は米軍側に事務引つぎがおこなわれた。十八日米軍政首脳部政務総監ハリス代将以下各局長の発表をみた。十九日阿部総督は、米軍飛行機で東京に帰還させられた。

 日本軍が撤収するとともに、朝鮮人側から接収運動がおこされた。

 これは北鮮において、日本人の重要施設が人民委員会の手に渡されたことが大きな刺戟となったのであるが、××同盟、○○連盟、□□団という名を記した紙が、およそ市内の目ぼしい建物にべたべたとはられた。日本人は、

「ホッジ中将の命令書をもって来なければみとめぬ」

 といってみても何ともできなかった学校、銀行、工場、百貨店、商店、会社から神社、寺院、病院、風呂屋にいたるまで、また住宅も大きなところはほとんど朝鮮人側の手に移った。

 日本人は、自分の親しい朝鮮人を同居させ、その朝鮮人の門札を出して、他の朝鮮人の侵入をふせいだ。

 米軍は大きな建物には、M・Pを派遣した。背の高いM・Pのたっている警察署に日本人警官が腕に英語で「米軍政補助者」の腕章を巻いて出入していた。しかしそれも長くはつづかなかった。日本人はぞくぞくやめさせられた。

 米軍は重要施設を直接管理する方針をすすめ、九月十四日、京城電気会社十五日朝鮮電業、十六日に南鮮放送施設、十九日同盟通信、朝鮮書籍印刷住宅営団を、さらにその後食糧営団、重要于物資営団、三陟開発、鉱業振興、朝鮮工業協会、朝鮮石炭、九月二十五日に京城日報、十月中旬には東洋拓殖、朝鮮銀行、殖産銀行を接収し、朝鮮人の管理人をきめて行った。

 米軍政のあり方は、北鮮におけるように、朝鮮人側にただちに政権をわたさず、過渡的に総督府の機関を利用して、漸進的に独立政府樹立へ育成しようとしていた。

 

  南鮮日本軍の武装解除と復員

 日本軍が水原以南の地に撤退する時少数の武装しないものの京城残留がみとめられ、参謀副長菅井少将、参謀大桃中佐以下五十四名が残り、九月十四日から三坂ホテルに入った。これは「日本軍連絡部」と名づけられ、米軍との交渉、日本側機関との連絡、北鮮および満洲から脱出南下する軍人、軍属およびその家族の収容とその送還が任務とされた。

 米軍から日本軍への連絡事項は、この連絡部につたえ、連絡部は、大田に南下した軍司令部に連絡した。この間最後まで電話連絡が保たれていた。

 米軍は、日本軍の武装解除と送還をみずからの手でおこなわせた。

 日本軍の輸送計画が、京城の米軍に手交されたのは九月二十二日であった二十五日には、東京の連合軍司令部からホッジ中将あてに、

『武装解除された日本軍を、釜山から日本へ一日四千名の割で、二十七日から定期連絡船の利用できるものを使って送還する計画をたてるべし』

 との命を下している。二十六日から輸送が開始された。

 米軍は日本軍を根こそぎ帰すために一度召集解除したものまで再招集して帰そうとした。

 京城では、九月十五日日本軍連絡部長命で布告された。

「日本将兵、召集解除者および除隊者につぐ。日本軍人として八月十五日以降召集解除者または除隊せられしものは再び軍隊に復帰を命ぜられる。よってなるべくすみやかに旧日本軍竜山憲兵隊に出頭せられたし」

 その頃、急転した世相にあって、これは、

「北鮮ソ軍との交戦のために日本軍はつかれるのだ」

「南鮮に入った赤色パルチザンとの交戦につかわれるのだ」

「米軍の使役部隊になるのだ」

 とかいうデマがながれ、再応召者を不安がらせた。またこれを送る家族達も、治安の悪い中に働きざかりの男とわかれることが非常に不安であった。

 帰るものも、この際家族を残すことができなくて出頭をためらっているものもいた。井原参謀長は、十月はじめに大田から京城に来て、

「軍人に一週間の休暇をあたえて、家庭に帰らせ、家族とともに軍隊の輸送列車で引揚げせしめること」

 を進言し、ホッジ中将の許可をえた。

 米軍は特攻隊をこわがってか、

「海軍航空隊を優先的にする。また陸軍では航空部隊、とくに特攻隊をもっとも早く帰還せしめるよう」

 と指示した。また朝鮮にある憲兵は、九月下旬に、第十七方面軍司令官の直轄下におくよう指示されたが、その後全員大田に集結せしめてC・I・Cで調査をおこなった。

 捕虜収容所の職員は、所長野口大佐以下全員旧憲兵司令部に抑留された。

 英濠人捕虜の中に死亡者が出たのでむつかしく考えられ、その後この人達は仁川の少年刑務所に収容されたが、翌年六月頃、巣鴨にうつされ、二十二年九月に横浜の第八軍法廷で判決をうけ、俘虜虐待の罪名で野口大佐以下十二名に重労働の刑が下された。とくに仁川俘虜収容所軍医水口安俊少尉は絞首刑となった。

 彼は京城大学出身である。スポーツマンであり純情な青年であった。その親友たちの手により、「水口安俊君追憶集―戦犯絞首刑者の手記―」が刊行されている。

 大田駐屯の一部をふくめて、以北の軍隊は仁川へ、以南は釜山へ移動し、その復員船は仙崎、博多、佐世保に向った。

 仁川からは、L・S・T九隻で、一万二千名余が佐世保に復員した。

 引揚は非常に順調で実際には、一日に一万名をこえる日もあった。

 済州島は、十月十日頃から済州島からのLSTで佐世保に復員しはじめ、十一月十日に終った。済州島の日本軍の兵器弾薬は、米軍の命令で二浬沖に沈めた。

 日本軍送還業務のために、久保満雄少将以下百四十一名の釜山連絡部が編成された。これとは別に、二千名の作業隊が帰還する部隊の中から三日交代で編成されて、港の清掃、荷役などの仕事をした。

 十一月初に南鮮の日本軍の復員は大体終り、大田にいた上月司令官、井原参謀長以下全員十一月二十日に引揚げた。憲兵司令官もその際に同行した。京城の日本軍連絡部も十二月二十二日引揚げた。

 南鮮の海軍関係は、十一月三十日にはその最後の引揚がおこなわれている

 二十一年二月、釜山の作業隊の仕事は終り、あとに四百名の者が、京城の南の安養と金浦と群山に残って、日本軍が残した弾薬処理作業をし、四月下旬に帰還した。

 

  日本人はできるだけ残ろう

 米軍政下、朝鮮人側の政治的動きは活溌をきわめた。十月に李承晩博士はアメリカから、十一月に金九氏以下臨時政府一行は重慶から帰り、朝鮮人側の民族意識はいよいよ高調する。

 混乱期にあって日本人は、どういう境遇におかれるのかとまどいつつ、世話会を中心に新事態へのあり方をもとめた。ここに京城の場合をみよう。

 八月末に、事務局(朝鮮商工経済会)が米軍の宿舎に接収され、昭和通りの三中井の三、四、五、六階に移った。満洲から南下した避難民の救済にあたる満洲班もこの三階の一室に入った。

 世話会の資金として井原参謀長は、小谷参謀を東京に急派して六億の金を要求したが、一文ももらえなかった。穂積世話会長は総督府の水田、塩田局長の援助もかり、各方面から千六百万円余の金をあつめてきた。

 世話会では最初、日本人はできるだけ朝鮮にふみとどまり、新朝鮮建設に協力せよといっていた。日本内地は終戦直後の混乱にある。食糧事情の窮迫がはなはだしい。

「今日本に帰ることは首を吊ったものの足をひっぱるようなものだ」

 というどぎつい表現まで使われた。

 マックァーサー元帥の布告第一号の最初に、「朝鮮の住民につぐ」としるして、

「住民の所有権はこれを尊重す」

 と布告している。その「朝鮮住民」には、在留日本人もふくめられていることをホッジ中将は穂積京城日本人世話会長に確言して安堵感をいだかせた。また九月十二日、トルーマン大統領が、

「日本人はできるだけ速やかに朝鮮から日本本土へ移されることになろう」

 と語ったことが放送され、日本人をおどろかせたが、十六日アーノルド軍政長官は、穂積世話会長と会見の際に

「それは大体の希望を述べたものであろう」

 というきわめて上手な回答をし、

「朝鮮は朝鮮人のものにしたいが、過渡期には、とくに産業恢復に日本人の協力をもとめたい、米軍は日本人の有力な団体の話しにくることを希望する」

 とて世話会を公的に認める態度をしめした。

 世話会でもっとも力をそそいだのは情報であった。毎日午後三時に、情報部長鈴木教授から発表された。

 九月のはじめには、聴講者は三百名をこえ券をだして制限してもふせぎきれず、十日以後には、三時と四時の二回にわけておこなっていた。(十八日集会禁止令によりこの情報発表も禁止された)日本人はこの情報をきいて今祖国がいかなる方向にすすみつつあるか、朝鮮内の治安、米軍との関係、引揚列車、釜山の船の状態を知った。昂奮と混雑の渦中にあって、不安におののきつつこの情報をききにくる人達に、鈴木教授はいつも落ついた声で、大事な報道は二度くりかえしつつ伝えた。

 九月二日から「京城内地人世話会々報」がプリントで発行された。

 第一号には「沈着冷静たれ、内地人諸君につぐ」「おたがいに連絡しましょう」「世話会の機構」第二号には「捨売はよそう」「世話会の仕事いろいろ」「学徒隊大活躍」「大和なでしこ隊街頭にはなばなし」「親切な保安隊」「戦災者にお知らせ」「第三号には「戦災者を救え」「引揚はしっかり落ついて順番を待とう」「新建設への誓い、うるわしい内鮮学徒の活動」など掲載されている。

 これは、京城日報社の安井俊雄氏が編輯兼発行人となり、日曜以外毎日発行、十月に安井氏の引揚後、やはり京城日報社の嶺乾一氏がその責任者となって麗筆をふるい、十月中旬には千五百部をだしていた。十一月以後は、京城日報社も日本人の手をはなれたのでこの世話会々報は、地方から上京の連絡者にも渡されて、よみもののない日本人に愛されたものであった。

 

  今から朝鮮語の勉強を

 また朝鮮語講習会が開かれた。これは世話会とYMCAと共同主催で定員七十名、申込はただちに突破、九月十二日開講式をおこない、毎日「朝鮮語大成」の著者奥山仙三氏が講師となって朝鮮語を教えた。開会にあたって笠谷YMCA総主事は、

「京城にYMCAができた時の最初の事業が朝鮮語講習であった。今昔同じく朝鮮を愛し朝鮮のために働きたい念願の人は、まず言葉を覚えるべきである」

 と挨拶し、伊藤世話会事務局次長は

「祖国の敗戦と朝鮮の独立によって来した現在の様相は、みるにつらく、住するに難き土地とは思われるかもしれないが、三千年の歴史は消えざるものであり、光明は日本人の今後の努力と自覚にある。呆然自失、不安と悔悟にくれるよりも、われらは朝鮮語を習って新朝鮮のあらたなる協力をなすべきである」

 と激励している。この講習会は、人員が多く途中で一クラス増加してつづけたが、YMCAがアメリカ側に接収されることとなった機会に、開講以来一カ月でやめた。

 

  世話会のあたらしい役割

 今まで京城府内の町会、愛国班(日本の隣組)は、日鮮人混合のままであったが、九月はじめに日本人だけの組織がつくられ、中区六名、鐘路区七名、東大門区三名、城東区三名、西大門区四名、麻浦区二名、竜山区五名、永東浦区二名の代表三十二名がえらばれ、その下に副代表をおき、従来の町会に世話人、愛国班に連絡班長をおいて連絡網をつくった。

 その後、区、町ごとに世話会がうまれ、本部と連絡して活動している。

 八月下旬に、京城の中学校四年以上大学生までを網羅した京城内地人学徒団が生まれ世話会の傘下に入り、連絡運搬、情報などに奉仕したが、とくに九月から、日本人の子弟の教育のために各方面に塾を開いて教育にたずさわったことと、以北からの脱出者の医療に働いた純真な努力は特記されよう。

 北鮮からの脱出者にたいして、最初にこれの援護をはじめたのは、京城府防衛部戦災課の人達であった。(この課は、空襲を想定して準備をととのえていた)当時、休暇中の府内の各学校が開放され、学校の先生たちがその世話にあたった。

 空襲の時にそなえて、府民から一軒に一枚ずつの座ぶとんを供出させていたので、それによってふとん千八百九十五枚つくり、また食器二万八千四百七十九個を、各学校に分配していたので、早速それらを役立たせた。

 九月になると、国民学校や女学校は朝鮮側の授業開始で接収されたが、古市町天理教会、永楽町天理教会、高野山別院、開教院、東本願寺、曹渓寺、興正寺、妙法寺、鶴松寺、西本願寺、千代寺、竜光寺、瑞竜寺、元町西本願寺、興国寺、大念寺、護国寺、三中井洗心寮、覚心寺、金光教会、望月アパート、神宮奉賛殿などがこれに代った。

 この脱出者の世話や収容所の仕事もその年末には、世話会の機構の中でおこなわれることになった。

 九月二十五日の世話会々報には、京城の戦災者収容数は、四三一二名、そのうち罹病者四一七名と報告されている。この収容者の患者のために、京城大学や医専の教授や学徒たちが巡回で診療をおこなっていた。

 十月になって、旭町一丁目の小林病院が京城罹災民救済病院となり、避難民に無料で診察した。院長は北村精一郎博士であった。

 九月末に、世話会に法律相談所がもうけられ在城日本人弁護士団三十余名の代表として、堀内清寿、松本兵市、井上一郎氏らが勤務した。これは主として土地、家屋、その他の売買譲渡の法律手続について指導にあたった。

 この京城世話会のあり方は、そのまま各地の世話会のあり方であった。

 仁川世話会も、当初には、

「一、われらは前進と再建あるのみ、後退を欲せず。

一、われらは、祖国の復興と興隆のため海外第一線にふみとどまる。

一、残留により、祖国民の苦痛を少しでも緩和しうる」

 の精神をもって行こうと語りあっている。情報発表と会報発行をおこない、学徒の教育機関として、十月から仁川府内六カ所に塾を開いて教育をつづけ(翌年二月一日までつづけた)応徴者や従業員の賃金要求攻勢にたいしても、世話会が表面にたって交渉している。

 大邱世話会は、情報連絡、朝鮮側との交歓のほか、とくに北鮮満洲からの避難民で大邱駅に下車していた人達の世話に働いた。

 木浦、光州、群山、全州、大田、清洲、その他各地とも、一様に、米軍との折衝、朝鮮側との交歓、治安維持等に苦闘している。

 最初はいずれも居留民団的あり方を考慮しているが、漸次米軍政の指示下に、引揚機関としての役割に変っていった。

 

  釜山世話会の苦闘

 釜山世話会だけは少し違っていた。ここは日本人の引揚港として重要な地点である。世話会は、十月二日に池田佐忠氏が会長に、小西恭助、黒田吉夫氏が副会長と変り、情報、援護、相談就職斡旋などをおこなっていた。

 これと別に、港の引揚業務は、最初日本軍の兵站部がその仕事を一手にひきうけていた。また一方総督府の機構から生れた終戦連絡事務処理本部保護部が一杉藤平氏を所長として案内所を設けて、ここに滞る者の収容所を掌握していた。

 この三つの機構のうち、案内所の仕事が十月に世話会に移された機会に、釜山世話会は、釜山だけの手でこの仕事をするのは荷が重すぎるので、各地の代表者の連合体で釜山の引揚業務をおこなおうとした。十月中旬に、京城、仁川、大田、大邱、群山の各世話会の代表に、釜山に来てもらって、そのことを議して、仁川、大田、大邱、群山からの連絡員が駐在した。しかしどうもうまく行かなかった。

 池田氏は何とかして釜山世話会の働きを確固たるものにしようとした。それには、朝鮮人側の庇護の必要を考えて、資金をばらまいた。これがCICに密告され、他の幹部とともに拘引されることとなった。

 釜山は船にのりさえすれば日本に帰れる。世話会の幹部は、この事件以来帰るものが多く、職員もたえず引揚げ十月末には一時壊滅状態になった。

 池田氏らは釈放されたが、帰国しなければならなくなり、その際、商工会議所の丸山兵市氏も一度日本に帰り、池田氏は郷里仙崎で二十五名、丸山氏は郷里長野で十五名の人員をあつめ、十一月はじめに丸山氏のみその四〇名をひきつれて再び釜山にあらわれて世話会に活をいれた。

 十一月五日芥川浩氏を会長に再生し、今まで日本軍のもっていた港の仕事もうけもつこととなった。この時。港の医療業務も、京城との連絡で、新出発したがそれはあとで記そう。

 

  貨車をつないだ引揚列車

 一般日本人の引揚の仕事は、米軍政庁の外事課が担当した。課長はゴールドン・B・エンダース少佐であり、ウイリアム・J・ゲーン中尉がその責任者であった。(ゲーン中尉は、学究肌の人で、仕事のかたわら朝鮮の社会学を勉強していた。引揚についても関心をもって、仕事のあいまに資料をまとめて〝リバトリエーション〟(引揚)という本を出した。このおかげで私達は米軍政庁から見た日本人の引揚の実情を知り得る)

 外事課の方針として、日本人引揚機関(世話会および保護部)を最高度に活用することを考えたことは、聡明な案だった。

 引揚の具体的企画として、日本にいる朝鮮人を朝鮮に送還するその帰りの車船で、朝鮮にいる日本人を日本に送還する。可能となる時には、満洲および華北の日本人の送還もこの企画に包摂していた。

 十月三日、アーノルド少将は、つぎの談話を発表した。

「日本人は、軍政当局の指導の下に、輸送力の許すかぎり、急速に帰還させる。まだ帰国していない日本人は、もよりの日本人救済機関(世話会)に発(ママ)録し、帰還計画実施の場合、それにふくめられるよう手つづきをとるべきである。日本人の個人的帰国はこれを禁止す」

 世話会は、帰還者の名簿をととのえて、秩序ある引揚準備をはじめた。

 日本人の計画輸送引揚列車の試運転は、軍人輸送のあい間に十月十日おこなわれた。

 全員を車輛数だけの班にわかち、総指揮に京城地方交通局の妻木旅客課長があたり、とくに医療班も随行した。

 その試運転の後、世話会ではつぎの指示をしている。

「一、今後発行する乗車証明書には乗車すべき車輛番号が附されている

二、今後車輛ごとに班長がおかれ、引揚者はあらかじめ指示された時刻に(概ね発車前一時間)竜山駅に集まればよい。早くから来て、乗車を争う必要はない。

一、貨車は一箱七十五人でゆっくり乗れ、一列車三千名くらい乗車できる

一、子供と携帯身廻り品には、かならず名札をつけること」

 妻木氏は釜山の報告を次のように当時の京城日報紙上におくっている。

「釜山には十一日に到着したが、乗客はこちらから行った三千名を加えて一万七千余名で、その後、ますます増加して十五日には二万二千余名に達し、各収容所とも超満員であった。なかには先月の二十七、八日頃に来たが、いまだに乗船できずにいるものもある。釜山にはこのほか、復員軍人が三万も残っている。

 引揚者の身体検査は、米軍が厳重に実施しているが、現在の持出し禁止品は、金銀製品、宝石、株券、反物、絹物、夜具などで、毛布はさしつかえなく、現金は一千円までである。連絡船には現在、興安丸、徳寿丸のほか、雲仙、白竜、長白、黄金、会寧、間宮丸が就航しており、さらに月末には戸畑明優、天佑丸が運航の予定である」

 十月二十三日から、京城仁川の日本人の輸送がはじまり、毎日二本の列車が京城をたって釜山に向ったが、しかしそれは収容所にあふれている北鮮からの南下者がほとんどであった。

 十一月三日から軍人遺家族の輸送がはじまり、八日には職域団体の輸送に移り、九日から各地域も並行しておこなわれたが、七日から警備のために、MPが同車して行くことになった。当時毎日十時、十二時、十五時の三列車がでた。

 大体京城から釜山まで、十八時間位かかった。京城以南も、その計画輸送にあみこまれ、日に日に祖国日本へいそいだ。京城の日本人も少くなった。

 京城から一日三本でていた列車が二列車となり、十一月十五日から十五時出発の一列車となり、二十五日から四日おきに一列車となり、十二月に入って一週間ないし十日に一列車となった

 その頃、引揚列車にのる者には次の証明書がわたされた。

 

(証明書は省略)

 

 

  引揚状況

 軍政庁外事課は、撤退日本人を十月二十五日に、十八万六百十名、十一月二十九日には、二十九万六千三百七十名、十二月三十日には、四十六万九千七百六十四名と発表した。

 春川は京春鉄道を利用して九月中にほとんど京城にでて、残った道庁の幹部の人達は十一月中旬に引揚げた。

 清州では、十月下旬から集団的引揚がおこなわれた。道庁の幹部は十一月はじめに引揚げた。

 忠清南道の田舎の日本人は、日本軍のトラックで運ばれて、大田に集結した。その人達は学校、寺院、料亭などに収容された。

 地方の人たちは、相当治安のわるい中を、無理して家財を大田まで運んだが、この持ちかえりができないことがわかり、捨うりしようとし、これを買いあさる朝鮮人で大きな臨時市場が開かれて混雑をきわめていた。

 大田の麻生世話会長以下、幹部の引揚は、十二月であった。

 全州、群山には、十一月下旬から引揚列車がまわされた。

 全州では天城勲道警務課長夫人光枝氏(ハワイの大学出身)が米軍側と美しい交歓、折衝をおこないつつ引揚のために敢闘されたことは、市民に感謝されている。

 世話会幹部は、十二月中旬に引揚げ、あとに木村一男氏が中心となって三月まで残った。

 群山には干拓地不二農村の人達が集結しており、秋の収穫に未練が多かった。米軍のMPにたのんでトラックをだしてもらい群山の人々も応援して、稲刈に行ったのであったが、――結局刈った稲はそのままにして引揚の準備をすすめた。

 十一月下旬から十二月にかけて引揚列車がでて、あとに川島捨太郎氏を中心に百名残ったが、三月に引揚げた。(上田哲男氏が米軍のパイロットとして、二十二年六月まで残った)

 慶北では、大邱、金泉、浦項の三カ所から引揚列車がでた。浦項には東海岸を船で南下してきた人達がここから乗車した。

 大邱の世話会幹部の引揚は、一月末であった。杉原長太郎氏の永年かかって集められていた朝鮮の書画骨董は、朝鮮人側の有力者で結成された朝鮮美術保護委員会に寄贈し、そのまま大邱博物館に保管された。

 あとに三百名残ったが、三月にはほとんど引揚げた。

 光州では十二月はじめにおわり、あとに八木知事以下の人達はよく引揚業務の協力をしてくれたからとて米軍から特別のトラックで釜山まで、おくってもらった。木浦でも引揚は十二月におわり、三月はじめにのこる世話会幹部以下特別に船で釜山におくられて帰った。

 

  M・R・Uの活躍

 引揚者の中でもっとも困る人達は病人である。米軍は病人にたいしては人道的であり、防疫には異常の熱意を示した。

 京城大学の医学部教授を中心に、医療陣は京城から博多、仙崎まで、引揚患者とともに移動する医療班の結成の新しい構想をもっていた。

 これは京城大学助教授鈴木清博士により、移動医療局(メディカル・リリーフ・ユニオン)と名づけ、その頭文字をとってM・R・Uと略称したその下で京城大学の須江杢二郎、泉靖一、田中正四助教授らが中心になってはたらいた。

 軍政庁のテーラー防疫課長は、日本人引揚者は、チフスの予防注射と種痘をかならずするように命令し、その注射液や種痘は米軍側から供給するがチフス注射は三回にわけておこない、その施行は移動医療局のみみとめ、この注射証明書を持たないものは帰国を許さないと発表した。

 M・R・Uの腕章をした医師、学生看護婦が収容所をまわって全避難民に注射をした。収容所には、一週間ごとにD・D・Tがまかれて、防疫の万全をつくした。

 釜山で、九月下旬から十月にかけて三万に前後する引揚者が滞留し、各収容所とも超満員で、駅の構内は大小便のたれ流しで、子供の赤痢便が散乱し患者はふとんにくるまって地上にころがり便所は洪水のようになっていた。

 日本軍連絡部の医療班があったが、その働きはせまく、釜山の医師達もすでに引揚げたものが多かった。

 M・R・Uの釜山における防疫態勢は、京城大学の宮下義正博士により着手され、十月中旬、京城大学の医学部諸教授のほか、医学生、看護婦等五十余名の一団が、釜山に応援におもむき、のこる釜山の医師達と協力し当時の避難民(第一、第三、第七小学校、ますらお館、東本願寺、西本願寺、智恩院、護国寺、税関倉庫に分宿していた)および在留民数万に注射と種痘を二日間ですませてしまった。

 患者のたん架持込みが許可されたのもこの頃である。十二月末には、アンバランスに患者をのせたまま、船に横づけされるまでになった。

 釜山世話会の病院として、大庁町二丁目の旧田口病院のほかに、西町一丁目の東本願寺を伝染病棟に(収容力五十名)大庁町の軍連絡部あとを分院にし、駅構内に患者収容所があり、桟橋に防疫部あり、釜山の医療防疫陣を確立した。

 移動医療局は、十一月に仙崎で杉原博士により診療をはじめ、十二月に博多の聖福寺に緒方羅南赤十字病院長や城大の今村豊教授を中心に、京城からの引揚医師によって病院が開かれていた。

 十二月末、京城日本人世話会が、三十八度線国境に、派遣隊をおくる時、この医療局員も加わり、開城、延安で防疫医療につとめた。

 十二月から、京城したての特別な患者列車がでた。家族も同行がみとめられ、医者は医療機械や薬を特別につみこむことが許された。病人のために、米軍は特別の車をまわして、その家から駅にはこんだ。釜山では特別にアンバランスやたんかで病人はねたまま船にはこばれた。博多や仙崎にも、まち構えていたたん架隊が動いて病院へうつしていた。

 引揚者は、日本に帰るだけで、逆行は許されなかつたが、M・R・Uの腕章をしたものだけは北行できた。日本から世話会職員への連絡の手紙は、この医師のカバンに入つて釜山をへて京城におくられていた。

 

  神宮を焼く

  終戦当時、官幣社は、朝鮮神宮のほか、扶余神宮が造営進行中であった。京城、全州、光州、大邱、竜頭山(釜山にあり)平壌、江原(春川にある)咸興の各神社は国幣小社であった。ほかに一般神社六九、神祠一〇六二を数えていた。

 八月十五日の夜、平壌神社が放火されたのをはじめとし、相ついで各地の神宮、神祠の破壊放火がつたえられた

 十六日午前、朝鮮神宮額賀宮司、竹島権宮司、京城神社仲宮司の三名は、総督府の本多地方課長のところに集り協議の結果、全鮮、神宮神社の昇神式をおこなうことを決定し、その日の午後から十七日にかけて、警務局の警備電話で、全道にその指令を通達した。(咸鏡北道だけは通じなかった)神祠は適当な神職もいないので、そのままとした。

 昇神式とは、祭儀をおこない神霊にお帰りをねがう儀で、日本神道はじまって最初の行事である。

 朝鮮神宮では、十六日午後五時昇神式を行い、御霊代は二十四日飛行機で宮中に奉遷した。

 御鎮座当初明治天皇御佩用太刀(銘正恒)一振を宝物として神庫に格納中であったが、これもまた飛行機で宮中に返納された。

 各地の神社は相ついで昇神式をおこなった。しかし朝鮮人側の手で焼かれたり、破毀されたところも多かった。

 釜山の竜頭(ママ)神社、仁川神社の御神体は、海中にお沈めした。

 朝鮮神宮では、その後、この正殿と儲殿の解体焼却を要望し、九月五日附で総督の許可をえてその解体をすすめていた。

 米軍進駐後もその工事をつづけていたところ、米軍から公共的建物は米軍の接収したものであるからとて、その中止を命じてきた。その時、総督府側では、

「神宮、神社は、宗教的殿堂ではなく、皇室の祖先と日本人の功労ある人の敬神尊崇の念をあらわすためにつくられたものである」

 と説明した。その後、アーノルド長官は、額賀朝鮮神宮宮司と会談の際に

「マックァーサー元帥の布告に、宗教の自由をみとめている。これは政府がとりこわすことはできない。とりこわすとすれば信者のすべきものだ」

 と答えたが、額賀宮司は、

「ここにつとめているものは、官吏と同じく政府から月給をもらっている。氏子はいるも、日本の国家的行事をするところなので、特別に取あつかわれるべきだ」

 とのべたところアーノルド長官は、

「わかった、今日からとりこわしてよろしい」

 ということになった。

 とりこわし工事は十月七日に完了しそして焼却した。

 かってここで、いろいろの国家的盛儀がおこなわれていただけに、南山の神域にあがる煙は、その頃引揚をいそいでいる京城の日本人に、言いしれぬ哀愁をいだかしめた。

 十一月二日、軍政庁は各道知事に対し、

「各神社の本殿は、当局の許可をえて焼却してもさしつかえない」

 と通達した。ただし、

「神社所有の書類および財産は、道知事が保管する。焼却に際しては、官吏の立会いを要し、且つ十マイル以内に駐屯している米軍部隊長に報告せねばならぬ」

 と附記されている。

 各地で本殿は多く日本人の手で解体し、焼却した。

 神社は多く景勝の地にあるため、朝鮮人側はこれをあるいは図書館に(春川神社)あるいは養老院に(光州神社)あるいは学校等に利用の要望があった

 京城神社は、日本人居留民の神社にする願いを九月十二日、京城日本人世話会長から軍政庁に提出したが、認可にならず、同神社神職であった洪道載氏が国魂大神を主神として、朝鮮国有の神の信仰をおこすといって檀君聖廟の看板をあげたが、十一月には、東洋医学専門学校にかわっていた。

 

  曹渓寺の引つぎ

 京城のお寺は、その広間を早くから北鮮避難民の収容所にあてていたが、終戦直後朝鮮側から接収の交渉があり、どの寺もその経営を委任する交渉がおこなわれた。

 今まで山間にこもっていた朝鮮人側の仏教は、この時、日本のお寺を接収することで一斉に都市に進駐してくる結果となった。

 京城のお寺の中で、もっとも美しい引つぎをしたのは、曹洞宗京城別院の曹渓寺であった。

 ここは大和町の山の中腹にあり、朝鮮の古い宮殿(崇政殿)を移した壮麗な寺院であった。

 京城大学助教授(仏教学)の佐藤泰舜氏がその処理にあたっていたが、奉恩寺の住持洪泰旭氏を管理委員者とえらんでひきつぎを完了した。十一月二十日、洪氏ら朝鮮人側の僧侶が次第に曹渓寺に入り、残っていた日本人側の僧侶と寝食をともにして、朝夕の勤行もともにおこなった。

 二十五日には、引つぎ法要の儀式をして、檀信の霊に回向したあとで、朝鮮人側の方から入山宣誓の儀式をおこなった。その際、朝鮮仏教界の重鎮権相老師の説法がおこなわれた。

 佐藤泰舜氏らが十一月三十日に出発する時には、朝鮮人側から薬飯の弁当を日本側の僧侶達のために用意し、竜山駅まで徒歩で見送りをおこなった。

「引つぎの内容は、別記現物引渡目録により知らるるごとく、一物もかくさず、一塵も持ち去らず、一銭も収得せず、まことに平常ありのままの曹渓寺を放行して、朝鮮仏教に委任し、仏像、仏具は依然として檀上にあって朝鮮仏教の礼拝をうけて法輪の常転をみるは誠に歓喜のきわみなり」

 佐藤泰舜氏はかく報告している。

 

  みんな帰らねばならぬ

 米軍政の実施した計画輸送は、着々成果をおさめていた。

 アメリカの生産は、大きな機械の動きに人間が使われる。米軍は、朝鮮における日本人にその動く機械をあたえたのだ。個人の意志とは別に、列車は動いた。汽車に乗りたくてたまらぬ人人は一掃された。

 やがて、引揚列車はでるが乗る人がなくなってきた。その時まで「帰りたい日本人のために」動いていた列車は「日本人を帰すために」動く列車に変ってきた。

 それは米軍から帰らねばならぬと指示される場合もあったが、また「この引揚列車はやがてなくなるかもしれぬ」という予告があると、帰るなら「今この安全な列車で」という思いを個人個人にいだかしめる場合が多かった。

 また米軍は財産売買契約の途をひらいたり、また荷物をもち帰りたい気持にたいしても、托送の途をみとめた。(しかし後述する法令三十三号で一切無効となったが)

 その頃、朝鮮人側の民族感情は、非常にきびしく、京城で前警察関係者でテロにあうものもでていた。米軍も憂慮して、エンダース外事課長は、「日本人が一カ所に集結すればMPで保護する」とまでいっていた。

 引揚を躊躇していた日本人もぞくぞく引揚げるようになっていた。

 昭和二十年末の南鮮日本人は、二万八千余となっていた。

 この人達は民族の嵐に動じなかった財産の始末をうまくつけようとしているものもいた。また春暖かくなって帰ろうというものもいた。

 帰りたくないものは帰らなくてもよいであろうという漠然たる考えは、この人達に共通していた。しかしそういう甘い考えは、敗戦国たる日本人に許されないことが、だんだんとわかってきた。

 一月二日、マックァーサー司令部の民間情報局教育部からモーア少佐が来城した際に、世話会本部を訪れて幹部の質問に答えて、

「外地にいる日本人は、全部強制的に本国に帰還せしめる」

 とはっきり断言した。世話会幹部がその理由をたずねた際、

「そのことは日本が受諾したポツダム宣言にある」

 といわれた。世話会の職員はあとでポツダム宣言をよんで、

「どこに根拠があるかわからぬ」

 と語りあったのだった。

 一月二十二日軍政庁外務課(ママ)は、京城日本人世話会に、

「今後二週間以内に、三十八度線以南の日本人は、軍政庁に直接、間接の事務担当者一千名、その家族をあわせて四千名をのぞき、他は全部撤退せよ」

 と指示した。

 

  ロス中尉の健闘

 そのころ外事課の日本人送出指揮官ロス中尉の健闘ぶりは、当時の世話会報につぎのごとく記されている。

「二月一日の第十六列車の出発を目睫にひかえて、送出指揮官ロス中尉は、二十九日午後一時から世話会の係員とともに、在留日本人引揚勧誘のため、ジープをもって大和町から黄金町、新堂町、竹添町、北米倉町、吉野町、古市町、竜山世話会、永登浦町、とオープのジープで、疾駆すること三時間半、町会を通じて、

〝米軍政庁の命令により、日本人はすべて一月三十一日までに、引揚登録を日本人世話会に届けでて出発の準備をなさい〟

とつたえた。

 係員たちが町内のありかをさがしている場合、そばによってきた子供達に

「いつかえる?」

「えいごはなぜる?」

 としたしく話しかけ、自分のポケットからチューインガムを出してあたえ

「チューインガムはのみこんではいけない」

 と注意する。またあるところでは、係員がさがすのに手間どった場合、気の毒がって、

「寒いところで待っていただくのは」

 といえば、

「わたしは待つことは苦痛ではない」

 といくら時間がかかっても街頭に立っている。

 ロス中尉は、引揚列車の車輛から車輛へ、掃除のこと、荷物の整頓のこと人の乗込みのことなど心こまやかに気を配ってまわり、汽車が出発して最後の車輛の姿がみえなくなるまでホームに立って見送り、ようやくジープに引返すという。

 人々よ! 今までに竜山駅から引揚げて行った日本人がそうした事実を知っているだろうか。」

 

  さらば仁川よ

 その頃、各地の日本人は、最後の集団引揚をおこなっていた。

 三月二日におこなわれた仁川の三百七十名の引揚げはもっとも美しかった

 仁川は明治九年、江華条約で朝鮮が日本に最初に開いた三港の一つであった。祖父の代から父の代から朝鮮の第二世、三世の人達が多かった。しかし今は、世話会の人達は、

「城の明け渡しだ。昔の武士がやったように日本人の美しい退却ぶりをみせよう」

 こういう気持だった。

 引揚げた後も、各地に仁川会をつくって、連絡をとろうとて府県別の人名簿をつくった。共同で仁川の墓地に参詣して別れをつげた。

 米軍政庁の将校たちに、感謝文と贈物をした。出発当日、仁川で発行されている朝鮮人側の「民衆新聞」紙上に左の訣別の辞がでた。

「われらは、去りがたい仁川を去るにのぞみ多年の厚誼を感謝して訣別の辞をおくる。

 われらは、朝鮮が速かに且つすこやかなる独立を完成せられんことを祈る

  昭和二十一年三月二日

      日本人代表 小谷益次郎」

 出発当日は、全員ホームに整列し、見送りの米軍司令官チーヴス将軍および軍政庁将校を前にして、〝さらば仁川よ〟を二回繰返し、歌いつつみな泣いた。

 当日は暖かい冬の日の午後であってとくに月尾島は美くしく見えた。

 列車の中では仁川の町が見えなくなるまで〝さらば仁川よ〟を歌いつづけた。

 さらば仁川よ 別れてのちも

 無事で咲いてよ 桜の花よ

 遠い故郷で 淋しい夜は

 夢に泣かれよう 月尾島

           (葛西慶一氏作)

 あとに石井、川名、花形、浜守氏の数家族と、日鮮結婚者だけが残っていた。

 

  総引揚命令

 三月八日、米軍政長官代理シーク代将は、

「米軍政庁により、必要とするもの以外の全日本人は、できるだけ速かに朝鮮を撤退、日本に帰国すべし。その期間は三週間をこえざること、軍政庁より前もって承認された文書を保持するにあらざれば、絶対に六週間をこえざること」

 の命を発し、三月十四日で、米軍政庁エンダース外務課長は、

「日本人は二週間以内に日本に帰還すべきこと、とくに在留をみとめられない日本人で、四月一日までに出発しないものは、即決処分をうくべし」

 と発表した。従来幾度か外務課を通じておこなわれた日本人引揚の指示は軍政命令ではなかった。ここに命令としてだされたのである。

 

  北に思いを馳せて

 その頃北からの避難民、主として海州地区から毎日百名をこえて脱出がおこなわれていた。北鮮にはまだ二十万の人達が残っている。春になれば、大挙脱出南下しようと構えている気魄を感じながら南鮮の日本人は総撤退せねばならなかった。

 北に家族をおいていた人達は、毎日戦災者名簿をみて、安否を気づかいつつ京城に止っていた。しかしもう京城に残ることは許されなかった。多くは引揚を決意した。一部は世話会職員に混入した。

 しかしごく少数の人達は、悲愴な決意をいだいて三八線をこえて、北の家族のいる地に入って行った。

 三月末から四月はじめにかけて、北からの戦災者をふくめて引揚列車は連日でた。

 その頃、宝石で身を飾った美しい一女性が、京城の町の人の目をひきはじめた。彼女はS夫人といわれたが主人を先に帰国させた後、平和な朝鮮の都を或は米軍将校と歓談し、或はみすぼらしくなった人々対手の世話会に顔を出すなど、匂うようなかんばせを残していった。世話会からしばしば引揚げるようにと促したが、彼女は、

「二十年後には私も帰るでしょうよ」

 と艶然と笑って答えていた。

 三月の末になって彼女は京城の町を歩いている所を、MPに逮捕されて、本町警察署に一夜を留められた後、翌日、MPのジープで竜山駅におくられた。彼女の家の荷物は、世話会がまとめて駅におくり届けるように命令され彼女は列車にのせられると、列車のMPに渡された。さらに釜山のMPによって船にのせられてようやく日本へ帰国した。

 米軍政は、一人の女性の引揚にも、これだけの熱意をしめしていた。

 身うごきできぬ病人は、

「救済病院の診断をうけ、期限付日本人居住願を世話会をへて軍政庁外務課に提出して許可をえよ」

 と指示された。

 各地の世話会も、すべて引揚げた。ただ京城と釜山だけが北鮮からの日本人送還のために、残ることになった。それも、人員を、京城六十名、釜山六十名に極限されて。

 京城世話会事務所は三月末には旧メソジストの一カ所に限定された。世話会は軍政庁が保護した。職員の宿舎は本町二丁目の清香園、旭町一丁目の菁菁寮、桜井町一丁目の緑旗医院の三カ所が職員宿舎として確保されていたが、四月から清香園だけとなった。ここの使用には軍政庁は特別の承認をあたえていた。

 

  金桂祚事件

 終戦の後、公文書を焼いたとか、公金を費消したとか、武器をかくしていたとかの罪名で、多くの総督府の高官達が拘引された中で、もっとも大きな事件として、当時朝鮮側の新聞紙上に喧伝されたのは、金桂祚事件である。その発端はつぎのごときものだった。

 北鮮でソ軍が進駐するとともに、婦女子への強姦が各地でおこなわれた情報をきいた総督府では、米軍進駐の際を憂慮して慰安施設としてダンスホールをもうけることを企画した。

 金桂祚氏は、当時北鮮に炭砿を経営しており、山もとに多量の貯炭があった。この石炭をたんぽにして、金桂祚氏に金をかし、それでダンスホールを開かしめようとした。その石炭を京城にはこぶことができれば、京城市民の冬の燃料にもなり、一石二鳥になるという構想であった。

 そのために、朝鮮石炭株式会社や、総督府側から三百十万円の金が金氏に渡された。

 ところが、米軍の進駐後、これが、「日本は諜報機関をつくって米軍の機密をさぐろうとしたのだ」と誤解されてC・I・Cから捜査された。

 金桂祚氏は逮捕され、日本側の局長連は、とりしらべがすすめられた。その結果、はじめのいきさつがわかり、C・I・C側の調査ではみな無罪放免となったが、当時建国の覇気にきおいたっている朝鮮人側では、これをただ放置しておくことは、輿論がゆるさなかった。

 朝鮮側の司法の手では、金桂祚氏はその金の全額を返すことと懲役五年の判決があり、また穂積日本人世話会長は、世話会の資金を手渡したからとて――総督府から世話会に渡された金のうち、六十万円を総督府からの命でこれを金桂祚氏に渡したのであるが――敵国(日本)のために間諜(金桂祚)を幇助したという刑法の罪名がつけられて、刑務所に一週間をおくり、三月二十八日に、懲役二年、執行猶予二年の言渡しをうけた。

 他の高官連はみな帰っていたので問題とされず、残った穂積氏だけが、この事件の責任をおったのである。

 穂積氏は執行猶予ででてきてから、四月はじめ京城を去ることになった。

 あとに古市進氏が世話会長となった

 古市氏は、総督府行政官として二十四年、さいごは京城府尹(市長)を三年間つとめていた。氏は至誠純情、信義の上で仕事をすすめ、府尹在職中も府民ことに朝鮮人側にも親しまれていた所から、世話会結成には、招かれてその幹部に就任した。世話会の幹部はけっして顕官栄職ではなく、当時のきびしい民族感情の中で、前歴のある人達にはたえがたいことが多かった。

 しかし氏は、北鮮の全日本人送還までは、絶対に帰国しない決意をもってこの難局をひきうけたのであった。

 

  引揚者の恨み軍政法令三十三号

 南鮮からの引揚日本人に痛恨事がある。

 それは、二十年十二月六日に法令第三十三号によって、この年九月二十五日以後、日本国家の財産および個人の財産は一切米軍政庁の取得と宣言されたことである。

 米軍は十月に、日本人がその財産を朝鮮人に売渡す途を開いて、特別に朝鮮銀行に封鎖された貯金通帳に入れることを、みとめられた。それが一切無効となった。

 また荷物も一人二個まではみとめてそれを世話会にあとで送らせるということについて、民政長官ブレスコット大佐の手紙まででていた。京城の世話会はそのために特別に荷物輸送部をつくって、禁制品の指示をし、保管料までとって約二万四千個の荷物をあずかっていた。

 釜山でも、約二万八千個あずかっていた。大邱、大田、群山、全州、その他の土地でもこの荷物の保管はおこなわれた。それがこの法令がでてから一切没収され、世話会はその後、懸命に陳情をかさねたが、遂にゆるされなかった。(台湾や華北ではこの托送がみとめられたのに)

 引揚者は自分の財産の中から、わずか一人二個の荷物をまとめるために、本当に大事なものだけをえらんで入れた。「荷物はあとでくるから」とて気軽な気持で手廻り品だけで帰ってきた者に、いつまでたってもこの荷物は帰ってこなかった。子供をつれて帰るためにこの荷物にとっておきの着物を入れた女達の思出はかなしい。引揚者は今でもその荷物に入れたものを、一つ一つ思いだして話題としている。

 この荷物の一部は、のちに京城の場合に戦災者救護物資として、軍政庁から日本人世話会と朝鮮人側の機関に少しずつ返された。世話会はその衣類を北鮮から南下した人達に、援護物資として与えていた。

 またこの法令によって、世話会の資金一千万円余が米軍の凍結となり、そのかわり、一カ月の資金と物資が軍政庁からあたえられた。(それまで月に百五十万円を使っていたのが、月三十万円程度の支給となった)

「アメリカでは慈善事業はお金のあるものがしている。その職員に俸給など出す必要はない」

 ということを当時の軍政係官は公然といっていた。

 それからの世話会長の苦悩は、この資金をどうするかということだった。

 最近やっと解決をみた借入金――引揚げの人から借りた金を帰国後に返す――もこの頃からおこなわれた。「どうせ千円しか持帰れぬものなら」とて世話会に預けたものも多かった。

 

  日鮮結婚者の問題

 三月、日本人の総撤退命令のでた時その当時まで朝鮮にいた日鮮結婚の人達は、自分はどちらの国籍をえらぶかをきめねばならなかった。今までのように、日本人だか朝鮮人だかわからないでいるというようなことは、もうゆるされなくなった。

 夫は日本人で、妻が朝鮮人の場合、妻は日本人である。ともに日本に帰った人は多いが中には、妻をのこして子供だけつれ帰ったものもある。

 夫が朝鮮人で、妻が日本人である場合、妻は朝鮮人である。朝鮮人として永住の決意のつかぬ女性は、日本へ帰還を決意した。しかし夫の愛情のつよい場合や妊娠の場合、子供のいる場合は、かんたんに行かない。中には夫と一緒に――夫の希望もあって――日本に行きたいと懇願した夫妻もいた。しかし朝鮮人である夫には、日本行がゆるされなかった。個人の愛情も、民族を異にするために、すてねばならぬ場合も多かった。

 これは日鮮結婚組ではないが、京城日本人世話会を訪れた義兄妹の一例。

 三月の下旬、三十才位の朝鮮人男と、若い十二、三才位の日本人娘がきた。男は、大阪で日本女性と結婚した。その女性は、昨年の空襲で、死んだ。この娘はその女性の妹で、朝鮮人である義兄になついて、義兄の帰国の際に朝鮮までついてきた。

 故郷の甕津まで行ったが、娘は朝鮮語は分らぬし、朝鮮人達の間で生活ができないから、また一緒に帰りたいという。

 男は朝鮮人である。日本に行くべからず。

 女は日本人である。日本に帰らねばならぬ。世話会職員はこれだけしかいえないのである。

「兄さんとわかれるのはいやです」

 といって、その娘は義兄にだきついて泣く、朝鮮人の義兄は、それをなだめすかしている。

 民族を越える個人感情に、共感の涙しつつ、離別の厳命がくだされていた。

 三月の撤退命令に期限がつけられても、この日鮮結婚をわかれる人々の帰還は、たえ間なくつづいた。

 二十一年の末まで、京城日本人世話会職員として残った寺本喜一氏は、この人達の世話にあたったが、その体験をつぎのように語っている。

「私は、日鮮結婚のあと始末に相談をうけて、ともに苦しんだが何一つ力になることができなかった。

ある婦人は、夫の朝鮮人を日本につれ帰りたいと申出たが、これは絶対に許されなかった。その婦人は、世話会の事務所の中で大声でなきだし

〝自分の一生は内鮮一体のため、犠牲にされてしまつた。魚屋の主人である町会長と警察署長がコンビで、私をおだてて、模範夫婦だと沢山の祝辞をならべ、新聞にまでかきたてて、むり強いに結婚させたのに、その人達は、まっ先に逃げてしまった。私達は日本人にすてられ、朝鮮人にすてられ、神も仏もない〟

と。私はその時、これは個人の力にはあまる。世界の人道に訴え、国際結婚の不幸をとりのぞくため、国際連合の社会教育委員会が真剣にとりあげてもらいたいと思った……。私のとり扱った中で、最初は若くて美しい第二夫人が多くて、問題は比較的ぜいたくで処理しやすかったが、漸次宿命的因縁による生活困窮者の問題となって解決しようがなかったそれは朝鮮人が徴用で北海道の坑夫となった人達と、日本人坑夫の娘達の間にむすばれた仲が多かった」

 

 釜山日本人世話会では、日鮮結婚破綻者送還の係が設けられ、森田国政氏がその責任者であった日鮮結婚でない朝鮮人も偽って日本人と称し、或は潜入して、引揚船にのろうとするものの取締に腐心している。

 日鮮結婚破綻者の引揚の際に、朝鮮人の夫の許可書を必要とするようになったのは、二十一年十月頃からであった。

 内縁関係の子供はどうするかという問題はあったが、米軍は、いつも「子供は半分にわけろ」とかんたんにいいながら、その決定を釜山日本人世話会に一任していた。

 日本人に入籍した朝鮮人は、戸籍謄本さえ示せば、日本へ帰還がみとめられていた。その戸籍謄本には、一枚三千円のヤミ値がつけられていた。

 釜山世話会は森田国政会長以下五名二十三年七月まで釜山に残留をみとめられて、この日本人婦女子の送還にあたった。

 

  南鮮で残った人

 二十一年四月以後、南鮮で世話会職員のほかに、わずかの人たちが特別に米軍政庁の許可をえて残った。

 水原の農事試験場の技師五名は、二十一年五月までいた。釜山の水産試験場の富士川、和田両博士は、二十三年の夏までいて、水産大学の講師をかねて、若い朝鮮の学徒の指導にあたった。

 釜山では臼杵日出夫氏外十余名が港のパイロットや曳船の仕事で二十三年の暮までのこってはたらいた。

 工場では鐘紡関係者が京城の山田工務課長のほか三名、また光州、大田、春川にも各々一名ずつ二十二年のはじめまでのこった。

 考古学者有光教一氏は、終戦当時、総督府博物館長代理をしていたが、それが、国立博物館として再建されるのに尽力し、軍政庁も、朝鮮人の学者もその学識をおしんで強引に残留を懇望した。軍政庁のリストにもその滞在期間を、アズ・ロング・アズ・ポシブル(できるだ長く)と記されて、日本人のみな帰った総督府の構内に、たゞ一人の日本人として官舎が一軒あたえられていた。二十一年五月に氏は、慶州古墳の発掘に参加指導している。

 朝鮮美術展参与浅川伯教氏は、氏のあつめた工芸品三千点を整理して、国立民族博物館に寄贈して、二十一年十一月に帰国した。

 京城で特異な存在は曾田嘉伊智夫妻であった。曾田氏は、内村鑑三先生の弟子で熱心なクリスチャンである。日露戦役中、京城におもむきその後、三坂通りに鎌倉保育園を経営し、やしなった朝鮮人の浮浪児は、のべ千数百名におよんでいた。

 終戦当時は、七十九歳で元山に疎開しており、二十一年四月京城に脱出してきたが、かっての子供たちから京城にとゞまるように懇願され、家は三坂通りにさがしてくれた。

「ハヌル・アボジ」(天の父)いまは成長した子供達がむかしのまゝに氏を呼んでいた。

 二十五年一月、夫人タキさんがなくなられた時、朝鮮の人達によって盛大な社会葬儀がおこなわれた。