2018/01/18NEW

松本栄さんとの出会い~真実の歴史を追求する端島島民の会 名誉会長~

一般財団法人 産業遺産国民会議
専務理事 加藤 康子

『端島じゃ、朝鮮人だからとか中国人だからとか、
そういう風な区別しておったんじゃ持たん』

今年九十歳を迎える松本栄さん。端島の歴史が歪曲されて世界に伝わっていることに心を痛めている。そして、この度『真実の歴史を追求する端島島民の会』名誉会長に就任した。衝撃的な出会いからこれまで十度に渡りインタビューした。ふるさと端島への思い、朝鮮のひとたちとの交流等、貴重なインタビューを連載する。


衝撃的な出会い

今年(2018年)で齢90歳を迎える松本栄さんとの出会いは、ガツンと頭を殴られたような大きな衝撃だった。
「国際会議の席上で、一方的に日本が叩かれたという印象を受けたんですけど、端島において、どこに朝鮮の人たちと日本の国内の人たちの差異があったというのか。世界遺産のために、ここは涙を呑んで何とか金でうまく片付けようじゃないかとは、これをやられてしまうとですね・・・。日本は何と腰の弱い外交をやるもんかなと。またあの慰安婦と同じように、金を出して、こういう無謀なことで、我々の神聖な端島が、金まみれで汚されるような解決であったらいかんなと、私は非常に心をいためている。端島じゃ朝鮮人だからとか中国人だからとか、そういう風な区別しておったんじゃ持たん。それはもう結束して、一つの作業を完成していくというのが、やっぱり炭鉱の独特の在り方だろうと思いますね」

経歴

 松本栄さんは1928(昭和3)年2月5日、宮崎県児湯郡妻町に8人兄弟の三男(姉1人、兄2人、弟2人、妹2人)として誕生した。小学生の時に両親や家族と共に端島に移住。父が端島で豆腐屋を営んだ。松本さんは端島尋常高等小学校に転入し、同校高等科卒業後、三菱鉱業株式会社に入社し、坑務課測量係として坑内の測量業務に従事。会社より派遣され筑豊の鉱山専門学校に通い、その後、端島にて坑内作業に入る。終戦の年の4月大分航空隊に志願入隊し、大分において終戦を迎える。1963(昭和38)年、端島生活協同組合常務理事に就任し、また端島労働組合の会計部長兼給与部長に就任。1969(昭和44)年、三菱鉱業端島炭砿を去り、その後は佐竹商事、日新石油に勤務し、1984(昭和59)年に退社、現在にいたる。

「加藤さん、私は長崎でも、東京でも、韓国でも、どこにでも行きますよ、韓国の証言者に会ったら聞いてみたい。『いつ端島に来たのか、何号棟の何階のどこに住んでおったのか、管理人は誰だったのか、入居者数は何人だったのか、作業場はどこだったのか、そのときの班の指導者は誰だったのか、何を目的にこんなことを言うのか』と」。松本さんは即座に目の前で、メモ帳を一枚破き韓国の証言者に聞いてもらいたい質問事項を箇条書きでびっしりと書き込み、渡してくれた。

情熱的に取り組む

 2016年7月27日を皮切りに、松本さんとは、合計10回(2016年7月27日、11月7日、2017年1月5日〔2回〕、1月6日〔2回〕 2月24日、8月9日、12月13日〔2回〕)聞き取りをした。松本さんは『筑豊・軍艦島』(林えいだい 弦書房)や『軍艦島に耳を澄ませば』(長崎在日朝鮮人の人権を守る会 社会評論社)を熟読されながら、気づいたことをメモに記し、郵送してくれた。膨大な手書きの資料には、上段に文中疑問に思う文章を記載し、下段に疑問点を記載していた。これだけの文章を作成するのには何日もかかったという。ペンだこを作りながら余りに熱心に帳面の作成に取り組まれるので、ご家族は高齢の松本さんの健康状態をとても心配をされていた。机にむかい、長時間座るので、すっかり足が弱ってしまったのだという。私もまた、ご家族の心配を耳にすると、返す言葉もなく、また松本さんのあふれ出る情熱にお応えできるかどうか、不安でもあった。

「加藤さん、組織を作ろう」

2回目の聞き取りのあと、松本さんは「加藤さん、こういうことは一人じゃだめだ、組織を作らないと」と言われ、しばらく疎遠だったかつての友人たちに一人また一人と電話をし始めた。松本さんは熱心に連絡をとり、同年代の色々な友人、知人を紹介してくれた。私は松本さんの熱意にお応えしたいと、連絡がついた端島時代の旧友を松本さんに代ってたずね、聞き取りをすることにした。初対面の我々が電話口で自己紹介すると、松本さんからご連絡をいただいている方は、初めはためらわれていても、私の訪問を温かく迎え入れてくれることが多かった。なかには話の終わりになると、自ら電話をかけ、別の友人をご紹介いただける方もいらっしゃった。しかし、ご本人は松本さんの呼びかけへの協力を快諾してくださっていても、ご家族の中には日韓の対立関係や予期せぬトラブルにまきこまれることを不安に思われる方もいらっしゃった。いざ私がビデオ収録にお伺いすると、ご家族が反対をし、収録を拒まれる方もおり、現地まで出向いていっても結局、お目にかかることもできず、すごすごと帰宅せざるを得ないこともあった。

ふるさと軍艦島に行きたい

そういった旧友とのやりとりを宮崎の松本さんに報告するなかで、松本さんはだんだんといてもたってもいられなくなり、昔の仲間が多く住んでいる長崎に出向き、直接、自分の足で旧友を訪れたいというご意向を示されるようになった。ある日、松本さんより組織案が送られてきた。さすがに組合活動をやっていただけあり、組織をたちあげることになれているのか、案はよくできていた。だが松本案を実現するのにはそれ相応の体力が必要である。

松本さんへの協力を約束

まず松本さんは昔の仲間を訪れたあと、皆で一緒に、ふるさと軍艦島に上陸したいというのであった。宮崎から長崎は地図の上では直線距離で近いように見えても、交通の便は決して良くはなく、公共交通手段は限られており、車で片道約6時間かかる。松本さんの思いは募っても、情熱に体力がついてくるのかどうかが心配であった。杖をつきながら歩いている松本さんのおぼつかない足元を心配しながら、我々も松本さんに全面協力することにした。松本さんとお目にかかってから5カ月目のことである。(つづく)




   





加藤 康子(Koko Kato)

「明治日本の産業革命遺産」世界遺産協議会コーディネーター、
山本作兵衛ユネスコ世界記憶遺産プロジェクトコーディネーター
「明治日本の産業革命遺産」産業界プロジェクトチームコーディネーター、
「明治日本の産業革命遺産登録推薦書」、
「明治日本産業革命遺産推薦書ダイジェスト版」、
公式の明治日本の産業革命遺産関連書籍、DVD、WEBサイトの主筆並びにディレクター
元筑波大学客員教授(平成26年4月1日~平成28年3月31日)
一般財団法人産業遺産国民会議 専務理事。
2015年7月より内閣官房参与。

慶應義塾大学文学部卒業。
国際会議通訳を経て、米国CBSニュース東京支社に勤務。ハーバードケネディスクール大学院都市経済学修士課程(MCRP)を修了後、日本にて起業。
国内外の企業城下町の産業遺産研究に取り組む。
著書「産業遺産」(日本経済新聞社、1999年)ほか、世界の企業城下町のまちづくりを鉱山・製鐵の街を中心に紹介。
「エコノミスト」「学塔」「地理」など各誌に論文、エッセーを執筆。