引揚援護の記録
分類コード:II-03-06-002_II-03-06-003
発行年:1950年(2000年再版)
第七章 送出援護 1-4
資料27 送出統計(P.85)
終戦後、各港湾に設置され、在外邦人の内地引揚や非日本人(内地在留朝鮮人・台湾人等)の送出・本国帰還などに従事した引揚援護局に関して、その活動をまとめた記録。
- 著作者:
- 引揚援護庁(厚生省)
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引揚援護の記録
p54~62
第七章 送出援護
1 送還方針の決定
昭和二十年八月二十一日、次官会議において強制移入朝鮮人等の徴用解除方針が、まず決定された。終戦による事情の急変と前途に対する不安は、解放された人々を喜びの絶頂に立たせると同時に、帰国をいそがせたのも当然の成行であつた。しかしながら。ただ単に帰国をいそぐだけにとどまらず、立場の変化から全国各地には、不穏な空気がみなぎり特に北九州と北海道においては、暴動がおこるような状態であつた。これらの人々が急速に帰国できるようとりはからうことは、政府として、海外にある同胞を可及的すみやかに故國に帰還させる問題とともに、終戦後当面した緊急問題の一つであつた。政府は昭和二十年九月一日「朝鮮人集団移入労務者等の緊急措置の件」を警保局第三号をもつて、厚生、内務両省から全国地方長官に通ちようし、近く輸送が開始されることを予告し、輸送順位を定め、釜山まではかならず事業主側から引率者がつきそつてゆくべきことなどを指示した。
当時、確実な送出基本数は調査されていなかつた。九月二十五日までに厚生省社会局が計算した「朝鮮出身者であつて帰国を希望する者」の推定数は、九一〇、六三六人であつた。これは昭和十九年末の在住總人口一、九一一、三○七人から同日現在の集団移入労務者数、二四三、五一三人を差引いたものを一般在住者数(一、六六七、七九四人)とみなし、一般在住者の四〇%が帰国を希望する者(六六七、一二三)と推定し、この推定数に加える集団移入労務者数をもつて送出必要基本数としたものである。しかしながら。この数字の基本には、昭和二十年の移入労務者数は加算されていない。(昭和二十年度における移入承認数は五〇、〇〇〇であつた。)それのみならず、基本数字はたとい概数にせよ、帰国希望の有無も各種の条件が附随し。別個の問題として、またはなはだとらえること困難であつた。現に、帰国者の実数は予想数と大きな開きができ、これは送出業務の上に大きな影響をおよぼしている。一方、朝鮮への送還は九月中にはじまつたが、帰国をいそぐ朝鮮出身者は続々下関、北九州方面に集り、輸送能力をこえたため、状況の混乱はますます加わる一方であつた。政府は、九月二十八日さらに「終戦に伴う内地在住朝鮮人及び台湾人の処置に関する応急措置の件」(厚生省発健第一五二号)を通ちようし、旧同胞の帰国に関する応急措置の精神と具体策に関して、くわしく各項につき政府の意図を明らかにし、特に乗船地の援護は引揚民事務所がこれにあたり、輸送中の誘導、休けいその他の援護については、従来それぞれ朝鮮、台湾出身者の指導にあたつてきた「興生会」および「 台湾協会」がこれにあたるなどの方針を再度指示した。これに対して「非日本人」の引揚に関する占領軍側の意向が全面的に決定されたのは、昭和二十年十一月一日であつた。十月二十五日以来、輸送統制のため、地方興生会または事業主が発行にあたつていた「計画輸送証明書」は十一月十三日午前零時からは各地方長官が発行し、各地方鉄道局をブロツクとする大はばの輸送計画をたて輸送人員を割当て、帰鮮者の計画輸送証明制度を強化した。朝鮮出身者のため終戦以来活動してきた中央興生会が解散されたのは十月十五日であつた。このようにして、復員軍人、応徴士、移入集団労務者などの優先輸送は、昭和二十年十二月にはほとんど完了した。
当時、乗船港は仙崎(朝鮮人)博多(朝鮮人及び華北中国人)鹿児島(華中中国人)呉(朝鮮人、華北華中中国人)が指定せられていたが、実際には指令により佐世保、小樽、室蘭、函館、その他も使用された。みぎの指定港の外、昭和二十一年一月、一般送出の開始せられた後は、佐世保、大竹、宇品、名古屋、浦賀、各引揚援護局と横浜援護所がいずれも送出援護業務に当つている。
2 登録制の実施と送出の実績
送出業務の基本数をとらえるため、在日本朝鮮人。中国人、琉球人およぴ台湾省民の登録が、昭和二十一年二月十七日の指令によつて三月十八日に行われた。その結果はつぎのように現われた。
1「朝鮮人」 六四七、〇〇六人 帰還希望者五一四、〇六〇―内北鮮九、七〇一)
2「中華民国人」 一四、九四一人(内帰還希望者二、三七二)
3「台湾省民 一五、九〇六人(内帰還希望者一二、七八四}
4「北緯三〇度以南(口ノ島を含む)の鹿児鳥県およぴ沖縄県民」二〇〇、九四三人(内帰還希望者一四一、三七七)
計 八二八、七九六人(内帰還希望者六七〇、五九三)
この際の全員に対する帰還希望者の百分比は朝鮮人にあつては七九%中華民国人にあつては一六%、台湾省民は八〇%、西南諸鳥は七〇%である。この統計は終戦時における人員概数を推算する一応の基そとすることができる。すなわち、昭和二十一年三月末までの送還者数は、統計に上つたものとしては、朝鮮人九一四、三五二人、中国人四一、一一〇人、台湾省民一八、四六二人、西南諸島民一三、六七五人となつているから、その合計はつぎのようになる。
朝鮮人 一、五六一、三五八人
中国人 五六、〇五一人
台湾省民 三四、三六八人
西南諸島民 二一四、六一八人
しかしながら、朝鮮出身者に関する限り、前にのぺた資料と比較する場合はなはだしくすくない。その間には、登録もれ人員と帰還したもので統計に上らなかつた人々の存在が予想される。法的な基そ数字は昭和二十二年五月二日「外国人登録令」が公布されて、これによることができるようになつたが、昭和二十五年一月現在、在日朝鮮人は四十万の登録外人口を加えて百万と推定されている。朝鮮事情の不安、密貿易などにもとづく密航者の増加は、現在、別個の大きな問題となつているが、引揚開始以来送出の実績統計(昭二四、九、三〇現在)はつぎのとおりである。
【一般送還者】
朝鮮人 一、○一一、二八九人
中国人 四一、七三六人
台湾省民 二四、三九五人
西南諸島民 一八〇、六三三人
ドイツ人 一、九〇三人
イタリー人 一五八人
その他 二四四人
計 一、二六〇、三五八人
【密航送還者】
朝鮮人 三二、九四一人
琉球人 一六〇人
台湾人 二四人
密航者の送還業務は、昭和二十五年三月一日現在佐世保引揚援護局が取扱つている。
3 「方面別」送還の状況
【南西諸島方面への送還】昭和二十一年一月から一般日本在留者の送還に入つたが、一月には、まず南西諸島方面への輸送にあたることになり、九州地区は鹿児島港からそれ以外の地域在住者は浦賀から、それぞれ送還を実施した。ところが、たまたま帰還者中に天然痘が発生し、三月十八日ついにこの送還を停止せられたために、鹿児島地区に集結した同方面向け帰還者の数はいちじるしく大きくなり、鹿児島引揚援護局が中心となつて、鹿児島県においてはこの人々の収容援護のために大わらわの活動をした。引揚援護院からも係官が現場に急行し、鹿児島引揚局の外、鹿児島、宮崎。熊本、長崎、大分の各県に、その人々を分割収容して、応急の援護を依頼し、かろうじて急場をしのぐことができたのであつた。
これら滞留者の数は約六、〇〇〇名に上り、応急援護につとめる一方この送還方について連合国軍に申請これ努めたが、現地受入態勢その他の事情にからんでいれられず、みぎにあげた分県生活援護は、ついに八月送還再開までつづいた。その間、生活援護の資金も十分でなく、また送還時期がはつきりしないため、適切な職業補導も成り立たず、家をたたんで集結したこれらの人々は、予期しない不意の漂泊に、わずかの手持金も消費しつくし、買食いをせざるをえないというような悲痛な数ヶ月を余儀なくした。輸送登録にもとづく計画輸送は昭和二十一年八月十五日再開、同年十二月まで行われた。送還停止から八月十五日送還再開までは一名の送還も行われなかつた。その間、外地から各引揚援護局に引揚げてきた同方面出身の人々も約六、〇〇〇名に達し、これらの人々は、静岡、神奈川、埼玉、東京、千葉、茨城、群馬、三重、各府県の収容所に分割収容された。七月二十四日になつて、連合国軍は沖縄方面からの引揚と呼応し、これらの帰還希望者を佐世保、鹿児島、名古屋、宇品の四港から送還する計画を樹立せよと指令してきた。
その送還計画は関係省の打合会において、直ちに決定せられたが、まず鹿児島引揚援護局その他に収容中の人々と神奈川、静岡、三重、その他に収容援護中の外地からの引揚者が優先輸送された。この送還輸送は極めて好成績で、海陸とも平均八〇―九〇%を下らない状態であつた。しかしながら、九月後半になると、だんだんその数は減少しはじめた。ここにおいて總司令都は、さらに帰還希望者の再調査を命じ、十月一日付調査の結果を十月二十日報告することになつた。その調査の結果は、一二八、二三〇名となつて、昭和二十一年三月十八日付で希望した登録人員より二六、三五三名の増加となつている。
この調査にもとづいて送還期限が十二月二十六日まで延長された。南西諸島民は前述の突発的な特殊事情にあい、あるいは海外からの引揚者なども多く加わり、一般送還者にくらべて生活的に余力のない人々が相当多かつたが、これらに対しては生活用具をはじめ一般物資の特配をするなど帰還の援護につとめ、また帰還者への歓送会、映画会などをもようし、各地方官庁当局としても、できる限りの便宜をはかり、一方地方引揚援護局においても滞留予定一週間あるいは配船の遅延により乗船を待つ数十日の間あらゆる手をのばして援護につくした。この時まで帰還した者は一四二、三三六名である。それ以後はこの計画期間中特殊の事情で帰還できなかつた人々の送還を行つたが、昭和二十四年三月十五日をもつてこの種の送還も終り、現在は個人的に同情すべき事情のあるもののみ米国第八軍の許可をえて南西諸島への旅行が認められている。
【台湾省民、中華民国人の送還】台湾省民、中華民国人の送還は終戦後引揚輸送船の往航を利用して昭和二十一年三月までに多数の人々を送還した。その後の送還は五月五日から十七日までに台湾省民を宇品から同じく十三日までに中国人を舞鶴、佐世保、宇品から行つた。この送還数はわずかに中国人三二四名、台湾省民三、四〇六名であつた。これらの送還も同様一せい調査後、わずか二ヶ月足らずの間に行われ、帰還希望者と帰還者の数に大きなひらきを生じ、宇品のごときはあらかじめ準備しておいた一万名分の野菜などの副食物を腐敗させる結果となつた。この送還中には、宇品において台湾省民の中に同じく天然痘の発生があり、指令によつて、当時集結していた約二千名の台湾省民を二週間隔離し、種痘後免疫を確認したのち乗船させることになり、さらにそれはその後集結する台湾省民全般に適用するとのこととなつたため、宇品引揚援護局はいろいろ困難な立場に立つたものである。
【登録の結果にもとづく朝鮮人計画送還】昭和二十一年四月五日付連合国軍総司令部から三月十八日の登録の結果による計画送還(南西諸島を除く)を開始すべき指令があつた。朝鮮人は四月十五日から九月三十日にわたり、一日当り仙崎一、〇〇〇名、博多三、〇〇〇名ずつ送還するよう命ぜられた。しかし各計画輸送ダイヤにのつて集結したものはわずかに一日平均博多二〇〇ないし二五〇名、仙崎三〇名―五〇名程度で、さらに輸送計画を再編威し、各帰還者に対して携行荷物の便宜や必要物品のあつせん、供与などをはかると同時に、各方面の協力をもとめ、大いに帰還機運のじようせいに力を傾注したが、その結果はいくらもあらわれずに経つた。しかし七月から八月になつて釜山におけるコレラ発生、ついで南鮮の洪水による鉄路破壊などによつて、つぎつぎと朝鮮への送還が停止せられたため、博多における朝鮮人の滞留は六、〇〇〇名を超え、日々外地から引揚げてくる約六、〇〇〇名をあわせて博多引揚援護局は毎日一二、〇〇〇名を突破する引揚者の援護を数十日続けた。
八月送還開始後においては、やや色めいた送還実績をあらわしたが、やはり一日四、〇〇〇名の輸送ダイヤに対して、平均一、〇〇〇名ないし一、五〇〇名程度を出でない状態であつた。
この引揚は、朝鮮における鉄道従業員ゼネスト決行などのため、さらに一時中止となり、当時の低調な帰還気運をいやが上にも一層低下せしめた。たまたま連合国軍から帰還者の持帰り荷物に対する増量が認められ、一人当り二五〇ポンドの家財・器具類を五〇〇ボンドとし、また一人当り四、〇〇〇ポンド又はそれ以上の軽機械、商売道具なども軍政部の許可をえて持帰りを許可されることになつたが、関係者のいろいろの配慮にもかかわらず、予想外に効果がなく、結局、昭和二十一年十二月十五日までこの送還は延期せられた。
【南方原住民と小笠原諸島民の送還】昭和二十一年十月になつて南方原住民の送還が許され、浦賀引揚援護局から二十四名が、それぞれ元南洋群島の島々へ送還せられた。小笠原諸島への送還は終戦以来認められず、この同じ十月に米英系人だけ送還を許され、一二〇名が同じ浦賀から送り出された。
【満洲人とインドネシヤ人の送還】昭和二十一年三月十八日の登録後満洲への送還は行われなかつたが、十月になり帰還を希望した二十八名のものが博多から送還せられた。インドネシヤ人の送還については長くオランダ政府とアメリカ合衆国政府との間に交渉が進められていたが、帰還希望者調査の上、七十六名が神戸港から送還せられ、第二次としてさらに二十二年三月下旬に同港から六十名を送還した。
【ドイツ人等の送還】昭和二十二年一月二十八日浦賀出航の船によつて独逸人を送還すべしという一月十三日付指令は、従前の一般送還の例とおもむきを異にした業務であつた。
第一に、被送還該当者である。これらのドイツ人該当者は旧ナチス党員もしくはそれに類する人々で、強制的帰国を命ぜられたものである。
第二に、送還独逸人の財産管理と引揚業務のすぺてを監視するため「監視司令官」が任命され、監視司令官とその「監視隊」は直接ドイツ人の居住している現地におもむいて、現地軍政部にかかわりなくこの業務を指揮監督し、日本政府は(都、道、府、県)すべての業務をこの司令官の監督並に事務的指導の下に行わなければならなかつた。
第三に、帰還者の携行する財産の持帰り限度を制限し、後置財産については帰還者の一家族あるいは個人に対して、各々一名ずつの財産受理人 選び、送還業務の完全に終わるまで指令に定められたいろいろの任務に服せしめなければならなかつた。
第四に、送還前に検疫その他の医療並びに衛生上の処置を実施しなければならなかつた。
第五は、これら独逸人送還に要する資材、検疫その他すべての経費を負担しなければならなかつたことである。
第六に、浦賀引揚援護局においては特に一ヶ月を費して特殊な宿泊、給与その他の援護設備をした。この一、〇六九名の独逸人送還に要した経費は、合計約六百万円である。このようにして。ドイツ人とオーストリヤ人は終始熱心な係官の歓送に感激の言葉を残して、二月十五日マリンジヤンパー号で、懐しい祖国欧洲へ引揚げていつた。
各関係庁係官は、現地に送還前後を通ずる二ヶ月間、特に事務所を設けしかも昼夜を通じ、雪の中にも困難な引揚援護業務にあたつた。ドイツ人の第二次送還は同じく二十二年八月、八〇七名、第三次送還は昭和二十三年三月、二十七名を横浜援護所からも行つている。第三次は羽田から航空機によつて帰つた。
【北鮮への送還】終戦以来、北緯三十八度以北の北鮮はソ連の管理地域となり、この地区からの日本人引揚は国際的な協定に達せず、この地区への送還も延期せられていたが、昭和二十二年一月になり、三月初旬引揚を開始するという連絡指示かあり、帰還希望者を一月末調査したが、二十一年三月十八日帰還登録数九、〇七一名にくらぺて.わずかに一、四一三名で、三月十五日大安丸によつて佐世保から帰還したものは、さらに下つて、わずかに二二四名にすぎなかつた。
【イタリー人の送還】昭和二十二年二月十九日付連合国軍指令によつてイタリー人一三〇名が浦賀から送還されたが。この独伊人送還が完了後、浦賀引揚援護局は閉局となつた。
4 送出援護の一面
送出援護には、敗戦日本の立場や輸送上の諸問題など、さまざまの条件がかさなりあい、いいつくせない多くの困難があつた。北海道から釜山あるいは仙崎まで、援護のためつきそつていつた人々の苦心談や各送出援護局での事件には、地方引揚援護局員の大きな努力の事実がかくされている。特に、密航者の送出については、格別の苦心があつた。佐世保引揚援護局において、一局員は、送出援護の一そう話をつぎのようにつづつている。
『朝鮮、南西諸島への送出作業に従事していると、いろいろ予想していなかつた出来事にぶつかる。とに角「非日本人」として取扱わねばならぬ。これら送還者には十分注意はしていたが、血の気の多い若い勤務員は、その感情をおさえるのにかなり努力を要し、時には年輩の勤務員の応援を求むる場面もあつて、今から考えると笑話になる事件も少くなかつた。』
【かえ玉】朝鮮への帰国者は多数の場合は、局から南風崎駅までトラツクを出して、まとまつてきてもらつていた。そこで門では、帰還証明書と本人とを照合して、不備不審がなければ送出係に通すのだが、チョイチョイ替え玉が入りこんで、笑うことも怒ることもできないことが起る。替え玉というのは、――
帰国の意志を放棄したものから帰還証明書を買い取つてそれで入局を企てることである。門での首実験の際、倒えぱ「李」さんと呼んでも返事がないからオミツトして手続をすますと、最後に一人「自分の姓名を呼ばれない」といつて文句をいつてくる。よく調ぺてみると、これがいわゆる替え玉で、本人は「金」という者であることが判然とする。つまり自己の本名だけをうつかり待つていたので化の皮がはげた訳である。
又ある者は証明書の年齢と本人とは、どう見ても十年以上の開きがある。最初は日本の役所の間違と称してつつぱるのだが、だんだんとしつぽが出て、終りには替え玉だつたことを白状して引き返す。後には写真付の居住証明書を持参することになつたから、ほとんどこうした不正入局はなくなつたが、これとは反対に日本の官庁の手落ちで門の勤務員が苦しめられた話――。
帰国証明書は、居住地の市長村長を経て、県知事の証明が絶対条件となつているが、どうした手違いか、往々県知事の証明がなかつたり、市町村長の裏付が無いものを持参する。よく調べてみると、日本側官庁の完全な手落ちであることが判然とする。そうなると、迷惑するのは当方で、書類の不備をよく説明して、気の毒ながら引返して補正してもらうよう頼むわけだが、相手は日本官庁の手落ちをくりかえし、くりかえしのベ――、
『居住地はすつかり整理してきたし、たちもどる金もない。旅費日当一切を、援護局は政府の出先機関として、たてかえるべきであり、そうやつてくれるのが義務と思うが、しかし、だんな、昨日まで同じ日本人としてお互いに生きてきたのだから、そこを何とか…………』
などと、辛く甘くやられるには、ほとほと参つたものだつた。
【外出】送還者の外出は、進駐軍の命によつて、原則的に禁じられていたが、荷物調査とか、病院通いとか、真に止むをえない理由がある場合は、進駐軍の内意をえて、局長責任の下に団体外出(責任者引率)を一日一回ずつ許可されていた。出門するときは型の通り列を組んで、点検支障なく出てもらうが、帰局の時が一波乱おこすことが毎日のごとくで、これには勤務員は全く泣かされた。
つまり、個人々々の用件によつて.その所要時間がまちまちのため、帰りの集合が指定時間に終らず、門では、団体総員集結が完了しなければ、点検入局を取扱わないとの取り決めで、早く帰つた人から門附近に待つてもらうのだが、夏の真盛りなどに二時間も、三時間も待たされたのでは全くたまつたものでない。そこでおくれて来た者と口論、つかみ合い、なぐりあいなどの内輪けんかがはじまり、その仲裁役に入つて運が悪いと、とんだそぱづえを食つたことも度々で、規則どおりの仕事をすると、うらまれたり、どやされたり、といつて、一寸手加減しようものなら、でたらめな行動をとられがちだし、人知れぬ苦労を味つた。
【感激】たしか昭和二十二年七月中旬のお盆前であつた。当時九号宿舎に帰国待機中の朝鮮班の団長某氏がたずねてこられた。
「いよいよ明後日出帆することになりました。本当に長い間、皆様にはいろいろと迷惑のみかけました。実は、団員一同、何とか御礼をしたいと話合い、明日は御盆でもあるし、朝鮮の故郷でも、この日はお祭や会食など盛大な催しをする習慣があるから、正門の皆様を招待してとも考えたが、出発間際で多忙でもあり材料も揃わないから、残念ながら取止めて、真に失礼とは思うが、ここに果物と煙草をもつてきたから、どうかお納め下さい。」
何ともいえない感激がこみあげ、思わず差出す彼の手と堅く握手し、途中の安全を祈つて別れたが、今日でも胸の熱くなる思出である。
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27 送出統計
(1)一般日本在住者送出(昭二五・二・一現在)
中国人 三一、七六七
台湾省民 三四、一四四
朝鮮人
北緯三八度以北 三五一
北緯三八度以南 九四三、六九一
南洋原住民 一八八
西南諸島民 一八〇、四一三
計 一、一九〇、五五三
(2)外地在住者引揚(昭二四・四・一現在)
濠州地区 台湾省民 六、五八四
朝鮮人 三、〇五一
中国 朝鮮人 五八、九二四
関東州 中国人 二
朝鮮人 二
台湾 朝鮮人 三、四四九
琉球人 一七、〇四八
ハワイ 中国人 一一
台湾人 二五
朝鮮人 二、六四七
琉球人 二、三二二
香港 台湾人 二、八〇〇
朝鮮人 三〇二
樺太・千島 朝鮮人 五五
北鮮 台湾人 一二
琉球人 四二
南鮮 中国人 一、五五九
台湾人 九一
琉球人 二七四
満洲 朝鮮人 一一、六〇九
蘭印 台湾人 八二
朝鮮人 四五四
南方原住民 六
北仏印 台湾人 一五
朝鮮人 一二〇
太平洋地区 中国人 一四六
台湾人 五七八
朝鮮人 一四、〇一四
琉球人 二六、〇○四
比島 中国人 五、九九三
台湾人 一一、九九八
朝鮮人 一、四〇八
琉球諸島 台湾人 ニ一
朝鮮人 一.七五七
シベリヤ地区 台湾人 四
朝鮮人 一五〇
東南アジヤ地区 台湾人 一七、九八四
朝鮮人 七、四〇一
琉球人 一二二
計 一九九、〇六六