資料・三池争議

分類コード:I-05-02-005_II-03-06-016

発行年:1963年

9-11P、14-17P

所蔵:国立国会図書館

 

多くの鉱山や施設を所有、運営していた三井鉱山の社史。

(9-11P)ここでは、戦争の長期化に伴い召集・現員徴用される労務者が増加し人手不足に陥ったため、朝鮮人・中国人労務者を導入した経緯やその人数などについて統計と内容を記載している。

(14-17P)戦後の朝鮮人・中国人労務者の状況や行動、とくに暴動や暴行について統計と内容を記載している。

著作者:
三井鉱山株式会社
    Page 1
  • Page 2
  • Page 3
  • Page 4
  • Page 5
  • Page 6
  • Page 7
  • Page 8
  • Page 9
  • Page 10
  • Page 11
  • Page 12
  • Page 13
  • Page 14
  • Page 15
  • Page 16
  • Page 17

三井鉱山株式会社『資料・三池争議』(日本経営者団体連盟弘報部 1963)

p9~11

 

 一方、太平洋戦争が進展するにつれて、内地労務者の給源は急激に涸渇し、加えて在籍労務者の軍服務者も増大し、労働力の不足はいよいよ深刻となっていた。この事態に対して、当社においては、一七年頃より、労働力の不足を補うため、朝鮮人労務者の移入に力を注ぎ、さらに不足の分は、勤労報国隊をもって充足し、あるいはまた華人労務者、白人俘虜を利用する方針をとって、辛うじて生産を維持するに努めた。

 すなわち、朝鮮人労務者の内地移入は、すでに、大正五、六年頃のことである。当社でも、大正六年樺太川上炭鉱に約一〇〇名、神岡鉱山に約五〇名を移入したのが、当社における朝鮮人労務者雇用のはじめである。しかし、着山と同時に逃走者続出し、かつ内地人との紛争が絶えなかったため、爾来当社は朝鮮人労務者を採用しない方針をとってきた。しかも、昭和三年以来朝鮮人労務者の内地渡航が制限され、昭和九年には集団移入が禁止となった。その後日支事変の発生に伴い、漸次内地労務者の不足を生じ、一六年解禁となって以来、当社においても各事業所に朝鮮人労務者を集団採用し、労働力の不足を補ってきた。その後、逐次その数を増大し、終戦時においては、これら朝鮮人労務者の在籍数は、当社の石炭関係各事業所計一二、三三八名、金属関係事業所計二、三九五名合計一四、七三三名に達した(第六表参照)。

 これらの朝鮮人労務者の大量採用にもかかわらず、一八年頃よりの労働力不足を充足することができず、政府は労務動員計画要綱にもとづき、華北労工協会と華北労務者の日本移入を契約、厚生省と石炭統制会のあっせんにより華人労務者を使用しうることになったので、当社においても、一八年六月から二〇年一二月までの間、約五、四〇〇名の華人労務者を集団移入し、石炭山・工場において使用し、石炭山においては主として坑内作業に従事せしめた。

 一方、一八年一〇月から二〇年八月までの間、軍のあっせんにより各事業所において外国人俘虜約四、三〇〇名を使用した。

 これらの外国人労務者と内地人労務者の終戦当時の種類別人員数は、第六表に示した通りであるが、これらの複雑な労務構成は、労務管理の面においても、新たな多くの困難な問題を提供したことはいうまでもない。しかも、これら急速に補充せられた労務者は、質的にも低能率者が少なくなかった。ことに、一九年末から二〇年にかけて移入せられた華人労務者の如きは、華北労工協会が鉱山向け労働者としての体質を考慮することなく、単に、員数のみをそろえて日本に送ってきたため、アヘン中毒思者、起居不能者、栄養失調者など鉱山労務者としての不適格者が多かった。

 したがってこのような各種の労働力の補給によって一応必要労働力数の確保ははかられたが、生産は急激な減退をたどるなかで、ついに終戦を迎えることになったのである。

 

p14~17

 

  第一章 労働組合の結成と企業連の発足

   第一節 戦後炭鉱労働力の再編成

    一、朝鮮人、華人労務者の騒動

 二○年八月の終戦直後、当社が当面した労働問題は、戦時中大量に雇入れていた朝鮮人、華人労務者の騒動であった。終戦当時当社が使用していた朝鮮人労務者数は、石炭関係七事業所計一二、三三八名、金属関係七事業所計二、三九五名、華人は石炭関係は新美唄をのぞく六事業所計四、八一一名、金属関係は日比製煉所九九名であった(第八表)。この他外人労務者としては俘虜(石炭山関係三、四二一名、金属関係一、四二八名、三池港務所四五名)もいたが、終戦直後各事業所で諸物資の略奪、会社幹部、従業員への暴行傷害、強迫、器物破壊等の挙に出て、日本人従集員を恐怖におとしいれ、難を避けて休業、離山者を続出せしめたのは、朝鮮人と華人労務者とであった。その騒動がいかにはげしいものであったかは、第九表の石炭山における終戦時の朝鮮人、華人の暴行による損害調査表によっても、その一端がうかがわれよう。このうち特にはげしかった華人の暴行の二、三の例を示してみよう。華人については、会社は契約により雇入れを主張したが、進駐軍はこれを認めず、俘虜と

して扱った。

 三池における華人は、終戦直後、小銃、軽機関銃等の武器をもって武装し、被服、食料、現金等の諸物資を指定の時間内に調達提供することを強要し、あるいは坑内従業員に対し、私的制裁を加える等ほとんど手の施しようのない状態であった。万田、四山、宮浦の炭坑にいた華人の中には国民政府軍系と八路軍系の者がいて、四山と万田でお互い機関銃を撃ちあい、四山の隊長が万田グループの者に殺されるという事件も起こった。二〇年九月一七日連令軍俘虜撤収部隊によって武装解除せられるに至って、ようやくこれらの騒動も下火となった。

 砂川においては、職員、従業員に対する華人の殴打事件がひん発し、ことに労務助手はこれを恐れて、離山者続出というありさまであった。彼らはまた職員社宅や会社のクラブ等にも侵入して職員や従業員を圧迫し、一時は一触即発の状態にもなったが、一〇月一九日室蘭より送還されるに至って収まったのである。

 また、美唄においては、所長の軟禁、衣服、腕時計、万年筆等の強奪(中には数個の腕時計を両腕にはめている者もあった。)、汽車運行妨害.朝鮮人寮長、警察官その他に対する暴行事件がひん発し、労務助手や採炭夫は危険を感じて離山者続出という状況であった.

 ことに美唄における所長軟禁事件においては、警官隊五〇〇名、警防団三五〇名が出動し鎮圧せんとしたがおさまらず、ついに進駐軍によってようやく抑圧できた.すなわち、二○年九月二四日.美唄の華人約一四〇名は、三菱大夕張の寮事務所を襲い、これを制止しようとした局所の華人隊長外一名を殴打して死に至らしめ、警官数名をも重傷を負わせるという暴行殺傷事件を発生せしめた。そこで道庁警察は翌二六日この事件に加わった華人約一〇〇名の一せい検挙を実施した。ところが進駐軍憲兵当局より、道庁警察に対し、「今後かようなことのないよう取り締まるから釈放せよ。それでもなお暴行が続けば日本の警察でどう処理してもよい」という申し出があり、当局は検拳した約一〇〇名をやむなく釈放した.しかるに、釈放後はこれらの軍人はいよいよごう慢となり、略奪、暴行をほしいままに働いた。そして警察に対しては、大検挙の際、華人所有の金銭、被服、靴、時計等多数を紛失したと詐称してその返還を強要していたが、一〇月二日に至って、彼らは華人寮に美唄駐在の警部補を招致し、前記紛失物の即時返還を強要して一晩じゅう寮に軟禁し、翌三日はさらに美唄の所長を軍人寮の隊長室に呼んで、前記物品を会社で別途即時支給することを強要して、同日午前一一時から翌四日午前八時まで二一時間にわたって所長を縛りあげて軟禁し、結局会社、警察双方から、彼らの要求する物品を支給してようやく事態は収まった。

 金属関係事業所では、日比製煉所のみが華人を使用していたが、人数も少数であった関係もあり、終戦直後から一〇月一〇日の送還時までは一応平穏であった。ところが一〇月一〇日、玉港出港出帆予定で乗船せしめてみると、機関の故障で一時下船ということになったところ、旅の恥はかきすてとばかり、これらの華人は各々凶器を携行して示威行動を起こし、町の酒店、菓子店等に侵入して物品を強奪し、通行妨害をする等の挙に出.会社に対しては持帰金の即時現金支払方を強要、会社はやむを得ずこれに応じなければならないという事態をひき起こした。

 以上は特に華人の暴行、略奪の場合の例であるが、比較的長期間作業に従事していた朝鮮人の場合、華人に比して暴行、略奪等の事例は少ないが、各所に朝鮮人による暴行事件も発生していることは第九表からも推測できよう。その表には掲載されていないが、芦別の場合の例を記載しておく。

 第一は芦別の華人と朝鮮人相互の紛争事件である。芦別には終戦当時二、○○○余名の朝鮮人労務者と、約四五〇名の華人労務者がいた(第八表参照)。これらの労務者のうち、朝鮮人労務者は、太平洋戦争の当初より移入せられてすでに、相当熟練工になっていたものも多かったが、会社はこれら朝鮮人労務者のため、戦時中芦別鉱業所近くに特飲店を設け、作業能率優秀なる朝鮮人に都度利用券を手交して利用せしめていた。しかるに終戦となるや、この施設を利用できず、かねて差別待遇に不満をいだいていた華人労務者は、この特飲店に押しかけ利用せしめよと強要したが、朝鮮人に拒否され、これが原因となって二○年九月二二日夜、芦別川をはさんで朝鮮人労務者と華人労務者総出動の月夜の合戦となったのである。石や棒などをもって両軍は二時間余にわたって合戦を続け、遂に両軍とも各一名の死者を出し、各々数十名が負傷した。

 これは、朝鮮人と華人のけんかであったが、朝鮮人同志の死傷事件も発生した。芦別の朝鮮人は朝鮮南部の者が北部の者より多数を占めていた。朝鮮へは北部の者の一部が先に帰還することになり、北部の者たちは残った北部の者が、多数の南部の者たちに虐待されるのを防ぐため、帰還に際して南部の者の主要人物を懲らしめておこうと考え、二○年一二月半ば、町の鍛冶屋に約一、〇〇〇丁の短刀などの刄物を注文し、数日にわたって南部の隊長ら主要人物を探求し、これを山中に捜し出した。そして白昼町の交番前に裸のまま連行して、支所長の目前において、多数でこの隊長を殴殺、他の数人の南部の者に対しても重傷を負わせるという事件が発生した。

 これらは、いわば外人労務者同志の死傷害事件であるが、芦別においても、特に華人による会社に対す金品の不当要求、職員に対する暴行強迫などは少なくなかったのである。

 このような事例は、当社内で発生した朝鮮人、華人による暴行事件のごく少数の例にすぎないが、かかる騒動も.進駐軍当局の指示によって、俘虜の場合と同様、彼らが二○年九月から一二月にかけて(第一〇表参照)、それぞれ終熄をみた。入山時は、毛布一枚を背負って、痩せ衰えていた華人たちが、退山して行くときには、だれもが丸々と見違えるように太り、背には思い思いの大きな略奪品の荷物を重そうにになっていたのが印象的であったという。