朝鮮人坑夫はいつから犠牲者になったのか-100年の軌跡
分類コード:I-01-04-001_I-02-04-001_I-03-04-001_I-04-04-001_II-01-04-001
発表年:2017年
戦前~戦後の主に新聞記事、様々な書籍の記述を解説。
- 著作者:
- 鄭大均
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朝鮮人坑夫はいつから犠牲者になったのか--100年の軌跡
鄭大均(首都大学東京名誉教授)
Ⅰ 戦前の日刊紙の記述
戦時期に炭坑で働いていた朝鮮人坑夫が、近年「強制連行」や「強制労働」の「犠牲者」として描かれることが多い。その傾向がとりわけ顕著なのは韓国で、最近、刊行された尹ムニョン『軍艦島――恥ずかしい世界文化遺産』(ウリ教育、2016年)という童話には次のような記述がある。慰安婦「少女像」時代の「朝鮮人坑夫像」である。
1『軍艦島――恥ずかしい世界文化遺産』
「戦争を引き起こして狂気の沙汰であった日本は、朝鮮半島から幼い少年たちまで強制的に日本に連行したのです。…目的地も告げられずソェドリが連れて行かれた場所は、まさに地獄の島「軍艦島」でした。幼い少年たちは地下千メートルにまで降りて、日本が戦争の資源として使う石炭を掘らなければならなかったのです。四十五度を超える蒸し風呂のような暑さのなかに閉じ込めて、小さいおにぎりだけを与えて、毎日十二時間も働かせました」
ここに描かれた少年と、韓国政府がいう「強制労役者」との間にはどのような違いがあるのか。「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録を阻止すべく、韓国外務省真相究明委員会が作成した「奪われし国 連れ去られし人々」と題する英文冊子の記述の例。
2「奪われし国 連れ去られし人々」(Stolen Country, Abducted People)
戦時期の国家総動員体制の中、人々は物資同様、資源のように扱われた。日本は労働力不足を「植民地朝鮮」から補充し、多くの朝鮮人を軍需産業や稲作農業の拡充のために強制動員した。彼らは「募集」「官斡旋」「徴用令」「勤労報国隊」等、各種の方式で動員され、動員先は広く、朝鮮北部の工業地帯、日本、満州、中国、南太平洋地域に及んだ。
朝鮮人は日本人労働者が嫌う、危険で生命を脅かすような仕事に配属され、民族差別や劣悪な労働条件に苦しまねばならなかった。朝鮮人労働者は、到底耐えられないような環境下で働いたにもかかわらず、正規の収入から強制貯金が課され、日本はそれをいまだ清算していない。
写真 葬儀時、日本の筑豊炭鉱にさらわれた労働者の胸から見つかった家族写真
坑内で、仰向けになりながら、つるはしで石炭を掘る朝鮮人坑夫
日本人役人が役場前に集まった朝鮮人に「徴用」に応じるよう勧めている場面
被害者としての「痛々しさ」が伝わる1の「幼い少年たち」が印象的。しかし1も2も「邪悪な国・日本」を表象するもの。「邪悪な国・日本」は普通「日帝」と呼ばれるが、今日、韓国で語られる「日帝」の物語は、韓国人の心の中にある「影」が投射されたもので、日本の「悪」や「否定性」が誇張され過ぎている。これは通常の日本体験から生まれた日本像ではない。
しかし、韓国においても、朝鮮人坑夫が以前から「無垢な犠牲者」として描かれていたわけではない。ここではまず、戦前の主には朝鮮で刊行された新聞記事(民族紙・御用紙)を資料に、当時の「内地」で働く朝鮮人坑夫がどのように描かれていたのかを概観し、後半では、戦後の日本や韓国で刊行された単行本を主要な資料に、戦前の朝鮮人坑夫が回顧的にどのように描かれてきたのかを概観し、1や2の言説が韓国に生まれるようになる経緯を確認したい。まずは端島炭坑を含む長崎沖の炭坑の朝鮮人坑夫について、朝鮮紙が言及したおそらく最初の大型記事の例。
3「長崎付近の朝鮮村」(『東亜日報』1922年6月8日付)
朝鮮人労働者を500余人も使用するという三菱炭鉱会社の現況に触れてみようと、ある日の午後、記者は長崎市の高島村に向かった。船に乗り、朝鮮の単位で約50里[1里は400m]進んだところに見えてきたのは、樹木が生い茂る島の炭鉱の煙突からもくもくと立ち上がる煙である。ここには朝鮮人が170名ほど住んでいるが、彼らは皆、社宅に入っているため住宅の問題で困ることはない。一日しっかり働けば2円の給料を受けとるが、食事は会社で準備するものを実費40銭出して食べればよいし、衣服は労働者なので大した出費にはならない。本人さえしっかりしていれば、お金を貯めることもできるので、ここに来て2、3年で500~600円を貯め、故郷に送った者もいるという。妻子を連れてきた労働者の中には、その息子たちを現在、尋常小学校に入学させているが、成績がとてもよく、特に語学の才能があって、10歳そこそこの子供なのに、流暢な日本語でお母さんの通訳する子供もいる。
高島村からもう少し先に行くと二子島という島がある。ここにも朝鮮人坑夫が200名近くいるが、生活水準は先に記した高島村と変わらない。ここからさらに朝鮮の単位で10里ほど離れたところに、総坪数が1万坪程の小さな島がある。端島という島だ。ここにも朝鮮人が180人ほど住んでいるが、昼には深さ100尋(ひろ)余り[尋は両手を左右にのばした長さ]もある石炭洞窟の中で仕事をし、夜には社宅に帰って寝る生活だ。彼らの中には社宅から離れて暮らす家庭も何軒かあり、ここではなんと朝鮮のチマ・チョゴリを来た朝鮮人婦人が食事の支度をしている。(男たちはといえば)、昼は300尺[90.9m]にもなる深い洞穴の中で危険な石炭採掘の仕事をし、夜は広大な海の寂しげな波の音を聞きながら過ごす。
故郷を離れて暮らす彼らの胸中や如何? 炭坑で働く人に聞いてみた。他郷で暮らす歳月は耐え難いというが、われわれにとっては、なんでこんなに歳月が過ぎるのが早いのかと思う。朝鮮からやって来たのが数日前だったような気がするのに、いつの間にか6年にもなった。朝鮮もおそらくずいぶん変わったでしょう。学校もたくさんできたし、学生が多くなったでしょう? 時々故郷からくる友達の手紙をみると、本当にうれしい知らせが多い。ここでは、自分が頑張って仕事をしさえすれば、食べる心配もなく、朝鮮にいたときには、警察官による虐待が我慢できなかったのに、ここではそんなことはない。子供たちは皆、尋常小学校に送っているから日本語はうまいが、朝鮮語ができないので、家ではなるべく朝鮮語を使うようにしています。一日2円稼ぐ人は、石炭穴倉の中に入って仕事をしている人です、外で働いている人は1円20~30銭しか稼げません。
ここに来ている人は、慶尚南北道出身者が一番多く、その次は全羅南北道出身者、その次が忠清道出身者で、京畿道出身者はほとんどいません。ここでは数百円のお金を貯めると、故郷に帰る人が多いという。生活が困難であるために来たとしても、昼のあいだ土窟の中で働き、夜のあいだ、寂しげに繰り返す波の音を聞きながら、過ぎ去った日々を思いだす彼らの顔には、一言では形容しがたい物悲しい光が宿っていた。
以下、計画動員が始まる以前の20~30年代の朝鮮紙に現れた朝鮮人労働者の記事の例。公的言説に「邪悪な国・日本」や朝鮮人の「犠牲者性」が語られた例はあるのか。
4「朝鮮水害義金」((『釜山日報』1925年9月2日付、日本語紙)
長崎県高島炭坑に従事している鮮人同胞より、朝鮮水害に義捐し、来れる434円の配出諸氏名(略)。
5「90余名密航団出発するも発見」(『東亜日報』1932年5月5日号)
釜山凡一洞、李鐘九、郭慶学、徐點淑、李基守他四名は共謀し、労働者83名を集め、一人から12円ずつを受けとり、去る一日夜、東萊郡沙下面甘川里海岸から二隻の発動船で日本に密航しようとしたところ、水産警察署員に発覚した。首謀者8人は取調べ中であるが、83名から受けとった料金900余円はすでに使われている。被害者たちは行くこともできず、帰ることもできず、警察署前で声をあげて泣いているという。
6「堤を切って殺到」(『釜山日報』1934年3月7日付)
満員、満員で連絡船の満腹時代が出現し、鉄道省釜山営業所は大ホクホクの状態である。旧正月を故郷に送った帰還朝鮮人群の内地再渡航者はこの四日、五日前よりにわかに激増、毎夜釜山出航の連絡船一隻では到底間に合わず、五日夜の如きは約三百名が積み残され、貨物便昌慶丸で漸く内地に向かったが、この状態はなお一両日続く模様であり、第一桟橋は大混雑を極めている。
7「燃え上がる火炎のなか坑内生埋め44人 福岡県吉隅炭鉱惨事 朝鮮人35名」((『毎日新報』1936年1月27日付)
25日11時頃、福岡県嘉穂郡桂川村吉隅炭坑内、■■休憩所東側坑から約40間付近で火災が発生。当時入坑中の坑夫86人中、42人が火災で坑外に避難したが、火災現場で下の坑内にいた44人は火災の熱気と通路の遮断で、生死不明である。この中には朝鮮人鉱夫35人が含まれているという。坑内では火災箇所をただちに密閉、作業にとりかかると同時に、坑内深くに入坑している44人に風を送り、その救助に全力をつくしているところであるが、26日午前9時までには、まだ救助されていない模様。原因はただいま、飯塚署で浦野主任以下多数警官が現場に急行し調査中という[「麻生吉隈坑内火災 死者29人、負傷者2人、ほとんどが朝鮮人坑夫である」(『筑豊石炭鉱業史年表』385頁]
文字通り、朝鮮人被害者と日本人加害者が記されている記事もある。
8「異域辛苦の積立金 帰郷途中に紛失 連絡船内で失い騒動 犯人は意外にも船員」(『毎日新報』1936年6月18日付)
本籍、全羅南道高興郡高興面、朴ソンベク(22)は数年前内地に渡航、福岡県飯塚炭坑で炭鉱夫として働いたという。長い間、異域の空の下で懐かしい故郷の老いた父母のために勤勉貯蓄しながら集めた金、50余円を持ち、16日朝、釜山入港の釜博連絡船、第二長宝丸で到着、上陸のため旅装を解こうとすると、意外にも懐中に入れていた現金が誰かに窃取され、なくなっていることに気づき、驚き、顔色が青ざめた。
上陸すると早速、所管の水上派出所に急報。同所では即時犯人捜査に尽力し、長宝丸の船員水木京一(29)を逮捕。取り調べの結果、とうとう犯行を自白したという。罪は相当なものになる模様で、ただ今、取り調べを続けている。
Ⅱ 労務動員の時代
1939年、政府は国民総動員計画を樹立、石炭、鉱山、土建等、日本の重要産業部門への朝鮮人労働者の動員を決定。戦時期の国家意思にもとづく集団的、計画的動員であり、「自由募集」による動員の時期(1939年9月~1942年1月)、「官斡旋」による動員の時期(1942年2月~1944年8月)、「国民徴用令」による動員の時期(1944年9月~終戦)の三段階を経て、終戦までに66万7684人の朝鮮人労働者が内地に「移入」された(「朝鮮人集団移入状況調」厚生省勤労局、1945年9月)。そんな時期のメディアに現れた記事である。
9「北九州行労働者 28日高興から多数出発」(『東亜日報』1939年11月30日)
全羅南道高興からも労働者多数を募集、北九州の炭鉱に行くことになっていて、当地では、引率者が引率し、去る28日に故郷を離れ、労働現場に向かって出発したが、送るものと往くものの送別で、一時、町が混雑した。
10「人的資源払底に優良半島人を採用す」(『長崎日日新聞』1939年12月9日付)
燃料国策線にそって県下の炭坑方面は労務者を総動員して生産力の拡充に驀進しているが、人的資源の払底による労働力の不足は、所期の生産成績をあげるにいささか困難な立場に置かれて、これが難局切り抜け策は各炭坑当業者の共通した悩みであった。しかしいかに「労務者ヤーイ」の声を大にして募集に大童(おおわらわ)になっても、すでに各地とも余剰労力はなく、炭坑方面の労務者不足はいつ解消する? この問題につき、当局では種々対策を進めていたが、結局、内鮮融和の建前から、この際、半島人を移入することになり、11月下旬から確実な青年層をどしどし内地へ渡航させているが、今日まですでに1500名に達し、それぞれ、長崎紹介所の斡旋により、北松炭田各所を始めとして、西彼城戸、端島、高島等の各炭坑方面の労務者不足もやや緩和され、ようやく愁眉を開くに至った。
11「昌寧労働者多数貝島鉱山へ出発」(『東亜日報』1939年12月14日付)
慶南昌寧郡からは少し前、多くの農業労働者を日鉄鉱山に斡旋し送ったが、去る12月11日、今度は多くを貝島鉱山に送ることになった。突然訪れた寒波のなか、一行は郡守、署長の訓示を順に聞いた後、2、30里外から見送りのため出発地までついてきた年老いた両親や若い妻子たちの涙を振り切り、数台の貨物自動車に乗り、痛ましく発ったという。
12「居昌労働者多数 内地鉱業地帯に向け出発」(『東亜日報』1940年2月17日付)
慶尚南道居昌では、北朝鮮をはじめ、満州や日本に行く労働者が増えている昨今、今度は日本内地から直接人が来て、労働者多数を募集。去る13日から三日間は、各所鉱業地帯に出発するというので、指定された某写真館と理髪業者の景気がとても良いというが、農作業に従事するものが不足するのが心配という。
朝鮮人坑夫を迎え入れる日本側の記事もある。
13「故郷の妻子に送金 美はしい半島人の心意気」(『北海タイムス』1939年11月25日)
半島人は可愛いものよ。半島人が炭鉱(やま)へ入って、よかれ悪しかれ山は賑やかになった。半島人は狡(ずる)いなどという者は先入観念があったからで、二、三の物議は醸したが、その根を洗えば、他愛のないものであった。今は温和(おとな)しく皆よく働いている。朝陽を浴び半島人の一隊が国防服リュックに身を固め坑口へ急ぐ颯爽たる姿を見ると……どうしてなかなか立派な産業戦士である。
上砂川の飯場は町端(はず)れの第二奥■親和寮がそれだ。記者が訪れると、皆坑内へ入って、数名の炊事当番が湯を沸かしたり、大根を漬けたりしていた。何しろナンバンとニンニクがないと、食事ができない連中で、炭鉱ではこれを買い集めるのに腐心している。弁当のお菜には赤ナンバンの太いのを二本ずつつけるが、そのままボリボリやってしまう。大根漬けなどはナンバン粉で赤くなっているのを平気で食べている。
ところがニンニクは坑内では臭くて困るから、一緒に働くのは嫌だと内地人坑夫から会社に抗議が出た。会社でその旨を伝えると、代表者が吾々も日本国民です。これから日本の内地の人たちと一緒になって働いて行かねばならんのですから、ニンニクは断然止めますと誓って健気なところを見せた。
一方には朝鮮人坑夫たちの入坑拒否や罷業を伝えるニュースもある。
14「最初の話と違う 入坑を忌避する」(『旭川新聞』1939年11月1日付)
本道炭鉱労務者の人的資源充足に一役買って出た半島人は十月上旬から空知各炭鉱に順次入山中にて、その就業成績は炭鉱当局はもちろん道庁職業課ならびに各職業紹介所から注目の的となっていた所、本月中旬から、三菱美唄鉱業所に入山の約三百名は入山後、竪坑鉱務所扱いの下に一番形、二番形の二団に分かれ入坑就業中の所、三十一日午前六時、突如一番形入坑の百五十名は入坑を忌避し、午前中入坑の模様なくこれに狼狽した会社側では、極力入坑せしむべく一番形責任者と懇談中である。原因は約束の賃金支払いを拒否せるためらしく、二番形入坑者百五十名も同一歩調に出るものとみられ、一般従業員から注目されている。
15「移民たち帰郷希望 面当局に呼訴状送る」(『東亜日報』1939年12月10日付)
[河東]去る10日頃、河東地方では軍警斡旋で労働者多数が福島県盤城炭鉱株式会社に向かい出発したところ、やがて脱走するものがあったという。今回、特に岳陽面当局に岳陽番員20余人一同が募集当時規定と現在の労働時間、賃金、待遇問題その他いくつかの点で、多くの相違があるのはもちろんのこと、到底耐えることができないので、帰郷させてくれという涙の呼訴状が送られてきたという。
しかし労務動員の時期は、「内地密航」の時期でもあった。
16「増大する密航ブローカー」(『東亜日報』1940年1月13日付)
今日、釜山埠頭を中心に活躍する密航ブローカーたちの奸計百態の連絡網を明らかにすると、密航ブローカーには、本ブローカー、直属ブローカー、地方ブローカーの三種があって、地方ブローカーは、地方で農民たちをそそのかし、釜山まで巧妙に誘い出す者、直属ブローカーは、その集めた連中を、彼らの細胞ブローカーたちの天幕に集め、渡航に必要な人数にそろえる者であり、密航者が一定数になったとき、密航船を手配し、密航させるのが本ブローカーである。密航者から受けとる密航費二〇~三〇円をどのように分配するのかというと、まず、地方ブローカーが、密航者からいくら受けとったかに関係なく、直属ブローカーに一人当たり十五円ずつの仲介を渡し、直属ブローカーは本ブローカーに八円ずつを渡すのが最近の釜山の相場である。
だから、釜山地域に住む者が密航するときには、地方ブローカーを経ることなく、十五円を直属ブローカーの手に渡せばよい。密航船の出発地点を知ることができるなら、天幕に一緒に隠れていて、船に乗るとき、本ブローカーに八円払えば、密航できるが、潜伏先を探すのは難しいので、直属ブローカーを経ずしての密航は容易でないという。
17「密航ブローカー逮捕」(『東亜日報』1940年1月30日付)
本籍を慶北金泉郡甘文面西九野洞におき、福岡県達[遠]賀郡香月町で古物商を営む李台雨(39)は故郷を訪問、近隣の村を歩きまわりながら、日本内地に行きたいが、渡航証明書なしには行けないという村民に、自分が渡航させてやると話をもちかけ、一人当たり九円から数十円の現金を搾取したことが発覚、犯人は金泉警察に留置、取り調べ中である。被害者は……全栓赫他数名で、被害額は相当なものになる模様。
18「密航ブローカー500余人依然各地で蠢動」(『東亜日報』1940年3月10日付)
密航事件は釜山の特殊犯罪を形成し、社会の世論が湧きたっているが、密航ブローカーたちは、釜山三署が把握しているだけでも、実に五百余名にのぼり、彼らが作り出した犯罪は去年一年間に、検挙件数五百件、人員が五万人ほどで、被害総額は実に二十万円を突破するという。
19「密航ブローカー逮捕 木浦署で厳重取調べ中」(『東亜日報』1940年5月19日付)
全羅北道一帯を中心にする内地渡航ブローカーが木浦署員に発覚、逮捕されたが、関係者の話では、その者は印刷所に印刷物を頼み、渡航証明書の公印のある公文を作成、数百人が被害に会い、被害総額は約三千円になるという。共犯もいる模様(後略)。[東亜日報は1940年8月以降廃刊]
日本への出稼ぎを誘因するような記事もある
20「朝鮮人鉱夫に特別の優遇設備」(『大阪朝日・中鮮版』1940年4月21日付)
福岡県遠賀郡水巻町の日産鉱業所では石炭増産の一方策として多数の朝鮮人鉱夫を採用し、彼らのために特別の社宅、アパートなどを新築して優遇、殊に南鮮旱害地から醇朴な出稼者たちのために建設された第一、第二尚慶寮の如きは入寮者一同まるで旅先の旅館にでも泊まっている気持ちらしく、その行き届いた諸設備にすっかり感激している。■春の静かな夕暮れに一日の坑内作業を終えた同僚の鉱夫たちは、郷里の生家では思いもよらぬ大浴場の満々たる温湯に浸りながら玄海の彼方に瞳をはせて、遥かに故郷の肉親たちを偲んでいるという。
21「朝鮮人鉱夫の物凄い稼ぎ高」(『大阪朝日・南鮮版』1940年5月8日付)
稼ぐよ朝鮮人鉱夫たちは、まるで馬車馬のように。若松市外水巻町の日産遠賀第二高松炭鉱にさる三月から働いている朝鮮人鉱夫約四百名は、同鉱業所の三頭訓練所に収容され、毎日毎日各自の持ち場を完全にまもり、採炭報国に血のにじむ活動を続けているが、この四百人が三、四両月に郷里に送金した総額は実に一万七千円、本月末までには優に二万五千円を突破する見込みというから物凄い。しかもこのほかに郵便貯金が現在一万二、三千円あり、会社への義務貯金が五千円を遥かに超えているとのことで、その勤倹(きんけん)力行(りっこう)ぶりは全く内地人鉱夫たちの範とするに足るといわれ、今後の石炭増産に彼らの演ずる役割は重大なものがあろう。
民族紙に、総督府関係者の発言が紹介されることもある。
22「内地在住半島人素質漸次向上 日野京畿道社会課長談」(『東亜日報』1940年4月5日付)
厚生省中央協和会では去る13日から南部朝鮮七道高等警察関係者及び社会課関係者17名を招待し、内地各地の半島人の生活状態を視察させたが、一行は予定通り視察をし、去る31日、それぞれ帰任した。団長として出席した日野京畿道社会課長は語る。
現在内地にいる半島人は90万人[実際には約120万人]で、十年前昭和6年の31万人に比べると、三倍ほどに増加した。その90万人中、国語を解するものが40万人、解しないものが50万人であり、生活上、多大な不便を感じているため、なによりも国語を普及させることが喫緊の課題である。
精神指導においては、多年の努力の結果、十年前には100人あたり犯罪件数が11人だったのが、今日では4人に減少し、渡航者は増加したが、犯罪は日を追って減少していることがなによりもうれしい。内地各地工場では半島人労働者を大歓迎しているが、これら労働者を指導する中堅青年が少ないために、朝鮮内で右指導者を養成する機関を設置しようと考えている。すでに内地神奈川県では半島人労働者修練道場を設け、指導していて多大の効果をあげている。
また愛国の熱誠が昂揚し、事変後25万円という巨額を献金しており、各所で美談が続出している模様だ。創氏問題には多大な関心をもっているようだが、手続きが複雑で日本から朝鮮に帰来しないとだめな模様で、その手続き簡便化を考えないとだめだと思う。
端島の朝鮮人坑夫が故郷に旱害救済金を送ったという記事
23「内地に行った労働者が旱害救済金」(『東亜日報』1940年6月19日付)
[晋州]昨年12月末頃、長崎県三菱高島鉱業所端島炭坑に、人夫として募集され、行った晋州出生一同から、旱害救済事業費の一助にと、去る17日、晋州府庁に金50円が送られてきた。■■■■勤倹貯蓄して送ったもので、その熱い情に人々は感激してやまないという。
端島炭坑のルポルタージュ記事もある。
24「ゆめ思うな〝炭坑地獄〟来て見て驚く科学の粋」(『長崎日日新聞』1941年2月28日付)
石炭増産の挺身隊として鋤を鶴嘴(つるはし)に替え、遠く陽の目も及ばぬ地下に潜って、黙々と国策に協力している農閑期勤労奉仕隊員の声を聞くため、記者は一日、端島を訪れた――東支那海の波洗う港長崎の港外に夢のごとく浮かんでいる軍艦に似た黒ダイヤの島、正確にいえば、西彼杵郡高浜村の端島である。面積はいたって小さいが、人口の稠密度は東京深川の四倍で、正に世界一、しかもこの島全部が世界の科学の粋でなっているのだから、吃驚させられる。……長崎の大波止(おおはと)から船にゆられて約一時間半、やっと着いて先ず驚くのが堂々たる鉄筋コンクリートの建物で、四階、五階はザラにあるが、地上九階の日本一が屹然(きつぜん)とそびえている。
長い隧(すい)道(どう)の歩道を通って島の中央にある端島神社に詣で一休みの後、兵庫坑長の案内で身支度甲斐甲斐しく採炭の現場に出かける。竪坑(たてこう)二千尺、五十人乗りのエレベーターに身を託して地底へ地底へ…秒速四十尺の勢いで降下しているのだが、金に糸目をつけず作ってあるためか、全然エレベーターに乗っているような感はしない。ただ途中、耳の具合が変になって、初めて感じるようなものだ。降り立った二千尺の地底、幾分しめり気はあるが、昼のように電気がともされて流線型の電車が幾十という炭車をひっぱって物凄い勢いで走っている。頭の上には魚が泳いでいますよと坑長からいわれてハッと二千尺の地下にあることを知った。長い坑道を物珍しく見物して採炭の現場につく。炭坑といえば、鶴嘴を思いだすが、時代はそんな悠長なことでは間に合わぬらしく、ビックと呼ぶ電気仕掛けの採炭器でどしどし掘り崩している。一見簡単の様だが、崩れが来ないように採炭せねばならないのだから、相当技術を要するらしい。これは掘進夫の仕事だ。このほかに炭車へ炭をつぎ込む者、採炭した後を充填する者、坑道をつくる者、炭車をはこぶもの流石にここまで来れば、炭坑労務者の苦労がわかる様な気がする。しかし労務者達は真黒くなって黙々と与えられた仕事に精進している。
物凄いダイナモの唸り、これは地下水を排除する動力の音である。二千尺の穴蔵のなかにあって呼吸もなんら異常がなく、つきものの瓦斯の臭い一つしないというのは理想的な通風機をもって地上の新鮮な空気を絶えず送っているからだ。すべてに科学の力を利用されているため、坑内で危険を感ずるようなことは全然ない。勿論、まったくの素人で炭坑にとびこんだ勤労奉仕隊員も喜んで仕事に従事している。一通り坑内の案内を終えて兵庫坑長は、一通りの案内だったが、これで炭坑労務者の仕事も諒解してもらったと思う。そしてまた世間がいっているような地獄でないことも認識されたと思う。労務者達の顔は社会人が炭坑を正しく知ってくれることを希望しているのだ。それだけに労務者自身の生活も一変して最近では昔のような野蛮なことは見ようとしても見ることができないくらいに向上している。勿論これは娯楽施設の完備や待遇の改善にもよるが、最も大きい原因は事変にあると思う。昨年十二月大政翼賛運動に呼応して労務者達の臣道実践自治委員会をつくり、下部組織の趣旨をもって自治的に訓練や人格の錬成をやらしているが、最近では怠業や無断早引け、転職等をする者も少なく、大いに効果をあげている。おそらく就労成績等は日本一ではないかと思うと語った(以下略)。
同ルポにある桜井金作の発言も興味深い。端島に長く勤めた広島県出身の男性である。
25「農閑期勤労奉仕隊 レポルタージュ」(『長崎日日新聞』1941年2月28日付)
「炭坑労務者として働くこと既に三十一年。初めは高島につとめましたが、当時は賃金も安く四十八銭から、最高九十銭位で、設備なども全然出来ておらず、天秤棒にかついで炭を運んだものです。肩は痛いし、ある時は仕事が出来ないといって、同僚から打たれたことも、一度や二度ではなく、泣いて過ごして来ました。この制裁に耐えきれない者が例の〝島抜け〟と云って見張りの者が知らない様に酒樽を身体につけて泳いで逃げ出したものです。その後、端島に移りまして、すでに十八年になりますが、当時の端島もまだまだ監獄部屋の域を脱せず血腥いことが毎日続いていました。今日のような端島になったのは二十年位前から会社が娯楽施設に力を入れるようになったからです。……やはり労務者の多くは世をすねている者が多いのですから、暖かい心をもって指導すれば、愛に飢えている者だけに、普通の人よりも、早く打ち解けることが出来ます。私はこのほかに労務者のわたり歩きを防止するため、花嫁さんのお世話をしていますが、島には女が少ないので思うようにできません」。
1941年12月太平洋戦争に突入すると、日本は国家総力を戦争遂行に集結するようになり、朝鮮紙にも時局協賛的な記事が多くなるが、まずは朝鮮人坑夫の内地訪問を伝える記事。
26「優良鉱山従業員 十名選抜・内地に派遣」『毎日新報』1942年2月1日付)
江原道鉱山連盟では今回、鉱山増産強調期間中、成績優良として表彰された鉱山従業員中、左記十名を選抜。内地の優良鉱山である福岡県三池炭鉱に派遣し、約一週間、決戦体制下の鉱業戦士として、鉱業報国の実情を詳細見学させると同時に、勤労奉仕をさせ、次いで各業種別の優良鉱山(■生、生野、足尾鉱山等)を一日から二日間ずつ見学させることになった。その後、伊勢神宮、桃山御陵、明治神宮、靖国神社等の聖地を参拝させ、日本意識の昂揚と道内鉱物資源の増産確保に資するようにしている。一行は、来たる二月下旬、春川を発ち、三月中旬まで二十一日間の視察を終え、帰任することになっているという。一人当たり所要経費は百五十円であるところ、道の鉱山連盟から百円を補助することになっており、その他、鉱山に対しては自費加入の希望者に対して参加させることになっているという。優良従業員として選抜派遣される視察団員は次の通り(略)。
27「弟の殉職にも悲しまず 半島人の敢闘譜」(『長崎日報』1943年7月23日付)
北松浦郡小佐々町、日本鉱業株式会社矢岳炭坑工員金本光川(二七)は、半島出身の採炭戦士であるが、去る七月二日実弟の労務係、金本日洙が殉職したので、遺骨を郷里に埋葬するよう(にという)会社側の勧めを断然却けて、一日も休まず職域奉公に精進し、地の底に石炭と取組み力闘を続けているが、その敢闘に刺戟された半島同胞は職場奉公の意識も物凄く、決戦下石炭増産に拍車をかけ、戦力増強ならびに職域奉公の美談として、その行為を相浦署では工員の模範として近く表彰する。
28「血書の志願 半島青年の誠忠」(『長崎日報』1943年9月28日付)
「天皇陛下の赤子なり、日本精神」……
と血書して海軍特別志願を申出た半島青年が、城戸炭坑から県特高課に齎(もたら)された。これは朝鮮慶尚北道永仙[川]郡清通面桂浦洞生れ西彼杵郡城戸町城戸炭坑第一親和寮同青年学校二年金岳泰鎮君(一七)である。金岳君は昨年三月増炭戦士として城戸を訪れ、その後軍人を目指して日本語を習得中であった。そして今度、半島人に陸軍徴兵制の実施及び海兵特別志願制度の制定が発表されるや、日本国民として、一日もじっとしていることはできないと、八月海軍特別志願を青年学校に願い出たのであったが、種々な事情から断念するようにさとしたところ、一応は帰ったが、さらに打ち続くソロモン方面の決戦にこのまま国内にとどまっているべきに非ずと、九月十八日の満州事変記念日に右手小指を切って、
天皇陛下の赤子なり、日本精神と半島青年の熱血を血書し、これに志願書を添えて、再び同青年学校に志願手続きをとったのである。なおこの赤心に感激せしめられた学校ではこの旨、当局に報告して、志願手続きをとってやることになった。
29『最後マデ ハタラキマス』(『毎日新報』1944年5月5日付)
『タダ ヒトエニ セキタン ゾウサンノタメニ ハタラキマス』ト チカイ タンコウニ イッショウヲ ササゲル ケツイヲ カタメ マジメニ ハタライテイル ハントウノ 一セイネンガ アリマス。
ソレハ カボタンデン(嘉穂炭田)ニ ハタラク カナガワ(金川龍甲)クンデ アリマスガ カナガワクンハ ヨテイノ キカンヲ オエテ キョウリニ カエルバンニ ナリマシタガ『いやわたくしはさいごまではたらきます』ト チカイ ソノママ タンコウニ ノコリ マエト オナジヨウニ マジメニ ハタライテ オリマス。
カナガワクンハ タンコウデ イチバン セイセキガヨク チンギンハ イツモ サイコウヲシメ ニネンカンニ キョウリニ オクッタカネハ 一千エンデ、チョキンハ 八百エンニ タッシテオリマス(原文日本語)
30「妓生慰問隊 勇躍内地に向け出発」(『毎日新報』1945年1月20日付)
内地で働く半島出身産業戦士たちに故郷の歌と踊りを届け、明日の戦力増強の力になろうと、総力連盟では勤労動員援護会、石炭統制会、日本移動劇団連盟[正しくは日本移動演劇連盟と思われる]等と共同主催で、来たる25日から2月20日までの一か月間にわたり、妓生部隊20余名を3班に分け、九州へ2班を、北海道に1班を慰問派遣することにした。一行は総力連盟主査辻■作氏に引率され、18日午後6時30分頃、京城駅発列車で壮途に就いた。ところで一行の氏名は次の通りである(略)。
以上、労務動員の時期の公的言説に見てとれるのは、朝鮮人労働者の産業界への貢献が次第に強化される過程に呼応・協力する朝鮮人の姿と、ときに起こる抵抗の姿である。福島県盤城炭鉱会社や空知炭鉱の記事がその抵抗の例であるが、しかし、前件は、募集条件と賃金との間に相違なしとされるとともに、会社側に労働者待遇に注意すべしとの警告が与えられ、空知炭鉱の件は、「所轄署の説示により、誤解なることを認め、解決す」と内務省警保局刊『特高月報』(1939年1月分)には記されている。これに、労務動員の時代にも「内地密航」が盛んであったことを加味して考えると、1や2にいう朝鮮人労働者の犠牲者性や「邪悪な国・日本」の表象は、戦後に日韓が協働して作り上げた新しい神話であることが明らかになるだろう。
とはいえ、このことは、この時代の朝鮮人に日本に対する敵意や憎悪がなかったことを意味するのではない。次節では、そうした朝鮮人の側の日本に対する否定的感情を知るために、この時代の政治的逸脱者や抵抗者を主要な登場人物とする『特高月報』記事に目を通してみる。
Ⅲ 『特高月報』の記述
労務動員の実施から数か月が経過した時点で刊行された『特高月報』(1939年11・12月分)によると、12月末の時点で、内地に移住した朝鮮人労働者の数は1万9135人、うち67%ほどが北海道と福岡県に移送されているが、「労務動員計画実施に伴う移住朝鮮人労働者の状況」と題する項の「概説」は次のようにいう。
31『特高月報』(1939年11・12月分)
しかして、これら朝鮮人労働者の稼働状況は概して良好にして、各業者よりその将来を嘱目されつつあるも、一部には思想的いかがわしき者も混じりおり、これら分子は他の一般善良なる者をそそのかして紛争議を惹起せしめつつあり。また応募を内地渡航の手段としたる者あり。これらは坑内作業に恐怖を感じたる者等と同様、逃走しつつありて、現在判明せる逃走者は四二九名の多きに達す。さらに移住朝鮮人中には、他人の替玉となり渡来したる者あり、現在までに発見したる者は一二一名なるが、なお未発見の者相当ある模様にして、かかる状況は不逞分子の内地潜入に最適の機会を与うるものなるをもって、将来、注意警戒の要あるを痛感する次第なり。
次に募集による移住朝鮮人は、不平不満等ある場合は、常に集団行動に出ずる傾向あり、特に対事業主または内地人の場合においてかかる傾向顕著なるものあり。さらに業者のこれら朝鮮人労働者に対する態度は概して良好にして、その処理に関しては誠意をもって臨みつつあるが、これに対し、とにかく朝鮮人労働者は増長するの傾向あるを観取せらるる次第にして、これらの点に関しては、将来取締り、ないし指導上、充分注意を要す。
しかして、これら募集による朝鮮人労働者にして治安上または協和事業遂行上重大なる障害を与え、内地人及び在住朝鮮人に悪影響を及ぼす虞ある者、すなわち渡来後逃走したる者にして、その所在を発見したる者または各種紛争議の首謀者にして、その情状重き者等は、罹病者にして労働に堪えざる者とともに、その理由を説示して本籍地に送還するの措置を講じつつある状況なり。
こういう文に触れると、朝鮮人労働者の動員には、当初から難題があったことがよくわかる。「産業戦士」などと呼ばれても、朝鮮人にとっての戦争とは、ある程度は他人事の戦争だったのであり、したがって、それに対する忠誠心も日本人とははずれていたのであろう。民族意識や異文化葛藤の問題も小さくなかったに違いない。『特高月報』は官憲の立場からこうした問題にアプローチしているが、この時代の朝鮮人坑夫と日本人や日本企業との関係を知るのに、なかなか豊かな資料を提供してくれる。
たとえば、31に「替玉」についての記述がある。『月報』はそれについて、輸送にあたる引率者が①朝鮮語を解せざる者多きこと、②平素朝鮮人に接したる経験に乏しいために人物の真偽の見分けが困難であったこと、③引率者に対する被引率者の数多くして、全体に対する注意が行き届かなったことのほか、偽名者が巧みに被偽名者の本籍、住所、氏名、年齢その他を記憶しているためであるという。
では、偽名の動機とは、なにか。ここでは、朝鮮人に平素内地渡航を「熱望」する者がいることが指摘されており、それらのうち今回の募集に応募できない者が「氏名を詐称」し、募集者の群に入り混じり、内地に渡航したもので、その方法には、①募集を断念した者の戸籍謄本を貰い受け渡来する例、②人員点呼の際、現れざる被募集者に代わって答え、渡来する例、③出発見送りの停車場や乗船地において、心変わりした被募集者の戸籍謄本を貰い受け渡来するという三つの形態があるという。
「密航ブローカー」の項で見たように、労務動員の時代は「内地密航」の時代でもあり、労務動員以前にも密航者は多くいた。労務動員が始まる前年の1938年時点で、日本に居住する朝鮮人の数は79万9878人であるが、その数は同年に、朝鮮に居住する日本人63万3320を上回っている。この時期のとりわけ朝鮮南部に住む青年たちにとって、「内地」とはライフ・チャンスの地であり、多くの朝鮮人はより良い生活をするために、内地への渡航を試みたのである。だから「替玉」になって日本にやってきた者がいても、「逃走者」がいても不思議はない。当初から「逃走」を予定して、募集に応じる者がいたことは、逃走原因を記した項にもまっさきに言及されていて、(1)最初より内地渡航の手段として応募したる者。(2)応募後、内地在住の知人その他より渡航後は逃走し来れとの通信を受けたる者。(3)就業地に至る途中、他人より炭坑鉱山等の作業危険なるにより他の有利なる職業に斡旋すべしと誘拐せられたる者。(4)炭坑鉱山等の作業に恐怖を感じたる者。(5)炭坑鉱山等の作業の過労なるを嫌悪したる者。(6)募集の際の労働条件と実際とが相違し居るとなす者という六つの型が記されている。ちなみに、逃走者の数は労務動員初期のこの時点では四百二十九名とあるが、これは官斡旋、徴用期の時期になると大幅に増大する。『特高月報』によれば、1943年12月現在、「募集」による移入者14万6938人中5万8598人が逃走し、「官斡旋」による21万9526人中、6万137人が逃走したという。機を見るに敏な朝鮮人と勤勉ではあるがどこか型にはまっている日本人の風景というところであろうか。
ところでこの『特高月報』(1939年11・12月分)には「移入朝鮮人労務者」にまつわる「紛争議一覧表」が掲げられていて、内地移住朝鮮人労働者が現場でなにを経験したかを知るやはり興味深い資料になっている。「罷業」「賃金値上げその他による紛議」「内地人との闘争」「内地人の暴行による紛議」「怠業」等、「紛争議」にはいくつかの分類があって、31の事例があり、うち26件が北海道のものに偏重しているのは難点であるが、それでもここに記されている短いレポートは、この時代に朝鮮人坑夫と日本人との間になにが起きたかを教えてくれる恰好な資料となる。文化摩擦に触れているものと紛争経緯が比較的明瞭に記されているものを優先して15件を紹介する。1939年10月から12月にかけての事例である(文化摩擦に関わると見なされる部分に下線引く)。
32札幌郡三菱鉱業株式会社手稲鉱山(参加者朝鮮人全員293人)
10月21日、朝食中、楊甲錫なる者、味噌汁の薄きを「豚の食べるものなり」と舎監米沢義雄に抗議。口論の結果、同所に居合わせる約20名の朝鮮人労働者は結束して米沢舎監に危害を加えんとの気勢を示し、漸次全労働者に波及したるも、会社側の慰撫により、一応鎮静に帰したるが、翌22日に至り、一斉罷業の挙に出て、うち約100名は札幌警察、道庁を訪問し、旅費を受け、内地工場に転職、または帰鮮すると称し、荷物を取りまとめ下山を開始せるも、警察官の阻止により復帰せり(所轄署の斡旋により、会社側は要求七要目の一部を容認し、解決す)。
33札幌郡三菱鉱業株式会社手稲鉱山(参加者朝鮮人全員292人)
11月7日、落盤により李成万負傷死亡したるをもって、1屍体はそのまま本籍地に送還すること、2右不能の場合は遺族の到着まで葬儀をなさざること、3死体は土葬とすること、4葬儀執行まで全員休業することを要求し、紛議を醸したるにより、所轄署において、その不可能なることを懇諭(こんゆ)したる結果、一応鎮静に帰したるも、翌8日葬儀を執行し、火葬場には代表30名列席する旨、会社側より伝えたるところ、大挙して暴言を弄し、反抗的態度に出たり(所轄署員の制止により鎮静し、首謀者8名を検束し、うち2名を送還す)。
34浅野炭坑(参加者朝鮮人全員48人)
11月8日、「醤油が不足し飯が冷たい、働く時間が長い、賃金が安い」等と称し、その改善を要望して入坑拒否(所轄署員説得により解決)。
35住友鉱山歌志内炭鉱(参加者朝鮮人148人中8人)
募集朝鮮人労働者148名より8名を選抜、班長として統制を採らしめつつありたるが、11月8日班長金有植なるもの、班長を代表して「班長は社員待遇として坑外に働きたし」と要求し、会社側の説得に応ぜず、入坑拒否する(所轄署の説得により了解)。
36空知郡三菱美唄炭山(参加者朝鮮人全員30人)
11月11日、坑内において、内地人指導員は金晩俊を指導するにあたり、同人の動作鈍渋たるを怒号せるより、口論とっくみ合いとなり、これに内地人労働者援助したるため、金は休養二日を要する打撲傷を受けたるをもって、約三十名の朝鮮人は該内地人を膺懲(ようちょう)すべく策動せり(駐在巡査、解散せしむ)。
37空知郡万字鉱(参加者朝鮮人全員68人)
給与金中より健康保険その他の控除金あるを不服とし日給3円に値上げを要求し、罷業を断行する(所轄署の説得により解決)
38夕張郡夕張炭鉱(参加者朝鮮人全員238人)
剣春錞が塩引一切れを窃取したるを炊事夫に発見せられ、殴打の上、寮長加藤清に引き渡したるところ、寮長はさらに三、四回同人を殴打したるを目撃せる朝鮮人労働者238名は寮長の更迭を要求して入坑を拒否する(所轄所長鎮撫す)。
39夕張郡夕張炭鉱(参加者朝鮮人全員28人)
坑内作業手朝鮮人金正濫ほか二名は内地人安藤与次郎により叱責せられ争闘をなしたるため、これを聞知(ぶんち)せる朝鮮人28名は挙(こぞ)って安藤を殴打せんとするが、安藤は巧みに他に避難せり。しかして朝鮮人側は事件解決まで作業を中止すると称して無断出坑し、坑口(こうぐち)において会社係員と衝突し、不穏動向を示したり(所轄署の説得により解決。安藤は傷害罪にて検挙)。
40北海道炭鉱汽船株式会社幌内鉱業所万字鉱(参加者朝鮮人108人中47人)
移住朝鮮人労働者金教永ほか三名は、坑内作業中転覆せるところ、復旧方法を内地人労働者より指導されるに当たり、言語の不通のため誤解を生じ、これを不親切なりと憤慨し、出坑し、他の同僚に対し「今、坑内で内地人に棒をもって殴られんとして電灯はとりあげられ、非常に危険だから逃げ出してきた。坑内作業は危険でできない」と誇大に吹聴し、坑内稼働拒否を扇動せる結果、一同動揺し、入坑を拒否するに至りたり(所轄署の説得により解決)。
41紋別郡住友北日本鉱業所鴻之舞鉱山(参加者朝鮮人全員280人)
10月7日、坑内作業中、朝鮮人労働者孟享燮と内地人児玉正雄が些細のことより口論をなし、児玉は鉄棒をもって孟を殴打し、傷害を加えたるところ、同所に稼働中の朝鮮人45名は孟に加勢し児玉に暴行を加えんとするが、内地人の仲介により児玉は避難せり。
しかして翌六日に至り、朝鮮人140名は一斉罷業気構えを示威し、1布団の破損を無償にて12月中に修理せられたし、2食物を改善せられたし、3防害設備を講じられたし、4風呂は午後4時まで沸し、二か所に増設せられたしと要求するに至りたり。さらに他の朝鮮人労働者140名を誘引し、280名結束、会社に至り、右要求を強要せり(児玉を傷害罪として処置。朝鮮人首謀者12名を厳重説諭を加う。所轄署の斡旋により会社側において要求事項を認む)。
42余市郡田中鉱業株式会社轟鉱山(参加者朝鮮人全員30人)
12月4日、積雪罹災により朝鮮人甲万于が変死するや朝鮮人労働者30名は結束し、「朝鮮においては変死人ありたる際は、その家を焼却し居住せざる風習あるにより、寄宿舎を変更せられたし、同様理由により職場を変更せられたし」と要求し、怠業に入りたり(所轄署の斡旋により会社側譲歩す)。
43空知郡万字鉱美流渡坑(参加者朝鮮人全員68人)
12月1日、坑内ガス爆発災害事故発生し、同僚4名が死亡するや、金米岩他3名は坑内作業危険なりと誇大に吹聴し、罷業を扇動し、他に転出または休業を申し合わす等の不穏情勢を醸したり。
変死者遺骨の引き取りに来道せる遺族中、鄭渕■他三名は会社に対し、「会社が危険なるところへ入れて働かせ死亡させたのだから、会社に責任がある。扶助料は何百倍もらっても遺骨は引き取れぬ。しかしやむを得ない場合は規則の十倍か二十倍出せば引き取る」云々と脅迫的態度に出たり(所轄署の説得により解決。鄭は脅迫罪に問疑して処置す)。
44夕張郡夕張鉱業所平和鉱協和寮(参加者朝鮮人全員256人)
朝鮮人労働者の宿舎協和寮において全羅北道出身金錫種は慶尚南道出身金徳竜と争闘し、同寮において全羅北道出身者は虐待されている曲解(きょっかい)し、同鉱第一協和寮より全羅北道出身者56名の応援を受け、各自棍棒を持ち、復讐すべく協和寮を襲撃したり(所轄署の調停にて納得)。
45夕張郡夕張鉱業所(参加者朝鮮人238人中40人)
12月11日、吹雪が相当猛烈なりしため就労を拒否せんとするが、係員の説得により238名(ママ)は就労せるも、なお40名は病気と偽り就業せず、翌12日、吹雪止みたるもなお怠業を継続せり(所轄署の説得により解決。首謀者12名は厳重訓戒)。
46夕張郡夕張鉱業所(参加者朝鮮人全員118人)
坑夫金判同が内地人労働者中川剛と作業上のことにつけ争闘し、頭部に治療10日間を要する傷害を受けたるに端を発し、内地人労働者と共同作業は不安につき、半島人のみの作業場を設けられたしと要求、罷業する(会社側ならびに所轄署の説得により解決。中川剛を傷害罪として検挙)。
「紛争議一覧」は、各地の警察官たちからの報告を、『月報』編集者が最終的に整理したものであろう。炭坑とは三K労働の最たる現場であり、朝鮮人坑夫の中に、それに反発、日本人との間にいさかいが起き、ときに集団で抗議するといった事態が発生していたことがわかる。しかし15件の事例をみて興味深いのは、苛酷な労働条件とともに民族意識や文化摩擦を原因にして起きる紛争が少なくないということである。
坑夫たちの多くは、朝鮮南部の農村出身の青年たちであり、日本は彼らが経験する初めての異文化の地であろう。この異文化に対して彼らは好奇心よりは不信の目を向けたに違いない。彼らからすれば、日本には実におかしなものや、不気味なものや、滑稽なものが少なくない。たとえば、お茶碗を左手で持って、お箸で食事をとるという日本人の姿は、朝鮮人からすれば、「乞食」の食べ方である。彼らは食器を置いたまま食事をするのが普通である。しかし、もしここに、その「乞食の食べ方」を、正しい食事のマナーとして相手に押しつける日本人がいたら、それは朝鮮人の民族意識を刺激することになるだろう。紛争など、いつ起きてもおかしくない状況がある。
しかし、だからといって、それを1や2がいうように、「地獄」や「民族差別」と理解していいのだろうか。15件の事例が教えてくれるのは、第一に、労働条件とともに、日本人と朝鮮人の間にある文化の違いや民族意識が紛争の重要な原因になっているということであり、出自や待遇を理由に朝鮮人間に紛争が起きることもあった。
そして第二に、朝鮮人坑夫と日本人坑夫の間にはときに敵意や反目がありながらも、共同作業に従事していたのであり、もしそれを「劣悪な労働条件」というなら、それは日本人坑夫も共有していたということである。坑内での作業は五人とか十人といった日本人と朝鮮人の混成チーム(組)で行われるのが普通である。
こうして見ると、1や2に描かれる「地獄」や「民族差別」の風景は、今日を生きる誇り高き韓国人の心の中から生まれた風景であって、日本人の「悪魔性」が誇張されるとともに、朝鮮人の「犠牲者性」や「無垢性」も誇張されていることがわかる。そして、こうした韓国人の想像性や創造性はほとんど常に資料的にも道徳的にも日本人によって支えられてきた。端島を舞台にする小説『軍艦島』(邦訳作品社、2009年)の作者、韓水山を紹介する『東京新聞』の記事に次のような発言がある。
47小説『軍艦島』 韓国人作家・韓水山さんに聞く
着想を得たのは日本人画家、丸木位里、俊子夫妻が長崎原爆を描いた作品「原爆の図 第十四部 からす」にあったという。縦百八十センチ、横七百二十センチの画面を覆うカラスの群れ。倒れた人の上を朝鮮半島の伝統衣装のチマやチョゴリが飛んでいく。
「一九九一年に原爆の図・丸木美術館でこの絵を見て、衝撃を受けた。小説の原題『カラス』もこの絵にちなんでいる。丸木夫妻は画家として絵で、私は作家だから小説の形で、ただ原爆がよくないというだけでなく、人間の原点とは何なのかを表現しようと思った」
「軍艦島」には原爆投下後の様子だけでなく、「徴用」の名の下、事実上強制的に若者が集められる様子や日本に着くまでの苛酷な扱い、炭坑での劣悪な待遇などが生々しくい記されている。
「長崎市の牧師、岡正治さん(故人)がまとめた『原爆と朝鮮人第一集~第六集』をはじめ、日本、韓国双方の資料にあたった。岡さんや、軍艦島で働いた後に原爆に遭い、生き延びた同胞から体験談を聞いた」
端島の朝鮮人坑夫の「被害者体験」については林えいだいだけでも多くの作品を残している。
48 林えいだい『筑豊・軍艦島--朝鮮人強制連行、その後』(弦書房、2010年)
端島炭坑の労働者数は、採炭事業の拡大とともに増加の一途をたどり、最盛期の一九四五年には約五三〇〇人となり、島から溢れるほどだった。
だが人間が重なり合うように生活していると、過密感が、住む人の精神状態に微妙な影響を及ぼすようになるものだ。海と空が見えるだけの土のない生活、きびしい労働にうちひしがれた特殊な環境。緑なき島の住民にとって。それは死に絶えた風景であったに違いない。
最初のうちは三、四階建ての木造であったものが、いつのまにか八階、九階建の鉄筋アパートに変わった。立錐の余地もない土地に林立するビル街ともなれば、最下層部分は日照さえ十分ではなく、日中でも夜間と同じように暗かった。坑夫と家族たちはまるで谷底にいるような暮らしを強いられた。当然のように暗い下の階には朝鮮人飯場、朝鮮人の家族持ちを入居させた。
それに比べると上階部分は、日照時間は長く展望も良く、居住性は優れている。その別天地には端島炭坑のエリートたちが住んだ。端島のアパートは地位と職種によって振り分けられた。
運命共同体として日本人同士の連帯感は生まれたが、朝鮮人、中国人に対する差別は一層ひどくなった。
端島炭坑は、日本人坑夫が中心となって採炭したが、大正時代になると朝鮮人が大勢働くようになった。戦時中になると朝鮮人は強制連行者は吉田飯場を入れて約五〇〇~六〇〇人。それと自由渡航でやってきた所帯持ちが約八〇人働いていた(158、162頁)
逆に、端島における日本人坑夫と朝鮮人坑夫の運命共同性を伝えてくれる言説は圧倒的に少ないのである。
49岩下久蔵「足があるのか」(「炭の光」125号、1955or60年6月)
ながい坑内勤務を、ふりかえってみると、いろいろと恐ろしかった思い出が、たくさんあるものだ。……さて、話は昭和十一年十月にさかのぼる。
一番方の入坑は、当時朝の六時。右卸左六片十二尺全層払の採炭個所で、材料の配置をおわり、われわれが炭切りにかかったとたん、とつじょ、払中央部の天井がバレて、古洞の水とボタが、どっと流れでた。
あまりの早さに、コンベヤ坑道に通ずる小さな炭の流れ口は、たちまちつまり、アッという間に逃げ場を失ってしまった。
袋の中の、ねずみ同然になったのは、私(当時採炭先山27才)と鮮人張里さん(伍長先山)と同じく鮮人白淳の三人。
そのごも、続いてでてくる水は、ようしゃなくボタを押し流しながら、われわれの足もとを洗って、下方にたまるばかりだ。
空間は徐々につめられて「いよいよこれまでか」と覚悟をきめた。白淳は泣きわめく始末で、ますます心細くなってしまった。
ところが、意外にも、(天のたすけか)水量がへり、流れでる速度も、おそくなりだした。
「よし、これなら助かるぞ」という自信がわき、張里さんも、みんなをはげまして、とにかくボタ止めをやろう、ということになった。三人が生命をかけた作業。お互いに真剣そのものだ。
しかし、斜断された坑内の温度は上がり、ガスのせいもあって作業は困難をきわめた。エヤーパイプからでるとぎれとぎれの新鮮な空気に、三人は口をよせてわかちあった。当時、十一時になると、エヤーはとまることになっていた。……
エヤーの圧力が、グングン落ちだした。「十一時半だ」と、その時、急にエヤーが勢いよく吹きだした。直観的に、救援隊がきていることを、察知したわれわれは、枠(わく)脚(きゃく)をたたいて合図を送りつづけた。
かくして、苦闘四時間半の後に、三人とも無事救出された。鉱長以下、心配してつめかけた多くの人々から、祝福のことばをうけて、なんともいえない感激を味わい、現場まできていた医師、看護婦の手をわずらわすことなく、昇坑した私は、「あんた本当に足があるのか」と第一声をあびせかけられた。