2019/08/28NEW

笹山勇さん ロング・インタビュー

一般財団法人 産業遺産国民会議
専務理事 加藤 康子

『リ・サイウさんに呼ばれて、玄関で朝鮮漬けを食べた』

笹山勇さんのご自宅は長崎湾をすり鉢状に囲む山の斜面に、家屋が張り付くように建ち並ぶ市内の小高い山の中腹にあります。2017年1月5日、宮崎に住む松本栄さんの紹介で、笹山さんに初めてお目にかかりました。それ以来、長崎を訪れる際、夕暮れ時に突然お邪魔することが多かったのですが、予期せぬ来訪にもかかわらず、いつも温かく迎えていただきました。笹山さんはひょうたん作りの名人で、玄関には美しいひょうたんがいくつも下がっていました。現在93歳の笹山勇さん。日が落ちた足元の悪い中、階段まで、われわれの姿が見えなくなるまで名残惜しそうに見送っていただきました。戦中、端島では三菱礦業機械工作課に所属。終戦は台湾で迎え、戦後は勤労課で内勤も外勤も経験されています。熱心なカトリック信者で、端島のご自宅に信者さんを集めてミサを行ったという話がとても印象に残っています。穏やかな語り口で、ユーモアたっぷりのお話。あっという間に時間が過ぎていきました。

笹山勇さん

――お生まれはいつですか?

笹山 大正14年12月25日、クリスマスです。上下が男、中2人が女。4人兄弟。生まれたとはね教会の下ですよ。端島に行ったのは昭和6年です。

――その頃を覚えていますか?

笹山 わんぱく小僧やったのは覚えてとっとですたい。子分をようけ連れて遊びまわって。それでこんなケガをしたとですよ、7歳のとき。木のトロッコで「みんなついて来い」ってちゅうてから、先頭に立って。幼稚園をもう卒業するときですたいね。

――じゃあ、小学校とか中学校は端島に行かれたんですか

笹山 端島尋常高等小学校です。

三菱に就職

――戦時中、端島におられましたか?

笹山 陸軍志願に行って高等小学校を出て、16歳で三菱に就職しました。

――勤労課でお仕事されていましたね?

笹山 内勤も外勤も経験。外勤の方が長いんですよ。詰所といって、従業員を管理する棟があって、そこにずっといました。

――何年まで?

笹山 軍から帰ってきてからだから、昭和二十一年からですね。
二十一年の四月の暮れ。二十四日に帰ってきて、五月一日がメーデーやから、二日から勤務したとです。定年まで。端島の閉山処理を最後までして、もうあしたから船は端島に通わんというときまでして、高島の総務課でさせてもらいました。

――松本栄さんの話では、勤労課の人が一番よくわかっていると。

笹山 わかっとらんばいかんばってんね。

 

松本栄さん(右)と笹山さん。事故の際は右図のような報告書を提出する義務があったと、松本さんは語る。

――内勤、外勤はどう違いますか?

笹山 内勤は内務。外勤は従業員を管理する仕事をするわけです。一人一人の従業員と、家族の厚生とか。

――従業員全員の顔や名簿とか一番よくおわかりでしょう?

笹山 そう。詰所が二つあったからね。全島の従業員を管理しておると。

――島で何があったかというのは、大体外勤の人はわかっているのでしょうか?

笹山 わかっている。外勤から内勤に連絡をして。内勤は給与とか支払いの業務とかね。

――坑内なんかも見て回りましたか?

笹山 坑内には全然行ったことないです。各人の毎日の出勤状況を把握します。詰所に勤務しているときに、きょう何々の都合で休ませてくれとかなんとかって言うて来る。それを内勤に連絡する。

――人事配置はどこでやっていたんですか?

笹山 内勤に入坑所という職場があり、従業員がきょう出勤しますという風に。端島で言えば、内勤の上の2階に坑務課がありました。そして一階がランプ室で、ランプを借りて入坑証を発行します。詰所でだれだれが休みということを。

バッテリー室・ランプ室(写真提供:端島同窓会)

――勤労課は一階ですね。

笹山 一階は、勤労課は半分ですたい。ランプ室、浴場があって、二階が坑務課。繰り込みは総務課とつながっておるわけです。ここから従業員着到します。

――一階も二階もお風呂なんだ。

笹山 そうです。

――両方にお風呂がある。

笹山 総務課の上が経理課。

――なるほど。

笹山 私もここから出たことないとですよ。家内のところに行ったり来たりするとが一日の仕事やからですね。

端島のお風呂の様子(写真提供:端島同窓会)

入坑所(写真提供:端島同窓会)

日曜礼拝は自宅でしていました

――敬虔なクリスチャンと伺いました。

笹山 そうです。生まれついてからですね。カトリック。

――端島でもミサをやられていたんですか?

笹山 そのことでNHKが取材に来てね、端島で笹山さんのところでミサをあげてもらいよったらしいですねって。六時の番組でちょっと紹介されて、笹山さんテレビに出とったよっていうて。

――お宅で?

笹山 端島には教会がなかったから。高島にあったとですけどね。日曜は高島に行ったり長崎に行ったりしよったんですよね。

――じゃ、サンデーサービスは笹山さんのお家でやられていた。

笹山 二十八名ほどおったからね。子どもさん入れてですよ。

――カトリックの神父さんがいらっしゃったのですか?

笹山 高島から来てくれよったとですよ。それで島の信者を集めたのを、うちでミサをあげてもらったとですよ。それはもうずっと遅くですたい、40年代。49年に閉山になったでしょう。それまで何しよったとですよね。大体、山田すえくまさんちゅうて3号社宅に住んでおられた人に、最初教会のことなんかを世話していただいて、それが始まり。30年代初めぐらい。閉山になるちゅう時期まで。

――笹山さんが日曜礼拝やっているときに来られた方で、信者さんに朝鮮の人はいませんでしたか?

笹山 おらん。それは戦後やけんね。

――戦時中は宗教活動とかは厳しかったのではないですか?

笹山 いやいや、何もなかったですよ。

朝鮮半島出身者との交流

――朝鮮の方との交流は?

笹山 朝鮮人は同級生にもおったとです。リ・サイウとか。帰ってきたときには消えとった。

――朝鮮人の同級生は一緒に学校に行きましたか?

笹山 学校で一緒ですたいね。何人かおったですね。級が違ったり学年が違ったりして。私なんかあまり接触しとらんですけど。同級生なんかとは一緒におったけど、よう話したりなんかしよったですけどね。(台湾から)帰ってきたときには、引き揚げてほとんどおりませんでした。

――引き揚げないで残った人もいた?

笹山 その人たちのことはあまり知らんとやもんね。外勤やけんが知っとかんばいかんとばってんが。詰所は従業員のことだけしかせんでしょう。

――端島を離れて、何年まで兵隊に? 

笹山 昭和十八年九月から二年間。

――台湾?

笹山 そうです。

――じゃ、それまでは端島で朝鮮の方たちと一緒?

笹山 そう、十八歳の時です。

――その時は内勤でしたか?

笹山 工作課に入ったとです。

――工作課に朝鮮の方はいましたか?

笹山 いや、朝鮮人はおらんやったです。

――坑内には全然下がらなかったんですね。

笹山 はい。

――井上秀士さんにお話を伺ったとき、秀士さんの話では、戦時中坑内で一緒に仕事をしたと言ってましたよ。炭車を押す担当が朝鮮の人だったと。

笹山 ああ、それは本当かもしれん。井上君は坑内の事情をよく知っとった、坑内で仕事しとったから。私は坑内のことは全然わからんとさ。総務課、戦時中は工作課におって、工作の仕事だけしとったから、外との接触はあまりないけんね。

故井上秀士さん

――坑内の仕事はご存じないのかもしれませんが、朝鮮の人だけ作業着を与えられない、なんてことはあったのでしょうか?
書籍『軍艦島に耳を澄ませば 端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記録』にね、「彼らはここでふんどし一枚だけ身に着けて、立てないので腹這いになったり、横になったりして石炭を掘らなければならなかった」とあります。

笹山 そんなんで仕事はできんもん。炭坑の仕事って、地下で何百mもあるような地下で仕事するんだから、日本人も朝鮮人も一緒ですよ。端島は案外融和的に、朝鮮人って別に区別しとったかなって思うぐらいだったと思うばってんね。

書籍『軍艦島に耳をすませば―端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記録―』

――端島の工作課で仕事をされているとき、軍人はいましたか?

笹山 軍隊はなかったですよ。

――じゃ、憲兵は?

笹山 憲兵はおらんやったです。何事かあったときに、長崎から来よった。警察と組んで捜査しよったですね。

――坑内の事故があると、むしろ測量班が入りませんか?

笹山 測量ももちろん入るけど坑務課で処理するけんね。総務も関係してくるからね。病院に搬送したり、その後の状況とかなんとかね。

――そうすると、事故があった場合には総務課も関わりますか?

笹山 ええ。

――虐待なんかはありましたか?

笹山 いや、それは気づかんね。戦後はそういうことはほとんどなかったけんね。

――けんかはしましたか?

笹山 私たちは関係ないけんね、あそこでけんかしよるなっていうような調子で。警察は、そういうようなとに関与したりしとったですけどね。

――警察が関与するような大きなけんか?

笹山 何かいざこざがあればね、警察は強弱にかかわらず立ち会って調査するたいね。

――副主任クラスの朝鮮の人がいましたよ。

笹山 それはやっぱり社宅の者やったろうと思うよ。生活も日本となんら変わらけんね。私も朝鮮人の社宅に呼ばれて、珍しい朝鮮料理を食べさせてもろうたことあるよ。

――料理は、寮の中でつくることできるんですか?

笹山 寮じゃない、社宅。炊事場もありますよ。

――笹山さんは何号棟に住んでいましたか?

笹山 30号にも住んだこともあるとですよ、1年ぐらい。それから、17号に行って65号に行った。

30号棟

17号棟

65号棟

――朝鮮料理を食べさせてもらったのは幾つぐらいのときですか?

笹山 青年になってから。

――島民はみな家族みたいな感じですね。

笹山 そう、よそはどうかわからないけど。

――何号棟に呼ばれていたんですか?

笹山 リの家に呼ばれたわけじゃない、玄関でつまみ食いさせられて。

――リさんも17号棟に住んでいたの?

笹山 19号やったね。あん時は二階やったと思ったとばってんね。

――笹山さんは17号棟に住んでいた?

笹山 そうそう、九階。

――リ・サイウさんのところに呼ばれていってごちそうになった。

笹山 ごちそうというか、ちょっと玄関で。朝鮮漬なんかあげたりしよるわけよ。それをつまみ食いさせられたっていうことたい。キムチたいね。

――リ・サイウさんとは一緒に遊びました?

笹山 うん、私たちより頭よかったもん。

――学校でも優秀?

笹山 そう、でもちょっと引っ込み思案やったね。私も剣道は小学校からずっとして、先輩にも剣道する朝鮮人がおった。

――リさんも剣道していた?

笹山 いや、リはしとらんと。

――社宅にいる朝鮮人で、日本名を名乗っている人もいらっしゃったのではないでしょうか?

笹山 それは聞かんねえ。

――そのままの名前。リさん、サイさん。

笹山 そう。戦後すぐ消えていなくなったけんね。

――島で暮らしている時には結構仲良かった。

笹山 そうよ。

――虐待とか、そういうの全然なかった?

笹山 ないない。もう日本人とひとつも変わらんような付き合いしよったよ。

笹山さんと筆者

インタビューの様子




(次回に続く)





加藤 康子(Koko Kato)

「明治日本の産業革命遺産」世界遺産協議会コーディネーター、
山本作兵衛ユネスコ世界記憶遺産プロジェクトコーディネーター
「明治日本の産業革命遺産」産業界プロジェクトチームコーディネーター、
「明治日本の産業革命遺産登録推薦書」、
「明治日本産業革命遺産推薦書ダイジェスト版」、
公式の明治日本の産業革命遺産関連書籍、DVD、WEBサイトの主筆並びにディレクター
元筑波大学客員教授(平成26年4月1日~平成28年3月31日)
一般財団法人産業遺産国民会議 専務理事。
2015年7月より内閣官房参与。
2019年7月末日 内閣官房参与を退任。

慶應義塾大学文学部卒業。
国際会議通訳を経て、米国CBSニュース東京支社に勤務。ハーバードケネディスクール大学院都市経済学修士課程(MCRP)を修了後、日本にて起業。
国内外の企業城下町の産業遺産研究に取り組む。
著書「産業遺産」(日本経済新聞社、1999年)ほか、世界の企業城下町のまちづくりを鉱山・製鐵の街を中心に紹介。
「エコノミスト」「学塔」「地理」など各誌に論文、エッセーを執筆。