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長野県警察本部警務部警務課『長野県警察史 概説編』(長野県警察本部 1958)
p572~574
中国人朝鮮人労務者の騒じよう
一方進駐軍人のほか、特に県警察が、手をやいたのは、中国人と朝鮮人であつた。太平洋戦争終結当時、長野県には
福島警察署管内
上松町 二七四名 王瀧村 一五六名
松本警察署管内
中山村 四九七名
長野警察署管内
柏原村 一二一名
の中国人労務者が在住した。これらの労務者は、本県朝鮮人とともに、「戦勝国人」としてふるまい、また戦時中の軽視と圧迫に対する憤満をも爆発させ、加うるに、飢餓線上にあつた県の食糧事情から、物資のりやく奪をもともなう諸騒じよう事件が各所にひん発したのであつた。特に朝鮮人問題については、この事件を契機に、数多くの問題を警察に投げかけることとなつたのである。さて当時、その著明事件としては、昭和二〇年一一月、富草警察署管内周辺の朝鮮人が、大挙同署へおしかけたことがあつた。時の署長は、警部東川健夫であつたが、戦時中の経済取締のしゆん厳であつたのに反感をもち、その中の二〇数名が、署長室に乱入して、同署長を捕ばくし、なぐる、けるの、ろうぜきを働いたうえ、終りには、「わび証文」を書かせて、退去した事件が発生したのである。
当時、この報を受けた警察部では、警務課次席警部倉石道広を急派したが、同警部は、ただちに同署におもむき、その実情を精査の後、飯田市に在住する朝鮮人代表者某を、飯田警察署へ呼びだし、「わび証文」を返かんさせて、一応の落着をみるにいたつたのである。
さて、これと時を同じくして、福島警察署管内王滝発電所に、工事中の中国人労務者二七〇名は、戦時中の不遇をはらそうと、大挙して同署を襲撃した。そして物資の要求をするかたわら、時の署長警部伊藤重雄、次席警部補木村真章に対して、「山へ登れ!!」とど号した。これはおそらく両人の殺害を意図したものであろう。部下からその要求に応じないよう、さとされる一方、ことの重大性にかんがみ、警察部警務課には、悲壮きわまる速報を入れた。よつて警察部では、警務課警部補松島幸雄を急派した。同警部補は、松本進駐軍と交渉のうえ、機関銃一個小隊を借り受け、同署に急行したが、その時はもはや署内には中国人はだれもおらずそこでただちに王滝の現場へ向つたが、現場は付近の家屋が放火にあい、地元消防団は付近で捕ぱくされるなど、まことに目をおおうものがあつたのである。
しかしその後、米軍コーネル中佐の仲介によつて、福鳥町岩屋旅館で中国人代表者と折衝を行い、その後はことなきを得るにいたつたのであつた。
さてまた、翌月二五日には、中国人労務者の送還指令が発せられたが、これにより、まず松本では、中山村の中国人四九七名に、また二七日には、上水内郡柏原村在留中国人一二一名、西筑摩郡上松町、王滝村の中国人四四三名が、つぎつぎに強制送還されるにいたつた。
なかでも、柏原村在留中国人は、その送還列車途上、長野駅に降り、送還手当支給の要求で不穏な形勢を示したが、当時の警務課では、なんとか手もちの貯金通帳から、二〇万円余を払いさげ、これにあたえて、不穏騒じようを事前に予防してことなきを得た。
また一方。東筑摩郡中山村における在留の中国人労務者、四九七名の動静について記述しよう。
すなわちこの地には、戦争中中島航空機株式会社の半地下式飛行機製造工場を、設置する目的をもつて、その工事の下請を、熊谷組が担当し、神奈川県で働いていた捕虜中国人と、静岡で働いていた、同中国人計四九七名を指揮して、その工事着手中、敗戦を迎えたものであつたが、この日からかれらの目にあまる凶行がはじめられた。そしてかれらは、毎日毎夜松本市内にでて手あたり次第の強窃盗強姦等の犯罪を強行し、市内を恐怖のちまたにおとしいれるとともに、熊谷組現場監督が、三名たたき殺されるなどの事態を惹起させたのである。
当時松本警察署長は、警視島立幸雄であつたが、この惨状をみるにおよんでただちに、前にのべた松本市進駐米軍司令官シヤーマンレハーズブルツク代将に報告するとともに、その善処方を要望し、一方県警察部警務課には、県下各警察署からの応援方を要請し、約五〇名の応援警察官の来署を求め、その取締に任じたが、依然かれらの凶行が絶えないので昭和二〇年一二月二〇日、米軍憲兵隊長コーネル中佐それに英語通訳の二世と警察署長、中国語通訳巡査川合英治ほか応援警察官五〇名をもつて中山村の工事現場におもむき、
まず米軍憲兵隊長から、かれらに対し「諸君は、戦勝国の栄誉ある国民であり。その誇りを常に胸に、在日中は、その襟度をもつて行動してほしい。」という旨の指示をしたが、これは翻訳して。川合巡査に伝えられ、川合巡査はこれを中国語によつて全中国人に通じたが、最後に、当時はまだ
GHQ指令七五六號刑事裁判權の行使に對する覺書
の発せられていないときであつたから、諸君らの不法行為は日本刑法によつて……をつけ加え了解者の挙手を求めたのである。ところが第一中隊の神奈川県からの中国人は大体これを了としたが。第二中隊の静岡県からはいつた中国人の中に、異様な空気がただよいはじめたのであつた。川合巡査は、この状況を感知はしたが、通訳上の仕事から米軍隊長、それに警察署長らの引きあげ後も、現場に設けられた二間四方ほどのパラツク建て取締警察官事務所に少憩していた。ところが、あにはからんや戸外から暴徒と化した、多数の中国人が、激声をあげて、川合巡査の戸外にでるのを要求した。同巡査は、死を決して外にでたが、外にでるや間髪をいれず現場にあつた角棒、あるいは棍棒で諸所をめつたうちにされて、頭部裂傷の鮮血を浴びて、どうとその場に倒れて失神したのであつた。
その後、この報を受けた本署では、自動小銃を装備した米軍一個分隊の応援を得て同巡査を、松本市内藤森病院へかつぎこんだが、その後も中国人が、しぱしぱ同病院の外に徒党を組み、「同巡査が生きているならば、もう一度強打し殺してやる」とすごみ、同病院で治療の一か月はほとんど警備警察官を同院に派しておかなければならぬなどの目にあまる事態が、発生したこともあつた。
こうして中国人労務者の在留中は、なにかと諸事故がひん発し、警察事務は深刻をきわめ、県民もまた安んじて生業に励み得ず、誠に憂慮すべき様相を呈したが、かれらの送還をさかいとしてまずまず中国人問題は落着をとげていつた。