続々・引揚援護の記録

分類コード:II-03-06-004 

第十章 Ⅰ北朝鮮問題の経緯 1正規引揚げにおける帰還状況

 

『引揚援護の記録』の続編。第十章では、内地在住朝鮮人の送出についての経緯、概観を記載しているが、『引揚援護の記録』が編集、発行された後に行われた、北緯38度以北の北部朝鮮への帰還についての説明を加えている。

著作者:
厚生省援護局
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続々・引揚援護の記録

p277~279

 

    第十章 在日朝鮮人の北朝鮮帰還援護

 

 Ⅰ 北朝鮮帰還問題の経緯

  1 正規引揚げにおける帰還状況

(1)終戦当初の帰国

 終戦直前日本には二○○万近くの朝鮮人が住んでいたことは、内務省の統計に明らかにされている。すなわち、同続計によれば、昭和十九年末における在日朝鮮人の数は一、九三六、八四三人で、そのうち約一〇〇万人は昭和十四年以降に増加している。法務省の資料によれば、一〇〇万人のうち、約七〇万人は自ら日本内地に職を求めてきた個別渡航者と出生による自然増加によるものであり、残りの約三○万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて、自由契約にもとづき内地に渡来したものである。朝鮮に対する国民徴用令の適用は、昭和十九年九月から行なわれ、これにもとづき昭和二十年三月までの間に、いわゆる朝鮮人徴用労務者が日本内地に導入されたが、その数は極く少数であつた。これら朝鮮人の大部分は、終戦直後の大混乱期である昭和二十年八月から翌年の初めにかけて帰国した。

 昭和二十年八月はじめ、約五千人の朝鮮人は空襲を逃れて朝鮮へ疎開帰還するため下関に集結していた状態であつたが、終戦となるや、日本国内各地の朝鮮人は祖国への帰還をいそぎ、関門方面をはじめ西日本の各港へ殺到し、朝鮮から引き揚げてくる日本人をのせた便船の帰り船等を利用して、多数帰還した。一方、これに乗りおくれた者は毎日のごとく関係当局に抗議を行ない、紛争が各地において発生した。

 この間、政府としても、占領軍の指示もあつて、臨時列車の編成、車輌の増結、輸送費の負担、乗船地における援護等、計画輸送による帰還への努力を行ない、集団移入労務者及び復員者を優先的に計画輸送することとし、まず昭和三十年九月初頭には興安丸・徳寿丸が釜山航路に就航した。しかしながら、朝鮮人の帰国熱は輸送計画をうわ廻り、仙崎、博多、下関等に数万の滞留者がでるに至つたので、さらに雲仙丸、白竜丸、長白丸、黄金丸、会寧丸、間宮丸、大隅丸、その他海軍の艦船が、この輸送にあたつた。

 かくて。朝鮮人の帰還は終戦からはじまつて翌年までの問に奔流のごとく行なわれ、昭和二十一年三月末日までに統計上に現われた帰還者数は九一四、三五二人となつている。しかしこのほか現実の渡航者数としては、正規外帰還者約四〇万人を加算すべきことが韓国側の統針によつて推測されるので、合計一三〇万人以上の者がこの間に帰還したものと推定される。

 

(2)登録による正規引揚げ――

 ついで、政府は連合国軍の指令に基づき、昭和二十一年三月十八日、朝鮮人、中国人、台湾省民等の一斉登録を実施し、これにより帰還希望者の数を把握して計画輸送を行なうこととした。これによる登録の結果は次のとおりである。

 

  全在日朝鮮人         六四七、〇〇六人

   右のうち帰還希望者     五一四、〇六〇人

   右のうち北朝鮮帰還希望者    九、七〇一人

 

 この一斉登録の祐果にもとづき、南朝鮮への帰還希望者は博多と仙崎において乗船し、昭和二十一年五月五日以後は毎日四千名を送出し、九月末には帰還希望者全員の送還を終了する予定であつたが、帰還者数は予定人員をはるかに下廻り、出港地へ集まる朝鮮人は予定の十分の一にもみたなかつた。これは、朝鮮での新生活の地盤を確保することの困難なため日本へ密航してきた者から、朝鮮内の実情を聞いて、帰還を思いとどまる朝鮮人が多かつたことによるもののようである。六月から八月にかけては朝鮮国内にコレラの流行と大洪水があり、十月には朝鮮鉄道のストライキがあつて、連合国軍総司令部と日本政府の懸命な努力にもかかわらず、計画帰還による船の運航はたびたびの欠航により、帰還はいよいよ低調となり、十月以後持帰り荷物の制限を大幅にゆるめたが効果なく、三たび期限期日を延期したが、昭和二十一年十二月二十八日までに帰還した者は、博多、仙崎、佐世保を合せて八二、九〇〇名で、三月の希望登録数の一六%にすぎなかつた。

 連合国軍総司令部は、「帰還を希望する者は日本政府が指示する時期に出発しなければならない。さもないと日本政府の費用による帰還の特権は失なわれ、商業輸送の便宜の可能となるまで待たなければならない。」警告し、日本政府もまた、帰国希望者洩れのないよう周知徹底を図り、この機会を逸しては、日本政府の責任と経費による帰国ができなくなることを警告していたのであるが、現実の帰還は低調のまま昭和二十一年十二月終結するに至つた。ここで計画輸送は一応終つたこととなつたが、その後も、帰還希望者は個人的に審査を受けて佐世保引揚援護局から輸送が行なわれ、昭和二十二年から同二十五年までに約一七、〇〇〇人が南朝鮮に帰国した。

 

(3)北朝鮮への帰還と送出引揚援護の終結――

 一方、北朝鮮への帰還は昭和二十一年十二月十九日締結の米ソ協定により、「日本より北朝鮮へ引揚げるものは、かつて北緯三十八度以北に居住し、かつ、同地域で出生した朝鮮人一万人とする」こととされ、さらに連合国軍総司令部は、「日本にいる北朝鮮人一万人以内の引揚げは、一九四六年(昭和二十一年)三月九日から十五日までに実施される。この一万人は北緯三十八度以北の朝鮮に生れたことを条件として、一九四六年三月十八日付で帰国希望を登録した九、七〇一名の朝鮮人及び北朝鮮に生れ、かつ、三月十八日付で登録しなかつたもの、又は、その後に意思を変更した帰国希望者その他の朝鮮人を含む」とし、さらに、「帰国申請者の総数が一万人をこえるときは、そのこえる人数の引揚交渉を得しめるため、一九四七年二月二十八日までに連合国軍最高司令官に通告すること」と発表した。

 しかし、北朝鮮帰国希望者の調査結果は、わずかに一、四一三人であつて、さらに実際に帰還した者は三月十五日大安丸で二三三人、六月二十六日信洋丸で一一八人、合計三五一人が、佐世保から興南に帰還し、北朝鮮への帰還は終了している。

 なお、南朝鮮への帰還の終末については、昭和二十五年五月一日、佐世保引揚援護局が閉局となつたことに伴ない、当時、佐世保に収容されていた帰還者六二七名は新しく送出引揚援護局に指定された舞鶴に移送され、六月二十六日舞鶴からの第一船が釜山むけ出港する予定となつていた。ところが、突然、朝鮮には三十八度線の動乱が勃発し、その出港は中止された。これらの者は連合国軍の指令により帰還をやめて、居住地に帰ることとなり、十月末に至り、全員が舞鶴から居住地へ復帰した。かくて昭和二十五年十一月九日、連合国軍総司令部は、「本日以降非日本人の自発的引揚げは本人の責任である。」むね日本政府に覚書を発し、これに基づき日本政府は、その送出援護業務を終丁した。

 

(4)在日朝鮮人の自己意思による日本残留――

 以上述べたごとく、在日朝鮮人は、日本政府から、「この機会を逸しては日本政府の負担による帰還の特権は失なわれ、将来商業輸送が可能となるまで待たねばならない。」と再三警告を受けており、また帰国希望の登録後において帰国を取止めたものであるから、少教の例外を除いて、「日本政府の負担による帰還の特権を喪失した者」と言えよう。

 当時、連合国軍総司令部としても、在日朝鮮人が朝鮮に帰還するか、日本に残留するかの選択については、全く個人の自由意思に委せる方針をとつたことは確実であり、さらに、ソ連地区に関する米ソ協定においては、北朝鮮への帰国者数を一万名と予定していたにもかかわらず、北朝鮮出身者も日本に残留を希望したのが実態である。ただ南北戦争の勃発によつて、舞鶴の集結を解き、各地に分散復帰し、止むなく帰国を中止した六二七名については、その意思に反して日本に残留を余儀なくされたものと言えるが、その他の約六〇万の在日朝鮮人は、そのすべてが自己意思によつて日本に留まることを選んだものであり、明らかに、日本政府の負担による帰国の特権を自ら放棄喪失したものと言うことができる。