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第七章 事件及び災害
第一節 事件
直江津駅における朝鮮人の邦人虐殺事件 終戦直後の昭和二十年十二月二十九日、信越線の要所直江津駅ホームにおいて、衆人環視の中で一青年が朝鮮人に虐殺されるという、常識では理解できないような事件が発生した。すでに述べてきたように、終戦直後における国内の交遥は非常に混乱し、わけても列車の混雑ははなはだしかつた。この事件の発生原因は、このような列車の混雑にもあるが、なんといつても敗戦がもたらした所産である。
事件当日(十二月二十九日)午後七時ころ、新潟発大阪行普通列車が信越線黒井駅に到着したところ、一見やみ屋と思われる三名の朝鮮人青年が、おのおの荷物をかかえて列車に乗ろうとしたが、満員のため乗りきれない状態であつた。そこで彼等は、懐中電灯で列車の窓ガラスをたたきこわして乗りこもうとしたところ、内部の乗客にこばまれて乗りこむことができず、やむなくデツキにぶらさがつて直江津駅までいつた。
この三名の朝鮮人は、中頚城郡八千浦村大字黒井に住む日本名、青山七竜(二五)、米村義雄(二一)、山本義雄(一九)で、いずれも戦時中直江津町の信越化学工場で働いていた者であるが、終戦と同時に解雇されてヤミブローカーとなり、この日も三名は農家からおのおの三〇キロ(二斗)くらいずつの米を買い集め、これを大阪方面へ売りに行く途中であつた。彼らは、列車が直江津駅に着くと車内に来りこみ、黒井駅で来るのをこばんだと思われる、京都市東山区清水四町目、筆墨外交員胤森秀司(二九)に対し、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスをこわして乗ろうとしたのになぜ妨害した」と、詰めより、胤森が「窓から乗りこむという方法はない」と反ばくすると、「朝鮮人にむかつて生意気だ、ホームにおりろ、殺してやる」とわめいてホームにひき出し、組みつきあいの乱闘となつた。このとき朝鮮人三名は、おのおの駅備えつけの列車暖房用パイプやスコツプをもつて胤森に打つてかかり、胤森は、もつていた海軍ナイフでこれを防いだがおよばずついに、頭・左眼などに一〇数か所の傷をおわされてその場に倒れてしまつた。
所轄署では、報告によつて直ちに所在地署員を動員、駅にかけつけたが、胤森はすでにその場で絶命しており、朝鮮人の姿はなかつた。そこで、緊急手配したところ直江津町麓病院で傷の手当をしている、前記三人の朝鮮人をつきとめ、衣類の血痕などから加害者であることを認め、その場で殺人現行犯容疑者として逮捕した。
三名は、殺人現行犯として所轄検事局に送られたが、高田に進駐した軍政部が介在し、事件の結末がつかぬうちに三名とも逃走して事件はそのままとなつてしまつた。
朝鮮人の持凶器強盗事件 終戦一年目を過ぎた昭和二十一年八月二十四日午後九時四十分ころ、ようやく昼の暑さから解放されて床についたばかりの新潟市関屋本村町八百重こと捧武雄(三三)方表入口の戸をがらつとあけ、「ごめんなさい、ごめんなさい」と、いいながら四人組みの賊が侵入し、二階で就寝中の主人武雄に、いきなりピストルをつきつけておどかしながら近くにあつたへこ帯で同人の両手をしばり、「金はどこにあるか」と詰問、同人がタンスにあると答えると、そのひきだしの中から現金二、二〇〇余円のほか、背広服・オーバー・さらしもめんその他を強奪して逃走した。
被害者は、直ちに近くの関屋本村町巡査派出所へ届け、それによつて所轄新潟警察署をはじめ隣接各警察署は時を移さず非常警戒網を張つた。
この手配によつて、東新潟警察署、岸敏夫巡査部長・阿部六郎刑事・高橋勇巡査の三名は白新線信濃川鉄橋東詰の地点に配置を命ぜられ、停止警戒勤務についていたところ、翌二十五日午前一時五十分ころ、四人連れの男が新潟駅の方から線路伝いに同鉄橋にむかつてきて警戒員に対し、「秋田へ行くには、この鉄橋を渡れば行けるか」と尋ねた。警戒員は、その人相着衣が于配の強盗犯人とそつくりなので、犯人と認めて直ちに逮捕しようとしたところ、彼等はくらやみを利用し、二名は鉄橋へ向かつて逃げ、他の二名は川沿いに上流にむかつて逃げ出した。岸部長は鉄橋へ向かつた組を追い、阿部・高橋両巡査は川沿いの組を追跡した。鉄橋近くで岸部長に追いつめられた一人は、逃げるのをやめて向きなおり、けん銃を取り出して、「これだがどうだ」とおどかしながら反撃してきた。岸部長は、機を見て犯人に飛びつき、逮捕しようとして格闘となつた。このとき犯人は、岸部長の頭めがけてピストルを発射したが、手首を握られていたためねらいがはずれ、危うく難を避けることができた。岸部長は、なおも抵抗する犯人と格闘を統けたすえようやくけん銃を奪い危険を脱した。一方、他の犯人を追跡中の阿部・高橋両巡査は、ピストルの音に岸部長の危難を感じ、追跡をやめて引きかえし、岸部長のところへかけつけて応援、四人がもつれあつての格闘の末同人を逮抽した。岸部長は、この状況とともに他の三名の犯人の手配をかねて直ちに本署へ報告、所要の手配を依頼した。
この報告により逃走方向に対して厳密な検索を行つたところ、同日午前三時三十分ころ白新線信濃川鉄橋西詰橋脚付近に潜伏しているひとりを警戒員が発見し、直ちに逮捕した。しかし、他の犯人二名は発見することができなかつた。
翌二十六日、万代橋下流付近に漂着している死体が発見され、検視の結果四人組の一人であることが判明した。彼は信濃川沿いに逃走途中転落溺死したものと認められた。
残る一人は、ついに本県の警戒網をくぐつて県外へ逃れたが全国へ指名手配をして継続捜査の結果、二十二年三月兵庫県で逮捕したという通報があり、この事件は完全に解決した。
この四人組はいずれも朝鮮人で、主謀者は、神戸市神戸区中山手通り八丁目山本正夫こと崔朔千(二五)で、鉄橋際で岸部長にピストルを発射して抵抗した男であつた。また、白新線信濃川鉄橋西詰橋脚付近で逮捕されたのが金亭兄(三三)、死体で発見されたのが邑奉祈(二一)、翌年兵庫県で逮捕されたのが、安生道(二二)であつた。
彼らは名古屋方面から強盗の目的で、流れこんできたものであるという。
同年十一月二十一日、新潟地方裁判所において崔朔干に対して懲役十二年、金亭兄に対して懲役八年、また安生道に対しては、二十二年五月、同裁判所において懲役六年と、それぞれ判決が言い渡されて確定した。
事件は、終戦後の虚脱状態がややもすると警察官を沈滞に陥れ、ことに第三国人に対する警察権の発動にも疑義があつて、自然各種取締りに積極性を欠く傾向が見られた当時であつたにかかわらず、敢然身を挺して犯人に立ちむかい、これを逮捕し得た岸部長以下警戒員の積極的にして責任感に満ちた勤務態度は大いに賞揚され、岸部長に対しては、二十一年十一月十五日栄ある警察功績章が授与され、他の殊勲者にもそれぞれ授賞された。
p1053~1058
坂町事件 終戦後満一年を経た昭和二十一年九月二十二日、羽越線坂町駅においてやみ米輸送の取締りをめぐり、警察官と中国人及び朝鮮人との間に乱闘を演じたいわゆる坂町事件が発生した。
戦時中国内の労力不足から、その対策として内地に移入された中国人・朝鮮人その他従来から日本内地に住みついていたこれらの者は、終戦とともにその態度を一変し、警察力の不足と国内法令が彼等に適用されるかどうかの解釈が確立されていない間げきに乗じて、米のやみ取引・酒の密造などを公然と行い経済取締りの〝癌〟となつた。しかし、取締法令適用の点が明確でなかつたが、現実には取締りが必要であつたため、取締りに当つては常に物議をかもし、結局相互の力関係でその場がきまるという、全く実力闘争の時代であつた。
当時、県下下越方面には、新発田市に朝鮮人連盟の事務所を置き、その勢力下に岩船郡保内村・金屋村・北蒲原郡乙村を根拠として約二〇〇名くらいの朝鮮人が住みつき、坂町・平木田両駅を中心に山形県方面及び岩船郡下のやみ米を集荷中継して関西方面へ列車輸送し、全く人もなげな態度であつた。一面、国内食糧事情は極度に悪化し、食糧の配給統制は、進駐軍の命令によつて戦時中以上に強化され、供米完納は至上命令として警察もその一翼を負わされ、全力をあげてその供出を督励した。
当時、坂町駅からは一日五〇俵のやみ米が流れるといわれ、これを徹底的に阻止しなければ管内の供米はとうてい完納することができないと認められた。よつて村上警察署においては、警察部の通達もあつて徽底的な取締りに乗り出した。
事件当日(二十一年九月二十二日)午前○時五十分ころ村上警察署の加藤巡査部長は、署長の命によつて巡査七名を指揮し、羽越線と米坂線が合流する管下の坂町駅構内においてやみ米輸送の取締りに当つた。そのとき、大阪行列車に乗車すべくホームに待つていた鮮・華人四・五〇名は、取締員の姿を見ると大部分が姿をかくした。加藤部長は、これに目を止めながらも、中ホームの先端に、中味が米と認められる荷物七・八個を積んだ運搬車を発見したので、ホームの待合人に「これはどなたのものか」と尋ねると、一五名くらいの一団の中の一人が「おれのものだが、おれは中国人だ」と答えた。さらに身分証明書の提示を求めたところ、他の者はいきなり〝なぐれ!!たたけ!!〟と叫びながら、加藤部長にとびかかつてきた。加藤部長は素手でこれを防ぎながら電灯の近くへ導いたので、これを知つた斎藤巡査が援助し、二人で制止しようとつとめているとき列車が到着し、その列車から二〇名あまりの鮮人が下車して彼等に加勢し、加藤部長と斎藤巡査は警棒まで奪われて乱打された。彼等はさんざん暴行を加え、列車の発車まぎわに全員が飛び秉つて逃げてしまつた。加藤部長らは傷を負いながらも鮮人二名を逮捕し、本署に引き揚げてこの状況を署長に報告した。
村上警察署では、このにがい取締経験にかんがみ陣容を強化してこれに対処するため、取締計画を再検討していたところ、その日(二十二日)の午後になつて、坂町と金屋の両駐在巡査(いずれも坂町駅周辺の駐在)から「朝鮮人と中国人がやみ米を運搬している」との報告が本署にもたらされた。これによつて本署からは、河津警部補以下一〇名の私服警察官が午後四時ころ坂町駅前におもむき、やみ米がかくされたと認められる丸屋旅館の各室を臨検した結果、精米三俵分(約一八〇キロ)をリュックや麻袋に詰めてあるものを発見、在宿中の中国人二名(内一名は女)に所有者を尋ねたところ、「その者は金屋村方面に出ている」と答えた。そこで、同駐在巡査からのさきの報告の件とも関連があるものと認め、その中国人をも自動車で任意同行して金屋村にむかつた。
金屋村では、かねてから鮮華人と連結を待つやみブローカー高橋兼太郎が注目されていたので、これをおとずれ承諾を得て屋内を検索したところ多量のやみ米を発見したが、いずれも「中国人からの預り品だ」と主張する態度に出た。このとき戸外が急に騒がしくなつたので出て見ると、朝鮮人と中国人一四・五名がまきや棒を手にして、「君達はわれわれ中国人を取り締まる権限をもつているか」とか「丸屋にあつた米をなぜ待つてきたか」などとくちぐちにののしりながら襲いかかつてきた。警察側は彼等に傷害を与えることをさけるため極力防御の態度に出たところ、彼等は勢いに乗つて警察官を駐在所前に追いつめ自動車を破壊し、警察官の警察手帳をとりあげ、なぐるけるの暴挙に出たうえ、やみ米を他の自動車に積みかえて河津警部補ひとりを坂町駅前丸屋旅館へ連行し、「殺してしまえ」と意気まく始末であつたが、河津警部補は責任者として取締りの必要性を明確に述べたうえ、話し合いのうえで解決した。
一方、河津警部補が連れ去られた金屋駐在所では、加藤部長以下がはぎしりしながら本署へ状況を報告し、朝鮮人並びに中国人の検束を要望したが許されなかつた。金屋村警防団では、警鐘を鳴らして団員を召集し警察を援助するため出動したが、あくまで控え目の態度にある警察官の制止によつて手が出せず、かえつてとびぐちや木刀類を彼等にとりあげられ、そのうえ彼等は駐在所に侵入し、施設・備品を打ちこわすという破目になつてしまつた。こうした状況を見かねた金屋村の遠山医師は、電話で進駐軍の新潟軍政部へ米軍の出動を要請するなどのせつぱつまつた情景も見られ、事態はますます険悪化してきたとき、河津警部補から「話は解結したから坂町駐在所へ全員集合するよう」に、との電話指示があつて警察官全員は引き揚げた。
事が意外に拡大したという報告をうけた石井署長は、全署員を召集して午後五時過ぎ坂町駐在所にいたり、徹底的取締りを行うべく県本部と連絡を続けながら対策をねり、新発田警察署から二〇名の応援警察官を得て待機していると、進駐軍新潟部隊から情報部長のほか軍政部係官が到着したので情況を報告し指示を乞うたところ、情報部長一行は、朝鮮人と中国人のたむろしいている丸屋旅館にいたつて彼等に対し、「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと、警察官のやみ米取締りを拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を告げ、石井署長に「責任をもつて取り調べるよう」にと指示して帰任した。連合国軍から取締りの直接指示を受けた警察官は、確信に満ちたものとなり、なおも反抗の挙に出る彼等と乱闘の場をくりひろげながらも、大阪市吹田区旭町二丁目居住の中国人、元料理店主、慕金英(三七)など一一名及び朝鮮人一名、計一二名を検挙して彼等の根拠を破壊することができた。
彼等の身柄は、その後村上署から新潟署に移され、軍政部員が取調べに当つたが、県外追放と再び本県内でやみ米の買い出しを行わないという誓約だけで釈放された。
新潟日報社襲撃事件 前記坂町事件は、意外な進展ぶりを示した事件であつたが、さらに、その報道記事にいいがかりをつけた朝鮮人一味は、ついに新潟日報社を襲撃するという事件にまで発展した。
昭和二十一年九月二十三日付新潟日報夕刊は、前記坂町事件を取り扱い、「MPも出動坂町で深夜の乱闘」と題し、「朝鮮人三〇名からなる買い出し部隊が、やみ米一五俵(約九〇〇キロ)を輸送しようとしたのに対し、警察官が取り締つたところこれに反撃を加えて乱闘となり、警察用自動車を破壊し駐在所の電話線を切断、警察官側に負傷者を出したが、MPがかけつけ、一四名が検挙された』という記事(要旨)を掲載し、翌二十四日の朝刊にも報道した。読売新聞もまた同様の記事を掲載した。
当時朝鮮人は、全国的な組織として朝鮮人連盟を結成して団結し、各地における個々のできごとに対しても、常に連盟の名において介入し、一方的に彼等の立場のみにおいて解決しようとしていた時代であつた。
九月二十六日、朝鮮人連盟新発田支部委員長(尹建)以下一五名、韓国僑民会総務部長(蕭泰栄)ほか一名が新潟日報社を訪れ、読売新聞社代表をも呼んで両者代表と会見し、「坂町事件は、朝鮮人が主体でひきおこされたものでなく、新聞発表は事実と相違している。これは日・鮮離間を企図したものであり、朝鮮人の名誉をき損した。よつて社説で朝鮮人連盟と韓国僑民会に対し陳謝するとともに、即時ラジオ放送を通じ、代表責任者から県民にむかつて新聞報道は事実無根であつた旨の声明を発表せよ」と迫つた。日報社側は、社長不在を理由として即答をさけ、「二十九日まで猶予されたい」と答えて了解を得たが、その後新聞社側では、和解する必要を感じて僑民会幹部を通じ、約束の日の前日(二十八日)同会董総務部長ほか二名の幹部を新潟日報社に招いて話しあつた。その際読売新聞社側は、不確実な記事であつたことを認め、社説的な謝罪記事を掲載することで話しあいがついたが新潟日報社側は、「すべては事実が決定することであり、真実がわかりしだいそれによつて取り消すべき点があれば取り消すし、謝罪の必要があれば謝罪する」と、留保の態度に出たため、僑民会幹部は、「事実はすでに明白であるにかかわらず、解決をひきのばすことは誠意のないことだ」として、和解を拒否した。
翌二十九日、朝連新発田支部長尹建以下一八名は、前回約束のとおり新潟日報社を訪れ、松井編集局長外三名の代表者と会見し、二十六日の返答を求めた。これに対し日報社側は、「警察当局と進駐軍情報部について調査中であるから、その結果に基いて善処する」旨を答えたところ「事実は明白なことである」として譲らず、両者の意見が対立し、交渉が長引く形勢になつたため、朝連側の一人がいきなり松井編集局長に向かつて茶わんを投げつけたのを合図とし、いつせいに日報代表者に暴言を浴せ暴行を加えようとして室内は騒然となつた。この物音で、社外に待機していた残余の朝鮮人も社内の各室に乱入し、いすをなげつけ電話機をたたきこわし、活字ケースをけとばすなど暴行の限りをつくし、見積り額三〇余万円に及ぶ損害を与えたほか、松井編集局長を新潟市内の僑民会事務所に連行したので、所轄新潟警察署においては進駐軍とも連絡し、一味全員を暴力行為等処罰に関する法律違反の現行犯として逮捕した。
この事件は、終戦以来各地で朝鮮人などの横暴が重なつていた折でもあつて、社会的にも大きな反響を呼んだ。
二十二年三月四日、新潟地方裁判所において、暴行した一味のうち九名に対し、暴力行為等処罰に関する法律並びに業務妨害罪により、辛鐸升に対しては懲役十月、他の八名に対しては懲役六月(いずれも執行猶予三年)の判決が言い渡された。
p1063~1065
朝鮮人のやみ米輸送事件 戦後朝鮮人が不当な行動をとつて警察取締りの対象となつたことについては、すでに数多くの箇所で述べてきたところであるが、この事件も同様な条件のもとでおこつたものである。
昭和二十三年三月十八日午後五時三十分ころ、小千谷町警察署古谷駐在の本望幸夫巡査が警らの帰途、北魚沼郡小千谷町郊外の茶郷橋付近にさしかかると、二名の朝鮮人が、やみ米らしいものをそりに積んで小千谷町へむかつているのを発見、職務質問をしたところ、それに応じないのみか本望巡査にむかつて、「われわれが朝鮮人であることを知つているか」とか、「お前は新米巡査でわれわれの顔を知らないのだな」などと反抗する態度に出て、同巡査に暴行を加えようとして立ちはばかつた。本望巡査は動ずる色も見せず荷物を調べたところ、精米約一八〇キロ(三俵)を発見、彼等を食糧管理法違反現行犯人として逮捕、そのそりをひかせ、途中他の朝鮮人の妨害を受けながらも本署へ連行し当直主任に引き渡した。
同夜十時ころ、このことを知つた小千谷町在住の朝鮮人一〇数名が、小千谷町警察署へ押しかけ、前記食糧管理法違反容疑者、北魚沼郡小千谷町上ノ山在住の宮本武夫こと李鳳基(二四)と同竹本相九(鮮名不詳二七)両名の即時釈放をせまり気勢をあげた。そこで高橋署長は、署在地全署員を非常召集して警戒に当らせる一方、容疑者二名の取調べを急ぎ、同夜十二時ころいつたん釈放してその日はことなきを得た。
翌十九日、再び前記容疑者二名に任意出頭を求め、前日にひきつづき取調べをしていたところ、彼等朝鮮人は三條・長岡の両市及び北魚沼・南魚沼両郡の同胞を小千谷町に集結させ、容疑者二名の奪還を企てる態勢を示したので、同署長は国警県本部へ連結、隣接各警察署から武装警察官四〇名の派遣を得てこれに備える一方、進駐軍渉外係将校ら三名の来援もあつて取調べを続行、彼等の自供から知らされたやみ米の隠匿場所に対し、進駐軍の令状によつてさらに捜索を行い、精米三二九キロ(五俵余)、小豆一九四キロ大豆四九キロ計五七二キロを発見のうえこれを押収し、前記二名のほか朝鮮人連盟北魚沼郡支部総務部長清水政雄こと朴石俊(二七)を緊急逮捕した。取調べの完了とともに三名の身柄を長岡区検察庁へ護送するため、同日午後四時三十分ころ小千谷駅にいたつたところ、かねて身柄奪還を企図して集結した朝鮮人約八○名が、くちぐちに「宮本・竹本・清水を長岡へ送らすな」と叫びながらこれを妨害したが武装警察官の援護によつて、ようやく三名を列車に乗り込ませた。その後においてもなおホームに待機していた一派は、同駅青木助役に対し、「列車を出すな、出すと打ち殺すぞ」とおどかしながら発車の操作を妨害したので、武装警察官がホームにいたり、これを制止しようとしてもみ合いとなつたため列車は約十分間おくれて発車するという事態をひきおこした。これに対してはその場で、直接妨害行為に出た北魚沼郡堀之内町宮原町に住む朝鮮人、新井三郎こと朴準煕(二四)など一〇名を、公務執行妨害罪並びに鉄道営業法違反現行犯人として逮捕し、他の者を解散させた。
彼等一味は、二十三年四月三十日、新潟地方裁判所長岡支部において、それぞれ懲役刑(最高一年)・罰金刑(最高二万円)の判決を言い渡され確定した。
p1066~1072
高田のドブロク事件 戦後各種物資の不足に乗じて、やみ物資のブローカーはもとより、大規模な酒の密造や食肉用牛豚の密殺は、内地に住む多くの朝鮮人の生活のための常とう手段であつた。これらに対して警察の取締りが行われると〝生活の権利である〟と称して、国内法に従おうとしなかつたことはすでに述べたとおりである。
このようなことは、窮迫した食糧事情をいつそう悪化させることとなつたので、警察はこの面の取締りに重点をおき、税務署と協力して県下各地で大がかりな取締りを行つた。その中できわめて大規模な密造を行つていたのが、本件で述べる「高田のドブロク事件」である。
中頸城郡中郷村大字藤沢及び同郡新井町小出雲部落を中心とした約八○世帯の朝鮮人集団部落で、大がかりな酒類の密造を行つていることは、昭和二十三年秋ころから所轄中郷村警察署並びに新井町警察署の知るところとなり、随時取締りを行つてはきたものの、徹底的取締りを行うには相当強力な警察力を必要としたので、慎重な態度でのぞむこととし、この状況を国警県本部に通報してその援助を求めた。そこで県本部では、防犯統計課から係員を現地に派遣して、両署とともにその実態を調査した結果、徹底的な取締りを行うこととし、新潟地方検察庁・高田税務署・所轄署並びに隣接警察署と、数回にわたつて打合会議を開き、極秘のうちに綿密な取締計画をたてる一方必要な資料を集め、二十四年四月六日、裁判官の捜索差押令状の発布を受けて準備を整えた。
翌四月七日明け方を期して前記密造部落を急襲することとし、六日夜から七日末明にかけて、地元新井・中郷両署をはじめ、中頸城・東頸城・西頸城・刈羽各地区警察署並びに国警県本部・警察学校などからの派遣要員合計三五〇名を高田市ゆかりの地高田城跡に集め、検挙隊・警備隊・写真班などからなる部隊編成を完了した。また、警察官部隊に税務官吏七・人名が加わり、新潟地方検察庁と高田区検察庁から石原検事以下九名、新潟地方経済調査庁から経済調査官三名、それに進駐軍部隊から新潟情報部員二名が参加した大規模な取締陣容であつた。
部隊は、七日午前四時四十分、中郷地区中隊を先頭に、トラツクー四両、大型バス三両に分乗し、折からの冷雨をついて集結地を出発、各隊とも午前六時十分前記密造部落に到着、いつせい取締りを開始した。目ざす部落では、大部分の家々はすでにかまどの火をたき密造酒の蒸溜作業に着手していたが、警察部隊の襲来に驚き、証拠となるべき器物を隠そうとする者、警察官にむかつて暴言を浴びせ取締りをけん制しようとする者、連結のため隣家へ走る者、大声を発して逃げ惑う者など、にわかに大騒ぎとなつた。
この間、取締りは計画どおり進められ、証拠物件の調査押収に並行して被疑者の逮捕、現場写真の撮影など秩序整然と行われ、彼等に反抗のすきを与えず、午前八時三十分ころ、つぎのとおり酒税法逮反容疑のかどで人的・物的の検挙・押収を遂げ、両部隊とも中頸城地区警察署へ引き揚げた。
区別 部隊別 |
検挙した被疑者 |
押収した物件 |
|||||
日本人 |
朝鮮人 |
しょうちゅう |
もろみ |
どぶろく |
こおじ |
器具 |
|
中郷地区中隊 |
五 |
二六 |
三石三斗一升 |
一八石四斗六升 |
一一石〇斗六升 |
二石〇斗一升 |
三七六点 |
(五九五・八リットル) |
(三、三二三・八リットル) |
(一、九九〇・八リットル) |
|||||
新井地区中隊 |
〇 |
一三 |
二石一斗四升 |
六石〇斗五升 |
四石四斗〇升 |
|
一一五点 |
(三八三・二リットル) |
(一、〇八九リットル) |
(七九二リットル) |
|||||
合 計 |
五 |
三九 |
五石四斗六升 |
二四石五斗一升 |
一五石四斗六升 |
二石〇斗一升 |
四九一点 |
(九八二・八リットル) |
(四、三九一・八リットル) |
(二、七八二・八リットル) |
備考 高田事件の概況(中頸城地区警察署作製)による。
前記取締り終了後、被疑者の身柄を中頸城地区警察署に引致し、留置場はもとより武道場などにも収容して酒税法違反事件としての取調べに移つた。一方前記密造部落の朝鮮人は、朝鮮人連盟(朝連)信越支部組織員応援のもとに、当日午前十時四十分ころから高田市警察署前に三・四名ずつ集まりはじめ、正午には婦女子を合わせて二〇〇余名に達し、くちぐちに警察をののしり、代表者をあげて被疑者の釈放を要求してきた。しかし、この要求を警察側が断固としてしりぞけたため、いつたんは解散したかに見えたが夜に入ると十数名ずつが一組となつて波状的に同署前に集まつては暴言をあびせ、翌八日午前三時ころまでの間に十数回反復し、そのあげく警察署庁舎にむかつて投石し、窓ガラス十数枚を破損させるなど暴力的な態度に出たので、あらかじめ警備配置にあつた警察官は、彼等のうち四名を器物毀棄罪容疑として検挙し、その他の者を解散させた。また、地区警察署長室において藤田署長と石原検事が彼等代表と面接、釈放要求の交渉に応じていたが、この暴挙をきつかけとして交渉を打ち切つた。このころから一段と警備態勢強化の必要が認められ、さらに各地区・各市警察に応援要請を行うほか緊急措置として国警長野県本部にも応援警察官の派遣を依頼した。
あけて八日午後二時ころ、朝鮮人約二〇〇名が前日同様高田市署前に集まり、スクラムを組み「赤旗の歌」で気勢をあげ、再び代表をあげて釈放要求をしてきが、警察側がこれに応じないため、次回は税務署へ押しかけることを示しあわせて午後七時ころ解散した。この日から日本共産党員による指導が表面だつてきた。
翌九日正午過ぎ、ひとりの朝鮮婦人が高田税務署の窓口に現われた。前日の動静から税務署に対して不穏行動のあることを察知し、あらかじめ配備についていた警察官も、単なる日常の用務に来た者と見て気にかけないでいたところ、しばらくのうちに一四・五名の朝鮮人婦女子が同税務署前に集まつてきた。驚いた税務署員が用件を尋ねると、「署長に会わせろ」と要求し、「代表者を出せ」といえば「全員がいつしよに会いたい」という。そこで見かねた警備の警察官が、署外に出るよう勧告したところ、警察官に反抗して税務署前に座りこみ「人殺し」とわめく始末、さらに午後一時ころ、四・五〇名の朝鮮人(男)が押しかけ、「署長に会わせろ」とくち〲にさけびながら税務署内に侵入しようとしたため警備の警察官とに小ぜりあいとなり、警察側に九名、新聞記者二名、朝鮮人側に婦人二名の負傷者を出した。
さらに、ころあいをはかつて待機の朝鮮人が押しかけ、その数は一〇○名にも及びいよいよ気勢をあげて税務署に投石、襲撃の態度に出た。警察側でも、高田市署に待機していた警察官一三〇名を急派して取締りに当つた結果、間もなくこれを阻止することができた。そして、彼等の代表と志鎌税務署長との間に交渉が開始されたが、彼等の要求は、「差押え物件を返せ」というにあつた。もとより同署長はこれに応ぜず、交渉成立の見とおしもないので、彼等代表に退去を命じたがこれに応じないため、その中の一名を建造物侵入の不退去罪現行犯として逮捕し他を退去させた。またこの間、いつたん制止に応じた屋外の集団も交渉に入るやスクラムを組み朝鮮解放の歌を高唱、アジ演説を行いながら気勢をあげてけん制したが午後七時ころ解散した。この日税務署の警備に当つた警察官は、国警・自警を合わせ四四六名に達した。
取締り開始後四日目をむかえた十日、前記新井・中郷地区の取締りによつて検挙された被疑者の自供から、高田市内においても相当規模の酒の密造が行われていることがわかつたので、同日午前八時を期し、飯田警部の指揮する一隊一六八名は、高田市本町二丁目所在の朝連信越支部事務所を、また、松本警部の指揮する一隊七四名は、同市本町二丁目朝連信越支部副委員長宅を、小柳警部の指揮する一隊七三名は、同市北本町三丁目中村徴鎬宅をそれぞれ急襲して取締りを行い、「しょうちゅう」四斗三升(七七・四リットル)「どぶろく」二〇石三斗四升(三、六六一・二リットル)器貝八六点を押収、二名を酒税法違反、六名を公務執行妨害罪容疑者として検挙した。これによつて、彼等の密造施設は壊滅的な打撃を受けたのであるが、彼らは生活権擁護を旗印として県下はもとより、長野・富山方面にまで呼びかけて彼らの同胞を高田市に糾合、警察に立ち向う不穏な形勢を示すにいたつた。
翌十一日、高田市に集まつた朝鮮人は、県下各地をはじめ朝連長野県支部からの一団も加わつてその数は五〇〇名をこえるとみなされ、これらが共産党の指導により〝徹底的闘争〟を呼号してデモ行為を行つた。そこで、警察としても穏やかな態度でのぞむことは、彼等を助長させかえつて事件を紛糾拡大させる結果となると認め、この際徹底的に検挙する方針にかえ、さらに県本部をはじめ各地区・市・町警察からも応援警察官を増派して態勢を整えたうえ、彼らの主諜者とみなされる幹部及び共産党員ら一二名をデモ条例違反被疑者として検挙した。これによつて彼等は急に事件の早期解決をのぞむ態度にかわり、代表者をあげてこれ以上事件を拡大しないことを条件として、検挙された者の釈放を要求してきた。
これに対して野々山県警察隊長以下幹部は連日折衝を続けたのであるが、彼等の要求はつねに変らず警察の受け入れるところとはならなかつた。この間、彼らは市民に対して、「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」旨の逆宣伝を行つて協力を求めたり、「放火して高田市を灰にする」などとおどかしたり、政府や警察をそしるビラをまいたりして、極力警察けん制に出たのであるが、警察はこれに応ずる態度を示さなかつたので、彼等もついに攻撃の手をゆるめ漸次引き揚げた。かくして、警察も事件発生以来十日目の四月十六日、ようやく警備態勢をとくことができた。
以上十日間にわかる本事件の警備処理に動員された警察官の数は別表のとおりで、本県としては前例を見ない大事件であつた。この間、彼等の行つた暴力行為に対して日本人六名、朝鮮人二六名、計三二名を公務執行妨害罪、デモ条例違反容疑者として検挙送検し、事件はいずれも高裁または最高裁にいたるまで争われた結果、つぎのとおり判決が確定した。なお、本事件に関連して、本県デモ条例に対する違憲訴訟も行われたがその結果は別項(九二六頁)に見るとおりである。
懲役 実刑の有無 |
一年 |
一年 |
一年 |
十月 |
八月 |
六月 |
五月 |
四月 |
三月 |
計 |
合計 |
||||||||
五万 |
四万 |
三万 |
三万 |
二万 |
二万 |
二万 |
一万 |
二万 |
一万 |
一万 |
二万 |
一万 |
一万 |
一万 |
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実 刑 |
一 |
一 |
一 |
|
四 |
|
二 |
|
二 |
一 |
|
一 |
|
一 |
|
一 |
二 |
一七 |
三二 |
ほかに八日早朝長野県から、警部を長とした一小隊の応援部隊が到着したが、県下の応援部隊到着のため、実際配備につかず当日帰県した。